ユキナヲ、ヒケナカッタ。
乱れた呼吸を整えるように息を吐く。
急なダッシュに驚き収縮を繰り返していた心臓も次第にクールダウンしていき、上下運動を繰り返す肩もようやく動きを止めた。
「……にしても、相変わらずだなこの部室。まだ潰れてなかったのか」
「潰れないよ、失礼な。こう見えてちゃんと活動してるんだからね!」
「へー」
そう返しながら部屋を見回す。
隅に積まれた荷物の山や机に積もった僅かな埃。濁り曇った空の機嫌も、そこに佇む氷川さえも。
何一つ、前と変わっていなかった。
「で、何の用? 俺早く帰りたいんだけど」
視線を氷川の目に合わせ、俺は本題を切り出した。
いやマジで何の用だ。今日スーパーの特売日なんだぞ。卵を買わせろ卵を。できればついでに野菜も買いたい。この先だんだん高くなってくからな、今のうちに仕入れるのがベストなのだ。
そんなこんな考えている間にも、氷川は笑みを崩して俺を黙視する。
不自然に空いた言葉の間。薄暗い部屋に流れる沈黙に、じとりと嫌な予感が背をなぞる。
吹き付けた風が窓ガラスを鳴らすと同時、ようやく氷川は口を開いた。
「また、何かあったんでしょ?」
「……何か? なんのこと?」
「またまた〜。大丈夫だよ、隠さなくても」
『何か』。酷く抽象的で具体性に欠けていて、『何か』が何かすらわからないような、曖昧であやふやな言葉。だが、この場においては大きな意味を宿していた。
……嗚呼、まただ。頭の隅に焼き付いているあの日のこいつが目に浮かぶ。もはや何故知っているのか聞く気すら起きない。一部か全部かはわからないが、今回の件に関してこいつは勘付いている。
ただ目の前で確信を持って微笑むこいつの表情が、その事実を肯定していた。
「ほら、あそこ。心当たりない?」
「あそこ?」
指を指されて窓際に寄る。外を見やると、校門から昇降口にかけての通路に並べられているベンチが目に映った。
「Oh……yes」
めっちゃネイティブになった。
……うん、思いっきり見覚えあります。つーか俺が毎日弁当食べてる場所だった。
昼休みというのは俺にとって基本暇な時間でしかない。リサと屋上に行くことも教室で湊さんと話すこともなくなった今、俺の居場所はあのベンチくらいしかなかったのだ。一回だけ屋上に行ったこともあったけどリサと遭遇しちゃったからな。あれは気まずかった。
「修哉くん、最近ずっとあそこでご飯食べてるよね」
「いや、そうだけどなんでお前知ってんだよ……」
「ふっふーん♪ 天文部だからね!」
「天文部関係ねーだろ。あれ、関係あるのか……?」
もう天文部ってなんなんだってばよ (錯乱)。
つーか最近ずっとって言ってるあたり俺のこと見かけたの一日だけじゃないよね。ってことはなに、何日も俺が一人で飯食ってんのをただ見てるだけだったの? あれか、お前は某宇宙人未来人異世界人超能力者を募る団体の一員みたく観測してんのか。エンドレス◯イトで地獄見そう (小並感)。
「で、何があったの?」
もう一度、確認するように問いが投げられる。
どうするべきか。まだシラを切ることは十分にできる。こいつが提示した情報はまだ薄い。偶然俺がそこにいたと言い切ることだって十分可能だし、前回同様鎌をかけているかもしれない。
頭痛が走る。疲労のせいか鈍る思考は纏まらない。
とりあえず、俺はまだとぼけることにした。
「いや、リサと約束なければ俺基本一人だし。最近たまたま外で食べてただけだぞ」
「外、寒いのに?」
「それはあれだ、最近寒さのせいでクラスの連中が教室に溜まって煩いから、静寂を求めて俺が外に出てんだよ」
いやー、ベンチまじで静か。静かすぎて俺が芭蕉なら岩じゃなくベンチに染み入るまである。
「他にも。修哉くんの目、充血してるし酷いクマだし」
「クマは最近夜中までゲームしてて寝不足だからだよ」
「最近お姉ちゃんたちの様子も変だし、結局リサちーにも話聞けてないし……」
「それは」
語気を強めた氷川だったが徐々に勢いを失っていき、やがて黙り込んだ。同じように俺も答えに詰まり口を閉ざす。
嫌な沈黙が場を覆った。
氷川の行動の理由はわかった。そのことに僅か靄が晴れた気がしたが、追ってこの回りくどい問答に対する苛立ちがじわじわと滲み出る。
心の鍵が、ぎしりと軋んだ。
「その反応、何があったか知ってるんでしょ? 前みたいに話してみてよ。きっと楽になるから」
「……ただ単にお前が知りたいだけだろ。それに何度も言ってるけど何のことかわからん」
「違うよ! あたしは修哉くんのために──」
「しつけぇよ」
つい荒くなった語気に、氷川は大きく目を見開いた。
怒りなのか悲しみなのか、失望なのか不安なのか。複雑に揺れる瞳の色の正体はわからない。
ただ苛立ちだけが増していく。普段の俺なら決してこうは言わなかっただろう。どんな状況でもふざけおちゃらけ話を逸らし、誤魔化すことはきっと出来た。
それが出来ていないということが、あの日以降の「いつもの俺」の破綻を証明していて、他でもない自分自身に苛立った。
「第一、何かあったとしてもお前には関係ないし話す気もない。それこそ氷川さんに聞けばいいだろ」
「っ……! 関係なくない!」
乾いた部屋に、悲痛な声が木霊した。
「あたしは修哉くんのおかげで一歩を踏み出せたの! きっと今、辛いんでしょ? 苦しいんでしょ? そんな顔になるまで悩んでるんでしょ? 辛い気持ちなら……苦しい気持ちならあたしにもわかる! だから力に──」
「ふざけんなッ!!」
「……っ!」
音を立てて何かが弾けた。
途端、熱い何かが込み上げる。
「わかんねぇよ」
わからない。お前なんかにわかるものか。
俺の気持ちが、辛さが、苦しみが。何をやっても悲しくて、何処にいても虚しくて。本街修哉が作り上げてきたものが全て失われた喪失感と虚無感が、たかが数回話した事がある程度のお前如きに理解されてなるものか。
同情するな。憐れむな。
不躾に無遠慮に、心に土足で踏み入るな。
冷や水を打ったように部屋が静まり返る。感情のままに氷川を睨みつけていたが、やがてそれも俯きに変わった。
「……っ」
熱が頬を伝っていく。あれだけ塞いでいたのに。あれほど固く閉じ込めたのに、決壊した感情はいとも容易く溢れていく。
どれくらいそうしていただろう。
「ふざけてないよ」
不意に、声が静寂を破った。
温度のない、底冷えするような、そんな声だった。
ぐちゃぐちゃに痛み乱れる頭と呼吸をそのままに視線を持ち上げる。
視界のピントを氷川に合わせて──
「──」
──恐怖した。
体が硬直するのがわかる。
その瞳にさっきの色など微塵もない。残酷に冷淡に、つまらないものを蔑むような目を俺に向け、ただ口角だけが不気味に歪む。
その表情に、何故か俺は氷川日菜が氷川日菜たる所以を垣間見た気がした。
「──ねぇ、修哉くん」
「……っ」
得体の知れない不気味さが全身を強張らせ、貼り付けられたように瞳は逸らせない。
気付けば涙は止まっていた。
「今の修哉くんはさ、一体何なの?」
「……は?」
「友希那ちゃんとはどんな関係?」
「答えてよ」
「────ねぇ」
残酷なまでに赤い落陽に影を伸ばし、顔を俺の目の前まで近づけながら。
──依然、
● ○ ● ○
「はぁっ、はぁっ……うぷ」
脳内と景色がぐちゃぐちゃに流れる中、廊下を逃げるように走り続けた。昇降口を飛び出して、校門を潜り抜けて。途中で息をつくこともなく、ただこの体もぐちゃぐちゃになれと願いながらひた走る。
やがて立ち止まった時、そこは自宅の玄関だった。
「うっ……おぇえ」
気持ち悪さと吐き気、頭痛、倦怠感に五感を出鱈目に掻き回され、洗面所で胃の中身を全て吐き出す。しかし込み上げたのは胃液だけで、喉から伝わる不快感が一層俺を蝕んだ。
軽く口をゆすぐと、未だばくばくと収縮を繰り返す心臓を押さえつけ自室へ向かう。途中何度も壁に体をぶつけながら、ふらつく足で床へと倒れ込んだ。
「何なんだよ……どうすればいいんだよ……ッ」
大丈夫だと思っていた。嘆き、悲しみさえすれど、潰し閉じ込めてしまえば後は時間が忘れさせてくれるものだと、割り切れるものだとずっと思い込んでいた。
これではとんだピエロだ。とんだ道化だ。自分のことは自分が一番知っている。俺の理解者は俺だけ。それで満足だったし、それで十分だった。
十分だった──はずなのに。今はもう自分すらわからない。
「っ……うぅ……」
声が震える。
苦しい。悲しい。痛い。辛い。泣きたい。投げ捨てたい。逃げ出したい。逃げ出して楽になりたい。楽になって安心したい。二度と怯えることのない安寧に浸かりたい。もう二度と何も失いたくない。孤独は、怖いことだから。
「っ……」
頭で散々もう自分は無関係だと叫びながらも、心は裏腹に手を伸ばす。ぽっかり空いたこの虚が、『自分』を演じる自分自身が、どうしようもなく怖かった。
出来ることならもう一度。そう考えてループする。
(……情けない)
俺が望んで、望まれた。元を辿ればこの関係の根本は利害の一致に過ぎなくて、そこに特別性などなかったのかも知れない。
だが、もう一致しない。俺が望んでも望まれない。
だから、俺も望まない。
それが正しい、はずなのに。
『今の修哉くんはさ、一体何なの?』
「わかんねぇよ……」
もう、どうにかなってしまいそうだった。
どれくらい時間が経っただろう。
いつもチクタクと勤勉な壁掛け時計の電池はどうやら寿命を迎えたらしく、無機質な部屋には物音一つない。まるで自身の呼吸すら止まってしまったかのような完璧な無音に、何故だか少し落ち着いた。代わりに氷川への態度に対する自己嫌悪と虚脱感が胸を濁らせる。
倒れている姿勢から上体を起こし、ベッドにもたれかかる。
「……今、何時だろ」
夏ならば外の明るさで凡その時間は判断できるが、この時期は暗くなるのが早いせいで通用しない。止まった時計を一瞥して、どうでもいいかと切り捨てた。
(夕飯は……食欲ないし食べないでいいか。そうなると風呂もめんどくさい)
そもそも、体がここから動くのを拒否していた。無理して味のしないナニカを食べる必要などどこにもない。栄養を取るために料理はしていたが、それももう面倒だ。
今日もまた、眠れない夜が始まった。
「っ!?」
突如、制服のポケットに入っていたスマホが震える。静寂を打ち破る機械音に反射的に肩が跳ねた。振動の長さからして電話がかかって来ているらしい。
(……誰だろ)
もしかしたら店長かもしれない。だとしたらシフトの調整だろうか。めんどくさいなぁ。バイトに行く気も起きない。
恐る恐る端末を取り出すと、画面の強い光が視界を覆った。暗闇に慣れた瞳孔が急激に絞られていく。
少しして、ようやく瞳は文字を捉えた。
着信:リサ
もう一度、肩が大きく跳ねた。
思った通りの話を書く技量が足りないせいで何回も書き直し、結果投稿が遅れてしまいました (いつもの)
ちゃんと読める文章になっている事を願う。
UAが11万、お気に入り件数が1000を超えました! 本当にありがとうございます……!!! もっとくれてもええんやで^^ (強欲)
物語も折り返しているので、完結までもう少しお付き合いいただけると嬉しいです。