「以上で、プリズムリバー楽団の演奏会は終了となります。ありがとうございました」
人里の公民館。そこでルナサは、妹たちと共に演奏を終えると、観客に一礼した。
まばらな拍手が広間に響き渡る中、ルナサたちは舞台袖へと下がりはじめる。ルナサは歩きながら、観客席にいる○○の方へ目を向けた。
「……うぅ」
彼はいつも通り、優しい笑顔でこちらを見ている。はっきりと目が合ってしまい、ルナサは羞恥を感じて、視線を逸らすように前へ戻した。それから、早足で舞台袖に向かっていった。
ルナサは控え室として使っている部屋に入ると、椅子に座って、深く息を吐いた。今回の演奏会について思い返すと、憂鬱な気分になってしまう。
また、上手く弾けなかった。最初から最後まで演奏に集中できず、ミスが目立ってしまったのだ。
あのようなことになったのは、今日が初めてではない。ここ最近は、ずっと同じ調子だ。
「姉さん、そう落ち込まないで。きっと次は大丈夫だから」
「そうだよ。今日は、たまたま調子が悪い日だったんだよ」
隣にいたリリカとメルランも心配して、ルナサに声をかける。だが、それでも彼女の曇った表情は晴れない。
「ごめんなさい。私一人で足を引っ張りすぎた。貴女たちにも、迷惑をかけてしまった。私がいないほうが、演奏会は上手くいっていたはず……」
俯きながら謝るルナサを見て、リリカとメルランは顔を見合わせた。そしてお互いに肩をすくめると、メルランが先に口を開いた。
「何を言ってるのよ! 迷惑だなんて思ってないわ!」
「そうだよ! 私たちは三人で一人、三位一体、トライアドプリズムリバー! 誰か一人だけ欠けても駄目なの!」
続けてリリカも調子を合わせるように言った。その言葉を聞いて、ルナサの顔が上がる。
リリカとメルランは、各々ルナサの手を取り、彼女の顔を覗き込んだ。二人の瞳は、真っ直ぐに彼女に向けられている。
ルナサは、その視線から逃げるように目を伏せた。しばらく無音が続いたので、なんだろうと思い、視線を戻すと、目の前にある二人の顔は、奇妙な変顔になっていた。
「……ふふっ」
それを見たルナサは、釣られて笑顔になる。心の中にあった暗い気持ちが、晴れていくようであった。
「うん! やっぱり姉さんは、笑ってる顔がいいわね!」
「そうだよ! 暗い顔していたら、彼氏に嫌われちゃうぞー?」
「か、彼氏じゃないって……!」
二人が言うと、ルナサは顔を赤面させた。それから恥ずかしさを誤魔化すために、わざとらしい咳払いをしたが、リリカとメルランはそれを無視して、話を続ける。
「またまたまたぁ。もう良いとこまでいってるくせに」
「そうだよぉ。この前なんか、二人きりで部屋に閉じこもってたじゃない!」
「そ、それは……そうだけど、別に貴女たちが想像しているようなことは、してないからっ!」
ニヤついた表情で話す姉妹を見て、ルナサは更に頬を染めた。
ルナサは先月の出来事を思い出す。
確かにあの時、○○と一緒に部屋の中にいたのだが、それは彼と合奏をしていただけだ。それが終わった後、彼はすぐに帰ったので、何もやましいことはなかった。ルナサにとっては、普段通りの出来事だったのだ。
そう言い訳をするルナサであったが、リリカとメルランは意地悪な笑みを浮かべると、さらに追及をしてくる。
「本当かなぁ? 今日だって、観客席に彼の姿があったけど、あれは姉さんが呼んだんでしょ?」
「姉さんってば、ちらちら彼の方見てたもんねぇ。心ここにあらずって感じで、全然演奏に集中できてなかったし。私たちに感付かれてないとでも思ってたわけぇ?」
二人は交互に話しかけるが、そのたびにルナサはますます頬を染めていった。もはや耳まで真っ赤になっている。
「あー! もうっ、うるさいうるさいっ! とにかく違うったら違うっ!」
とうとう耐え切れなくなったのか、ルナサは大きな声で叫んだ。そして椅子から立ち上がると、そのまま部屋を出ていく。
残された二人は、お互いの顔を見合わせると、呆れたように溜息を吐いた。
それから、ルナサは公民館の裏口から出て、そこで立ち止まり、大きく息を吐いた。
空に視線を向けると、もう夕焼け色に染まっていて、遠くの方ではカラスが鳴いていた。辺りには涼しい風が流れており、ひとまずは心地よい気分になれるだろう。
だが、今のルナサは、そんなことを気にせず、ただ一点の流れる雲を見つめていた。
「ルナサ」
ルナサは不意に名前を呼ばれて、声がした方に顔を向ける。
そこには、○○が一人で佇んでいた。おそらくルナサが出てくるのを、外で待っていたのだろう。
○○は、ルナサが気づいたのを確認して、彼女のもとへと近づいた。そして、ぎこちない様子で、口を開いた。
「今日は、少しミスが目立っていたけど……」
その言葉を聞いて、ルナサは気まずそうに目を逸らす。それから、彼に対して頭を下げた。
「ごめんなさい。私から誘っておいて、こんな結果になってしまって……」
ルナサは心からの謝罪の言葉を告げた。それを受けて、彼は慌てて首を横に振る。
「いや、ルナサを責めたいわけじゃないんだ。体調でも悪かったのかなって思ってさ。それだけが気がかりで」
○○は心配そうな表情をしている。ルナサは顔を上げて、申し訳なさそうに答えた。
「体は平気。だから、あれが私の実力……」
ルナサは視線を落としながら言った。自分の情けなさに嫌気が差してくる。
今日の演奏会は、今までで一番酷いものだった。長女である自分が、妹たちの足を引っ張ってしまったのだ。それから、せっかく彼が来てくれたのに、満足に演奏できなかった。
悔しさと悲しさで涙が出そうになる。だが、ここで泣いてはいけないと、必死に堪えた。
「ルナサ」
「あっ……」
だが、その我慢も徒労に終わる。何故なら、○○に頭を撫でられたからだ。
ルナサは突然の行為に驚いて、体を硬直させる。
「俺は、ルナサの音が好きだよ。君の妹たちのように派手さはないけど、曲全体を包み込むような温かさがあるんだ。調和って言えばいいかな。君の奏でる音を聞くだけで、落ち着くんだよ。君の音色は、他の誰にも真似できない。俺にとっては、一番好きな音だ」
○○は優しく語りかける。それを聞いたルナサは、体の力が抜けていく感覚を覚えた。
「だから、もっと自信を持って欲しい。君は、素晴らしい演奏者なんだから」
「……うん」
○○の言葉を聞いた瞬間、ルナサの目からは大粒の涙が零れ落ちた。嬉しかったのだ。彼の口から、最高の褒め言葉を聞けて。それがルナサにとって、どれだけ嬉しいことなのか、きっと彼は知らないだろう。
二人はしばらく無言でいたが、やがて○○の方から口を開く。
「あー、俺さ、明日は丸一日時間が空いてるから、ルナサの練習に付き合うよ」
それは彼なりの思いやりだった。今日のようなことがないように、少しでもルナサの力になりたいと思ったのだろう。
「……ほんと? じゃあ、朝に迎えに行くから、いつもの場所で待っていて」
ルナサは彼の提案を受け入れ、小さく微笑んだ。また、○○と二人きりになれる。その事実が何よりも嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。
それから○○は、ルナサに別れを告げると、その場を後にした。その後ろ姿を眺めながら、ルナサは呟く。
「私の音は、貴方だけに」
その言葉は、誰が聞くわけでもなく、風に乗って消えていった。
翌日、ルナサは○○を伴って、霧の湖近くにある廃洋館へとやってきた。
この建物は、ルナサとその妹たちが住んでいる家である。元は外の世界にあったものが、形をそのままに幻想郷へ流れ着いたものだ。
外観は西洋風の造りになっており、貴族の屋敷を彷彿させる。周囲の草木は剪定されておらず、伸び放題になっていた。
かつて美しい花々に彩られていた庭は、今では見る影もない。雑草だらけで荒れ果てており、建物自体も薄汚れている。
この辺りは、昼間は霧に覆われていて、太陽の光が届かないため、常に曇り模様だ。なので、普段から人間は近寄らない場所であった。
「どうぞ、入って」
ルナサは廃洋館の一室に○○を案内する。そこはグランドピアノが一台置いてあるだけで、他には何もない部屋だった。
室内はカーテンを開けていても薄暗く、息苦しい印象を受ける。窓の外では、相変わらず濃密な霧が立ち込めていた。
ルナサは○○のあとから部屋の中に入ると、静かに扉を閉める。そして、○○に向き直った。
「今日は妹たちが居ないから、騒音に邪魔されずに練習できるわ」
「そうか。あの子たちの演奏も嫌いじゃないけど、騒がしいのが玉に瑕だな。ルナサみたいな落ち着きが、もう少しあればいいのに」
○○は苦笑しながら言った。ルナサは○○の言葉を聞いて、少し顔を赤く染めると、恥ずかしそうに微笑を浮かべる。
妹たちの演奏する音楽は、賑やかで騒がしい。この広い建物のどこにいても、壁を突き抜けて聞こえてくるほどなのだ。
それは彼女たちが騒霊だから仕方がないのだが、○○は騒音が煩わしいようで、苦手意識を持っているみたいだった。
「まずは、軽く試奏させてもらうよ」
「ええ」
○○はピアノの前まで歩いていくと、椅子に座って鍵盤蓋を開けた。鍵盤を覆っている布を外し、両手を置いて、ゆっくりと奏で始める。
緩やかな速度を保った穏やかで優しい曲調が、室内に響き渡った。その音は心地よく、いつまでも聞いていたくなるような魅力があった。
ルナサは目を閉じながら、その音色に耳を傾ける。彼の演奏は、いつも通り素晴らしいもので、聞いているだけで心が安らぐ。
「……好き」
ピアノの音色に溶け込むように、自然と言葉が漏れた。それは無意識のうちに発せられたものであり、彼女自身も気付いていない。もちろん、○○の耳にも届かなかった。
○○と出逢った時から、ルナサは彼の持つ雰囲気に惹かれていた。自分のすべてを、優しく包み込んでくれるような温かさを感じるのだ。
それから、彼が奏でる音楽にも、大きな魅力を感じていた。彼が生み出す音色は、自分の渇いた心を潤してくれる。
○○は演奏家ではないので、技術面は未熟なものの、人の感情に訴えかける力がある。それがルナサにとっては、何よりの魅力だった。
「うん。音は、あれから変わってないな」
ある程度弾いたところで、○○は手を止めた。それから軽く鍵盤に指を滑らして、満足げに呟く。
○○は外来人で、外の世界ではピアノの調律師をしていたらしく、彼と出逢えたのも、彼がこの廃洋館に偶然迷い込んだからだった。
聞けば、田舎の僻地まで仕事で行った帰り道で、山道を車で走っている際、濃霧に飲まれてしまい、気が付けば見知らぬ場所にいたという。
道に迷い、電子機器も使えない中で彼を導いたのは、湖畔に響き渡るヴァイオリンの音色だった。
○○の鼓膜を震わすその音は、気が動転していた彼の心を鎮めてくれたらしい。
そして、音色に誘われるように辿り着いた先には、ルナサが暮らす廃洋館があり、○○は彼女に保護されたのだ。
『どうもありがとう。ちゃんとしたお礼をしたいけど、俺にできるのは、ピアノの調律くらいだから』
○○を人里に送り届ける際に、恩返しにと言って、このピアノを調律してくれた。かつて四姉妹だったプリズムリバーの末娘レイラが、生前に弾いていたものだ。長年放置されていたが、○○が調律したことで、元の美しい音を取り戻した。
寂しがり屋で内気な性格のレイラが弾くピアノの旋律は、とても繊細で美しいものだった。それは、彼女が亡き後も、ルナサの大切な思い出として残っている。
「……もっと弾いてほしい。貴方の音が聞きたいの」
ルナサは○○を見つめながら、熱っぽい声で言った。その瞳は潤んでおり、頬は紅潮している。
○○の音を聞くたびに、ルナサの心は彼に囚われていく。○○が奏でる音色は、レイラが奏でていたものと似ているのだ。
二人は性別も年齢も異なるが、どこか重ねて見てしまう部分がある。それがルナサにとって、彼に特別な想いを抱く理由。初めは興味本位でしかなかったが、今は恋焦がれるほどになっていた。
「俺だけが弾いても、練習にならないだろ?」
○○はルナサの視線を受け止めつつ、首を傾げた。
彼はまだ、ルナサの気持ちには気付いていない。それでも、こうして付き合ってくれているのは、ルナサに対して恩義を感じているからだろう。そこに好意はあっても、恋愛感情はないはずだ。
ルナサはそれを理解しつつも、少しでも自分を意識してもらいたくて、彼女なりにアプローチを続けていた。
といっても、ルナサは奥手で口下手なので、いつも言葉ではなく、ヴァイオリンの音で示すのが常である。
「……そうだった。じゃあ、いつも通り、私も一緒に演奏する」
ルナサはヴァイオリンを持ち出して、○○の隣に立つ。彼女の身長は○○より大分低いので、椅子に座った彼と同じ目線の高さになる。
「準備はできたから、いつでもいいわ」
ルナサは一呼吸してから、弓を構えた。
ルナサたち三姉妹は、手を使わなくとも楽器を奏でられるが、やはり楽器は自分の手で弾いた方がしっくりとくる。なので、普段から演奏をする時は、それぞれの得物を手放さないのだ。
「俺が合図するから、それに続いてくれ。さん、にぃ、いち——」
彼の掛け声に合わせて、ルナサたちは合奏を始めた。
二人の奏でる音楽は、ピアノとヴァイオリンの二重奏だ。いつも三姉妹が弾く曲と似ているが、微妙にアレンジが施されている。
ルナサの奏でる音色は、○○の音色に寄り添うように響いている。曲の始まりは、彼の奏でる音色を引き立てるように、静かに優しく弾いていた。
「んっ……」
やがて曲が佳境に差し掛かると、ルナサは演奏を続けながら、喘ぐような声を漏らした。○○の音に酔いしれ、意識が蕩けそうになる。
ルナサの息遣いは荒くなり、その表情は快楽に染まっていく。音を乱すまいと、彼の演奏に意識を集中させるほどに、ルナサは官能的な気分になっていった。
弓を持つ手が震え、身体中が敏感になり、内側から燃やされるような感覚に襲われる。互いの音を交わらせることで、心までもが一つになったかのような錯覚に陥っているのだ。それは性的快感にも似た心地よさだった。
「ふうっ……!」
ルナサは、昂る感情をヴァイオリンの音色に込めた。それは燃え上がる恋の調べ。ルナサの想いが乗せられた情熱の旋律は、ただ一人の男に向けて捧げられている。
○○の奏でる音色が耳を打つたび、ルナサは高みまで追い詰められていく。下腹の奥が熱く疼き、秘所からは絶えず快感の証が溢れ出し、下着の一点を濡らす。
「ふっ、ふっ……! はぁ、はぁ、あはぁ……!」
ルナサは必死に耐えようとするが、抗えない悦楽が全身を走り抜ける。立ったまま太ももを浅ましく擦り合わせ、腰を悩ましげに揺らしながら、愛しい人の音に溺れていった。
○○のピアノの旋律が、ルナサを狂わせる。音に身を委ねるだけで、絶頂に達してしまいそうなほどの快感。異常ともいえる高揚に理性は溶かされ、雌の本能が剥き出しにされていく。
体に触れられてもいないのに、ただ音を聞いただけなのに、こんなにも乱れてしまう自分が恥ずかしかった。しかし、そんな羞恥すらも、今の彼女にとっては、情欲を滾らせる燃料にしかならない。
「んっ……くふっ……ふっ、ふぅっ!」
ルナサは、ヴァイオリンの弦を震わせて、溢れる情欲を音色に変えた。艶めかしさを孕んだ旋律は、○○の音と混じり合い、絡み合うようにして響き渡る。
二人の男女が織り成す愛の協奏曲。一種のまぐわいともとれる淫靡な調べは、ルナサの秘められた欲望を曝け出していく。
「あっ……あぁっ……!」
やがて合奏の幕切れが訪れると、ルナサは体を細かく痙攣させ、天に登った。余韻に浸りながらも、ルナサはなんとか自我を保ち続けていた。だが、身体の火照りと痺れるような甘い刺激は収まらない。
「……おいおい。まったく駄目じゃないか。もっと落ち着いて、俺の音に合わせないと。そんなに激しく弾いたら、せっかくの曲が台無しだぞ?」
「……ごめんなさい。気分が乗ってしまって、つい……」
○○は呆れた様子で、ルナサを見つめていた。彼は演奏に集中していたので、ルナサの痴態に気付いていなかったようだ。
ルナサは申し訳なさそうに俯いたが、内心では愛情を○○に気付いてもらえなかったことを残念に思っていた。
あれだけ想いを音色で伝えているのだから、少しくらい意識してくれてもいいはずなのだが、その辺は鈍いところがあるらしい。
「前は控えめだったはずだけど、最近は随分と激しいな。何か心境の変化でもあったのか?」
「……ええ、まあ」
ルナサは頬を染めながら、小さく呟いた。
○○と一緒にいるときは、常に幸せを感じている。離れている時でさえ、彼のことを想うと胸が温かくなるのだ。
そして、その感情を音に乗せて、彼に届けたいと思うあまり、今のような演奏になってしまう。それは悪癖だと自覚しているが、どうしてもやめることができなかった。
妹たちと合奏をしているときでさえ、○○のことばかり考えてしまっている。演奏に集中できないのは、ほかでもない○○のせいだ。
今までは、ずっと妹たちと一緒で、寂しさを感じることはなかった。しかし、○○が現れてからというもの、彼のことしか考えられなくなってしまった。
誰かに恋をするなんて想像したこともなかったし、ましてやその相手が人間とは思いもしなかった。だが、違和感なく受け入れることができたのは、ルナサたち三姉妹の出自を考えれば、当然かもしれない。
彼女たち騒霊は、人間のレイラによって生み出された存在。人間を拠り所とする霊である以上、人を愛することは自然なことだ。それが異性であれ同性であれ、対象が同じであることに変わりはない。
そして、拠り所だったレイラは、もうこの世にはいない。その事実が、彼女たちの心に大きな穴を空けた。
自己が曖昧となり、存在意義を失いかけていた彼女たちは、残された姉妹で支え合って、形を保ってきた。
しかし、それはあくまで仮初めの関係であり、心の穴を埋めることはできなかった。好きではあっても、愛しているわけではなかったからだ。
そこに現れたのが、○○という青年だった。
彼との出会いは、確かに偶然の産物に過ぎない。彼がたまたま迷い込んだ先が、ルナサたちの住む家だったというだけの話。
だが、そんな些細な出来事も、ルナサの運命を大きく変えることになった。
○○の音が、レイラに似た音色をしていたからだろうか。あるいは、初めて親しくなった異性が、彼だったからだろうか。
理由は定かではないが、ルナサの隙間だらけの心を埋めたのは、紛れもなく○○の存在だった。
なので、ルナサが○○を好きになったのは、ごく自然な成り行きといえるだろう。
「作曲者が抱いていた感情を音に乗せるのは、良いことだと思う。ただ、奏者が自己の感情に振り回されてちゃいけない。曲の意味が分からなくなるからな」
ルナサの返答を受けた○○は、厳しい表情を浮かべていた。彼にはルナサが、演奏に自分の気持ちを乗せすぎているという印象を受けたようだ。
「ルナサは、周りが見えなくなっているんだ。演奏に集中するのは悪いことじゃないけど、周りの音を聴かないと、合奏として成立しない。さっきも、途中から走り気味だっただろ? あんな調子じゃ、他の二人が可哀想だ」
「……うん」
○○の言葉を聞いたルナサは、しゅんとした様子で肩を落とした。返す言葉もないといった感じだ。
「悩みごとがあって集中できないんだったら、俺でよければ相談に乗るぞ?」
○○は心配そうな顔をしながら、ルナサに問いかける。
「それは……」
ルナサは、自分が抱えている問題について、どう説明したものかと悩んでいた。
貴方への想いを音に乗せて演奏している。そう打ち明けたところで、○○が困ることは目に見えている。彼は、ルナサが好意を寄せていることを知らないのだから。
でも、いっそのこと、この場で告白してしまおうか。そうすれば、楽になれるかもしれない。○○とも、もっと深い関係になることができる。音だけでなく、彼のすべてを手に入れることができれば、自分の心は完全に満たされる。
ルナサは、頭の中に浮かぶ誘惑に抗えずにいた。
○○に抱かれ、愛を囁かれる妄想が、脳内で勝手に繰り広げられる。心も体も一つになって、お互いのすべてを貪り合うような情事を夢想し、ルナサは体を震わせた。そんな未来が訪れるなら、どんなに幸せなのだろうか。
たった一言、好きだと彼に告げれば、それが手に入る。しかし、その一言がどうしても口にできなかった。
○○と恋仲になりたいという想いはあるのだが、拒絶されるかもしれないと考えると、恐くて仕方がないのだ。
それに、もし受け入れてもらえなかったら、今の幸せを失ってしまうことになる。それだけは絶対に嫌だった。
しかし、このままでは、永遠に彼の心を掴めない。それどころか、いつまで経っても進展することはない。それでは、いずれ自分は飽きられて、見捨てられてしまうのではないか。そんな不安が、ルナサを苛んでいた。
幻想郷には、自分よりも魅力的な女は大勢いる。○○が自分以外の女に惹かれて、離れていってしまう可能性は十分にあるのだ。
もし、それが、妹たちの誰かだったら。想像したくはないが、あり得ない話ではない。
次女のメルランは、明るい性格で、人当たりも良い。三姉妹の中でも、一番発育の良い肉体を持っていて、性的な魅力も備えている。
三女のリリカも、調子の良いところはあるが、人懐っこい性格だ。小柄でも、口八丁で男を篭絡することは、できるかもしれない。
一方、自分はどうだろうか。周りからも暗い女だと認識されていて、容姿に関しても優れているとは思えない。口下手で口数も少なく、愛想も良くない。
そんな自分を、○○が受け入れてくれるのか。考えれば考えるほど、自信が無くなっていくばかりだった。
だが、今の○○に、女の影はない。○○の側にいられるのは、今はルナサだけなのだ。それはルナサにとって、数少ない好機だと言える。ならば、多少強引であっても、彼の気を引くしかないのではないか。
ルナサの心に、強い焦燥感が湧き上がる。今ここで行動しなければ、手遅れになってしまう。そんな予感がしていた。
意を決すると、ルナサは深呼吸をして気持ちを整えた。そして、○○の顔を見つめながら、ゆっくりと唇を動かした。
「私……貴方が、○○のことが好き。○○のピアノの音を聴いてから、ずっと好きだったの。私の演奏を褒めてくれる優しい声も、叱ってくれる厳しい態度も好き。それに、もっと違う○○の音を知りたい。私の知らない音を、もっと聞かせて欲しい。もっと深く、○○と繋がり合いたい。○○が側にいる時……ううん、いない時にだって、○○のことを考えているわ。ヴァイオリンを弾く時も、○○のことを想って弾いているの。○○だけを見ているから、周りに合わせられないの。奏者としては失格だけど、もうそれでもいい。私は、○○と、ずっと一緒にいたい。○○の側を離れたくない。そう、つまり……○○を、愛しているの」
ルナサは、思いの丈をぶつけるようにして、○○に告白をした。
ひとたび恋心を口に出すと、堰を切ったように言葉が流れ出た。ここまで饒舌なルナサは、彼女の妹たちでさえ見たことがないだろう。それほどまでに、彼女は○○を強く求めていたのだ。
「……ルナサが、俺を?」
○○は、ルナサの告白に困惑しているようだった。突然、少女に愛の言葉を告げられたため、どうして良いか分からないといった様子だ。
そしてルナサには、もう迷いはなかった。自分の想いは全部伝えた。後は、彼が自分の想いを受け入れてくれるかどうかだけだ。
○○が自分に好意を抱いていることは、何となく察しがついている。彼は、自分の演奏をとても気に入ってくれている。頭を撫でてくれたこともあるし、会話をするときは、目をじっと見てくることが多い。きっと、そういうことだろう。
○○の答えを待つ時間は、ルナサにとっては無限のように感じられていた。彼の口から出るであろう返事に、ルナサは耳を傾ける。
「そう、か……。うん……」
○○は、何かを考え込んでいるようだ。急なことなので、戸惑っているのかもしれない。
しかし、ルナサは、彼の反応に落胆することはなかった。むしろ、○○が真剣に悩んでくれたことに喜びを感じていた。○○は、自分のことを意識してくれているということだからだ。
しばらく沈黙が続いたあと、○○は静かに口を開いた。
「ごめん、俺もルナサのことは好きだけど、愛するとか、そういうことはできない」
「えっ……?」
○○の言葉を聞いた瞬間、ルナサは全身が凍りつくような感覚に襲われた。心臓が高鳴り、頭の中で血流が激しく巡っていく。視界が歪み、手足が震え始めた。
○○に拒絶された。脳はそう理解していたが、心がそれに追いつかなくて、ルナサは呆然と立ち尽くしていた。
「俺さ、付き合っている人がいるんだ。ええっと、外の世界って言うのか? そこで出会った人なんだ。今は帰ることができなくて、離ればなれになっているけど、彼女を愛していることに変わりはない。だから、ルナサの気持ちに応えることはできないんだ」
○○の声は聞こえていたが、ほとんど耳に入らなかった。彼には恋人がいた。その一点が、ルナサの心に亀裂を走らせる。
しかし、まだ、まだ完全に終わったわけではない。ルナサは、最後の希望にかけてみることにした。
「……じゃ、じゃあ、○○がここにいる間だけなら、どう……? ○○が幻想郷にいる間は、私と一緒にいる間は、私だけの恋人になって欲しいの……」
幻想郷には結界が張られていて、人間や妖怪が気軽に行き来することはできない。だから、○○が元いた世界に存在する女とは、会うことができないのだ。
そして聞くところによると、外来人の帰還は、ある時期を境に滞っているらしい。ということは、○○もまた、いつ帰れるか分からない身なのだ。
ならば、その間だけでも、○○を独占したい。それから自分の愛情で彼を包み込み、蚊帳の外にいる女のことなど忘れさせてやれば、いずれ自分を選んでくれるはずだ。ルナサは、そんな願いを抱いていた。
「……君が、そんなことを言うとは思わなかった。彼女を裏切れだなんて……」
○○は、とても困った顔をしていた。無理もない。いきなりこんなことを言われても、すぐに受け入れられないのは当然だ。
だが、それでも、ルナサは諦めるつもりはなかった。
「黙っていれば、分からないじゃない。それに、恋人になってくれたら、私は○○の望むことは何でもするわ。私が養うから、生活にも不自由させないし、ずっと愛を囁いてあげられる。か、体だって、○○の好きにしていい。だから……ね?」
ルナサは、○○に詰め寄って、彼の手を握った。指が長くて、大きな手だ。この手で体を触れられたら、どれほどの快楽が得られるのだろうか。
彼に調律されてみたい。自分でも知らない音を、鳴かされてみたい。彼だけに聞かせる、秘密の音色。
湿り気を帯びた思考で、ルナサは自分の願望に浸っていた。そして、自然と○○の手を引いて、自分の胸に押し付けようとした。
「やめてくれ!」
「きゃあっ!」
しかし、ルナサの想いとは裏腹に、○○は彼女を突き飛ばした。小柄なルナサは簡単に吹き飛び、床に転がってしまう。
「うぅ……」
ルナサは呻き声をあげた。そして、突き飛ばされた拍子に尻餅をついたルナサを見て、○○は我に返ったようだった。
「わ、わるい……。だ、だけど、君はどうかしているぞっ! いくらなんでも、言って良いことと悪いことがあるだろう! どうして、そんなに非常識な考えを……」
○○は動揺した様子で、まくし立てるように言った。彼も、ルナサの行動には驚いているようだ。
ルナサは、臀部に伝う鈍い痛みを感じて、自分が取り返しのつかない失敗をしてしまったことに気がついた。自分の想いを伝えることに夢中になりすぎて、彼の気持ちを考えていなかったのだ。
ルナサは、自分の浅はかさに嫌気が差して泣きそうになったが、ぐっと堪えて立ち上がる。そして、精一杯笑顔を作って、○○に語りかけた。
「だって、仕方がないじゃない。私は○○を愛しているんだもの。たとえ○○に恋人がいても、私の想いは変わらない。だから、せめて一緒にいる時だけは、私だけを見ていてほしい」
もう退路は断たれているのだ。こうなった以上、前方が茨の道だろうと、ルナサは進むしかない。例えそれが、愛する人を深く傷つける結果になろうとも。
「そんな……そんなのは……」
○○は、まだ迷っているような表情を浮かべていた。どうすれば、彼は自分を受け入れてくれるのだろうか。
しばらく考えた後、ルナサは一つの結論に至った。
「想いも体も拒むのなら、私の音を捧げるわ」
ルナサは、静かに呟いた。○○は、ルナサの言葉を理解できなかったようで、怪しげな目つきで彼女を見つめる。
ルナサは気にとめず、再びヴァイオリンを取り出して、弓を構えた。そして、弦に当てられた白い指先が、ゆっくりと動き出す。
次の瞬間、薄暗い室内は、ルナサの奏でる幻想的な旋律に満たされた。騒霊の彼女が鳴らす鬱の音。それは聴く者を狂わせ、心の中に不安を呼び起こす。
音を隔てるものはなく、室内を反響しながら広がっていく波紋は、○○の心の中にも浸透していった。
ルナサは自分の音色を、単独で○○に聴かせたことはなかった。いつも彼の前で弾く時は、必ず誰かの音と合奏するようにしていたからだ。
しかし、今は違う。これはルナサの独奏であり、彼女はただひたすらに、○○への愛を表現していた。
「うっ……くっ……!」
ルナサの音色は、○○の鼓膜を通して脳髄を刺激し、彼の精神を支配していく。
やがて、○○はおもむろに床へ膝をつくと、苦しそうに胸を押さえ始めた。
「……ねえ、○○が幻想郷に来てから、随分と経つわよね。それでも、外の世界にいる彼女は、○○のことを想っているのかしら? 人の想いなんて、移ろいやすいものだから、きっと○○のことなんか忘れてしまっているわ。そして、他の男と付き合っているかもしれない。あるいは、○○より素敵な男性を見つけて、結婚しているかもね。ああ、なんて報われないのかしら……」
ルナサは演奏を続けながらも、独り言のように語り続けた。○○の心に絡みつくように、じわじわと染み込ませるように。
それは、○○の頭の中に様々な映像を浮かばせる。恋人の笑顔、幸せそうな家庭、新しい命の誕生。それらは、この先○○と彼女が歩んで行くはずだった未来。
しかし、その映像は一瞬にして崩れ去り、暗闇の中へと消えていった。代わりに現れたのは、寝具に寝そべった男の上に、裸でまたがる女の姿。
男は恰幅の良い中年で、下品な笑みを浮かべて、彼女に何か話しかけている。すると、彼女は嬉しそうに微笑んで、男の唇に自分のそれを重ね合わせた。
そして、二人は求め合うようにして、激しく体を絡め合った。お互いの肌から汗が滲んでいる。長く艶やかな黒髪を乱して、女は一際大きな声を上げる。惚けた女の顔は、確かに○○の恋人……彼女のものだった。
ありえない。そう思いつつも、○○は頭の中の光景を否定することができなかった。肉と肉がぶつかる卑猥な音や、彼女の甘い嬌声が、脳内で鮮明に再生される。まるで、今現在、外の世界で繰り広げられているかのように。
「ほら、その女は、いとも容易く○○を捨てた。自分の欲求を満たすためなら、恋人の気持ちを踏みにじることも厭わない。浅ましく腰をかくつかせる、発情期の雌。そんなケダモノのどこに、○○に愛される資格があるというの?」
ルナサは手を止めて、ヴァイオリンを宙に放り投げた。それは地に落ちることなく、ふわりと浮き上がって空中に留まる。ヴァイオリンは奏者の手を離れてもなお、弦を妖しく震わせて、音色を奏で続ける。
ルナサは、うなだれている○○に近寄った。鬱の音によって支配された○○は、虚ろな瞳でルナサを見上げて呟く。
「……酷すぎる。あんまりだ。俺はこんなにも彼女を愛しているのに、どうして……」
○○の瞳には、ルナサではなく恋人の女が映っていた。彼の心の中では、まだ彼女への想いが生きているのだ。
そんな○○の様子を見て、ルナサはくすりと笑う。
「○○は一途なのね。そういうところも素敵よ」
ルナサは、○○の頬を優しく撫でながら言った。それから、彼の耳元に顔を近づけると、冷たい声で囁く。
「でも、○○の想い人は、平然と貴方を裏切った。○○の心を弄んだの。だから○○も、そいつのことを切り捨てるべきだわ」
「……ああ、そうかも……な……」
○○は、ルナサの言葉を聞き入れ始めていた。
ルナサは、普段の寡黙な雰囲気からは想像できないほど饒舌だった。そして、彼女の口から語られる巧言は、どれもが狂気を帯びていて、聞く者を惑わせる。絶えず響いているヴァイオリンの音色も相まって、○○の心はルナサの世界に取り込まれつつあった。
「そうよ。そして、私を○○の伴侶にすればいい。私なら、○○の寂しさを埋められる。○○に愛を囁くことができる。○○を幸せにできる。○○を絶対に裏切らない。霊体だから、○○が死んだあとも、ずうっと一緒にいられる。それから——」
ルナサは自分なりの愛情表現を語り続ける。そして、呆然としている○○の手を取り、自らの胸に当てた。
掌越しに伝わる、ルナサの心臓の鼓動。ドクンドクンと脈打つ音が、○○の脳髄まで響き渡る。
「霊体でも、人の情欲を受け入れられるの」
ルナサは、そのまま下へと誘導した○○の手を、スカートの中へと滑り込ませる。
太腿の内側に触れた途端、○○はビクッと体を跳ねさせた。だが、彼はルナサを振り払うことができない。鬱の音色によって気力が湧かず、思考能力が低下しているためである。
「んっ……○○の手が、私に触れてる……。はぁ、あっ、熱い……」
ルナサは、○○の手に自分の指を絡ませ、下着の上をなぞらせるように動かした。そこは十分に湿っており、○○の興奮を誘う。
ルナサの秘部は熱を持ち、柔らかくなっている。初めての男を受け入れる準備ができていた。
「ねぇ……○○。私の穴を、埋めて欲しいの。夫婦の契りを、交わしましょう。そうしたら、私はずっと○○の側にいるわ。永遠に離れない。死んでからも、魂だけになっても、○○と一つになるの。そして、また新しい命として生まれ変わっても、必ず○○と巡り合うことができるの」
ルナサの甘言は、鬱の音を掻き消すほどの愛情と執着に満ち溢れている。それは気力を失った○○にとって、天啓のように感じられた。
「はあっ……! はあっ……!」
虚だった○○の瞳に光が戻り始める。しかし、その光は正常なものではない。狂った欲望に染まった、危うげな輝きを放っている。
「ふふっ……くふふふふっ……!」
○○の変化に気づいたのか、ルナサは不気味に笑い始めた。彼女もまた、○○と同じように、異常なまでの情念に支配されているのだ。
「ああ……こんなにも素敵な時はないわ。だって、○○のすべてを、独り占めにできるのよ? だから、この時だけは、獣のように交わってもいいわよね?」
ルナサは○○を床に押し倒し、その上に覆い被さる。そして、張り詰めた彼の情欲を露わにすると、自らも服を脱ぎ捨てた。
霊体だというのに、ルナサの身体は生身の人間と遜色がない。透き通るような白い肌や柔らかな肌は、まさに生きた人間の、少女の肉体としか思えなかった。汗ばんでしっとりとした質感すら感じられるほどである。
「心だけでなく、体まで繋がってしまったら、私たちはどうなってしまうのかしら。くふふっ……!」
ルナサは自分の下腹部に手を当てて、妖艶な笑みを浮かべた。その表情は、もはや少女のものとは思えないほど淫靡で、妖しい魅力を漂わせている。
「さあ、教えて○○。初めての私に、本当の愛を、○○の愛を刻み込んで……!」
○○には、もうルナサの音しか聴こえなかった。ヴァイオリンの鬱々しい音も、肉を打つ淫靡な音も、彼の耳には届かない。
ただ狂ったように漏れるルナサの嬌声だけが、彼の心を満たしていた。
まだ年若い調律師には、人ならざる者の狂気は重すぎた。乱れた音色は、この先も正されることなく、永久に心を蝕んでいくだろう。
騒霊が奏でる狂愛の旋律は、廃洋館の一室で、どこまでも深く響いていた。