人里でアリスと別れた○○は、その足で寺子屋へ向かった。そこで教師を務める上白沢慧音に用があるのだ。
○○は寺子屋に入り、近くにいた女性に声を掛ける。その女性もまた、寺子屋に務める者だった。
○○は事情を説明して、慧音に取り次いでくれるよう頼んだ。女性は快く引き受けてくれたが、少し待って欲しいと言われたので、その場にて待つ事にした。その間、寺子屋の子供達が、物珍しい様子で、こちらを見ている事に気付く。
子供達の中には、好奇心旺盛な子供もおり、○○の周りを取り囲んできた。そんな子供達に、○○は質問責めにあう。どうしてここにいるのか。何をしにきた等々。
そんな中でも、○○は笑顔を絶やさず対応していた。
そして、しばらくすると先程の女性が戻ってきた。どうやら話はついたらしく、彼女は自分について来て欲しいと言ってきた。○○はその指示に従い、彼女に案内されるまま移動を始めた。
やがて到着した場所は、応接用の和室であった。そこには、慧音が正座をして待っていた。
「こんにちは、○○。元気そうで何よりだよ」
「こんにちは。上白沢さんも、お変わりないようで。ご無沙汰してます」
「ああ。まあ堅苦しい挨拶は、これくらいにしておこう。まずは、腰を落ち着けて話そうじゃないか」
○○は慧音に促され、用意された座布団の上に正座をした。ちゃぶ台を挟んで、慧音と対面する形だ。
彼女と会うのは、今回で二度目であり、前回よりいくらか気安い雰囲気である。しかし、彼女の持つ独特な佇まいからは、緊張を完全に解く事はできなかった。
それは彼女が教師だからなのか、それとも別の理由によるものなのか。いずれにせよ、○○は彼女に対して苦手意識を持っていた。
「お前が人里に来てから何日か経つが、幻想郷での生活は慣れたのか?」
「いえ、まだあまり……」
暖かいお茶を出しながら、慧音が近況について尋ねてきた。それに対し、○○はやや困ったような表情を浮かべつつ答える。
なにせ幻想郷と外の世界では、文明レベルに隔たりがあり過ぎるからだ。生活環境はもちろんの事、文化や常識なども全く違うため、○○にとっては全てが新鮮かつ驚きの連続なのだ。それに対応するには、○○はまだ若輩者で、経験不足と言える。
「だろうな。最初は戸惑う事ばかりで、不安になるかもしれないが、少しずつ慣れていけばいいさ」
慧音の励ましの言葉を聞きながら、○○は出されたお茶を一口飲んだ。それから一息ついて、改めて会話を続ける。
「それで、あの……僕は、いつになったら帰れるんでしょうか? そろそろ教えて頂けると、ありがたいんですけど……」
「ん? ……ああ、そうだな」
慧音は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに何か思い当たったように返事をする。そして、机の上に置かれた湯飲みを手に取り、中身を飲んで喉を潤してから、語り始めた。
「はっきり言うと、未定だ。今の段階では、いつになるか全く分からない。お前達外来人には、酷な事かもしれないが、しばらく人里で過ごしてもらうしかないな」
「えっ!? いや……そんな……」
慧音の発言を聞いて、○○の顔色が曇った。その反応を見て、慧音は何とも言えない顔をしながら続ける。
「お前が動揺する気持ちも分かる。向こうにいる家族が心配なんだろう? だが、こればかりは仕方がないんだ。間が悪かったと言うか……。とにかく今は、我慢してくれないか?」
慧音が申し訳なさそうに言った後、○○は黙り込んでしまった。前に彼女から聞いた話では、さほど時間は掛からないと言っていたはずだ。それがどういった理由で延びてしまったのだろうか。○○の疑問に対する答えはなかった。
「理由は……教えてくれないんですか?」
「……こちらにも、色々と混み入った事情があってだな。詳しくは話せないんだよ。すまないな」
「そう、ですか……」
○○の問い掛けに対し、慧音が言葉を濁しながら返答した。彼女は視線を落として、手元の湯飲みを見つめている。
○○も、それ以上は追求しなかった。何にせよ、ここで無理矢理聞き出そうとしても、意味はないと思ったからだ。
それに彼女は、○○に対して真摯に対応してくれていた。ならば、これ以上追及するのは、かえって失礼にあたると考えたのだ。
それから、しばらく沈黙が続いたが、やがて慧音が口を開いて話題を変えた。
「その代わりと言ってはなんだが、お前の生活と、身の安全は保障しよう。もちろん衣食住についても、最大限支援してもらえるよう手配してある。まあ、不自由はさせないよ」
彼女は○○の方を向いて、笑顔で語った。○○も釣られて微笑むが、内心では複雑な心境だった。
言うなれば自分は被害者であり、保護されるべき立場である。しかし彼女の厚意を受ける一方で、それだけ優遇されるという負い目もあったからだ。
そんな○○の考えを見透かすかのように、慧音が言葉を続けた。
「勿論、ずっとという訳ではないぞ。お前達を、里に住まわせるからには、それなりに働いてもらう必要がある。仕事は、こちらが斡旋するし、報酬も用意するつもりだ。生活も保証されているし、悪い条件ではないと思うがな」
慧音の話を聞いて、○○は少し考えた。確かに、この世界で生きていくためには、同じ人間として働かなければならないだろう。それは○○自身、理解している事であった。
○○は、今の状況に困惑しつつも、決して不満があるわけではない。むしろ、幻想郷での暮らしに馴染めず、途方に暮れていたのだから、こうして居場所を用意してもらえたのは、感謝すべきところである。
「それは、とてもありがたい話ですけど、僕なんかで務まるでしょうか? 外の世界では社会経験もないから、足手まといにならないかどうか……」
○○は自信無さげに呟いた。彼はまだ学生の身であり、社会人として働いた経験など皆無だ。そんな自分が、果たして上手くやっていけるのか不安なのだ。
しかし慧音は、そんな○○に対して、力強い口調で返答する。
「問題ない。人間誰しも、最初は初心者だ。それに、得手不得手というものもある。最初から何でも完璧にできる者なんて、滅多にいないさ」
「……そう言って貰えると、助かります」
「ああ。○○も、何か趣味や特技の一つや二つくらいあるだろう? 教えてくれたら、それを活かせる仕事を、私が選んでやる」
慧音が提案すると、○○は考え込むように腕を組んだ。
ぱっと思いつくのは、やはり裁縫しかない。妹の喜ぶ顔が見たくて、着せ替え人形の衣装を、自作したのが始まりだった。それをあげた時の妹の反応が嬉しくて、向上心に火がついたのだ。それから独学で勉強して、今では意匠を凝らす事ができるまでになっている。
「そうですね……。裁縫なら、人並み以上には出来ますけど」
「ほう。では、仕立て屋が向いているな。需要もあるし、外の世界の知識も役に立つだろう。先方には、私から話を通しておく。後日、こちらから追って連絡するから、それまで待っていてくれ」
話がとんとん拍子に進み、気が付くと、いつの間にか○○の仕事が決まっていた。○○としては、特にこだわりがあった訳でもないので、異論はない。ただ、妹を喜ばせるための知識や技術が、ここで生きるとは思わなかっただけだ。
「さて、そろそろ私は行かなくてはならん。里の案内でもしてやりたかったが、あいにく多忙の身でね。またの機会にしよう。○○の方からも、色々と聞きたい事があるかもしれないが、しばらくは我慢してくれ。では、失礼するよ」
「……はい、ありがとうございました」
そう言い残して、慧音が立ち上がった。そして部屋の出口に向かい、障子に手を掛けて立ち止まる。それから振り返らずに、○○に向かって言った。
「一つ聞きたいんだが、お前は外の世界に、恋人はいるのか?」
「……えっ? ……いや、いません、けど」
「そうか。ならいいんだ」
唐突な質問に、○○は戸惑いながら正直に答えた。それを受けた慧音は、素っ気なく返事をして、そのまま部屋を出て行った。
○○は、遠ざかる慧音の足音を聞きながら、しばらく呆然としていた。
その後。○○は慧音が斡旋してくれた仕立て屋の職に就いて、幻想郷での日々を過ごす事となった。
仕立て屋の主人は気の良い人物で、余所者である○○に対しても、懇切丁寧に様々な事を教えてくれた。おかげで仕事を覚えるのに、さほど時間は掛からなかった。仕事の内容も、○○にとっては趣味の延長のようなもので、苦痛は全く感じない。
○○は毎日、充実した時間を過ごした。職場の同僚とも仲良くなり、仕事終わりに一緒に飲みに行く事も何度かあった。
そんなある日の事である。
○○はいつものように、仕事を片付けて帰宅しようとしていた。時刻は夕方を回り、辺りは街灯が点き始める頃合いである。その帰り道の道端で、不意に声を掛けられた。
「よお、○○くん。もう仕事上がりか? 今日は早いじゃないの」
声の主は、見知った人物だった。○○と同じ境遇の、外来人の男性だ。
年齢は二十代半ば程で、○○よりも年上だ。背が高く体格も良く、顔つきも精力的で、女性に好かれそうな男である。
○○は笑顔を作って答える。
「あ、はい。ちょうど今、終わったところです」
「そうかい。なら、これから一杯どうかな? 勿論、俺の奢りだ」
「ええ。……でも、良いんですか? 彼女さんが、待っているんじゃ……」
○○が遠慮がちに尋ねると、男は首を横に振った。
「構いやしないさ。別に毎日顔を合わせてないと、愛想を尽かされるほど、やわな関係じゃない。結婚してる訳でもないしな。それに、たまには男同士、近況を語り合うってのもいいもんだろ?」
「まあ、そう言うなら……」
男の誘いに、○○は少し考えた後、承諾する事にした。この世界に来て、○○はまだ日が浅い。知り合いも少ないため、この機会に交流を深めるのも悪くないだろうと考えたのだ。
それに何より、帰宅しても一人なので、これと言った楽しみがないのが実情だった。
こうして二人は連れ立って、適当な居酒屋へと向かった。どこにでもありそうな大衆向けの店で、○○は店に入る前に、ちらりと看板を見る。店の名は、鯢呑亭というらしい。
「いらっしゃいませー!」
中に足を踏み入れると、元気の良い女性の声に迎えられる。店内は既に賑わっており、席はほとんど埋まっていた。客層は歳のいった男性が多く、二人のような若者の姿は見当たらない。
○○は、入る店を間違えただろうかと思い、隣に立つ男に目配せをしたが、彼は特に気にしていない様子だった。
「お二人様ですねっ。こちらへどうぞ!」
そうこうしているうちに、店員の女性がやって来て、空いている席へと案内された。二人が座ると、女性はお品書きを手に取り、それをテーブルの上に広げる。
「いやぁ、若いお客さんが来てくれると、私も嬉しいですっ。当店のお酒と料理は、どれも美味しいですからねっ。きっと、気に入って貰えると思いますよ!」
「はあ……」
明るい口調で、女性は説明を始めた。
彼女は、癖のある桜色の髪に、鯨を模した特徴的な帽子を被っている。瞳の色は澄んだ緑で、快活な雰囲気を持つ少女だ。歳は、十代の後半くらいだろう。
○○は、彼女の言葉に曖昧な返事をしながら、目の前に置かれたお品書きを見た。
飲み物だけでも、十数種類もある。食べ物に至っては、肉類や魚介類は勿論の事、野菜や果物まで豊富に揃っていた。値段は全体的に安く、良心的な価格である。
「私のおすすめは、これとこれ! あとこれも、是非食べてみて下さいっ。当店自慢の一品なのでっ! それから——」
注文を決めあぐねていると、少女が次々と料理名を指差して、嬉々として説明し始めた。○○は少し圧倒されながら、適当に相槌を打って聞いていた。
「じゃあ、それで良いですか?」
「ん? ……ああ、そうだな。とりあえず、それだけ頼んでみようか」
しばらくして、少女の熱意に押された○○が、少女の選んだ物を頼む事にした。男は、あまり乗り気ではなさそうな顔をしていたが、特に文句を言う事もなく了承した。
「はーいっ、ご注文承りました! すぐに持ってきますので、少々お待ちくださいね!」
彼女は元気よくそう言って、その場を離れた。その後ろ姿を見送りつつ、○○は小さく溜息を吐く。何だか、勢いに負けてしまった気がする。
○○がそんな事を考えていると、不意に向かいに座る男が口を開いた。
「あの子、結構可愛いよな。明るくて、話しやすそうでさ」
その視線は、忙しなく動き回る少女の後ろ姿を追っていた。彼の表情は、どこか羨ましそうである。
「それは……そうですね。僕も、そう思います」
男の言葉に、○○は同意を示した。確かに、先程の彼女の接客態度は、大いに好感が持てる。だが、異性に対する感情としては、微妙だと言わざるを得ない。
「はい、まずはお通しです! こちらがお酒になりまーす!」
その時、ちょうどお盆を持った少女が戻って来た。彼女は二人の前にそれぞれ、つまみの入った小鉢と徳利を置く。
「どうも。せっかくなら、君が酌をしてくれても良かったんだけどなぁ?」
「えぇー? どうしようかなぁ……。うちでは、そういう接待はやってないんですよねぇ……」
男の下心満載の誘いに、少女は困ったように笑った。そして、少し考える素振りを見せる。
「してくれたら、ここの常連になるかもなぁ。いや、常連どころか、毎日通うかもしれないし?」
「本当ですかぁ!? うーん……それなら、今回だけ、特別ですよ?」
「ああ、ぜひ頼むよ」
少女は頬に手を当て、悩ましげに呟いた。その様子を見て、男は満足げに笑う。少女は徳利を持ち上げると、慣れた手つきで男の杯を満たしていく。
その際○○は、周囲の客達から向けられる視線を感じていた。皆、不機嫌そうな顔を浮かべて、二人の様子を眺めている。○○は居心地の悪さを感じながらも、黙って様子を見ていた。
「あなたにも、はい!」
「あ、いや……僕は、いいですから」
男への給仕を終えた少女は、今度は○○の方を向いて言った。○○は、慌てて首を横に振る。
すると、少女は一瞬呆けた表情を見せた後、何かを察した様に微笑んだ。
「そうですかっ。では、料理が出来上がるまで、もう少しお待ちくださいねっ!」
やがて少女はそう言い残して、厨房の方へと去って行った。残された二人は、気を取り直して向き合った。
「いやぁ、良い娘だよなぁ。今時あんな子は、中々いないぞ。○○くんも、そう思うだろ?」
「そうですね」
男は上機嫌に笑いながら、徳利を手に取って掲げる。○○もそれにつられて、自分の杯を持って彼の酌を受けた。
「おまけに、あの胸よ! あれは反則級だわ。歩く度に、ゆさゆさ揺れてさぁ。あんな店員がいたら各方面に失礼だろ。しかし、つい目がいっちまうんだよなぁ……」
「はは……確かに、大きいですよね」
男がしみじみと呟いた言葉に、○○は苦笑した。彼女の胸にばかり注目していると、痛い目に合うのはこちらなのだが。
「あんな娘が彼女だったら、毎日幸せだろうなぁ。性格も明るくて、見た目も可愛くて、巨乳だなんて、理想的だよなぁ。俺、本当に毎日通っちゃおうかな」
少女の姿を脳裏に浮かべながら、男は陶酔気味に語る。○○は、それを横目で見ながら、内心で溜息を吐いていた。
「いやいや、浮気は駄目ですよ。あんなにも綺麗な彼女さんがいるのに、何を言っているんですか」
○○は、やんわりと男の言葉を否定した。彼には、同棲している女性が居るのだ。その女性を差し置いて、別の女性を褒めるのは如何なものかと思う。
「ああ、そういえばそうだったな。悪い、ちょっと調子に乗ってたわ。隣の芝生は青いって言うだろ? はははっ」
男は軽く笑って、○○の言葉を肯定した。○○は、ほっと息を吐き、手に持った杯に口を付ける。
それから他愛もない話をしながら、二人は料理を待っていた。やがて、注文していた品が運ばれてくる。それらに箸を付けつつ、酒を飲んでいると、不意に男が思い出したように声を上げた。
「そういや、いつになったら俺達は、元いた世界に帰れるんだろうな」
「……そうですね」
男の言葉を聞いて、○○は表情を引き締める。その問いは、○○にとっても頭の片隅にあった問題であった。
幻想郷に来てから、既に二週間以上が経過しているが、未だに慧音からの連絡は来ていない。このままでは、一生帰れないのではないか。そんな不安が、頭をよぎる事があった。
しかし、それを口に出してしまえば、余計に焦りが生まれてしまう気がする。だから、なるべく考えないようにしていたのだが、話題に出してしまった以上は仕方がない。
「俺は、ここでの生活も悪くないと思っているが、そろそろ向こうの事も気になってくるんだ。家族とか、友達とか、心配してそうだしなぁ」
男は杯を傾けながら、どこか遠くを見るような瞳をして呟く。
○○はその姿を見て、自分も似たような気持ちだと共感した。残してきた妹は大丈夫だろうか、両親や友人は元気にしているのか、自分は行方不明者として扱われているのか。そういった事が、気にかかってしまう。
「○○くんは、どうなんだ?」
男が質問を投げかけてきた。○○は、少し考えた後に答える。
「帰れるなら、今すぐにでも帰りたいですよ。でも……」
そこで言葉を切って、杯に残っていた酒を飲み干す。そして、空っぽになった杯を見つめながら、○○は続けた。
「でも、帰る方法が分からないから、待つ事しか出来ないんですよね。誰に聞いても、知らないって言われるだけで……。もしかしたら、帰す気がないんじゃないかなって……最近は、そう思うようになってきてます」
そう言って、○○は自嘲するように笑った。男は何も言わずに、黙々と料理を食べている。しばらく無言の時間が続いた後、男はおもむろに口を開いた。
「まあ、住めば都って言うじゃない。ここだって、案外居心地が良いぜ。この料理だって美味いし」
男はそう言いながら、目の前に置かれた料理を指差した。それは、○○も同意できる内容である。
「それに、やたらと美人が多いしな。俺としては、そこも評価が高いところだ。それが、妖怪だ何だって話は置いといて、な?」
男が冗談交じりに言うと、○○も思わず苦笑いを浮かべる。
「まあ、辛気臭い話をしても、しょうがない。今は、食って飲もうじゃないか。ほらほら、○○くんも遠慮せずに食べな。俺の奢りなんだから」
「あ、どうも……」
男はそう言って、自分の皿から料理を取り分けて、○○に差し出した。○○は、それを受け取って礼を言う。
男は満足げに笑うと、再び料理に手を付けた。その様子を見て、○○も箸を動かす。
やがて、二人は食事を終え、満腹感に浸っていた。
「ありがとうございましたー! また、いらしてくださいねっ!」
店を出る際に、少女の明るい声が響いた。
男は上機嫌に鼻歌を歌いながら、先を歩いて行く。○○は、その後をゆっくりと付いて行った。
月明かりが辺りを照らし、夜道を歩く二人を優しく包む。その道すがらに、男が思い出したように振り返った。
「俺は、まだ呑むつもりだけど、○○くんはどうする?」
「僕はもう結構です。明日も仕事があるので……」
○○は首を横に振って答えた。その返答に、男は残念そうな顔をする。
○○は幻想郷に来てから、初めて酒を知ったので、そこまで強くはないのだ。男のように多く飲む事はしないが、それでも顔には出やすい性質で、彼の頬は赤く染まっていた。
「そうだよな。無理に付き合わせて、悪かった。じゃあ、俺はこれで失礼させてもらうわ。おやすみ、○○くん」
「いえ、楽しかったです。ご馳走さまでした」
男はそう言うと、○○に背を向けて歩き出す。○○は、小さく手を振って、男の背中を見送った。
それから一人になった○○は、家に向かって足を進める。その途中、ふと思い立って、○○は立ち止まった。そして、周囲に視線を向ける。
普段であれば、この時間帯、そして脇道とは言え、もう少し人が居るはずだ。なのに、今夜に限っては、人の気配が全く感じられない。○○は不思議に思いながらも、歩みを再開した。
「○○」
すると、突然背後から名前を呼ばれた。○○は、驚いて振り向く。そこには、見覚えのある少女が立っていた。
「アリス……さん?」
「ええ。私はアリスよ」
○○が名前を呼ぶと、アリスは平坦な声色で肯定した。彼女の表情は、薄暗いせいかよく見えない。そして、何か不気味さを感じさせる雰囲気を纏っている。
「どうしてここに? こんな時間に……」
○○は困惑しながら、疑問を口にした。しかし、彼女は何も言わず、ただじっとこちらを見つめているだけである。○○は、居心地の悪さを感じながら、その場に立ち尽くしていた。
そのまま数秒が経過した後、アリスは一歩、また一歩と踏み出して、○○との距離を詰める。
そして、手に持っていた人形を目の前に掲げた。
「受け取って。貴方に渡したかったの。私の想いを込めて作った人形」
「え……人形?」
アリスはそう言って、○○の前に差し出した。○○は戸惑いながら、それを受け取る。
人形は衣装を纏っておらず、素体のままの姿であった。そして、その顔は、どこか目の前の少女に似ていた。
「どうして……あっ!」
○○は、そこで気付いた。以前、彼女から家に招かれた際、彼女が作った人形を欲しいと頼んだ事があったのだ。だが、あの時は断られたはずだ。
「アリスの人形。どうか貴方の色に染め上げて。それが貴方への贈り物」
「あ、ありがとう。大切にするよ」
○○が戸惑っていると、アリスは続けてそう言った。彼女が言いたいのは、自分で衣装を仕立てて欲しいという事だろう。○○は、そう解釈して、笑顔を浮かべながら答える。
しかし、それに対して、アリスは何も言わなかった。そのまま用が済んだとばかりに、踵を返してしまう。
「あ、ちょっと待って!」
○○は慌てて呼び止めた。アリスは、その言葉に反応して、首だけ振り返る。その瞳は、相変わらず感情が読み取れない。
○○は少し迷ったが、彼女に声を掛けた理由を話す事にした。
「僕さ、しばらくは人里に滞在する事になったから……。良かったら、またお茶でも飲もうよ」
○○の言葉を聞いて、アリスは無言で彼を見た。そして、しばらく黙り込んだ後、口を開く。
「アリスは○○を待っている。人形達に囲まれて。だから譌ゥ縺上い繝ェ繧ケ縺ォ莨壹>縺ォ譚・縺ヲ」
「……あ、えっと」
○○が返答に困っていると、アリスはくるりと身を翻し、その場から飛び去った。
残された○○は、渡された人形を片手に、呆然として佇んでいる。彼女は、あんなにも神秘的な雰囲気を纏っていただろうか。まるで別人のような姿に、○○は動揺を隠せなかった。
その後。○○は家に帰り、作業台の上に人形を置いて、椅子に座っていた。頬杖を突きながら、ぼんやりとしている。
アリスから貰った人形は、素体の状態であり、無機質な裸体を晒している。○○は早速、人形の衣装を制作しようと思い立ったのだが、中々手が動かなかった。
この人形には、どんな衣装が似合うだろうか。妹に喜んでもらうには、どうすれば良いのだろう。そんな考えが、頭の中でぐるぐると回る。
だが、酔いが進んだせいか、頭が上手く働かない。まぶたが段々と重くなっていくのを感じる。視界に人形が見えているはずなのに、焦点が定まらない。
せっかく彼女が作ってくれたというのに、裸のまま放置するのは申し訳ないが、衣装作りは明日でも構わないだろう。○○はそう思い、腕を枕にすると、机に突っ伏してしまった。
そのまま、眠りの世界へと誘われていく。意識を手放す寸前まで、彼は人形の事を考えていた。
『繧「繝ェ繧ケ縺ッ雋エ譁ケ縺ク蛻サ縺セ繧後◆』
混濁する意識の中、誰かの声を聞いた気がした。
それはとても優しく、愛らしい声で、自分の事を呼んでいるような感覚に陥る。いや、実際に呼ばれていたのかもしれない。
頬をぺちぺちと叩かれる感触があり、○○は目を覚ました。
「あー! やっと起きたっ。もう、こんなところで寝ちゃうなんて、駄目じゃない!」
○○は、視界に飛び込んできた光景に驚く。
そこには、青空を背にして、こちらを覗き込む少女がいた。その少女は、ウェーブのかかった黄金の髪を揺らしながら、○○を叱咤した。
○○は、ぼんやりとした思考のまま、少女の姿を見る。その少女は、人形のように整った顔立ちをしていた。年齢は十代前半ぐらいで、妹と同じ年頃に見える。
少女は、大きな青いリボンが付いたヘアバンドをしており、そこから垂れ下がった髪は、肩まで伸びていた。身に付けている衣装は、半袖の白いブラウスに、そこから肩紐で吊った、白いフリル付きの青いスカートである。いかにも少女らしい衣装だ。
○○は、少女の姿を目に焼き付けるように見つめる。すると、彼女は照れた様子になり、両手を後ろに回して、もじもじし始めた。そして、顔を赤らめながら、視線を横に逸らす。
「な、なによぅ……。そんなに、じっと見つめちゃって。恥ずかしいわ……」
そう言うと、彼女は一歩下がり、距離を取った。
○○は、その行動を見て、ようやく自分が彼女の姿に見惚れて、固まってしまっていた事に気付く。一旦目を閉じて、気持ちを切り替える。そして上半身を起こして、目の前の少女に声をかけた。
「ごめんね。えっと……君は?」
○○が尋ねると、目の前の少女は、不思議そうな表情を浮かべながら、首を傾げた。
「なに言ってるの? わたしはアリスよ。妹の名前を忘れるなんて、ひどいお兄ちゃんだわ」
アリスと名乗る少女は、頬をぷくっと膨らませて、露骨に拗ねた態度を見せた。
「……アリス? 妹? いや、それは違うよ」
○○は、困惑しながらも否定する。
アリスという名を持つ人物は、自分の周りに一人しかいない。しかし、目の前にいるのは、アリスと外見は似ているが、年が明らかに離れている。
それに、自分の妹は黒髪の日本人で、少女のような西洋風の容姿はしていない。それならば、やはり別人だろう。
○○の言葉を聞いて、アリスを名乗る少女は、少し驚いた様子を見せた後、すぐに笑みを浮かべる。
「お兄ちゃんは、寝ぼけているのよ。近くの川で、顔を洗って、目を覚まさないと。ほらほら、こっちよ」
「う、うん……」
アリスは○○の手を引いて、彼を立たせようとした。○○は、それに逆らわずに立ち上がって、彼女と一緒に歩き出す。
改めて周囲を観察すれば、ここは色とりどりの花が咲き誇る庭園であった。アリスが向かう方向には小川が流れており、小鳥のさえずりに混じって、涼しげなせせらぎが聞こえてくる。
○○は、アリスに手を引かれて、花畑を歩いていく。その間、アリスは上機嫌に鼻歌を口ずさんでいた。
繋いだ手からは、確かな温もりが伝わってきた。その暖かさが心地良く、いつまでも浸っていたくなる。
「ここよ、お兄ちゃん」
やがて二人は、小さな川に辿り着いた。流れは緩やかで、水面には太陽の光が反射している。風が吹く度に、木々の葉が擦れ合い、さざ波が立つ。
アリスは、水辺にしゃがみ込み、水に手を差し入れた。彼女のきめ細かい肌に、水が弾ける。
「あははっ!」
その光景を見た○○は、思わず息を呑んだ。まるで一枚の絵のように美しい光景だったからだ。楽しげに笑う少女の可憐さに、彼は言葉を失ってしまう。
そんな○○に気付いたのか、アリスは立ち上がって振り向いた。
「ほら、お兄ちゃん。水が冷たくって、気持ちいいよ」
○○は、アリスに促されるまま、川辺に膝をつく。そして、流れる水を手で掬い、顔にかけた。火照った身体に、川の水は染みるようだ。酔いが醒めるような気がした。
「これで、拭いてね」
○○が顔を洗い終わると、アリスは隣に座り、花柄のハンカチを取り出して、○○の頬に当てた。その優しい仕草に、○○は心が癒やされていくのを感じる。
「どう? わたしのことを、思い出してきた?」
アリスは首を傾げて、期待するような眼差しで○○を見つめる。澄み切った青の瞳に、○○は吸い込まれそうになる。思わず見惚れてしまうほどに美しかった。
しかし、○○はすぐに我に返り、アリスの言葉を否定した。
「……いや、やっぱり、君の……勘違いだよ。僕には、アリスという名前の妹はいない。そもそも、君みたいな可愛い女の子は知らないんだ」
○○が正直に答えると、アリスは目を丸くした後、くすくすと笑う。
「ふふっ。アリスのことを、かわいいとは思ってるんだぁ……。ふーん……」
彼女は、○○の答えを聞いて満足したのか、嬉しげな声音になった。
その様子に、○○は違和感を覚える。どうにもこの子は、自分をからかっているのではないだろうか。
そんな疑念を抱き始めた時、アリスは、急に真剣な目つきになって語り出した。
「ねえ、○○。私の事を記憶してね。お願いだから忘れないでね。心に刻み込んでね。絶対に覚えていて欲しいの。私はアリス。お兄ちゃんのアリス。貴方のアリス。○○のアリス。○○だけのアリス。他の誰でもない。私言ったよね? 約束したよね? お兄ちゃんのお嫁さんになるって。約束は守ってね? お兄ちゃんは、私だけの○○なんだから」
アリスは、早口に捲し立てるように言う。その表情は笑顔だが、どこか笑っていない様にも見える。○○は気圧されてしまい、言葉を返せない。
すると、アリスは○○の頬を両手で包み込んだ。そして、そのまま目を閉じて、口付けを求めるように自らの顔を近づけていく。
しかし、唇が触れる直前で彼女の動きが止まった。おもむろに○○から離れると、恥ずかしそうに身を捩らせる。
「あははっ。焦らなくてもいいよね。まだ時間はあるもん。お兄ちゃんからしてくれるまで私は待つよ。胸を焦がすほどの恋慕の情を我慢できるよ。○○の事を考えるだけで幸せな気分になれるの。この感情に浸れるのならアリスはずっと待ち続けられる」
アリスは、自分の胸に手を当てながら、熱っぽい視線を向ける。○○は、彼女の様子がおかしい事に気付く。先程までの言動は、明らかに普通ではなかった。まるで、何かに取り憑かれているかのようだった。
○○は、アリスに声をかけようとしたが、それは遮られてしまう。
「じゃあね、お兄ちゃん。また後で会おうね!」
アリスは、○○の背中を押して、川へと突き飛ばした。○○は、急な事で反応できず、呆気なく川に落ちてしまった。
水飛沫が上がり、全身に冷たい感触が一瞬で広がる。衣服が濡れて、身体に張り付いて重くなっていく。
川は予想以上に深いようで、底が見えない。○○は必死に手を伸ばしたが、水面にすら届かない。もがけばもがくほどに沈んでいく。見えない何かが、彼を引きずり込んでいくようだ。
○○は、息苦しさを覚え始める。酸素を求めて口を開くが、入ってくるのは、水だけだ。視界が、段々と、ぼやけていく。
もう、意識を保っている事が、難しくなってきた。
やがて、○○は静かに目を閉じた。
完全に意識を失う寸前、彼の脳裏に浮かんだのは、アリスの姿だった。
アリスの顔は笑っている。幸せそうな顔だ。まるで、愛する者と結ばれているかのような、満ち足りた顔をしていた。
そして彼女の隣には
彼女の隣には人形がいた