それからというもの、リリカは○○への異常な恋心を自覚したはいいが、その想いを口にすることは、できなかった。
なぜなら、いざ告白しようとして、彼の前に立つと、全身が震えるほど緊張してしまい、上手く喋れなくなるからだ。
一人でいる時は、声を大にして言葉にできるのに、彼に伝えようとすると、どうしても口ごもってしまう。
以前、そんな状態になっていたルナサを、からかったことがある。音色で伝えるのではなくて、直接言えばいいのにと、そう思っていた。
普段のルナサは、冷静沈着で、表情の変化が少ない。良く言えば、真面目な性格。悪く言うと、暗い性格だ。
そんな彼女が、顔を赤くして慌てる様子は、リリカにとって愉快なものだった。
しかし今なら、姉の気持ちが、よく分かる。好きな人に告白するというのは、想像以上に大変なことなのだと。ましてや、相手は人間であり、自分たちと、異なる種族だ。
○○とは、あれから何度も会っているが、未だに慣れない。会話をするだけで、精一杯だ。
前にメルランが、恋人の男とくっついているのを見たことがあるが、あんな風に振る舞える自信はない。今でも手を握るだけで、動悸が激しくなり、まともに顔を見ることすら、できなくなる。
こんな状態では、○○に自分の気持ちを伝えることなど、到底無理だった。
だが、このままではいけないことも、理解している。自分のことを見てほしい。○○の一番になりたい。○○に愛されたい。それが、リリカの望みだった。
唯一、○○と合奏している間だけは、素直になれる。ギターを奏でる彼の背中に向けて、好きだよ、と囁くことができた。
もちろん、そんなことで満足できるはずもなく、○○と別れた後は、自宅に戻ってからも、悶々としてしまう。
そして、満たされない心を慰めるように、リリカは○○を想って、自慰に耽る。
誰から教えられたわけでもないが、リリカは理解していた。体を触って、弄って、気持ち良くなれば、いくらかは心が落ち着くということを。
しかし、行為が終わった時には、決まって虚しさが残る。それから、○○への想いは、募っていく一方だ。
恋とは、一種の病気だと、リリカは思う。
罹ってしまったら最後、治ることなどあり得ない。たとえ想いが成就しても、さらに昇華して、重く、暗い、湿った感情になるだけだ。
そして、想いが挫折してしまえば——もう、どうしようもない。
リリカは、自分がそうなってしまうことが怖くて、恐ろしくて、たまらなかった。
気持ち良く、幸せだとしても、裏を返せば、それだけ苦しいということ。
二人の姉は、よくこんな気持ちに、耐えられるものだ。どうすれば想い人に振り向いてもらえるか、相談したいところだったが、それもできない。
友人もいないリリカにとって、この苦しみを打ち明けることができるのは、姉妹であり、同じ騒霊である二人だけだった。
しかし彼女たちは、それぞれの恋人に首ったけ。リリカの話を聞く余裕は、ないだろう。
だから、リリカの、○○への好意は、歪な形で発露される。
ある日の昼下がり。リリカは、いつものように、人里に向かって飛んでいた。
今日は○○が、新曲の譜面を見せてくれる予定で、その期待感が胸に渦巻いている。なので、普段より体が軽く感じられ、空を進む速度も、心なしか速い。
頬が緩みそうになるのを抑えながら、彼女は目的地へと急いだ。
○○とは、友達以上恋人未満の関係が続いており、リリカは彼に好意を抱いているものの、なかなか進展がない。彼には、あくまでバンドを組む上での相棒、といった感じで、恋愛対象として見られていないようなのだ。
○○に恋人がいないことは、日常会話の中で、さりげなく確認していた。しかし、観客の女性たちの中には、明らかに彼を意識している者がいる。
路上ライブが終わったあと、○○と談笑する彼女らを見て、嫉妬に駆られたりもした。
この嫉妬という感情。これが厄介なのだと、リリカは思う。とりわけ恋愛において、それは顕著に現れる。
純粋に○○の恋人になりたいと願いながらも、彼が他の女性と仲良くしているのを見ると、醜い感情を抱いてしまうのだ。
自分だけを見てほしい。自分だけに優しくしてほしい。自分だけのものになってほしい。そんな独占欲が湧き上がり、どうにかして彼を振り向かせようと、躍起になってしまう。
しかし、手立てといえば、リリカには音楽しか思いつかない。異性を魅了する手段など、他に知らないのだ。
奇しくも、姉のルナサと同じ悩みを、抱えることになってしまった。
幸いなことに、○○は音楽好きで、リリカの能力を評価してくれていた。そして彼の作る曲を、最大限に活かせるのは、あらゆる音色を奏でられるリリカしかいないのだ。
その点に気付いてからは、ある程度自信を持つことができた。他の女よりも、自分は○○に近い存在なのだと。唯一無二の立ち位置にいると。
そう自分に言い聞かせることで、いくらかは嫉妬や不安が軽減され、○○と過ごす時間を楽しむことができるようになった。
とはいえ、○○を独占したいという気持ちは変わらない。いつか彼と結ばれることを、願ってやまなかった。
「早すぎちゃったかな……?」
人里での待ち合わせ場所に降り立ったリリカは、周囲をまんべんなく見回した。しかし○○の姿は、まだない。
ここは、○○と初めて出会った場所で、リリカにとっても、特別な思い入れのある所だった。
リリカは、近くを流れる川のほとりに腰掛けて、○○を待つことにした。
水面に映る自分の姿を眺めると、薄い色調の茶髪が目に入る。前髪をいじったり、指先で摘んでみたりした。
最近、艶が出てきたと感じるのは、気のせいだろうか。肌も以前より、ずっと綺麗になったような。
最近見た姉たちの顔が、ふと脳裏をよぎる。二人は、恋をしたことによって、より美しく、輝いて見えた。
つまり、○○のおかげで、自分も変われたということだろう。ならば、もっと可愛く、美しく、綺麗になりたい。○○が見惚れてしまうくらいの、魅力的な女の子に。
「——んん?」
約束の時刻を過ぎても、一向に現れる気配のない○○に対して、リリカは疑念を抱いた。
彼は今まで、遅れるようなことは一度もなかったはずだ。もしかしたら、自分が日付を間違えたのだろうか。それとも、何か事故に遭ってしまったのか。
そわそわして落ち着かないリリカは、立ち上がって辺りを見まわしたり、深呼吸をしたりして、なんとか心を鎮めようとした。
そして、飛んで上空から探してみようかと考えたその時。遠くから、○○の声が聞こえてきた。
「おー! リリカ! こっちだっ!」
リリカは声の方向に視線を向けると、こちらに向かって走ってくる○○の姿を捉えた。
彼を見つけることができ、安堵の息を漏らすと同時に、ある違和感を覚える。
「いやぁ、待たせて悪かったな!」
「ううん、大丈夫よ。それより……」
「ああ、これなぁ」
リリカの前までやってきた○○は、自身の目にかかっていた前髪を横に流し、申し訳なさそうな表情を浮かべながら言った。それから、右手を顔の前にかざす。
彼の右手には、包帯が巻かれており、怪我をしているのだと見て取れた。
「どうしたの、いったい……」
「んー、俺の不注意というか。少し前、待ち合わせ場所に行こうとして、家を出たら、玄関前に封筒が落ちててな。俺の名前が書いてあったから、拾ったんだよ。それで、中を見ようと封を切ったら、手紙と一緒に、カミソリが入っててさ。思いっきり手を切ってしまったんだ。それから医者に診てもらって、傷口を縫ってもらっていたら、こんなに遅れちゃって……。ほんと、間抜けだよなぁ。あはは……」
○○は、笑い話のように語っていたが、リリカにとっては、とても笑えるような状況ではなかった。
右手は、彼の利き手である。演奏をする上でも、日常生活を送る上でも、欠かせない重要な部位なのだ。
そこを怪我したとなれば、日常生活に支障が出ることは必至で、演奏も難しくなるかもしれない。
○○とリリカを繋いでいるのは、音楽だ。だから、怪我が治るまで、○○と一緒にいられなくなる可能性も、十分に考えられる。
それに、封筒に彼の名前が書かれていたということは、差出人は間違いなく○○を狙っていたはずであり、その人物が再び行動して、どんな状況になるのか、想像がつかない。
次は、手の怪我だけでは、済まないかもしれないのだ。
「……その、封筒に入っていた手紙には、なんて?」
「ん? ……ああ、大したことは、書かれていなかったよ。だから、リリカは気にしなくていいって」
○○はそう言って、リリカを安心させるように、微笑んで見せた。だが、リリカの胸中は、穏やかではない。
「それより、ほら! 新曲の譜面だ! 今回は、発狂ピアノのパートを長くしたから、負担がかかって大変だと思うけど、リリカなら、やれるだろ?」
○○はそう言うと、手に持っていた楽譜を差し出した。それを受け取ったリリカだったが、目を通そうとしない。
「……どうした? いつもなら、はしゃぎながら、すぐに読むじゃないか」
リリカは俯いて、黙りこくっている。彼女の心の中では、様々な感情が入り乱れていた。
○○が心配でたまらない。早く怪我が治ってほしい。一緒にいられる時間が減ってしまう。○○の音を聞けなくなってしまう。
そして何よりも、この状況を作り出した元凶への、激しい怒りが湧き上がっていた。
そんなリリカの様子を見て、察するものがあったのか、○○は穏やかな口調で言う。
「そんな顔するなって。リリカは、笑顔でいる方が、可愛いんだからさ」
リリカは、その言葉を聞いて、思わず顔を上げた。○○の顔を見ると、彼は変わらず、優しい笑顔を浮かべている。
「今の顔じゃあ、楽しい演奏もできないぞ。ほら、笑って笑って!」
○○は、そう言いながら、リリカの頬を、指先でつっついた。リリカは、一瞬だけムッとした顔をしたが、すぐに表情を和らげる。
それから、ゆっくりと口角を上げて、目尻を下げた。○○が可愛いと言ってくれた、とびきりの笑顔を、見せるために。
「よーし、合格!」
○○は満足げに言った。
リリカは、彼の反応に嬉しく思う反面、少し照れ臭くも感じる。やっぱり、○○のことが好きだ。改めて、強く実感することができた。
だからこそ彼を、危険な目に遭わせるわけにはいかない。これ以上、彼に危害を加えさせるものか。誰だか知らないが、必ず見つけ出して、報いを受けさせてやる。
○○の、音楽家にとって大切な手を、安易に傷つけた罪は重い。絶対に、許されない。
リリカが決意を新たにしていると、○○が声をかけてきた。
「それと、しばらくは、ライブができないから、一旦活動休止ってことにしよう。二週間は安静にしてろって、医者に言われたからな。まあ、それまでお互い、自由に過ごすとするか」
「……わかったわ。でも、あんまり外を出歩かないでね。いつどこで狙われるか、わからないんだから……」
「心配性だなぁ、リリカは。ただの悪戯だって」
リリカは、○○の右手に巻かれた包帯を見つめながら言った。しかし、○○は軽く笑い飛ばすだけだ。
あまりにも楽観的な彼の態度に、リリカは苛立ちを覚える。自分は○○以上に、不安を感じているというのに。
活動休止は、致し方ないにしても、彼は危機感がなさ過ぎる。もっと真剣に、自身の安全を考えてほしいものだ。○○の体は、○○だけのものでは、ないのだから。
「とりあえず、今日はこれで帰るよ。なんか体調が悪くてさ。麻酔用の、変な匂いのお香を、嗅がされたせいかなぁ……」
○○は、左手で鼻を押さえて、わざとらしく嫌そうな顔をしてみせた。
「……うん。気をつけて、帰ってね。それから、ゆっくり休んで、早く治してね」
「ああ。二週間後の、いつもの時間に、またここに集合しよう。じゃあな!」
リリカは、それだけ言うと、○○の背中を見送った。
それから、楽譜を折りたたんでしまい込み、すぐに空へと飛び上がって、彼の後を追う。
「私が、守ってあげなくちゃ。○○を守れるのは、私しかいないんだから……」
あの様子だと○○は、自身に危険が迫っていることに、まるで警戒していないようだ。だから自分が、彼の周辺を、見張っていなければならない。
リリカはそう考え、空から○○の後を追ったのだが、彼を襲う者は、現れなかった。さすがに連続して、事件が起こることはないらしい。
彼が家に帰った後も、リリカは変わらず、空に止まっていた。だが、特に不審なものはなく、静かな時間が、過ぎていくだけだった。
「——おい、そんなとこで、じっとして、何やってんだ?」
不意に背後から声をかけられ、リリカは驚いて振りかえる。そこには、ホウキに跨って、宙に浮かんでいる少女がいた。
少女は、帽子から靴に至るまで、白黒のモノトーンで構成された服装をしており、その特徴的な格好は、魔法使いを連想させた。
それに映えるような金色の髪をなびかせて、少女はリリカの側までやってくる。
「……誰?」
「はあ? 魔理沙だよ、霧雨魔理沙! 春雪異変と、大結界異変の二回も、私と出会っているだろ!」
魔理沙と名乗った少女は、金色の大きな瞳を細めて、睨むような視線を向けた。リリカは、その目つきの悪さに、一瞬たじろいでしまう。
「……ったく、どいつもこいつも、妙な態度とりやがってさ。いったい私を、何だと思ってんだ」
魔理沙は不満そうに呟いた。それから、リリカの方へ向き直ると、再び口を開く。
「で、何やってんだよ。待ち合わせか、なんかか? いつもお前と一緒にいる奴らは、いないのか?」
「……どうでもいいでしょ、そんなの。あんたには関係ないし。目障りだから、早く私の周りから消えて」
リリカは、そっけなく答え、冷たく突き放すように応じた。
「んだよっ、感じ悪いなぁ。人がせっかく話しかけてるっていうのに……」
リリカの反応に、魔理沙はますます不機嫌になる。
しかし、リリカは意に介さず、それ以降も沈黙を続けた。今は、こんな女と話している場合ではないのだ。○○を守るためには、一瞬たりとも油断できない。
リリカの頭の中には、○○のことしかなかった。それゆえに、彼女の耳には、もう何も聞こえてはいない。隣にいる女のことなど、眼中になかった。
「……わーったよ! 消えりゃあいんだろっ!?」
やがて魔理沙は、そう吐き捨てるように言うと、勢いよく飛び去っていった。
リリカは、風によって乱れた髪を整えながらも、○○の家をじっと見つめていた。
陽が沈み、幻想郷に夜が訪れても、リリカはその場に留まり続けた。
時折、地上に降り立ち、壁越しに家の中の様子を確認していたが、特に変わった様子はない。
彼の家は、小ぢんまりとした木造の長屋で、寄って見ると、所々から隙間が見え隠れしている。壁も薄く、あまり良い環境ではないようだ。
「あ〜、不便だ。恋人の右手ちゃんが、この有り様じゃなぁ……」
そんなことをぼやく○○の声が、外からでも、はっきりと聞こえるくらいだった。しかし、右手が恋人とは、どういった意味なのだろうか。
そんな疑問が浮かんだりもしたが、リリカは○○の安否が確認できただけで満足し、彼の家に背を向けると、また空高く舞い上がっていく。
そのまま夜通しで見張り続け、陽が昇り始めた頃、異変は起こった。
「あれは……」
○○の家に近づく人影を認め、リリカは急降下して、地面に降り立つ。それから、物陰に身を隠すようにして、こっそりとその人物を覗き見た。
それは、背の低い小太りの、人間の男であった。
男は、○○の家に近づいて行くと、懐から何かを取り出して、玄関の前に置いた。そして、用は済んだとばかりに、足早に立ち去って行った。
リリカは、その姿を目で追いつつ、男が置いたものを確認しに、その場へ向かう。
「これ、○○の言ってた……」
そこあったのは、手のひらほどの封筒だった。風で飛ばないよう、ご丁寧に重りを添えてある。封筒を手に取って見ると、表面には○○の名前が記されていた。
○○の怪我のこともあるので、慎重に封を開け、中身を確認する。中には、手紙が一枚だけ入っていた。
その内容は、こうである。
『昨日、警告してやったのに、またリリカと会っていたな。それに、汚い手で、リリカに触りやがって。ずっと見ていたんだぞ。リリカは、僕のものだ。お前みたいな奴が、リリカに近寄ろうとするんじゃない。次、会ったりしたら、手の怪我だけじゃ、すまさないからな。これは、最終通告だ。足りない頭でも、この意味を理解しろ』
リリカは、その文章を読んで、怒りに打ち震えた。下手人は、○○を狙っていたのではなく、自分を狙っていた過程で、○○を巻き込んだのだと、悟ったからだ。
自分に付き纏っていた人間がいるとは、露ほどにも思っていなかったリリカにとって、まさに寝耳に水の出来事。
自分が早く気付いていれば、こんなことには、ならなかったかもしれない。そう思うと、悔しくてならなかった。
「ゆ、許さない……!」
同時にリリカは、下手人に対する、激しい憎悪を覚えた。そして、その感情のままに、行動を開始する。
手紙を破り捨てると、空に飛び上がって、男の去っていった方角を見据える。男は、まだ付近を歩いており、見失う心配はなかった。
リリカは、男の背中めがけて、一直線に飛んでいき、上半身に体当たりをする。
「おぅふっ!」
男は、前のめりに倒れ込むと、顔を地面に打ち付けた。リリカは、倒れた男の足を掴んで、再び空へ飛び上がる。
「あふぁ……!」
唐突に身体を持ち上げられた男は、情けない声を上げた。しかしリリカは、そんなことは気にせず、男を逆さにしたまま、人里から離れた場所まで運んでいった。
やがて、霧の湖に辿り着く。人里以外なら、どこでもよかったのだが、意図せず来てしまった。
リリカは、湖の畔に着地すると、そこでようやく男を解放する。
「おっべぇ……!」
投げ捨てられた男は、顔面を押さえながら、地面の上を転げ回った。
リリカは、それを冷めた眼差しで眺めていたが、やがて男に歩み寄り、胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「……あ、あ、あっ、リ、リリカ……。リリカたんだぁ!」
「うぇ!?」
男は、恐怖した表情を浮かべたが、見る見るうちに、下品な笑みへと変わっていった。それから、低く濁った気色の悪い声で、そう呟くと、リリカの頬に手を伸ばそうとしてくる。
その動作を見たリリカは、慌てて掴んでいた手を離した。
「こ、こんなに近くで見たのは、初めてだよぉ……。やっぱり可愛いですなぁ、リリカたんは……。 はあ、はあっ……」
リリカは後退りしながら、汚物を見るような目で、男を見た。実際、気持ち悪いのだから、仕方がない。
鼻息を荒くし始めた男は、状況を確かめるように、辺りを見回し始める。それから、リリカの顔に視線を移すと、目を輝かせた。
「ひ、人気のない場所まで、僕を連れてきたってことは、ぼ、僕の想いを、知ってくれたんだよね? 僕だけのものに、なってくれるんだよねっ?」
嬉しそうにしている男に対して、リリカは嫌悪感でいっぱいになっていた
この男は、何か勘違いをしている。あの手紙の文言からして、自分に好意を向けているのは、間違いない。しかし自分は、男のことを、何一つ知らないのだ。
それなのに、どうして男のものに、なれるというのか。そもそも、○○以外の男など、全く興味がないわけで。
「ふひひひっ……。幻想郷に来てから、ずっとリリカたん推しをしていた甲斐があったよ……。僕の方が、早くに追っかけしていたのに、あの忌々しい男と、バンドを組んじゃうなんて……。でも、ようやく、僕たちは、両想いに、なれたんだねぇ……。さあ、リリカたん、僕の胸に、飛び込んでおいでぇ……!」
男は、気味悪く笑いながら、一歩ずつ近づいてくる。一面油まみれで、ニキビがある顔を歪ませている姿は、ガマガエルを連想させた。
丁度、霧の湖にも生息しており、よく妖精たちが捕まえて遊んでいるが、その見た目は、目の前の男ほど醜悪ではない。
そんななか、リリカは、あることに気付いた。この男は今、幻想郷に来てから、と言った。つまり、男は外来人だということだ。
本来、幻想郷において、人ならざる者が、人里の人間に危害を加えるのは、御法度だ。見つかれば、退治屋に追われてしまう。
しかし例外はあり、それは人間が、外来人の場合である。外来人であれば、手を出しても、よほど目立たない限り、咎められることは、まずない。
リリカは最初、男をある程度痛めつけたら、解放するつもりだったが、その考えを改めた。
○○に怪我を負わせた男に、生きる価値はない。もう、この場で始末してしまっても、問題はないだろう。
「そんなに私が好きなら、私の音も、受け入れてもらうわ——」
リリカは、おもむろにキーボードの霊を具現させて、鍵盤を叩き始める。
濃厚な霧に覆われた湖に、リリカの幻想の音が響き渡った。静寂を切り裂き、荒波を立てるように。
「ふおおっ!? リリカたんのソロライブ! 僕だけのために、演奏してくれるなんて……!」
男は、歓喜の声を上げ、身体を震わせる。リリカの音を、全身で感じ取っているようだった。
その様子を見て、リリカはさらに激しく、鍵盤を打ち鳴らす。リリカの感情の高まりに合わせて、幻想の音も激しさを増していく。もはや躁も鬱も超える、狂想曲と化していた。
リリカが奏でる音色は、彼女の姉たちと比べたら、何の特徴もないものだ。外の世界で忘れ去られた幻想の音とはいえ、幻想郷では珍しくもなくなる、無個性な音。
しかし、それゆえに、あらゆる音に合わせることができる万能性を持つ。
色に例えれば無色、あるいは白色で、リリカのさじ加減ひとつで、どんな色にも染められる。
そして今、リリカが音色に込めているのは、男への明確な殺意。その色は、漆黒だった。
「……うっ? ごっ、おっ……!」
男の身体が震えていたのは、感動からではない。殺意の波紋に触れたからだ。
男は、身体の内側から湧き上がる不快感に、苛まれていた。それは全身に、くまなく浸透していき、やがて男は耐え切れずに、膝をつく。
息ができないのか、首元を押さえて、口をパクパクと開閉させており、顔色は見る見るうちに青ざめていった。
「がっ……! こ、こっ……!」
やがて男は、酸素を求めて、首を掻きむしり始めた。ガリガリと皮膚を引っ掻いて、血を流しながらも、男は苦しみから逃れようと必死になる。
人間は痛みを受けた際、痛覚を緩和させるために、脳内麻薬を分泌するのだが、それが今は、逆に作用していた。
男は、自分が苦しんでいる理由がわからず、ただひたすらに、苦痛から逃れるための行動を、取り続ける。爪が剥がれるような勢いで掻きむしり、やがてその先端が、首の太い血管に届いた。
プチュッと音をたてて、大量の血液が流れ出す。しかしそれでも、男は止まらない。喉元に指先を突き刺したまま、激しく痙攣し始めた。
「……ごっ」
そして男は、完全に動かなくなった。
口からは、血反吐と泡を吐き出しており、瞳孔が完全に開いている。股間からは、糞尿が漏れ出し、粥の如き液体が滴っていた。
リリカは、男が死んだことを確認すると、鍵盤を叩く手を止めて、ため息をついた。それから、キーボードの霊を、消滅させる。
霧の湖に、再び静寂が訪れ、自然の声だけが響いていた。
「汚ったないなぁ」
鼻をつく異臭と、見るも無惨になった男の姿に、リリカは顔をしかめた。
これ以上、ここにいる意味もないので、リリカは男の死体をそのままにして、空に浮かびあがり、廃洋館へと向かう。
「これで一安心、かな。でも、あんな気持ち悪い人間が、私のファンだったとはね……。私を見てくれるのは、○○だけでいいのになぁ。はあ、気分悪い……」
リリカは、溜息混じりに呟くと、飛行速度を上げる。
「……そうだ。私のファンが、あの人間だけじゃなかったら、また○○が、危ない目にあうかも……。それに、○○にもファンがいるから、そいつらが暴走して、○○を傷つけるかもしれない……」
ふと、リリカの中で、そんな不安が生まれた。可能性としては低くとも、ありえなくはない話だ。
そして、それはいつだって、起こりうる可能性がある。例えば、こうしている今も、何者かが○○に、危害を加えているのかもしれなくて。
「——○○!」
リリカは急停止し、進行方向を、人里の方角に切り替え、凄まじい勢いで飛び去った。
幻想郷最速をうたう、鴉天狗のブン屋をも凌ぐ速度で、あっという間に人里へ辿り着き、○○の家の前に降り立つ。
「くっ、開かない……! ○○! 大丈夫なの!? ○○っ! ○○……!?」
家の中に入ろうとするも、玄関の戸は鍵がかかっているのか、ビクともしない。焦燥感に駆られたリリカは、人目も気にせず、大声で○○の名前を呼んだ。
すると家内から、慌ただしい足音が聞こえてきた。僅かに戸が揺れたあと、勢いよく引き戸が開かれる。
「リ、リリカじゃないか……。こんな朝っぱらから……。それに、どうして俺の家を……」
困惑した表情を浮かべた○○が、リリカを見て、目を丸くさせた。
リリカは、そんな彼の様子を確認し、胸を撫で下ろす。どうやら、危惧していたような事態には、陥っていないようだ。
「よかったぁ! 何ともないのね……!?」
「……ん? ああ、心配して、来てくれたのか。でも、昨日の今日だから、そんなに慌てなくても……」
「駄目よっ! いつ、誰が、どんな理由で、○○を傷付けるかわからないんだものっ! ○○の側には、私がついてないとっ!」
「お、おい、声が大きいって……」
興奮気味に捲し立てるリリカに対し、○○は慌てて唇に人差し指を当てる仕草を見せた。
しかし、リリカの耳に、彼の言葉は届いていない。おもむろに○○へと近づき、その身体を抱き締めると、頬擦りを始めた。
「だって、○○の身体は、私のものでもあるのよ? ○○が傷つくと、私も痛くて、苦しくなるの。……わかる? ○○なら、わかるよね?」
「ちょ、いいから離れて……!」
○○は、抵抗を試みるも、リリカを突き放すことができない。小柄な少女の身体を、どう押し退ければいいのか、わからないのだろう。
「……あっ、○○の胸、ドキドキって、音を鳴らしてる。私、知ってるよ? これは恋の音。好きな人ができた時に鳴る、素敵な音色……。ねえ、○○は、私に恋をしてるんでしょ? 私が側にいるから、ドキドキしてるんだよね?」
リリカは背伸びをして、○○の胸に耳を当てながら、甘えるように囁いた。○○の心臓の鼓動が、早くなっているのが、存分に感じられる。
「そ、そんなことは……」
「ふふっ、恥ずかしがらなくてもいいよ。私も、同じ気持ちなんだから。○○のことを考えると、心と体が温かくなって、幸せな気持ちになるの。でも、私のドキドキの方が、○○よりずっと大きいんだよ?」
リリカは、○○から離れた後、彼の左手を取って、自身へ引き寄せた。そのまま、自分の左胸に押し当てさせる。
「んっ、○○が、私に触ってくれてるぅ……。こ、これぇ、すごいよおぉ……! 胸がっ、爆発しちゃう……!」
リリカは、艶めかしい吐息を漏らしながら、体を震わせた。自分自身の、異常な胸の高鳴りを実感しつつ、○○の手を握る力を強める。
○○に触れられると、自分で慰めている時よりも、遥かに強い快感を覚えるのだ。そして、頭の中に霞がかかったようになり、何も考えられなくなる。血流が加速して、意識すらも薄れていく。
それなのに、下腹部の奥底からは、熱い疼きが込み上げてくる。リリカはもう、立っていられなくなりそうだった。
それでも、○○の手を離さない。もっと、この幸せを、感じていたかったから。
「○、○○、好きぃ……。私、○○が好きなのぉ……。今まで、言い出せなかったけどぉ、私、○○のこと、大好きなのぉ……。○○のことが、頭から離れないの……。○○が、他の誰かに取られるなんて、耐えられないの。ぜったい、誰にも渡さない。私の○○、私だけの、○○なんだよ……?」
リリカの口からは、自然と○○への想いが溢れ出していた。あれほど告白するのに、とまどっていたのが、今では嘘のように感じられる。
そして以前は、手に触れるだけで精一杯だったのが、抱きしめて密着できるようにまでなっていた。
だが、リリカ自身、ここまで大胆な行動に出たことに、まったく驚いていなかった。むしろ、もっと○○に触れたい、○○に触れられたいという欲求が、沸き上がってくるのを感じる。
もはや恋する乙女と言うより、獲物を狩らんとする肉食獣のような目つきで、リリカは○○を見つめていた。
「おお、なんだなんだっ! 朝っぱらから、見せつけてくれるじゃないか!」
「あんな小さな女の子の胸を揉んで……。あの人は、ロリコンなのかしら?」
「おいおい……。せめて家の中で、イチャつけよなぁ」
「あ、いや、これは……。お、おい、リリカ……! 人に見られてるから、そろそろ離してくれっ……!」
気づけば、二人の付近には、何人かの野次馬が集まっていた。リリカが、大声で○○の名前を叫んでいたので、近所の住民が、様子を見に来たのだろう。
それでもリリカは、周囲の視線など、お構いなしといった様子だ。自分の胸に擦り付けるよう、○○の左手を動かし続けている。
「ふぅー! ちっぱいだからって、容赦しないねぇ! 揉みごごちは、いかがでしょうかぁ!?」
「……あの人、よく川の近くで、歌ってる人じゃない?」
「そうそう、○○とか言ったかな。それに、あの女の子も、どこかで見たような……」
「……うるさいなぁ」
しかし、いい加減煩わしくなってきたのか、リリカは舌打ちをしながら周囲を睨むと、○○の体を抱きしめて、空高く舞い上がった。
「う、うわっ……!」
唐突な浮遊感に襲われ、○○が声を上げる。それを気にせず、リリカは飛び続ける。
目的地は、もちろん廃洋館だ。あそこなら、誰にも邪魔されずに二人きりになれる。それに、他の人間がやって来ることもないので、○○の身の安全も、確保できるはずだ。
そう、姉たちがしたように、恋人のことを、独占すればいい。自分の部屋に閉じ込めて、誰の目にも触れさせなければいい。ずっとくっついていれば、お互い幸せになれる。
やはり、姉は頼りになる。先駆者として、模範を示してくれたのだから。これで○○は、自分だけのものになったも同然である。
早く帰りたい。二人だけの、幸せな世界へ。○○と二人っきりになって、永遠に幸せな時間を過ごしたい。
好意の先を行く感情に支配されたリリカは、一心不乱に飛び続けた。
「ああっ、気分がいいわ……。好きが溢れて、止められない……。でも、好きじゃ、足りないの……。私の、○○への想いは、好き以上の、何かなの……。○○なら、この気持ちを、知っているよね? 私に、教えてくれるよね? 私の身体に疼く、あったかくて、切なくて、気持ちのいい熱の正体を、教えてくれるよね!? ふふっ、楽しみだなぁ……! 一人で触るだけで、あんなに気持ちいいのに、○○と一緒にしたら、どうなるんだろう!? きっと、もっともっと、気持ちよくなれるよね……!? ふ、ふふ、くふっ、くふふふふっ……!」
リリカは、○○を抱き締める力を強めながら、心の底からの笑みを浮かべる。
それは、いつか見た幸せそうな少女ではなく、狂気に満ちた雌の顔であった。
霧の湖から、少し離れた場所にある、廃洋館。
そこには、騒霊のプリズムリバー三姉妹が住み着いており、今日も今日とて、騒がしい音を鳴らしている。
三姉妹の音は、それぞれ特徴的なものの、一つだけ共通して、言えることがあった。
それは、狂愛を彷彿させる、歪んだ音色だということ。何者にも理解できない、常軌を逸した音楽だということ。
もし、耳にしてしまえば、あなたも、きっと——