ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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57-廃都

 声が、聞こえた。

 アンはハンモックの中で懐中時計をまさぐり探す。夜明けの交代までまだ時間があるはずだと眠気がそう言っている。寒くなるからと体を包んでいた毛布が邪魔だ。時計がどこにあるのかわからない。しかし時間を確認するくせがついてしまい、見なければ安心できなかった。

 

 草木も眠る丑三つ時まであと二十五分ほど。

 横に吊ってあるハンモックには誰も居なかったが、部屋の奥まった場所にあるベッドには小さな体が丸まってある。

 外から聞こえる声は、紛れもなくエース船長のそれだろう。ひさびさの陸らしい陸の足ざわりを想像して心躍らせているのだろうか。

 寝入る前とくらべ、ずいぶんと空気が冷たかった。目的地としていた島に近づいているのだ。

 アンは頭をはっきりさせるため部屋においてある洗面器に水を少しばかりそそぎ、顔を洗って歯を磨き口をすすいだ。そして厚手のコートを取り出し羽織る。

 

 あの島に着くならばかなり寒くなるだろう。固有気候は厳冬だ。

 本来ならば限られた者たち以外、来ることができない場所である。行くための航路は確立されているが、しかしそう簡単に得られない磁力だった。どうしても欲しいというならば狭間の島と呼ばれる火山島に自力で向かわなければならない。

 

 狭間の島は虹の島(アルカンシエル)から天気さえよければ見える近距離にある無人島だ。二極の島として有名で、地上と地下とでは記録指針(ログポース)に帯びる磁気が違うことで知られている。地上はグサミビーチへ、そして地下は陵の浜へと続く。前者はそこからサン・ファルドへ、後者はショーリングへと行くことが出来る。

 それはどこだと言われれば、サン・ファルドは海列車で繋がった駅のひとつであり、ショーリングはエニエス・ロビーのちょっと東北寄りと答えられた。狭間の島にいくだけでかなりのショートカットが出来、手間をかけて地下を訪れるだけで魔の三角地帯と言われる霧の発生地域と女ヶ島の脅威から逃れられる唯一の航路だと言えるだろう。しかし、その航路を見張っているのが海軍である。

 

 話を戻そう。

 厳冬の、エースを船長とする船が進路をとっている島はグサミビーチでも陵の浜でもない。狭間の島にはもうひとつ、満月の夜のみとある岩場でだけ発生する磁場がある。それは流れ着いた欠片だった。満月の日のみ潮が引いて姿を現す。

 その欠片の磁気を得たものだけが、古の都に至れるのだ。

 

 とまあ長い説明だったが、そもそも虹の島から狭間の島に行くだけでもかなり難易度が高く、普通は訪れない。行かなくとも別に困らないからだ。

 ちなみにアンはこの船の記録指針には陵の丘行きの磁力を纏わせてきた。この磁力に古都の磁場を触れさせると面白いことが起きるのだ。しかし他の島の磁場に触れると面白いことができなくなるため、磁気を遮断する保管箱へ眠らせてあった。

 

 なので実は今、虹の島から古都にかけては記録指針なしで航海をしているのである。

 普通であれば実現不可能な航海だ。仲間になった者たちは必ず一度は目を丸くする。本来ならば航行できるはずのないやり方で海を進んでいるからだ。それが出来てしまうのは受け継がれた血のなせる技とでも言おうか。

 あの父はどれだけ驚かせれば気がすむのだろう。過去の人になっていてよかったと、心底おもう。もし、まだ生きていたならばと考えるとぞっとする。世界が覚えている過去の記録の中で視た父の周囲には、数多くの人間が集っていた。その誰もが多彩で飛びぬけた才能と魅力をもったものたちだ。よくもまあひとつの船に納まっていたと感心する。

 

 ある意味、アンやエースは恵まれている。真似できる模範と人があるのだ。あの船には正しいことも間違ったことも、すべて混ぜ込んだ混沌のなかにあった。けれどそれを上手くまわす方法もまた示されていた。それに加え、海軍で身につけた生活もある。完璧ではないが、結構、無敵っぽくないだろうか。

 

 アンは船の外で叫んでいるエースの高揚感に引きずられながら、そんなことをおもう。

 

 到着する予定の島には名前が無い。

 随分と昔に廃された都が残るだけの島だ。歴史を識るものがこの島を訪れたなら千年ほど前に栄えた、獣人たちの国だと知れただろう。そして世界政府にとって秘匿したい島のひとつだった。黒い石の固まりがある、その言葉だけでぴん、ときたならばかなり歴史を学んでいるとわかる。

 この島は前半にある歴史の本文(ボーネグリフ)のなかで、最も重要性の高い黒石のひとつだ。言葉の韻を外していくととある座標が浮かび上がる。前半の海で使うものではない。楽園のその先で必要になるのだ。

 そういえばニコ・ロビンもこの島には来たことがないはずである。どれだけ訪れたいと願ってもなかなかたどり着けない島だ。瞬間移動で招待してもいいが、そもそもそんな暇があるのだろうか。いや、ないはずだ、とアンはおもう。この前こっそり会った時、どんな好条件をぶら下げられたのかは聞かなかったが、ワニの手足となって動く駒になっており、研究も余り進んでいないと嘆息していたくらいなのだから。

 

 世界政府は、というより中央の最奥といったほうがいいのか。ラフテルという島の存在を知り、あの島をどうにかしたいと切実に考え、長い年月をかけて目的を達しようとしている。だが誰もあの島にたどり着けないでいた。それはなぜか。年月をかけすぎたからだとアンはおもっている。いや、それこそが目的だったのかもしれない。四皇と呼ばれているものたちもそうだ。行く気がないものも居れば、そこに至りたいがために必要な情報を集め続け、着実に駒を進めているものたちもいる。だが最後の一手が足りない。足掻いても手に入らないものを求めて懸命に努力している。

 

 ラフテルに直接赴けるアンに言わせれば、誰も彼もがまるきり方向性の違う頑張りをし続けているのだ。ちょっとした思考の転換で、あっという間にあの島に行くことが出来る。そんな裏技的なことを弟にも教えるつもりはないが。

 

 

 

 船室から出ると、途端に身を包むのは突き刺すように冷たい冷気だった。さすが冬の女王が好んだと言い伝えられている極寒の島に近づいただけはある。雪は降っていなかったが、体が勝手に震えてしまうほどの寒気が漂っていた。

 

 「島だ!!!」

 

 エースからうきうきとした楽しげな気配があふれ出している。

 そんなに雪が嬉しいのだろうか。できるだけ陸に寄るようにはしているのだが、まだ足りないらしい。

 アンはそんなことを考えながら、後方からエースの姿を見ていた。

 

 島の影が段々と近づいてくる。到着時刻はほぼ定時だ。プラス三十分程度は誤差の範囲内だろう。

 アンは懐中時計をポケットに入れ、手のひらを口元に当てながらあくびを噛み殺す。

 

 「おうおう、我らが船長は真夜中ってのに血の気が多いなぁ」

 「ええ。雪に興奮する大型犬のようです」

 

 聞こえてきた声に、アンはすぐさま同意する。

 野太い声の主は船医である男の声だ。がっしりとした筋肉むきむきの人物である。だがその体つきに見合わず繊細な診断と治療をしてくれる心強い仲間だ。そしてもうひとりはこの船の副船長だった。十日ばかりまえに着任してもらったばかりだが、上手く船をまとめてくれている美丈夫だ。

 

 深夜であるのになんとも鼻息が荒い。眠気を振り切り甲板へ出てくることが出来た面々は、どちらかというと冷静な判断を下せる年長者であった。いつもエースと興奮を分け合い共に暴れる年若い元気な若者たちは、心地よく揺れる寝床で揺られているのだろう。

 

 「着岸の準備をしましょうか」

 「お願いできる?」

 

 アンは横に立った銀髪の男の言にこくりと頷く。

 彼の名はツヴァイ。虹の島でエースが拾った人物だ。

 

 『来いよ』

 

 余計な言葉などなかった。ただ一言、お前はもうおれのもんだ、と手を伸ばされたのだ。

 そして彼はエースの手を取った。

 

 この船にはそうして仲間が増えている。

 エースの人選はなかなかにつぼを押さえたものだった。医療の心得を持つ者、料理人、測量技師、元王宮音楽隊、狙撃手、近接特化型などなど。多彩な才能を持った者たちが自然に集ってきたのだ。さすが天然のたらしである。愛想よくしているだけで、エースが必要としている人材が集まってきた。船を運航するにあたってはかなりありがたいのだが、アンとしてはかなりの嫉妬案件である。エースだけ、ずるい。そうアンが拗ねたくなるレベルだ。

 

 加わったばかりであるが、ツヴァイもかなりの技能もちであった。能力値をABCDで現すならばすべてにおいてA+とつくだろう。

 アンが掛け持ちしている業務の中で最も重要な、航海主任としての席を渡してもいいと初めておもえた人物だった。

 たった三人で偉大なる航路(グランドライン)に突入した頃が懐かしくおもえる。まだ、ほんの一ヶ月半前だというのに、入ってからの日々が濃厚すぎたせいだろうか。今や二十名という大所帯になっていた。仲間たちも船長に倣い偉ぶるものがいないので、和気藹々とした雰囲気だ。

 

 白いままの帆が冷たい海風を受けて膨らんでいる。

 エースが頑なに海賊旗を作る、トレードマークを帆に描くと言ったのだが、アンはそれを強く拒否した。

 わざわざ敵の目につきやすい目印を描いてどうするのだとアンは主張したのだ。海軍でも海賊の把握に海賊旗の絵柄を用いていた。それに付け加え、黒い旗をはためかせていると商船との取引もしにくくなる。

 海賊を名乗るということは対外的に、誰かを傷つけ奪うものである、と高らかに叫んでいるようなものだ。そういう行為をしたいのか、とアンはエースに詰め寄った。

 

 「違う、この旅で金の心配なんてしなくてもいいようにお前が、ちゃんと整えてくれたのはわかってる。けど!」

 「けど、……なに?」

 

 欲しいじゃんか。

 

 小さく、口を尖らせて照れたエースがちらり、と流し目で見てくる。

 だからなにが欲しいのかとアンが聞けば。

 

 「格好いいだろ、名前とかさ。刻印とかさ!みんな揃いの」

 

 ……うん?

 

 エースが語りだした事柄をまとめると、こういう事かと落ち着いた。アンの脳内ではひと昔かそれ以上前の暴走族のとっても派手な色合いのジャンパーや、ヤのつくお仕事の方々が使う代紋だとか、結束のためにそういうお揃いのものを持ってちょっとやんちゃしてみたいなぁという希望だろうか。

 海賊業をしている男たちと、上記にあげた前者などはかなり似ている部分がある。男の浪漫という、成長したら黒歴史になりかねないアレであろう。

 シャンクスが長をしている船の面々も、なぜかお揃いが好きだった。引き合いに出されると、そんなものかともおもう。

 

 「わかった」

 

 あれもだめ、これもだめ、では話が先に進まない。

 だから妥協案をアンから出すことにした。

 

 海賊と名乗りたいならば名乗ればいい。

 けれど帆には海賊のトレードマークは描かない、旗も出さない。

 その代わり持ち物や服の飾りに海賊的な刺繍を入れよう。

 

 話し合いの結果、そうなった。

 だから仲間たちの持ち物の「なにか」にはエースが頭をひねりながら、ああでもないこうでもないと描いたトレードマークがあった。そして彼らは自分達のことを「スペードのかけら」と呼んでいる。エースが己をスペードに例えたからだ。この世界でもスペードの絵柄は剣を図案化したものだった。その欠片たちは自分たちの役割に剣の部位を足してもいる。エースと共に殴りにいくものたちは(ソード)であると言い、守りにつくものたちは(ガード)、後方支援が柄頭(ポンメル)と言った感じだ。彼らは彼らなりに言葉遊びを楽しんでいる。

 

 そしてつい先日には海軍と初遭遇し、武装組織(かいぞく)として手配されてしまったのだ。アンはひとり高みの見物をしていたのだが、はっきり言ってエースの敵ではなかった。乗組員たちもかなり奮闘し、見事撃退してしまったのである。その後、管轄している知り合いの中将にこっそり連絡を入れ、強化訓練の進言を匿名で入れておいた。きっと今頃、該当する海兵たちは楽しい訓練内容に喜び泣いていることだろう。会ったことはなかったが、同じ階級の女性士官も居た。芯の強そうな女性であったが、彼女とはいろいろと縁が深そうでもある。楽しみな逸材と言えるだろう。

 

 それに、良いこともあった。新聞の間に挟まれていた海軍発行の手配書に、真正面から撮られた笑顔のエースがでかでかと載ったのだ。どこでこんな写真を、いつ撮ったのだとおもうくらい良い写真だった。おもわずもう一部買ってしまうほどにいい写りだったのだ。本部の広報室に行けば、写真の焼き増しをしてもらえるかもしれない。だがアンは、はっ、とする。これは海軍の罠だ。危ない、引っかかるところだった。

 

 そんなつい最近のことを思い出しながら、アンはマストに登る。

 見張り台の上で震えていた青年に声をかけ、船内で体を温めるように促した。そのまま台にアンは収まる。

 

 エースは相も変わらずバウスプリットの上から動いてはいない。長袖のTシャツにダウンジャケットを羽織っただけの軽装で寒くないのだろうかとおもうと、大丈夫、と声が戻ってくる。こういう時、繋がっているとすごく安心できた。落ちないでいてくれたら構わない。悪魔の実をエースの口につっこんだのはアンだが、エースもエースで食べたことをすっかり忘れてしまう時がある。海の中から見る空はセロハンに透かしたような、独特な揺らめきがありとても綺麗なのだ。たまに舷の上に腰を下ろしたまま空を見上げ、そのままどぼん、と海に落ち、アンの手によって救い出された回数は片手以上両手未満になる。

 暖かい海ならばまだいいが、極寒水泳だけは遠慮したい。とても。いやかなり切実に。

 

 

 

 銀髪の男はするすると軽い身のこなしで見張り台に向かうアンを一瞥し、甲板に出てきていた面々に指示を飛ばす。

 ツヴァイは彼女が苦手だった。嫌いとまでは言わないが、どちらかといえばあまりかかわりたくない相手であることは間違いない。

 彼に手を差し出してくれたエースと双子であるという。しかし先立ってこの船に乗っていた者たちが言うほど、似ているようには思えなかった。男女の違いではない。もっと根本的なところが全く異なっているのだ。

 

 船長であるエースは誰に対しても態度を変えない。年配者や初めて出会う者たちは除いても差し支えないだろう。

 この船に乗る者たちは全員、彼を慕っている。彼に誘われ彼がいるからこそこの船で生きていられた。

 彼はまさしく太陽だ。どんな暗がりに身をおくものであろうとも、差別なく照らす。照らされた誰もが最初、あまりのまぶしさに目をつぶり、まばゆ過ぎて振り払おうとするが、次第にその明るさに慣れてくると胸の奥に押し込めた願望をつかみ出されてしまうのだ。そして照らす。

 出会って二日、ツヴァイは彼に惹かれた。それはむろん色恋沙汰ではない。話に聞いた彼の生き様に感嘆したのだ。

 彼は出会うために海に出た。この広い、世界のどこかで必ず会うだろう誰かに会い、そして世界の果てへ至るために青の海へ飛び出した。その話はツヴァイに少年のころを思い出させた。いつか自分も父と同じように、この海原と共に生きるのだと信じていたあの頃を。

 ほとほと閉塞していた生活に嫌気が差してきていたのだ。手を取れと強烈な意志が込められた黒の目がいっていた。

 退屈はさせない、と。

 

 確かにこの船に乗った直後から、退屈とは永遠に無縁になると理解した。

 誰も彼もが個性的で、彼の周りに話題が集中していたからだ。

 しかし彼の側には風変わりな少女がひとり居た。陰のようにひっそりと気配を殺すように有り続けている。彼女の存在はツヴァイにはかなり歪に見えた。その人物は彼の双子の妹なのだという。この船のありとあらゆる事柄を管理し、運営している。なにもかもに頭を突っ込んで出来るはずが無い、とツヴァイは今までの経験から身に染みて知っていた。適材適所、得手不得手、人間には得意なものと苦手なものが必ずある。なんでもかんでもこなせる超人など、物語の中だけの話だ。

 

 しかし彼女のもつ特殊な航海術だけは賞賛されるべき技術であると理解していた。

 この世界は大きく分けてふたつの地域に分類される。磁石の方位磁石が使える地域とそうでない場所だ。前者は四方の海と島々であり、後者が偉大なる航路と呼ばれる海域だ。

 ツヴァイは偉大なる航路(グランドライン)前半の海で育った。ゆえに他の島に赴く際には必ず記録指針(ログポース)が必要であると知っている。無ければ住まう島の磁場から離れたが最後、どこに流されるかわかったものではなかった。島の姿がみえるからといって、海流が島に向かっているとは限らないのが偉大なる航路である。

 

 だが彼女は記録指針の導きなしに偉大なる航路を渡っていた。

 航海士の仕事ではないようにみえる。だがやっていることは、測量し海図を確認しつつ航行に関しての情報を収集(周囲を警戒し、気候の変化など即座に対応)する、まさしく航海士としての役目であった。

 指針だけを頼りに偉大なる航路(グランドライン)を渡ってはいない。それがどれだけ異常であるかをツヴァイはすぐに理解したのだ。

 測量室には彼女を含め、五人の船員がいた。二十四時間を五人体制でまわしている。

 そして彼女が書き続けていた海図(ワゴン)を見れば、鳥肌が立った。ありえない、としか言いようが無い航路であったのだ。双子岬からはじまる偉大なる航路の航路はほぼ決まっている。なぜなら繋がる島の磁気が一定方向しかないからだ。新世界のような複雑さはほとんど持ち合わせてはいない。だから偉大なる航路の航路を知るものからすれば、ありえない、としか言えない海路をこの船は辿っているのである。

 

 それは神の御技のようであった。すばらしいとおもうと同時に恐ろしいともおもった。

 

 双子岬から仲間に加えてもらったという船医曰く、最初は記録指針なしの航海に不安しかなかったと言った。しかし当初から船長が”絶対に大丈夫”だと言うのだ。嘘だと反論する材料もない。日々を共に過ごすにつれ、不安は次第に払拭したという。彼は偉大なる航路から東の海に流れた医者であるが、ここまで快適な船旅は始めてだと言った。

 

 この船の長は、火拳のエースとあだ名されはじめた青年だ。凛として立つ姿は、どことなく王者の気風を感じさせる。もし彼がどこかの王家のご落胤であったとしても驚きはしないだろう。

 

 そして双子の彼女。何度も繰り返すが、本当に彼と血が繋がっているのかと疑いたくなる。

 彼女はいたって普通の娘さんに見えた。どこかの村や町ですれ違っても、見向きもされないただの通行人だ。取り立てて彼女について特筆すべき点もない。本当にどこにでもいる娘なのだ。

 性らしく人の世話を焼くのが好きであり、料理や洗濯など率先してやっている。育った島がかなり猛獣の巣窟となっていた(と聞いた限りは思える)らしく、身のこなしについてはとても、いい。

 

 ツヴァイはこの船に乗り、本当に乗って良かったのかと自問自答した日々があった。ほいほいと甘言に釣られついてきたは良いが、なかなか馴染めなかったのだ。それもそのはず、船に乗り込んでいた船員たちはそれぞれ自分のしたいことをしたいようにしていたからだ。統率など取れてはいない。

 で、あるのに船は機能していた。

 

 なぜ、と突き詰めてゆくとすべての中心にエースが存在していた。

 船員たちはエースを中心に物事を回している。ときおり命じる指揮内容も、まるで軍隊のそれであるかのような綿密さが伺えた。

 エースはツヴァイになにも命じなかった。なにかをしたくなったら声をかけてくれたらいい。としか言わなかったのだ。

 ツヴァイは初めてなにもしなくてもいい時間、というものを得ていた。満喫しているつもりであったのだが、手持ち無沙汰にでも見えたのだろうか。

 彼女が話かけてきた。そろそろ船のなにかをして貰おうかな、とおもうのだけれど。なにが出来ますか、と。

 ツヴァイは呆気にとられた。たいていの場合、これそれがしたいと希望を出したところでやらせてもらえるはずがない。なぜなら新入りほど信用ならないものはないのだ。雑用からさせ、裏切る可能性が低くなっていくにつれ、少しずつ仕事を分け与えてゆくものだ。

 

 だから素直に答えた。

 船の管理をしていた、と。測量の技術を持っており、航海士としての経験もある。

 

 「じゃあ、ここの管理と運営をお願いできますか」

 

 こちらにどうぞ、と案内されたのは測量室だった。

 馬鹿な。ツヴァイは目元の筋肉が痙攣するのを感じた。

 船に乗り込んでまだ一週間も経っていないツヴァイに、船の運命を左右する航海士の座をさらっと明け渡すとはどういうつもりなのかと。聞けるものなら聞きたかった。

 彼女は他の面々に偉大なる航路に入ってからの海図を見せてあげてほしいと言い。基本的にはここから先は記録指針(ログポース)に従って進むこと、途中で横道に入るときは前もって伝えると矢継早に告げて颯爽と去っていったのだ。

 手渡されたばかりの記録指針には、指針に頼らず向かっていた目的地の磁力が帯びているという。測量室の面々は腕時計型の記録指針をツヴァイに着けるよう言い、海図を引きなおし始めた。

 

 今まで彼女が仕切っていた仕事を、こんなにもすんなりと譲渡できるのはなぜなのか。快く招き入れてくれた測量室の彼らと会話しつつ、少なくともツヴァイには出来ない配置の仕方にどこか鬱々(うつうつ)としてしまう。積み上げてきた実績を他人にただで渡すなど、頭がおかしいのかと勘ぐりたくなるのだ。

 捨てるほうは楽だ。後に残るものたちのことをなにも考えなくてもいい。だが受け入れるほうはこれからの未来を共にしていくのである。

 測量室にいた者たちは、分かったと素直に頷いていた。しかし船の指針を決める航海士は船の命を預かっていると言っても過言ではない。それを貸し借り可能な物のように手渡す彼女に不満を感じ、不信を持ってしまった。

 

 「アンちゃん、最近すっげぇ忙しそうなんだよな」

 「ウォレスがぶっ倒れてるのもあるからなぁ」

 「ふたり分の仕事を背負ってさ、食べ物の確保もなぁ」

 「はは、そこらへんは申し訳ネェやな。みんな大喰らいだし」

 「オバちゃんって飯作れたっけか。いやないな、塩ぶっかけるのが関の山だ」

 「管理表の書き直ししないとな。アンちゃんは早朝と真夜中に充ててくれって言ってたから……」

 

 ツヴァイはしかし、測量室で交わされていた会話など耳に留めていなかった。

 ありえない海図と、認めたくない存在と、初めて己を認めてくれた存在の側に当たり前のようにして立つあれに、無性に腹が立った。大人としての矜持など、彼の手を取ったときに霧散していた。国では強く、正しくあらねばならなかった。そうでなければ必要とされなかったのだ。ツヴァイはあの時、凝り固めてきた常識を捨ててきた。そして己のわがまま、望み、願い、抑圧し続け叶わないと諦めていたものを形にする機会を得たのだ。だから我慢することを意識的に避けていた。

 

 よって多方面に手を出しすぎて対処できなくなったのだろう。そう安易に、利己的に判断する。周りの意見を聞き、妥協点を探すという思考を放棄したのだ。

 彼女の姿が甲板から消えることが多くなっていた。だが船の運航は滞りない。指針に記録された磁力に従って進めばいいだけだ。ただそれだけだ。それだけで、いい。いいはずだ。

 

 そして日々が過ぎてゆく。

 彼女はどこにでもいた。なぜかツヴァイの視線の先に現れるのだ。

 

 「慣れたか?」

 「……はい、おかげさまで」

 

 ある日、エースが良く冷えた瓶をツヴァイに差し出しながらその横に座った。

 天候は晴れ、突風も無く穏やかな空が広がっている。

 

 「気になるのか」

 なにを、とは聞かない。アルコールを受け取り言葉を待った。

 船長の視線の先には彼女がいる。

 

 彼女は毎日忙しく走り回っていた。

 船長を諫めることは元より、帆の操作や開閉、戦闘で指揮を執るのはもちろん、航路の確認や、驚くことに航海中であるというのに食料の買い出し、果ては船の修繕まで、仕事を各々で分担してはいるのだが、最終的にはアンの元へ持ち込まれている。多方面に手を出し過ぎたわけでも対処出来なくなったわけでもない。ありとあらゆる物事があの少女に集中していたのだ。

 決断を下すのは船長であるエースだ。だが船長が判断するために必要な情報を集め、意見をまとめていたのがアンだった。

 副船長としてツヴァイが抜擢されてからは彼を立て意見の集約にも口をはさまないように見守るだけになっていたが、見解を請われると的確な指摘を行う。

 人は誰かに立ち位置を奪われる事に不安を感じ、出来るならば守ろうとする。

 しかしそれが、アンには無かった。執着しないのだ。ツヴァイが最も欲したものを簡単に手放す。それが心の中にやりきれないおもいを残すのだ。

 

 手に出来なかったものがここにある。欲しくてしかたのないものが今、隣に居る。

 

 「アンはおれの、だからな」

 

 ええ。いりません、……あんなもの。

 そうおもい、じゃああなたはどうですか。と、ツヴァイはそっと心の中でつぶやいてみる。

 私を捨てませんか。側にいてもいいですか。必要としてくれますか。渇いたこの想いに報いていただけますか。道具として扱われるのはもううんざりなんです。受け止めてくれますか。

 

 考えることを諦めていた。考えたとしても夢で終わるはずだった。

 「おれはなにも捨てない。ツヴァイがおれを必要とする限り、近くに居ればいい」

 

 強く望め。おれの側に居ることを。

 一線を引いた言葉とは裏腹に、含まれた熱量が耳に届くと同時に熱く燃える。心臓が跳ね、どくどくと鼓動が小刻みに打たれる。呼吸を忘れた喉が息苦しさにひゅっと鳴った。

 疑わなくてもいい。信じて従っていれば路頭に迷う心配はなにも、ない。

 それはツヴァイにとって甘美な囁きだった。

 

 

 「接舷よぉーうい!」

 マストの下から野太い声が響いた。それに応える声が次々と上がる。いつの間にかこの船に乗る全員が甲板の上で走り回っていた。

 

 追憶から戻ってきたツヴァイは奥歯を噛み締め、舵の元まで急いだ。

 風の恩恵を受けていたマストを一気に畳み込む声が聞こえてくれば、ロープで固定し再確認する声もまた続く。

 接舷の作業はかなりシビアだ。

 

 この世界において海上での攻撃手段は砲撃か船を使っての体当たりか、もしくは移乗しての白兵戦が主となる。

 相手の船を揺らしながらいかにしてこちらが有利に接舷し乗り込むのかは操舵手の腕次第だ。

 

 船が綺麗に平行を保って岸につく。

 いの一番に渡したはしけに乗り陸に渡ったのはエースだった。それを見ながらアンがこの船にとどまる者たちの名を呼ぶ。船医と料理長、そして本調子ではない船員たちだ。その中にはツヴァイの名もあった。

 まだ夜も明けていない状態で冒険にでかけるのはあまりにも無謀である。

 はしけの先に簡易の駐留所を設けるために、いつもの準備をツヴァイへ伝達してゆく。

 その間にも慣れた手つきで揚陸の準備を進める者たちに、灯りをたくさん持っていくようにと注意を促すことも忘れない。

 

 「アンさん、どうします?」

 「ん? ああ、今回わたしはお留守番組よ」

 

 かけられた声にアンは笑む。エースが飛び出して行くのは確定だろう。ならば自分が船に残ったほうがなにかと都合がいい。幽閉されていた王子様には是非とも、この島で船長の手綱の取り方を学んでもらわなければならなかった。

 

 「時間があれば、まあ、うん」

 

 古の都は住まう者を失ったあとも静かに佇み続けている。

 捨てられたのではない。かつての住人たちにはこの地を去らねばならぬ理由があった。しかしそれは住人たちの勝手だ。

 そんな古都にはいまだ動き続けている時計がある。決まった時刻になると美しい音色を響かせるのだ。その時計台から見下ろす景色は都の全容を眼下に広げる。アンはかつてこの鐘が奏でる音に声を乗せたことがある。誰が一体こんなことを。予期していたわけではないのだろう。しかしその音はアンが知る歌の連なりだった。出来るならばもう一度、その鐘の音にあわせて声を発したい。

 

 「食料調達班と捜索兼冒険班にいつもみたいに分かれてね。ずるは無しよ、さくら、ちゃんと見てて」

 

 かくして各班への振り分けを賭けて合戦が始まる。

 

 

 

 

 

 開始の合図は日の出と決まった。

 空の機嫌がわかる船員のひとりが今日の天気はばっちり快晴だと断言したためだ。

 白の玉が山と積まれてゆく。今回の班分けは雪合戦である。ルールは簡単だ。相手チームのだれかを地に伏せればいい。幾人も権利が重なった場合は先手を取ったものが先に抜ける。そうしてどちらかの班が満員になった時点で終わりとなるのだ。

 

 「エース船長卑怯だ!!」

 「溶けるんだ、仕方ねェよな?」

 

 いくつもの氷の塊がしゅわり、と水蒸気に変わった。網を使って雪崩を作り出し、さらにその中へ雪玉を隠し大玉ころがしのような大きさのものをぶつけようと工作したらしい。

 さっそく阿鼻叫喚が響き渡る。エースはワイルドカードだ。船長より技量が高いことを示せば船で悠々と過ごすことも選択できる。

 

 「どんどんと罠の作りは巧妙になってるけどさ……威力は下がってる気がするな」

 「へーい、創意工夫を続けまっす」

 「頼むな」

 

 そうこうしているうちに雪合戦の結果によって食料調達班と冒険班に分かれた者たちが、懐中時計を手にして集合時間を告げるアンの号令により走り出す。

 

 冒険班にはエースとツヴァイがいた。

 一足先にと古都へと突っ込んで行った鉄砲玉たちを集めながら、エースは石畳の路を走っている。その姿は実に楽しげだ。先行した者たちの中に狙撃手がおり、雪玉を投げては逃げる、を繰り返している。その狙撃手を追いかけ、幾人かが包囲網を敷きながら追い詰めている様子を指揮するエースの姿は見ていてツヴァイはおもわずほれぼれしてしまう。

 彼の投げる雪玉は実に的確だ。隙を見せたものたちに満遍なくあてている。

 その姿は実に十七歳らしい。だが彼は青海を航行するための許可を得ていない無法者のひとりだ。ツヴァイが封じられていたあの島で見せた『海賊らしい』自由奔放な姿は彼の心にあこがれを芽生えさせた。

 してはならない。望んではならないとおもっていた心が疼き、暴れ、隠していた望みをツヴァイに認識させた。

 

 世界を自由に渡れる強さをもつ者。絶望の淵に立ち身動きの取れない誰かに手を差し出す強さをもつ者。

 誰も彼もが幸運だったとこぼす。

 エースに出会えたことがこれ以上ない幸せであるのだと。

 

 そこで脳裏に陰を落とすのがアンの存在だ。なぜ居るのかとおもってしまう。

 ツヴァイは頭目掛けて投げられた雪玉をひょいとかわす。すぐ側にはいつも先陣を真っ向から駆け出す女海賊が立っていた。

 

 「新入りの副船長、アンちゃんをあまり貶めないでやってくれるか」

 

 ツヴァイは表情を動かさない。

 「あの人は気にしないだろうが、あたしが困るんだよ」

 

 心理として人間は共有スペースを持つ者同士に悪感情をもたれることを嫌う。誰でもそうだろう。見知らぬ誰かに悪意をもたれてもどうという事はないが、多少でも関わりのある人物に嫌われていると気持ちが沈むものだ。それが同じ船に乗る者同士となればかなり苦しい状態となる。

 

 「心の中でおもうのはいい。自由さね。だけど顔に出すんじゃないよ。どうしても溜まってどうしようもないってんなら、船長にぶちまけな。船長のことは信じてんだろ?」

 

 彼女、バンシーはツヴァイに言いたいことだけを言って姿を消した。

 小さく舌打ちを、打つ。

 

 ああそうだ。気に入らない。あの女が。女だてらに船に乗り、当たり前のようにあの人の隣に居る。バンシーのように海千山千を超えてきた猛者ならばまだ許容もできよう。

 数日でわかった。

 船を動かすには多くの人足(にんそく)が必要だ。しかしあの女は何でも出来る。悔しいことにこの大きな船を船長である男とふたりで回せるほどの知識と経験、少人数でも動かす術を知っている。

 

 この船には彼を慕い乗り込んだ男たちがいる。

 この船に居易いように、それぞれが得意とする分野を分け与えられていた。力量を超えないように、しかしすぐに終わってしまわないように適度な分量が手渡されていた。それが彼らの卑屈に歪んでいた心のわだかまりを溶かすのだろう。不当に扱われず家族のように迎え入れられる。そもそもこの船に乗る多くに、無条件で愛してくれる誰かなどほとんどいないのではないか。

 

 だからこそ羨ましかった。

 ツヴァイは見たのだ。

 彼がこの船に迎え入れられたとき、視線を交わすだけで理解し許容した瞬間を。

 

 このおもいは消えないだろう。

 目の前で毎日繰り返されているからだ。忘れようとおもっても、声が聞こえなくとも、視線が絡まりあうそれを見るだけでツヴァイの心の奥底に黒い粘着度の高いどろりとしたものが湧き出てくる。

 

 ツヴァイは与えられてしまった。副船長という役目と、航海士という仕事を。

 つまるところ、彼はこの船の主柱に据え置かれたのだ。これが折れてしまえば航海などできなくなる。副船長は船の目でもある。広く浅く乗組員たちを見、不安要素があれば船長へと進言する。

 

 彼女はその役目を失っても船長との絆が切れはしない。どんなに遠く離れたとしても互いの信頼は揺るぎなく、繋がれたままだと。

 

 結局のところ妬ましいのだ。

 ツヴァイが欲しくて手を伸ばし、努力の果てに失ってしまったものを船長と彼女は持っている。

 その姿が憎かった。ぶれて見えた姿に悲しさを思い出した。消し去ったはずの愛しいその人の姿を。

 

 自覚したくなかった。

 ツヴァイは晴れた薄い青の空を見上げる。

 

 「ツヴァイ、緊急事態だ。手伝ってくれ!」

 

 楽しげなこえが上空から降ってきた。

 なんでも都の中央部に居た大白熊の群を船員のだれかが刺激してしまったらしい。すぐに群れの頭をエースが抑えたのだが懐かれてしまい追いかけられているのだ、と。

 

 「あなたなら抱きつかれたとしても平気でしょう」

 「団子状態で来られたらおれでも死ぬ!」

 

 古の都を探検していた者たちは一斉に、白熊たちをいかに撒いて逃げ切るかという生存逃走劇となった。

 

 呼び笛が雪景色に染まった都に力強く響く。

 音の数はひとつ、だ。

 

 都に居る者たちに少なくとも一時間は逃げ続けろ、という合図だった。そうすれば必ず助けがくる、と誰もが理解する。

 

 

 

 

 

 

 時を少々遡る。

 食料調達班は鹿を二頭、猪を一頭、そして釣り糸を垂らして釣ったナガタチが一匹という獲物を抱えて船へと戻ってきた。さすがミハール先生率いる班である。

 ここから忙しくなるのは食卓を取り仕切る者たちだ。

 たどり着く島々で毎回のごとく狩猟していれば手馴れてもくる。次々と血抜きをし、毛皮を剥いで塩水で洗い貯蔵庫へと運び込むのだ。その他、鹿の角や毛皮は高値で売れるし、内臓は滋養強壮に良い。猪もそうだ。薬喰いの別名で知られている。きっちりと下茹でなどの処理し、どうしても食用にできない部位は穴を掘って埋めるなどを終え、アンがふと都の方へ意識を向けるとなんだかとても騒がしくも楽しそうな出来事が起きていた。

 

 長い冬と短い夏、そして春と秋を繰り返すこの島では、どうやって雪の季節を生き延びるかが最も重要になってくる。

 かつてこの都を去らねばならなかった獣人たちは己と同じ因子を持つ獣たちと意思を疎通させることが出来た。

 獣たちはこの地の獣人たちからこの島特有の気候を生き延びる術を教えられている。誰に教えられたのかを覚えているものはいないだろう。しかし脈々と続く血の末たちは代々、受け継いでいるのだ。

 

 そんなふうにして存続している、いくつかある獣達の群れのひとつになぜかエースをはじめとする冒険班のものたちが襲われ、もといじゃれ付かれているのである。獣達の心は人間とは違いとてもわかりやすく友好的か敵対か二極に分かれる。好きか嫌いか、餌をもらえるか殺されるかという単純さなのだ。

 

 下ごしらえを終えた食卓の守護者(コック)たちはそれぞれ席に座り飲み物を口にし始めている。狩から帰ってきたものたちもしばしの昼寝と毛布を持ってハンモックに潜り込む者もいた。狩組のほとんどは焼きたてのパンと足の早い内臓を煮込んだ味噌と醤油煮ができるのを今かいまかと待っているようだ。ジリンガーという生姜とほぼ同じ香辛料を使った醤油煮はかなり美味しい。白米が欲しくなる。モツ煮込みを口にすると酒も欲しくなる大人が多かった。寒い日は、特に冬島に寄る日々だけは酒の飲酒が許されている。特に外で見回る者たちは酒精を体に入れねば凍えるのだ。

 

 冬島では珍しい晴れ間も見えているおかげで、かなり冷え込んでいるものの見張りに立っている者たちの負担も少ないようだった。この島は遠洋から影になる場所が多く、見つかりにくい入り江に船をつけているため、早々発見されることはないだろう。が、しかしこの島はすでに海軍の周回航路のど真ん中にあった。しかも義祖父が好んで通る急速流(ジェット)がある場所だ。ガープ中将の下で経験を積み階級を上げた将たちも良く使う海流(みち)のひとつである。

 

 時計塔に行ってもいいだろうか。ふとそんなことをおもう。古都の鐘は朝の九時に鳴る。

 

 キイキイ。

 ……と、弱弱しい鳴き声が聞こえた。それは助けを呼ぶ声だ。

 アンは空を見上げる。甲板の上で意識を広く浅く広げてゆく。大地に沿ってではなく空に向けてだ。

 そして見つける。

 アンはそれが羽ばたいていた場所に瞬間移動しそっと両手で抱きしめる。温かさに包まれくたりと力を抜いたものは伝書バットだった。羽根を畳ませコートの中に抱きこむとさらに脱力したようだった。

 

 アンは甲板に降り立つ。なにか言いたそうに見ているが、口をつぐんでくれているようだった。

 伝書バットは世界政府が使う伝達専用の動物だ。伝書鳩よりも気候変化に強く飛行距離が長いため重用されているが、寒さにはめっぽう弱い生き物である。

 伝書バットは爪をアンの服に引っ掛け温かさを甘受していた。冷気に触れると嫌そうに脇の方へ移動しようとする。それを阻止しつつ、アンは小さな体に括りつけられていた書簡を結んでいた紐を解く。そしてその中に入っていた紙を取り出した。

 

 差出人は世界政府だ。見慣れた印が押された封を切る。中身を確認してみると仰々しく書かれた召喚状だった。

 なぜ今このタイミングなのか。

 アンは思いつく限りの事柄を並べてみる。すると最大の起因となった事柄が、ツヴァイを得たあの島での出来事であったのだろう。言葉を交わしたことはないが世界会議の席でツヴァイの、血縁上の父は見たことはある。

 

 黒の旗を掲げず、ゆく先々で有能な人材を集めながら海兵や海賊とは敵対しつつ赤い土の大陸(レッドライン)を目指すものたち、として新聞にも特集されたことがあった。

 ”火拳”とは海軍がエースに名づけたふたつ名だ。

 どういう意図で特集を組んだのかは推測するしかない。しかし海軍側としてはエースをはじめとするスペードに属する者たちを『海賊』の類に属させたいのだ。そうして悪としての烙印を押し、海軍の敵として認定してしまいたい。

 だが火拳のエース率いる集団は出会う商船と真っ当な取引をし、襲われている船を見つけると助っ人を買って出、報酬を求めず去ってゆく。商船の間ではかの船に出会えたら次の寄港地までの安全を確保できる幸運船と触れ込まれていた。世界政府としては正反対の世評に頭を抱えているのだ。なにをもって悪と呼ぶのか。その定義が壊れつつある。

 

 ガープひとりだけはさすがわしの孫たちだ、と大笑いしているとのことだが。

 その船に海兵だけが使う秘伝、六式の使い手であり、某中将の孫であり、世界貴族の狗でもある人物が乗船しているともなれば批判よりも勇名が流れるのも仕方が無いといえた。

 ならば取り込んでしまえ、と世界政府の誰かが提案したのだろう。

 

 海賊と名乗っているわけではないが火拳のエースには新人として破格の懸賞金がかかっている。

 そしてアンにはデイハルド聖から、傷ひとつ付けず生きて檻の中に捕らえることが出来た者に報奨金を出す、との触れが出ていた。金額は明示されていない。現実問題、褒美は望みのままに、という状態だった。

 四方の青海や楽園であればまだ、アンの手に余る人物がちょっかいを出してくる率は高くないだろう。だが新世界に入れば別だ。うじゃうじゃと居る。面白がって突撃してくるものたちの顔がいくつか浮かんだ。

 

 それは兎も角、この手紙をエースに見てもらわねばならない。

 都で随分と楽しそうに遊んでいるが、熊たちの体力は底なしに近い。ひさびさに全力で遊んでくれる存在が現れたのだから、その喜びようが大きいのはわかる。興奮のあまり飛び出た爪で引っかいてもちょっと熱くなるだけで傷つかないのだ。野生動物は基本的に火を怖がる習性をもっているが、脳内アドレナリンがだばだばと出ている状態では本能を凌駕してしまっているのだろう。

 

 アンはいつでも出航出来るように甲板に出ていた者たちに通達する。

 ぽかんとした彼らに伝えるのは、熊の大群とたわむれている冒険班の様子だ。

 疲れきり、逃げ切れなくなった者たちはこの船に戻ってくるだろう。だがそのときに大熊たちがこぞって渡って来、船に乗ればこの船の最大重量を軽く超えかねない。

 

 家が潰れる。

 

 由々しき問題である。

 事態を理解した幾人かが離岸の準備に取り掛かった。食堂でモツ煮込みを今か、今かと待ち構えていた数人も甲板に出て来て理由を聞き、出航に必要な準備を手分けして進めてゆく。

 

 アンは大気を蹴り、空へと舞い上がる。

 九時まであと一時間余り、冒険班のものたちにはその間しっかりと走り回ってもらわねばならない。

 

 時計塔に立ち、笛を一度だけ吹く。

 スペードの面々には時間を知らせる際に鳴らせると事前に教えてあった。

 

 今回、吹いた数はひとつだけだ。

 鐘の音が連なり響くと熊たちをはじめとする獣達の三半規管が一時的に麻痺する。その瞬間を見計らって各々が船に戻れるよう取り計らうつもりだ。

 

 それまでの間、ほんの少しだけ歴史の本文(ボーネグリフ)に行き、メモを取ってくることと。この地のどこかにあるはずの、父の言葉にでも耳を傾けてこよう。

 そう思い立ちアンは黒石の元へと移動し見上げる。ラフテルへ最終的に向かうために必要な島に向かうための座標がひとつ、記されていた。この黒石は新世界でナワバリを主張し、最後の島に向かうための航路を押さえているものたちにとって眉唾ものの情報だ。

 

 

 満月が近づいてきていた。

 書簡の件についてはデイハルドの元へ行く時にでも返答すればよいだろう。時間はまだある。それまでにエースや仲間達と話して決めればいい。返答期限が三日後と示されていたが、無視するつもりだ。

 首元に巻かれた石にアンは触れる。石の温かさに胸の内がそわそわとした。首輪だけでは足りない、と足されたピアスが存在感を増す。

 

 アンは物思いにふける。物事は互いに利を得れば合意を得やすい、とはいえ相手は百戦錬磨の老獪だ。こちらがどう返答しても不利にならぬよう、用意周到に準備して待ち構えているに違いなかった。彼らのやり方をなまじ知っているだけに、作戦がたてにくい。条件をちらせつけてくるなら、まだ交渉の余地はあると言えよう。

 ならばこそ相手の土俵にはおりていくのは危険だ。知略戦は彼らの十八番なのだから。どうすればその裏に回りこめるかが交渉の鍵となるだろう。

 

 アンはこんな世の中だからこそ航海者でありたかった。海賊でも海兵でも、流れて生きる賞金稼ぎでもなく。青の海を棲家にする海の民でありたかった。

 その意志を貫き通すために使えるものは使うべきだ。

 

 目を閉じ静かに呼吸を繰り返す。

 そしてこの星の記憶へ、そっと潜った。

 




7/22 誤字修正ありがとうございます。
ハンモックとジャンパーの誤字、初めて知りました。
後者は大阪と茨城でしか通じないらしい、とグーグルさんが教えてくれまして。
本当にありがとうございます。
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