Fate/Blank Order   作:後菊院

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第三話

 

 

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 この世には不思議な事など何もないのだよ、関口君

                       ――京極堂

 

 

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 狼達は全滅するまでその場に残ってサーヴァント達と交戦するほど馬鹿ではなかったらしく、最初に襲い掛かった三、四頭がロビンとサンソンによって返り討ちにされた辺りで、群れのリーダーらしき狼が一声鳴くと、全ての狼は退却を始めた。少女達を保護しながら村の方へじりじりと後退する撤退戦――逃げながら、守りながらの戦いを覚悟していたサンソンだったが、ここは向こうの引き際の良さにある意味では救われた。

 最高に近い勝利をものにしたサンソンは――しかし、あまり晴れやかな表情ではなかった。

 動物を斬り殺したからというわけではない。それは彼に限って絶対にありえない。本職の戦士でこそないものの、純粋に人を殺した数だけを計るのならば、それこそ切り裂きジャックもビリーザキッドも、アーサー王やアッティラ王だって彼の足元にも及ばない――伝説の処刑人、『ムッシュ・ド・パリ』のメンタルはそんなことでは揺るがない。

 だからそれは過去からの不快ではなく、未来への不安だった。

「……これは」

 弱体化している。

 自らの戦闘能力が、明らかに弱まっていた。

 サーヴァントとして召喚されるにつけて、サンソンの肉体には生前のそれに加えて幾つかの特権的な特徴が見られた。

 「神秘を纏わない兵器の一切が通じない」こと、「生前より数段身体能力が優れている」こと、「気配を消して活動する技能が使える」こと、「自らの死後から二十一世紀初頭までの知識、特に歴史的な偉業を達成した人物の情報を抜け目なく得ている」こと――等。

 しかし狼達を相手にして剣を振るった感覚は、サーヴァントとして召喚されてから久しく経験していない「人間」としての感覚だった。

 処刑人の一族に生まれた以上、家業を継ぐ以外の選択肢はほとんどなく――自らも処刑人として働く上での必須技能の一つとして、剣術の手ほどきを受けていたサンソンは、剣があれば狼とも危なげなく戦えるが、しかし此度の黒幕は人智を超える魔神柱である。そんな強大な存在に、自らの人としての剣術一本で渡り合える自信はない。

 そもそも、サンソンの剣術はあまり実戦向きではない。『正義の剣』と呼ばれるサンソンの剣は、その名の通り、死刑宣告を受けた悪人を断罪する為のものであって、相手が絶対に逃げないことを前提に振るわれる剣である。つまり切先が尖っていない。剣を持って戦う時の選択肢の一つである『刺突』が使えないのだ。罪人を苦しみを与えない、一切の痛みを感じさせずにあの世へ送る術をひたすらに磨き続け、ラ・バール騎士斬首の折りには騎士が立ったままでの執行にも関わらず「斬った首が落ちなかった」という伝説を残すサンソンは、斬撃の精度、練度においてはカルデアにいる名だたる剣士達の中でも最上位だろう――しかし、攻撃手段の一つを失っている状況は、やはり大きなハンデとなる。

 殺すことに特化した彼は――戦うことに長けていない。

「……」

 先行きは不安だ。

 ――しかし、このまま行くしかない。

 特にこれといった救済策も無いが、サンソンは意識を切り替える。弱体化はこれ以上なく痛いが、今ここであれこれと考えていても仕方がないと考え直した。

 特典を持って異世界に飛ばされたと思ったら特典が無かったというレベルにはショックなできごとなのだが――サンソンはここから立ち直る。殺人犯を殺し、強盗を殺し、国王暗殺未遂の重犯罪人を殺し、王族に反逆した思想家を殺し、王族に睨まれた思想家を殺し、王族に疎まれた思想家を殺し、敬愛していた国王と王妃を殺し、民衆に吊るしあげられた貴族を殺し、革命の指導者の敵対勢力を殺し、革命の指導者の元同志を殺し、革命の指導者を殺し、年端も行かない少女を殺し、弱者としか言いようのない老人を殺し、男を殺し、女を殺し、あらゆる身分の人間を、あらゆる役職の人間を、あらゆる人間を殺して殺して殺して殺して殺しても尚崩れなかった彼の精神は、やはり並大抵ではなかった。

 奪われた戦力はあまりにも大きすぎる。だがこんなことでへこたれていては駄目だ。逆境でも何でも諦めてはいけない。そんなことじゃ英霊として失格だ――

 

「――やっぱり駄目でしたか」

 

 拾った宝くじが外れだった程度の口調で空々が呟いた。

「パワーアップした分が消えてます……。まあさすがにそう上手くはいきませんね。サンソンさんも同じですか?」

 特に何の感慨もなさそうな表情のまま、空々はサンソンに質問する。それは本当にただの事務的な確認で――何の葛藤も、何の絶望も見当たらなかった。

「……あ、ああ」

 一応は肯定する。しかし同調や共感は全くできない。

 サーヴァントの能力が得られたことを、「パワーアップ」?

 能力が消えたことを、「まあさすがにそう上手くはいかない」で済ましてしまうのか?

「…………」

 しばし絶句するサンソン。

 目の前で突っ立っている十二、十三歳ぐらいの少年に驚愕していた――否。

 震撼していた。

 何だ。

 何だ、この子は。

 この子は――一体何を考えている?

 

 

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 「空々空は一体何を考えているのか」というサンソンの疑問に対する答えは、二つある。

 一つは先ほどの台詞を口にした時、『サンソンさん』という呼び方が何だか変だと思い、これからは『ミスターサンソン』、或いは『ムッシュサンソン』と呼ぼうと決めたこと。

 もう一つは、「何でサンソンは自分のことを変な目で見ているのだろう」というものだった。

 お互いがお互いの頭の中で何を考えているのだろうと考えているこの図は、傍から見ればコミカルに思えたが、本人たちは至って真面目である。だが、サンソンと違い空々にはある程度サンソンの頭の中がわかった――見当がつかな過ぎて半ば思考を放棄しつつあるサンソンと違い、空々には正解に繋がるヒントが与えられていた。

 今の台詞は、どうもサンソンにとっては重大な内容があったらしい――

 そんな風に察する。

 そして、今現在空々達サーヴァントの身体に起きている「弱体化」という現象が、サンソンには大いに重大だったのだと気づく。

 なるほど、確かに今回の特異点は空々にとっては初陣であり、サーヴァントとしての能力を得てから日が浅く、今まで実戦で使う機会がなかったために、それが失われたとしても絶好調がいつも通りに戻っただけという印象しかなかったが、サンソンは違う。彼はこれまでずっとサーヴァントの能力に頼って戦ってきたのだ。それが無くなったといわれれば、そりゃ慌てるだろう。

 丸腰でジャングルに放り投げられたのと同じだ。

 ……空々の方もサンソンに一切共感できていなかったが、しかしこちらはあちらを一応は理解していた。まるで他人事の様な理解ではあるが――それでも理解は理解だ。

「でも……確かに、ここから先は慎重にいかなければいけないですね」

 だから空々は内容の無い言葉を、とても深刻な顔をして言う。

 弱体化を受けて絶望しているかのように。

 別にカルデアに英雄として召喚されてまで自分を取り繕う必要はないと思っている彼ではあるが、仲間内から嫌われる――遠ざけられるのは拙い。裏切られるなんてことは流石にないだろうが、生存に必要な情報を貰えなかったりする可能性が出てくる。味方から命を狙われるのには――まあ、ある意味慣れてはいるが、好き好んでそんな立場にいたくはない。先ほどあった、振り返ったマシュが自分を見て驚いて転んだエピソードを思い出しながら空々は慎重に自分を偽る。

 既にバレバレであるとはわかっていない。

「メディアさんはどう感じましたか?」

 ついでに他の者に話を振る。

 とは言っても、メディアは戦闘にはまったく参加していなかったので、あまり生産性のある話が聞けるとは、空々本人も思っていなかったが。

「……戦闘への影響だけで……済むとは……」

 独り言の様に吐き出されたそれは、しかし意外にも空々と発想が似ていた。

 すなわち、『戦闘能力が下がった』のではなく、『戦闘能力以外の能力は無事だった』と考えるスタイル。

 破滅的なプラス思考。

 そういう考えを持つ者が、自らの他にいたとは。

 サンソンに妙な目で見られていたから、空々にも少し疎外感のようなものができあがっていたのだろうか――孤独を紛らわせるために自らの同類を探すなんて最も空々少年らしからぬ心理なので、それだけでこの状況を解釈してしまうのは間違いな気もするが、しかしこれまでのやり取り――会話の流れの中で、空々はメディアの言葉の意味をそういう風にとった。

 特に違和感を抱くこともなく――そうとってしまった。

 彼女の発言から読み取れる別の意味――別の心理――『まるで彼女が皆を弱体化させたような口ぶりだ』という方向に、空々の思考が傾くことはなかった。

「……それより、ソラカラ。あなたさっき茂みの奥で何をしていたの?」

 と、今度はメディアが空々に質問する。

 彼女もまた、疑わしげな眼付きで空々を見ていた。

「あれ、キリエライトさんから聞いてませんか? 僕らの姿を女の子に見られたので、取り押さえていたんですけど」

 と言いながら、そういえば狼の襲撃どころでマシュも報告どころではなかったのだなと空々は思いなおす。

「女の子? 焚き火を囲んでいた少女達の中で、我々に気づいた者はいなかったと思うが……」

 サンソンが横から更なる疑問を空々にぶつける。心なしか、その口調には僅かに疑いの念が紛れていた。

「それとは別の子でした。白い髪の少女です――見かけてませんか? キリエライトさん達と一緒に逃げていった……」

 現在この場に残っているのはサンソン、メディア、空々の三人のみ――先ほどまではロビンもいたのだが、彼は立香達を追って立ち去って行った。当然マシュも白髪の少女もここにはいない。

「白い髪の少女……」

 サンソンにはそんな少女に見覚えは無かった。が、さっきは狼に集中していて逃げていく少女達など気にしていられなかった。自分が見ていないだけで、そんな子がいたのだろうか。

 空々が嘘を吐いているんじゃないかと一瞬思ったが、そんなマシュ達と合流するだけですぐにばれる嘘を吐く意味も見当たらない。

「……なるほど」

 鵜呑みにするわけではないが――この時点では、サンソンは空々の言葉を信じることにした。

 サンソンや他のサーヴァントが気づかなかった少女に、何故彼だけが気づけたのかという疑問を持つことはなかった。

「僕は焚き火の処理をした後で、万が一逃げ遅れた子がいないか辺りを周ってみるからまだここに残るが、メディアとソラカラはどうしますか?」

「私はこの獣をもう少し調べるわ。これらからは魔力が感じられる」

「? ただの獣ではなかったということですか?」

「ええ。詳しいことは調べないとわからないけど、おそらくはね」

 サンソンはそれを聞き、やけに獣たちが強かったのを思い出して納得する。そうか、あの違和感は自分の弱体化によるものだけではなかったのか。

「――ムッシュサンソン、見回りは僕がやりましょうか?」

 空々がそう申し出る。

 それは空々が自分も何かやったほうがいいんじゃないだろうかと思ったが故の、彼にしては珍しく気を利かせた提案だったが、サンソンはそれに何か別の意図があるんじゃないだろうかと穿った捉え方をしてしまった。

「いや……大丈夫です。ソラカラ。君はマスター達に合流してほしい。あちらはあちらで心配だ」

 ロビンとマタ・ハリがいるとはいえ、向こうは少女達を連れた大所帯だ。可能性は薄いだろうが、もしまた狼の襲撃があれば今度こそ危ない。

 だから空々を送るのだ――と、自分に言い聞かせながら、サンソンは言った。

 

 

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 ラヴィニア・ウェイトリーは他の少女達やマシュ、マタ・ハリとは別のルートを通って町への帰り道を辿っていた。

 狼の襲撃を受けた後に一人で夜の森を歩くのはとても怖かったが、自分を知っている他の少女達と会うのは抵抗があった。

 嫌だった。

 自分があの場にいたことがばれるのは――嫌だった。

 あの妙な東洋人の少年と眼鏡の女の人に顔を見られているので、ラヴィニアが別行動をしようが「白い髪の女の子がいない」という事実は露見してしまうのだが――その可能性に辿り着けるほど、今のラヴィニアは成熟していなかった上、冷静でもなかった。

 『――少し落ち着いて』

 身体を拘束され、生殺与奪の選択権を全て奪われた末に聞かされた、温度の無いあの言葉。

 風邪をひいて熱が出たからといって、氷水をぶっかけて体温を戻そうとする様な、暴力的な鎮静方法。

 今思い出しても背筋が凍る。

 生存本能が裸に剥かれ、死にたくない――殺さないでと、哀れな叫び声を上げそうになる。

「っ……。」

 嫌な汗が喉元をつたって服にしみる。

 実際のところ、ラヴィニアが皆と行動を共にしなかったのは、アビーがいたからではなく、あの少年がいたからなのかもしれなかった。

 あいつは――怖い。

 ある意味では、『自らが現在置かれている立ち位置』よりも遥かに恐れるべき対象だった。

 だが――と、同時に考える。

 混乱するラヴィニアの中でも微かに残っていた理性が、あの少年の「有用性」について思考する。

 いや、おそらくそんな未来はほとんどない筈だが、それでも或いは――と、こんなどうしようもない状況に置かれたラヴィニアは、その可能性について考えざるを得ない。そこにはどうしたって希望的観測がついてまわってしまうが、そうだとしても、現状を打開するきっかけに――否。彼は「切り札」として使えるのではないかとラヴィニアは推測した。

 彼のあの精神性は。

 おそらく、この町で最も強い武器となる。

 

 

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 カルデア内部を貫く――純白の廊下。

 ホームズはいつもとあまり変わらない表情のまま、パイプを弄びながらゆっくりとした歩調で自らのねぐらへと移動していた。

「……」

 彼の頭にあるのは勿論、あの少年のこと。

 ホームズにしたってダ・ヴィンチと同じく、彼の精神性――異常性は看破している。彼の真名の捜索こそ、カルデアから出ることのできないホームズの立場上調べきることはできていないが、それでもあそこまで露骨に際立っていれば、わざわざ素性調査をすることもなく彼という人間の輪郭ははっきりと見える。いくら上手く隠そうとも、ホームズを前に隠蔽は不可能だ。

「……」

 そこまでわかっていながらにして、しかしホームズは何の行動も起こしてはいない。

 基本的にはあまり他人に興味を持たないダ・ヴィンチでさえ、彼に対してはアプローチを仕掛けていたのだが、ホームズは徹底して彼に近づかないでいた。

 それは何故か。何故ホームズは彼を探ろうとしないのか――いや、実は一度だけホームズは彼に接触したことがあった。

 廊下で偶然すれ違った風を演出して、彼に声をかけた。そこで彼に対する自らの『推理』を披露し、彼に突きつけ、そしてこの施設で生活する上での制約を幾つか彼に言い渡そうとした時。

 その時、ホームズの推理は崩壊した。

 ばらばらに――土台からぶっ壊された。

 逆上して襲い掛かってくるのなら良かった――その恐るべき冷静さで、ホームズでも見過ごした着眼点から反論してくるのでもまだましだった。

 それならば、ホームズもここまでの致命傷を負うことはなかったのだから。

 ホームズによって追い詰められた彼は、冷静さを失って逆上してくるのではなくニヤリと笑いながら反論するのでもなかった――驚くほど静かな口調で、彼はただこう言った。

『――その台詞が貴方の口から聞けて光栄です。ホームズさん』

 

 

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 空々空という少年のことを、「いまいち英雄という感じがしない」「前以て聞いていなければサーヴァントだとわからない」などと評したマシュだったが――しかしそれは間違いだったと思い直す。さきほど彼が見せたあの行動は、限られた人間にしかできないそれだった。誰にもできない――物理的にではなく、精神的、心理的に抵抗感が生まれてしまうが故にこなすことができない偉業。力があるからできるというわけではない、勇気があるからできる英断。本当のヒーローとはああいう者のことを言うのだろう。

 ……そんなことを考えている自分があまりにも空々しくなってきた辺りで、マシュは思考を一度断絶させる。なんだろう、確かにさっき彼がやったことは最適解と言って差し支えない動きだったのに、それが全く実感できない。

 あの時ロビンやサンソンが交わしていた会話が、もしあの白髪の少女に聞かれていたとすれば、彼女をそのまま帰してしまうのは得策ではなく――口封じ……とはいかずとも、口止めを頼むのは必須だったし、その後狼の襲撃があってマシュが転んでしまった時も、少女をまず安全地帯に送るという行動は正しい。あのままあそこで空々が足を止めたとしても、マシュは「私のことは構いませんから、その子を安全な場所へ!」と叫ぶに決まっていた。その行程を飛ばしたのは、寧ろ時間が短縮されて喜ぶべきことなのだ。

 それなのに、何故。

 何故私は、こんなにも――

「……」

 子供たちと共に森の中を歩きながら、マシュは俯いて延々と思考の海に浸かっていた。渦潮の様にぐるぐると、海流の様に延々と流れ続ける慙愧と悔悟、自罰の念。壊れた映写機さながら、先ほどの映像が頭の中でずっと繰り返され、そのたびにマシュは傷を負う。

 彼は何も悪いことをしていない。少女に怪我を負わせてもないし、見殺しにもしていない。彼は何も悪くなくて、正しくて、最良の行動をとっていて――

 そんな空々が――怖い。

「――っ!」

 何かの拍子に思考がずれ、そんな場所に結論を持ってきてしまう。いけないいけないと、マシュは激しく頭を振った。そんな結論は出しては駄目だ。彼は何も悪くない。何も悪くない彼を怖がるなんて、それじゃあ私が空々さんを一方的に嫌っているようなものじゃないか。

 そんなことはマシュの良識が許さなかった。

 つまるところ、マシュは空々の印象が頭と心で一致していないのだ。持つべき筈の感情と、実際に持っている感情が食い違う。これが悪人やどこにでもいる普通の脆弱な一般人ならば、頭で考えた理論を忘れて、自身の直感を優先して相手への印象を決める。相手が正しかろうが尊かろうが関係なく、人は人を嫌う。それができないマシュは、だから模範とされるべき善人であり、矛盾しない強固な芯を持つ者なのだが――この場合は、そうであることがマイナスに働いてしまっていた。

 強さが弱さへと転じていた。

 自らに生まれた矛盾を上手く解消できず、戸惑っている。

 どれだけの理論で押しとどめようとも、濁流のようにあふれ出る理屈以外の感情に、マシュは未だかつて出会ったことがなかった。

「……」

「どうしたの、マシュ」

 名前を呼ばれて顔を上げる――そこには怪訝な表情でこちらの顔を覗き込む立香の姿があった。

「……いえ」

 別に何でもないです――と、マシュは答える。

「……本当に?」

 立香はいまいち納得していないようで、更にもう一度マシュに念を押してきた。マシュは笑顔を作り、「はい。大丈夫です」と、朗らかに――それでいてきっぱりと、立香の質問を跳ね返す。

「なら、いいけど――」

 あまり納得はしていなさそうだったが、それでも立香はそこでマシュへの追求を止めてくれた。気を遣ったのとは少し違うだろうが、何にせよ、マシュはほっと安堵する。

 白髪の少女の不在には未だ気づかない。

「――」

 ふと、先頭を歩いていたマタ・ハリがマシュの方を振り向いた。一瞬ドキリとしたマシュだったが、しかしマタ・ハリはマシュではなく、更にその後ろに視線を向けている。

 振り返った直後は体中に緊張を走らせていたが、しかしすぐに彼女は臨戦態勢を解く。

「よおっと。悪いなマスター、少し遅れた」

 マシュの背後から現れたロビンは、かぶっていたマントを取りながら立香の肩にポンと手を置く。

「お帰りロビン。他の皆は?」

「サンソン達は焚き火の片付けやら何やらをやってて、こっちに合流するのはもうちょっとかかる。俺だけ先に来たのは、マスター側の戦闘要員が心もとないと思ったからだ」

「あら、私は戦闘要員には数えてくれないのかしら?」

 マタ・ハリが軽口を気取って言う。

「本来なら頭数に入れるところだが――この状況じゃあ、な」

「ふうん?」

 『サーヴァントが弱体化している』という含みを持った言葉に、マタ・ハリは曖昧に頷く。

 まあ、仮にマタ・ハリが満足な戦闘能力を持っていても戦闘要員が一人という状況はやはりリスキーだ。他のサーヴァントとの戦闘や、先ほどの狼の様な襲撃者が来た場合、この場にいる全員を彼女一人で守り切るのは困難だろう。それはマタ・ハリもわかっていて、特に深く追求することはなかった。

「……あの、」

 ふと、先ほど「アビー」と呼ばれていた少女が立香におずおずと声をかけた。立香はくるりと彼女の方に向き直る――すると少女は「ありがとうございました」と、素直な人間性が溢れ出る仕草で礼を言う。

「おかげで森の獣から逃げられました。皆さんは、私たちの命の恩人よ?」

「どういたしまして。怪我が無くてよかったよ」

 立香はいつもと同じ人懐っこい笑顔で言う。

「俺は藤丸立香。君は?」

「はい。私は、アビゲイル。このセイレムで暮らしているの」

 アビゲイル。

 その名が指し示す意味は明白で、彼女の名前を聞いた瞬間から彼女はこのセイレムにおける最重要人物としてマークするべきだったのだが、この時不思議なことに、マシュもロビンもマタ・ハリも、そして立香も彼女の名前を気に留めることはなかった。

「皆さんはいったい……? 船乗りでも、物売りでもないみたいだし……。この村には巡礼者や旅の方はめったに――それに、とても不思議な格好だわ」

 これは予想出来ていた質問だったので、マシュはよどみなく用意していた答えをアビゲイルに出す。

「私たちは旅の劇団です。座長はこちら――まだお若いですが。セイレムに行く途中道に迷ってしまって、森に入り込んでしまいました」

 ついでに、自分たちが森の中にいた理由も言ってしまう。別行動中のサーヴァントとも予め示し合わせておいた言い訳なので、彼らが問い詰められたとしても矛盾は起きない。

 もっとも、アビゲイルは『劇団』という単語に反応して後の方はあまり耳に入っていなかったようなので、そこらへんの話は適当なことを言ったところでぼろは出なかっただろうが。

「劇団? わぁ、わぁあ……! でしたら、わざわざボストンから来てくれたの? なんて素敵なの! 本当の職人のお芝居なんてはじめて! みんなとっても喜ぶわ!」

 少女の喜ぶ姿は微笑ましく、こちらまで嬉しくなってくるようだったが、何せ嘘をついているので、マシュの心はチクリと痛んだ。

「……ところで今日は何日だっけ? アビゲイル?」

 我がマスターに隠蔽工作その他の才能は全く無いらしく、立香はドストレートに日付を聞いた。一瞬焦るサーヴァント達だったが、アビゲイルはそこにあまり疑問を持たなかったようで、親切にも日付のみならず西暦まで教えてくれた。

 それによると、本日は1692年4月21日。昨日が安息日だったということで、アビゲイルの記憶を疑う必要も無さそうである。

 しかし、1692年。

 半ば予想出来ていたことだったが、よりによってこの年かとマシュは心の中で嘆く。やはり今回の難関は狂気の魔女裁判で間違いないらしい。

「――アビゲイル。その方々は?」

 マシュがこれからどう動こうか考え始めて、周囲の警戒に意識をまわし損ねた時、狙いすましたかのようなタイミングでこちらに声をかけてくる影が現れた。

「伯父様」

 アビゲイルが彼をそう呼んだ後も、ロビンとマタ・ハリの警戒は緩まなかった。相手に気取られない程度ではあるが、彼らはいつでも戦闘に移れる体勢で待機する。

「子供たちばかり連れ立って、真夜中に家を抜け出して、森で何をしていたのか――それはあとで尋ねよう」

 それはとても理性的な所作の男性だった。おでこが広いが、決して歳を重ねている風には見えない――ここはアメリカ大陸だが、全体的なイメージは英国紳士を想起させる。そんな男性の前で、アビゲイルはしおらしく俯き、「はい……」と弱弱しく返事をした。

「伯父様、この方々は――」

 

 

 


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