彼女が自分の部屋のドアを開けると、何だか甘い香りがふわりと漂ってきた。
初めての感覚に、得体の知れない緊張感が、腹の底から一気にせり上がってきて全然落ち着かない。
……や、やはりここは戦略的撤退を……
「あっ、俺ちょっと用事が……」
「じぃ~~~……」
無理そうだった。目をうるうるさせているのが見え透いた演技だとしても、それに抗えるかどうかは別問題だった。
「じゃあすぐに用意するから。その辺座っといて」
「は、はい……」
部屋の中は意外なくらい普通で、すっきりと清潔感がある。
大人しく椅子に座り、キョロキョロとあちこちを見ると、東條さんがクスッと笑った。
「別に怪しいものはないやろ?」
「えっ、ああ……はあ、意外と普通の部屋というか……」
「ふふっ、当たり前やん?ウチ、普通の可愛い女子高生なんよ」
「自分で言いますかね、それ……」
「謙虚な女の子のほうが好みなん?」
「……お、俺に合わせる必要はありませんし、んな事言われたら、うっかり勘違いしちゃいそうなんで」
まったく……この人の発言はいちいち反応しづらい。
まあ、からかっているのがわかりきっている分、変な期待をすることもないんだが……。
「はいは~い、お待たせ~」
手早く準備を済ませた東條さんが、カレーを載せたお盆を持ってきた。多分、1日寝かせたやつだろうか。
「あの、もしかして俺がここに呼ばれたのって……」
「ん~?別に……作りすぎたカレーを食べて欲しかったとかじゃないから安心してええよ?」
「…………」
最早隠す気ゼロじゃねえかよ……。
いや、タダ飯最高だからいいんだけどね?巫女さんの手作りカレーとか、世の男子は大抵喜んじゃうだろう……あまり聞かないシチュエーションだが。
二人揃って「いただきます」をしてから、カレーを少し多めに口に含むと、想像していたよりは辛かった。そして美味い。
「味はどうかな?」
「ああ……美味いっす」
「そう?よかった♪男の子に食べさせるんは初めてやったからね。お口に合うか心配やったんよ」
「そ、そうですか……」
普通ならここで、何故その初めてに自分が選ばれたのかを聞いたり、自分を部屋に上げた理由を聞いたりするのだろうが、どうせからかわれるだけなので、俺はそのままカレーに集中した。
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「ふふっ、別に洗い物までしなくてええのに」
「いえ、さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないので」
「君は本当に真面目やねえ」
「真面目ならあんな作文は書きませんよ」
「あははっ、そうやね。たしかに」
食器をてきぱきと棚に戻しながら、東條さんはクスクスと笑い、「でも……」と付け足した。
「君のそういうとこ、ちょっと面白くていいと思うんよ。なんか信用できるし」
「……そんなもんなんですかね。よくわからないんですけど」
「ええんやない?ウチも何となく言ってるし」
そう言った彼女の笑顔はさっきより大人びて見えて、改めて年上なんだと気づかされる。
そのまま自然と言葉のキャッチボールをしていたら、いつの間にか洗い物は終わっていた。
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すべて片付けると特に仕事もなくなったので、もう帰ることにした。
「今日は朝からありがとうね」
「……ええ。めっちゃ疲れました。あとカレー、旨かったです」
「ふふっ、素直やね」
「まあ、その……どうやらちょっと面白いらしいんで……って何やってんですか?」
何故か俺の頭には東條さんの手が置かれていた。
あまりに自然な動作で、避けようという気すら起きなかった。
「……どうかしたんですか?」
「ん~?何でもないよ♪」
そのまま優しく撫でられる。
前もそうだったが、妙な懐かしさと気恥ずかしさで、何も言えなくなる。何故抵抗できないのか……。
紫色の粒子がぽつぽつ弾けるようなイメージと共に、体から余計な力が抜けるのを感じた。
彼女は笑顔のまま、そっと頭を数回撫でてから俺を解放した。
「じゃ、じゃあ、今度こそ帰ります」
「はいはい。あっ、比企谷君。ウチも部活始めることにしたんよ」
「……は?いや、確かもう3年じゃ……」
「特に決まりはないからええんよ。だから応援よろしく~」
「はあ……な、何部なんでしょうか?」
「スクールアイドル部♪」
「…………」
その聞き慣れない言葉を理解するまで、しばらくの時間を要した。