ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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68-海中の旅

 水泡がふわり、ふわりと輝きをはらんで頭上に向かって登ってゆく。

 手を伸ばせば遥か彼方に青が揺らめき、まるでセロハンを覗きこんでいるかのように見えた。小さな頃、様々な色合いの透明なラムネや飴を包む包装を広げ、空に向かってかざしていたのをアンは表情を和らげながら思い出す。

 赤や黄色、緑や紫、色とりどりの透明は空を様々な彩に変えた。

 夏の夕立を待ち望み、降りやんだ空に七色を探さなくともこうすればいつも見る事が出来る。セロハンテープにはさみで切ったよれよれの虹を貼って作っては、それを祖父に出来たと喜び見せながら共に空を仰いだ、そんな幼少の頃の記憶におもわず笑みがこぼれた。

 

 「海ん中入るの、久々だなぁ」

 横から声が聞こえた。やっぱいいな、と見上げる目元が緩んでいる。

 「船長は能力者、ですからね」

 ツヴァイの声に心の奥がチクリと痛んだ。

 

 悪魔の実は海を嫌う。そう長年言い伝えられ、民間でも真実として定着し今では誰しもが知っている定説だ。アンはそっと視線を逸らす。罪悪感が半端ないからだ。

 幼いころからエースは海を好いていた。ゆくゆくはこの海原を縦横無尽に渡りゆく海賊になるのだと決めていたくらいだ。兄弟の中で一番泳ぎが、水中での所作が綺麗なのもエースだった。けれどもあの時、緊急的かつ迅速な運命の書き直しに必要であったとはいえエースから蒼を奪ってしまったのは間違いのない事実だ。焔の悪魔もすんなりと従順に半身に宿り忠犬のごとくなついているし、予想外の事態が現在進行形である。そもそも悪魔の実の中に意志ある存在が潜んでいいるなど聞いたことが無かった。

 悪魔の実の中に精神は宿らず事象のみが封じられている。というのが通説だ。だがエースの中には悪魔がいる。果たしてこれを悪魔と呼称すべきかは別の議題としても、確かに居るのだ。何かが。そしてその焔は悪魔の実辞典に記載されていない能力をエースに与えているし、実はアンもその能力の恩恵を受けていた。

 

 となればルフィの中にもゴムゴムの実の悪魔が居るのかと急ぎ確認してみたがそうでもなかった。ルフィの中には可愛いルフィだけがあった。ひと安心したのは間違いない。実の種類での変化かと騎士たちの警らを隙間を突いて聖地の書院に隠れ忍んで漁ってみたが、めぼしい情報は無く、専門家への相談をまじめに検討しているくらいだ。とはいえ相談したが最後、捕獲対象になってしまうのは避けたい。現在のところ、八方ふさがりの状態である。世界へのアクセスは最終手段だ。

 

 息を深く吸い頭上を見上げれば、きらきらと陽光がらせんを描いていた。波が生む白波が水面下に輝きを広げている。

 兄弟4人で故郷の海に飛び込んでいた幼い日々、まぶたの裏によみがえる青はとても穏やかだった。元々かなづちであったが実を食べてからというもの、さらに輪を掛けて海に嫌われてしまったルフィがどうしても、と強請り、一年に一度、三人で遠浅の蒼の中で支えながら見上げた揺らめきがよみがえる。

 ゴアの海はもう少し碧が濃かったなと思い出しながら、真上にあげていた目線を閉じた。

 

 海に強い悪魔の実を食べた人物も知っているが、体に海水が滴る状態で人間へと戻るとその場から動けなくなる。笑っていないで助けろと会う度に言われるが、そのしなびれ方が余りにも艶がありすぎて毎回鑑賞してしまうのは許してほしいところだった。

 

 ゆっくりと息を吐く。見上げて来る目は、お願いを繰り返していた。

 実は出航してから、アンは身動きが取れずにいる。なぜならぎゅーっと足元にしがみついてくるさくらが離してくれないからだ。その髪を指で梳きながら、何度も平気だと言い聞かせるが、どんどんと光届かぬ海の底へと向かう船の針路が怖くて仕方が無いのだ。震えてはいないが、どんなに離して欲しいと言っても握りしめた指が断固として拒否を示す。

 

 船を包みこんだまろやかな泡は、ひとつの気泡となり船体を海へと沈ませた。出発前に聞いたレイリーの話では、コーティングされた船は圧力を軽減する力を持っているのだという。

 一般的に船は浮力によって浮いている。物理の時間だ。

 簡単に説明するならば、浮力とは水などの流体が制止状態において応力を生むことを指す。物体の内部に生じる力の大きさや作用方向を定める物理量において、受ける重力とは逆向きに作用する力であるため、物体は流体から圧力を受けると浮く、のだ。

 流体から圧力を受けた物体は、地上で受ける重力の比重に対し下へ下へ沈む力が強いほどに反発力を生む。重いものを持って階段を上がる時、下に位置する人物のほうが重さを感じるだろう。この下への圧がモノを浮かせる力となる。

 もっと簡単にいうなれば、船は浮く。木も浮く、鉄も海水濃度に反発する形に整えさえすれば浮く。とりあえず何か物を海に浮かべれば水と物が押し合い浮くのだ。その結果、船は風を受けて海の上を走る事が出来る。

 水の中に体を浸すと軽くなったようにおもえるのもこの浮力の作用と言えた。

 

 専門的な話に入るとみるや否や、エースも口を真一文字にして耳を閉じ目を瞑った。これ以上聞いても何が何やらさっぱりわからないという顔だ。難しい話はインテリ層でしてくれと言わんばかりの拒否である。最終的には伝家の宝刀、不思議反発で終わらせてしまった。

 

 いつもわかりやすくみんなにかみ砕いて教えてくれる先生は、長年探し続けてやっと手に入れた書物に首ったけらしく、今日はまだ姿を見ていない。

 元々からして、理論を話し合うのはアンとサボだった。仕組みを正しく理解して、利用する。その真逆であったのは、エースとルフィだ。本能的に必要であるものを直感で選び取り手元に引き寄せるのだ。理由を後付けにすべきではないが、いつ見てもその選択の仕方が秀逸だとおもえた。

 

 船の操作をツヴァイやデュースと共に教えてもらい、シャッキーとレイリーの見送りを受け、船は海中へゆっくりと落ちてゆく。内部には空気があり風船のように膨らんではいたが、実際に船が下方へ沈むとなれば、誰もが生きた心地がしないのだろう。

 ちなみにモモンガからの制止や妨害はなかった。偵察兵たちが遠巻きにこちらを見ていたが、手を振ると指で『ご無事で』と返してくれていた。

 船内に目を戻せば、掌を組み祈ったり体を硬直させている派と、船長に右ならえと言わんばかりに初めてを楽しんでいる派、と五分五分という割合くらいだろうか。今のところ不安が高じすぎて暴れだしそうな仲間はいないようである。

 ちなみに船の主はレイリーがコーティング作業中のみ表に出てきたが、仲間たちとは別行動だったそうだ。小さな青空教室が開かれていたとも耳に挟んでいる。そしてその船の主たる先生は、ようやく戻れた自室で読書に没頭していた。少量のパンと水さえあれば5日は持つと言った通り、以前に数回、有言実行していたため心配はしていないが後で様子は見に行くべきだろう。

 

 

 コーティングにより船は海からの支えを失った状態となり海の中を進む事が出来る、というのは物理法則を超越していて興味深いと、アンはシャボンにそっと触れる。話には聞いていたが、なるほど、実際に体験する方が心震えた。つるつるとしていて弾力があり不思議な感触だ。

 船はマングローブの幹、ではなく海底へ突き刺さる根に沿って降下する。 ちなみに下へ、下へと下りれば下りるほどプランクトンを餌にする魚類が減り、捕食性の高い深海魚がうようよとしているのだが、アンはその事実を皆に伝えず黙秘していた。さくらのように心底怖がっている仲間たちもいるのだ。

 恐怖や煽りは最小限度に抑えたいと考えていたのだが、船員を集めてシャボンについてや海中航行中の説明をしている最中、さらりとエースがヤバいらしいぞ、と暴露してしまった。

 「でも大丈夫だ。おれがついてるし、みんなもいる。怖いものなんてねェ、よな」とあっけらかんに笑う。

 それに海王類は旨いんだぜ?と満面の笑顔で周囲を見た。この船の長として、何事が起こったとしても対処する事が出来るという揺るぎない自信が、仲間たちの不安を払しょくしてゆく。なんだかんだと騒ぎながらも、周りを良く見ている証だ。ちょっとした言葉や仕草で心情を把握してしまう所が、なんともエースらしい。

 

 「深海に潜るほど、体感気温も下がりますからね。各自、コートの着用を怠りなく」

 注意点を伝えそれぞれ気を付けるように副船長が全員へ解散を言い渡せば、後は自由行動だ。おのおのが振り分けられた役目を務めながら、あちらこちらで雑談の花を咲かせている。思いのほかみんなが、多少の動揺はあっても平常であろうとしてくれているのは喜ばしい限りなのだが、ゆっくりと深度を増すほどに口数が減っているような気がしないでもない。

 シャボンディを出港した7割の船が沈没すると聞けば、心が揺らぐのは仕方ないことだ。とはいえ折角エースと共に来てくれた仲間たちだ。深海がおどろおどろしい未知の世界ではなく、地上とは違う美しさがあるのだと知ってほしかった。

 シャボンという泡に命運を託して深淵を往くこの船の中でしか見られない光景だから。

 

 アンとしても反省して次回に生かせればとおもう事態もあった。海の中のことについて、あまり知らないのだ。調べる時間はあった。しかし感情を優先した時間を使った。楽しかったが、こうして海の中に来れば準備不足だった感が否めない。どうにかなるだろうとエースのように楽観視するのも必要な時もあるが、どちらかといえばアンは石橋を叩いてなおかつ補強しながら渡りたい派である。

 現実逃避として、潜水艇にシャボンが使えたらすさまじい技術革新になるのだろうなぁ、とか海底に沈んだ文明の跡が見つかったら学者たちが興奮しきりで革命が起こりそうだなぁとおもいながら。中央がひた隠しにしてきた、今は海底の事実が浮かび上がってくる未来にそっと想いを馳せる。

 

 世界の形を、人は知らない。赤の大地に囲まれた青い海の中だけで生きていれば知らなくても別段、日々の営みには関係のない話だ。翼を持つものでも全容を見ることができないし、マリージョアからでも見通せない。そのさらに上から眺めることができたなら、どれだけ世界の形が異常であるのかを知れるだろう。そしてその形をそのままで維持するのがどれだけ困難であるのかも。

 

 地上と比べ生物の数が多く感じられる深海なのになぜか穏やかで、どことなく秘密基地周辺を思い出してしまう。森の中に作った小さな拠点はダダン一家の誰もが到達しにくい場所にあった。村の放牧的なのどかさや一家のアジトがある中腹とはまた違う生き物たちの賑やかさがあったが、獣たちはその姿を緑の中に隠していた。しかし鳥のさえずりや獲物を探すために歩き回る土を踏みしめるかすかな音、狩る瞬間の摩擦音など、生き物たちが息づく鼓動の音は騒がしかった。自然もそうだ。虫の音や木の葉が擦れる音、風や水も囲炉裏の火さえ時とともに響かせていた。

 

 ただひとつ。森にいつもとは違うざわめきが生まれたなら、それは義祖父の来訪があったり、山狩りの王国兵が山に入ってきていた。

 今の状態は、その時に良く似ている。

 それは嵐の前の静けさ、とも言いかえる事ができた。

 

海と空と大地はある日を境に形を変えられた。

それは過去に結ばれた約束がもとになっている。人間である限り、本来有限であるべき命を歪に捻じ曲げてでも守らなければならなかったものとはなんだったのか。アンには理解できそうにない。限りあることを誇り次代の選択を受け入れたものと、誓いを果たすために留まることを選択し無限に近い寿命を得てしまった両者の間に横たわったものは、限りなく深い。

 絡まって固まっていた過去の因縁は、少しづつほぐれ形を整えてきている。まるで演劇の舞台を両陣営がともに作り上げているよう見えるのはアンだけだろうか。出演者には舞台稽古もセリフも用意されていないのに。それぞれが自分勝手に動いているようで実は操られたマリオネットのごとく、あるべき場所に誘導されているかのごとく集ってきているのだ。今度こそはと祈る多くの願いが聞こえてくる。

 

 あれから800年以上の月日が経っているにも関わらず、世界はたったひとつの願いのためだけに形を保持させられていた。そしてその歪な世界を変えようとしたものと守ろうとしたものの果てが今を形作っている。

 

 ばかばかしいとは思わない。抱いた気持ちは、その人だけのもので特権であるからだ。けれど、どうして、という想いはあふれてくる。こんなにも遥かな時を隔てなければならなかったのだろうかと。……待たなければいけない理由でもあったのか。

 

 巨大な海王類が悠々と船の真横を横切ってゆく。

 海に浮いている状態とはまた違う環境に、誰もかれもが興味と恐怖を抱いていた。その悠々とした姿を見ていると、自分が抱いている悩みなどちっぽけなものだと思えてしまうのが不思議でならない。すぐそばで捕食が行われたならばなおさらだ。この海で命を散らすつもりなどさらさらないが、すぐに失われてもおかしくはない環境だった。ウォレスも丸のみにされるぅぅ、とドギャに抱き着いていた。魚人はこの海域をかなりの速度で通過するため、捕食の憂き目に合うなどないそうだ。

 

 父から受け継いだ中途半端なあれこれのおかげで悩みは尽きないが、それでもエースや出会えた仲間たちと共にこうして生を謳歌できる今が幸せだと思えるのはとても貴重だとおもえた。

 

 ここからはいつもの常識が通用しない、命が帰る世界の裏側である。地上で暮らす人間にとっては、完全なる未知の領域へ足を踏み入れるのだ。

 怠った準備により命を落とすのが先か、それとも回遊する海の生物たちに襲われ食料となってしまうのが先か。それとも自分自身に負けてしまうか。

 新世界を訪れる、新人たちにとってはなにもかもが難関と言えた。

 その過程はなんと、神秘的なのだろう。まるで生まれてくる時を再体験するかのようだ。

 

 とはいえ、全く光明無い海中をただひたすらに進むしかないのかといえば、そうでもない。

 安全に海中の楽園へ行きたければ、魚人の案内役を雇えばいいのだ。魚人たちも地上にしかない物品を必要とする。世界にいくつかある名立たる大きな商会では、不定期とはいえ、地上と魚人島を結ぶ運搬航路を開いていた。その時に案内役として魚人が派遣されるのだ。かの地にはいくつかの案内人組合もあるらしい。運が良ければ、この物資運搬戦の後をついて行くだけで魚人島へ辿りつけるのだ。確率もまま上がる。いつ出るかは商会の都合のため海兵であるアンが知る由もなかったが、それで新世界にあわよく浮上した海賊と会った事もあった。

 

 他の方法としては魚人と仲良くなって連れて行ってもらう方法、だろうか。ただ多くの魚人達は人間に良い感情を持ってはいない。

 そう。オトヒメ王妃の早世だけでも地上が不利になったというのに、フィッシャー・タイガーという人物の死に纏わる一件によってさらに陸と海の関係が悪化してしまった。以前から両者の間に横たわっていた確執が、より根深くなってしまったのだ。とは言うものの、世界政府はこの件を政治的に利用はすれ、地上勢が不利になったとは考えていない。過去何百年の間に幾度もこういう事案が何度も上がってきているのだろう。人間の歴史は世界をたがえても寸分も変わりがない。起こることは大体同じだ。だからどう転んでも対処できるのだろうし、そもそも中央からしてみれば所詮どうでもよい事柄に過ぎないのだ。ただひとであるものたちのことなどは。

 ある程度期間を置いてガス抜きをしなければ、中央に歯向かう勢力が台頭してくる。だから退屈を紛らわすように時々、適当にあしらっているに過ぎない。

 傍観者としての立場からすれば、魚人側の一部が随分と空回りしているように見える。海兵として関わったことのある魚人(かれ)らは多くを語りはしないが、その他にも何か、言葉や行動の端々に引っかかりをアンは感じていたのは確かだ。とはいえ中央に至る力にはなり得ていないのが歯がゆいところである。

 

 冥界を思わせる闇をアンは見上げる。

 最後の海は本当の強者だけが生き残れる戦場だ。生半端な覚悟で赴けば死が待ち受ける。能力を持たない地上で暮らす普通のただ人であれば瞬時に命を刈り取られる修羅の地域なのである。海兵であれば最低限、六式をふたつ習得できていなければ、戦力にならない。色もちならそこそこ耐えられるだろうが、開花前だとなかなかに苦しい。

 自分ひとりでならば、行こうとも思わなかった。

 聖地の横を通らずとも、単独であれば空を駆け、世界を1周する事さえ簡単だったからだ。聖地から動けぬデイハルドの代わりに、様々を見、聞いた事柄を伝える。そのためならば、立ち入りが禁止されている区域すら特権、として入る事が出来るのだ。

 

 そのような(すべ)で世界を駆け巡ろうと考えるのは、アンだけだろう。基本的に剃の移動距離は短い。目視できる近距離ならばまだしも、遠く離れた島と島の行き来はほぼ不可能だ。飛行能力を持つ悪魔の実の能力者も体力という限界がある。必ず羽休めできる場所が必要だ。

 そもそも誰も、空に見向きもしなかった。しないように情報統制されているのだから仕方のない話ではある。ただ青の海の上と下だけを利用し、空を移動の手段には含めないよう長い年月をかけて意識統制されたのだ。

 以前海軍に所属していた頃、尋ねてみた。

 質問にはなぜか沈黙が回答とされ、理由を知る者たちは皆、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。ベガバンク博士が描き起こした設計図の中でも、空に関する発明は洩れなくすべてお蔵入りとなっている。

 

 デイハルドになぜ潜水艦がよくて飛行機がダメなのかと愚痴をほろりとこぼせば、当然だろうと笑われてしまった。海軍関係者に聞く方がおかしいと言うのだ。そもそも海軍は世界政府の傘下であり、聖地に関しては五老星のさらに上に座す、その存在を匂わす事だけでも即時殺処分される罪なのだという。白亜の主に関してはさらに規制が厳しい。聖を許されているデイハルドでさえ、その存在をほのめかす言動は騎士団に重点監視される対象となってしまうのだとか。

 しかも空を飛ぶことは聖地を下に見下ろす行為として、制空権という言葉自体神の末裔と称される世界貴族にも使われていない。となれば見えてくる答えはひとつしかないではないか。

 

 空の意味がとてつもなく重くなる。

 

 実際、空を往くアンが夢物語として話した『ひこうき』なるものがあれば、世界を縛る法の理が、簡単に覆されるな。そう言っていた。

 観念はわからいではない。が、それなら空に浮く島々はどうなるのか、とかそのまた上にあった月の文明は問題にしないのかと、取って付けられたような屁理屈にほんの少しだけ、納得がいかないのも確かだった。神話の神々のように忘れさせて喪わせようとしている。

 こっそりとフランキーに空飛ぶ箱の設計図を渡しても良いかもしれない。そうすれば彼の知見が広がりさらなるロボ化が進んで面白い事をしでかしてくれるに違いないからだ。どうせ弟の運命共同体の中核を担うひとりである。少しばかり強化しても罰は当たるまい。潜水艦の設計図も実は、入手していた。研究所でアンが描いた落書きをいたく気に入った博士が、まるで何かにとり付かれた様に書き上げた図だ。彼も追われる身となるが無事に逃げ切ってもらいたい。

 

 アンは思考から浮上する。

 船はウォレスの誘導で海中流に乗り順調に進んでいた。指針よりも若干南西へ流れているが軌道修正できる範囲内であり、早々に目的の分かれ目へとたどり着けるだろう。もう暫くすると表層海流から深層海流への入口へ至る。感じる流れが、微妙に変化してきていた。

 そこは赤い土の大陸という地続きの季節集合体の中にある、『特別』な季節帯だった。その周辺だけは季節が循環しない、固定された地域がある。今向かっているのは『氷の城』、そう呼ばれ、探検隊が何組も向かい、未だ生きて戻ってきた者のいない『極寒』の季節帯だ。

 

 深層へと下る条件は、ふたつある。

 ひとつは冷たいこと。

 お風呂で例えるのも良いのだが、最も解りやすいのはプールだろう。表面は太陽の熱で暖められているが、どんどんと下に足を伸ばす程、水温が冷たくなってゆく。これが下への流れを生む。

 そしてもうひとつ、必要なのは水の重さだ。『氷の城』近辺の海は氷の平原と化している。塩分を含んだ水は凍りにくい。これを氷点降下、という。

 アンは氷山の氷を舐めた事は無いが、きっと真水の氷とさほど違いはないはずだと思っている。こちらでも化学式は向こうとほぼ共通で、結晶として自然界で出来る海氷は、マイナス1.8度で凍り始めるはずだからだ。

 その凍り方にしても塩分を含まず、真水の部分からゆっくりと氷結する。

 その時の海水がどうなるのかといえば、凍ったものが真水の氷に氷になる過程で排出された"塩"の成分が海水の塩分濃度を増すのである。ゆえに氷の城付近では他の海域と比べ海水の濃度と重さが増すのだ。

 確かそういう現象が北大西洋と南極近くであったはず、と眉を寄せてアンは思い出す。だがその知識も大分薄れてきてきており、絶対だとは言い切れない所に、多少もの悲しさを感じるようになってきているのは確かだった。ただ17年ほど前の学びを、本当によく覚えてると自分を褒めてみる。

 

 「すげぇ!」

 アンはエースの声で思考の海から完全に浮上する。

 船はツヴァイが操る舵によって、下降流に辿り着いたのだ。流れを読むのにヴォレスも一役買っており、予定より早い到着だった。この時のアカシはお荷物だ。月距法も六分儀も地上でなければ使えない。早急に色の発現をさせるべきだとそっと誓う。気長に待っていてはいつになるかわからない。久々にブートキャンプの計画を組もうと予定を入れ替え始めた。

 

 暗闇の中に流れ込む白い流れ、それはナイアガラの滝を連想させる。

 「よーしいくぞ、お前ら!」

 エースの掛け声とともに上がる、勝鬨にアンは両手を組む。

 「落下は好きじゃないんだけどなぁ」

 落ちる感覚だけは洒落にならなかった。かつて下ってきたリヴァース・マウンテンの比ではない。心情を例えるなら映画ジョーズの、迫りくる恐怖と死を体現するようなあの低い重低音がゆっくりと後方から、段々と大きく響いているような感じだ。訓練で問答無用とばかりに空中から地上に何度も叩きつけられてきたのは全然怖くないのに、なぜこう船に乗っている時だけブルりと身を震わせてしまうのか。さくらとともに2度目の落下に備える。ゆったりと足元にコタツが来てくれていた。可愛い声を出し、慰めてくれている。

 船内を高揚が駆け巡る中、アンはじんわりと目尻に珠を作りながら、ゆっくりと下降線をたどる船の針路と傾きから視線を逸らした。

 

 

 真っ暗闇だった。視覚が全く役に立たない。

 蒼天より揺れる水面をつき抜け、届いていた光もさすがにここまでは辿りつけない。それもそうだ。ここは深海7000m辺り、普通なら人間など簡単に水圧で潰れてしまうのが当たり前な、太陽の恩恵を受けて暮らす人間には縁がないはずの場所である。

 海中の旅は順調に進んでいる。

 シャンクスに簡易だがと書いて貰った地図には、へたくそな線が紙の上でのたうちまわっていた。ベックマンがその後、詳細を書き加えてくれたためなんとか見ても分かる地図になっているが、果たしてシャンクスだけが書いたそれを見て、ツヴァイ他、この船の舵を任された仲間たちが理解できたかどうかは危ういだろう。

 魚人島まで残り3000mもまだ、潜らねばならないのかと、暗闇の中、つぶやく声も聞こえる。

 そこここで、ギャー、という歓声が放たれていた。

 「すげェ数だな」

 「ていうか、エース、良く気力持つね」

 「船長だからな。仲間は守る」

 

 余裕の笑みを見せ、エースはヴォレスに進路の指示を出す。巨大な遮蔽物が横たわっていて、少々回り込む必要がある、と判断したのだ。

 船の長が平気そうにしていれば、末端が多少、怖気づいていたとしても士気は保たれる。

 「ふふ、ありがと」

 いきものであれば必ず持ち得て生まれてくる本能、触れてはならぬという感覚を微弱ではあるが、この暗闇の中に入ってからエースは放ち続けていた。

 それはシャンクスによって引き出して貰った、覇王色という覇気だ。

 手加減次第で、野生に対して牽制にも使える。

 ただ、長時間使い続けられるものでもない。平気そうにしているがその実、大分、疲労度が高くなってきているとアンは見ていた。しかしそれを指摘などできなかった。守る、といったエースは力の限り、この船に乗る乗組員(クルー)である仲間を背に庇い続けるだろう。だがそれでいいのだとも思っている。

 

 「エース様」

 ランプをいくつも甲板上に置き、揺らめく橙の炎が照らす神秘的な灯りの中、さくらが木のコップを手にエースへどうぞ、と差し出した。

 そういえば、旨そうな匂いがする。鼻をくん、と鳴らすエースに、アンが笑う。

 食を預かる料理人と厨房に立った仲間たちがはしゃぎ過ぎたり叫び過ぎた面々に、そろそろ小腹が空いて来ただろうと気を利かせたのだ。集中しすぎて解らなかったのだろうが、それにしてもきりりと引き締まっていた顔が、食べ物の誘惑に瓦解した瞬間を目撃すれば、余りにも違う前後(ビフォー・アフター)に噴き出してしまう。

 

 成人には積みこんだばかりのビールを、そして未成年にはしぼりたての果汁を。そして軽く炙った肉をパンと野菜で挟み、ジャガイモを薄く切って揚げた、ポテトチップスを山盛に積んだ皿ワゴンに積んで持ってきた、今日の食事担当が、「早い者勝ちだ!」そう言いながら拳を上げれば。

 瞬間、多くの者達は戦場へわっと集まって行く。スペード団では基本、先手必勝、食べた者勝ちだった。

 ある意味、ダダン家の食事風景と重なる。

 

 (少しの間、わたしが代わるから。食べておいでよ)

 

 心の中でそうつぶやき、にこりと笑みながらエースを見れば、待ってましたと目がきらきらと輝く。

 「じゃ、食ってくる。腹が減っては戦も出来ぬ、だったっけな。お前も無理すんなよ」

 「まかせて」

 アンはつい今まで、エースが腰を下ろしていた場所に、座す。

 

 ふわりふわりと漂う、船を飲み込んでしまいそうな大きなクラゲの群れを上手く避けるツヴァイの操船にサムズアップを示しつつ、視力を退化させた、もしくは発達させた巨大な深海魚達を横手に海流の先を見た。

 背後では闇の恐怖より、減った腹を満たす方がよっぽど良い、と船員達がいつもの陽気な声を上げつつ、ビールを入れた器を打ち鳴らしている。魚人島へ着く前の、プチ宴会といったところだろうか。

 「全く。良い眺めだわ」

 アンは海底火山を遠目に眺め、手出ししてきた鋭い牙とぶら下げた光源体を持つ魚の心臓を取り出し、絶命と同時に捕食される模様を観察しながら、くすくすと笑う。弱肉強食の理は当然のごとく海の中でも作用している。そうしているうちにも、暗黒よりも深い闇が沈む海溝へと船は近づいてゆく。

 

 食欲が満たされ心持が付き、落ちついた雰囲気となった船中に響きはじめるのは伸びやかな声だ。

 「アンさんが船首で歌ってるのな」

 船員のひとりが、木のジョッキを傾けながら、目を細める。

 アンは良く歌っていた。ひとりで、青の空を見上げながら楽しげな旋律のリズムを、雨の日には優し気に響く童謡を口ずさむ。

 楽器を嗜む船員がそれぞれの持ちモノから取り出し、音の波が生まれる時もしばしばだ。

 こちらの世界には無い音を、その唇が奏でる事も多い。

 そして今、アンが歌い出したのは海の歌だ。

 こちらではない世界で。幼い頃に両親にお願いをして、たくさんお手伝いもするし、お小遣いも半分にしていいから。何度も強請って参加した、15日間に及ぶ子供たちだけでゆく、船の旅の際に教えて貰った唄だった。実際には多くの大人が、集合した子供たちの世話に右往左往していたのだろうが、当時は全くそんな事に気付く余裕すら無かった。

 船上で見る星空と波の音、駆け行く白波のにおいに心震わせ、しっとりとした海風に髪を遊ばせて得た感動は今も胸に残り続けている。

 だからだろうか。

 こうしてエースと旅に出て仲間を得、海底1万メートルという場所に行く。この海中航路を進んでいても、下降流以外は怖くは無い。それどころかわくわくしていた。

  

 牽制をわざわざしなくとも、いつの間にかこの船は既に流れの一部となっている。既に外から来た異物ではない。海流という路を共に進む群れをかたちづくる一部となっていた。群れの力は海であっても変わらない。ただより大きな捕食者には良い餌場に見えている可能性もある。

 海上には海上の、そして海中には海中の普遍的な掟がある。それを上手く知れば、安全に、かつ楽しみながら進めるのだ。

 

 どこか懐かしく耳に聞こえる、元は軍隊が行進する際に歌われていたという調べは、海を故郷とする男達を歌ったものだ。生き生きとした歌の後は、ビートが利いた、激しい異国の曲が続く。エレキギターがあればとかなんとか表現可能らしいが、ギターは解ってもエレキなるものが何なのか分からずに、船員達はいつも訝し気な思案顔だ。

 「……飲み込んでからにしようか、エース」

 もぐもぐとリスのように両頬を膨らませ、両手に焼かれたばかりの串焼きを持って、エースが戻ってきた。その後ろからこれまた真似をしたのか、口いっぱいに頬ばり、もぐもぐと咀嚼しながらさくらがついてきている。その両手には皿を持ち、これまた山盛に、パンとポテト、焼かれた肉が盛られていた。さらにコタツが焼いた肉の塊をしっかりと咥えてついてきているのはご愛敬だ。

 「あぐさむお」

 「うん、そうなの」

 エースも座るのね。ここ狭いのに、え、みんな来るの。ちょっと、寄って?って、ああもう。こたつ寝転ばないで狭いから。さくら、こっちおいで。こたつの上に乗ろうか。わあ、美味しそう。ありがとう、さくら。だぁかぁら、エースは面倒くさがらないの。飲み込んでから言葉で話して。言わなくても通じるはわたしだけなんだから。ほら、さくらも真似しない。お行儀が悪いですよ。

 

 海賊という名称を持てば行儀も礼儀も作法も関係なくなると多くは思いがちなのだろうが、それは断じて違うと言い切れる。海賊という呼称は父が名付けた最後の砦、ラフテルに向かうために必要な肩書であると思わせられているものであり、個人個人が最低限持たなければならない礼節とはまた別のものなのだ。横柄にふるまってもいいなど、さだめてありえない。力で押し通そうなどと、どこの幼稚園児的なのだろう。そこまでおもいアンはため息を落とす。現在進行形の大海賊時代には、大きな子供が多すぎることに気づいてしまったからだ。道徳という理念教育は、こんな世界だからこそ必要であるとつくづくおもう。先生の青空教室に期待するしかない。

 

 

 「ツヴァイの様子もみてきた。順調見てェだな」

 「うん。けど残り2500メートル急降下が待って…るんだけどね」

 

 「深海って意外にうるせェよな」

 「だよね。けどすごく可愛い言い方してない?一体、どんな生き物が会話してるんだろうね」

 

 さくらが首を傾げる。

 地獄の釜まであと500メートル。

 アンは胸の前で十字を切り、祈った。

 

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