~学校~
~運動場:昼休み~
花咲の提案で、クラス全員で昼食を取る事にした。
人込みは苦手だが、恐らく最後の機会かも知れない。
そう思うと惜しくなるもので、皆と食事する事にした。
俺はイスに座ると、杉並が驚いた様子でこっちに来た。
『見事だったぞ桜内よ。高坂先輩を相手に、あそこまで接戦するとはな』
『まだ800メートル走が残っているけどな。今度こそ先輩と本気の勝負になる』
俺が高坂先輩と競り合ったのが意外だったのか、杉並も興奮気味だ。
話によると、うちのクラスも手に汗を握りながら、固唾を飲んで勝負の行く末を見守っていたらしい。
よくよく考えれば、俺はあの高坂先輩と堂々と渡り合っていたのか。
1年前からすれば、信じられない事をしているな……
だがまだだ。まだ気を緩める事はできない……
『杉並、600メートル走に備えて、ウォーミングアップだけはしっかりな』
『ふっ、任せておけ。うちのクラスの優勝を決定的にしようぞ』
……
…
一つ接点のある話題があると、結構他の奴とも会話ができるものだ。
普段は喋る事のない奴らと小話をした後、弁当を手に取った。
『………』
あまり食欲が出ないが、それでもしっかり昼食をとる。
食事は体力気力の源。いざという時、食事を取っていないと力が出ない。
しかし食欲は沸かず、食事は作業感でいっぱいだ。今の俺の頭の中は、800メートル走しか考えられない。
『今は話していいの?』
『ああ、いいよ』
雪村、花咲、小恋……
やっぱり一日に一回、3人の顔を見ていたいな。
まだ緊張がくすぶっているのか、安心感を強く感じさせる。
『大変な思いをしてそうね……』
『けど、後1種目だけどな』
『そうじゃないわ。大変なのはあんたじゃなくて先輩の方』
『先輩?』
『義之……、走る事に集中し過ぎて高坂先輩を見ていないでしょ?あれだけマジになっている先輩は初めて見たわ』
『そ、そうだったのか』
『一ツ橋は、あんたの姿を見て派手に大はしゃぎしていたし……』
『あいつ、居たのか?』
『……音姫さんや由夢ちゃんも応援していたでしょ?』
『そうだったのか?』
『……今のあんたの頭の中は、走る事だけね』
『本当にそれだな。全く気付かなかったよ』
一ツ橋の場合、生徒会への恨みがあるからな。
俺が先輩を負かす所は、一ツ橋にとってはある意味、爽快における感情の爆発だったかも知れない。
あるいは、生徒会に何かやり返したい思いが、俺が先輩を負かす事で感情として出てしまっているのか。
『そういえば、花咲と小恋。俺の写真を撮っていたな』
『あちゃー、見えたか』
『だって、あんな真剣な表情の義之。珍しかったもん』
『周りが見えているのか、見えていないのだか……』
俺もあまり写真を撮られるのは、好きな方ではない。
けど、こいつらに写真を撮られる事は嬉しかったりする。
この場合、男と女の感覚だろうな。
好きでも嫌いでもない相手なら、写真を撮ろうとする発想が先ずないのだから。
『義之、一つお願いがあるんだけど』
『よりによって今か。何だ?』
『さっきの写真、焼き増ししていい?』
『小恋、俺の写真を売り物にする気か?』
『そうじゃなくて、由夢ちゃんが……』
『……焼き増ししてくれと?』
『……うん』
『別にいいよ。何か恥ずかしいが……』
『もしかしたら音姫先輩も……』
『……じゃあ、音姉までで』
『私まででいいかしら?』
『……じゃあ、雪村までで』
……
…
他愛もない話があっという間に過ぎていった……
運動会も後半が始まろうとしている。
俺や雪月花たちは、一旦自分の席に戻る事にした。
……
…
しばらくして、生徒が全員席に戻った後、先生らが運動会を再開する前に、200メートル走の判定を下した。
同時ゴールであった為、俺と高坂先輩、どちらも1位扱いにしてハイスコアをそのまま受けるというものだった。
一番、無難な判断だろう。
『高坂さんは内側を走り、桜内は外側を走って同時ゴールだった。桜内の勝ちに決まっているだろ!』
一ツ橋が猛り狂った様に、大きな声で疑問を呈している。
あいつ、感情的になり過ぎていないか……
ちょっとした狂気を感じたので俺は立ち上がり、首を振り、手を出して制止サインをだした。生徒も何事かと見ている。
微妙な空気の中、先生が後半の運動会を再開した。
『彼、大丈夫なの?』
『……多分な』
『………』
『今、俺の考える事ではない。無言タイムに入る』
『孤独ね、頑張って』
『頑張る』
……
…
そういえば俺の前に、杉並の600メートル走を挟むな。
個人的に気になったので、運動会に視線を戻した。
障害物競争の最中で、まだ始まっていないようだ。
皆は運動会の応援に、夢中になっていて聞きづらい。側にいる小恋に声をかけてみた。
『小恋?』
『わっ、びっくりした』
『どうした?』
『さっきまでずっと無口だったんだもん』
『わりぃ、杉並の600メートル走は?』
『次だと思うよ』
『そうか、是非見てやらんとな』
『1位になってほしいね』
……心配ない。
練習の時、あいつの足の速さを知っているつもりだ。
そこらの生徒では到底付いていく事は出来ないだろう。
だが、楽観はできない。
他のクラスは200と400を捨てて、その代わりに600や800メートル走に勝負を絞っている。
次からは、走りに自信がある運動部が出て来るはずだ。
800メートル走にも高坂先輩が出るが、疲労を計算して、800メートル走に勝機を見出したのだろう。
……と言っても、俺が走る事がなければ大した疲労もなく、800メートル走に出ている気がする。
……
…
『………』
『600メートル走は、背の高い人が多いね』
『やはり運動部が出てくるな……』
『義之も一緒に杉並君を応援してあげてね』
そうだ、俺もその応援に救われたんだ。
俺も一緒にデカい声で応援する事にした。
800メートル走に集中している今、大声を出して気分転換もいいのかもしれない。
クラスの歓声と同時に、600メートル走の出場者が位置に着く。
『杉並ーーー、行けーーー!!』
『杉並君ーー』
……
…
『位置について、よーい……』
バンっという合図と共に、一斉にスタートを切った。
杉並は外側から一気に抜き、1番を走っている。
だが次に俺の目に入ったのは、運動部の奴らだ。
全員、走り慣れている人間ばかりだ。
無駄な動きをせず、ペース配分を乱そうとせず杉並に付いていこうとしない。
杉並のスタミナが持つのか、不安になってきた。
『あれ……』
『すごい。杉並君2番目を大きく離して1番だよ』
『そうだな、心配する事もないか』
『全然スピードが衰えないね』
幾ら何でも早すぎる……
最初から早いペースで走っていながら、更に加速している。目の錯覚でなければ、加速し続けている。
たかが3周なのに2番の走者をあり得ないほど引き離して、周回遅れの人間を抜かそうとしている。
あいつ、まさかこの土壇場でドーピングを……
俺は目まいがして、自分のイスに座り込んだ。
『あれ、杉並君が先生に呼ばれてるよ』
『……ドーピング検査だろう』
『ええっ』
『ったく……』
『私たち、義之君だけが頼りだから』
『杉並に真剣勝負を頼んだ私たちがバカだったわ……』
後悔先に立たず、だな……。貴重な得点だったのに。
俺は自分の競技に備え、準備体操を入念に行った。
800メートル走だから、4周だな。
最初の2周まではスタミナを温存する様に心掛けないと。
とにかく、無理に付いていこうとしない事だ。
600メートル走から、800メートル走まで順番はすぐに来るので、先に待つ事にした。
『よ、義之、行くの?』
『ああ。小恋が緊張する事ではないんだから』
『うん、応援してる』
『……行ってくる』
『私たちも応援してるから』
『頑張れ』
雪月花の応援を背に受けて、過酷な勝負をしに歩みだす。
さて、高坂先輩と今度こそ真剣勝負だ。
……
…
『あれれ……』
まだ誰も集まっていない。少し気が早かったか。
せっかくなので、そのまま待つ事にした。
障害物競走を見ていると、俺もあんな気楽な勝負をしたかったと思えてくる。
運動会ではあるが、俺の場合は他校との試合の様な緊迫した勝負としか思えない。
『兄さん』
『由夢……』
『ここで何してるの?』
『800メートル走に出場するから待っているんだよ』
『まだ出場するの!?』
『次がラストだよ。今から家のコタツが待ち遠しいよ』
『私、もう緊張したくないんだけど』
『走るのは俺だ。なんでお前まで小恋みたいに緊張するんだよ』
『大切な人が走るからでしょ……』
『そう、なのか?』
『な、何でもありません!でも私、兄さんを応援しているから』
『ありがと、行ってくるよ』
『兄さん……』
ちょうど、800メートル走の参加者が集まっているようだ。
しかし、速そうな奴らばかりで、高坂先輩だけを注意する訳にもいかない気がしてきた。
今から1位を取るとなると、恐ろしく気が重くなる。
少し離れた場所で、高坂先輩は柔軟体操をしていた。
すぐに、シューズが変わっているのが目に付く。漫画家はペンにこだわるが、陸上にもそういうのがありそうだ。
『弟君とは決着をつけないとね』
『俺の様な人間が出てきてある意味、杉並より世話を焼かせて申し訳ないです』
『解ってくれているようで嬉しいわ。あれだけの短い練習期間で、自信を失うわ……』
『………』
『真剣勝負よ!』
『はい!』
800メートル走の順番が来て、皆トラックに入り、スタート地点で独自の準備運動をしている。
俺もアキレス腱を伸ばし、屈伸をし、頬を叩き、意を強くして勝負に望む。
悔いのないように、全力を尽くすだけだ。例え地獄の思いをしても……
今までにないひと際大きな歓声が、人の気も知らずにとイラついたのは胸に隠し、最後に軽く深呼吸をした。
『では、位置について……』
『よーい……』
バンっという合図で一斉に走り出した。
駆け出すタイミングが完璧で、自分だけわずかに遅れた。
皆、すぐに内側を取ろうと強引に入り込む。俺も負けじと内側に入り込んだ。
体格のある奴らばかりで、自分が何位で走っているのか分からない。
円に差し掛かった時に、すぐにチェックした。
1番、2番、3番と先頭者が走り、俺と続いているようだ。
高坂先輩は見当たらないから、恐らく後ろを走っているのだろう。
100メートルを走り、自分のクラスが見えると雪村が手で5というサインを出していた。
『?』
俺は4番目に走っているから、すぐ後ろで走っているのが高坂先輩という事だろうか……
憶測しつつ、すぐに1周目を走り終える。
後ろで走っていた奴がペースを上げて抜かされ、俺は5番目になった。
見た感じでは、先頭グループに入ろうとしている。
俺は無理に先頭グループに混じらず、自分のペースを優先して走り続けた。
またクラスが見え始めると、雪村は両手を上げて、6というサインを出した。
これは、高坂先輩の位置だと考えていいだろう。
2周目……
皆の呼吸の乱れが耳に入る。
自分自身となると、心臓の音がしっかり聞こえてくる。
苦しいがここで先頭グループの後を追う事にした。
徐々に距離を縮めて、中盤のグループから離れて4番目の走者の後ろを走る。
すかさず自分のクラスを見た。
雪村は6のサインを出している。
『ハー、ハー、ハー』
高坂先輩は、俺の後ろを殆ど距離を空けずに走り続けている。
いつ抜かされるか分からない感覚に陥り、嫌なものを感じた。
3周目を終える前に、先頭グループの1人がスピードダウンして、俺は4番目になって3周目を終える。
ラスト1周の状態になり、スピード落ちしてきた先頭集団を抜かし1位となった。
このまま誰も抜かさせないと、わずかにペースを上げた。
既に呼吸は乱れに乱れ、気力だけで走り続けている。
これがラスト、これがラスト、これがラスト、頭の中で何度も繰り返して走り続ける。
ずっと高坂先輩が俺の後ろを走り続けていて、全く気が抜けない状況だ。
確認の為、うちのクラスの近くまで走ると、雪村は手を組んで心配そうに祈っていた。
もうサインは必要なく、1位を走り続けるだけという事か。
このまま走り抜いてやる。
意を決して、限界を超えるかの様にスピードを加えた。
『……せて』
『?』
後ろから声が届いた。だが、聞き取れなかった。
すぐ気を取り直して、最後のゴールを目指す。
『勝たせて』
『………』
『お願い』
『………』
この状況下で思考がまとまるはずもなく、一向に構わず走り続けた。
そして俺は、そのまま1位でゴールした。
すぐに後ろでドサっと音が聞こえる。
大きな声援と歓声が、女の悲鳴に変わった。
息絶え絶えに振り向くと、高坂先輩が倒れ込んでいる。
すぐに先生や生徒会らが駆け寄って、様子を確認している。
俺もあまりの苦しさに、土下座の様な形でその場に崩れた。
すぐに、体力の回復を図る。
『ハー、ハー、ハー、ハー』
『桜内、大丈夫か?』
歯を食いしばって、体力の回復を待つが全く回復しない。
試しに目を開けると、1メートル先が見えない。貧血のあの状態が、いつまでも続いている様だ。
手や足もジーンと痺れ始め、回復どころかますます悪化していく錯覚に陥る。
『桜内、返事できるか?』
『弟君!しっかりして!』
返事も出来ず、飲み物も受け取れず、その場で呼吸困難にでもなったかの様に酸素を貪る。
あまりの苦しさに、気が遠くなりそうだ……
『チアノーゼを起こしている。担架を用意して』
俺の体は誰かに動かされ、誰かがそのまま担架で運んでいった。
この過呼吸が、一体いつまで続くのか。拳を握りしめ、地獄の苦しみに抗い続けた。