「ふぅー……」
熱いお湯に浸かると、体の芯から疲れが解れていく気がする。
あれからスローガン決めのいざこざがあり、なんとか作業ペースはまともになったが、やはり疲れる。
それと気になることが一つ……いや、俺の気のせいかもしれないが。
湯気のようなぼんやりとした輪郭で、彼女の事を思い浮かべてみると、不思議とその表情は笑顔だった。
彼女は何かを抱えているように見えた。
それが何なのかはまだわからない。
だが、柄にもなく……何かできる事はないか、なんて考えていた。
*******
そして、文化祭当日。
色々あったが、とりあえず間に合った事に安堵しているのは俺だけではないだろう。
色々気がかりな事はあるが、まずは目の前の仕事を終わらせるしかない。
すると、いきなり目の前が真っ暗になった。
「だ~れだ♪」
いや、声だけでわかるんですが……あと背中に当たってます。何がとは言いませんが、柔らかいものが当たってます。はい……
「だ~れだ♪」
どうやら正解を言うまで拘束は解かれない仕組みらしい。
「……どうしたんですか、東條さん」
すると、ようやく拘束が解かれ、目の前が明るくなった。
そして、振り向くと悪戯っぽい笑顔で彼女が立っていた。
「さすがやね。声だけでウチと気づくとは……」
「……まあ、割と特徴ある声なんで。あと関西弁喋るのが他にいないし……」
「なるほど。それは迂闊やったね。ちなみに、本当にそれだけ?」
「…………」
これは色々と見抜かれているのだろうか、うっかりいらん事言わないようにしよう。新たなからかいの種を生むことになる。そろそろイジらないで、東條さんとか言ったほうがいいかもしれない。
すると、東條さん以外のメンバーも顔を見せた。
「…………」
「エリチ、どうしたん?」
「なんか距離が縮まってる気がするわ」
鮮やかな金髪を靡かせる絢瀬さんは、何故かこちらにジト目を向けていた。
そして、その様子を見て、矢澤さんが溜め息を吐いていた。
「まったく、アイドルなんだからもう少し周りの目を気にしなさいよ。周りにはこの宇宙一のスーパーアイドルにこにーのファンがいるかもしれないのよ」
「あははっ、にこっち、100%気のせいやから」
「なぁんでよ!?」
相変わらずのやりとりに何だか頬が緩みそうになる。
とはいえ、まだ仕事中なのを忘れるわけにもいかない。
さらに、この3人……やはり目立つ。まあ、たしかに……美人なのは間違いないからな。さっきから二度見していく野郎もいるし。なので、今は距離をとりたい。
「じゃあ、俺は行くんで。まあ、その……楽しんでってください」
「うん。それじゃあ、八幡君も頑張って♪」
疲れが少しだけ解れた気分になりながら、俺は仕事に戻った。
*******
あらら、こりゃ何かあったみたいやね。
さっき周りにいた人の中に、八幡君に敵意の籠った視線を向けた人がいた。もしかしたら、林間学校でやったような事をやったのかもしれない。
「どうかしたの、希?」
「ううん、何でもないよ。ほら、にこっち、迷子にならんようにしてね」
「なんで急に子供扱いすんのよ!?」
「まあまあ、にこっちやし」
「理由になってないわよ!」
現状が掴めない以上、今は文化祭を堪能することにした。
*******
そして、一通り見て回ったところで、文化祭終了のアナウンスがされ始めた。あとは体育館で有志によるステージパフォーマンスがあり、最後に地域奨励賞の発表などがあるらしい。
「私達も文化祭のパフォーマンス、しっかりやらなきゃね」
「当たり前よ。この宇宙一スーパーアイドル・にこにーがいるんだから。しょうもないステージなんて見せられないわよ」
エリチとにこっちは、改めて音ノ木坂文化祭への思いを強くしていた。
……結局、最初に穂乃果ちゃんとことりちゃんからは聞き出せなかったけど、まあ、今はパフォーマンスを成功させなきゃね。
すると、八幡君が走っていくのが見えた。
……何かあったんやろうね。さっきから、女の子が何人か誰かを探してるみたいやったし。
何故だか胸騒ぎがした。
私は八幡君が誰を探しているのかを知らない。
何ができるのかもわからない。
それでも、自然と足は動いた。
「ごめん。先行っててくれる?」
「え?いいけど……」
「……わかったわ」
にこっちとエリチは、首をかしげながらも頷いてくれたので、笑顔を返し、八幡君が走った方向に向かった。
彼はテキトーに走り回っているのではなく、どこかに向かっているような気がした……多分、屋上かな?
そこに何の根拠もない。ただ何となくそう思っただけ。μ'sが屋上で練習してるとかはさすがに関係ない。
駆け足で階段を上がり、さらに屋上へ続く階段を探していると、それはすぐに見つかった。
机や椅子でバリケードを作っているけど、それが不自然にずらされていて、上の方からガチャっと音がした。どうやら勘が当たっていたらしい。
これは本当にスピリチュアルやね。
少し得意げにバリケードを通過し、階段を駆け上がり、ドアノブに手をかけた。その時……
「だったら結果だけ持っていけばいいじゃない!」
女の子の怒鳴り声が響き、慌ててドアノブから手を離す。どうやらお取り込み中らしい。
何だかよくわからないままその場で耳をすましていると、背後から足音が聞こえてきて、すぐに身を隠した。さすがに部外者がいていい場所じゃない。
そして、陰からドアの前を窺うと、薄暗くてはっきりしないけど、多分男子一人、女子二人の三人組がドアを開け、屋上に出ていった。
再び耳をすませると、爽やかな男子の声と優しく労るような女子の声が、多分さっき怒鳴った女の子を説得していた。
だが、どうも埒があかないみたいだ。もうじきステージパフォーマンスも終わるんやないやろうか。
そう思った直後……
「はぁ~あ……」
うんざりしたような溜め息。
誰のものかはすぐにわかった。
そして、声のトーンがいつもと違うことも……。
それからは、ただ淡々と言葉が紡がれていった。
驚くほど鋭利で冷たい言葉は、どこか虚しく響き……なんだか胸を切なくさせた。
やがて、その言葉は誰かにより断ち切られ、壁に衝撃がきた。多分さっき来た男子だろう。
これが八幡君の思惑だったのか、屋上のドアからは女子二人に囲まれ、一人の泣いた女の子が出てきた。
「どうして……そんなやり方しかできないんだ」
その言葉を残し、男子も去っていった。
足音が遠ざかり、溜め息を吐くと、静寂だけが残った。本当にあっという間だった。
……今、彼はどんな顔をしているんだろう?
「ほら、簡単だろ?誰も傷つかない世界の完成だ」
誰も傷つかない、かぁ。君はそういう風にやってきたんやね。
自然と零れてくる苦笑いを、いつもの笑顔に変え、ウチは……私は扉を開けた。