四季折々の風景が楽しめる幻想郷の春。桜のつぼみは膨らみ始め、日差しに暖かさを感じるようになってきた。
春の陽気に誘われて、大小様々な妖精たちが、花畑で楽しそうに飛び回っている。
しかしそんな中でも、一人輪を外れて、おとなしく花を摘んでいる妖精の姿があった。
妖精の名は、リリーホワイト。略称リリー。
春告精と呼ばれる種族で、その名のとおり春の訪れを告げる存在だ。彼女が居る所には、春の兆しを感じ取った色とりどりの花が咲き乱れるという。
陽気を浴び、いつもより艶やかに色付いている花々を見て、彼女は満足げな笑みを浮かべた。
「早く来ないかなぁ……」
リリーは、そう呟くと、花を編んで冠を作り始めた。その表情は、とても幸せそうだ。まるで、愛する人への贈り物を作っているかのように。
しばらくそうしていると、少し離れた所から、妖精のものと思しき笑い声が聞こえてきた。普段であれば気にもとめないところだが、今の彼女にとっては違っていた。
「……もしかして」
編みかけの花冠を置き、白く透き通った羽を羽ばたかせ、そちらの方へと飛んでいく。
そこに居たのは、予想通りの人物だった。
十歳前後の外見の少年が、ふわふわと宙を浮く妖精を、必死の形相で追いかけ回していた。追いかけられている方は余裕があるのか、ケラケラと甲高い笑い声をあげながら逃げている。
「あははっ! ほらほら、こっちだよー!」
そんな風に少年を煽っている妖精の手には、小ぶりな風呂敷包みが握られていた。少年に見せびらかすように振ってみせると、中からは何かがぶつかり合う音が聞こえる。どうやら中身が入っているらしい。
それを見た少年の顔が、さあっと青ざめる。
「や、やめて! そんなに揺らしたら駄目だって!」
「ふぅん? この中には、君の大事なものが入ってるんだぁ……」
少年の言葉を聞いた妖精は動きを止めて、口元を歪ませた。その顔は悪戯をする子供のようであり、同時に悪魔じみた狡猾さを感じさせるものだった。
「ほぅら、早く取り戻さないと、大変なことになっちゃうよぉ?」
妖精は再び手の中のものを揺らし始めた。
「このぉっ!」
少年は焦った様子で妖精に飛びつくが、手は虚しく虚空を切るだけだった。それから何度も挑戦するが、結果は同じだ。やがて少年は疲れてしまったらしく、地面にへたり込んでしまった。
「くっ、くそぅ……」
「きひひっ! 捕まえられるものなら、捕まえてごらんなさ~い! でもでもぉ、のろまな人間には無理だろうけどねっ!」
勝ち誇ったような笑顔を浮かべながら、妖精は中傷を続けた。それで油断しきっていたせいだろうか、背後から忍び寄る影に気づけなかった。
「あっ!」
一瞬で手に持っていた風呂敷包みを奪われてしまい、思わず声を上げる。慌てて振り返ると、そこには笑顔を浮かべたリリーがいた。
「ひいっ……」
妖精はリリーの顔を見て、先程までの余裕を失い、一転して怯えた表情になった。
名無しの妖精全般に言える事だが、彼女たちは一様に頭が弱い。そのかわり危機回避能力が秀でているのだ。自分より弱き者をいたぶり、強き者には決して手を出さない。
だから目の前の少女に対して、本能的な恐怖を覚えてしまう。それでも何とか強気に振る舞おうとするが、リリーの放つ得体の知れない雰囲気に呑まれて動けず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「もう充分でしょ? これ以上は、お互いのためにならないわ」
「そ、そそっ、そうだねっ。じゃあ、私はこの辺で……」
妖精に向けて語りかけるリリーの口調は優しいものだが、どこか有無を言わせない迫力のようなものを感じさせた。
その言葉を聞いた妖精は、ビクッとして震え上がると、すぐに飛び立って逃げていった。
その姿が見えなくなるまで見送ると、リリーは呆気に取られている少年に歩み寄り、しゃがみこんで視線の高さを合わせた。
その瞬間、今まで感じていた威圧感のようなものが消え失せ、柔らかな空気が漂い始める。
「○○ちゃん、大丈夫? 怪我とかしてない?」
「……うん、平気だよ。持ち物を取られただけだから」
心配そうに声をかけてくるリリーを見て、○○と呼ばれた少年の表情が和らいできた。
彼の、目に浮かんだ涙を隠すように拭う様は、年相応の可愛らしさを感じさせるものだった。
「よかったぁ! でも、気をつけないと駄目だよ? さっきは悪戯で済んだけど、妖精の中には人間を攻撃する子もいるからね」
リリーは、ほっとしたように息をつくと、○○の隣に腰掛けた。その動作に合わせて揺れた髪からは、花の香りがふんわりと漂う。
幻想郷の春は、花が咲き乱れてとても美しいものだ。それは、春告精の彼女も同じく、磨きがかった美しさだった。
「これは○○ちゃんの物なんだよね。取り返しておいたから、はい!」
「ありがとう。あの妖精、小さいから結構すばしっこくてさ」
リリーは妖精から取り上げた風呂敷包みを、優しく差し出した。それを受け取った○○は礼を言うと、大事そうに抱え込む。
そんな彼を見て、リリーは嬉しそうに微笑んだ。
リリーは○○が大好きだ。理由は色々とあるが、一番の要因は、彼が自分を慕ってくれていることだろう。
リリーと○○の出会いは、数年前のこの場所で、今日みたく初春の日のことだった。
彼女が春の訪れを告げるために地上に降り立った時、たまたまそこに居たのが○○だった。
当時の彼は少年とも呼べないほど幼く、泣きべそをかいて、途方に暮れた様子で辺りを見回していた。
一目見て、外来人の迷い子だと確信した。人里の子供が一人で外を出歩くなど、ありえないからだ。
そんな彼をリリーは放っておけなかった。妖精の例に漏れずリリーも悪戯好きではあるが、誰かが本気で困っている時は、見過ごすことができない性分なのだ。
そして何より、リリーは人間が大好きである。妖精にとって、人間は楽しい遊び相手だ。特に子供は可愛らしく、愛らしい。
なので○○が悲しんでいる姿を見ると、胸が痛んで仕方がなかった。
リリーは○○を慰めようと話しかけてみたのだが、その途端に○○はリリーに向かって抱きついてきた。
最初は驚いたものの、すぐにリリーは受け入れた。庇護欲をそそる存在というのは、妖精にとっても心地良いものだったからだ。
彼を安心させる言葉を囁きながら、背中を優しく撫でる。すると、○○は落ち着いてきたのか、涙が止まり、しゃくりあげる声が小さくなっていった。
やがて落ち着きを取り戻すと、恥ずかしくなったのだろうか、リリーから離れると俯いてしまった。
それから、二人はお互いに自己紹介をした。話を聞くと、やはり○○は外来人だということがわかった。外出の際、両親とはぐれてしまったらしく、道もわからずに困っていたようだ。
リリーは○○を助けることにした。リリーには彼を外の世界へ帰す力はないので、ひとまず人里に連れて行こうと提案したのだ。
だが、その提案に○○は難色を示した。どうやらリリーと離れるのが寂しいようで、一緒にいたいと申し出た。
リリーとしても、人間の子供に頼られるのは悪い気分ではない。なので、しばらく二人で過ごすことになった。
妖精と人間とでは、生活習慣が異なるため、当初はお互いに戸惑うことも多かった。それでも、リリーは持ち前の献身的な性格で○○を導き、困難を乗り越えていった。
○○も、いつしかリリーのことをお姉ちゃんと呼びはじめ、彼女も当然のように受け入れた。
しかし、二人の幸せな時間は、長くは続かなかった。
春も終わろうとしていた頃、リリーはあることに気がついたのだ。自分は春が過ぎれば、次の春がくるまで地上に留まることができない。
つまり、このままだと○○とは別れなければならないということだ。
そのことを伝えた時の○○の顔は、今でも忘れられない。まるで世界の終わりが来たかのような、絶望に満ちた表情をしていた。
その顔を見たリリーは、何とも言い難い感情に襲われた。楽しいような、嬉しいような、それでいて幸せで、気持ちが良い感覚。○○が泣いて自分に縋りつく姿を見るだけで、ゾクゾクとした快感を覚えた。
この子は自分から離れられないんだ。私がいなければ生きていけないんだ。そう思うと、愉悦に浸らずにはいられなかった。
それが下劣な嗜虐心によるものなのか、あるいは独占欲から来るものなのかはわからない。
それでも、○○が自分に依存しているという事実が、リリーにとっては至上の喜びだった。
リリーは、春になればまた会えると言い聞かせて、何とか納得してもらった。そして○○を人里まで送り届けると、次の春に備えて眠りについた。
それから毎年、春が訪れると、リリーと○○は逢瀬を重ねた。彼には人里での生活があるので、以前のように共に暮らすことはできなかったが、さして不満は感じなかった。
○○が自分に逢いにきて、自分のことを頼ってくれると、それだけでリリーは満足だった。
だから、リリーは春がいつにも増して待ち遠しかった。
早く春になってほしい。○○に会いたい。○○と一緒に過ごしたい。リリーは睡眠中、ずっと彼のことばかり考えていた。
そして今年も冬が終わり、春が訪れ、今に至る。
「ねえ、その中身は何なの? 何だか甘い匂いがするわ」
「お菓子だよ。最近、知り合いの人が、人里に洋菓子屋さんを開いてさ。その人に貰ったんだけど……」
リリーは先ほどから気になっていた事を聞いた。すると、○○は言葉尻を濁しながら、風呂敷を解いて包装箱を取り出し、リリーに差し出した。
「そうなんだぁ。私のために持ってきてくれたんだね、ありがとう!」
リリーは嬉しそうな笑顔を浮かべて、○○の手から箱を受け取る。早速、蓋を開けてみると、甘い匂いが強くなった。
「あっ……」
リリーは小さく声を漏らすと、悲しそうに顔を伏せた。
「はあ……。やっぱり、崩れちゃってる」
○○も箱の中を覗き込んで、ため息をついた。
そこには、ぐちゃぐちゃに崩れたケーキが入っていた。スポンジは潰れ、クリームはあちこち散乱している。
こうなったのは、先ほどの妖精が振り回していたせいだろう。
「ごめん。僕が不注意だったばっかりに……。せっかく持ってきたのに、こんなになって……」
「そ、そんな、謝らないでっ! ○○ちゃんは、何も悪くないんだから! えぇっと……」
申し訳なさそうにする○○を見て、リリーは慌ててフォローを入れた。それから、飛び散ったクリームを指ですくって、自分の口に運んだ。
「……んっ。甘くて美味しいわ。形は悪くても、全然食べられるよ。ほら、○○ちゃんも、あーん……」
「え、うん……」
リリーは、まだ少し形が残っている部分を摘んで、○○の口元へ運ぶ。○○は戸惑いながらも、差し出されたケーキの欠片を口に含んだ。
「ほんとだ、美味しい!」
「でしょっ? じゃあ今度は、お姉ちゃんにも食べさせてくれる?」
リリーは悪戯っぽい笑みを浮かべて言うと、体を傾けて○○に身を寄せた。そして目をつぶって、口を開ける。人間のものと変わらない白い歯と、濡れた赤い舌が覗く。
「い、いくよ?」
○○はその艶めかしさに、胸の鼓動を速くしつつも、リリーの口内にケーキを運んだ。
「あむっ!」
「わっ、お姉ちゃん!?」
すると、リリーは○○の指ごとくわえ込み、そのまま口を閉じた。驚愕の声を上げる○○を他所に、わざとらしく音を立てて吸い付く。彼の味を堪能するように舌を動かし、唾液を絡ませる。
「ちゅ……ちゅうぅ……」
「ちょっと……!」
○○が手を引こうとしても、リリーは彼の手を掴んで離さない。それどころか、更に強く吸ってくる。やがて、ちゅぽんという音を鳴らし、ようやく解放した。
○○の人差し指には、たっぷりと唾液が絡んでおり、仄かに赤くなっている。
「えっへへー! 甘さの中に、ほんのり塩気が混ざっていて、すっごく美味しいよっ!」
「も、もうっ! 驚かさないでよ!」
リリーは満足げに呟いて、唇に溢れた唾液を舐めとる。その姿を見た○○は、恥ずかしさと驚きで頬を赤く染めていた。
「ふふっ、顔が赤くなってるぅ。そんな○○ちゃんも可愛いなぁ~!」
リリーは楽しげな口調で言うと、○○を抱き寄せて、その頭を撫で始めた。
○○は抵抗することなく、されるがままになっている。当然、嫌がるなんてありえないだろう。
リリーに抱かれると安心する、それは○○にとって当たり前のことなのだ。彼女の温もりによってもたらされる心地良さは、身に染みて理解しているはずだから。
「お姉ちゃん、一人で寝るのは寂しかったんだよ? やっぱり○○ちゃんが腕の中にいないと、落ち着かないの。○○ちゃんも、そうだよね? お姉ちゃんに甘えたいよね?」
リリーは○○の頭を撫でながら、艶かしい声で囁いた。しかし、○○は答えない。
「……○○ちゃん?」
リリーは不思議そうに問いかけた。いつもなら、すぐに抱き返してくれるはずなのに。
しばらくして、彼は震えた手で、リリーを押し退けた。
「……あのさ、僕……お姉ちゃんに、言わなきゃいけないことがあるんだ」
「んっ……。何、かな?」
○○は俯き気味に、ぼそりと言う。その表情は暗い。
リリーは不安そうな顔をして首を傾げた。良い予感がしない。何か良くないことを言われるような、そんな雰囲気を感じる。
それでも、話を遮るわけにはいかない。他でもない○○が話したいと言っているのだ。リリーは覚悟を決めて、続きを促した。
「……お姉ちゃんに会いに行くのは、今日で最後にしようと思うんだ」
「…………えっ?」
○○は静かに言った。その言葉を聞いた瞬間、リリーは凍りついたように固まった。
脳が理解を拒むかのように、思考を停止する。○○が何を言っているのか、全くわからない。
リリーは呆然としながら、恐る恐る問い返した。
「……あっ、さっきの悪戯のお返しってことなのかな? あははっ、○○ちゃんも中々やるね! お姉ちゃん、凄くビックリしちゃったよ……」
リリーの言葉を聞いても、○○は何も反応しなかった。ただ黙って、じっと見つめているだけだ。
「冗談……だよね?」
「……ううん、本当だよ」
リリーは引きつった笑みを浮かべて尋ねたが、無常にも○○はゆっくりと首を振る。
リリーは目を見開いた。信じられなかった。○○が自分から離れるなど、あり得ないと思っていたから。
だが、彼の真剣な態度を見て、それが現実なのだと悟ってしまう。
「ど、どどっ……どう、して……なのかなぁ? もしかして、お姉ちゃんのことが、嫌いになっちゃった……とかぁ?」
リリーは泣き出しそうになるのを堪え、震える声で訊ねる。しかし、彼女は理由を聞いたことを、瞬時に後悔した。
○○に嫌われるのは、自分の存在そのものを否定されることと同義であると、リリーは思っている。それを想像するだけで、怖くて堪らないのに、よりによって言葉に出してしまったからだ。
息が苦しくて、頭が痛い。春の陽光が差していると言うのに、身体が冷えていくのを感じて、寒気に襲われる。こんなにも恐ろしい気持ちになったのは、初めての経験だった。
リリーは、○○の顔を見ることができず、視線を地面に落とした。
すると、頭上から声が聞こえてくる。
「嫌いになんて、なってないよ。でも、好きとか嫌いとかじゃないんだ。僕には、どうにもできないというか……」
○○は困り果てた様子で呟いた。
それを見たリリーは、少しだけ安心した。少なくとも、嫌われてはいないようだ。それだけで、救われた気分になる。
しかし、まだ問題は解決していない。リリーは勇気を振り絞って顔を上げ、再び質問を投げかけた。
「どういうこと? お願いだから、ちゃんと話して……」
「……うん。僕が、お姉ちゃんに助けられて、それから離れて人里に暮らすようになって、だいぶ時間が経ったじゃない? その間、色んなことを知ったんだよ。ここが幻想郷っていう場所で、僕がただ迷子になったわけじゃないことも、分かったんだ。もう元の家に帰ることができないらしくて、僕は今の家に引き取られたんだけど、それはお姉ちゃんにも話したと思う」
リリーは静かに頷いた。○○が、人里のとある商家の養子になったことは知っている。
その店は歳のいった夫婦が経営しており、○○を引き取ったのは、子宝に恵まれずに跡継ぎの男子がいないからだとも聞いていた。
○○が、日々勉強で忙しいと嘆いて愚痴っていたことも覚えているが、リリーは○○に寄り添うことに意識を向けていたため、あまり気にしていなかった。
「春になると、僕がお姉ちゃんに会いに行っていることは、お義父さんたちには知られてなかったけど、今年になってバレちゃったんだ。それで、もう妖精と遊ぶのはやめなさいって、怒られちゃったんだ。外は危ないし、そんなんじゃいつまでも大人にはなれないぞって。今のお前に必要なのは、勉強して賢くなることだって……」
リリーは、○○の話を黙って聞いていた。
しかし、どうして○○の養父たちが、急にそんなことを言うようになったのか、理解できなかった。
自分は○○と仲良く遊んでいるだけだと言うのに、何故咎められなければならないのか。○○に危害を加えたのならまだしも、そんなことはありえない。リリーにとって、それは理不尽に思えた。
「……○○ちゃんは、それでいいの? お姉ちゃんに会えなくなるのが、嫌じゃなかったのかな?」
リリーは、○○の服をぎゅっと掴んで、不安げに問いかける。
毎年、春の終わりには、泣きながら別れを惜しんでくれた○○のことだ。本当は、自分と離れたくないと思ってくれているに違いない。
だが、○○は首を振って、はっきりと答える。
「だから、嫌だとかそういうことじゃないんだよ。親代わりをしてくれたお義父さんたちに、わがままを言って困らせたくないんだ」
「……じゃあ、○○ちゃんは、お姉ちゃんより、その人たちが大事なの? お姉ちゃんのことなんて、どうでもいいの?」
「……僕は、まだ子供だから、親に捨てられたら、生きていけない。子供だけど、それくらいは分かっているんだ。だから、その……」
○○は苦い顔をして言葉を詰まらせた。はっきりとしないが、察するには充分だった。
確かに、○○の境遇を鑑みると、育ててくれている今の家族の方が優先されるだろう。それは仕方ないことだ。
それでも、リリーは納得することができなかった。
リリーにとって何よりも大切なのは○○である。彼と出会うまでは、春を告げることが、自分の存在意義だと信じていた。
だが、今は違う。自分が生きている意味は、彼の傍にいるためにあるのだ。○○のいない人生など、考えるだけで胸が張り裂けそうになる。
だからこそ、○○の態度は、リリーの心に深い傷をつけた。○○も苦しいはずなのに、自分が言わせてしまったから。お姉ちゃんと呼ばれて頼られているのに、駄々をこねて困らせてしまったから。
それがリリーを、より一層苦しめた。
「……そっか」
リリーは、○○の服を掴んでいた手を離し、ふらりと立ち上がる。
そして、○○の方を見ることなく、空を見上げた。
「……お姉ちゃん?」
○○は、リリーの様子がおかしいことに気づき、慌てて声をかける。
「分かってた。私は妖精で、○○ちゃんは人間だから、いつかはこうなるんじゃないかって思ってたよ。○○ちゃんは、いつまでも子供のままじゃいられないもんね。悲しいけど、寂しいけど、しょうがないよね……」
リリーは、自分に言い聞かせるように呟いた。○○は、そんなリリーを見て、ひどく悲しげな表情を浮かべる。
お互いに想い合っているのに、どうすることもできない歯痒さを感じて、二人は押し黙ってしまった。
「……ねえ、○○ちゃん。最後に一つだけ、私のお願いを聞いてくれるかな?」
「……いいよ、僕に出来ることなら」
リリーは弱々しい声で言った。○○は戸惑いながらも、立ち上がって首肯する。
すると、リリーは○○の方に振り向き、笑顔を見せた。その笑みは無理矢理つくったものだと、すぐに分かるものだった。そして、どこか虚ろな雰囲気を帯びていた。
「私のこと、お姉ちゃんじゃなくて、リリーって呼んでくれないかな?」
「えっ? ……うん。……リリー」
わざわざ呼び方を変える必要はあるのだろうかと、○○は疑問に思っているようだったが、リリーの要望通りに名前を呼んだ。
○○に名前を呼ばれた瞬間、リリーの目には涙が浮かぶ。○○に名前を呼ばれることは、もうないかもしれないと思ったからだ。
「もう一回……ううん、もっと、たくさん呼んでほしいな」
「……リリー、リリー、リリー、リリー、リリー。……これでいい?」
「うん、私の名前……忘れないように、覚えていて……」
「もちろんだよ」
「……ありがとう。そうだ、ちょっと待っててね!」
リリーは慌てた様子で、何かを探し始めた。その様子を見た○○は、一体何をするつもりなのかと首を傾げるばかりだ。
「あれぇ、どこに置いたのかなぁ……」
リリーは、○○にあげるために作っていた花冠のことを、すっかり失念していたのだ。それを思い出して必死になって探すも、花畑の中に置いたせいか、なかなか見つからない。
「んっ、この花……」
リリーの視線が、足元に群生している青い花に注がれる。それは、今のリリーの心境を現しているかのような色をしていた。
「これでも……いや、これがいいわ」
リリーは、おもむろにしゃがみ込むと、その青く小さな花を一輪摘む。それから、急いで○○の方へと戻った。
「待たせちゃってごめんね。これを、受け取ってほしいの」
リリーは、ゆっくりとした足取りで○○に近づくと、持っていた一輪の花を差し出した。
○○は、突然のことに困惑しながらも、その手にある花を受け取る。
「……花? 嬉しいけど、どうして?」
「私の気持ちだよ。だから、大事にしてほしいの。いつまでも、枯れたとしても、ずっと……」
「……うん、分かった」
まだ幼い○○は、その言葉の意味を理解しかねていたが、リリーがあまりにも真剣に言うものだから、素直に受け取ることにした。
そして彼は、その花に目を向ける。見た目は、どこにでも咲いているような、ありふれたものだ。特別珍しいものではない。だが、なぜか不思議と見入ってしまう魅力があった。
○○はその花の美しさに惹かれているうちに、あることに気づいた。それは花の色が、リリーの瞳の色と同じだということだ。青く透き通った、まるで宝石のような美しい瞳。
○○は、無意識のうちにリリーの顔を見つめていた。リリーは○○に見られていることに気づくと、恥ずかしそうにして俯いた後、上目遣いで見上げて口を開いた。
「えへへ、なんだか湿っぽくなっちゃった。……○○ちゃんが持ってきたお菓子、まだ残ってるよね。甘いものでも食べて、元気出そっ?」
「……そうだね。どうせなら、食べさせ合いっこしようか?」
「うんっ!」
リリーは、わざとらしいほど明るく振る舞ってみせる。○○も、彼女の調子に合わせることにした。
二人は、どちらからともなく手を繋いで歩き出す。春は出会いの季節だと言うが、別れもまた、同じように訪れるものなのだということを、リリーと○○は思い知らされたのだった。
リリーは、○○と別れた後も、花畑に残っていた。日は暮れかけているが、彼女は帰ろうとしない。
夕陽に照らされている花々を見て、物憂げな表情を浮かべる彼女の姿からは、普段の子供らしさは感じられなかった。
彼女を知る者であれば、その姿を見た者は皆一様に驚くだろう。それだけ今のリリーの姿には違和感を覚えるのだ。
「○○ちゃん……」
もう二度と逢えないかもしれない○○のことを想いながら、リリーは呟いた。その声は、夕闇に虚しく吸い込まれていく。
この先、幾度も訪れる春が、まったく待ち遠しくないと思えるのは、彼が原因なのだろうと、リリーは理解していた。
こちらから逢いに行くことは出来るが、そんな気分にはならなかった。○○の人生に自分は必要のない存在だと分かってしまった以上、今までのよう接することは叶わないのだから。
人間の○○は成長して大人になる一方、妖精である自分は、何も変わらない。肉体的にも、精神的にも。もちろん○○への愛情は、これからも変わることはないと断言できる。
しかし、彼は変わった。自分への依存を捨て、自立することを望んだ。
それが、○○にとって最善の選択ならば、受け入れるしかない。○○には幸せになってもらいたい。だから、リリーは彼の意思を尊重した。
やがて○○も人生の伴侶を見つけ、家庭を築き、幸せな生活を送るようになるのだろう。でも、その時、彼の隣にいるのは、自分ではない誰か。
○○が他の誰かのものになってしまうと考えただけで、胸が張り裂けそうになる。想像するだけでも辛く、嫉妬で狂ってしまいそうになる。○○と離れたくないと、未練がましく思ってしまう。
しかし、お姉ちゃんと自負してきた自分が、こんな醜い感情を抱いていると知ったら、○○は幻滅してしまうかもしれない。
相反する二つの気持ちに挟まれて、リリーの精神は悲鳴を上げていた。
ピシッ、またピシリと、不快な音を立ててヒビが入る。ひとたび亀裂が生じれば、それは瞬く間に広がっていく。
そして、彼女の心は呆気なく砕け散った。
「うっ……うぅ……ぐっ、おええぇっ……!」
抑えきれない衝動が湧き上がり、リリーは胸元を押さえながら嘔吐した。胃の中にあったものが逆流してくる感覚が、不快感を伴って押し寄せてくる。
吐瀉物が美しい花々を汚すも、それを気に掛ける余裕はなかった。
リリーは、自分の中に渦巻く負の感情を吐き出すかのように、何度も嗚咽を繰り返す。
「……ああ、○○ちゃんと食べたお菓子、出しちゃった……」
ケーキの甘味と胃液の酸味、そして○○との思い出が入り混じった味が口の中に広がり、リリーは再び込み上げてきそうになったものを必死に抑える。
気分が落ち着くまで、しばらく時間を要した。
「……いやだ」
リリーは自分の身体を抱き締めるように腕を組み、震える声で言った。
それから、おもむろに吐瀉物がかかった花を一輪手に取ると、それを口に含んだ。体が異物を排除しようと抵抗するが、無理矢理飲み込む。
「○○ちゃんとの思い出は、汚くなんかない。酸っぱくない。しょっぱくない。……甘くて、とっても美味しいもの。……だから、忘れない。絶対に忘れてなんか、あげないんだから……!」
リリーは涙を流しながら、自分に言い聞かせるように呟いた。青空みたく澄んだ瞳は、今は新月のように暗く淀んでいる。
○○という名の太陽を失ったことで、彼女の心は暗闇に囚われてしまったのだろうか。
「あむ……んっ……ぐっ。くふっ、ふっ、ふ……。美味しいよぉ……○○ちゃん……!」
リリーは乱暴な手つきで花を手折り、むさぼる様に食べ始めた。汚物など意に介さず、一心不乱に食べ続ける彼女の様子は、まるで飢えた獣のようであった。
「○○ちゃんも、忘れないでね……。お姉ちゃんを……私を……リリーを、ずっと、ずうっと……。想い合っていれば、いつか……」
リリーの口から漏れ出た言葉は、誰の耳に届くこともなく消えていく。
そして、彼女の涙が枯れた時、幻想郷に夜が訪れた。
春の冷たい夜風が、リリーの髪を揺らしている。彼女は立ち上がって、○○が去っていった方角に視線を向けた。
「そう。必ず、私を求めて、また逢いにくるの。それまで恋焦がれながら、ずっと待ってるからね……」
艶かしい吐息と共に囁かれた声は、どこか妖しげな雰囲気を感じさせる。彼女の表情は穏やかで、○○への愛情に満ち溢れていた。
しかし、その瞳は赤黒く、濁り切って——