東方キャラを病ませたい   作:ぬいカス

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第2話

 

 

 午後の陽が傾き、少しずつ赤みが差してくる夕暮れの空。時々流れる春風が木々を揺らし、ざわざわと葉擦れの音を立てる。

 

 桜の花びらが舞う博麗神社の、拝殿奥にある母屋の縁側に、重なる二つの影がある。

 背筋を真っ直ぐ伸ばして縁側に腰掛けている巫女装束を身に纏った妙齢の女性が、気持ち良さそうに眠っている少女に膝枕をしていた。その女性は穏やかな表情を浮かべながら、膝の上で眠りこけている少女を見つめていた。

 

 女性の顔立ちは端正で美しく、色白の肌にはシミ一つ無い。髪は腰まで長く伸ばした艶やかな黒髪で、うなじの辺りで結んで纏めている。切れ長の目元と長いまつ毛を持つ茶色の瞳は、夕陽を反射して煌めいていた。

 鼻は高く尖っていて唇も薄く小さい。輪郭はほっそりしていながらも出るところは出ていて、身体付きは全体的に細いものの、女らしさを強調している。

 その整った顔立ちと相まって、彼女はまるで精巧に作られた人形のように見えてしまうだろう。

 だが、よく見れば彼女の目尻や口元は優しく微笑んでいることが分かり、彼女が人間であることが分かるはずだ。

 

「良く眠っているわね。今日は少し厳しくあたり過ぎたかしら。でも、これが最後だから……」

 

 慈愛に満ちた柔和な表情の女性が、無防備な少女の頭を、その透き通るような白い手で子供をあやすように撫でている。すっかり安眠している少女は、くすぐったそうに身動ぎをした。

 

 眠る少女は十歳前後に見えるが、外見よりも幼く見えるほど純粋そうな顔をしていた。しかし今は瞼を閉じているため分からないが、大きな瞳と可愛らしい小さな唇を持っていることは分かる。柔らかそうな頬っぺたは、子供特有のもちっとした感触だ。

 そんな少女を膝枕しながら髪を撫でる女性は、慈しみ深い母親のような眼差しを少女に向けていた。

 

「貴女でも、そのような顔が出来るのね」

 

 不意に女性の横から、驚きを含ませた声が掛けられた。聞き覚えのある声色だったのか、女性は特に驚く様子もなく声の主へ視線を向ける。そこには予想通りの人物がいた。

 

「……紫様」

 

 そこには空間に出来た裂け目から、女性を見下ろすように上半身だけを出している金髪の女性が居た。目は笑っておらず、作ったような笑顔で手をひらひらと振っている。

 彼女の名は八雲紫。この幻想郷を作ったとされる大妖怪であり、幻想郷の管理人である。

 

 声を掛けてきた紫を見て、女性は先程の優しげな表情とは一変して、無感情な冷たい目を彼女へ向けた。

 その態度に紫は呆れたように肩をすくめる。

 

「水を差すようで悪いのだけれど、そろそろお別れしませんと。未練が残ってしまうわよ」

 

 紫は控えめにそう告げると、広げた扇子で口元を隠しながら、すやすやと眠る少女の顔を見て目を細めた。

 

 女性はしばらく黙っていたが、やがて紫に視線を向けたまま、ゆっくりと口を開く。どうやら何か言いたいことがあるようだ。

 だが彼女は言葉を発することなく、ただ悲しそうに眉根を寄せるだけだった。

 

「彼を待たせていいのかしら? それか、貴女が心変わりして、その子を選ぶと言うのなら、私はそれでも構わないけど? ただその場合、もう一方の選択肢は消えてしまうでしょうね」

 

 紫が意地悪げにニヤリと笑う。

 女性は一度目を伏せたが、すぐに顔を上げて紫を見た。そして首を横に振ると、今度ははっきりと言葉を口にする。その瞳には決意の色があった。

 

 それを確認して、紫は満足気に微笑み、手に持っていた扇子を閉じる。すると次の瞬間、紫の姿が忽然と消えた。

 その場に残された女性は少女の頭を撫でながら、優しい声で囁いた。

 

「……霊夢、起きなさい。霊夢」

 

 霊夢と呼ばれた少女は、日暮れの陽光に目をしかめつつ、煩わしく身を起こした。そして欠伸をしながら体をほぐす様に大きく伸びをする。髪についていた一片の桜の花びらが、ふわりと地面に舞い落ちた。

 霊夢はまだ覚醒しきっていないぼーっとした顔で周囲を見回すと、女性の姿を見つけて首を傾げる。

 

「あれ、もう夕暮れなんだけど。休憩は少しだけって言ってたのに、何で早く起こさなかったの?」

「霊夢が余りにも気持ち良さそうに眠りこけていたから、起こすのは可哀想かなって」

 

 霊夢の問いに、女性は優しく微笑んで答えた。その表情はまるで母親のようである。

 霊夢は頭を掻きながら、縁側に腰掛ける。

 

「なーんか変なの。今日の修行は厳しくするわよって、今朝からお師匠さま張り切ってたじゃない。だから私も身構えてたのに」

 

 霊夢の言葉を聞いて、女性はくすりと笑った。霊夢はむっと頬を膨らませる。

 女性は霊夢の隣に座ると、霊夢に向かって手を差し出した。

 霊夢は不思議そうな顔をしながらも、女性の手を握り返す。途端に彼女は霊夢の手を引き込んだ。そのまま女性は霊夢を抱き締める。

 

「な、なに?」

 

 突然のことに霊夢は目を丸くしたが、すぐに我に返って女性を押し退けようとする。しかし女性の腕の力が強くて離れられない。

 それに気付いて霊夢は抵抗をやめた。諦めたわけではない。この女性が自分に危害を加えることはないと知っているからだ。霊夢は抱き寄せられている状態で上目遣いになりながら、困り顔で女性を見る。

 女性は霊夢を愛おしそうに見つめると、霊夢の首筋に顔を埋めた。

 霊夢がびくりと身を震わせる。

 

「……どうしたのお師匠さま。なんでこんなことするの? なんか怖いよ……」

「そうよね。でも少しだけで良いから、霊夢とこうしていたいの。私の我儘を許して……」

 

 女性は霊夢を抱きしめたまま、苦しげに呟く。霊夢は戸惑いながらも、それ以上は何も言わなかった。

 女性は霊夢を強く、強く抱擁する。霊夢はその腕の中で、自分の鼓動が早まるのを感じていた。

 しばらくして、女性は名残惜しそうにしながら霊夢を解放する。そして居住まいを正し、霊夢と向き合った。

 霊夢は未だ戸惑っている様子だったが、やがて落ち着きを取り戻し、いつものように女性に話しかけた。

 

「えへへっ、あんなの初めてだったから、びっくりしちゃった」

 

「ええ。私は今まで、霊夢に冷たく接してきたから、驚くのも無理ないわ。ごめんなさいね」

 

「そんな、謝らなくてもいいの。最初は怖かったけど、でもお師匠さまの体が暖かくて、それで良い匂いもして、気持ちよくって。とにかく嬉しかったからいいの!」

 

 照れ笑いを浮かべながら、霊夢は言う。

 それを聞いた女性は一瞬驚いたように目を丸くすると、優しく微笑んだ。そして、そっと霊夢の頭に手を乗せる。

 霊夢はくすぐったそうに身を捩ったが、嫌がったりはしなかった。

 女性は霊夢を慈しみに満ちた瞳で見詰めていたが、ふと何かに気付いたかのように眉根を寄せた。それから真剣な表情になって、霊夢に語りかける。

 

「……霊夢。急な事だけれど、今から大事な話があります」

「えっ、なに?」

 

 その声音には先程までの優しさはなく、ただひたすらに厳かなものだった。霊夢は困惑しながらも、その雰囲気に呑まれて姿勢を正す。

 女性は一つ深呼吸をして、霊夢を見据えた。

 

「私は今日限りで、博麗の巫女を引退します。これからは霊夢、あなたがその役目を継承しなければなりません。そうなれば私は博麗神社を去り、もう二度と会う機会はなくなるでしょう。あなたには博麗霊夢として、限りある人生を幻想郷に捧げてもらいます」

 

 突然の宣言に、霊夢は唖然とした。しかし言葉の意味を理解するにつれ、目に涙が浮かんでくる。

 霊夢は俯いて首を振った。それは拒否ではなく、悲しみの感情を表す動作。

 

 彼女を師と仰ぎ、生活を共にし始めた時から覚悟はしていた。自分は次代の博麗の巫女になる為に生まれてきたのだと自負していた。だが、いざその時が訪れると、やはり辛くて堪らない。

 

 霊夢は自分の両親の事を覚えていなかった。行方知れずとしか聞かされておらず、そもそも存在を気にした事がなかったのだ。

 霊夢が物心ついた時には、当代の博麗の巫女である女性が側にいて、師として厳しくあたり、時には優しく導いてくれた。

 霊夢にとって女性は母親のような存在であり、心の拠り所でもあったのだ。それが居なくなってしまうという事は、とても耐えられない。

 だからこそ、博麗の巫女を辞めるという女性の決断は理解できるものの、何故自分を置いて行ってしまうのか理解できなかった。

 

「そ、そんな急にっ……言われても、訳分かんないよ! どうして二度と会えないだなんて言うのよ!」

 

 霊夢は必死に言葉を紡ぐ。自分の思いが伝わるように、精一杯の声量で叫んだ。

 しかし女性は悲しげに首を振る。

 

「私っ、まだ怒られっぱなしの半人前だよ!? お師匠さまだって、私のこと全然認めてくれなかったじゃない! 教えてもらう事いっぱいあったのに、まだまだ教わりたいのに!」

 

 霊夢は叫ぶ。女性はそれでも何も言わない。

 霊夢は更に続けた。まるで子供のように泣きじゃくりながら、駄々っ子のように喚き散らす。

 そして、ついに決定的な一言を口にしてしまう。

 

「——お師匠さまのこと、本当のお母さんだと思ってたのにっ!」

 

 女性は息を呑み、目を丸くする。

 霊夢は肩で大きく呼吸しながら、ぼろぼろと涙を流していた。

 沈黙の時間が流れる。

 やがて、女性はゆっくりと口を開いた。

 

「……私は、あなたの母親なんかじゃない。本当の母親なら、自分の娘を悲しませるような真似は、絶対にしないもの。私が今まであなたを育てて来た理由は、あなたが身寄りもなく、無知で無垢で何色にも染まっていなくて、それでいて霊力は天賦の才を秘めている、博麗の巫女に相応しい人間だから。それ以外には、何も無いわ」

 

 淡々と、事務的な口調だった。霊夢は呆然として言葉を失うが、女性の言葉は容赦なく続く。

 

「私は、あなたが人として一人でも生きていけるようにと、厳しく育てたつもりよ。だけど……そうね、あなたは確かに博麗の巫女としては半人前。霊力の扱い方、妖怪退治の心得、結界の張り方に封印の仕方、その他諸々の知識や技術は、並大抵の努力では身に付かない。才能だけでここまで来たといっても過言ではないわ」

 

 霊夢は黙って聞いていた。女性の言っていることは正しい。霊夢の能力は特別なのだ。努力だけでは得られない、素質と運によってのみ得られる能力。

 霊夢は今までずっと修行を嫌がってきたが、本気で修行に取り組めば、すぐに一流の実力を身に付けられるだろう。

 だが霊夢がそれをしなかったのは、女性の存在があったからだ。彼女から手取り足取り教えられる事が嬉しくて、怒られるのも心地良くて、構ってもらえるのが幸せで。

 いつしか霊夢は修行そのものより、女性との触れ合いを優先するようになっていた。一人前になってしまえば、もうこんな風に扱ってくれなくなるかもしれないと怖かった。

 霊夢には、その自覚が無かった。自分がどれほど甘えていたのか、どれだけ依存していたのか。それを理解するのを本能で恐れるように遠ざけていた。

 

 しかし、今となってはそれも無意味な悩みだ。

 女性は博麗の巫女を辞める。つまり博麗神社にいる意味がなくなり、出て行くという事だ。霊夢は置いて行かれる。独りぼっちになってしまう。

 霊夢は気付いてしまった。自分の心の奥底に、どうしようもない感情がある事に。

 それは、孤独への恐怖。自分は誰からも必要とされていなくて、愛されてはいないのだという絶望感。

 霊夢は、師である女性以外に親しい者が居なかった。友達と呼べる者もいない。博麗神社に訪れる参拝客も少ない。そんな環境で育ったからこそ、霊夢は人一倍寂しがり屋になっていたのだ。

 

 霊夢は目の前の女性にすがりつくように言う。

 

「だったら、なんで博麗の巫女を継げだなんて言うの? ……ううん、それが役目なのは分かってる。でも、お師匠さまが博麗の巫女じゃなくなった後も、私はお師匠さまと一緒にいたい……」

 

 女性は静かに首を振る。そして、突き放すような冷たい声でこう言い放った。

 

「私があなた位の年頃だった時には、もう一人で立派に勤めを果たしていたわ。それに私が側にいたら、あなたはいつまでも私に依存して成長しないでしょう?」

 

 霊夢は図星を突かれて絶句した。女性が神社に居着くと、霊夢はいつまで経っても半人前のままだろう。

 霊夢は反論できず、俯くしかなかった。

 

「……分かってくれたみたいね。いいこと、霊夢。これからは一人でやっていきなさい。あなたは私の……弟子なのだから、きっと出来るはずよ」

 

 霊夢は顔を上げ、涙目で女性を見つめた。

 女性は微笑みながら、優しく霊夢の頭を撫でる。霊夢は堪えきれず泣き出した。

 それから少しして、霊夢は落ち着いた。鼻をすすりながらも、しっかりと女性の目を見ている。

 

「……お師匠さま、今までありがとう。私、頑張るから」

 

 霊夢は深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。女性は満足そうに笑い、再び霊夢を抱き締める。

 

「……お母さん」

「霊夢、だから私は——」

「本当かどうかなんて関係ない! 私にとって、お師匠さまはお母さんなんだから! だから……最後だから、お願い。今だけは、お母さんでいて!」

 

 霊夢は大声を出して女性の言葉を遮り、必死に言葉を紡ぎ出した。今言わなければ二度と言えない気がしたからだ。

 その願いが聞き届けられたのか、女性は何も言わずに抱きしめている腕の力を強めた。霊夢も強く抱き返す。

 

 二人はしばらくそのままでいたが、やがて女性はゆっくりと身体を引き剥がした。霊夢の瞳を真っ直ぐに見据えると、女性は諭すように語りかける。

 

「私、もう行かないと駄目だから」

「えっ!? 今日一日くらい一緒にいれないの? そんなに急ぐ必要ないじゃない!」

 

 霊夢は驚いた様子で女性の腕を掴んだ。しかし、すぐに振りほどかれてしまう。

 

「既に決まっている事なの。これ以上引き伸ばす事は出来ないのよ」

 

 霊夢は納得できないといった表情で首を横に振った。しかし、女性は有無を言わせぬ口調で言う。

 

「駄々をこねるのはやめなさい霊夢。最後くらいはしっかりした所を見せてほしいわ。ほら、笑って見送ってちょうだい」

 

 霊夢は悲しげに顔を歪ませ、無理やり笑顔を作った。

 女性は霊夢の顔を見てクスリと笑うと、彼女と目線を合わすように手を膝に置いて前屈みになり、口を開く。

 

「私から霊夢に、母親として最後の言葉を送るわ」

 

 霊夢は小さくコクリとうなずいた。

 

「ご飯はきちんと三食食べなさい。睡眠も夜更かしは程々にしなさい。それと参拝客が少ないからって、神社の仕事をサボらないこと。どんな妖怪でも退治できるように、修行を怠っちゃダメよ。そして困っている人が居たら手を差し伸べなさい。あと……」

 

 女性はそこで一旦口をつぐんだ。霊夢が不思議そうな顔で続きを待つ。

 女性は微笑むと、優しい声で言った。

 

「一人になってしまうけれど、霊夢は私と違って、明るくて素直で元気な子だから、この先沢山の友人が出来るはずよ。友達を大切にしなさい。辛い時も楽しい時も、みんなで分かち合いなさい。あなたなら大丈夫。だって霊夢は私の……自慢の娘なんだもの」

 

 女性は霊夢の頭を優しく撫でた。霊夢は目に涙を浮かべながらも、精一杯の笑みを作ってうなずく。

 女性は姿勢を戻し、霊夢に背を向けた。そして一歩、また一歩と離れていく。

 

 霊夢は離れていく影を掴むように手を宙にさまよわせるが、引き留められる訳もなく距離は開いていく。声をかけようとしたが、口は開けども空気が漏れるだけで何も音にならない。追い縋ろうにも脚が石でもなったように固まってしまい、一歩も動けなかった。

 黄昏時の薄明に、その存在がゆっくりと消えていく。

 

 その時、不意に突風が起こった。木々の葉がざわめき、花びらが舞い散る。桜の花吹雪が二人に降り注ぎ、幻想的な光景を作り出した。

 去りゆく女性が風に煽られ、一瞬だけ身をすくめて立ち止まる。

 目を細めながらも女性の姿を追っていた霊夢は、ハッとした表情で必死に叫んだ。

 

「——お母さん!」

 

 その叫びは強風によってかき消され、女性の耳に届く事はなかった。女性は振り返る事なく歩みを再開し、やがてその姿を完全に消した。

 

 風は止み、辺りには静寂が戻る。黄昏時の光だけが残された。

 霊夢はその場に力無くへたり込み、呆然と虚空を見つめている。泣き腫らした目は赤く染まり、頬は濡れていた。

 

 それから、どれ程の時間が経っただろうか。

 ふと我に返った霊夢は、ふらふらと立ち上がり、おぼつかない足取りで女性が去っていった方向に歩き出していった。

 

 

 

 霊夢と別れた女性が、ゆっくりとだが確かな足取りで向かった先は、視界が悪くとも存在感を示す鳥居だった。その柱にもたれかかるように背を預けている紫の姿が見える。

 

「いいのね? もう」

「はい」

 

 紫の問いかけに対し、女性は短く答えた。

 いつになく神妙な面持ちな紫の横を通り過ぎ、鳥居を出た所で立ち止まった女性は、どこを見るわけでもなく漠然と風景を眺めた。

 

「あの子は、私が母親だと気づいていた。あれだけ厳しい態度で接してきて、最後くらいしか母親らしく出来なかったのに」

 

 淡々とした口調で話す女性は、視線を落として自らの両手をじっと見つめると、拳を握りしめながら続けた。

 

「霊夢が私の事をお母さんと呼ぶたびに、私の心は締め付けられるように痛くなった。私利私欲の為にあの子を産み、そして師匠となって騙し続け、最後に至って裁かれることのないまま生きてきたのだから」

 

 そう言って再び景色に目を向ける。そこには何の変哲もない日常があった。いつも通りの幻想郷の風景。神々や幽霊、妖怪と妖精が跋扈する非日常の世界だ。

 女性は小さく息を吐くと、背後にいる紫に語りかけた。

 

「紫様。私は、自分が如何に卑しい人間なのかを思い知らされました。私は決して人の親にはなれない。紫様と契約を交わし、彼と隔離されたあの時から今まで、私の心は彼の存在で埋まっていた。私の心は、彼以外を受け入れる事が出来ないのです」

 

 女性は静かに言葉を紡ぐ。それはまるで懺悔の言葉のようにも聞こえた。

 

「彼と会えないこの期間は本当に辛くて苦しかった。不満が抑えられなくて霊夢に当たることもありました。自分の弱さを突きつけられました。こんなにも弱い女が母親と名乗るなど許されるはずがないんです。でも、それでも、彼を想う気持ちを止める事は出来ませんでした。いえ、止める必要が無かったのです。そして、彼の為ならば何でも出来ると再認識しました。例えそれが禁忌であろうとも。我が子を妖怪に差し出してでも、彼と共に過ごす事を優先するでしょう。これが愛という感情なのでしょうか? ならば、なんと醜悪で愚劣で傲慢で、それでいて狂おしく魅力的なものなのでしょうか……!」

 

 女性は興奮気味に語る。その声は震えており、瞳には涙が浮かんでいた。そしてその表情は狂気に満ちた笑顔であった。

 そんな女性の様子を見た紫は、無言のまま扇子を開いて口元を隠し、妖艶な雰囲気を放つ瞳で彼女を見据える。

 紫はゆっくりと歩み寄り、女性の肩に手を置いた。

 

「貴女は契約を履行し、無事に役目を果たしたわ。今これより博麗の巫女の任を解き、貴女を解放します。そして、私も幻想郷の管理者としてではなく、八雲紫という一個人として、貴女の願いを聞き届けましょう」

 

 女性は紫の顔をまっすぐに見つめる。その顔は歓喜に染まっていた。

 紫は女性から少しだけ離れると、開いた扇子を閉じて縦に振り下ろした。すると何もない空間に一筋の切れ目が走り、そこから幾つもの巨大な目玉が覗いた。

 紫が軽く手を振ると、目玉は裂け目を広げていく。その裂け目の上下の端には、不気味さとは不釣り合いな可愛らしいリボンが結ばれている。

 

 これは紫の、境界を操る程度の能力の一つ、スキマと呼ばれるものである。空間の境界を操って裂け目をつくり、異なるもう一方の空間と繋げて移動したり、物を出し入れしたりする事が出来るのだ。

 

「この先は、時が流れず、あらゆるものが静止し、あらゆるものが存在しない異界。老いず衰えず死なず、永遠を過ごす事ができる。そして誰の邪魔も入らない。貴女にとっての楽園よ。彼は、そこで待っている。ただし、一度入ったら二度と出られない。それでも、行く?」

 

 紫は女性がこれから向かうであろう世界について説明した。

 女性は紫の説明を最後まで聞くと、思いを馳せるように目を閉じた。

 

 瞼の裏に浮かぶ光景がある。それは彼と過ごした日々の記憶だ。

 初めて出会った時のこと。彼が妖怪に襲われているところを助けた時のこと。彼が外来人でとても感謝されたこと。彼がお礼にと外の世界について色々と面白おかしく話してくれたこと。それで初めて顔が痛くなるくらい笑ったこと。彼に笑顔が可愛いと褒められたこと。恥ずかしくて顔を真っ赤にしたら頭を撫でられてもっと恥ずかしくなったこと。それから何度も神社にきてくれたこと。人里から遠くて何もない所でつまらないのに何でって聞いたら君が居るから楽しいと言われたこと。いっぱい遊びに連れて行ってくれたこと。二人で一緒にご飯を食べたこと。二人でお酒を飲んだこと。そして、二人で月を見たこと。二人きりで夜空を見ながら他愛のない話をしたこと。彼と買い物に出かけた時に見つけた花柄の櫛を彼に買って貰ったこと。彼と手を繋いで歩いた春の日の暖かさ。夏の終わりに花火を見たときの感動。秋になって落ち葉を集めて焼き芋を作った思い出。冬に風邪をひいて寝込んだときに彼がつきっきりで看病してくれて嬉しかった記憶。

 そして自分が彼に抱いている想いを伝えたときのこと。彼が自分を受け入れてくれた日のこと。二人で一緒に寝た夜のこと。彼と交わり女の喜びを知ったこと。彼の寝顔をずっと眺めていたこと。彼に抱きしめられた時の温もり。彼と触れ合った唇。彼に触れられた秘所の疼き。彼と繋がった時に感じた痛み。彼と一緒に達した幸せ。彼の欲望を受け止めた時の快感。彼の全てを受け入れたいという衝動。彼の気持ちよさそうな顔。彼の笑顔。彼の泣きそうな顔。彼の怒った顔。彼の照れた顔。彼の困っている顔。彼の恥ずかしがっている顔。彼の優しい言葉。彼の真剣な眼差し。彼の嬉しそうにしている姿。彼の悲しげな様子。彼の切羽詰まったような声。彼の匂い。彼の感触。彼の鼓動。彼の熱。彼の吐息。彼の汗。彼の唾液。彼の血。彼の垢。彼の味。彼の魂。彼の愛。彼の。彼の。彼の彼の彼の全てが愛おしい。全て鮮明に思い出せる。

 

 女性は自覚する。自分がどれほどまでに彼を愛してしまっているのか。その記憶が彼女の胸の奥底にある感情を呼び覚ます。それは愛の一言では片付けられない。もっと別の、狂おしいほどのなにか。

 

 女性は自分の身体を強く抱き締める。心の中に渦巻く感情の奔流に耐えるように歯を食いしばる。爪が肌に食い込み皮膚を破り血が流れる。閉じた瞳の視界が赤黒く染まっていく。

 

 女性がゆっくりと目を開く。

 その瞳は元の茶色とは似ても似つかないほど赤く染まっていた。まるで鮮血のような真紅の輝きを放つ双玉は狂気を孕んでいる。焦点の定まらない視線は虚ろで、その口元にはうっすらと笑みを浮かべていた。

 もはや女性に未練はない。博麗の巫女としての彼女は死に絶えた。ここにいるのは妄執に取り憑かれた一人の女。

 彼女の心に霊夢の存在は欠片も残っていない。あるのは、ただ一人の男への、狂愛。

 

「行きます。今から行きます。私は彼の元へ行きます。彼と、ずっと一つになります」

 

 女性はそう言い残して、紫に目もくれずに躊躇なくスキマへと飛び込んだ。

 紫はその様子を確認すると、再び扇子を振った。

 スキマは一瞬で閉じられ。後には静寂だけが残った。

 

「感情が乏しくて、人間味の無かったあの子が、あんなにも変わるなんてね」

 

 紫は感慨深げに呟いた。そして、先程まで女性が立っていた場所に歩み寄る。そこには妖気のような気配が残っていた。

 それから、紫はしゃがみ込んで地面に右手をついた。しばらくそのままの姿勢を維持してから手を離す。そこにあった妖気は跡形もなく消え去っていた。

 

「愛とは、何と美しくも残酷で、何と恐ろしくも魅力的なものなのかしら。ねえ?」

 

 不意に紫は立ち上がって、独り言のように言葉を紡ぐ。しかし、その声に答える者はいない。

 紫はくすくすと笑い、振り返って境内を見渡した。そこには人影はなく、ただ桜の花びらが舞っているだけだった。

 

「そろそろ出ていらっしゃいな。隠れているのは分かっているのだから」

 

 紫は楽しげに言うと、前方に向かって扇子を振る。

 

「きゃっ!?」

 

 すると一瞬だけ空間が歪み、そこから一人の少女が悲鳴を上げて現れた。少女は地面にうつ伏せになって倒れこむ。

 

「あらあら。盗み見なんてはしたない事するから、バチが当たるのよ?」

「ぐっ……! 私の二重結界を、こんなにも簡単に破るなんて……ただの妖怪じゃない。一体、何者なの……」

 

 霊夢は悔しそうに唇を噛みながら、紫を睨んだ。紫はそんな霊夢の様子を愉快そうに見つめて口を開く。

 

「そうねぇ。まあ教えてあげてもいいけど、教える意味がないから、教えてあげなーい!」

 

 紫は語尾に音符でも付きそうなくらい軽い口調で言うと、地に伏せている霊夢の方へ歩いていく。

 霊夢は慌てて立ち上がり、身構えた。服についた土埃を払う余裕もない。霊夢の瞳は目の前の妖怪を警戒するように、鋭い眼光を放っている。

 

 紫は平然と間合いを詰めていく。その不気味な姿はまさに妖怪そのもの。

 霊夢は気圧されて、堪らず後ずさって距離を取った。

 紫はそれに気づくと、歩く速度を上げた。霊夢もそれに合わせて後ろに下がる。二人の距離は一定を保ちつつ、徐々に縮まっていく。

 

 やがて霊夢が背中に壁を感じ、これ以上下がれなくなったところで、紫は足を止めた。そして、ゆっくりと両手を上げて、パッと掌を見せた。それは、まるで降参のポーズだった。

 

 それを見た霊夢は、一瞬だけ警戒を緩める。それが命取りとなった。

 

 次の瞬間、紫は一気に距離を縮めると、霊夢のか細い首を鷲掴んだ。そして、お互いの吐息が感じられるほど顔を近づける。霊夢は必死に抵抗するが、紫の力には敵わない。

 紫はニヤリと笑うと、霊夢の耳元で囁くように言った。

 

「私は今から、貴女の大切なものを奪おうと思うの」

 

 その声色は低く、冷たいものだった。

 霊夢はその言葉を聞いて全身を強張らせた。目の前の妖怪が言ったものなど一つしかない。それを奪われるのは、霊夢にとって最も忌むべきこと。

 紫は霊夢の反応を楽しむかのように、霊夢の顔色を観察した後、再び口を開いた。

 

「嫌なら全力で抵抗してみせなさい。貴女は博麗の巫女で、私は人に仇なす妖怪なのだから」

 

 紫の言葉に霊夢は答えなかった。しかし、その表情からは焦りや恐怖といった感情が読み取れる。力の差を見せつけられて萎縮しているようだった。

 

 紫は霊夢の様子を確認すると、右手に力を入れて首を掴んだまま持ち上げた。霊夢は苦しげに目を細め、小さく咳き込む。

 そのまま霊夢を境内の隅へと運ぶと、乱暴に投げ離した。

 

「ぐぇっ……!」

 

 霊夢は受け身を取れずに地面に叩きつけられる。その衝撃に肺の中の空気が吐き出され、呼吸困難に陥った。霊夢は地面をのたうちまわり、激しく咽せる。

 紫は霊夢に追い打ちをかけるため、一歩ずつ近づいていった。

 霊夢は霞んだ視界に迫る紫を捉えて、自分が何をされるか理解し、歯をカチカチと鳴らして震えだす。

 霊夢が怯えていることを確認してから、紫は霊夢の顔のすぐ横の地面を踏みつけた。

 

「ひぃっ!」

 

 霊夢は悲鳴を上げ、反射的に目を閉じて顔を逸らす。

 紫は霊夢の頭上に移動し、見下ろすような体勢になると、しゃがみ込んで霊夢の顎を掴み、強引に正面を向かせた。

 霊夢は目を強く閉じたまま、目尻に涙を浮かべて弱々しく首を左右に振る。

 

「敵と対峙している最中に目を逸らしては駄目よ。常に自分の視界に相手を捉えておく事。お師匠様に教えてもらったでしょう?」

 

 紫はそう言うと、霊夢の首筋に人差し指を当て、ツーっとなぞった。霊夢はビクッと体を震わせ、固く閉ざしていた目を大きく開く。

 

「そうそう、よく出来たわね。偉いわよ」

 

 紫は霊夢と視線が合うと満足気に微笑んで頷く。それから霊夢の頭を優しく撫でて、ゆっくりと立ち上がった。

 そして紫は笑顔のまま右足を上げて、無造作に放り出されている霊夢の左手に向けて勢いよく踏み下ろした。

 バキッ!という鈍い音が響く。

 

「あっ……え?」

 

 突然の事に霊夢は何が起きたのか分からず、呆然とする。自分の左手に目を向けてみると、紫の踵が小指の先に乗っていた。

 紫が察したように足を退けると、小指の第一関節より先が赤黒く変色しており、血が流れ出ていた。

 

「……あぁああぁああああっ!!!」

 

 それを理解した途端に激痛が走り、霊夢は絶叫を上げる。あまりの痛みに気を失いそうになった。

 

「騒がしいわねえ。たかだか小指が一本潰れただけでしょう。さあ、早く立ち上がって、かかってきなさい」

「あうぅ……いたいよぉ……」

 

 紫の言葉に霊夢は反応しなかった。先程の一撃で完全に戦意を喪失しており、立ち上がるどころか顔を動かすことすらできない状態だった。

 そんな霊夢を見て、紫は大きくため息をつく。

 

「じゃあ、次は薬指でもいこうかしらね」

 

 紫はつま先で霊夢の手を軽く蹴る。

 すると霊夢は小さな悲鳴を上げた後、慌てて手を引っ込めた。

 

「ええっと、両手両足で計二十本でしょう。それで両手が二十八で両足は二十六で、既に一回やったから……あらあら、合計で五十三回も出来るじゃない! それだけあれば、途中で立ち上がれるようになるんじゃないかしら?」

 

 紫はわざとらしく頬に手を当てると、嬉しそうな声で言った。

 彼女が言ったのは指の関節の本数。つまり、霊夢が戦意を見せるまで順番に潰していくと言う事。

 

 霊夢は、その残酷な宣言を聞いて顔を青ざめさせた。彼女は必死になって逃げようとするものの、身体は恐怖に支配されて動かない。

 

「や、やめて……お願いだから、もう許して……!」

 

 霊夢は掠れた声で言うと、紫に懇願するように涙を流しながら訴える。しかし紫は笑顔を崩さず霊夢を見つめたまま。

 霊夢の声は紫には届いているはずなのに無視された。それが余計に彼女の精神を追い込む。

 

「痛いの……すごく痛いの。こんなの無理だよぉ……ううっ、ごめんなさい、謝りますから。何でもしますから、どうか助けてください。お願いします……」

 

 霊夢は地面に額を付けて何度も頭を下げた。その姿はまるで土下座をしているようだ。

 それを見た紫は不機嫌そうに眉根を寄せ、何かを考えるように口元に手を当てた。

 

 少しの間沈黙が流れる。その間、霊夢はひたすらに頭を下げる。その様子は惨めを通り越して哀れだった。

 

「酷い有様だわ。もしかして時期尚早だったのかしら。でも、あの子の時よりは成長しているみたいだし。素質は間違いなくあるはずよねえ。はあ……」

 

 紫は一人でぶつぶつと呟くと、しゃがみ込んで霊夢の頭を撫でた。霊夢はビクッと肩を震わせる。

 

「ほら、顔を上げなさい」

 

 優しく諭すような口調で言われ、霊夢は恐る恐る顔を上げる。

 

「許して、くれるの? もう痛い事しない?」

 

 怯え切った表情で霊夢は尋ねた。それに対して紫は微笑みを浮かべると、霊夢に寄り添って抱きしめた。

 

「ええ。もうしないわ。怖がらせてごめんなさいね」

 

 優しい言葉をかけられ、霊夢は安心したのか紫の背中に腕を回す。

 

「いっぱい怖い思いしたものね。痛い思いしたものね。悲しい思いしたものね。苦しくて辛い記憶。でも大丈夫よ。私が全部忘れさせてあげるから」

「え……どう言うこと?」

 

 戸惑った霊夢だったが、すぐに意味を理解したようで大きく目を見開いた。

 次の瞬間、霊夢は紫から離れようと暴れ始める。だが、紫はそれを予想していたかのようにしっかりと霊夢を抱きしめたまま離さない。そして、紫は右手の掌を霊夢の頭に押しつけた。

 

「な、なにっ!? なにかが入ってくる! やめて! 中を掻き回さないで! 気持ち悪いっ! 頭がっ! 割れちゃう!!」

 

 霊夢は悲鳴のような声を上げて叫んだ。それと同時に、霊夢の中で異変が起きた。

 霊夢の記憶の一部が、段々と薄れていくのだ。それは霊夢が今まで経験してきた思い出が全て消え去る感覚だった。師との、母との大事な思い出が。

 

「やめて! やめてよ! それだけは取らないで! お願いだから!」

 

 霊夢は涙をボロボロと流しながら必死になって叫ぶ。

 しかし、そんな霊夢に対して紫は淡々と言った。

 

「貴女は妖怪に立ち向かう事すらできない臆病者じゃない。自分を何だと思っているのかしら? 博麗の巫女でしょう。師に妖怪退治の術を習ってきたでしょう。ならば私を倒さなくては。それが出来る力はあったはず。でも、もう遅いわ。貴女は逃げた。あまつさえ妖怪に許しを乞うた。これは敗北を意味するの。敗者は勝者に従わなければならない」

 

 紫の言葉を聞いた霊夢は目を大きく見開くと、首を左右に振って抵抗する。しかし、いくら力を込めても霊夢は拘束から逃れる事が出来なかった。そうこうしている内に、霊夢の中の大切なものが霞んでいく。

 

「大人しくしていなさい。私は貴女の心に打たれた枷を消してあげようとしているだけ。何も苦しむ事はありませんわ」

 

 紫は諭すように言った。

 だが、霊夢はそれどころではない。心の中にぽっかりと穴が空いていく気分だった。それが喪失感なのか虚無感なのか、それともまた別の感情なのか。今の霊夢には分からなかった。

 

「あ、ああ……」

 

 やがて、霊夢の口から弱々しい吐息が漏れた。次第に霊夢の顔から感情が抜け落ちていき、虚ろな目つきになる。

 そして糸の切れた人形のように力無く倒れた。そのままピクリとも動かず、死んだように眠っていた。

 それを確認してから紫は立ち上がり、霊夢を抱き上げる。そして、母屋の方へ歩いていった。

 

 寝室に入り、霊夢を寝巻きに着替えさせて寝かしつけると、彼女の左手を持ち上げて、小指をそっと握った。

 すると、潰れていた小指の先が元に戻る。紫の力によって傷が治ったのだ。

 その後、紫は霊夢の頬に手を当てて呟いた。

 

「寝顔は本当に似ているわね。中身は全然違うけれど」

 

 その言葉には愛しさが込められていた。まるで我が子を見るような優しい眼差しである。

 

「またいつか会いましょう。その時は初めましてになるのかしら? なんだかむず痒いわ」

 

 紫は少し寂しげに言う。だが、すぐに彼女は平静になり、そして口を開く。

 

「藍。後の事は任せるからね」

 

 紫は虚空に声を投げかけた。

 直後、部屋の隅の空間が揺らぎ、一人の女性が姿を現す。女性は紫の式神、八雲藍だった。

 藍は眠っている霊夢を一通り眺めてから、紫の方に視線を向けた。

 

「……やはりこうなりましたか。あ、いえ、紫様を責めている訳ではありません。ただ、これで良かったのでしょうか?」

 

 藍は心配そうな表情を浮かべながら訊ねる。

 それに対して紫は何も言わず、ただ微笑んだだけだった。それから霊夢を起こさないよう注意しつつ、ゆっくりと布団から離れる。

 

 部屋を出て縁側まで行くと、そこで立ち止まって夜空を見上げた。藍も彼女に倣って隣に立つ。月明かりが幻想的な風景を作り出しており、どこか神秘的であった。

 しばらくして、ようやく紫が口を開いた。

 

「人間って、いいわね」

「……はあ」

 

 唐突な発言に藍は思わず間の抜けた返事をする。

 それでも構わずに紫は続けた。

 

「藍は、人間の事をどう思っているのかしら?」

 

 紫の質問に対し、藍は顎に手を当てると少し考え込む。ややあってから答えた。

 

「そうですね、私は好きですよ。人間は興味深い生き物です。私達妖怪とは根本的に異なる部分が多いので、観察対象として飽きませんし」

「あら、意外と正直ね」

「紫様に嘘をつく理由がありませんから」

 

 紫の言葉に藍は苦笑しながら答える。

 そんな彼女を横目で見て、紫は小さく肩をすくめると、再び前を向いて話し出した。

 

「では、貴女はどう思うのかしら? 貴女の意見が聞きたいわ」

 

 紫は真剣な声色で問い掛けた。

 そんな彼女に藍はしばらく黙っていたが、やがて居住まいを正して、真っ直ぐ紫の顔を見て語り出す。

 

「愛すべき存在だと私は思います。人間という種族は、我々妖怪と違って力も無く、すぐに死んでしまう弱い存在です。しかし、人間は妖怪にはない素晴らしいものをたくさん持っています。例えば、男女が出会い、恋をして愛を育み、子を成す。そういった当たり前の営みすら出来ない私達には、とても羨ましいものなのです。だから、人間と交わりたいという欲求を、私達は潜在的に持っています。でも、妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。この構図があるからこそ、私達妖怪は存在出来ています」

 

 藍の言葉を聞いて、紫は静かに耳を傾ける。藍はさらに言葉を続けた。

 

「古来より、人と妖が交わった先に行き着くのは悲恋ばかりです。結ばれても、別れが来る。死別や離別は当然の事、愛し合った二人が共に暮らす事さえ叶わない。それは私達が人間よりも寿命が長いせいでしょう。人間はどんどん年老いて衰えていく。それに比べて私達はほとんど歳を取らない。不公平だと思いませんか。こんなにも長く生きているのに、何一つ満足出来る事がないまま時間が過ぎていくのですから」

 

 藍の声音には深い悲しみが込められていた。紫は相槌を打つわけでもなく、ただじっと藍の話を聞き続けていた。

 

「だから、私は時折人間になりたいと思う時があります。愛する者と添い遂げたい。それが無理なら、せめて同じ時間を共有させて欲しい。そんな願望を抱くんです。その願いが叶うならば、どんな代償を支払ってもいいと思えるくらいに」

 

 藍がそこまで言うと、紫は藍の方へ顔を向けた。そして、何も言わずに首を縦に振る。

 

「私はご存知のとおり狐の化生です。人に化けて人と同じ姿になる事も出来ます。しかし、所詮は獣の本能を抑え込んでいるだけで、本質は何も変わりません。人を騙し、欺き、喰らう。その事実が人間の魂から消える事は永遠にないのです。いくら私が本心から人間を愛しても、彼らが正体を知ってしまえば、その愛が本物なのか偽りのものなのか区別する事が出来なくなるのです。そして、彼らは私を恐れ、憎むようになる。これが私の恐れている結末です。私の本当の姿を知られてしまうのが怖い。でも、姿を偽ったまま愛を囁くのは、もっと辛いのです。だから……」

 

 藍はそこで言葉を詰まらせる。それから俯いたかと思うと、今度は顔を上げて紫を見つめた。彼女の瞳には涙が溜まっている。

 紫はそっと藍の頬に手を当てた。

 藍は目を瞑り、紫の手の上に自分の手を重ねる。

 

「貴女の言いたいことは、よく分かったわ。聞かせてくれて、ありがとう」

 

 紫は藍の目元に滲んだ涙を指先で拭いながら言った。

 

「……いえ、長々と喋ってしまい、申し訳ありませんでした」

 

 藍は恥ずかしそうに顔を赤らめながら謝罪の言葉を口にした。

 紫は藍の顔から手を放すと、微笑を浮かべる。

 

「変なこと聞いて悪かったわね。じゃあ、私はそろそろ帰るから、後は頼んだわよ」

 

 紫はそう言ってスキマを開くと、その中に入っていった。

 

 紫の姿が完全に見えなくなった後で藍は大きく息を吐きだすと、その場に座り込んだ。

 膝を抱え込んで頭を埋めると、藍は小さく呟く。

 

「やっぱり、寂しいなあ……」

 

 それは、誰に聞かれる事も無い小さな独り言だった。九本の尻尾が、力無く垂れ下がっている。

 

 しばらくして藍は立ち上がると、役目を果たす為に動き出す。

 それは博麗神社に、彼女が存在していた痕跡を消し去る事であった。

 

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