東方キャラを病ませたい   作:ぬいカス

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一話完結の短編です。他の話との繋がりはないので、この話から読んでもらっても大丈夫です。






藍編

「残念だが、今は紹介出来る仕事は無いな」

 

 慧音は手に持っている装飾も無い地味な湯呑みを傾け、澄んだ声を前方に投げかけた。それを聞いた○○は小さく息を吐き、肩を落とした。

 何となく予想がついていたとはいえ、こうも呆気なく言われると気落ちするのも致し方ないところだろう。

 

「ん……力になれなくてすまないな」

「いえ、慧音さんは悪くないので謝らないでください」

 

 そんな○○の様子を見た慧音は、少し間を置いてから謝罪の意を示す。このやり取りも形式となりつつあった。慧音も言葉こそ詫びているが、その口調はそこはかとなく義務的である。

 同じ問答を繰り返していれば、慣れが出てくるのが当然だ。慧音の態度を咎める気は○○には毛頭ない。

 

「まあ、なんだ。労働意欲があるのは素晴らしいと思う。だけど、そう短期間に何度も訪ねられても良い答えは返せないよ。果報は寝て待てとも言うだろう」

 

 十も陽が昇らぬ内に三度も来られては、人格者である慧音でも内心飽き飽きとしてくる頃だろう。○○に悪気があっての行動ではないので、感情を露骨に表へと出すのは控えているのだが、教師という職業柄では説教くさい面は抑えられないようだ。

 

「それに衣食住に困っている訳ではないだろう? 彼女からは仲良くやっていると聞かされているが、何か不満があるのか?」

「…………あ、いえ、そんな事は」

「彼女のような大妖怪と関係をもつのは、幻想郷に染まった人里の人間では務まらない。しかし外来人であるお前でも無理があったか。やはりあの時断っておけば良かったかもな……」

 

 ○○の、正座している膝の上に置いた手が、握り拳をつくるのを一瞥した慧音は、それきり遠い目をしながら沈黙する。互いに発している湿っぽい雰囲気が、部屋の中に漂い出した。

 ○○は居心地の悪さを誤魔化すように、目の前に出されている湯呑みを持って一口お茶を含んだ。恐らく客人用にと質の良い茶葉を使用しているはずだが、今の○○にはその風味を堪能する余裕はなかった。

 

 

 

 

 ○○は半年ほど前に幻想郷へと迷い込んできた外来人である。魑魅魍魎が跋扈する異世界に意図せず来てしまったにも関わらず、現代に生きる人間には不憫な環境にも瞬く間に適応し、人里で顔も知られる程度になっていった。

 

 そんな折、人里に度々訪れていた然る妖怪の目に○○の姿が止まった。彼女には外来人である○○は際立って映ったのだろう。所詮一目惚れである。

 だが、彼女は妖怪の身であるがゆえに白昼堂々○○に話しかける事も叶わず、遠目で見守る事しか出来なかった。

 日々募っていく抑え難き感情に彼女は、人里の重鎮であり度々○○の世話をしていた慧音に、仲を取り持つ場を設けて欲しいと懇願した。

 

 慧音は既に人里の住民となっている庇護の対象である○○を、自分の意思で妖怪と接触させるのには抵抗があった。しかし自分より遥かに格が高い彼女が、頭を下げてまで頼み込むものであるから、紹介するだけという条件で渋々呑み込んだ。

 

 後の見合いの場で、○○も彼女の事を気に入ってくれたのは、慧音にとっては幸いだった。○○が快く思わなければ、いくら聡明な彼女とて妖怪である事に変わりなく、強引な手段をとりえないからだ。両者同意の上なら、人間と妖怪だろうが口を挟む気はない。そして恋慕が実って成就した彼女が嬉し泣きして慧音に感謝したことは記憶に新しい。

 

 二人が関係を結び、共に暮らし始めてからは○○が慧音に会いに来ることはなくなり、また慧音も仲を邪魔しては悪いと思い、一抹の寂しさ胸に残しながらも身を引いていた。

 だが最近になって突然、便りもなしに○○の方から慧音の自宅へと訪問して来たのだ。

 

 さてどんな惚気話を聞かせてくれるのかと、どのように茶化してやろうかと。嬉しさ半分妬み半分の闇鍋のような心情で臨んだのだが、久しく聞く○○の言葉に慧音は一瞬で毒気を抜かれてしまった。

 

 ○○は挨拶もそこそこに、仕事を紹介して欲しいと頼んできたのだ。確かに以前、人里の顔役である慧音は○○を住民へと受け入れた際、不慣れな土地でも自立出来るように仕事を斡旋していた。

 人口の少ない幻想郷では、ただ若く健康な男というだけで付加価値が生じる。一成人として社交性も持ち合わせていた○○は、仕事先でも柔軟に現代の知識を発揮して、周りから頼られる位に評価も上々であった。

 

 惜しむらくは、後に彼女が住む人里の外へと住処を移す際に、折角慣れてきた仕事を辞めた事であった。しかし大妖怪の彼女と一緒ならば生活に困る事はなく、寧ろ一生を悠々自適に過ごすのは想像に難くないので、これは致し方なしと納得して、慧音はとやかく言う気を失くしたのだった。

 

 それなのに、である。あまり詮索を好まない慧音だが、○○に対して自分は後見人のようなものだと意識しているし、また好奇心も人並みには持ち合わせているので、何故また働こうと思ったのか、その理由を率直に尋ねた。

 

 だが、○○から何とも歯切れの悪い答えが返っていたので、両者共に八の字を寄せるしかなかった。やましい事があるから言いたくないのか知るところではないが、煮え切らない態度を見せる○○に苛立ちを覚えた慧音は、前触れもなしに来られても返答しかねるといった具合に、半ば追い出すように話を終えた。

 

「とりあえず、訳を話せるようになったら再度訪ねてくれないか。私に知られたくない事情があるなら、私を介さずに自力で探せばいいだろう」

「……そうですね、分かりました」

「私も多忙の身でな。稗田家から頼まれた編纂作業が山積みなんだ。だが、お前だからこそ、こうして時間を割いているんだよ」

 

 そして今日もまた、歴史は繰り返される。言葉を選びながら遠回しに退室を促す慧音に、○○はそれ以上口を挟む気も起きず、軽く挨拶をして慧音宅を後にした。

 

 

 

 人里の大通りは、まだまだ陽が高いので人混みや喧騒で溢れている。その雑踏に紛れるように○○の姿はあった。

 考え事をしているのか、顔は俯き加減で足取りも重たい。先程までの行動が、何の成果もなく徒労に終わったのも影響しているようだ。

 

「うわっ!」

「うおっ……」

 

 そんな心境では周りに注意を払う事も出来ず、前方から来る人影に気付かないで正面からぶつかってしまった。衝突した○○と体格の良い男が呻き声をあげた。

 

「おい、大丈夫か!?」

「……ぃってーなコラ! どこ見て歩いてやがんだ!」

「ああ、すみません!」

 

 どうやら相手は二人組の男達で、片方の細身の男が○○と衝突した男に声を掛けている。男は激昂しており、今にも殴りかかってきそうな剣幕で怒鳴っている。そもそも相手側も会話に気を取られて前方不注意だったのだが、同様に上の空であった○○には知る由もなく、自分の責任として謝罪するしかなかった。

 

「テメェ謝って済むモンじゃ——」

「っ! 与平! コイツに手を出すんじゃねぇ!」

「あん!?」

 

 ○○の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした男を、何かに気付いた連れの男が慌てて制止する。語気を荒げる男に連れの男がコソコソと耳打ちすると、一転して青ざめた表情で○○の方へと向き直った。

 

「……へっ、へへへ。すいやせんね旦那。前を見てなかったのは、あっしらのほうでした。コイツも血が上りやすいタチでしてね、どうか許しておくんなせぇ。……ほらお前も!」

「も、申し訳ね——ありませんでしたぁ!」

 

 先程までの逆上具合は何処へやら。深々と平謝りをする二人組を、○○は苦虫を噛み潰したような表情で見つめる。それを怒りと解釈した細身の男は、媚びた笑みを浮かべながら自身の懐に手を差し入れた。

 

「へへっ、あっしとしたことが気が利かんでした。これは迷惑料でござんす。どうかお納めくだせぇ」

 

 細身の男は懐から出した巾着袋を○○の前に差し出した。○○はそれを見つめて、更に眉間に皺を寄せた。

 

「……与平! お前も出すんだよ!」

「お、おう」

「これで、ご勘弁願えんでしょうか? どうか身を切るのだけはご容赦を!」

 

 ○○の顔色を伺ってまだ足りないと思ったのか、もう一人の男に怒鳴って巾着袋を追加させた。元より○○は既に二人を許しており、金銭なぞ要求する気は毛頭ない。だが、そうと分からない男達は○○の気に触る行動を取り続ける。

 

「そういうのは……受け取れませんよ。お互い怪我もないようですし、俺も騒ぎを起こしたくないので、もう良いでしょう。先を急ぐのでこれで失礼します」

 

 いつの間にか○○達の周りには、何事だと言わんばかりに野次馬が集まっていた。○○はばつが悪い状況に軽く目眩を起こしながら、一方的に話を切り上げてその場を足早に去っていく。

 背後から悲鳴にも似た感謝の言葉が聞こえてくるが、毛ほどにも相手にしないで先を急ぐ。

 

 道行く先で○○の姿を認めた通行人は、目を逸らして大袈裟に道を開けていく。中には以前から見知った顔もあった。

 普段なら軽く挨拶くらいはするのだが、今では目線すら合わさずに逃げていく。

 

 まるで腫れ物に触るような扱いだ。だが、○○は彼等を責める気にもなれない。

 幻想郷で生きる人々には生まれた時から存在する妖怪への恐れ、あるいは畏れが本能的にそうさせているのである。

 その本質を理解した時には、もう抜け出せない底無し沼に両足が入った後で、ゆっくりと引きずり込まれるのを待つしか出来ない状況だった。声を上げても、誰も助けてはくれない。

 ○○にとって人里は、居心地の良い場所では無くなっていた。

 

 背後に付いてまわる強大な影は、彼女と共にいる限り永久に離れる事はないのだろう。

 ○○はやるせない思いを胸の内に燻らせながら、真っすぐ帰路につくしかなかった。

 

 

 

 

 

 人里の門をくぐり、数分ほど歩いた頃。○○の前方にその行く手を遮るように空から何者かが降り立った。

 

「お待ちしておりました、旦那様」

「……橙か」

 

 橙と呼ばれた少女は、自身の手をヘソのあたりで重ねて深々とお辞儀をする。それは齢十を過ぎた辺りの年端もいかない少女が、大の大人に向ける態度ではない筈だ。

 それに、橙は姿こそ人なれど人にあらず。その栗色の髪に合わせるように、黒色の猫耳が二つ主張している。背後には二股の黒い尾が揺れており、化け猫の類であるのが見てとれる。

 妖怪から見れば下等となる人間相手に頭を下げる行為は、あまりに異質だと捉えられよう。

 

「もういいから、頭を上げてくれないか」

「はっ、失礼します」

 

 ○○は内心うんざりしながら声をかける。○○が許可をしなければ、いつまでもこうべを垂れ続けるからだ。

 口を一文字に結び、○○へと向ける引き締まった表情からは、不平不満といった負の感情は一切読み取れない。さも当然と示さんばかりの毅然とした振る舞いである。

 

「で、何の用だ?」

「はい。半刻ほど前に藍様から旦那様をお迎えするようにと仰せつかりました次第。化生の身である私奴が人里に入れば、旦那様の心象が悪くなると思い、この様な場所で待たせていただきました」

「……まずいな。もう帰っているのか」

 

 何を隠そう○○の恋人とは、彼の有名な大妖怪『九尾の狐』そして幻想郷を管理している八雲紫の式神、八雲藍その人である。

 

「本邸までの帰路は、僭越ながら私奴が先導致しますので、急ぎ戻られますよう進言します」

「ああ、早く帰らないとな。だが、わざわざ迎えをよこすなんて大袈裟だな。これがあるから、妖怪に襲われる事はないのに」

 

 ○○は愚痴をこぼしながら、自身の右手首を見やる。そこには金色に輝く毛で編んだ腕飾りが着けられている。退魔の念が込められていて、低位の妖怪であれば寄り付かなくなる代物だと、贈り主の藍から聞かされている。

 

「……それだけ、旦那様を想われているという事ではないでしょうか」

「なら、俺はとんだ果報者だよ……まったく。だからこそ……いや、何でもない」

 

 橙は異性としての意見を率直に述べたつもりだが、○○は顔を曇らせて言葉を濁した。

 藍は容貌の整った女性が多い幻想郷の中でも、傾城傾国と称される程の器量好しである。その女性に一途に恋慕の情を向けられているというのに、何の不満があるというのだろう。

 妖怪としても男女の色恋にしても若輩者の身である橙には、ついぞ理解しうる心境であった。

 

「では行きましょう」

「待ってくれ。急ぎなら歩くより飛んだ方が速いんじゃないか? 俺は飛べないから、橙が俺を抱えてさ」

「え、それは……そうですが。あの…………いえ、旦那様がそう言うのであれば従います」

 

 ○○の提案に、歯切れが悪そうに戸惑う橙。少しの間思案した後、おぼつかない手つきで○○を抱えて飛び始めた。

 既に橙の息はあがり、胸の鼓動は爆発しそうな程跳ねている。手はベタ付いて、多量の発汗で式が剥がれるのではと懸念しながらも、妖力を速度を上げる事だけに集中させて先を急いだ。

 

 

 

 

 人里から遠く離れた、疎らな雑木林に囲まれた名も無き場所に、公家の物かと見紛う程立派な屋敷が建っている。そこの門口に○○を抱えた橙は降り立った。

 

「はぁ……! はぁ……!」

「随分と息が荒いが、大丈夫か? 重かったなら無理をさせてしまったな」

「え、げふっ! めっ、滅相もごじゃいましぇん! ふへへ……」

「お、おお……」

 

 橙があまりにも具合が悪そうにしていたので心配して声を掛けたのだが、橙はむせ込みながら頭を振って愛想笑いを浮かべる。○○はその様子を見て訝しげに眉をひそめつつも、労いの意を示そうとして、そっと橙の頭に手を伸ばした。

 

「っ!? ひぃっ! ごめんなさいぃぃ! 許してください! ゆるしっ……うっく、うげええぇぇっ!」

「うわっ! な、なんだ一体……」

 

 橙の被っている帽子に手が触れた瞬間、磁石の同極が反発し合うかのように橙は飛び退いた。そして小刻みに身を震わせた後、一気に嘔吐し始めた。

 

「かへっ! おえぇっ……んむ、かはっ、んはぁ……! はぁ……はぁ……はっ、ぁ、ああ……あああ!? 」

 

 橙は胃の中のものを全て出し終え、しばらく呼吸を整えている内にふと我にかえった。自分が○○の目の前で仕出かした、あるまじき失態。辺りに漂うすえた匂いが、否応なく現実を突きつける。

 

「旦那様、申し訳ございません! 敷地を、汚してしまいましたぁ……うううぅ……」

 

 愛嬌のある顔を涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃにしながらも、頭を必死に下げて謝罪する橙に、○○は反射的にたじろいでしまった。

 だが、それも数秒の事。口の中にいつの間にか多量に溜まっていた唾を飲み込み、顔を和らげて向かい合う。

 

「頭を上げてくれ橙。ああいやっ、辛いならそのままでも構わないから、話を聞いてほしい」

「あううぅ……ぅ?」

「ここは家の中でもないし、そこまで気に病む必要ないんだ。でも、まさか吐き出すとは俺も思わなかったから、少し驚いてしまったけど。ほら、妖怪って皆当たり前に空を飛ぶだろう? だからそんなにも体力を使うなんて考えもしなかったんだ。謝らなければいけないのは俺の方だよ」

「旦那様……」

 

 

 橙は間抜けな声を出して、顔をゆっくりと上げた後、続く言葉を聞いて潤んだ目を丸くし、時が止まったように静止した。

 

 思い起こせば、相手は妖怪といえども藍の式神といえども、同じ言葉を話せて意思疎通が出来るのだ。

 初めて対面した時から、卑屈な態度をとる橙をあまり好意的に見ていなかった○○だったが、今の橙を見ていると少女の姿なのも相まってか、庇護欲が胸の底から湧き上がってくる。

 なんでも言うことを聞くからと、いつの間にか都合が良いように扱っていた自分に憤りを感じて、手を爪が食い込む程強く握りしめる。

 

「そうだ、良かったら家の中で休んでいかないか? 藍には俺から話しておくからさ。茶でも飲めば少しは気分も落ち着くだろうし、俺も橙の事を知りたいんだ」

 

 ○○は、ふと思いついた事を提案した。橙と腹を割って話す機会を設ければ、もう少し気の張らない関係を築けると考えたのだ。

 

「あ……えっと……はぃ。……い? い!? いえっ! それだけは、駄目なのです! 藍様と、旦那様だけの住まいに、お邪魔する訳には、いかないので、どうか私奴の事など気にせずにぃ! 」

「そ、そうかい? そこまで言うなら……」

 

 橙は立ち尽くして躊躇逡巡しながらも、○○の配慮を一旦は肯定したように見えたのだが、途端に血の気を引かせて身振り手振りで否定した。気を使ったのに、逆に使われては○○も立つ瀬がないというもの。

 今の橙には、せっかくの好意を露骨に無下にするのは失礼であると、真っ当な判断を下す余裕など無かったのだ。○○が不快感を微塵も抱いていないのは幸いだった。

 

「まあ……運んでくれてありがとうな。じゃあ道中は気をつけて、ゆっくり帰るんだぞ」

「は、はいぃ。では、私奴はこれにて失礼致します……」

 

 ○○は、一礼してふらふらと飛び去っていく橙を姿が見えなくなるまで見送った。そして視線を戻すと、既に土に吸収されつつある水気の多い吐瀉物が目についた。○○は少しの間立ち尽くした後、地面を蹴ってそれに土を被せた。

 

 ——今度会うときは、マタタビを持っておこう。

 

 ○○は振り返り、やたら立派な造りの門をくぐった。

 ちなみにこの屋敷の周りには強力な結界が貼られており、○○と藍以外の立ち入りを阻んでいる。しかし例外として、八雲紫のように特殊な能力を持つ者と、藍より格上の者には意味をなさない。有象無象の輩では、屋敷を認識するのも叶わないだろう。

 

 玄関の戸に手をかけて深呼吸をする。そして開いた先には、予想通りの光景が広がっていた。

 

「おかえりなさい、○○」

 

 凛とした声が反響する。硬い木造の床にも関わらずに正座をして、見るものを一瞬で魅了してしまう優美な笑みを浮かべている藍と目があった。藍はそのまま三つ指をついて、深々と頭を下げた。

 

「ただいま、藍」

 

 努めて冷静に、動揺を悟られぬよう神経を使いながら短く返事をする。顔を上げた藍の表情は変わらず微笑を湛えたままなので、○○は少しばかり肩の力を抜いた。

 

「外が幾分騒がしかったようだけれど?」

「……何でもないよ。ただ、橙と話をしていただけだ。それより今日はもう仕事は片付いたのかい?」

「ふふっ、○○の元へと一秒でも早く戻りたかったからなぁ。最近は紫様も気を使っているのか癇癪を起こす事も少ないし、随分と楽なものだよ」

「それは何よりだ」

 

 軽く雑談をしながら、土間の段差に腰掛けて草履を脱ごうとする○○の背中に、弾力のあるものがしな垂れ掛かった。

 

「藍? おい、やめっ」

 

 藍は○○の腕を巻き込んで拘束するように抱きしめ、○○の右肩に顎をちょこんと乗せた。藍の吐息を側で感じ、くすぐったそうに抗議の声を上げる。

 

「なぁ、○○。私に無断で外出するなんて酷いじゃないか。夫を家で迎える妻と言うのも趣があって良いものだけど、貴方に早く会いたくて帰ってきた私の気持ちを無下にするのはいけないなぁ」

「……悪かった。何分ただ待つというのも退屈なものでね。気ままに散歩に出掛けるくらいは藍も許してくれただろう?」

「……散歩? 徒歩では遠い人里まで、共も連れずに? 式神を呼ぶ霊符を持たずに?」

 

 ○○にとって好ましくない方へと話が流れている。聡明な藍であるから、的確に言葉尻を捉えてくる。肉体的にも精神的にも絡みつかれて、逃げ場など何処にもない状況だ。対面していないのが唯一の救いである。

 

「少し……語弊があったな。け——上白沢さんに会いに行ったんだ。ほら、あれ以来碌に挨拶もなく引っ越しただろう?」

「ふむ、慧音の匂いがするのはそのせいか。それに……橙の匂いもするな。えらく染み込んでいるようだが、よほど長く触れ合っていたみたいだな? まったく、あれ程『教育』を施してやったというのに粗相を仕出かすとは、お仕置きが必要だなぁ。くふふ……」

 

 一瞬、藍から発せられたとは思えないほど粘り気のある声が、○○の鼓膜にまとわり付いた。

 ○○は今になって藍の嫉妬深さを甘く見ていた事を後悔した。同時に、橙の様子がおかしかったのも合点がいった。結局は藍の影に怯えていただけに過ぎなかったのだと。

 

「……藍、誤解しているぞ。俺が橙に飛んだ方が早く帰れるからと言って、抱えてもらったんだ。命令に従っただけで、悪くはないはずだ。それに橙は随分と疲弊していた。その『教育』とやらが何かは知らないが、余り追い込むような真似はよしたほうがいい」

 

 しかし先程の橙を見る限り、このままだと良からぬ未来しか待っていないのは想像に難く無い。理由はどうあれ、嘔吐する程に精神的苦痛を受けているのだ。

 橙があまりにも不憫であると思った○○は、どうにか藍を宥めようとする。だが耳元で歯軋りをするような音が鳴り、自身を締め付ける力が痛いくらいに強くなった事で、それは逆効果であったと痛感した。

 

「いやに橙を庇い立てするのだな。……彼奴め、いけしゃあしゃあと私の○○の心を乱しおって。くっ……○○の為に夕飯を作って迎えたいと欲を出して、使いを送ったのがいけなかった。……そもそもあれの、式が無ければ知性のかけらもない化け猫風情の何処がいいんだ? ろくに家事もこなせない能無しで、人を化かす事しか取り柄が無いのに、そんなのと共にいて○○が幸せになるはずがあるか! おまけに……ふん、男を知らぬあんな貧相な体では○○も満足出来ないだろう。私なら……そう、私しか○○に釣り合う女はいないのだ! なぁ……何故それが——」

 

 妖気を辺りに振りまき、聞くに耐えない呪詛のような罵詈雑言を、この場に居ない橙に向かって浴びせ続ける藍。

 ○○が知る藍は、大妖怪でありながら非常に温厚で聡明で、それでいて優美で。それなのに現在乱れに乱れ、普段とは真逆の振る舞いをとっている藍の声を聞き、○○は自分の心に染み渡る心地よい感情に酔いしれた。

 

「藍!」

「なっ、○、○○?」

 

 ○○は藍の拘束を力尽くで解き、振り返って向かい合った。そして藍のこがね色の瞳を直視する。それは光を失って酷く濁っていたが、目尻に浮かぶものを確かに認めた。

 

「あっ……んっ……」

 

 藍の肩を強く掴み、自身へと引き寄せる。呆気にとられて為すがままの藍。○○はその瞳から視線を外す事なく顔を近付けていく。○○が求めているのを察した藍は、吐息を漏らして静かに目を閉じた。

 

 そうして互いの唇が触れ合った。その瞬間、固く張っていた藍の尻尾が柔らかくしな垂れた。何の変哲も無い、ただ触れ合うだけの口づけ。それだけでも、藍の心に芽生えている疑心暗鬼を拭い去るには充分だった。

 藍は男女の房事に関して、齢千年以上も生きているだけあって経験豊富であり、殊に房中術は男を一夜で虜にして堕落させる程だ。

 そんな彼女だろうと、本心から惚れた男に愛情をぶつけられれば、生娘のような反応を示してしまうのである。

 

「あん……」

 

 やがて息が続かなくなり、○○の方から身を離した。藍は目を細めて、名残惜しいと言わんばかりに嬌声を上げる。

 

「……ごめんなさい、取り乱したりして」

「ああ。少し驚いたけど大丈夫だ」

「さぞかし、見苦しかったろうな。でも不安でしょうがないんだよ」

「不安? 何がだ」

 

 すっかり落ち着きを取り戻した藍は、居住まいを正して心情を吐露し始めた。○○も余計な口は挟まず、藍の言葉に耳を傾けた。

 

「うん……隠していた訳じゃないけれど、私は過去に幾度か人に化けて、意中の人間と契りを交わしているんだ。相手も快く受け入れてくれたから、初めの内は例に漏れず幸せだった。……だけど長くは続かない。平穏な生活に気が抜けて、不意に変化が解けて狐の姿を晒した時、私を見た彼等の表情には必ず恐怖が表れていた」

「その後、私が幾ら話をしても彼等は聞き入れてはくれなかった。私の元から逃げ出したり、恐怖のあまり幻覚を見るようになって自殺したり。片や私を殺そうとして、陰陽師に売り渡した者もいたなぁ……ふふ」

 

 遠い昔。幻想郷が造られる以前の話である。それは多少の脚色を経て、○○が生きる時代にも伝承されて歴史に残っている。

 

「私は人間と同じように普通に恋をして、愛し合って、子をもうけて。そして共に歩んできた伴侶と鬼籍に入る。そんな当たり前の人生に憧れているだけなのに」

 

 藍は語る内に感傷に浸り、目を充血させて大粒の涙を零した。思わず顔を覆い隠そうとした手が、○○によって引き止められた。

 

「……○○?」

「藍。君は正体を明かして、裏切られるのが怖いのか? 俺は藍が狐だろうが狸だろうが構わない。もし妖怪が怖いのなら、元々あの時に断っていただろう」

「うん……それは分かってる。○○が私を、妖怪であるのを含めて受け入れてくれた事は、嘘偽りではないと。例え打算があったとしても、私は凄く嬉しいよ」

「じゃあ——」

「だから、私はこの幸福を逃したくないんだ。だから、○○を私だけのものにしたいんだ。それこそ監禁してでも、体を使って籠絡してでも! ……でもそんな事をしたら、本心から愛し合うなんて出来ないじゃないか。一方的な愛など、私は認めたくない……」

 

 声を震わせながら、思いの丈を打ち明ける。最後の言葉は、消え入るような声だった。

 今の藍は理性と本能がせめぎ合い、極めて不安定な状態である。足元をほんの少し崩してやれば、いとも容易く壊れてしまうだろう。主従関係で付き合いの長い八雲紫でも、この様な弱々しい姿の藍は見た事がない筈だ。

 

「……私がこんな湿っぽい女だと分かって、幻滅しただろう。妖怪の力を使わなければ、惚れた男の心を繋ぎとめておける自信が無いんだ。そんな私が人並みの幸せを夢見るなんて、ふふっ……随分な高望みだよなぁ。…………でも、もし、そんな私でも受け入れてくれるなら、私は身も心も一生、貴方だけに捧げよう」

 

 全てを曝け出し、満足がいったのか自嘲気味に笑った後、静かに視界を闇に閉ざした。それから大きく深呼吸をして息を整える。表情を引き締めて覚悟を決めた藍は、○○に選択を迫る。

 否定と肯定の二者択一。八雲藍という女の、そして○○の今後を左右する重大な選択。そう簡単に答えは出せそうにない筈だが、○○は即座に口を開いた。

 

「俺はあの見合いの席から今まで、ずっと藍の事を愛している。そして藍の思いを聞いて、その気持ちは確固たるものになった」

 

 藍は驚愕に目を見開いた。涙で視界が歪んでいるが、○○の表情をはっきりと見た。あれだけの重い感情を受けたというのに、○○は不快感を微塵も表に出さずに、優しく微笑んでいた。

 

「これからも、藍だけを愛し続けると誓う。こんな薄っぺらな言葉だけど、俺の思いは届くかな?」

「うっ……うううぅぅ! ○○っ!」

「うわっ!?」

 

 感極まった藍は、飛びついて○○を抱き締める。それだけでは飽き足らず、九つの尾を用いて○○の周りを埋め尽くした。

 

「ああっ、○○……! そんな、言われたら……はっ……はあ……! もうっ!」

 

 藍は獲物を見つけた獣の様な血走った目で、妖力を受けて身じろぎ一つ出来ずにいる○○の顔を見据える。そしてその唇を強引に奪い、舌を乱暴に捻じ込んで口内を犯す。唾液を流し込み、歯茎をなぞり、逃れようとする○○の舌を絡めとって吸い尽くす。

 

「れるっ……んむぅ! ……っはぁ……ふっ!」

「んんっ……ふむぅ!」

 

 息をする事も叶わず、苦しげな声を上げる○○だったが、既に理性が飛んでいる藍には、興奮を助長させる音色にしか聞こえなかった。

 酸素を供給するすべを失くし、○○の視界がゆっくりとぼやけていく。苦しさとは裏腹に○○の心は大いに満たされていた。

 

 

 

 

「——っ! ○○!」

「……ぐはっ!? げっふ! はあっ! はぁ……はぁ……あ、あれ。俺は」

 

 ○○はいつの間にか気を失い、床に横たわっていた。自分の名を呼ぶ声で、跳ねる様に目を覚ます。

 

「ああっ、良かった……! 私は同じ過ちをまた……」

 

 藍は○○の手を握りながら、安堵のため息を漏らした。顎をつたう大粒の涙が、膝枕をしている○○の顔に溢れる。

 

「……俺は、気絶していたのか」

「ごめんなさい、私も良く覚えていないんだ……。気付いたら○○が息をしていなくて、

 ううぅ……。慌てて妖力を使って蘇生させたんだ。危うく、殺してしまうところだったよ……」

 

 ○○は嗚咽を漏らす藍を見つめていると、今だ冴えない頭に邪な考えがよぎった。自分が先程まで死の淵を彷徨っていたとは信じ難い事であるが、恋人の手によって、愛ゆえに終焉を迎えられるのなら、この上ない幸福であろうと。

 それが歪んだ感情である事を自覚しているから、その刹那的な思考をすぐさま片隅へと追いやった。今やるべきなのは、愛しい藍を安心させてやる事だろう。

 

 ○○は重い体を起こして、藍の方へと向きなおった。そして不安げに膝の上に置かれている手を取って握り締めた。藍の興奮冷めやらぬ熱が、肌を通して伝わってくる。

 

「大丈夫。俺は藍を一人で置いては行かないよ。もし死んでも未練があり過ぎるから、その日の内に藍の枕元に立っているかもな」

「うん……絶対、一人にしないでほしい。○○が死んだら一生眠れなくなるし、必ずその日の内に後を追うよ……」

「おいおい。藍が死んだら、紫様も困るだろうよ」

「愛情は尊敬より重いんだ。あのお方ならばそれくらい許してくれるよ」

 

 まだ陽も落ちていないというのに、家の玄関で睦言を交わす二人。それを邪魔立て出来る者など、捻くれ者の巣窟である幻想郷の中にも居ないだろう。

 

「ああ、そうだ。これはもう返すよ」

「え?」

 

 ○○は自身の右手首に着けられた腕飾りを外して、藍に差し出した。○○は知る由もないが、これには○○は私のものだと主張する藍の誇示と牽制の意味合いが含まれている。大妖怪の所有物にわざわざ手を出す輩などいないので、結果的に妖怪を退ける役割も担っているのである。おまけに所有者の居場所をある程度探知する事も出来る。名称は束縛の腕輪と呼ぶのが相応しい。

 

「もう人里に用はなくなったから、一人で出かける事もないしさ。もし俺が信用出来ないのなら、これからも着けておくけど」

「そ、そうか! ○○の意思で、この場所に居てくれるのなら安心だ。……だけど、本当に慧音に挨拶しに行っただけなのか? それなら私も同伴しても良かったんじゃ……」

 

 思わぬところで話を蒸し返されて、○○はばつの悪い面持で頬をかいた。だが、今なら打ち明けられる心境にあったので、咳払いを一つしてから口を開いた。

 

「いや……実は俺も藍と同じで不安だったんだよ。藍の様な器量好しが、どうして俺に惚れたんだろうって。見合いをするまでは話をした事もないのにさ。気分を悪くするかも知れないけど、俺は狐である君に化かされているんじゃないかと考えていたんだ。人を堕落させて愉しむ、魔性の女だと疑っていたんだ。藍が居ないと生きて居られなくなるまで依存させて、そして忽然と姿を消すんじゃないかと。……それがどうしようもなく怖くて。だから、いつでも自立できる様に慧音さんに仕事を斡旋してもらおうと、何回か通っていたんだ」

「そうか、そうだったのか……○○も……」

「だけど、今はもう藍を信じられる。こんなにも俺を愛してくれているのだから。要らぬ心配を掛けて申し訳ない」

 

 ○○は誠心誠意頭を下げる。自分が抱いた女々しい感情のせいで、藍をまた不安にさせたから。

 

「……っ……ふっ。ふふふっ……くっ、くふふふふふ!」

「え、藍?」

 

 藍は耐えるように息を漏らし、そして堰を切ったように笑い出した。あまりに異様な雰囲気に、○○は顔をそっと上げた。

 そこには目を糸の如く細め、三日月さながらに口角をあげて笑う藍が居た。

 

「ああ……○○。貴方はこんなにも私の心を満たしてくれる唯一の男。そんな貴方だから、私の全てを知ってもらいたい。私の体の隅々まで味わってほしい。だから○○、私の愛を受け入れたまえよ……」

 

 藍のしみ一つない美しい手が、○○の頬を撫でる。○○という男の命運は、もう彼女の手の内にある。

 

 妖怪の底知れぬ愛。妖怪に魅入られた人間は、その生涯を掛けて応えなければならない。

 幻想郷に、逃げ場などない。

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