東方キャラを病ませたい   作:ぬいカス

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妖夢前編

 

「幽々子さまー? どこにいらっしゃるのですかー?」

 

 冥界に存在する白玉楼。

 そこに住まう妖夢は、主である西行寺幽々子を探していた。広い屋敷内を、声を張り上げながら歩き回るも、幽々子からの返事はない。

 

「幽々子さまを、見かけなかった?」

 

 ちょうど廊下を通りがかった幽霊に訊ねてみるが、いい答えは返ってこない。

 白玉楼の住人は、妖夢と幽々子以外に、使用人の幽霊たちがいるものの、その誰もが幽々子の居場所を知らないと言う。ふわふわと漂う幽霊たちは、ただ一様に、霊体を横に振るばかりであった。

 

「屋敷に居ないとなると、庭の方かなぁ」

 

 妖夢は大きく溜め息をつきながら、庭へと足を向けた。広大な敷地を有する白玉楼で、一人の姿を探すのは、困難極まることだ。

 

「うぅ、やっぱり外は暑いわね……。これだと、剪定も大変になっちゃう……」

 

 庭にある木々を見つめ、忌々しげに呟く。

 白玉楼には、多くの桜の木がある。春になるとそれは見事な光景だが、今は夏真っ盛りのため、青々とした葉をつけているだけだ。

 

「——幽々子さまー! どこですかぁー!」

 

 さすがに徒歩では探せないため、妖夢は空を飛び回りながら、大声で呼びかけていた。地平線が見渡せるほど広く深い庭園で、主人を見つけることは容易ではない。

 それでも諦めず探し回っていると、視界の端に見慣れた姿が映った気がした。そちらへ飛んでいくと、やがて大きな枯れ木の下にたどり着く。

 

 この木は、西行妖と呼ばれる、妖怪桜の成れの果てだ。大昔に、禍々しい妖気を含んだ桜の花を、大量に咲かせたことで、多くの人間を死に至らしめたという曰く付きの木だった。

 今となってはもう、花をつけることは、ないのだが——

 

 妖夢の目に映ったのは、そんな西行妖の下で佇む、幽々子の姿だった。

 風に揺れる桜色の髪と、生気の見えない白い肌。同じく、桜色の瞳は、どこか虚ろげで、ぼんやりとした表情をしている。

 

「探しましたよ、幽々子さま……」

 

 幽々子の前まで降り立った妖夢は、そう言って彼女に歩み寄ろうとする。

 しかし幽々子は、それに反応することなく、虚ろな瞳のまま、西行妖を見つめ続けていた。まるで、側にいる妖夢の存在すら、認識していないかのようだ。

 

「……幽々子さま?」

 

 妖夢が怪しげに眉を寄せると、幽々子が口を開いた。彼女は、今にも消え入りそうな、小さな声で呟く。

 

「寒いわ」

「……はい?」

 

 その言葉の意味がわからず、妖夢はさらに顔をしかめた。

 冥界であっても、四季は存在する。特に、今の時期は真夏で、じりじりと太陽が照りつけており、気温も高い。肌に張り付くような、じっとりとした暑さを感じるし、汗だってかく。

 それなのに寒いとは、どういうことだろうか。幽々子の体を見ると、少し震えているようだった。

 

「……あら、妖夢じゃない。どうしたのかしら?」

「あ、えっと……」

 

 幽々子は、ようやく妖夢に気付いたようで、わずかに首を傾げた。

 相変わらず焦点が合っていない様子だったが、先ほどの寒さを訴える声とは違い、いつも通りの口調だったので、妖夢はひと安心する。

 

「あの、今から顕界に行くのですが、何か御用があればと思いまして……」

「……そう。じゃあ、甘いものを、買ってきて欲しいわ」

「分かりました。では、行ってまいります」

 

 それだけ聞くと、妖夢は幽々子に背を向けて、忙しなく飛び立った。なんだか今の幽々子には、近づき難い雰囲気があったのだ。

 いつもは顔に、ふんわりと柔らかい微笑を浮かべていて、飄々としている幽々子なのだが、今日に限っては、それが一切感じられなかった。そのことが、妖夢に妙な不安を与えていた。

 

「……なにか、あったのかな?」

 

 そう思いはするのだが、それを直接、本人に訊ねることはできない。いくら従者とは言えど、個人的なことにまで、立ち入るべきではないからだ。妖夢にできることは、空気を悪くしないように、そっとしておくくらいである。

 依然として胸の内に、モヤモヤしたものを抱えながら、顕界へと向かっていった。

 

 

 しばらくすると、妖怪の山が見えてくる。この辺りは、幻想郷の中でも比較的標高が高く、自然が豊かな場所だ。

 妖夢の目的は、そこにある鍛治工房に寄ることだった。

 

「ごめんください」

「……はぁい!」

 

 ふもとの開けた場所に降りた妖夢は、目の前に建つ一軒の家に声をかけた。すぐに中から、元気な声が聞こえてきて、玄関の扉が開かれる。

 現れたのは、水色の髪を、妖夢と似たようなボブカットにした少女だった。少女は、赤と水色のオッドアイを輝かせて、にっこりと微笑んだ。

 

「誰かと思えば、妖夢さんですか」

「はい。預けた刀を、受け取りに来たんですけど」

「……あー、そうですねぇ」

 

 妖夢が言うと、少女は眉を寄せて、困ったような顔になる。

 少女の名は、多々良小傘。唐傘おばけの妖怪で、幻想郷でも有数の鍛治職人として、その筋では有名であった。

 とりわけ仲が良いわけでもなかったが、そのことを知ってからは、定期的に彼女の元を訪れている。

 妖夢が振るう大小二刀のうち、長物の楼観剣は、妖怪が鍛えたもので、人間には扱えない代物だ。なので、こうしてたまに、鍛え直しを依頼しているのだった。

 

「予定では、今週中にでき上がるはずだったんですけど……。ちょっと今、取り込んでいまして……」

「はあ、そうなんですか」

「だから……あっ!」

 

 小傘が、何かを言いかけたときだった。

 突然、家の中から、大きな音が聞こえてきた。甲高い、泣き叫ぶような声が、辺りに響いている。

 

「あわわっ!」

 

 その声を聞いた小傘は、慌てふためき、顔を真っ青にする。そして、妖夢を残し、急いで家の中に戻っていった。

 

「どうしたんだろう……」

 

 妖夢は、何事かと思いながらも、小傘のあとを追う。勝手に上がり込むのは気が引けたが、彼女の様子を見る限り、そんなことを言っている場合では、ないのかもしれない。

 家の奥に進むにつれて、どんどん騒がしくなっていく。どうやら、先ほどから聞こえる悲鳴は、こちらの部屋から、発せられているようだ。

 

「よーしよしっ。いい子だから、泣かないのっ。ほら、べろべろばぁ〜!」

 

 部屋に入った途端、妖夢は目を丸くした。

 そこには、赤ん坊を抱いた小傘がいて、あやしている最中だったのだ。

 

「……小傘さん?」

「うわっ、勝手に入ってこないで下さいよ!」

「ご、ごめんなさい。でも、緊急事態なのかと思って……」

「……そ、そうですか」

 

 声をかけると、小傘は驚いたように振りかえった。それから、怒った様子で責めてきたものの、妖夢が謝罪すると、すぐに落ち着いた表情になり、腕の中の赤ん坊を見つめた。

 その様子は、普段の陽気な小傘とは、かけ離れている。別人のような印象を、受けるくらいだ。

 

「えっと、その子は?」

「……無縁塚で、拾ったんです。幽霊たちと、人を驚かす練習をしていたら、泣き声が聞こえてきて……。なにかなと思って行ってみたら、この子が捨てられていたの。それで、可哀想になって、連れて帰ってきたわけです」

 

 妖夢の問いに、小傘は静かに答える。

 妖怪が、人の子を可哀想だと思うなんて、珍しいこともあるものだと思ったが、口には出さなかった。彼女の、赤ん坊を撫でる手つきは優しく、慈愛に満ち溢れたものだったからだ。

 小傘は、しばらく黙って赤ん坊を観察していたが、やがて妖夢の顔を見て、口を開く。

 

「……変、ですよね? 人を驚かすのが、お化けの存在意義なのに、人助けをするなんて。でも、この子の笑ってる顔を見た瞬間、私の中で、この子を幸せにしてあげなきゃっていう気持ちが、湧き上がってきたんです。それが、どうしても抑えられなくて」

 

 そう言って、小傘は再び視線を落とす。

 

「私は、変だとは思いません。小傘さんのしたことは、とても素晴らしいことだと思います」

 

 妖夢は、小傘の言葉を否定するつもりはなかった。

 妖夢自身、他者を斬るための刀を扱う身である。斬ることしかできない自分とは違い、小傘のように、誰かを笑顔にできる存在は、尊いものだと思えた。

 

「……ありがとう。少し、救われた気分になりました」

 

 小傘は、弱々しく微笑むと、赤ん坊を布団に寝かせた。そして、妖夢に向き直って言う。

 

「ふふっ、こんな調子だから、鍛治も思ったように進まなくって……。お金を貰っておいて、本当に申し訳ないですけど、もうちょっと待っていてくれませんか?」

「そういうことなら、構いませんが……」

 

 小傘は、すまなさそうに頭を下げる。

 事情が事情だけに、妖夢としても強くは言えなかった。しかし、大小を二刀流で扱う妖夢にとって、長物の楼観剣が手元にないのは、痛手となり得る。

 妖夢が困り顔で頭を掻くと、小傘は何かを思い出したのか、ぽんと手を叩いた。

 

「そうだ! 代わりといっては何ですけど、面白い物を差し上げますよ!」

 

 そう言って、押し入れの中を、ガサゴソと探り始める。そして奥のほうから、一振の刀を取り出した。

 

「これ、無縁塚で拾ったんですけど……。どうですか?」

「はあ」

 

 小傘が差し出した刀を、妖夢はじっと見つめた。

 鞘は黒色で、何の装飾もない質素なものだったが、物の造り自体は、少し古臭く感じるものの、しっかりしているように見える。

 手に取ってみると、ずしりと重い感触が伝わってきた。見た目よりも、重量があるようだ。

 

「……あれっ?」

 

 刀身を確認するため、抜刀しようとしたのだが、何故か上手く抜けなかった。まるで、見えない何かに引っかかっているような感じだ。

 拵えは薄汚れているものの、錆び付いてはいない。試しに、思い切り力を込めてみるが、ビクともしなかった。

 妖夢は首を傾げながら、小傘の顔を見る。

 

「ぬ、抜けないんですが?」

「あらー、妖夢さんでも、駄目だったかぁ。それ、私も抜こうとしたんですけど、さっぱりで」

 

 小傘は、残念そうな表情で、肩をすくめる。

 

「使い手を選ぶ妖刀の類いかなと思って、一応持ち帰ったんですけど、どうやら違ったみたいですね」

 

 小傘の言葉を聞き、改めて刀を眺める。確かにこの刀からは、妙な気配を感じる。彼女が言うように、普通の刀とは違うように思えた。

 

「一本だたらの私から見ても、曰く付きなのは、間違いないと思うんです。値打ちのあるものかも、しれませんし……。でもまあ、抜けなかったら、しょうがないですよね。やっぱり、代金を何割か返すほうが——」

「いえ、私は構いませんので、この刀を頂いてもいいでしょうか?」

 

 妖夢は、小傘の言葉を遮るように言う

 この刀の、柄を握ったときの、手に馴染む感覚。言いようの知れない高揚感。

 妖夢の直感が告げていた。この刀を扱えたら、自分は今より高みへ登れるはずだと。

 

「そ、そうですか……! ぜひ、持っていってください!」

 

 妖夢は、おもむろに刀を背に差した。

 すると、先ほどまでとは打って変わり、気分が落ち着いてくる。自分が、剣の達人になったかのような錯覚を覚え、今なら何でも斬れそうな、そんな気がしてきた。

 

「……では、また後日、暇ができたら取りに来ますので」

「はいっ! それまでには、しっかりと仕上げておきますからっ!」

 

 妖夢は一礼すると、小傘の家を後にした。それから、上機嫌な様子で空を飛び、白玉楼への帰路につく。

 背中に差してある刀のおかげだろうか。いつもより、道のりが短く感じる。

 西の方角を見ると、日が傾き始めており、もうすぐ夕方になりそうだった。出発するのが遅れたせいもあり、思った以上に時間がかかってしまった。

 

「……あ、お使い、頼まれてたんだった」

 

 遅れた原因が、幽々子を探していたことによるものと考えていたら、ついでに彼女から、甘いものを買ってくるように言われていたことも、思い出した。

 

「間に合うかなぁ……」

 

 人里で、いつも利用している和菓子屋は、日が暮れると閉まってしまう。今から行けば、ぎりぎり閉店までに、間に合うかもしれない。

 

 妖夢は人里に向けて、方向転換をした。そして、全速力で空を駆ける。

 心なしか、身体が軽い。これも、刀を持った影響なのだろうか。普段の自分からは、考えられないような速度で飛んでいるが、不思議と疲れを感じない。

 

 しばらく飛び続けているうちに、前方に人里が見えてきた。店の看板が、夕陽に照らされて光っているのが、遠くからでも見える。

 そのまま、勢いよく店の上まで行くと、店前に着地した。まだ閉店には余裕があったようで、すんなり店内に入ることができた。

 そこで、饅頭などの甘味を買い込むと、再び白玉楼へ向けて出発した。

 

「……でも、抜けないんじゃ、使えないよね」

 

 道中、妖夢は独り言を呟いた。

 抜けない刀ほど、使い道のない物はない。妖怪相手には、こけおどしにもならないだろう。

 それでも妖夢は、この刀を手放すつもりはなかった。何故かは分からないが、手放してはいけないような気がしていたのだ。

 

「まあ、色々試してみれば、なにか分かるかも」

 

 頭の中で、鞘から抜く方法を考えながら、飛んでいく。しかし、考えれば考える程に、余計に分からなくなる始末。白玉楼に着いても、それは続いていた。

 

 

 後日、自分なりに試行錯誤したものの、結局は抜けずじまいだった。

 年季が経って、噛み合わせが悪くなってるのかと考え、刀を火で炙って温めてみたり、逆に冷水に浸けて冷やしたりしたが、変化なし。

 硬い物にぶつけてみても駄目だったし、思い切って上空から地面に叩き付けてみたこともあるが、やはり駄目だった。

 

 その蛮勇かつ苛烈な行為で、刀が曲がったり折れたり変形することもなく、鞘にいたっては傷一つ付かなかった。どうやら、かなり頑丈にできているようだ。

 ここまで試しても駄目となると、いよいよお手上げである。

 一応、素振り用に使うくらいなら問題ないだろうと思い、今日も妖夢は、白玉楼の庭で、抜けない刀を振っていた。

 

「はあ! やあっ!」

 

 甲高い掛け声と、刀の風切り音だけが、辺りに響く。

 妖夢の剣術の腕は、まだまだ未熟であり、太刀筋も半人前のもの。それでも、この刀を振るっていると、何となくだが、上手く扱えるような感覚があるのは、確かだった。

 

 妖夢は、刀を振る手を休めることなく、ぼんやりと考える。この刀の持ち主は、どんな人物だったのだろうかと。

 おそらく、相当な腕前を持っていたに違いない。そうでなければ、こんなに手に馴染むはずが、ないのだから。

 

 妖夢は手を止めて、刀を見つめる。

 使い込まれた刀には、人の想いが宿ると聞いたことがある。そして、刀身に浮かぶ波紋は、持ち主の心の形を表すとも。

 この刀の柄に巻かれた布は、ぼろぼろになっている。それだけ、この刀を愛用していたということだろう。

 

 この刀は、どのような気持ちで、振るわれてきたのだろうか。その人物の生きた証が、ここに残っているような気がする。確かめたい気持ちはあるものの、抜けないのであれば、それは叶わぬ願いだ。

 妖夢は、ふぅと息をつくと、構えを解き、刀を背に差した。

 

「……そう言えば」

 

 妖夢は、あることを思い出した。この刀は、無縁塚で拾われた物だということを。ならば、そこに行けば、刀を抜く手立てが、見つかるかもしれない。

 

 思い立ったが吉日。

 妖夢は早速、顕界にある無縁塚へと飛んでいく。山に沈もうとしている太陽が、その姿を照らしていた。

 

 

 無縁塚は、縁者が居らずに供養してもらえなかった者たちが集う、墓地のような場所。幻想郷の端という、外の世界と繋がりやすい所に存在しているため、外の世界の道具が、流れ着くことも多い。

 この刀も、そういった流れ着いた物の、一つなのだろう。

 

 木々に囲まれた道を抜けると、開けた場所に出た。そこには、どんよりとした陰気な雰囲気を漂わせている、寂れた土地が広がっている。

 ここは、死んだ者の魂が行きつく場所である冥界にも近いためか、霊的な力が強く、普通の人間では、あまり長居できないような空気に包まれていた。

 

 幽霊の存在は、生者に精神的な影響を及ぼしやすく、陰気な場所に居る幽霊は、やはり人にとって悪影響を与えるものだ。

 しかし妖夢は、半分人間であっても、もう半分は幽霊なので、そんな雰囲気に当てられることなく、真っ直ぐに歩いていく。

 辺りを浮かんでいる幽霊たちは、彼女の姿を見ると、驚いた様子を見せ、慌てて逃げていった。それは妖夢が腰に刺している、白楼剣のせいだろう。

 

 白楼剣は、斬られた者の迷いを断つことができ、すなわち幽霊を斬れば、その場で成仏させることができるのだ。それゆえ、幽霊たちにとっては、恐ろしい存在である。

 しかし、迷いのない生者には一転、ただただ切れ味の悪い短刀と化すのが、使いにくいところ。

 

「うーん……」

 

 しばらく歩き回ったあと、妖夢は残念そうな表情を浮かべた。刀の手がかりになりそうなものは、一見して見当たらない。

 試しに、刀を抜こうと試みるが、やはり抜けない。場所が関係しているわけでも、ないらしい。

 

「むう……。骨折り損になるのかぁ」

 

 妖夢が溜め息を吐き、その場から離れようとした、そのときだった。

 突然後方から、獣の唸り声のようなものが聞こえてきた。妖夢は、確認のために振り返る。

 

「わっ……!」

 

 そこには、一匹の大きな狼がいた。小柄な妖夢より、体躯は二回りも大きく見える。

 黒く染まった毛並みを持つ身体からは、禍々しい妖気が薄ら出ており、血走った赤い瞳も相まって、一目で普通の獣ではないことが分かる。

 

「ウウゥ……!」

 

 狼は低い声で、威嚇するように鳴きながら、ゆっくりと近づいてくる。妖夢も、それに合わせるように後退り、距離をとった。

 

 いま持ち合わせている得物は、抜けない刀と、生身には分が悪い白楼剣のみ。弾幕での中距離戦は、妖夢の苦手とするところ。

 そもそも弾幕は、遊びで使用するものであって、実戦での攻撃手段には成しえない。

 それから、相手が一体だけならまだしも、他に仲間がいて、呼ばれる可能性もある。この状況は、かなりまずい。

 

「逃げる……?」

 

 その選択肢もあるが、相手も逃すつもりはないらしく、こちらの様子をうかがいながら、じりじりと距離を詰めてくる。

 それに、由緒正しい西行寺家の、剣術指南役を仰せつかった妖夢にとって、獣一匹相手に背を向けるなど、許されない行為だった。敵前逃亡は、すなわち死を意味する。

 

「やるしか……!」

 

 妖夢は覚悟を決めると、腰に差した白楼剣の柄に手をかけ、鞘から引き抜いた。そして、下段に白楼剣を構え、臨戦態勢に入る。

 スペルカードを用いた、美しさを競う弾幕戦とは、わけが違う。

 知性を持たぬ獣との、ルール無用の白兵戦で、純粋に命のやり取りが行われる。

 

「ふっ!」

 

 緊張の糸が張り巡らされる中、先に動いたのは妖夢のほうだった。地を蹴り、一気に間合いを詰める。

 そして、対手の鋭い爪を持つ前足が、振り下ろされる瞬間を見計らい、それを紙一重で避けつつ、横薙ぎに斬りかかる。

 

 肉を裂いた確かな感触が、手に伝わってきた。妖夢の斬撃は見事に決まり、その部分から鮮血が飛び散る。

 だが、刀身の短い白楼剣では、致命傷を負わせることはできなかったようで、狼は怯むことなく、即座に反撃に転じてきた。

 

「くっ!」

 

 すぐさま後ろに飛び退き、何とか回避しようと試みるも、間に合わず、右の肩口を爪で切り裂かれてしまう。

 

「あぐぅっ……!」

 

 痛みに顔を歪めながらも、体勢を立て直し、再び構えを取る。しかし、右肩に受けた傷は深く、腕を動かすだけで激痛が走る。

 出血量も多く、肩から腕を伝って、手にまで垂れてきており、柄を握る手が滑りそうになっていた。

 

「うぅ……楼観剣さえあれば、こんな獣一匹くらい……! どうすれば……!?」

 

 この窮地を打開する策を考えるが、思いつかない。その間にも、狼は攻撃の機会を伺っている。体力も相手の方が上で、ジリ貧になる前に、なにかしら手を打たなければならない。

 焦燥感を募らせる妖夢だったが、その最中、背中に冷たいものが触れたような感覚がした。

 

「……なに?」

 

 妖夢の背には、抜けない刀しかない。しかし、刀の感触は別もの。それなのに、自分の背中に触れているものが、確かにある。

 妖夢は不思議に思ったが、考えている余裕はなかった。すぐに狼が、襲いかかってきたからだ。

 

 妖夢は、咄嵯に身体を捻り、攻撃をかわそうとする。しかし、狼の動きが思ったより速く、避けることはできずに、全身での体当たりを受けてしまった。

 

「うぐぅっ!」

 

 勢いよく後方に吹き飛ばされ、地面を転がる。狼は、そんな彼女に追い打ちをかけるべく、さらに距離を詰めようとする。

 妖夢は、なんとか立ち上がろうとするが、ダメージが大きく、身体が思うように動かない。このままだと、やられてしまう。

 

「はっ……! はっ……!」

 

 絶体絶命の状況の中、妖夢は荒い呼吸をしつつ、無意識のうちに白楼剣を納刀し、背中の刀に手をかけていた。

 

 抜けない刀。

 しかし、今の妖夢にとっては、それが唯一の希望に思えたのだ。

 血塗れの右手で柄を掴み、力一杯引き抜きにかかる。この窮地を脱出するためなら、どんな代償でも払うつもりだった。

 

「えっ……?」

 

 すると不思議なことに、あっさりと刀身が姿を現した。あれほど頑なに抜刀できなかった刀が、あっけなく抜けた。

 その刀身は錆ひとつ見せず、美しい輝きを放っていて、鏡のような刃が夕日を反射し、一面を赤く染め上げた。

 

「……よぅし」

 

 妖夢は、抜刀できたことに驚きつつも、目の前の敵に集中していた。

 痺れが出てきた右腕は、徐々に感覚がなくなってきており、左手も添えて両手で支えながら、刀を下段に構える。

 片膝をついた状態ではあるが、長物を持つ姿は様になっており、狼も警戒してか、距離をとって様子をうかがっていた。

 

 立ち上がれないほどの怪我を負っている現状、長期戦は不利だ。一撃で仕留めなければならない。

 妖夢は、対手を見据えつつ、荒れた呼吸を整えて、攻撃に備える。その顔つきは、とても半人前の剣士には、見えなかった。

 

 やがて狼は、低い姿勢のまま、じりじりと距離を詰めてくる。

 そして、自身の間合いに入った瞬間、跳躍した。鋭い牙による噛みつきと、鋭利な爪での引っ掻き攻撃。どちらも当たれば、致命傷になることは必至。

 

 それに対し、妖夢は冷静だった。左右に避けようともせず、ただ静かに構えを取り続ける。彼女の目には、対手がゆっくりと迫ってくる様が、映し出されていた。

 

 そのうちに狼が、妖夢の一足一刀の間合に入り、爪を突き出してくる。

 その刹那、妖夢の姿が、狼の視界から消えた。

 

 妖夢は、獣の跳躍力を上回る速さで前方に飛び、宙に浮いた狼の懐へと、潜り込んでいた。

 それから、身体の捻りを利用して、すれ違いざまに下段からの切り上げを放ち、腹部を深く切り裂く。手応えはなく、まるで空気を斬ったかのような感触だった。

 

「グオォォッ!」

 

 狼は、赤黒い臓物と共に、鮮血を撒き散らしながら地面に落下し、苦悶の声を上げる。妖夢の一刀は、致命の一撃となり、狼の命を確実に奪っていった。

 やがて狼の呼吸は、ゆっくりとしたものになっていき、完全に停止した。

 

「……やった……の?」

 

 物言わぬ骸となった狼を見て、妖夢は呟く。

 勝ったという実感がわかず、呆然としている妖夢だったが、狼を剣先で突いて、完全に死んだことを確認してから、ようやく安堵の息を漏らす。

 それから、緊張から解放された反動なのか、その場に尻餅をついてしまった。

 

「あ、危なかったぁ……」

 

 本当に、紙一重のところであった。あと少し、狼の攻撃を避けるのが遅ければ、今頃は腹の中に収まっていただろう。

 しかし、最初から楼観剣さえあれば、こんな獣一匹に苦戦することなど、なかったはずだ。そう思うと、この勝利も、素直に喜べない気持ちになってしまう。

 

 しばらくして、妖夢は鞘を支えにして立ち上がり、刀身の血糊を振り払おうとする。そのとき、ある異変に気付いた。

 

「……あれ?」

 

 刀身に、こびりついているはずの血糊が、跡形もなく消え去っているのだ。あれだけ深く斬りつけたにもかかわらず、一切の血糊がついていないというのは、不自然である。

 訝しみながらも、とりあえず納刀しようと鞘に手をかけたそのとき、ふと、ひとつの考えが頭に浮かんだ。

 

 もしやと思い、自身の右手を、まじまじと見つめる。

 視線の先には、汗ばんだ手のひら。先ほどまで血塗れだったはずなのに、すっかり綺麗になっていた。

 

「……血を、吸ってる?」

 

 この刀が妖刀の類いならば、生物を斬ることによって、その者の生命力を吸い取り、自らの糧としているのではないだろうか。唐突に抜刀できたのも、自分の血を吸ったからかもしれない。

 

 妖夢は、自身の仮説が正しいのかを確かめるべく、再び狼の死体へ近づき、刀を肉に突き刺し、すぐに抜く。

 すると、刀は瞬く間に血を吸い始め、みるみるうちに血糊が消え去っていく。

 やがて刀身には、一滴たりとも血が残っておらず、ただただ朱に染まった空を照らし出していた。

 

「すごい……。これが、妖刀の力……」

 

 恐ろしいと感じる反面、妖夢は魅入られたように、刀を見続けていた。

 だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。妖夢は、刀を鞘に納め、身体の状態を確認する。

 

 切り裂かれた肩口の傷は、既に出血が止まっており、痛みもあまり感じなくなっていた。この回復力も、半人半霊たる所以なのだろう。

 しかし、受けたダメージは相当なもので、身体中が悲鳴を上げている。早く白玉楼に帰って、休まなければならない。

 

 妖夢は、ふらふらと蛇行しながら空を舞い、帰路につく。遠くのほうで、夜を告げる烏の鳴き声を聞きながら。

 

 

 

 一夜明け、妖夢は布団から起き上がるなり、顔をしかめる。

 全身が、筋肉痛のような症状に襲われていた。少し動くだけで、鈍い痛みが走る。

 無理もない。昨日の戦いで、満身創痍になるまで、戦い抜いたのだから。

 

「むんっ……!」

 

 それでも気合で立ち上がると、じっくり身体をほぐしてから、着替えを済ませて、部屋を出た。

 向かう先は、広い屋敷の数ある居間のうち、いつも幽々子と共に朝食をとっている部屋だ。廊下で幽霊たちと挨拶を交わしながら、歩みを進めて、目的の居間へとたどり着く。

 

 そこには既に、朝食に舌鼓をうっている幽々子の姿があった。妖夢が入ってきたことに気づくと、彼女は箸を止め、笑顔を浮かべる。

 

「あら、おはよう。主人よりも遅く起きるなんて、従者失格ね?」

「も、申し訳ございません!」

 

 幽々子の言葉に、妖夢は慌てて平伏した。

 起床した際、時刻を確認していなかったことを、今さらになって後悔する。悠々と歩いてこなければ、間に合っていたかもしれないからだ。

 そんな妖夢を見て、幽々子はくすりと笑う。

 

「たまには、そういうこともあるわよ。さあ、ご飯にしましょう。早くしないと、妖夢の分まで、食べちゃうかも〜」

「おまちください! それは困りますっ!」

 

 幽々子の冗談に対して、妖夢は必死の形相で食いつく。その反応が面白かったのか、幽々子はまた笑みをこぼす。

 妖夢が、いつものように食卓に着くと、二人は揃って食事を始めた。

 近日、幽々子の様子がおかしかったのは、どうやら杞憂だったようだ。少し引っかかってはいたが、そう結論づけることにした。

 

 そして、何事もなかったかのように、普段通りの日常が始まる。

 妖夢は、庭師としての仕事をこなし、終えたら剣術の稽古を行い、鍛錬に励む。その繰り返しだ。何も変わらない。平和そのもの。

 その中でも、妖夢の胸中は、浮き足立っていた。自分が、妖刀を扱えるという事実に。

 妖夢は、白玉楼の広大な庭で一人、妖刀を握りしめながら、感慨にひたる。

 

 あの、大狼とも呼ぶべき獣を、一撃の下に斬り伏せた際の感覚を思い出す。まさに熟練の剣士の如く、刀を振るえたのだ。

 窮鼠猫を噛む、あるいは火事場の馬鹿力かもしれないが、この妖刀を使えば、剣豪になれる可能性が高まるのではないか。そう思うと、興奮が収まらなかった。

 師匠と呼んでいた祖父の背中を追って、これまで努力を重ねてきた。それが、ようやく報われるときが来たのだと。

 

「くふふっ……」

 

 思わず、含み笑いを漏らしてしまう。こんなに楽しい気分になったのは、久しぶりであった。だが、それも長くは続かなかった。

 

「……あれ?」

 

 妖刀を抜刀しようと柄に手をかけた瞬間、ある違和感に気づく。

 またしても、抜けなくなっていたのだ。力を込めても、びくりともしない。

 

「そうだった。血が、欲しいのね?」

 

 昨日、抜刀したときは、右手の血を吸った直後であったため、簡単に抜けたのだろう。

 妖夢は、白楼剣で自身の右指先を切りつける。浅く切れば、白楼剣の特性も効かない。

 もちろん傷口は、すぐに塞がり始めたが、付着した血はそのままだ。その手で妖刀の柄を握れば、当然、抜刀できるはずだった。

 

「んー?」

 

 しかし、いくら力を込めようとも、妖刀が抜ける気配はない。血だけでは、足りないということなのだろうか。

 昨日のように、窮地に陥らない限り、この妖刀の力を引き出すことは、できないのか。それとも無縁塚のような、陰気臭い場所でないと、駄目なのか。

 

「……試してみよう」

 

 妖夢は、妖刀を背に括りつけ、白玉楼を飛び出した。主に一言告げるべきかと思ったが、今は一刻も早く、妖刀の力が見たかった。

 

 

 しばらくして、無縁塚に辿り着いた。

 近日に戦闘をおこなった場所へ降りたのに、件の狼の骸は、影も形もなく消え去っている。

 それは、冥界とも近いこの場所では、別段珍しくもなく、むしろ自然と言える光景で、それに今の妖夢にとっては、些末な問題に過ぎなかった。

 

「ふう……」

 

 静寂の訪れた、不気味なほどに閑散とした空間で、妖夢は再度、妖刀の柄を握る。

 そのとき、近くに生えていた茂みが、不自然に揺れ動いた。

 

 何かが、いる。

 そう直感した妖夢は、すぐさま腰の白楼剣を抜き、臨戦態勢を取った。右手に持った白楼剣の切っ先は、真っ直ぐ前方へと向けられている。

 

 やがて、茂みの中から現れたのは、長い黒髪を後ろに束ねた、人間の男だった。

 

「……人間じゃ、ない」

 

 しかし妖夢は、この男が人ではないことを、瞬時に悟る。姿形は人でも、感じる気配は、死者のものだった。

 よれた着物を身にまとい、ボサボサと枝毛のある髪の毛や無精髭を見る限り、あまり清潔とは言えない風貌をしている。だが、その顔立ちは精悍であり、切れ長の瞳には、強い意志の光が宿っていた。

 見た目からして、二十代半ばといったところであろうが、纏っている雰囲気は、それとは全く違う。どこか達観しているような、歴戦の武者のような威圧感があった。

 男は、鋭い視線で辺りを見回すと、最後に妖夢の方を一睨し、ふっ、と口元を緩めた。

 

「……お前か。その刀を、抜いた者は」

「えっ?」

 

 男は、抑揚のない声で、妖夢に語りかけてきた。

 妖夢は、一瞬戸惑うも、即座に構え直す。

 男の瞳からは、一切の感情を読み取ることができない。その視線は、妖夢の背にある妖刀に向けられている。

 妖夢は、この得体の知れない相手に対して、恐怖を抱いてしまった。妖怪と対峙する時とも違う、今まで出会ったことのない類の、異質な存在。

 

「どうした? 刀の切っ先が、震えているが」

 

 その言葉は、妖夢の緊張を見透かすように発せられたものだ。事実、彼女の手は小刻みに振動しており、それが相手に伝わってしまっていた。

 

「くっ……! お、お前は、何者だ!? 無縁塚にいるということは、亡者の類いか!?」

 

 強がってみせるものの、声は上ずっており、明らかに動揺を隠しきれていない。

 だが、そんなことは気にしていないのか、男は淡々と答える。

 

「俺が何者かなんて、関係ない。重要なのは、お前が、その刀を持っているということだ」

 

 その答えに、妖夢は眉根を寄せた。どうも話が噛み合わない。相手は、何を言っているのだろう。

 分からない、分からないが、分からないことは、斬ってみれば分かる。真実は、斬って知るものなのだから。

 師の教えが、脳裏をよぎり、刀を握る手に力がこもった。

 

「……震えが、止まったか。なるほど。構えだけは、一人前だな」

 

 妖夢の変化を感じ取ったのか、男はわずかに口角を上げる。

 

 妖夢は、再び白楼剣を構え直し、相手の出方をうかがった。

 相手は、とくに得物を携帯していないようだ。それなのに、この余裕は一体、どこから来ているのだろうか。丸腰の男を相手にするのは、気が引けなくもないが、人ではない以上、手加減する必要はない。

 仮に相手が武器を隠し持っていたとしても、白楼剣ならば、問題はないはずだ。幽霊の類に対しては、絶大な威力を発揮する白楼剣である。斬れないものは、ほとんど無いと言っていいだろう。

 

 だが妖夢は、間合いを詰めることが、できないでいた。それは、男の放つ異様な威圧感によるものだろう。

 その立ち振る舞いに隙がなく、まるでこちらの動きを、全て見通されているかのような錯覚に陥る。自分より、遥かに格上の存在と、対峙している感覚。どこに切り込んでも、即座に反撃を食らうような、嫌な予感があるのだ。

 

 男は動かない。妖夢の様子を観察するように、ただじっと見つめているだけ。それが余計に不気味だった。

 

 妖夢は、自分の鼓動が、早鐘を打っていることに気付いた。極度の緊張感が、自分の心身を蝕んでいる証拠だ。

 妖夢の額から、一筋の汗が流れ落ちる。柄を握る手に、汗が滲む。呼吸が乱れる。視界が狭まる。喉が渇き、耳鳴りがする。

 

 男は、一歩も動いていないはずなのに、妖夢は徐々に追い詰められていく。真夏の日中だというのに、冷ややかな風が、頬を撫でる。

 

「……ふっ!」

 

 痺れをきらし、先に動いたのは、妖夢のほうだった。

 白楼剣を正眼に構えつつ、一気に距離を縮めようとする。防御を捨てた、一直線の攻撃。丸腰の相手に臆する必要はないと、判断してのことだ。

 

 しかし、その瞬間、視界がぐるりと回転した。

 妖夢は、目まぐるしく回転する世界の中で、自分が吹き飛ばされたのだということを自覚したが、すでに遅かった。

 受け身をとれず、地に叩きつけられ、頭に強い衝撃を受ける。

 

 薄れゆく景色の中、妖夢が最後に見たのは、首から血飛沫をあげている、自身の胴体であった——

 

 

「——おい」

「……はっ!?」

 

 妖夢は、即座に意識を覚醒させた。自分は、気を失っていたのだと理解すると、すぐに状況を確認し始める。

 先程と変わらない立ち位置で、自分は白楼剣を構えている。そして、男も相変わらず、その場に佇んでいた。

 

 どういうことだろう。確か自分は、首を落とされたはずではなかったか。そう思いながら、恐る恐る左手で、自分の首を触ってみる。

 そこには、傷一つなかった。痛みもなく、違和感すらない。あれだけの一撃を受けておいて、無傷とは考えられない。

 妖夢は、敵前であるにもかかわらず、混乱していた。

 

「駄目だな。正直、斬られてやってもよかったんだが、殺気を受けただけで気絶するような奴じゃあ、話にならない」

 

 男は、いやはやといった様子で言う。

 その言葉を聞いて、妖夢は確信した。この男は、自分を試したのだ。男の殺気が、この先に待つ明確な死の情景を、自分に見せたのだろう。

 そして、自分と男とでは、圧倒的な実力差が、あるのだということも。

 

「また、震え出したぞ? 構えすらも、解けてるじゃないか」

 

 男の指摘通り、妖夢の身体は、再び震え始めていた。

 だが、それも無理のないことだ。それほどまでに、目の前の相手は、格上の存在なのである。月とスッポン、天と地の差と言うべきか。

 それを如実に感じ取ってしまったからこそ、妖夢は畏怖してしまったのだ。

 

 自覚してしまうと、もう止まらなかった。歯の根が合わず、カチカチという音が鳴り響く。

 妖夢は、戦意を喪失していた。この男は危険だ。絶対に敵わない。今すぐ逃げなければならない。

 しかし、足がまったく動かない。いや、むしろ動くことを恐れていると言ったほうが、正しいだろう。

 

 蛇に睨まれた蛙。虎に狙われた兎。鷹の前に飛び出た雀。今の状況は、まさにそれである。

 もはや、まともに思考することができない。ただひたすらに、童のように震えることしか、できなかった。

 

「……なんだ。白楼剣を扱っているから、てっきり妖忌の身内かと思ったら、まるでなってないな」

「……あ、えっ?」

 

 男の口から、唐突に祖父の名前が出てきたことに驚き、妖夢は思わず声を上げてしまう。

 その反応を見て、男は妖夢の顔に、視線を向ける。

 

「魂魄の者、なんだろ? 白髪に、その半霊。白楼剣まで、持っているからな」

 

 妖夢は、ようやく目の前の男が、何者であるのかを理解した。

 祖父の知り合いだと言うなら、この異常なまでの実力にも納得できる。それを念頭に置くと、男の纏う気迫は、祖父と同じようなものに感じられた。

 

「は、はい。私は、魂魄妖夢と言います。魂魄妖忌は、私の祖父で、剣の師匠でもあります」

 

 妖夢は白楼剣を納刀したあと、背筋を伸ばし、敬語を使って自己紹介をしていた。それが当然のことであるかのように、自然と口をついて出た言葉だった。

 男は、そんな妖夢の様子に、苦笑を浮かべる。

 

「なら、お前は妖忌の孫なのか。……まさか、あの堅物に、孫ができているとは。時の流れというものは、恐ろしいものだ」

 

 無精髭が生えているアゴを撫でながら、感慨深げに呟く男。その表情からは、先程までとは一転して、優しげな雰囲気が漂っていた。

 それに当てられたせいだろうか。妖夢はつい、気になっていたことを、図々しく尋ねてしまった。

 

「あの、お師匠様と、お知り合いなのですか?」

「ん? まあ、知り合いではあるか。なんせ、刀を交えた仲だからな」

 

 男は一瞬だけ、懐かしそうな顔をしたが、すぐに元の表情に戻った。

 

「それより、お前は妖忌の弟子だというのに、随分と弱々しいな。剣の腕は未熟。精神面も、青二才そのものだ」

 

 男の口調は、どこか責めるようなものだった。反論したい気持ちはあったが、妖夢にはそれをする勇気がなかった。

 事実、男の言っていることは正しい。妖夢は、まだ未熟で、弱かった。虚勢を張ったところで、彼の前では、まるで意味を成さないだろう。

 

「それに、何だその装いは。男のくせに、肌を晒すなど、恥ずかしいと思わんのか」

 

 妖夢の服装は、半袖のシャツに、青緑色のベストを羽織り、上に合わせたスカートといった普段着である。確かに生腕生足を露出しており、刀を扱う者としては、少しばかり軽率な格好かもしれない。

 しかし、それよりも、妖夢にとっては、気になることがあった。

 

「わ、私は、女ですっ! まだ身体も未熟ですけど、ちゃんと女なんですっ!」

「……なに?」

 

 男は怪しく目を細め、妖夢のことを見つめた。

 いくら自分のことを、こき下ろされようとも、妖夢は我慢できる。だが、性別に関しては譲れない。

 小柄で、髪も短く、胸も小さいとはいえ、自分は、れっきとした女の子なのだから。

 

「……女の童が、刀を振っているだと? しかも、白楼剣まで与えているとは、どういうことだ? 妖忌の奴は、何を考えて……」

 

 男は顎に手を当てて、ブツブツと独り言を言い始める。妖夢は、その様子を見て、さらに不安になる。

 正直、祖父と肩を並べる程の剣士に会ったのは、初めてのことだった。妖夢の頭の中では、既に目の前の男に対する畏怖は消えており、今残っているのは、ただ一つ。

 この男に、失望されたのではないかという、恐れだけである。剣の腕を貶められるより、そっちのほうが、ずっと辛いことだった。

 

「……まあいい。妖忌は今、どこにいるんだ?」

「あ、えっと……」

 

 男は、何かを考え込むような素振りを見せたあと、そう問いかけてきた。

 妖夢は、その質問に答えようとしたが、口籠ってしまう。

 祖父の居場所は、わからない。ある日突然、姿を消したからだ。生きてはいるようだが、それ以上の情報は、持っていなかったのだ。

 

「……申し訳ございません。私にも、よくわかりません。数年前に、刀を残して、居なくなってしまったんです。半人前の私に、跡を継がせて……」

 

 寡黙ではあったものの、厳しくもあり、優しくもあった祖父。剣の達人として尊敬していたし、目標としていたし、それから、家族としても拠り所であった。

 そんな彼がいなくなって以来、妖夢の心の中には、ぽっかりと大きな穴ができてしまっていた。

 

 祖父は、言葉ではなく、背中を見て学べと教えてくれた。ならば、自分にとっての手本は、祖父以外にいない。しかし、学ぶべき背中は、失われてしまった。

 数少ない祖父の教えでは、どうすればいいのか、わからなかった。一人では、半人前の自分では、剣の道を極めることなど、できはしない。いつまでも、半端なままだ。

 

 鍛錬を積んでも、強くなる実感がない。強くなっているという確信もない。ただ漠然とした焦燥感だけが、日々募っていく。

 そこに、祖父と同じような実力を持った男が、目の前に現れたのだ。それはまるで、運命的な巡り合わせのように思えた。

 

「そう、か……。まいったな……」

 

 妖夢は、恐る恐る男の表情をうかがう。すると、男の瞳の中に、微かな動揺の色が見えた気がした。

 男は、しばらく黙っていたが、やがて小さく息をつくと、妖夢に歩み寄ってきた。

 

 妖夢は、その行動の意味がわからず、呆然と男を見上げていた。

 祖父と同じくらいの背丈で、武人らしい体つきをしている。着物の上からでもわかる肉の漲りは、それだけで、彼が並大抵の修羅場を潜り抜けていないことがわかる。

 あまり異性と接点のない妖夢でさえ、胸の高鳴りを抑えられなくさせる程に、魅力的な雄の肉体だった。

 

「お前が背に差した刀は、元々俺が使っていたものだ。それは、俺の死と共に封じられて、悠久の時を経ていた」

 

 男の言葉に、妖夢は驚愕する。この妖刀の持ち主が、目の前にいる男だというのだから。

 

「二度と抜かれることはないと思っていたが、まさか妖忌の孫が、抜くことになるとはな。お前には、素質があるようだが、その刀を扱うには、余りに危うい」

「えっ……?」

 

 妖夢は、男の視線が背中の刀に向けられていることに気づき、柄に手を伸ばそうとする。しかし、それは叶わなかった。

 男が妖夢の手を掴み、制止させたからである。

 

 妖夢は、驚きと戸惑いで声が出せず、男の顔を見る。

 彼は妖夢の手を掴んだまま、じっと妖夢の目を見つめ返していた。その表情は真剣そのものだったが、どこか悲しげでもあった。

 

「抜いてしまったものは、仕方がない。だが、断じて、その刀を使うな。もし使ってしまったら、お前の身は、破滅する」

「そ、そんな……」

 

 確かに、男の言う通りかもしれない。妖夢の心の中には、先ほどまでとは違う不安が、芽生え始めていた。

 この刀を使えば、自分はどうなるのか。高みには、至れるかもしれない。しかし、代償として失うものも、大きいはず。それほどまでに、この刀からは、底知れぬ力が感じられるのだ。

 

「いいか? 封印を施せる者に、刀を渡すんだ。あれから、どれだけ時が経ったのかは知らんが、封印術が廃れていることは、ないだろう。巫女なり、仙人なり、陰陽師なり、とにかく専門家に任せろ」

 

 男の声色は優しく、妖夢に対する心配が、伝わってくるようであった。しかし、その優しさが、妖夢の心を縛り付ける。

 

 妖夢は、男から目を逸らせないでいた。まるで魅了されたかのように、視線を外すことができない。

 男が、自分に道を示してくれる存在であり、かつての師のように、自分のことを導いてくれる人だと、感じられるからだ。

 

「あの、貴方は……?」

「……俺か? 俺は、人の道を踏み外した、どうしようもない愚か者だ。そして、死んだはずなのに、残滓が刀に取り残されて、彷徨うだけの亡霊になってしまった。だが、刀を封印すれば消えるから、安心していい」

 

 妖夢が問いかけると、男は自嘲気味に笑いながら、そう言った。

 妖夢は、男の言葉に衝撃を受ける。剣豪であるはずの男が消えてしまうことに、大きな喪失感を覚えたのだ。

 この男なら、祖父が失踪してしまった今、自分にとって、一番身近な目標になってくれるのではないか。そんな淡い期待を抱いていただけに、落胆の色は大きかった。

 

「お前は、妖忌の孫なんだろう? だったら、俺みたいな奴になるんじゃない。妖忌みたいに、立派な剣豪になれ」

 

 男は、そう言って妖夢に微笑むと、掴んでいた手を解放する。そして、そのまま立ち去ろうとしていた。

 

「あ、あの……!」

「刀の件、任せたぞ」

 

 妖夢は、慌てて男を呼び止める。しかし、彼は振り向くことなく、その場を後にした。

 残された妖夢は、しばらくの間呆然としていたが、やがて我に返る。そして、すぐに後を追いかけた。

 

 しかし、すでに男の姿は、見えなくなっていた。

 茹だるような暑さの中、湿った空気が肌にまとわりつく感覚だけが、妖夢の中に残されていた。

 

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