"不明船が一隻、停泊"
紫煙を揺らしていた男がくしゃりと小さな四角を握る。
商船で無いのは確かあるが果たして海賊であるかも不明な奇妙な船だ、と添えられていたメモを運んできた伝令はもういない。相手は見張りである彼に向けて、笑んだ、のだという。決して相手の注意を引くような、愚かな地点に身を置いていたわけではなかった。聞けば幾重にも重なるように立ち並ぶ針葉樹林の茂みの中で、双眼鏡を覗く彼、と目があったのだという。その船には
吹雪という視界を遮る最悪の障害物が舞う中、見張りの任に着く者らにしてみれば悪条件も重なり、かなりの重労働となっているだろう。だが偵察隊の彼は嬉々として数名の増援を連れ、そそくさと戻って行った。少し前から降る雪の量も減ったようだ。もう少し不明船について聞きたかった情報もあるのだが、致し方ない。聞かなくてもすでにあちらから接触があったからだ。ちょっと見ないうちに随分と腕を上げたようだ。十全に新入りの彼を刺激してくれるだろう。
歓迎の前哨戦としてはまあまあの走り出しだといえる。災難であるのは嬉々として突っ走っていった新入りだ。頭と呼ぶ男に惚れこみ乗船した新参若手にとって、憧れる相手に直々に頼む、などと言われては張り切ってしまうのが人の心というものだ。礼儀的に、とはいえ迎え撃つ相手が相手であるだけに足元を掬われないように願うばかりである。
そうでなくともこの島への上陸は予定外だった。
安定した海域に入り、それが冬島だと知るや否や上陸するぞと長が言い放った。本当ならばこの先にある歓楽街として有名なアルル・カンに10日ばかり滞在する予定となっていたのだ。かの地はありとあらゆるものが集う坩堝である。そこで誰が何をしていようが誰も気に留めない。なわばりを持たず回遊魚のように新世界を縦横無尽に動き回る彼らであるが、近くを通ったならば寄る寄港地のひとつだ。
いつもの気まぐれで雪を肴に酒盛だけかと思いきや、今や積み込んでいた樽を全て放出するかのような勢いで宴会が続けられている。まるでここに赤髪が居るぞと誰かに向けて呼びかけているかのようだ。それなのに自分自身の存在を極限まで隠している。
「言い出したら即実行、ってのはいつもの事だからなぁ」
「楽しけりゃいいんだよ。海賊なんだ」
「それに思わぬ副産物もあったんだ。細けぇ事は言いっこなしだろ」
いつもの顔ぶれが賑やかしさを通り越した声で陽気に煽る。陣取っているのはほどほど長く続く洞の入り口からそう遠くない地点だ。
奥には、ちょっと探検してみるかと気軽に入って行った頭が見つけた黄金がまだ、運び出せずに残っている。
「あの才能のおかげでウチが財政難にならないのはありがてェんだが」
頭の無理無茶無謀を一手に引き受け手綱を取る、ベン・ベックマンは先の短くなったそれを固くかたまった白の上に放り投げ、皮靴の底で踏みつぶした。
この上陸が吉と出るか、凶と出るか。その行方はまだ、分からない。
「じゃあ赤髪に会ってくる」
はらはらと思い出したように落ちてきていた雪が完全に止んだ直後、エースが島に着きある程度の安全が確保された入江にて何気なく放った、ちょっとそこまで散歩してくるかのような軽いノリのひとことに、スペード団の誰もが意味不明すぎた制止の音を上げた。声ではない、音である。誰が発したのかカエルを踏み潰したような独特な音も交じり、甲板は阿鼻叫喚の地獄絵図のようになっていた。
そもそもなぜ、この島に赤髪が滞在しているのだと断言しきっているのだろうか。多くの仲間が混乱している。
それもそうだ。説明していないのだから当たり前である。そもそも近場の島に寄ろう、となったのは飲料水の確保とニューポートミューズから
説明を、と誰もが視線を向けたのは船長ではなくアンだった。建設的な意見を聞くときは、どちらかといえばアンのほうが適切なのだ。野性的な直感の場合はエースに聞いたほうが断然、生存確率が高くなるのは言うまでもないが今必要なのは確実な裏付けである。
「説明、といっても赤髪、シャンクスからおいでー、こっちだよーって誘導がね、あったのよ」
アンにしては歯切れの悪い言い分である。しかしながらどう申し開きすれば納得してもらえるのか少々難しかったのだ。まだこの船には見聞や武装色を自由意志で高水準なまま維持できる者が少ない。ニューポートミューズにて全員が芽吹きまでに至ったが、これから先の航海をおもんばかればかなり危ない橋を渡る日々になるだろう。折角ここまで一緒に来たのだ。どうせならラフテルまで楽しく優雅にステップを踏むくらいの気軽さで進んでいきたい。新世界には七不思議な島や海域がごまんとある。命がけの娯楽ではあるが、是非ともみんなで体験していきたかった。だからどこかで集中的に訓練をしようかと考えていたのだが、ある程度の期間、腰を落ち着けるための良い滞在先が見つからないでいた。青海や楽園と違って新世界の放置されている島々はもれなく曲芸的な性格を持っているためおいそれと上陸できないのである。さりとて海上で教練するのもなかなか難しかった。
ニューポートミューズから出港した時から、最終試験が始まっていたのだろうと今ならば解る。シャンクスはなんらかの手段を用いて、スペード団の動向を把握していたのだ。見聞色以外の力で。この世界には諜報系の能力者も居ることには居る。だが辞典を読み込んだアンにして、ここまでピンポイントに広範囲を長時間、観測し続けられる能力に心当たりがなく、これは血が成せる業ではないかともおもうに至った。自身もやる気さえ持続できれば世界の半分は垣間見続けることができるが、それとも少し違う気がする。この前に触れた、あの中途半端に機能している呪いが関係しているのかもしれない。今であればあれを解除することも出来そうだ。じりじりと解放されるこの血脈の力がじれったくて仕方がないが、生き残るためにそうせざるを得ない事情もある。ロジャーが53歳まで生きることができたのもちゃんとした理由があるのだ。もっと早くに知っていればと過去を振り返るが、現在に来てしまっているため仕方ない。ここはすっぱりと次世代に背負ってもらおうと割り切る。
悪魔の実の能力は基本、使おうとしなければ発動しないものが多い。エースや大将たちが宿す
白亜の城の主や五老星たちが宿すもののような。
ありえるからこそ判断がつかない。血の中に取り入れられ続けた異能は、すでにこの世界の一部となっている。馴染んだからこそ違和感なく世界は許容しているのだ。そうでなければアンのように、なにかしらの制限を受けるはずだ。
エースが内包する炎の力を例えにするならリミッターをひとつづつ外したその先の力である可能性もある。
双子の精神を時折、煽り、慰め、纏いつき、解放する。掴んでも煙のように立ち消えるそれに神経を研ぎ澄ませ、いなし、触れた断片を懸命に繋ぎ合わせ、ばらばらにほつれた糸をより合わせるように障害物を排除し続けた結果、たどり着いたのがこの冬島だった。
これを、この説明しようのない、雲をつかむような物質的ではない攻防をどう表現したらよいのか困惑が強い。レイリーの、映画のワンカットのような果ての見えない見聞色の誘い方とはまた違うものだ。
「ねぇスカル。こういう時どう言えば同意してもらえるとおもう?」
とっさに頼みの綱としたいのが困った時の先生ことミハールなのだが、当然のことながらかの引きこもりは甲板には出てきていない。となれば次点でツヴァイとデュースなのだが、すでにエースの抑えにはいっており援軍にはなってもらえそうにない。ふと視線を振ればこたつはさくらに覆いかぶさり防寒具さながらの装丁になっていた。それを見てほんわかと現実逃避している仲間たちがいる。アンもそちら側に入りたい。現実逃避すらできず、果たしてスカルに願うしかなかった。助けて欲しい、と。
差し出されたのは手のひらだ。暗に示しているのだ。知ってるぞ、と。
「今回のあらましをご説明いただくに、最も適していると期待している」
アンはぱちんと指を鳴らす。瞬間、彼の掌に現れたのは髑髏の意匠が克明に彫られた練色の櫛だった。興奮した髑髏愛好家のうんちくを聞き流しつつ、説明の必要がなくなったかのような現状に少しばかり安堵した。そしてなごみ組にさりげなく入る。さくらこたつ効果は抜群なのだ。仲間たちが求めた時はスカルがなんとかしてくれるだろうと信じる。この先に待ち受ける存在に師弟として、そして蒼を渡るものとして先達に挨拶に出向くのはこちら界隈、渡世の礼節だ。
「行ってくる」
「いってらっしゃい。想定外がおきそうなら前もって教えて。そうでなければ打合せ通りに」
分かった、と短く返事が戻ればその姿はすでに船上になくなっていた。そうなればすべての視線を集めるのはアンだ。
「赤髪シャンクスはエースの旦那やアンさんの師匠かつ昔馴染みってわけでな?」
不意に割り込んだ声に様々な反応が出た。驚愕の絶叫が子気味良い。いい仕事をしてくれてありがとう。アンはにっこりと笑む。
この島に到着し船を隠しておけそうな入江に接舷させた直後、双子はそろって空に駆け上がった。スペード団ではいの一番に双頭が偵察に出るのはそう珍しい光景ではない。船の中で最も強く、精度ほどほどの情報を持ち帰ってくるのだから誰も文句は言わなかった。斥候であるコーネリアやダッキーは持ち帰られた一次情報をもとに精度の高い二次を仲間たちにもたらす。そうしてエースに抱えられたさくらが最終的な位置確認を上空からおこなって行動開始がいつものパタンだ。
だが今回は少々、様子が違った。聡いものたちが一手前に出たのだ。そうしてエース確保に動いた。色の発芽は初動すら変えてしまうのだと今回改めて認識できた事態だ。
事情を話せれば良かったのだが、今回ばかりはふたりにとっても漠然とした感覚だった。それを明確な言葉や情報として説明しきれないもどかしさもあった。同じ船に乗る、運命共同体なのだ。言えたならどんなに良かっただろう。着いてさえしまえば、存在を確認さえできれば、確たりやと名を出せる。きっと皆にしてみれば開けてびっくり玉手箱状態だったに違いない。申し訳なくおもうものの、こればかりは飲み込んでもらうしかなかった。あまりにも長い間、世界政府の頂が信仰を別の形にすり替えてしまったためスピリチュアルなんて形のないものを説明するのが最も難しくなっているためだ。
おもったことが無いかもしれない。だがちょっと考えれば解るはずだ。悪魔の実、があるのに天使や神の実がないのもおかしな話だと。
島陰に、海側からは見えないよう絶妙な角度で停泊しているレッド・フォース号を見つけた時は間違っていなかった安堵に胸を撫でおろしたくらいだ。たどり着いたこの冬島は、まぎれもなく先だって立ち寄った島から
海に出たらシャンクスに会いに行く。これは出発当初からの決定事項だった。ドーン島を出る前から、師匠にはもれなく突撃訪問するべきだろう。との意見の一致があったからだ。結果は試験のごとく導かれ、合格判定をもらうために赴いている最中である。
アンはシャボンディ滞在時に一度、彼らの船にお邪魔しているがエースがシャンクスに会うのは1年ぶりくらいになるだろうか。
分断された赤の壁の内側に蒼が満たされた世界において、離れた場所に暮らす誰かに会いに行くにはかなりの決心が必要であり、至極行動に移しにくい。限られた陸地に暮らす人々の、島と島を行き来する主な交通手段は船だ。しかも生まれ育った島から外への移動は命がけとくる。普通に生きているだけならば疑問に思わないが、いちど違和感を感じてしまい置かれた状態のおかしさを認識すれば、悪寒を覚えてしまうに違いない。それほど世界を統治するに最も適した方法がとられているのだ。
だがアンは身一つでこの世界のどこへでも行ける。白亜の城が隠す、ラフテルの先にある海賊王となる弟が仲間たちとともに向かう最終目的地にすら、到達可能だ。
本来なら再会することも難しい、海上生活者や侵入不可と言われるあわいにあっても会いに行ける。それほどまでにアン個人の行動範囲は広かった。世界政府が立ち入りを禁止している海域であっても関係ない。デイハルドという天竜人の首輪があるがゆえに行動規制が緩いのだ。なにもかもが天上人の意向として許されてしまう。
だからこそエースはあの小船で航海に出てから、そしてシャボンディでも一緒に行く、とは口にしなかった。
アンという存在が居なければ自由気ままに海を回遊する特定の人物にピンポイントで会いに行くなど、頭がおかしい狂人のたわごとにしか聞こえないだろう。万分の一の確率であっても鉢合わせるなどありえない事象であるからだ。本来の手順で探すなら情報屋を使うが、その情報の鮮度も日数が経てば色あせてしまう。だからこそ海軍はあちらこちらに情報を得るための網を張っているのだ。確実性を少しでも上げるために。
エースは航海者として、同じ青の海を渡るひとりの人間としてシャンクスに会いに行きたいと願った。そしてどれだけ自分が強くなったのか、誇示したかったのである。もう十分この海を渡っていける。だから探して逢いに行くと。
まるで独り立ちの儀式のようだとおもったのは間違いではないはずだ。そしてシャンクスもその想いと覚悟を受け取った……とアンはおもう。すでにエースは海賊王の称号がなんたるかを知っている。だから父を超えて自分の名を知らしめるなどは言わなくなって久しいし、弟とは違って自由の象徴に置き換えられているそれには全く興味がない。実父と同じ称号など、受け取ってくれと願われても突っぱねるだろう。ちょっとでも上位の、別の称号があったなら取りに行くぞとなったかもしれないが、そうなったらルフィとの直接対決が待っていたかもしれない。その時アンが応援するのはもちろん、弟である。
そんなエースもラフテルにあるモノがどのようなものかまでは知らない。だからそれだけは見に行くつもりだろう。だからその、最後の壁であるシャンクスに挑戦しに行くのだ。彼を倒すか往なさなければたどり着けない。あわよくば許しを得るために。父もとんだ役目を次代のシャンクスとバギーに背負わせたものだ。さらに娘と息子に修羅の道を歩かせるなんてとんだ親である。
とまあまじめな話はここまでとして、弟子が師匠を超えたいと研磨するのは至極当たり前だろう。エースは強くなった。強くなったからこそ胸を借りられる存在が少なくもなっている。本気でぶつかっても平気な存在など、ましてや生きて戻してくれる人物など片手も居ない。動機は至極、安易なのだ。
「さて、みんな」
ぱんぱんとアンは手を鳴らす。そして告げるは狩りの始まりだ。
航海者は基本、自給自足である。働かざるモノ食うべからずが掟だ。
エースも最初は自身を海賊と称していたが、今はアンに倣い航海者と名乗っている。だが世界政府の区分には航海者という分類はない。
海を自由に行き来する存在は、大まかに海軍か、商船か、探検家か、海賊、密航船しかない。ぎりぎり付け加えるならば賞金稼ぎ、も含めないこともないが彼らは特殊な部類に入る。発行されるのが狩猟許可書であるからだ。海を渡って良い商船には許可証が、所属する国から交付されていた。
革命軍も含め持たざるものは全て犯罪者とされる。ゆえに犯罪者イコール海賊という安直な図が出来上がっているが、そもそもの区別からして世界貴族もとい世界政府が自分達の都合の良いように仕立てた結果だ。これを覆すのは難しい。思い込みだけではない。世界がそうなるように組まれ年月が経ち過ぎた。古い枠組みだ。大きな力が加わればへしゃげるだろう。ひびも入っているから柱のどこかはぽきりと折れるかもしれない。だが如何せん太い基礎である。折れても他の柱が支えなかなか揺れ動かなかった。
この船に乗り込む者たちに、アンはことあるごとく繰り返してきた言葉がある。
『惑いの言葉に屈するなかれ。海賊だと自身を貶めることなかれ。自身自身が海賊だと受け入れて認めた時、あなたは海賊でしか居られなくなる。あなたたちはあなたという、人間であれ』
言葉は断定だ。何度も繰り返されると、それが事実だと思い込んでしまうようになる。蒼を渡るだけでなぜ海賊と言われなければならないのか。エースを長にして集ったものたちは、世界政府やその傘下の国々に庇護されている人間ではない。独立した国、エースを王とした国の民なのだ。
奪うものが海賊であるなら、奪わなければいい。資金も後ろ盾もある。ただこの大海原の中で、領土であるこの船の上で生きていたいだけだ。ならば航海者であることを、エースのもとにたどり着いたことを誇ればいい。人を侵さず、海や空を侵さず世界のまにまを生き抜くのだ。
そうこんこんと語り続けた結果が、今である。彼らは決して、自身を海賊と言わなくなった。すべては心の持ちようで変わってくるのだ。世界の常識はエースの国では非常識である。それで構わない。人はひと以外には成れない生き物だからだ。
「おや、行かれたのか。それとお前たち、まだ居たのかい。わける準備をしてきたのだがねぇ。デュース、今回も助っ人頼むな」
獲物はまだかと声をかけてきたのはこの船の料理人だった。彼はもともと猟師であるが、それ以上に腑分け大好き愛好家である。この船に乗り込んだきっかけは珍しい獲物の数が多く見地が養われるから、であった。実際に彼の解体技術は高くデューも唸るほどで、その包丁捌きを見てアンも学びが多いと感じている。
会いに行くって、赤髪に。のんびり狩りしてる暇あるの…か。
会うだけで終わらないでしょ、船長は。
見張られてるし! なんかじっと見られてるし!
師弟ってもなぁ。なにもないわけないってのが、信じられんというか……
数増えてませんかね。いったんあっちをばらしに行きやすか?
狩りってそんな、まあこういうのは、いつものことだけどさ。
新世界に至る前から、仲間たちはこんな話を耳にしていた。
新世界には恐れなければならないものが四つある。赤髪は怒らせると恐ろしい。白ひげは仁義を破ると恐ろしい。ビック・マムは機嫌を損ねると恐ろしい。カイドウは存在そのものが恐ろしい。
だからそれぞれが船長であるエースの身を案じている。アンは思わずくつくつと笑みをこらえた。白い目で見てくるのはツヴァイだ。みんなさすがである。肝っ玉が据わってきたのが嬉しい。監視まで気づいている数人も居る。なんという素敵な仲間たちなのだろう。今後の伸びしろありすぎて楽しみでしかない。
ちなみにシャンクスは怒らせたら恐ろしいのではなく、仲間を軽んじられると怖くなるのだ。一発で怒髪天を衝く物騒な言葉もいくつかあるが、それさえ外してしまえば個人としての気はかなり長い。そこはシャンクスも親に似ず、兄弟そっくりだ。彼自身を弄ってもどこ吹く風で悪乗りしてくれるだけである。
赤髪の仲間たちも海賊らしからぬ海賊だ。
面白い話がひとつある。赤髪の旗は出回っていないため奪われたと聞いたときはどういうことかとおもったが、制裁に赴いたシャンクスが言うには”赤髪が大好きすぎて自作した”とのこと。アンも刺繍には明るくないが、一針一針縫って作ったものを他の誰かが奪ったものだと噂したのだ。まわりまわって無事に赤髪の元へと届き、赴いて蓋を開ければ玉手箱である。その海賊団は今、無事に傘下に納まっていた。
その他、これはスネイクのファン、付きまといという少々異色の人物なのだが、10年以上も前にサーカスで活躍していたスネークの姿を追い求めて追いついた、押しかけ弟子だ。彼らは何度も何度も懇願して傘下になった一派である。
レッド・フォースやそれに連なる仲間たちを卑下せずあの界隈、
どこぞの無法地帯や暴政を敷く荒くれものたちとは一線を引いた人たちだ。
この一点に関してだけは、父は偉大であったと言える。シャンクスがこの世界で任侠の徒として生きているのは、ロジャーをはじめとするオーロ・ジャクソンにいた男たちの背を見ていたからに他ならない。
そんな赤髪のもとに集う同士たちだ。貶せばシャンクスが機嫌を損ねるのもわかるだろう。とはいえ赤髪自身が癪に障らなくとも、頭が大好きすぎて集まった人たちだ。言葉一つ一つが周りにどう受け止めるかは重々覚悟しておかねばならない。
この船の同士たちは若い。最年長は32で、下が10だ。これまで積んできた経験もあるだろう、感じ方も違うのに仲間たちが口々に語る言葉の方向性に違いがないところがまた、エースが愛されていると感じてしまう。気持ちの形はひとそれぞれだ。親からの無償の愛を感じられる前に死別したエースのような境遇の者たちもここにはいる。愛がほしいけれど、愛がどんなものなのかわからない。そんな誰かも確かにいる。けれど、少なくとも気付けばこんなにも多くの仲間がエースのことを愛していた。少しでも忘れたくないと、信じることへの忌避が薄くなり悲しみや怒りが仕舞われるべきところに収まってくれたなら。未来でこんなこともあったねと笑って過去を振り返られるようになる。
きっと焔は舞うだろう。それはそれは綺麗に白に映えて燃えさかる。そしてシャンクスが放つ覇気も空を切り裂き碧く凍るだろう。あちらのメンバーが加勢することはない、はずだ。刹那を生きる彼らの判断基準から外れなければ一対一の試しで終わらせてくれる……と信じている。
ただエースやルフィは赤髪にとって特別枠であるが故の対応だと知っていた。
ドーン島で出会った。ただそれだけのことだと思うだろう。けれど、これこそが始まりだった。ゴール・D・ロジャーが仕掛けた新世界への幕が切って落とされたのだ。実父の死が始まりだったのではない。舞台装置を作り上げるまでの待機時間だ。シャンクスにとってはルフィがゴムゴムの実を食べてしまったのは、あの時の様子からして予想の範囲外だっただろう。しかしきっと、今ならば言える。必然だった。エースやアンではわずかに届かず、消去法で選別すれば細い糸の先ほどになってしまった光をつかみ取るのはルフィしか残ってなかった。そして宿命というものがあるのであれば、弟は正しく命運を己の手でつかみ取った。与えられた運命ではなく定めを自ら手の内におさめたのだ。
だからこそひとりで送り出せた。もし二人以外であれば、シャンクスが出るまでもなく、瞬時に返り討ちにあうだろう。だが何度も繰り返すが彼らは師と弟子の間柄だ。海賊団として挑むならば話は別だが、弟子として行くならば、たぶん、多少は手加減してもらえる。
本気を出した赤髪に対峙できる存在など、この蒼の世界に数えるほどしか居ないからだ。すでに義祖父や大将たちでも敵うかどうか。天竜人の勢力を含めてもお互い決定打に欠けて引き分けるだろう。悪魔の実の力は厄介だが、対応できない影響力ではない。悪魔の実がなんであるかを理解すれば、おのずと答えは出てくる。そのヒントすら奪ったのが世界政府である。よほど黒と赤の石が世界中にばらまかれたのが不快だったようだ。Dの血族が現代のような状況になるだろう未来を、予想できないはずもないのに、最後の最後まで説明責任を放棄した末の結果である。ある意味それみたことか、だ。
父は自身の死と引き換えに荒神に成長するヒナを世に解き放った。最後の時に同じ大地を踏んでいたものたちに幸あれと淡い祝福を与えて。それが未来にどう影響するのか、アンもすべてを観たわけではない。だが世界は確実に軋むだろう。手助けしたい幾人がいるが、なかなか接点が持てないのもあっておせっかいの助言ができないでいる。海兵に戻れば、と考えてすぐに否定した。今の時間を失いたくなかったからだ。どこか安心して居を構えられる拠点でもあれば話は別だが、エースはさらさら持つ気もないし、ラフテルで目的を達したらスペード団を解散、……させることはしないだろうが、蒼の狭間を気の向くままに旅を続けかねない。その姿はまるで実父や赤髪のようである。
シャンクスは新世界に戻ってから敢えて、力を示した。その矛先は、白亜の城でたたずむ主に対してだ。灯に指名されるよう、わざわざ挑発したのである。結果は不発に終わったが、その影響は新世界にあったそもそもの勢力と、世界政府を揺さぶった。現に海軍が動かされ、鷹の目に依頼がいったり、アンを含む数名が監視のために放り込まれたりもしている。
「……納得は、しなくていい。しかたねェ割り切ろう。時間は有限だ、みんな効率よくこなそうか。くそっ」
頭痛をこらえるように鶴の一声を放ったデュースがツヴァイとともに人選し班を分けてゆく。いちばん納得していないのは彼だろう。
だが今が一番ゆゆしき事態なのだ。この共同体に乗り続けるにあたり、何が一番大変であるかと聞かれたら、誰もが真っ先に食料問題と答えるだろう。赤髪との一戦が終わった後のハラヘリ具合はかなり深刻なはずだ。スープは自前で作ってもらうにしても、具材が足りない。主に肉、タンパク質が。冬島のため、野菜やきのこは期待できない。野生の雪下人参があれば御の字だろう。
スペード団では食糧問題を誰かに任せておけばいい、などという甘い考えでは成り立たないと己の腹で思い知る。ひもじいとまではいかないが、足りなくなる事がたまに起きた。何が起こるか分からない海の上である。生死の境目を潜り抜けるのだ。この船では外敵による命の危険よりも先に飢餓の危機が先に来る。ただの海であれば魚を大量転移すれば事足りたが、この新世界で安易に魚を甲板に転移させれば船が沈んでしまう。以前の船では竜骨が折れかねなかったし、今回とて折角トムが丹精込めて作り上げてくれたピース・オブ・スパディル号を傷つけたくはなかった。
新世界に入り、エースは以前よりたくさん食べるようになった。以前はそうでもなかったが、ルフィとタメを張れるくらい今はよく食べた。成長期カムバックだ。原因は分かっている。焔の悪魔の発育が著しいのだ。トムに頼み込んで船の大きさに似つかわしくない巨大な食糧庫を設置してもらったが、現状これを満タンにして2週間しか持たない。以前の船と比べて3倍になったというのに、なぜか足りない問題が発生している。ゆえに食材確保はスペード団にとって死活問題なのである。新世界での破天荒な航海など目でもなくなるまで早かった。
そしてなぜ食料不足問題になっているのかといえば、後援を受ける商会と直接取引している店が、新世界で商いを広げていなかったのである。ジョワイヨは裏の裏で動いていた。とある茶会のメンバーであるからこそ新世界には基地を置かなかったのだ。取引記録はあったから、てっきり前半の海と同じように使える店があるとおもっていたのだが、こればかりは大誤算だった。よくよく考えてみれば情報を扱う者同士である。弱点を相手の傍に置くはずもない。
四方の海と楽園で商っている表の取引はかなり順調で金銭はいくらでも運んでこれる。世界で使われている金銭単位は共通だ。だが商会の支部が無い。無条件に日用品や食料を購入させてもらえる店が確保できていないのである。新世界にある現存の商会は魚人島を通って現れる新人たちを快く思わず、笑顔で拒否を慣行するのだ。航海するに必要な物資が無ければ、いくら凶暴な海賊であったとしてもどうにもならなくなる。
だから新世界は四皇と呼ばれる海賊たちに支配された地域が広い。海軍の支部がなんとか分断している状態ではあるが、日々支配地の入れ替えが激しく、把握するだけでも苦慮する始末だ。そこに輪をかけた出航
アンもたまに要請を受けGの頭文字が付く支部へ応援に入っていたが、案件をいくつかこなすだけで神様仏様と拝むように、海兵たちから崇められたくらいだ。元帥を始めとし、三人の大将の覚えめでたい英雄の孫が来るとなれば、そのほとんどが諸手を上げた。もちろんやっかみもある。陰口ならぬ直接の嫌味も数ほど聞いてきた。だが戦場で浴びる殺気や死の、ひりつき凍える言葉では表現しきれないあの重ぐるしい感覚に比べれば、可愛いものだった。言って気が紛れるならば幾らでも聞いてやろう。その代わり、吐いた分はしっかりと働け。そうして覇王色をも訓練がてらに使いながら、飴と鞭で役職持ちの尻を叩いていたのが懐かしい。
はっきりと結論から言えば、新世界は絶えず戦乱にまみれている。
東西南北の海はまだ、起こりと結びの避難所としての役割を持たされているがゆえに、政府からゆるめに管理されていた。
だが
新世界にある島々はその名を借り受ける、もしくは支配を受けることでことで他の勢力からの脅威を防いでいる。
建っていた国が力を無くし、かつてから在った古きを支えていた血族も少なからず潰えていた。現存する国は、既存の勢力下にあっても新しく侵入してきた悪によって蹂躙される。何度も何度も繰り返され続ければ、誰もが学ぶのだ。出来るだけ強者の庇護を受けなければ生き残ることすらできないのだと。だが如何せん少ない偉大なる航路上に浮かぶ陸地の利権は、後半の海に居残ろうとすれば喉から手が出るほどに必要不可欠な資源だ。
新世界にあり続けるため、前半の海で繰り返してきた手法をさらに強化し揮わねば生きてはいけない。海賊はすべて奪う。なにも与えてはくれない。ゆえに海賊旗を掲げる船には冷たくなるのは当たり前である。航海者などと認知もされていない集団に対する扱いはさらに雑なのだ。
それはそれで仕方の無い話だとアンも思う。生きるためには戦わなければならない、取捨選択をしなければならない。それはまるで弱肉強食の獣の世界だ。人間は文明を持ち華やいだ文化を開花させたとはいえ、基本的な生存権利の条件は変わっていないのかもしれない。しかも戦いが続けば続くほど、人の心は疲弊する。支配を受け海賊の資金源として生きなければならなくなったとしても、明日死ぬかもしれないという恐怖からは逃げられる。死の影が遠のくだけで、人は安らかに眠れるようになるのだ。
結局のところ力がすべて。世紀末の世界観がただ、ただことごとく悪意をもって待ち構えている。
ゆえに、だ。この世界では悪魔の実や色の力など物理的に変化を生じさせる人や物が影響を与える、という一点においてかなり明確なヒエラルキーがあった。大衆に知られた力といえば、四皇や海軍大将、七武海などがあげられるが、それらもまた世界という範囲を広げた場合、中間層にしか過ぎないのである。本当の上位層は陰に身を隠し今現在では決して出てこないが、統治を揺るがせる激震が走れば姿を現すだろう。アンやエースもスペード団の皆は強いと言うが、これでもまだ下位層である。さらに一般市民など吐息で吹き飛ぶちり芥でしかない。
そんなか弱いものたちが新世界で唯一、威嚇のように我を張れるのは海賊の否定、それだけである。矛盾しているのは百も承知だ。だが空白の100年を経た現在の世界のかたちだった。
「じゃあわたしも出かける準備をしよ…う、かな……」
じ、を発音した時点で下半身に重量物がぶら下がった。かなりの早業である。視線を下に向ければ腰に手をまわしたさくらが居た。そして同じくダルムが裾を握りしめている。ダルムはニューポートミューズで合流した船大工だ。影の支配者であるアンをきらきらとした目で見上げ、航海に連れて行ってもらえると知れば大いに興奮した。正義のヒーローで慈悲深いのに天竜人の配下でありながら海賊でもあり続けようとする姿が格好良いとおもってくれたらしい。ありがたくはあるが彼の琴線がどこら辺に触れたのか、把握しきれてはいないがその懐きようは異常だった。おかげでさくらが対抗して赤ちゃん返りするし、エースもアンから離れようとしなくなった。同じ魚人族のヴォレスもその見た目とは裏腹に少年といえる年齢だが自立した精神を持っているのに、それよりも年下ではあると聞いていてもあまりにも幼すぎるダルムに、本当に船に乗せて長期間の航海に連れまわしても大丈夫かとおもったのは確かだ。
まったくもって仲間たちの布陣はますます強度を増したようである。さくらとダルムだけで十分であるのに、こたつまでが両手をアンの肩にかけ、脱走を阻止する構えをみせるたのだ。衝撃の事実を受け止め、食糧確保に向かおうと準備しているすべての視線がアンに刺さる。
「野菜系をね、果物も、仕入れてこようかと」
新世界の商会で品物を手に入れられないスペード団の命綱ともいえるのがアンの瞬間移動による買い出しである。誰にも真似できない唯一の方法だ。だが今現在において船の長であるエースが外出中であるため、統括責任者はその片割れであるアンとなる。いくらツヴァイをはじめとする皆がそれぞれの役割をこなそうと精力的に動いているとはいえ、頭が居なくては話にならないとおもう面々も多い。そのための副船長二人組体制ではなかったのかとおもうがしかし。
ニューポートミューズで全員の色が見事に発芽し、さらに数日かけて馴染ませた後の出発だったのだが、いざ旅立ちとなったその日にアンが高熱を出してぶっ倒れたのも良くなかったのだろう。数日間の大回りによる疲れが一気に出たのだ。さすがに一日、24時間で全てを終わらせるのは物理的に難しかった。食事や睡眠を怠った結果、仲間たちを大いに心配させ引っ付き虫が大量発生し、かつ島の評議員たちをはじめとする島の住人たちに追加土下座までされてしまった。そのぶん仲間たちが島民とすさまじく親密になったようなので怪我の功名といえるだろうが、かなり肩身の狭いおもいをしたアンである。
「この島にはそんなに手こずるような獣はいないでしょう?」
スペード団には精鋭が揃っていた。しかし指導者がいない独自の我流ではどうしても行き詰ってしまうものだ。だが海軍式の指導方法を知るアンの手にかかれば、限界の壁を感じていた者たちも存外すんなりと乗り越えられてしまうのである。地道な努力によってもともと地力を備えていたのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。やり方さえ分かってしまえばエースという天上級の能力者も居た。空真似ごとでも伸びるものだ。しかも武装色の覚醒者になれば自然系の能力者であるエースの攻撃を受けられるようになる、見聞色なら避けられるようになってゆく。強さの片りんに触れ続ければ、脳筋たちが奮い立たないわけがない。何度も挑戦しているうちに階段を一歩ずつ上がるのだ。過程では血反吐を吐くが、鍛錬を続ければ必ず至ると知れる。限界を定めるのはいつだって自分自身でしかない。
青の海を渡る際、最も必要な技能がひとつだけある。それは生き残る力だ。どんなに強くとも、たったひとりで渡り切れるものではないからだ。やってみようと挑戦する気概はすばらしい。だがやる気だけで渡れるほど、この整えられた
しかしこれがなかなかに難しかった。ひとの心は簡単に揺れるからだ。力を持つと無敵になったような高揚感が湧き出てくるし、万能感から威張り散らしたり自慢したくもなる。だからアンは強く己を戒めた。今回ばかりは裏目に出たが、誇示しても終わった後の後始末がこんなに大変ならばいっそ権力なんていらないとすらおもう。黒歴史である。
さらにここ数日、アンの外出が増えていた。本来ならば船の航行中に乗組員が外出するなどありえない話だ。魚人であっても船から丸一日も離れると向かった先がわかっていても追いつけない。だがアンは簡単にその前提を覆す術をもっている。ありとあらゆる場所へ一瞬で移動できるのだ。もしもの時のために前の住処である船で孵化した子電電虫と共に出ているのだが、役に立った試しがなかった。ほぼ通信範囲外に居るようで連絡が入らなかったのである。はっきりとした所在がわかるのはエースのみ。マントラや見聞色の覚醒者が能力を伸ばそうと躍起になってはいるが、まだまだ道のりは遠そうである。さくらなど武装色寄りの見聞だと判明した直後、かなり機嫌が悪くなったくらいだ。見聞特化のツヴァイと寄りのデュースに無機質な視線を向けていた。
この状態で、エースも外出しているというのにアンまで出かけられてはたまったもんではない、という総意が伝わってくる。
スペード団の皆にとっても
常識を疑う現象に毎日遭遇する。それらの多くはエースをはじめ、抜きん出た実力者の近くに居ればどうというものではない。単独となってしまった場合、即、死神の鎌が喉元を通過する。だから誰しも徒党を組もうとし、傘下に入ることを許容するのだ。
新世界は何らかの意識に統一された、生き物であるかのような独特とした流れの中にある。そこに突入、もしくは脱出、してしまった後、どちらにしても自分達の努力だけではどうにもならない、と誰もが誰に言われるでも無く理解するようになる。
唯一の脱出方法はアンだけが持っている。すべての能力をはく奪して治めるやり方だ。相手が短時間でもただひとになってしまえば、簡単に逃げることが可能になる。
「さくら」
アンが静かに名を呼ぶ。
「困った子ね」
こうなってしまったさくらが、頑として動かないとアンは知っている。
それはうつろであった頃と比べれば喜ばしい現象だった。希薄だった自我がきちんと心の動きに沿って表に現れている。
さくらにとってエースとアンは生きるための基盤だ。ふたりがあってこそ、思考する術を獲得し一歩、感情を発露する事が出来た。それは予想していたよりも、随分と進展が早かったとアンは思っている。
始まりの町で体の自由を得、ウオーターセブンで心が解放された。そして真綿が水を吸い込むように、様々な感情を今も開化させている。
アンがこれから往こうとしている場所を否定したいわけではない。みんなのために物資を買い出しに行こうとしているのも本当だろう。さくらにもそれは分かっている。ここのところ頻繁に出かけているのは、双子であるエースの願いを叶えるために他ならない。こそこそとスカルと先生も動いているのを知っているのだ。ふたりが交わし合う心の声が聞こえずとも、時折発せられる寝言で一体何を願っているのか。しようとしているのか。予想するのは容易い。さくらの能力は絶対記憶だ。幾億と刻んだ記憶の海の中から必要な情報を抜き出すくらい朝飯前だった。
この島に寄った本当の理由も知っている。見聞を開花させておらず表層だけを知っていたならば、こんなに悩まなかっただろう。
エースはただ、その人物に会いに行った、それだけでは無いのだ。
それを理解してなお、アンはエースをたったひとりで向かわせた。両者の間には不安など微塵も感じない。それはお互いが信じあい、すべきことに対し役割をしっかりと分けてるからだ。
ぎゅっと、アンの衣服をさくらが掴む。
アンは振り払わない。握りしめる拳を、己が掌で包み込む。そして力が緩むとさくらをそのまま抱き上げた。
「大丈夫よ」
不安を包み込むように、温かさを重ねる。
エースもそんな無理するような事はしないと思うしね。それに、鍵を貰いに行かなくちゃ、扉は開かない。
さくらは囁かれた言葉にぞくりと身を震わせた。基本的にふたりは出会った頃からさくらに対し優しい。
エースはその身に宿す悪魔の能力と同様の燃え尽きない強い意志を持ち、暗闇の中を煌々と照らし出す太陽のような存在だ。何度迷いうつむいても、必ずその先を指し示してくれる。だがその炎の向こう側には誰にも触れられない凍りつくような冷たさがあった。
アンもそうだ。何者をも否定せず、春の木漏れ日のように全てを許容し包み込む。誰もが嫌がる裏方に徹し、例え感謝の言葉が無くとも、万事うまく物事が進めば穏やかに笑みを浮かべ、矢面に立った者達を見守り支えていた。だがその暖かさの向こう側には無慈悲にありとあらゆる存在を消去する冷徹さを内包している。
本当は誰もいらないのではないか。
見続けているから分かる。ふたりはこの船に集って来たそれぞれに役割を与え、船内で在る、生きていて良い意味を持たせている。だが考えてみれば、乗り込むひとりひとりが来る前は、エースとアンが分担していたとはいえ支障をきたさず、行われていた。そう、この双子に限っては出来ない事など、何も無いのだ。
ふたりはこの船に乗り込む誰もに、居てくれてありがとう、という。
だがそれが本当なのか分からない時があった。
全て焼き尽くし、全て無に帰す。ふたりの奥底に眠るなにかが怖かった。たったふたりで世界全てを相手になにをしようとしているのか。
創造とは破壊の先にあるものなのだよ。
さくらはかつて、主人となった者達に飾り立てられ弄ばれていた。ある時、主人となった誰かがそう言ったのを覚えている。
お前は今から無垢に戻る。今までを忘れなさい。そうでなければ壊してしまねばならないからね。いちから創り変えるには、壊さねばならない。だが私は今のお前、その姿が気に入っている。ここからつくらせておくれ。
脳が記憶した音が脳の奥で再生される。
瞼を瞬かせ見る、赤の色彩に並び立つ双子の姿は、恐ろしくもなんと綺麗なのかとうっとりと見惚れてしまうほど美しい景色なのだ。凄惨な現場であるのに、鉄錆びの臭いすら良いにおいだと錯覚してしまいそうになる。
触れてはならない。畏怖し、奉るモノとすら感じる。
だからこそいつか、そこに居た事ことすら真っ黒に塗りつぶされて無くなってしまうような、気がしてしまう。
さくらは危惧を感じていた。
それをアンは大丈夫だという。全然、大丈夫などでは無かった。
「さくら、あなたをはじめ、みんなが居てくれるから大丈夫なんだよ」
分かる?
アンの声にさくらは首を振る。
たったふたりきりであれば、きっと理不尽ばかりが溢れる世界にいつかは喧嘩を吹っかけていただろう。エースだけ、アンだけ、の単体であれば、より拍車がかかると予想出来る。
「みんなが居てくれるからこそ、ふたりとも、尖らずにいられる」
負の感情に飲み込まれる事が、無い。だから大丈夫。みんながいてくれる限りは。
「それにエースはこんな所で立ち止まるような真似なんてしないし、させない」
目指している場所が、場所だから。アンはそう続ける。
辿りつこうとしているのは実父とその仲間達だけが辿り着いた、在る、とだけ証明されている幻想郷だ。
16世紀、スペインで海を越えた先に在ると信じられていた黄金郷エルドラド。新大陸探検の動因となったそれと、今を指し示す大海賊時代は同じような動きをしている。だからこれからが面白くなるだろう。予感では無い。確実にそうなる。なぜなら物事は時代の志向性を含み、さも別の事柄として人の目に映るが、根元を探れば繰り返されていると分かるからだ。ひとの営みはそのままに、自浄を望む世界があるべき姿にもどろうとするのだ。
未来、歴史を遡る誰かがこの流れを識る時、きっと歴史家達はこう言うだろう。今この時、時代が胎動する出来事だった、と。
その時代に名前を残さずとも生きて居られたとなれば、それだけで後世の人々に羨ましがられるだろう。その感覚をアンは知っている。
大航海時代とは、確かに様々な国や人の思惑が入り乱れてはいたものの、鮮やかな海へ繰り出す人々の情熱が昇華する素晴らしい時代であった。人間が真実を知るための探究心を否定されることなく発露できた、宗教に弾圧されない自由な時間だった。命を賭けるに値する仕事など、そう滅多に巡り合えないのだ。過去に思いを馳せうらやましいと思う。
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アンは外出を取りやめた。どんなにあやしても離れないさくらと共に船に残ると仲間に伝える。すれば途端に皆の顔が緩んだ。エースかアンのどちらかが居る安心感は半端ないのだと、それぞれの顔を見ればわかる。しばらくの間は見聞色を発露した仲間たちに能力の扱い方を教えながら、空に舞った赤や青の焔が起こす影響のかわしかたを実践して見せた。武装色だけの団員には耐久我慢大会の開催である。ここから魔王が待ち構える陣営までかなりの距離があるが、すでに衝撃波がえげつなくやってきているのだ。これはそのうち覇王色の乱舞が来るなと予想する。ならば赤髪からの偵察隊も回収すべきだろうとアンは班を作った。指揮者含めて4から6人規模の確保組をひとつと狩猟組みをふたつ、そして最後が防衛組だ。
スペード団の皆も慣れたもので、あっという間に身支度を整える。アンはもちろん捕獲の班だ。コーネリアとダッキーが先行して手に負えそうなふたりを捕縛してもらう。どんどん色を使用して身体に馴染ませるように伝えてあるためそんなに苦戦はしないだろうが、問題はもうひとりである。さて出るかとおもったのも束の間、こたつとさくらが連携して最後のひとりを確保した。隠匿の技術を持つ人物でかなり気配が薄くアンでなければ見つけられないと決めつけていたのだが。
「ふふっ、みんな素敵すぎるよ」
あっという間の拿捕だった。次いで狩猟班の出発となったのだが、なぜか皆の顔に緊張がはらんでいた。なんでもツヴァイが猟に出ると、獲物の掛りに差が出やすいのだそうだ。良いときは思っていた以上に大量で、悪いときは食べられる草一本すら見つからないほど極端らしい。ちなみに最も新しい仲間である船大工のダルムは噛みごたえのある何かを探しに行くということで狩猟組へと加わっている。年が近いさくらと一緒にいることが多いが、彼はどちらかと言えば肉弾戦派であった。冬島にはカシラボクという加工に適さないが硬い、だがしかし水をよく弾き船の材料としては最高の素材が生えやすいと教えれば、探してみるかと聞く前に行くと連呼していた。可愛い魚人だ。多少幼くとも問題はない。たぶん。
狩猟班が出発した後すぐに、ダッキーが獲物を担いで戻ってきた。彼は武装色に加え、エース仕込みの4式使いだ。思いのほか深くはらわたに入れ過ぎたらしく、そわそわとしている。力の調整がうまくいかなかったらしい。ニューポートミューズの猛獣を相手にしていたのだから、仕方がないと労わった。実力が拮抗している場合の手加減は難しいのだ。船医のデューが出払っているため、火温石を持たせ毛布でぐるぐる巻きにしておくことにした。コーネリアは少々手こづったらしい。見聞は自分自身の動きをもゆっくり見えてしまう時がある。今までの動きに多少誤差が生むからだ。
「それは慣れだね。わたしとの組み手かエースの炎を避け続ける訓練かなぁ」と進言すると両手で顔を覆ってしまった。覚醒したてはみんな戸惑うから大丈夫だと慰める。
赤髪海賊団の偵察隊も確保の理由を説明すれば一応、納得してくれた。顔見知りなら良かったが、新入りさんのようである。この前、行ったときに居なかった。となれば傘下の船から乗り込んだお勤め隊だろう。言うなればシャンクスのファン、信奉者たちだ。海軍でも赤髪の傘下は良くも悪くも弱いことで有名だが、お頭を語らせれば延々と慕う気持ちを披露し続ける。捕まえて拷問してもシャンクスへの思慕しか語らない。面倒になって流刑地に送れば、どのような手段を使うのか、いつの間にかシャンクスの周辺に戻ってきているという、ある意味戦慄さえ覚える海賊団なのである。
シャンクスも本気の覇気を放つとはおもわないが、最悪の事態を想定するのはいつもの常だ。影響を受けて倒れ、低体温症になった各々を戦場に担ぎ込むなんてしたくない。でもまあ赤髪の覇気で気を失ったならそれはそれで本望だろうが。
狩猟班も大物を追い込んでいるようであるし、肉は十分に用意できるだろう。野菜系は、あちらから分けてもらうか最悪、買いに出かければいい。新世界新参者のスペード団より美味しい八百屋を知っているはずだ。
アンは甲板の上に座しさくらを抱き込む。そうすれば後ろからこたつがやわらかな毛で覆ってくれた。冬装備で温かくはしているが、やはり冬は寒い。
極寒の雪が降りやまぬ冬島であるはずだが、エースの覇気の影響か雪は止み曇天は変わらないものの、吹雪いているのと比べれば随分と安定した日となっているようだ。
そんなことをおもっているとちらちらと雪のような白い光が舞はじめ、次いで凄まじい轟音が島に響き渡る。誰もがそれに空を見上げた。その先にあったのは蒼へとそそり立った炎柱だ。アンは甲板で居残り組の仲間たちと共に目撃した。
かなりの大きさと出力だ。張り切っているのだろう。それよりも新世界に点在する見聞色を得意とする多くの覇気持ちに、これを感知されてはいないだろうかと懸念する。見聞で広く感知能力を伸ばしても限界がある。だが余波を受け取るほうは制限を受けないのだ。水面に落とした一滴の雫が円を広げる波状は小さく弱くなりながらも世界を包む。力任せの波ならば陸で当たりそれ以上は進まないが、覇気での感知は海や陸を障害としないのだ。
僅かであっても知るだろう、と思われる何人かを指で数える。だめだ、絶対にばれた。これは世界を震わせすぎている。エースもDの名を持っているのだから、これくらいできてしまってもおかしくはないのだがそれにしたってやりすぎである。思わず出るため息へさくらが敏感に反応した。
義祖父に連絡を、入れたほうが絶対によさそうな案件だ。あとはデイハルドか。五老星が出てくると面倒なことになる。海賊勢は面白がるくらいで早々に情報を拾いに来るくらいだろう。様子見である。問題はマリージョアだ。白亜の主がよもや青海に降りてくることはないだろうが、目のひとつをつぶしたならやはり憤るだろうか。Dの血族として敵対しないと伝えているし世界から与えられている彼の能力はアンの下位であるため、表立って敵対はしてこないとはおもうが念には念を入れておくことにした。
あの火柱は弟子が師匠に見せる成果だった。炎を白から青に高めるのには苦労したのだ。船の上で鍛錬するには向かないため、こっそり夜にふたりして抜け出し火気厳禁ではない場所で出力を押さえ、それでも周辺を炎に巻きながらせっせと色を高める為に歯を食いしばったのだ。炎の化身となったエースは自分が生み出す熱に影響を受けないが、生身のアンは何度、焼け死んでしまうかもしれないと思ったことか。赤や白ならばなんとかなったが、青は理不尽すぎる。初っ端に成功した時は思わず瞬間移動で安全圏外へと逃げた。エースは唇を尖らせて拗ねたが、あれは一瞬で灰になる。地上で出してはいけない部類の高温だ。それから少しづつ間合いを詰め、武装色で耐え、見聞色で往なす訓練を経てようやく近くにいても生命の危機を感じることはなくなったがさらに上を目指すならどうなってしまうやら。そのおかげで焔の悪魔がアンにも懐いてくれたので、それで良しとするしかない。
エースの焔は楽し気に踊っていた。見てみて、出来たよ、と嬉しそうに親へ駆け寄る幼子のようである。シャンクスも面白そうに付き合ってくれているようだ。
しかしこの件について、まったく説明していない仲間たちの焦燥はかなりのストレスになっているようである。
「大丈夫。エースがシャンクスにじゃれついてるだけだから」
いつもこうやってこたつも遊んでってくるでしょう。同じことだよ。それにもう終わる。
アンの様子がいつもと変わらぬ平常運転であることが、仲間たちに安心を与えた。冗談ではなく真実だとおもってくれたようだ。船内はまだなんとかなる。しかし問題は狩りに出ている仲間たちだ。ツヴァイが上手くまとめてくれれば良いが、そう簡単にはいかないだろう。なにせ仲間たちはエースの事が大好きだからだ。危機が迫った時はその体と命をエースの盾にしても構わないというくらい、惚れている。男が男に心酔する動機はさまざまだが、エースはかなり男前の部類なのだそうだ。しかもいつもは動かぬ肉食獣のオスのようであるのに、あるときふと王者のような威厳を纏わせて誰かの窮地を救う。その格差にくらりとくるらしい。しかも礼など受け取らない。やりたかったからやっただけ。反対に迷惑をかけたかも、とそれだけで立ち去るのだ。ご飯が報酬の時は食い気味だが、それ以外の時はあっさりしたものである。
エースがみんなに愛されて、感無量である。この愛され船長の姿を見るだけで、一緒に海に出てよかったとおもえた。
狩猟班が一度合流し、再び二手に分かれて移動し始めた。これは間違いなく片一方はエースのもとに向かっている。もうひとつは狩った獲物をこちらに運んでいるのだろう。
「それじゃあ動くよ。居残り組は獲物の解体頼むね。シャンクスからこっちに伝令くるとおもうから、出かける準備も並行してね。先生は……どうだろう。さくら、声かけてみて」
てきぱきとアンは指示を出した。試験の合否はまだ不明だが、追試にはならないだろう。ならないでいてほしい。
赤髪の
まず向かうのは聖地だ。次いで義祖父のところ。そしてエースのもとに一度戻って差し入れを。ドーン島との時差を考え、まだいけると踏む。樽があれば御の字である。ドーン島を出る時にシャンクスに会いに行くと言えばマキノさんから手土産にともらった酒があったのだが、けが人の消毒に使ってしまったのだ。やることが今日もてんこ盛りだ。高揚した気分のままアンは鼻歌を奏でながら転移した。
狩りに出ていたスペード団の面々は火柱が見えた途端、狩猟を止め一塊になった。見聞色がこんなにも役立つならもっと早くに習得しておくのだったと後悔するが、今は後悔する時間ではない。エースのほうに向かうのはツヴァイとし、デュースは船に一度戻ってから合流することになった。戻り組はアンの確保が最優先だが、あの片割れがおとなしくじっとしているはずもない。
目的地を定めた一行は黙々と走り始める。制止の声は一切でなかった。集団をまとめるふたつの柱が『喧嘩』と称してぶつかり合う時はこんな焦燥を感じなかった。魚人島で威嚇を受けた時も同様だ。こんなにも危機感が煽られるのは、相手が四皇であることだけではない。いくら師弟の関係であろうとも、以前に何度か聞いたことがあったとしても、エースを喪うかもしれない可能性にたどり着けばじっとなどしていられなかった。
ツヴァイは震えを抑え込む。自らの認識が通用しない相手だと、理解していたつもりだった。役立たずだった己を彼と彼女が自分を必要としてくれている事実に歓喜し、求めるばかりでは無く自身を差し出そう。いまよりももっと必要として貰いたい。そういつも考えて行動していた。
立ち上がる炎を見て、近寄り難い畏怖の念を覚えた。次元が、違い過ぎていたのだ。彼は誰にも損害を与えないように、全てにおいて力を抑えていた。
前半の海ではそれでも過多だと誰もが思っていたくらいだ。船長もアンも戦闘が終わった後、疲労すら感じていなかった。それどころか精一杯戦った仲間に手を差し出し、体をいたわり、水の用意や手当ての采配を行なっていた。今更ながらに振り返れば、仲間が上手く戦えるように間引いていたのだとすら思える。全てがあのふたりの掌の上にあるのだとしても驚きなど無い。
ツヴァイは己を叱咤した。自分が見ていた戦場より、広い視野でふたりは周囲を見ていたのだ。見聞色という異能があったからではない。足を必死に動かす。逃げ出したいと湧きだす恐怖を抑え込む。
(船長に二度とあんな、顔をさせては……!)
感情を封じた人間の、能面のような顔はぞっとするほど美しいが、まほろばのようにいつの間にか行方をくらませるものだ。故郷である虹の島で見せた彼の心の一片は、ツヴァイの深層に食い込んでいる。
エースは出会ったときから強かった。海兵の中でも限られた一部しか取得できないといわれる六式すべてを使い、希少度の高い自然系の悪魔の実を口にし、その身を焔と変え、しかも覇気という類稀なる力を使いこなす。制約を掛けず全てを使えばどうなるか。考えれば分かっただろう。だが考えられなかった。否、考えるのが恐ろしかった。考えられる範疇を越えていた。あの人達は、人というものが考え得る常識の範囲外に、在る。
だからこそ危ういとも言えた。
多くがある船の中でもそうだ。中に在っても、甲板の上でみんなして掃除をしているはずなのになぜかエースが立つ場所だけが取り残された、虚ろな空間であるかのような錯覚を感じた事がある。それはいつだっただろうか。
焔が上がった場所に近づくのが危険だと囁く本能を、彼を知る感情が否定し粉砕する。誰もが必死の形相をしていた。大切な宝物を失くしてたまるものか。そんな心情が読み取れる。エースに会えて、ようやく胸が膨らむまで息を吸い込めるようになった。尊厳ある命として、例え学がなくとも馬鹿にせず自分も苦手だと、寄り添ってくれた。
荒い息がいくつもの淡い白を生む。
ツヴァイを先頭に惨事の現場に辿り着いたそれぞれが見た光景は、信じがたいものだった。一体あの火柱は何だったのかと思わざるを得ない。なぜならそこでは笑い声が絶えることが無く、取り囲まれた円陣の中心で顔を熟れた果物のようにしてうつらうつらとしているエースの姿であったからだ。
それはツヴァイにとって初めて見る姿、と言っていいかもしれない。
無防備だった。同じ船に乗る仲間たちに見せるそれとはまた違う。出会った時、年齢に見合わない大人びた考え方をする青年だとは思った。物事を達観したような、どこか諦めたような、そう言う物事の見かたをしていた。
だがこの光景は自分の目を疑えた。
そこに自分達の船長が居るのが当たり前であるかのように、違和感を感じなかったのだ。エースに対して失礼だろうが、年相応に見えた。それだけ船の主という責は肩に重くのしかかるのだろう。とは、考えられる。
が、しかし。
何がどうなっているのか、駆けつけた誰もが何も分からない。
そこへ不意に声がかかった。
「強くなったから飲める、と豪語していたんだがな」
ゆっくりと歩んできた黒髪の男にツヴァイは額を抑える。
「ようやく果実酒に舌が伸びるようになったばかり、ですよ」
うちの船長は。
聞けば話しかけてきた男は、赤髪の右腕であるという。本当に強いのは、片割れの方である。
「お、いい所に来たな。エースんところのヤツらだろ。遠慮すんな、お前らもまずは飲め!」
誰かがそう言えば、見知らぬ者達から次々と声がかかる。その言葉に顔を見合わせ、どうするかと話す間もなく酒の器を手渡されてなみなみと注がれた。挨拶代わりに飲み干すのが礼儀と、意を決めた者らから口をつけ始める。
「いい飲みっぷりだなァ」
声をかけてきたのは燃えるような赤い髪の男だった。側に立つだけでびくりと体が萎縮する。これがふたりの師、であるのか。
不意に名を呼ばれツヴァイが咳き込んだ。さっき教えてもらったんだと赤髪が笑む。輪の中に入れと引っ張り込まれ宴会の席に座らされた各々が戸惑いながらも酒を受け取っている。ツヴァイが向かったのはエースの背後だ。
体をそらせ、声をかけてくる。真っ赤な顔になった船長がにへら、と笑んだ。だれだこんなに酒を飲ませたのは思わず額に皺が寄る。
思わずアンが笑みをこぼす。意識の向こう側は賑やかだった。樽が新しく陸へ上げられ、早速割られている。料理もどんどん、どこからともなく運ばれてきているようだ。これは食料の差し入れに行った方がよさそうである
それはそうだろう。師と弟子が久々に会したのだ。顔を知る面々に新しく刷られたばかりである、4億という手配書を見せられてもいた。シャボンディから魚人島経由、ニューポートミューズからの
アンが海軍に所属していた年月を見返してみても、新人に4億はかなりの高額である。破格と言っていい。七武海は蹴ったがその代わりデイハルド経由であればアンが動くと約束した。それ以外になにかあっただろうか。懸賞金の爆上がりの理由が本当にわからない。なにをどう判断しての値段なのか査定の基準さえわかれば、操作も可能なのにとアンはじれったく感じていた。教えてと好物で釣っても情報室長のブランニューが頑なに教えてくれなかったのだ。
彼らの血気は止まらなかった。宴はすでにたけなわだ。普段はある程度の所で一息を入れる、大人の面々も今日ばかりはあんな対決を見せられて興奮が冷めやまぬらしい。
本人同士が拒否したとしても、周りが放ってはいないだろう。そもそもシャンクスが宴を否定する訳がなかった。ともすれば煽る。煽って撃沈するまで盛り上げる。あの年中お祭り脳の面々は、出会った頃からなにも変わってはいない。出会いを貴び、別れを惜しんで再会を祈る。双子は一期一会を彼らから学んだ。だからこそ立つ鳥跡を濁さず、の言葉通り別れはあっさりとしたものだった。弟に託された麦わら帽子は、再会への強い期待だ。どこかに定住している者同士ではない。広い青の世界で、あちらこちらを冒険しながら旅する海賊たちだ。偶然に再会できる確率はかなり低い。
弟も3年後に故郷の島を出てくるだろう。なんのしがらみもないまっさらなひとりの人間として、だからこそ海賊となって青の海に漕ぎだす。
そうして海賊同士が出会えばどうなるか。ルフィの場合は大歓迎されるだろう。時と場合によるけれども。姉としては平時に再会してもらいたいと願ってしまう。一度海賊としての一面を取り戻すと容赦のない一面も覗かせるからだ。その姿を魅力的だと感じて心奪われる多くが居るのも否定しない。不謹慎だが、海賊然としているシャンクスは本当に格好良いのだ。
「エース、しっかりしてください」
「ん。らいりょうぶ。もうすぐ、アンが…来る…だから」
けたけたと笑い始め、十分に出来上がっている船長にツヴァイはため息を量産する。
「……その鍋は一体」
「ルーがさ、マキノしゃんの、スープがろみたいっていうから、つくんの」
ツヴァイももちろん知っているし、何度も相伴にあがっている。エースが台所に立てば焼きの料理しか出てこないのが定番だったが、海水を使ったスープは絶品として今でも仲間たちには好評の一品なのである。海までは少々距離があるがどうするかと考えていると、雪からでも作れるから平気、と返答が返ってくる。材料が雪だけとは一体どういうことだろう。調味料や具材は。
汚れのない雪が鍋の中に入れば、いつものように温める。そうすれば絶品のスープの出来上がりだ。受け取ったラッキー・ルーやヤソップが懐かしい、旨っ、と驚いている。
ひと仕事終えたとエースが息を吐く。後方からその身を支えれば、ことりと胸に頭が乗った。見上げてくる漆黒の瞳に吸い込まれそうになる。
「お前たちの船の方には知らせを走らせている。だがすでにアンには筒抜けだな」
彼女の能力を知っているのだろう。
細い煙をくゆらせる男の声により間一髪、深遠の淵から生還したツヴァイが同意する。
すう、と瞼が下りた。
ごくり、とその瞬間をコマ送りで見たツヴァイが喉を鳴らす。彼らの船長であるエースは浅い眠りを繰り返すのが常だ。アンが側にいるときだけ熟睡し、またアンもエースと入れ替わるように深く眠る。
その様は野生の獣だ。
外に居るときはもっと浅く、船という家に揺られているときでさえ崩さない。いつも感覚を尖らせ周囲を警戒し続ける。
船長の師、というのはそれほどまで安心できる存在であるのだろう。
視線を迷わせ、赤の髪を捜す。存在感が凄まじい男だった。探せばすぐに見つかる。
しかしツヴァイの目に赤髪の姿はどこを見回しても捉えられなかった。
ふと、同じ感覚を得た人物を思い出す。
ツヴァイに体を預け眠る船長の、半身である女性だ。
”わたしの姿が見つけられない時がある? あー、そういう状態のときは広く浅く水平に意識をのばしてみて”
個としてあるんじゃなくて、多くの間に紛れ込んでるから。認識の狭間にいる感じ。ツヴァイならできるよ。
難しい事をいとも簡単に言ってくれる。と当時は思った。そしてそれは今でも変わらない。しかしながら日々を共に暮らせば糸口くらいはみえてくるものだ。色の発現があってからはより鮮明に理解できるようになった。そして見つける。こちらに視線が向いていた。
「上出来だ」
低い艶のある声が耳をかすめる。
「だめだよシャンクス、ツヴァイはわたしたちの大切な友人で副船長なんだから。色目禁止だよ」
いつの間にか到着していたアンがツヴァイと赤髪の間を遮っていた。凛々しい横顔がまぶしく映る。
思わず笑む。ああ、不意打ちに呆けている暇など無い。
「ご心配なく、私はあなたたちふたりの副官なのですから。どこにも行きませんよ」
出会ってから自分を魅了して止まない存在たちに語りかける。目を瞬かせ、そして破顔したアンに同じくツヴァイも笑んだ。
口を尖らせ拗ねた赤髪の様子を多くの面々が振られてやんの! とはやしたてている。
賑やかであった。海賊でありながら海賊らしからぬ集団がふたつ集まれば、統率が取れなくなってしまうのも分からなくもない。ツヴァイは意識を完全に落とした船長をその片割れに任せ、集まり始めたスペードの面々に釘を刺すべく立ち上がる。
「皆もほどほどに。船長とアンさんのお師匠さまのお招きですからね。羽目を外し過ぎないようにしてください」
こっそりと手渡された爆弾に誰もが冷や汗を背に感じ、銀の髪の副船長を振り返る。同じ立場に立つ黒髪の男がにやりと笑み、同様のそれをツヴァイも返す。雪の島の宴は始まったばかりだ。
この後もアンが呪いを解くと言い、赤髪の体の中から深緑のもやを取り出したり、さくらやこたつが到着後、モンスターが興奮し再度海賊団への打診を受けたり様々な事があったのだが、事の顛末を記すのは小説家志望のデュースに任せ、ツヴァイも賑やかしい輪の中に入り込むことにした。