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それこそ果てのない存在と自己の<一にして全>、<全にして一>の状態にほかならなかった。単に一つの時空連続体に属するものではなく、存在の全的な無限の領域―制限をもたず空想も数学もともに凌駕する最果の絶対領域―その窮極的な生気汪溢する本質に結びつくものだった。おそらく地球のある種の秘密教団がヨグ=ソトースと囁いていたものがそれだろう。これは他の名前を数多くもつ神性であり、ユゴス星の甲殻種族が<彼方なるもの>として崇拝し、渦状銀河の薄靄めいた頭脳が表現しようのない印でもって知っている神性である―しかしカーターは瞬時のうちに、こうした考えがいかに浅薄皮相なものであるかを悟った。
――ランドルフ・カーター
1
「私はこの町の外に出たことがないの」
無邪気な子供には似つかわしくない、かといって成熟した大人なら絶対にしないであろう寂しげな表情を浮かべるアビゲイルは、消え入るような声でそう言った。それは救いを求める言葉なのだろうが、マシュにはどうすることもできなかった。ボストンから来たなんてのは嘘なのだから。アビゲイルと同じで、マシュも外に出たことなんて一度もないのだから。外の世界は知識でしか知らない。七つの特異点を渡り歩いたマシュではあるが、あの経験を上手く誤魔化しながらアビゲイルに説明することは、マシュにはできなかった。
立香がいてくれたら。
一人でも大丈夫だと言ったマシュだが、立香が近くに居てほしいと思ってしまう。そんな自分が情けなくなる。一人で立つこともできないのかと自己嫌悪に陥る。それでもやっぱり、あの頼りになるマスターが自分の隣にいてほしいと願わずにはいられない。
「外に出たいのですか?」
ぎこちなくそんな質問をしてみる。
マシュ自身なら間違いなくうんと頷く問いだったのだが、アビゲイルは悲しそうな顔を俯かせるだけだった。だから少し驚いた。
「出たくないのですか? 何故?」
アビゲイルは顔をあげ、マシュを見つめ返す。しかしすぐに視線は逸れてしまい、東に広がる海の方を向く。海の底には深淵の青が佇んでいた。
「出てはいけないの」
僅かに声が震えていた。マシュはそこから恐怖の感情を見て取った。そうか、この年端も行かない少女は、外の世界に対して好奇心を抱くとともに、大いなる不安を予期しているのだ――と。
「無理に出ることはありませんよ」
怖いのなら怖くなくなる時が来るまで待てば良い。怖気づく子供を無理に冒険させる必要はないのだから。
親身になってアドバイスしたつもりだったが、しかしアビゲイルの表情は依然として曇ったままだった。俯く角度が少しきつくなった気もする。もしかして、なにかまずいことを言ってしまったかなと不安になるマシュだったが、「そうね」というアビゲイルの同意が、マシュの中に生まれた妙な罪悪感を消した。
2
メディアはどこにもいなかった。
立香、サンソン、ロビンの三人は十分に警戒しながらカーターの屋敷へと入り、できるだけ静かに二階へ上がった。彼女は『体調が悪い』から家に帰ったとのことで、だったら普通はベッドで横になっているのではないかというロビンの予想により、女子部屋にあるメディアのベッドに近づいてみたが、そこには誰もいなかった。
ただ一つ、奇妙なことにメディアのベッドの脇にガラス片――おそらくは割れたコップが落ちていた。その反対側には簡易的な丸いテーブルがあり、一リットルほどの容量がある瓶が乗っけられていて、その半分くらいまで透明な液体が注がれている。ただの水だろうと立香は思った。
「こいつは……どういうことなんでしょうねぇ」
誰にともなくロビンが呟く。
「外に出ていったのか? だが、これは――」
サンソンはベッドに手を置く。勿論温かみは感じられない。
テーブルにある瓶といい、すぐそばで割られたコップといい、ただ出ていったにしては説明のつかない奇怪な痕跡が立香達の目の前に立ちはだかる。
「コップを落としたのかな」
ベッドの脇を見下ろしながら立香が言った。
「わざとコップを割る意味があるとは思えませんからねえ。しかし何で――」ロビンはいきなり黙り、テーブルに乗せられている水に近づくと、薬品を扱う時のように手で扇いで臭いを嗅いだ。彼が何故そんなことをするのか立香には最初わからなかったが、「無臭……」というロビンの呟きでようやくその意図を察する。
「シャルル、成分はわかるか?」
「すぐにはわからない。ここには設備も無い――が、何とかしよう」
サンソンは苦々し気な顔をしながらそう答えた。
「割れたコップがある床も調べた方がいいんじゃない?」
立香の提案に二人は振り返る。
「水が蒸発して成分が残ってるとか、ないかな」
サンソンはもう一度破片郡の散らばる床を見る。
「確かにそうですね」
慎重に破片を取り除いていくサンソン。粉状に割れている部位もあるので、ガラス片と結晶をどうより分けるかが問題ではあるが、挑戦すべき問題であることは明白だった。
「これからどうするよマスター」
ロビンに聞かれて立香が真っ先に思い至ったのは、現在外に出ている空々とマタ・ハリ、そしてアビゲイルと一緒にいるであろうマシュの安否だった。
「皆で集まろう。心配だし、情報を共有したい」
頼りがいのある指示を出してくれる。世界を救った功績は伊達ではないと、ロビンは心の中に流れる安堵感を享受しながら思う。不測の事態に取り乱さないのは流石と言ってよかった。
皆で集まる。その要望は一時間程経ったカーター家の二階で叶えられた。
初夏の日差しが差し込む男子部屋にはロビン、空々、マシュ、マタ・ハリがいる。立香とサンソンは女子部屋で化学的な調査を行っていた。
「メディアさんの失踪ですか……」
ロビンの説明を聞いてマシュは深刻そうに呟く。椅子が無いので、彼女は床に座っていた。
「ティテュバさんやカーターさんは彼女の姿を目撃してはいないんですか?」
空々の質問に「まだ聞いていない」と答えるロビン。「慎重に行こうって話になった」
「慎重?」
「あの二人はいまひとつ信用できないんでね」
ロビンは窓側の壁にもたれかかっていた。
「女子部屋の状態がどうも『死体の無い殺人現場』臭えのさ。横に置かれた水差しといい、近くに広がったコップの破片といい、誰かがあの場でもがいたような形跡が見て取れる」
毒でも盛られたみてえに。
ロビンの言葉は周囲の気温を少し下げた。
「毒でサーヴァントが死ぬんですか?」
空々が聞く。
「死ぬぜ。ちっとは頑健になるけどな。でなきゃ俺が聖杯戦争で勝ち抜いていけたわけがない。耐毒系のスキルを持っていれば別だが、メディアにはそれもない」
「で、でも魔術を使えば解毒だって可能なのでは――」
「遅効性のなら問題なく祓えるでしょうけど、即効性の毒なら詠唱する暇も無く消滅してしまうでしょうね」
マシュの反論もマタ・ハリが潰してしまった。その後しばらく重苦しい沈黙が続く。
男子部屋の扉が開きサンソンと立香が入ってきたのは、そんなタイミングだった。
「よお、どうだった」
ロビンの問いかけにサンソンは苦々しく「ああ……」とだけ答えた。要領を得ない彼の態度を訝しんだロビンは、「なんだ、何かあったのか」とサンソンに詰め寄る。彼はそれでも何も答えようとせず、ロビンと目を合わせないよう床に視線を落とす。ロビンは立香の方を見た。他の者も注目する。立香は非常に言い辛そうに口を開いた。
「ガラス片が散らばっていた床から人体に有害な化学物質が検出されたんだ」
マシュが息を呑んだ。他の者達も一様に殺気立つ。
「そうか。じゃあメディアは既に消滅しているのかもしれないな」
「うん……」
言葉に妙な含みを持たせる立香にロビンは「どうした?」と聞く。
「ああ……その、毒の成分なんだけれど」
「ああ、何だった? 即効性の高い毒なんだろうが――」
「――タキシンだ」
「え?」
唐突にサンソンの口から放たれた単語を上手く聞き取れず、ロビンは彼の方を振り向いて聞き直した。
「あれは
3
「無論、確実ではない。マスターの魔術に頼らせては貰ったが、ここにまともな器具は無いから、おおよそこの状況で調達できるであろう薬物をまず挙げて、その中から該当する物質を拾い上げただけだ。確実な証拠は何もない」
何かを弁解するようにサンソンは何度もそう念を押した。決定ではない、確定ではない、絶対ではない。繰り返して言うサンソンは――しかし、一度もロビンと視線を合わせることはなかった。
「おい……。もしかして俺を疑ってんのか」
ロビンは冗談めかして言おうとしたのだろうが、それにしては少々笑みが渇き過ぎていた。
「……櫟はこの町でも十分調達できる」
「だから何だよ。カーターにもティテュバにも毒殺は可能だったってか? 当たり前だろうが」
「彼らはメディアの帰宅を知る機会があった」
「そりゃそうだ。この家に居たんだからな。カーターは書斎でティテュバは一階だ」
「メディアが死んだかどうかは未だに不明だ」
「そうだな。『体調を崩した』なんてすぐばれる嘘を吐いて家に戻った時点で怪しすぎる。何か別の意図があった筈だ」
「……」
サンソンは悲しみの籠った表情を一瞬作った後、すっと感情の無い平然の色に戻る。それは生前彼が仕事に臨む時の顔だった。あらゆる情を廃し、法と秩序、『正義』を執行する剣の仮面。
「『メディアがこの家に帰った』というのは、ロビン。君から聞いただけの情報だ」
いつもと変わらない声色。
いつもと変わらない表情。
何一つ変わりない彼の様子こそが、この時は異質だった。
「……冗談じゃねえぞ」
ロビンはサンソンから視線を離し、焦燥の瞳で周囲を見回す。皆、彼を見ていた。驚愕、困惑、不安――疑念。完全にロビンを黒と見ている者は誰もいなかったが、その逆もまた誰一人としていなかった。
「ちょっと待って、ロビンがそんなことをする意味がわからないわ――いえ、メディアを殺すところまでは、『メディアが怪しかったから念の為にロビンは彼女を始末した』という理屈がもしかすると通るかもしれないけれど、ロビンがそれを隠す意味は無いじゃない。だってそれは、曲がりなりにも私たちカルデアの為でしょう?」
マタ・ハリが冷静に疑問を呈する。それはロビンだけでなく他のメンバーにとっても救いとなる言葉だったが、サンソンと、そして空々の表情は晴れなかった。
「ああ。その通りだ」とサンソン。
「櫟の毒を見つけた時――ロビンがメディアを殺したのではないかと思った時、僕達はその疑問にぶつかる。メディアは本当に死んだのか、殺したのはロビンなのか、それとも他の誰かなのか。殺したのがロビンだったとすれば、真っ先に自分が疑われるであろう櫟を使うとは思えない。本当は他の誰かがロビンに罪を着せようとして櫟を使ったんじゃないか? 或いはメディアがまだ死んでいなくて、ロビンを陥れようとあんな痕跡を残していったのではないか? そんな思考に陥る筈だ――というか事実、そうなっている」
マタ・ハリはサンソンの次なる言葉を待つ。彼の真意を読めた者は現時点で空々一人だった。
「ど、どういうことですか?」
マシュが問う。この雰囲気が苦しくてたまらなかった。
「一度その思考に嵌ってしまえば、『メディアがロビンを殺した』可能性に辿り着くのは至難の業だ」
サンソンの言葉はこれまで目にしたどの宝具よりも鮮烈な衝撃を立香に与えた。
「え……?」とマシュは未だサンソンの言葉の意味を理解できていないようで、マタ・ハリや立香に視線を送る。空々とマタ・ハリはじっとロビンを見つめていた。部屋の入口付近に立つサンソンを睨むロビンは、色を失った表情をしていた。
「
マタ・ハリが呟く。そこでようやくマシュも得心がいったらしく、改めて驚愕の眼でロビンを見た。
「
4
昼食は朝と打って変わり、通夜のような静寂の中で粛々と摂られた。ロビンは居心地の悪さを隠そうと極めて普通に過ごしているが、口数の少なさは露骨だった。ティテュバはそんな『旅の芸人』達の様子を不思議そうに眺めていたが、敢えて話しかけることはせず、マシュやマタ・ハリと一緒に料理を作った後はまたすぐ何処かへ行ってしまった。
マタ・ハリは料理の準備の手伝いで一緒だったティテュバに向けてさりげなくメディアの話題を振っていた。「二時間程前に具合が悪くなって帰ってきたことは知っていますけど……」と、彼女は答えた。
それは収穫だったが、彼女の言うことを鵜呑みにするのも迂闊である。進展とは言えなかった。
皆と一緒に味のわからない昼食を食べ終わり、立香がまた朝のように皿洗いをしようとした時、「マスター」と空々に声をかけられた。
振り向く立香。
「ちょっと話したいことがあるんですけど」
空々は声を潜めていた。他の皆には知られたくない相談のようだと感じた立香は、「うん、わかった。これが終わったら聞くよ」と手に持った皿を見せて空々に言う。
「そうですか。ありがとうございます」
もしかしたら手伝ってくれるのかなあと思っていた立香だったが、この小さな英雄にそんな甲斐性は期待するだけ無駄だった。彼は一番キッチンに近い椅子を引いて、ちょこんと座る。そこで待つ腹積もりらしい。
「ああ、僕がやりましょう」
二人の様子を見ていたサンソンがキッチンに歩いてきて、立香から皿を優しく奪い取る。サンソンにマシュもついて来た。手持無沙汰になった立香は、椅子から立ち上がった空々と顔を見合わせる。
「どこで話す?」
「裏の森ででも」
既に考えてあったらしい。確かに森の中なら他の誰かに盗み聞きされる心配は少ない。わかったと頷きかけた立香だったが、
「さっきの女の子の話?」と、半ば強引に割って入ってきたマタ・ハリによって言葉を掻き消される。
「はい」
空々はマタ・ハリに頷いた。何のことかわからないが、二人の間では通じたらしい。『さっきの女の子』ということは、先ほど二人で出かけた時に誰かと出会ったのだろうか。
「私もついていっちゃ駄目?」
マタ・ハリはどちらかと言うと立香の方を向いて聞いた。了承したいのは山々だったが、それを決めるのは空々だと思ったので、立香は彼の指示を仰ぐように空々の顔を見る。
「……いいですよ」
少しの間があった後、空々はオーケーを出した。笑顔になるマタ・ハリ。
そこでようやくサンソンは皿を水桶につけた。
5
あまり深く分け入っていないにも関わらず、森の中は外とはまるで別世界だった。気温が違うし明るさが違う。何処かから襲撃されてもすぐには気づけない薄暗さだった。マタ・ハリがついてきたのには、護衛の思惑もあったのかなと立香は思う。
「昨日、狼の襲撃があった時に見つけた白髪の女の子とさっき会ったんです」
空々はどこか手近な樹に寄りかかることもなく、ただそこに立って話を始めた。
「ってことは無事だったんだ」
「はい。で、どうやら向こうも僕達を探していたみたいで」
少女の方もカルデア側を探していた?
それを疑問に感じた立香だったが、まあ自分を助けてくれた恩人を探し求めるというのは自然な行為なのかもしれないと思いなおす。
「彼女は私たちに助けを求めてきたのよ」
マタ・ハリの言葉は、立香の頭から消えかかっていたはてなマークを鮮明に戻してしまった。
「助け?」
「ええ……正確には、クウ個人に」
立香は空々の方を見る。こんな状況にあっても、彼の様子は普段と全く変わっていない。それはとても頼もしかったが、ある種不気味でもあった。
「助けを求めてきたって、具体的にはどういうこと?」
「……それが、詳しいことは僕と二人きりにしてくれなければ話したくないらしいんです」
「会った時、二人きりにはならなかったの?」
「招集がかかったので」
「ああ」
思わず頷いてしまったが、それは納得からくる同意というよりも、ある種の罪悪感による追求の遠慮によるものだった。
「それで、こんな状況なのはわかっているのですが、僕に単独行動を許してはもらえませんか」
「ああ――そうか。うん、えっと……」
立香は言葉に詰まってしまう。
OKのサインを出したいのは山々だったが、空々の言うように今は特殊な状況なのだ。カルデアとの連絡は未だ取れず、メディアが偽物かと思ったら忽然と姿を消し、仲間達は少しずつお互いを疑い始めている。ここで空々が一人で動くとなれば、彼に対する疑念が強くなるだろう。
「皆の意見を聞いてみない?」
苦し紛れに言うと空々は困った顔をした。自分でも名案とは思えなかったが、しかし空々の出立を決めるにはこれ以外の選択肢はありえない気がする。立香は助けを乞うようにマタ・ハリを見た。
「私はクウに話を聞きに行ってもらうべきだと思うわ」
意外にもマタ・ハリは空々の提案を是とした。
「リスクは勿論ある……でもこれは、状況が良い方に向くチャンスでもあると思うの」
確かにこのままではずるずると悪い方向に皆が傾いていってしまいそうなヴィジョンが立香の視界にもちらつく。どうにかここから脱却せねば、この特異点を修正することは不可能だ。
「でも、他の皆はこれに反対すると思うわ」
マタ・ハリはそう付け加えた。一瞬「何故?」と聞きそうになったが、彼女の表情から何となく察してその質問は差し控える。
「クウ、貴方はだからマスター一人に相談したのでしょう? ロビンやサンソンがいれば間違いなく貴方の自由な行動を抑制しようとするから。メディアがいなくなった今は、特に」
「そうですね。彼らはまだ僕を信用してくれていないみたいなので」
そうだったのかと意外に思う反面、心の何処かで立香は空々が皆から信用されていないという事実に納得していた。嫌な事実ではあったが、しかしそれは確かにその通りなのだと、パズルのピースが嵌るように立香の心に馴染んだ。
「でも、それだけじゃない」
空々は静かに呟いた。彼の言葉に引き寄せられるようにマタ・ハリは「どういうこと?」と質問をする。立香の耳も空々に傾けられた。空々はここで初めて周りをくるりと見回す。誰も聞いていないことを確認した空々は、しかし理屈無き不安に駆られることはなく、至って普通の音量で
「『
と、二人に聞いた。
6
「――地球、人?」
立香は空々の言葉を反芻する。
「そりゃ勿論知ってるけど……」
「ああ、すみません。ジンの字が違うんです。人じゃなくて陣営の陣。地球人じゃなくて地球陣」
地球陣?
何だそれは、初めて聞いた名前だと立香の顔に書いてあったのだろう。空々は「まあ知りませんよね」と、立香の答えを待つことなく話を先に進める。
「厳密なことを話すと長い上に、実は僕自身もよく知らないので大雑把な説明になりますが、要するに人類の敵です。人間に仇為す『怪人』とでも思ってもらえればいいんですけど」
怪人というワードを聞いて、立香の頭には小さいころ見ていた特撮ヒーローものの敵のようなヴィジュアルが浮かんだが、どうもそういう直接的な『怪人』と『地球陣』は違うらしい。いずれにせよ、サーヴァントやら聖杯戦争やらとはまた違うベクトルで浮世離れした話題に立香はいまいち実感を持つことができなかったが、「――それが、
「おそらくは」
空々が頷いた。それは立香にとって死刑宣告のような重みを持つ返事だった。
と、同時に何かが腑に落ちる感覚もあった。今までの特異点とは違う、敵の姿が全くつかめない、本当の意味での『正体不明』であった理由はそれによるものだったのか。
「彼らは人間に擬態します。それもある日突然、普通に生活している者と入れ替わって社会に溶け込む」
「それは『化ける』のかしら?」
マタ・ハリは立香なんかよりもよっぽど理解力が高いらしい。
「はい。人間の姿になるというよりは、周りの人間に自分の姿を『人間』に錯覚させる――という方が正確でしょうか」
「なるほど。見破る方法は何かしら?」
「一つは彼らの行動観察です。基本的に普通の人間と何ら変わりない生活を送っていますが、大なり小なり、地球陣は人類を絶滅させる為の行動をとります」
人類の絶滅。
立香は堪えきれず「ゲーティアの手先ってこと?」と空々に質問する。
「ゲーティアってソロモン王の魔神でしたっけ? 多分違います。それとは別の勢力です」
第三勢力?
ここへきて新たな敵の存在が発覚したことに少なからず立香はショックを受ける。空々の言葉が正しければ、人類史存続の戦いはまだ終わっていないということだ。
「大丈夫よリツカ。敵が何者だったとしても、私たちはこれから先もあなたに力を貸すし――何より、クウ。その『地球陣』との戦いは、あなたが決着をつけたんじゃないかしら?」
マタ・ハリの言葉に反応する空々。
「人類滅亡の危機を救ったことで、あなたは英霊の座に招かれたのでしょう?」
「……僕が死んだ後も戦いは続いていますけどね」
空々は少しの哀愁も感じさせない表情のままそう言った。
「それで、他の見破り方は何かしら。人類を絶滅させる為の行動をとるって、相当長いスパンで見ないとわからないわよね。もっと直接的に擬態――『変身』を見破るには、どうすればいいの?」
空々は右手を広げて前に出した。するとそこに妙な形のゴーグルが現れる。
「僕の宝具です。これを着けて地球陣を見ると彼らの本当の姿が見えます」
立香はまじまじとそのゴーグルを見る。ただのゴーグルには見えない。電気製品だろうか?
「本来なら充電が必要な電気製品だったんですけど、宝具になったので魔力で代用できます」
「なるほど――地球陣の擬態能力は魔術的なものではなく、科学的なものなのね」
ならば魔術的な千里眼などによる看破はできないと見るべきか? マタ・ハリの質問に、しかし空々は頷きあぐねている様子だった。
「どうでしょう、科学的って感じでもないと思いますけど――でも、だからって試しに魔術的な見破りをするのはやめてください」
「どうして?」
「眼が潰れます」
何気なく発された空々の言葉は、しかしかなりの衝撃を以て立香の身体を貫いた。
「眼が、潰れる?」
「はい。ですので不用意に見るのはおすすめしません。っていうか絶対やめてください」
「待ってクウ。それはトラップ? 地球陣を見るには正しい手順をこなさなければならないとか、そういうこと?」
驚く立香の隣に立つマタ・ハリは落ち着いて空々に質問をする。
「トラップ――そうですね。彼らのそれは初見殺しなんて生易しいものじゃないですけど。地球陣の姿が『美しすぎる』ために、普通の人が彼らの姿を見ると眼が潰れ、精神にも修復不可能なダメージが行きます」
「……ディルムッドの黒子のような能力?」
ぽつりと呟いてみた立香。
「そう……ですね。でも能力というよりは体質――或いはただ単に『外見』って感じです。魔術的な耐性を持っていても関係なく効果を発揮すると思います」
空々の説明を聞いてマタ・ハリは黙り込む。何かを考えている風だった。
「美しさによる精神攻撃……。じゃあクウのゴーグルはモザイク機能でもついているの?」
「いや、別に。これはただ、地球陣の姿を見ることのできるゴーグルです」
「……? じゃあ何でそれで見ると眼が潰れないの?」
理解が追いついていないという顔で立香が聞く。
「これで見ても眼は潰れます。だから僕が見なくちゃいけない。僕の眼は潰れないので」
「……つまり、その『美しさ』を見ても、あなただけは動じることがないということかしら? クウ」
マタ・ハリの補足を聞いてようやく立香は空々の言っていることを理解する。耐性があるのはゴーグルではなくて、空々個人の眼なのだ。だから他の者がゴーグルを使って地球陣を見ると普通にダメージを食らう――眼が潰れる。
「僕が軍にスカウトされた理由です。地球陣を目視できる人間はとても珍しいので」
空々が所属していた組織が軍隊の体を為しているという新情報を抜け目なく頭にインプットしながら、マタ・ハリは「ふうん」と頷く。
「――で、ロビンは地球陣なのかしら?」
マタ・ハリが聞く。そうだ。それが問題なのだ。立香はどんな回答が来たとしても対応できるように身構える。
空々が口を開いた。
「――」
7
『魔神』には勝てない。
それはラヴィニアの大前提だった。
自分達の家族をこの町に連れてきた魔神。あれと直接対峙して勝利する見込みは不可能――武力での制圧は絶対にできない。
では、ラヴィニアには何もできないのだろうか。あの魔神が為す降臨の儀を、ただ黙って見ていることしかできないのだろうか。
外なる神の降臨は確かにウェイトリー家の悲願だ。一族はそのためにはぐれ者と罵られながらも魔術を、錬金術を研究してきた。だが、あの魔神に、降臨した神を好きにさせて良いのか。あの魔神の思い通りにことを運ばせて良いのだろうか。
アビゲイル・ウィリアムズを好きにさせて良いのだろうか。
美しい金髪をたなびかせる少女。自分を親友と呼び慕い、接してくれる。儀式の失敗により醜く変貌した私を、あの子は「美しい」と言ってくれた。彼女を好きにさせて、我らが神を呼び寄せて、魔神の目的のために神をまんまと利用させて良いのか。
駄目だ。魔神には勝てない。何をどうやったところで、ラヴィニアの持ちうる全てを賭しても、あれには勝てない。
――あの少年ならどうだろうか。
森の中で出会ったあの少年ならどうなる。彼ならば、もしかすると魔神を――ああいや、駄目だ。たとえあの少年が人智を超えた超人だったところで、この町の中ではあの魔神には勝てない。ここは魔神の庭なのだから。
勝てない……あれには絶対に勝てない。勝つことはできないが――しかし、あの少年なら、魔神の思惑を断ち切れるのでは?
狂気を以て狂気を制す。あの少年なら、きっと全てを台無しにしてくれる。降臨の儀を、禁忌の町を、魔神の計画を――一切合切全部巻き込んでぐしゃぐしゃにしてくれる。
我らが神、異端にして異界の神、『門にして鍵』を閉じることができる。
彼ならおそらく、それができる。
だが――
「同じ箒星の年にこの町で生まれて、一緒に鯨を観に行ったでしょう?」
アビゲイル。
美しい金髪をたなびかせる少女。自分を親友と呼び慕い、接してくれる。儀式の失敗により醜く変貌した私を、あの子は「美しい」と言ってくれた。
……偽りだ。
そんなもの嘘だ。彼女とはただ、自分が生き残る為に付き合っていたにすぎない。私はこの町の生まれじゃないし、一緒に遊んだ記憶は全部まやかしだ。あの魔神が見せる幻覚だ。本物じゃない。ウェイトリーの悲願は外なる神の召喚で、私の使命は神をあの魔神から守ることだ。彼女なんてどうだっていい。どうだっていいんだ。
殺せ。
門を閉ざせ。憑代を折れ。そうすれば神は召喚されない。あの魔神に、二度と我らが神を使役するチャンスは来ない。
殺せ。
アビゲイルを殺してくれ。
私は鯨なんてみていない。
8
セイレムの町の路地裏。
段々と伸びてきた日陰に隠れながら、ラヴィニアは表通りを見張っていた。
道を通り過ぎる人々の流れを目で追っている。誰かを探しているようだった。段々と肌寒くなってくる四月の夕風にもめげず、彼女はじっと待っている。
空々が現れたのは、それから二十分ほど経った後だった。
「」
するりと裏路地に入った空々は、ラヴィニアに向かって声をかける。ラヴィニアは無言のまま、ぎこちない動作で頷いた。
「助けてほしいってことだけど……僕は具体的に何をやればいいのかな」
特に前置きも無く単刀直入に切り込む空々にラヴィニアは少々面食らうが、それでも慣れない挨拶の言葉を述べなくていいのは、彼女にとっても好都合だった。
だが、何から説明すべきか。
今のラヴィニアが置かれている立ち位置は非常に複雑なのだ。その上自分でもよくわかっていない部分も沢山ある。こんがらがったこの状況をいかに解きほぐすか、ラヴィニアは頭を捻る。
「わ、私ね、ここの生まれじゃないの」
さんざん悩んだ結果、もう自分の体験を全て洗いざらい話してしまうことにした。
「引っ越して来たのよ。ほんの少し前に――」
「ほんの少しって、どれくらい?」
「わ、わからないわ」
空々から視線を逸らしながらラヴィニアは答える。
声が小さくなった。
「記憶がぐちゃぐちゃなの」
ちょっと躊躇い、自分が幾分か落ち着いたのを見計らってからそう呟く。
「おかしいの。おかしいのよ。ここの生まれじゃないのに、ここで過ごした記憶が、あ、頭の中にあるの。入ってくるのよ。偽物の記憶が、ほ、本物を塗りつぶして――……」
次の言葉が出てこなかった。ラヴィニアは無意識に空々の顔色を窺う。彼は何も変わらず、ともすれば退屈そうにも見える表情で彼女の話を聞いていた。何を考えているのか全く読み取れない。はっきり言って不気味だった。
だが――だからこそ私はこの少年に助けを求めたのだ。
「……アビーは私を親友だと言ったわ」
空々は何も言わない。
ただラヴィニアの話を聞いている。
「か、鍵はあの娘よ。彼女が全てを握ってる」
「鍵?」
それは奇しくも真実の一端を掠める言葉だったが、ラヴィニア本人はともかく、空々は『彼女が全てを握っている』というような一種の比喩表現と受け取った。
「……」
ラヴィニアは口を閉ざす。眼は何か言いたげだったが、どうしても言葉にできない――何かに怯えているようだった。まあいい、十分情報は得たと空々が立香達の下へ取って返すべく、僅かに足のつま先を回転させた時、突然というかとうとうというか、ラヴィニアは声をあげた。
「殺して」
と。
無色の感情が籠った声だった。
「彼女を殺して。お願い。それで全て終わるから」
空々は改めてラヴィニアの顔を見る。彼女は人の気持ちに疎い彼ですら簡単に読み取れる程に悲痛な表情をしていた。
「良いのかい」
空々は念を押す。
「殺して」
三度、ラヴィニアは言った。
言い切った。
「あ、あなたにはそれができるわ」
空々は――彼女の頼みを聞き届けた後、しばらくの間沈黙した。それが怯えからくる静寂だとはラヴィニアも思っていないが、では彼は一体何を考えているのだろうか。
やるかやらないかはともかく。
空々にそれが可能か不可能かについての答えは、ラヴィニアの言う通り、これ以上なく明白だった。
「彼女に外なる神が降臨しようとしている」