「それって、解散ってこと?」
霧の湖から、少し離れた場所にある、廃洋館。
その一室で、リリカはそう言って、首を傾げた。すると、その視線の先の、椅子に腰掛けているメルランが、静かにうなずく。
「一旦ね。つまり、活動休止ってことよ。姉さんがいないし、私たちだけでライブをしても、意味がないじゃない?」
メルランは、リリカの問いに答えると、手に持っていた帽子をかぶった。そして、椅子から立ち上がり、窓際へと移動する。リリカの視線も、彼女につられるように動いた。
窓から見える景色には、やはり霧が立ち込めており、遠くの方は見えなくなっていた。
そんな外の様子を眺めながら、メルランは続ける。
「姉さんの恋が成就したのは、喜ばしいけど、四六時中部屋に籠もられると、困るわねぇ。まあ、それだけ彼に、夢中なんでしょうけど……」
そこまで言うと、メルランは小さく溜息をついて、リリカの方へと向きなおった。それは迷惑というより、羨んでいるような声色だった。
「そっかぁ……。姉さんたちとライブできないのは、寂しいけど……。まあ、仕方ないよね。私も、しばらくは、お休みでいいと思うよ」
メルランの言葉を聞いたリリカは、特に驚いた様子もなく言った。ある程度は、予想していた展開だからだ。
このあいだ行われた定期公演の最中、ずっと想い人に向けて演奏をしていたルナサの音色を聴けば、彼女がどれほど彼に心酔しているか、分かるというものだろう。
その積もり積もった感情を伝えきるには、長い時間を共に過ごさなければならない。
だから、ルナサの行動も、メルランの提案も、リリカとしては納得できたのだ。
「ええ。でもこれで、ようやく私も、彼と一緒になれるわ。姉さんよりも先にっていうのは、気が引けてたから、ちょうど良かったのかも」
一方メルランは、自分の提案が受け入れられたことに安堵しつつ、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「ああ、あのイケメンの彼氏さんね。姉さん、その人に、ぞっこんだもんねぇ。意外と面食いだったのは、驚きだけど」
「うふふっ、顔は関係ないわよ。ただ、彼が他の人間より、違って見えただけ。魂の輝きが、私の目を引き付けたの。運命の人って感じかな。それに、なんだかお世話したくなっちゃうところとか、本当に可愛いのよ? あぁ、早く逢いたいわぁ……。それから、誰にも邪魔されないところで、一緒に生活して、毎日——」
頬に手を当てて、幸せそうに語るメルランだったが、その言葉は、徐々に早口になっていく。まるで妄想の世界に、入り込んでいるようだった。
「うぇ〜、のろけ話は、勘弁だよぉ。そんなに我慢してたなら、さっさと一緒に暮らしたら?」
リリカは、うんざりしたように顔をしかめると、呆れた声で言った。だがメルランは、即座に首を横に振る。
「そうしたいのは、山々なんだけど、リリカを、一人にすることになるし……」
「別に私にまで、気をつかうことないよ。私は、大丈夫だからさ」
「……本当? 一人で、寂しくないの?」
「だから平気だってば! 心配性だよ、姉さんは……」
心配するメルランに対して、リリカは特に気にしていないといった口調で返した。しかし、表面上は強がってこそいるものの、内心では、姉と離れるのは寂しかった。
それでも彼女は、それを表に出さないよう努めている。なぜなら、自分が姉たちの枷になるのが、嫌だったからだ。
プリズムリバー三姉妹は、三人で一つ。その絆は、とても強く、たとえ離れてしまっても、お互いの存在を、常に意識し合っていた。
しっかり者で、三姉妹のまとめ役である長女、ルナサ。明るくて優しい、ムードメーカーの次女、メルラン。
そんな姉たちに支えられて、リリカは今日まで存在できていた。
だからこそリリカは、二人に負担をかけたくないと思っていたし、彼女たちの力になりたいとも思っていた。
たとえ姉たちの心が、自分から他の誰かに向けられようとも、それが二人の幸せなら構わない。姉たちが幸せならば、自分もまた幸せなのだ。そう思っているから、リリカは耐えられる。
「……ごめんなさい。じゃあ、とりあえず今日は、今日だけは、彼と一緒に、過ごさせてもらうわね」
「いや、めちゃくちゃ遠慮してるじゃない! 一ヶ月くらいは、二人で楽しんできなって!」
申し訳なさそうな表情で謝るメルランを見て、リリカは思わず突っ込んだ。どうも過保護すぎる姉の態度に、つい声が大きくなってしまう。
「私だって、友達の一人や二人はいるし、それに、恋人だっているんだから、そんなに寂しくなんかならないよ。むしろ、姉さんの方が心配。今まではずっと、私たちのために我慢してくれてたんだし、これからは自分のことを、優先してほしいかな」
「……あら、リリカに恋人がいたなんて、初耳だわ。どんな人なのかしら。今度、紹介してくれる?」
「あっ、えぇっと……。そう、ね……」
リリカの言葉を聞いて、メルランは意外そうな反応を見せる。それから、興味深そうな視線を、妹に向けた。
リリカは困ったような笑みを浮かべると、少し言葉を詰まらせた。
なぜなら、リリカに恋人はいない。それから、友人だって、一人もいないのだ。姉を安心させるために、咄嗟に口から出任せを言ってしまっただけである。
「まだ、そんなに深い仲じゃないから、ちょっと無理かな〜」
とはいえ、リリカは適当に誤魔化すことにした。その口ぶりに、メルランは不思議そうな顔をする。
それからしばらくして、メルランは何か察したのか、納得した様子を見せた。
「……うふふ。リリカも、独り占めにしたいと思うくらい、その彼のことが、好きなのねぇ」
「うん……? まぁ、そう……だね」
何か腑に落ちない気がしたものの、リリカはひとまず肯定しておいた。すると、メルランは満足げに微笑む。
「彼とは、もう……したのかしら? まだだったら、私が手解きを、してあげるわよ?」
「えぇっと……うん、したよ。だから姉さんは、何も心配しないでいいから」
姉からの意味不明な問いに、リリカは少し迷ったが、再び頷いた。こういうのは、肯定しておくほうが楽なのだと、経験上知っている。
「そうだったの〜。リリカは、私たちの知らないうちに、大人の階段を、のぼっていたのね〜」
「あ、あはは……。私だって、いつまでも子供じゃないってこと……だよ? だから、姉さんたちと離れても、全然寂しくないし?」
どこか感慨深そうに語るメルランに対し、リリカはぎこちない笑顔で答えた。だが、内心では動揺している。よくわからないが、盛大に勘違いされているような、そんな気がしたからだ。
「なら、お言葉に甘えて、しばらく彼と一緒に、過ごさせてもらおうかしら〜」
「うん、そうしなよ! いっぱい楽しんできてね!」
しかしリリカは、あえて何も言わなかった。ここで余計なことを言うと、ややこしくなりそうだと思ったのだ。
リリカは、さっさとメルランを送り出すことにした。姉の背中を押しながら、満面の笑みで見送り、その姿が見えなくなると、彼女はため息をつく。
「恋人かぁ……。何が、そんなに良いんだろう」
リリカは、ぽつりと呟いた。姉たちが熱心に求めているものを、十分に理解できなかったのだ。
二人から話を聞いていたので、なんとなくどういうものなのかは、わかっているつもりだった。
けれど、いざ自分の身に置き換えてみると、やはり姉たちの言うような感情は、湧いてこない。
むしろ、そんなものに、時間を費やすことが、馬鹿らしく思えた。三姉妹で合奏している時の方が、楽しいと思うし、満たされると感じる。
そう考えると、リリカにとって恋人とは、家族よりも優先順位が低い存在だった。しかし、姉たちにとっては、違うらしい。
「私にも、恋人がいたら、わかるのかなぁ……」
そんなことを思いつつ、リリカは小さく嘆く。
リリカは、一度も恋をしたことがなかった。もちろん、ずっと姉の背中を見てきたので、興味がなかったわけではない。ただ、今までは、そういう機会に恵まれてこなかっただけだ。
もしも、自分に恋人ができたとしたら、一体どんな日々を送ることになるのだろう。それは、リリカの想像もつかない世界だ。無を有にするのは、困難を極めた。
「うむむぅ……!」
そう考えているうちに、頭が痛くなってきた。
そこでリリカは、一旦思考を中断し、頭を振った。そして、廃洋館にある自室へと、戻ることにする。
「ふぅ……」
部屋に置かれたベッドに、うつ伏せに寝転ぶと、リリカは静かに目を閉じた。それから、再び恋人という存在について、考え始める。
そう、例えば、自分の恋人になるのは、どんな人なのだろうか。
まず、優しい人がいい。自分を包み込んで、大切にしてくれる人。
そして、一緒に音楽を楽しめる人がいい。自分の演奏を聞いて、喜んでくれる人。
それから、楽器を弾ける人がいい。自分の知らない音を、奏でられる人。
最後に、自分を好きになってくれたら、それでいい。自分以外の誰かに、目移りすることなく、真っ直ぐに見ていてほしい。それが一番重要だと、リリカは思った。
もし、そんな相手が現れたのならば、きっと自分も、その人を同じように、好きになるはず。
「……ぷっ!」
そこまで夢想して、リリカは思わず吹き出した。自分が、柄にもなく、ロマンチックなことを考えていたことに、気がついたからだ。これではまるで、恋物語に出てくる乙女のようではないか。
「ううぅぅ!」
姉たちの話に、影響されてしまったのかもしれない。リリカは、恥ずかしさを隠すように、枕に顔を埋めて、足をばたつかせた。
「はあ……。恋って、難しいのね。姉さんたちは、やっぱり偉いよ」
しばらくして、リリカは落ち着きを取り戻すと、しみじみと呟いた。姉たちに感心しつつ、同時に羨ましく思う。
もしも、姉たちのように恋をすれば、自分も何か変わるのだろうか。そんな疑問を抱きながら、リリカは再び、妄想の世界へ旅立った。
それから、数日経ったある日。
リリカは一人、人里を訪れていた。目的は特になく、強いて言えば、暇つぶしである。
廃洋館にいても、一人でやれることは少ない。そして、無限にある時間を、孤独に過ごすのは、限界がある。
だから、寂しさを紛らわすために、こうして外へと出かけたのだ。今日は天気も良いし、外出するには、絶好の機会だった。
人里の雑多な空気を感じ取りながら、リリカは当て所無しに歩く。
リリカは騒霊だが、それでも姿形は、人間と遜色ない。そして、その小柄な体躯は、人里にいても浮かずに、すっかり馴染んでいた。
普段着ではなく、服装を人里の人間と同じように合わせているせいか、すれ違う人々は、彼女のことを気にせず、あるいは気付かずに、通り過ぎていく。
人里で、プリズムリバー楽団の名は知られていても、リリカの顔を知っている者は、意外と少ない。
二人の姉が奏でる、個性的で馴染みやすい音と比べれば、リリカの音は幻想的なもので、印象に残りにくいからだ。
なので彼女の存在は、人里において、それほど目立つものではない。姉たちの影に埋もれて、希薄な存在として、溶け込んでいた。
「うん? なんだろう、あれ……」
しばらく歩いていると、遠方に人だかりが見えた。
興味本位で近づくにつれて、そこから楽器の音色と共に、歌声が聞こえてくる。どうやら、誰かが路上で、弾き語りをしているようだ。
人だかりの隙間から覗き込むと、そこにはギターを抱えて立っている、一人の青年の姿があった。彼は目を閉じて、楽しげな音色を響かせている。
見物人の中には、子供もいれば老人もいた。けれど、誰もが笑顔を浮かべており、音楽を楽しむ雰囲気に包まれていた。
その光景を見て、リリカも自然と笑みをこぼす。
「——はいっ、おしまいです! ありがとうございました!」
そうこうしているうちに、演奏が終わった。拍手が鳴り、やがて人だかりが散っていく。その中には、おひねりを青年に渡している者もいる。
「あ、どうもっ、どうもです!」
彼は嬉しそうな表情で、それを受け取っていた。それから、身支度を整え、その場から離れようとする。
「……待って!」
気づけば、リリカは青年を呼び止めていた。
自分でも、なぜそうしたのか、わからない。ただ、このまま彼を見失うのは、なんとなく嫌だと思ったのだ。
「ん?」
声を聞いた青年が、リリカの方へと振り向く。そして、不思議そうに首を傾げた。
「あっ、えっと……」
呼び止めたはいいものの、リリカは二の句が継げず、言葉を探すように視線を彷徨わせる。焦る気持ちばかりが募っていき、思考が空回りする。
「君も、俺の弾き語りを、聞いてくれたのかい?」
そうしてリリカがまごついている間に、彼の方から近づいてきて、問いかけてきた。
彼は、リリカよりも大分背が高く、それでいて細身で、優しそうな雰囲気を持つ青年だった。
「……うん、途中からだけど」
「そうか。どうだったかな、俺の曲は。楽しんでくれたなら、嬉しいけど」
リリカは少し考えてから、素直に答えることにした。嘘をつく必要もないと、思ったからだ。
「最後の方しか、聞いてなかったけど、いい曲だったわ。私の知らない音ばかりだったもの。とても新鮮で、心地よかった。もっと聞きたいなって、思うくらいに。……でも、ちょっとだけ物足りなくも、あったのよねぇ。なんていうか、もう一歩って感じ?」
それは、リリカの正直な感想であった。彼の音楽は、確かに素晴らしいものだった。けれど、まだ発展途上であるような気がした。
もちろん、リリカが偉そうに言えることではないのだが、それでも自分たちの音と比べてしまうと、どうしても劣っているように思えた。
「はははっ! そうかい、物足りなかったかぁ。いやいや、君は正直な子なんだな、うんっ」
しかし、リリカの意見を、彼は否定しなかった。むしろ、満足げに笑ってみせた。
「俺さ、いつもこの時間に、ここで弾き語りをしてるんだ。毎日ってわけじゃないけどな。良かったら、また来てくれよ。今度は、君の満足いくような曲を、聞かせてあげるからさ!」
彼は、そう言って微笑むと、手を差し出してきた。リリカは、握手を求めているのだと理解するのに、数秒かかり、慌てて自分の手を伸ばした。
大きくて、暖かい手だった。握っただけで、こちらの体温まで、上がってしまいそうだった。
「き、気が向いたら、来てみるかも……!」
「ああ。とりあえず、明日もやる予定だから……って、あれ?」
リリカは、照れ隠しにそう言うと、すぐに彼の手を振りほどいた。そして、逃げるようにして、その場を離れる。
後ろからは、驚くような声が聞こえたが、リリカは振り返らなかった。
それからしばらくの間、リリカは脇目も振らず、早足で歩き続けた。
やがて、人里の喧騒から離れた辺りで立ち止まると、胸に手を当てて、息を整え始めた。心臓の鼓動は早く、顔が火照って、とても熱い。
「……初めて、握っちゃった。男の人の手って、あんなに大きいんだ……」
胸に当てた手に、視線を落とす。先ほど、彼と握手を交わした時の感触が、まだ残っていた。
あの時は、余裕がなく気付かなかったが、今こうして思い返すと、恥ずかしさが込み上げてくる。
「うぅ、なんで私、こんなにドキドキしてるの? 変だよ……」
そう呟いてから、頭をブンブンと振る。けれど、それで治まるどころか、余計に激しくなっていく一方だ。
今まで味わったことのない感覚。姉たちとライブを行なっている最中、激しく動いても、ここまで胸は高鳴らない。
「でも何だか、あったかい。嫌いじゃなくて、不思議な気分……」
その正体は、わからないが、少なくとも不快ではなかった。それどころか、心地よくさえ感じる。ずっと味わっていたいと、そう思えるほどに。
「明日もやるって言ってたし、また行ってみようかな……」
リリカは、ポツリと独り言を漏らすと、小さく笑みを浮かべる。
青年との出会いは、リリカの心を、少なからず動かしていた。それが、どういう意味を持つのか、今のリリカにはわからない。ただ、悪い気がしないのは確かだった。
そして翌日。リリカは、昨日より早い時間帯に、人里へ訪れた。
今日も天気は快晴で、清々しい陽気が、辺りに満ちている。人里の住民たちも、心なしか活気に溢れているように感じられた。
「ええっと、確かこの道を、まっすぐ行って……」
リリカは、そこまで人里の地理に詳しいわけでもないため、記憶を頼りに、ゆっくりと道を進み、彼と出会った場所へと向かう。
やがて、見覚えのある通りに出ると、目的の場所は、すぐに見つかった。近くに川があり、水の流れる音が、微かに聞こえる。
「んー、来るのが早すぎたかしら」
無事に辿り着いたのはいいものの、彼の姿は見えなかった。まだ、来ていないのかもしれない。
リリカは、近くにあった大きい木箱の上に腰掛けると、足をぶらつかせながら待つことにした。
それから、暇つぶしがてらに、キーボードの霊を具現させ、演奏を始める。
昨日聞いた彼の曲を、真似たものだ。音感は、人並み優れたものを持っているので、容易に再現できた。
今日も聞けるだろうかという期待を込めて、リリカは鍵盤を叩く。
「——あっ!」
夢中で演奏していると、いつの間にか目の前に、あの青年が立っていた。彼は、リリカの演奏に耳を傾けているようで、どこか嬉しげに目を細めていた。
それに気づいて、リリカは思わず手を止めてしまう。すると彼は、申し訳なさそうに、声をかけてきた。
「ああ、邪魔したかな。続けてくれて、いいんだけど」
「う、うん、もういいのっ。貴方が来るまでと思って、弾いていただけだからっ」
「おー、そうか。待たせたみたいで、悪かったなぁ」
「ま、待ってなんかないわよ! 貴方より、ちょっとだけ早く来ただけよっ!」
リリカは、顔を真っ赤にして否定する。彼に待ち焦がれていたと思われるのが、恥ずかしかったからだ。実際、そのとおりなのだが。
「はははっ! でも、俺の曲を聞きに、来てくれたんだろ?」
「それは、そうだけど……うん」
しかし彼は、特に気にした様子もなく笑う。リリカは、その笑顔を見て、少しホッとした気持ちになった。
「昨日は、自己紹介してなかったな。俺は○○。最近、ここに迷い込んだ、外来人ってやつだ」
「リリカよ。貴方、やっぱり外来人だったのね。道理で、私の知らない音を、出せるわけだわ」
○○と名乗った青年に対し、リリカも名乗る。そして納得するように、相槌を打った。
「まあな。ここって、文明が明治時代くらいだろ? 百年先の音楽なんて、誰もわかるはずがないからな。だから俺の曲が、新鮮に感じるんじゃないか?」
「そうかも。外の世界の音楽は、私もあんまり詳しくないし」
「じゃあ、俺が教えてあげよう。これでも向こうでは、ボカロPとして活動していたからな。ミリオンヒットを、飛ばしたこともあるんだ」
○○は、そう言って自慢げに胸を張ると、リリカの頭をポンと撫でた。
リリカは、子供扱いされたような気がしてムッとしたが、不思議と嫌ではなかった。嫌味が感じられないほど、彼の雰囲気が明るいせいだろう。
それから○○は、リリカの隣に腰かけると、色々と話をしてくれた。
外の世界のことや、自分のこと。とりわけ、機械音声で歌うボカロなる存在について、熱く語ってくれたのだった。
楽しそうに話す彼を見ていると、リリカの心も、自然と明るくなっていった。初めて知ることばかりで、興味深く聞き入ってしまう。
「○○は凄いのね。一人で作詞作曲して、歌って弾いて、みんなに聞いてもらえるんだもの。私もやってみたいけど、姉さんたちと一緒に演奏するだけで、精一杯だし」
「ははっ。ネットでは、大勢に崇められたけど、リリカみたいな女の子に直接言われると、恥ずかしいもんだな」
リリカは、素直に賞賛の言葉を口にした。褒められるのが好きで、姉以外の他人を認めたことのない彼女にとって、かなり珍しいことだった。
けれど、それを口にすることに、抵抗はない。そして、もっと彼のことを知りたいと思えた。
「でも、そんなに凄いもんでもないよ。俺はただ、昔っから音楽が好きで、その楽しさを、みんなに伝えたかっただけなんだ」
○○は、謙遜するように苦笑する。その瞳には、純粋さが宿っており、嘘偽りはないように感じられた。
リリカは、その言葉を聞いて思う。彼は、本当に音楽を楽しんでいるのだと。自分と同じで、心の底から、好きなのだろうと。だからこそ、見ず知らずの人々を、笑顔にできるのだと。
「リリカも、音楽が好きなんだろ? それに俺の曲を、一回聞いただけでコピーしていたし、結構才能あると思うぞ」
「そ、そうかな? ……私って、凄い? 偉い?」
「そりゃあ偉いさ。その歳で、シンセを自在に操れるなら、神童と言ってもいいくらいだ」
リリカは、おどけたように言う。すると○○は、真面目な顔つきになって、答えてくれた。お世辞ではなく、声色からも本気で言ってくれているのが、伝わってくる。
「え、えへへっ……!」
それが嬉しくて、リリカは思わず口元を緩ませた。いつも姉たちの影に隠れているため、自分が認められることは少ない。
しかし、この人は純粋に、自分を褒めてくれる。リリカにとっては、初めての感覚だった。
だからリリカは、○○に好意を持った。今まで会った人間とは、何もかもが違っている。何だか彼の全身から、キラキラと輝くものが、放たれているように見えた。
そう自覚すると、急に体が火照ってくる。ドキドキと心臓の鼓動が激しくなり、頭がボーっとしてきた。昨日、彼の手を握ったときのような、不思議な気持ちになる。
リリカの○○を見つめる視線が、無意識のうちに熱を帯びていった。
「あー! 歌のお兄さんだ!」
不意に前方から、甲高い声が聞こえてきた。
リリカがそちらに目を向けると、そこには一人の小さな少女が佇んでいた。
リリカと同じ年頃の見た目をしており、肩まで伸びた黒髪を、リボンで二つ結びにしている。どこにでもいそうな容姿を持つ、人間の少女だった。
少女は、○○の目の前まで駆け寄ると、満面の笑顔を浮かべる。そして、彼の腕を掴むと、そのままグイグイと引っ張った。
「ねぇ、今日は歌わないのー?」
○○の腕を掴みながら、駄々っ子のように体を揺らす。それを受け、彼は困ったような表情になると、優しく諭し始めた。
「ああ、今から始めるところだよ。だから、もうちょっとだけ、待っててくれないかい?」
「うん! わたし、お兄さんの歌が好きだから、すっごく楽しみ!」
○○が答えると、少女はパッと顔を輝かせて、元気よくうなずいた。
「……んっ」
リリカは、そんな二人の様子を、黙って見つめていた。そして、自分の中に、黒々とした何かが生まれるのを感じる。
それは、今まで感じたことのない、不快なもの。
ハエや蚊が耳元を飛んでいるような音。黒板を爪で引っかくような音。そんな耐え難い音色が、頭の中に響いて、脳を揺らしている。
どうしてこんなに苛立っているのかは、リリカ自身もわからない。気分良く○○と話していたところを、邪魔されたせいなのか、それとも彼が、自分以外の女と話しているのが、気に食わなかったのか。
どちらにせよ、リリカは目の前の少女に対して、良い印象を持っていなかった。
「まだかな、まだかなぁ〜」
「おいおい、そう急かさないでくれよなぁ」
○○は、ギターをケースから取り出すと、軽く弦を弾いて、音を確かめ始めた。
その隣で、先ほどの少女が、無邪気な笑みを絶えず浮かべており、今か今かと彼の姿を見つめている。
「……なによぅ」
唐突に蚊帳の外へ追いやられたリリカは、不満げに頬を膨らませる。
せっかく彼と楽しい時間を、過ごしていたというのに、水を差されてしまったことが、面白くなかったのだ。それを自覚するには、十分だった。しかも、割り込んできたのは、自分と同じくらいの歳頃の、女である。
文句の一つは言いたかったが、脈絡がなさすぎるため、リリカは言葉を飲み込んだ。少女は別に、悪いことをしているわけではない。
それに、○○にとってリリカは、観客の一人でしかない。昨日出会ったばかりなのだから、当然だろう。
自分は、特別な存在などではない。そして、彼の音は、一人だけのものでは、ないのだ。
「よし、準備完了だ。それじゃあ、始めようか!」
「やったー!」
やがて試奏が終わり、○○は少女に向かって微笑む。少女も歓喜の声を上げ、存分に感情を表現した。
「リリカも、待たせたな」
「——も」
「うん?」
「……ううん、何でもないわ。それより、早く聞かせて?」
○○は首を傾げるが、リリカは誤魔化すように言う。彼は不思議そうな顔になりながらも、ギターを構えて、演奏を始めた。
リリカは、静かに息を飲んで、居住まいを正した。
あれほど褒めてくれたのに、彼の中では、自分の存在は、二の次なのだろうか。そんな考えが頭を過ぎるが、今はそんなことを、考えるべき時じゃない。
○○の演奏に集中するんだ。
リリカは、そう自分に言い聞かせると、彼の音に意識を向ける。彼の奏でる旋律は、やはり新鮮で心地よいものだった。まるで、春風のように暖かく、優しい音色だ。
リリカは、その調べに身を預けるようにして、目を閉じる。彼の音が、全身に染み渡っていくようで、とても気持ちいい。隙間の空いていた心が、満たされていくような感覚。特に、彼の声が合わさることで、より一層の輝きを、放っている気がする。
この時間が、永遠に続けば良いのにと、リリカはそう思った。
だが現実は、無情にも過ぎ去ってしまうものだ。あっという間に彼は、最後の一小節を、演奏し終えてしまった。
途端に、周囲から拍手が起こり、感嘆の声も上がる。
リリカはハッと我に返った。どうやら演奏が終わったことに気付かず、惚けていたらしい。
慌てて周りを見回すと、いつの間にか人だかりができていて、皆一様に彼の演奏を賞賛して、盛り上がっているところだった。
「どうも! まだ続けていきますよ!」
○○は照れ臭そうに、はにかみながら、再びギターを構える。すると周囲の歓声は、さらに大きくなり、熱を帯びたものへと変わっていった。
リリカは、○○の後ろ姿を見つめる。人だかりの中でも、やはり彼だけは、目立って見えた。
○○が弾く曲は、次々と移り変わり、様々なジャンルの曲を、披露していった。どれもリリカが初めて聞くようなものばかりで、その全てが素晴らしいと思えた。
「——ありがとうございました!」
気づけば、彼は全ての曲を、弾き終わっていた。締めの口上と共に、観客全員から、拍手が巻き起こり、リリカも無意識のうちに、手を叩いていた。
「——さて、どうだったかな?」
「あっ、そ、そうねぇ……」
観客が散って行き、辺りに静寂が訪れたところで、○○は振り返って、リリカを見た。
リリカは一瞬、言葉に詰まってしまった。正直、演奏に夢中になっていて、途中から何も覚えていないのだ。
しかし、何か言わなければ、彼に申し訳がない。必死になって、言葉を紡ぎ出した。
「前よりは、良かったかも……」
「そうか、満足いったか!」
「えっと、満点じゃなくって! ……やっぱり少し物足りない、かな」
リリカは素直になれずに、そんなことを言ってしまう。
本当は、彼の演奏に、満点を付けたいくらいだったが、ここで認めてしまうと、彼との接点が、なくなってしまうような気がしたからだ。
批評を求めてくれる間は、彼と繋がっていられるかもしれない。彼の特別で、いられるかもしれない。
だからリリカは、あえて厳しい意見を口にした。少しでも長く、彼と関わり続けるために。
「まじかぁ。リリカは、手厳しいな……。でも、前より楽しんでくれたなら、それでもいいか!」
○○は、少しだけ困った顔をしたが、すぐに笑顔になると、リリカの言葉を受け止めてくれた。
いち少女の個人的な意見にも、真摯に向き合ってくれる。そんな彼の姿勢を、リリカは好ましく思っていた。
「よかったら、どこが悪いとか、教えてくれないか? 次までには、改善しておくからさ」
「ん? ……んんー」
彼は、期待を込めた眼差しを向けてくる。そう言われても、思い当たる改善点はない。
○○の演奏は、とても心地よく耳に響いてきていたし、彼の音楽に対する情熱が、存分に伝わっていた。だから、悪いところなんてない。
リリカは、そう言いたかったが、それを口に出すことはできない。褒め称えることは、先ほどの言動と、矛盾してしまうから。
「……あー、なんか、寂しい感じなのよ。そう、音の厚みが、足りてないというか……」
「はあ、なるほどね……」
リリカは苦し紛れに、思いついたことを口にした。
その意見を受けた○○は、顎に手を当てて、考える仕草を見せる。それから、しばらくすると、リリカに向かって、口を開いた。
「……でも、どうにもならないなぁ。ギターと声だけじゃあ、限界があるし」
「そ、そうよね。変な指摘しちゃったかしら」
「ああいや、そんなことはないよ。俺の曲って、元々は打ち込みで作ったやつだからさ。それを編曲なしに、生で演奏してるから、どうしても不自然になるんだよな。だから、リリカが言ってることも、正しいと思うよ」
リリカは、自分の言ったことが、否定されなかったことに安堵しつつ、同時に、彼の言葉の意味が理解できずに、首を傾げた。
「打ち込みって?」
「えっと、機械の音で、曲を作ってるんだ。パソコンと音源があれば、できるんだけど。でも、ここにあるはずないしなぁ……」
リリカは、彼が何を言っているのか、分からなかった。だが、彼もまた、同じように困惑していることは分かった。
○○は、リリカの疑問に答えようと、説明を続けようとする。
「ううん、つまり……って、そうだ! リリカは、シンセを持ってるじゃないか! それがあれば、いけるかもしれないぞ!」
途中、彼は良い考えを思い付いたように、表情を明るくして、顔を上げた。リリカは、彼の勢いに押されながらも、なんとか声を出す。
「た、確かに、私が使うのは、そうだけど……。でも、人間には、扱えないものだから」
「……人間にはって、えっ? もしかしてリリカは、人間じゃないのか?」
「あっ……。そ、そうなの。隠してるつもりは、なかったんだけど……。あの、ごめんなさい……」
リリカは俯くと、申し訳なさそうに、体を小さくした。本当に言い出す機会がなかっただけで、そこに悪意はない。
今のリリカの姿は、服装からして人間にしか見えず、思考や仕草も、人間のそれと変わらない。だから○○は、勘違いしてしまったのだろう。
「ああっ、謝らなくてもいいから! この世界には、妖怪が居るのが、当たり前なんだろ? 俺、差別とか嫌いだからさ。全然気にしないって!」
○○は、慌てた様子で言う。リリカが人間ではないという事実に、驚いたものの、嫌悪感などは一切抱いていないようだった。むしろ、リリカのことを心配するように、眉根を寄せている。
そんな彼の様子を見ると、リリカは嬉しく思うと同時に、申し訳なく思ってしまう。
自分のせいで、彼に気を遣わせてしまったのだ。早く何か言わなければと、焦りを覚えてしまう。しかし、唇が震えるばかりで、声を出すこともできない。
そんななか、○○は急に真剣な面持ちになった。前屈みになり、リリカに目線を合わせて、口を開く。
「……なあ、リリカ。もしよかったら、俺とバンドを組んでくれないか?」
「……え?」
○○の突然の提案に、リリカは思わず固まってしまう。そんな彼女の様子を気にすることなく、彼はさらに話を続けた。
「今の俺の音楽に、リリカの音楽が加われば、もっと良いものになるはずだ。大勢の人たちを、楽しませることが、できるかもしれない。それにリリカも、満足のいく曲を聞ける。だから、どうかな?」
○○は、熱っぽく語りながら、両手を力強く握っている。
彼の熱意が、リリカの心に響いてくる。彼の音楽は、人を惹きつける力を持っていて、その力が今、リリカに向けられていた。
○○に求められている。必要としてくれている。それはリリカにとって、何よりも嬉しいことだった。感じれば感じるほどに、胸は高鳴り、頬は紅潮していく。
やがてリリカは、意を決したように、ゆっくりと口を開いた。
「……うん。私で良ければ、喜んで」
リリカは、○○の目を見つめながら、微笑んだ。
現在、プリズムリバー楽団は、活動休止中であり、リリカが彼と共に活動することには、なんの支障もない。リリカ自身、好意を抱いている彼の誘いを、断る理由もなかった。
「そ、そうか、そうかっ! ありがとう、リリカ! よぅし! これで、演奏の幅が広がるぞー! 今より良い音楽を、みんなに届けることができるぞー!」
返事を聞いた○○は、上機嫌に叫ぶ。道行く人々も、彼の声に釣られて、そちらに視線を向けた。だが、彼は周囲のことなど、お構いなしといった様子だ。
そんな○○を見て、リリカは苦笑いするしかなかった。そして、はっきりと実感してしまう。○○と一緒に演奏できるという喜びが、自分の心を満たしていることを。
それからリリカは、○○と日が暮れるまで語り合い、これからの方針を定めていった。○○は、しばらく譜面作りに、時間を使うということになり、彼と後日改めて会う約束をして、名残惜しみながら別れた。
廃洋館に帰ってきたリリカは、自室に入るなり、部屋の照明を灯して、ベッドの上に腰掛ける。彼と別れたというのに、全身に広がる高揚感が、おさまらない。ふわふわと宙に浮いて、地に足がつかないような感覚だった。
ふと、壁際に置いてある姿見に、目を向けてみると、そこには、ニヤけ顔の少女が映っていた。
「あわわっ!」
リリカは、慌てて表情を引き締めようとするが、上手くいかない。ますます口角が上がり、目が細まっていく。
そして、どこか既視感を覚える光景だと思い至った瞬間、リリカは唐突に、理解してしまった。
「……姉さんたちと、同じだわ」
今のリリカの表情は、恋煩いをしている時の姉たちと、同じなのだ。
浮かれていて、緩みきっていて、締まりのない顔。それでも、とても幸せそうに見える表情。
リリカは恥ずかしくなって、鏡から顔を背けた。だが、どうしても気になって仕方がない。恐る恐る、もう一度だけ、ちらりと横目で、確認してみる。
やはり、そこに映るのは、先ほどと変わらない、幸せそうな少女だった。
「……そっか。そうなんだ。これが、恋なんだ。自分でも、どうしようもなくなるような、この気持ちが、恋……。男の人を、好きになる、なってしまう、これが、恋。私は○○を好きになって、○○に恋をしたんだわ……」
リリカは、ぽつりと呟く。初めて経験した感情を噛みしめるように、何度も何度も繰り返す。すると不思議なことに、心のざわめきは、次第に落ち着いていった。
ひとたび認めてしまえば、なんてことはない。今まで悩んでいたことが、馬鹿らしく思えてくる。姉の背中を見てきたからこそ、リリカにはよく分かった。
「なるほどなぁ。これは姉さんたちも、夢中になっちゃうわけね」
リリカは大きく息を吐き、ベッドに身を沈めていく。天井を眺めながら、ぼんやりと○○のことを、思い浮かべた。
「○○……」
彼が好きだ。一緒に居たい。彼の音楽が好き。彼の優しいところが好き。彼の全てが、好きでたまらない。彼に求められたい。彼のために尽くしたい。彼の笑顔が、頭から離れない。ずっと見ていたくなる。彼の音を、聞きたくなってしまう。彼の声を、聞きたくなってしまう。
「……うん?」
しばらく妄想していたリリカだったが、不意に下腹部への違和感をおぼえて、声を漏らした。その正体を確かめるべく、彼女は、ゆっくりと股の方に、手を伸ばした。
「えっ、なに?」
下着越しに触れてみれば、そこは湿りを帯びていた。
漏らしたおぼえはないのに、どうしてだろう。そう不思議に思いながらも、リリカは下着の中へと手を入れた。
「んん〜?」
ぬるっとした感触と共に、指先に何かが触れる。それが何なのか確かめようと、リリカはさらに奥へ指を進めた。やがて、小さな突起物に、辿り着く。
「あうっ……!」
それに指が触れると、リリカは悲鳴に似た声をあげて、身体を震わせた。固く、熱を帯びたそれに触れた途端、痺れるような感覚が、全身を駆け巡っていったのだ。
リリカは、慌てた様子で手を引き抜き、荒くなった呼吸を整える。しかし彼女の身体は、火照ったままで、落ち着かない。
「はあ……。なんだか、あついわ……」
リリカは困惑しながらも、下着を濡らしたものの正体を確かめるべく、そこに触れた手を、目の前にかざす。
「……なに、これ」
指先には、粘ついた透明な液体が、付着していた。ぬるぬると糸を引いており、さらに照明を受けて、光り輝いている。
恐る恐る鼻に近づけてみると、独特の匂いが漂ってきた。汚いというより、むしろ尊いもののように思えるのが、妙である。
こんなものは知らない。いったい、自分の身に、何が起きているのか。リリカは、ただ呆然とするしかなかった。
こういう時に頼りになる姉たちには、今は相談しにいけない。
長女のルナサは、定期公演を終えた後、あの男の人と共に、部屋に閉じこもったままだ。次女のメルランも、あれ以来、姿を見ていない。
「うーん」
とりあえず、病気でもなさそうなので、不安な感情は消えていった。しかし、なぜ急に、このような現象が起きたのかという疑問は残る。
「……ああ」
そこでリリカは、ふと気付いた。○○のことを考えたから、このようになってしまったのではないかと。
試しに、もう一度だけ、頭に思い浮かべてみると、また先程の状態に戻ってしまった。下腹部の奥が疼き、熱を持った何かが、湧き上がってくる。
リリカは、再び下着の中に手を入れ、先ほどと同じように、指先で突起物に触れた。今度は少し力を入れて、ぎゅっと摘んでみる。
「ぎっ……ぃ……!」
すると、今まで感じたことのない強烈な快感が、リリカを襲った。頭の中で何かが弾けて、視界がしきりに点滅する。腰が細かく痙攣してしまい、背を弓なりに反らせた。
「ぐっ、うううぅ……!」
リリカは、必死に歯を食い縛り、声を抑えようとする。だが、どうしても漏れてしまう。それでも、彼女は構わず続けた。
もう止まらない。止められない。○○のことを考える度に、この症状は悪化していくばかり。いや、悪いものでは、断じてないのだが、そんなことはどうだっていい。今は、この尊い感覚に、浸っていたかった。
「——はあ! はあっ! はあぁ……!」
どのくらい時間が経っただろうか。
リリカは息を切らして、天井を見上げていた。身体中汗まみれで、服が肌に張り付いており、身を預けているベッドも、よくわからない体液で汚れてしまっていた。
扉や窓が閉め切られた部屋には、湿った空気が充満していて、少し蒸し暑い。しかし、不快ではなかった。むしろ、心地良いとさえ感じる。
着替えや湯浴みをしないといけないのは、分かっているものの、動く気にはなれなかった。まだ全身に、甘い余韻が残っているからだ。
「……はあ」
○○を想っての行為は、とても気持ちが良いものだった。リリカは、心の底から、幸せを感じていた。こんなにも満たされたのは、騒霊として生まれてから、初めてかもしれない。そう思うほどに。
しかし、それは完全ではなく、心を満たしていたものは、時間の経過と共に、少しずつ漏れ出していく。
そして、最後には、ぽっかりと穴が空いてしまったように、虚しさが残った。
「……○○、○○、○○、○——」
リリカは、○○の名を、何度も呟いた。自分では、一人では、埋められなかった空白を、満たすために。彼を求めて、名前を紡いだ。
「……好き。○○、好き……。好きぃ……!」
溢れ出る何かを堰き止めるには、心の穴を埋めるには、○○が必要なのだ。○○だけが、リリカの存在を、肯定してくれる。○○がいなければ、自分は薄れてしまう。確信を抱けるほどの想いが、そこにはあった。
しかし、好きだけでは、物足りなく感じ始めていた。もっと欲しい。もっともっと強くて、深い繋がりが欲しい。リリカの心は、その先を求めていた。
「恋……? これは、本当に恋なの? 人を好きになるのが、恋なんだよね? でも、私の想いは、恋よりも、もっと深くて、重くて、それ以上の何か。でも、私が、○○を好きなのは、本当で。じゃあ、やっぱり恋なのかな……。ううぅ……。わ、わからない。リリカには、わからないよぅ……。助けて、○○……。○○、○○……! リリカは、あなたが好き、大好きなのぉ……! 大好き、大好きぃ! 大好き○○っ! ○○っ……! 大好きだからぁっ!」
○○を求めるリリカの声は、次第に大きくなっていく。それでも、誰もそれに気付かない。
かつて共にいた姉たちも、それぞれが何かの虜となっており、リリカを見ていない。
リリカの、際限なく膨らむ何かを、止められる者はいない。そして、それを受け入れられるのは、ただ一人しかいないのだろう。