たったひとつのSunshine Story   作:Kohya S.

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21. 不安になったり、しない? ~ afterstory #3

 ラブライブの観客席にいた晴樹くん。あれだけ広かったのに、私は彼に気づいた。ファンとしての晴樹くんと、ひとりの男の子としての晴樹くん。ふたつが重なったそんな彼が、そこにいてくれることが嬉しかった。

 それなら私も、女の子としての私だけじゃなくて、スクールアイドルとしての私を見てもらいたいって思った。

 

 私たちは最高の結果を残せた。

 

 写真撮影やインタビューで遅くなって、私たちは予定よりもずいぶん遅い電車で東京を出た。沼津に着くのは零時近くの予定だ。

 

 出発した直後は日中のテンションが残っていたけれど、あっという間に全員がうつらうつらし始めた。

 私も心地よい揺れに身を任せた。

 

        ・

 

「間もなく国府津(こうづ)、国府津。お出口は、左側です」

 

 アナウンスに目を覚ます。

 東京を出たときには立っている乗客もいたくらいなのに、もう車内はガラガラだった。

 

 みんな眠っていて、ひとり花丸ちゃんだけがボックス席から出て、扉のわきの二人掛けの席に座り、本を読んでいた。

 

 私が花丸ちゃんの前に行くと、彼女は本から顔を上げて微笑んだ。

 

「いま、どのへんなのかな?」

「国府津だから、半分をすこし、超えたところずら」

 

 電車が減速してホームに止まる。

 アナウンスによると数分間停車するようだったので、私は外に出て、思い切り伸びをした。

 

 ホームだけが明るくて、あたりは真っ暗だった。

 私の頬を夜の冷たい空気がなでていく。

 でも、すこし暑いくらい暖房のきいた車内にいた私には、むしろ心地よかった。

 

 ふと、晴樹くんに会いたいなって思った。

 

 電子音のベルが鳴り私は電車に戻る。

 花丸ちゃんの隣に座ると、彼女はにこっと笑い、また本に目を落とした。

 

 私は横目で花丸ちゃんを眺める。

 

 ふたたび走り始めた電車の振動にあわせて揺れる、彼女の横顔。おだやかな笑みが浮かんでいた。

 

 花丸ちゃんの彼は、こんな笑顔に惹かれたのかな……。

 

「花丸ちゃん」

「ずらっ?」

 

 私は思わず声を出していた。

 でも、なにを話せばいいかわからなくて――ううん、話したいことはあったのだけれど、それを言っていいのかわからなくて、私は言葉に詰まる。

 

 花丸ちゃんは不思議そうに首をかしげた。

 

「……どんな本、読んでるの?」

 

 私はとりあえずそんなことを聞いた。

 

「えっと……」

 

 花丸ちゃんは、ぽっと顔を赤らめて、私は意外に思う。

 

「あ、別に、ちょっと聞いてみただけだから、気にしないで」

「ううん、いいんだ」彼女は首を振った。「……あのね、友達が書いた本なんだ」

「花丸ちゃん、作家さんに友達なんて、いるの?」

「作家さんじゃなくて、作家さんの卵、ずら」

「たまご……?」

 

 花丸ちゃんは本を閉じた。

 

「うん。いまは趣味で小説を書いてるんだ。だからこれは、友達が自分で印刷した本。同人誌ずら」

 

 同人誌がどんなものかってことは梨子ちゃんから聞いて知っていた。マンガだけじゃなくて小説もあるんだって思う。

 

 えへへ、と花丸ちゃんは笑った。

 

 ふとももの上に置かれた花丸ちゃんの両手は、大切そうに薄い本を包んでいた。

 

 花丸ちゃんの笑顔とその手を見て、私は気づく。

 

「お友達って、もしかして、この前、バス停で一緒にいた人かな?」

「この前?」

「うん、私がバスのなかで寝ちゃってたとき……」

「バスのなかで。たしかに千歌ちゃん、寝てたずら。……えっと、あの日……ええーっ!」

 

 花丸ちゃんは大きな声をあげた。

 私はあわてて、しーっと指を唇の前で立てる。一番近くにいた果南ちゃんが、むにゃむにゃ言いながら、隣の鞠莉ちゃんに寄りかかるのが見えたけれど、誰も目を覚まさなかった。

 

「見てたずら?」

 

 花丸ちゃんがささやき、私はうなずく。

 花丸ちゃんは下を向いて、頬を真っ赤に染めた。

 

「彼氏、だよね」

 

 私が確認するように言うと、今度は花丸ちゃんがうなずいた。

 

「その、ごめんね、花丸ちゃん。私、えっと、見るつもりはなかったんだけど」

 

 花丸ちゃんは顔を上げて首を振る。

 

「千歌ちゃんはなんにも、悪くないずら。オラ、ただちょっと、びっくりしただけで……」

「でも、いま話すことじゃ、なかったよね」

「ううん、いつか話さなくちゃって、思ってたずら。でも……みんなにはもうちょっと、秘密にしておいてほしいずら」

「わかった」

 

 私が言うと、花丸ちゃんは微笑んだ。

 

「……彼が書いた本なんだね」

「うん、そうなんだ」

 

 まだすこし上気した顔でうなずく花丸ちゃんは、とても可愛かった。

 私はちょっぴり、彼女をうらやましく思った。

 

「あのね、花丸ちゃん」

「ん?」

「今度は、私の友達の話なんだけど、聞いてくれるかな?」

 

 私には直接、話すことなんてできなくて、ついそんなふうに話してしまう。

 こくり、と花丸ちゃんはうなずいた。

 

「そのお友達はね、最近、ある男の子と……えっと、お付き合いを始めたんだって」

 

 花丸ちゃんはびっくりしたように目を見開いてから、にこっと笑う。

 

「そのお友達に、おめでとう、って伝えてほしいずら」

「うん、ありがとう。それで……そのお友達は、最近、すごく忙しいんだって。だから、なかなか会えなくて……」

 

 私は言葉を探す。

 

「ちょっと彼との距離が、離れちゃってるって感じらしくて……。その、花丸ちゃんは、どう? 彼と、会いたくなったりしない?」

「もちろん、会いたいずら」

 

 花丸ちゃんはうなずいた。

 

「でも、なかなか会えないよね。不安になったり、しない?」

「もちろん、不安になることもあるずら。でも……」

「でも?」

「マルは彼のこと、信じているから」

 

 花丸ちゃんの声には力がこもってた。

 

「信じる……」

「うん。それに、マルはマルのことも信じているずら。彼を想う気持ち、を」

 

 私は晴樹くんのことを信じている、と思う。もちろん、自分のことだって。

 でも――。

 

「……でもね、千歌ちゃん」

 

 花丸ちゃんのおだやかな声に、私は、ふせていた顔を上げる。

 

「なにもないと、信じるのは難しいんだ。だからマルの場合、私は大丈夫、とか強がったりしないで、会いたいときには会いたいって、彼にお話し、しているずら」

「話を?」

「うん。電話でもメールでもいいんだ。会いたい、会えない、残念だな、って。彼も、そうしてくれてると思うずら」

「そんなに単純なことで、いいの?」

「すくなくともマルは、いいと思うんだ。ああ、マルのこと、想ってくれてるんだって気がするから」

 

 花丸ちゃんは微笑む。

 

以心伝心(いしんでんしん)って言うけど、そんなに簡単じゃないずら。やっぱり言葉に出さないと伝わらないことって、あると思うずら」

 

 それを聞いて私は思い出す。

 果南ちゃんと鞠莉ちゃん、ダイヤちゃんのことを。二年前のことで、恋愛ともぜんぜん関係ないけれど――あれだって、ちょっとした行き違いが原因だったっけ。

 

「だからもし会えたら、マルは会えたね、嬉しいねって言いたいし、かっこいい、楽しいって、口に出そうと思うんだ」

「そっか……すごいね、花丸ちゃんは」

「べつに、そんなことないよ。だって、マルが、そうしてもらいたいって考えてるだけだから」

 

 花丸ちゃんは恥ずかしそうに顔をそらす。

 その顔はやっぱり大人っぽく見えた。

 

 言葉に出さないと、伝わらない、か。

 

 考える私に、花丸ちゃんがあっ、という感じで話した。

 

「大事なことを忘れていたずら」

「なあに、花丸ちゃん?」

「うん。むかしから言霊(ことだま)っていって、言葉には力が宿るとされているずら。やればできる、あきらめない、って言えばそうなるし、仕方ない、無理だって言ってると、それが本当になってしまうずら」

 

 ラブライブを今日、最後までやりとげた。それはまさに言霊なのかもしれない。それなのに、私、晴樹くんには――ドキリとする。

 

「だから千歌ちゃん。もし、千歌ちゃんが、彼のことを……その、好きだって思ってるなら、たまにでもいいから、それを伝えてほしいずら」

「えっと……私……」

 

 彼のことを大好きだ。でも、たしかに、それを伝えてはいなかったかも。

 

「それが本当になるずら」

「うん……わかった」

 

 私がうなずくと花丸ちゃんはしまった、というように口に手を当てた。

 

「……と、お友達に言っておいてほしいずら」

「わかった」

 

 私は笑って繰り返した。当たり前だけれど、隠しておくことなんてできなかった。

 

「その本、よかったら……よかったらでいいんだけど、読ませてもらっていいかな?」

「もちろん。マルもひと眠り、するずら」

 

 私は花丸ちゃんから心をこめて本を受け取る。

 花丸ちゃんは壁に寄りかかると、すぐに寝息を立て始めた。

 

 私はひとつ深呼吸をして、本を開いた。

 

        ・

 

 表紙をめくってすぐ、私は本の世界に引き込まれた。本をめぐる異世界の冒険、恋。ヒロインはどこか花丸ちゃんを連想させた。

 

 次は沼津、というアナウンスが流れたころ、私は本を読み終わった。

 花丸ちゃんをかるく揺すって起こし、本を返す。

 

「ありがとう、花丸ちゃん。面白かったよ」

「それはよかったずら」

 

 花丸ちゃんは嬉しそうにうなずいた。

 

 沼津から内浦(うちうら)へのバスはもうないので、私たちは志満姉(しまねえ)の車と鞠莉ちゃんの家の車にわかれて内浦まで帰った。

 

 自分の部屋に戻って、ようやく一息(ひといき)つく。本当に、長い一日だった。お風呂にさっと入って、寝よう。

 

 でも。

 

 私は机の上に置いたスマートフォンを見つめる。

 

 晴樹くんは私の電話を待っているだろうか。

 

 花丸ちゃんの言葉を思い出して、私はスマートフォンを手に取った。

 

 そして私は、今度の水曜日にデートの約束をした。彼は私のために、って言ってくれた。

 

        ・

 

 春分の日、私は障子からの光で目覚めた。前日までの雨は夜のうちに上がったらしい。

 障子を開けて廊下に出て、さらに窓を開ける。

 うちの東側の山の稜線(りょうせん)から、ちょうど太陽が顔を出したところだった。反対側を見ると、内浦の海がきらきらと輝いている。

 いい天気になりそうだった。

 

 私は晴樹くんのためにお弁当を用意した。

 ふだんから旅館のお手伝いをしているから、料理はわりと得意だ。どうしても和風なメニューが中心になるのは仕方ないとしても。

 今日は、おにぎりに唐揚げ、野菜中心の煮物という和洋折衷(せっちゅう)にした。旅館らしくていいんじゃないかな。

 

 部屋に戻って服を着替える。

 昨日のうちに決めておいたのだけれど、私はまた悩んでしまった。私服は悩むほどたくさん持っていないとはいえ、小物の組み合わせとかもあるわけで――。こんなことなら梨子ちゃんにでも相談しておけばよかった、と思う。

 

 結局私は、紺系統のキュロットスカートに白のカットソー、それにライトグレーのパーカーを羽織った。パーカーはオレンジが差し色で、リボンもそれにあわせた。

 簡単にメイクもする。スクールアイドルをやってよかったと思うことのひとつは、お化粧をするのに慣れたことかもしれない。

 

 鏡に向かって微笑んでみた。――悪く、ないんじゃないかな。

 

 スマートフォンがピロンと音を立てた。時間通りにバスに乗った、という晴樹くんからのメールだった。

 

 

 

        §

 

 

 

 対向車が切れるのを待って、バスはゆっくり右折した。路面の凹凸にあわせて大きく揺れる。

 千歌ちゃんがベンチから立ち上がるのが、窓から見えた。

 

 バスが水族館の入り口の前に止まり、俺はほかの乗客に混ざってバスから降りる。

 

「晴樹くん、おはよう」

 

 俺の前まで来て、千歌ちゃんは微笑んだ。元気そうで嬉しくなる。

 

「おはよう、千歌ちゃん。ひさしぶりだね」

 

 そう答えて俺は、千歌ちゃんの私服姿を見るのは、ステージ衣装をのぞけば初めてだということに気づいた。

 ふりふりひらひらという感じではなく、でも女の子らしい飾らない格好は千歌ちゃんらしくて、俺は思わずじっと見つめてしまう。

 

「……えっと、晴樹くん?」

 

 恥ずかしそうに頬を赤らめる千歌ちゃん。

 

 なにか言わなくては、と思い――この前、電話で、俺の言葉に千歌ちゃんが嬉しそうにしていたことを思い出す。

 

「よく、似合ってるね」

 

 千歌ちゃんはますます赤くなって目をそらした。思い切って言って正解だった。

 

 そのままなんとなく歩き出す。

 チケット売り場はどこか、千歌ちゃんに聞こうとすると、彼女はくるっと俺のほうを向いた。

 

「晴樹くんも、かっこいい、よ」

 

 千歌ちゃんがそんなことを言うなんて、意外だった。

 いや、千歌ちゃんが普通の女の子だとしたら意外でもなんでもないのか。

 

「……どうも」

 

 俺はなんとか、そう答えた。千歌ちゃんは嬉しそうに微笑む。

 

 昨日は散髪に行って、今日も懸命に服を選んできた甲斐があったと思った。

 

        ・

 

 チケットを買うあいだ、ラブライブについて話した。

 俺が素直に感想を話すと、千歌ちゃんは恥ずかしそうにしながらも、喜んでくれた。

 

 館内に入って、俺たちは順路通りに見て行った。

 アオウミガメ、セイウチ、伊豆の水辺、駿河湾(するがわん)の魚。

 

 千歌ちゃんは何度か来たことがあるらしい。

 

「駿河湾ってね、日本で一番深い、湾なんだって」

「へえ、そうなんだ」

 

 千歌ちゃんは展示にも詳しかった。

 

 それからいったん外に出て、大きなプールのわきをぐるっと回るように歩く。

 最初に千歌ちゃんはイルカのモニュメントへ案内してくれた。

 

「ここが、当水族館(いち)のおすすめスポットです! ほら、富士山!」

 

 千歌ちゃんの言う通り、三角形の淡島(あわしま)の向こうに富士山が意外なほど大きく見えた。

 地元にいると当たり前すぎて気にしないが、あらためて見るとやっぱり美しいと思う。

 

 俺たちが見ているあいだにも、何人かが駿河湾と富士山をカメラやスマートフォンに(おさ)めていった。

 

「ねえ、晴樹くん。写真、撮ろうよ」

「うん、いいよ。千歌ちゃん、イルカの隣に立ってくれるかな」

 

 千歌ちゃんは首を振る。

 

「えっと、そうじゃなくて……ふたりで」

「あー」

 

 それって自撮りってやつだろうか。それとも誰かに頼むのか? 正直に言って恥ずかしい。

 でも千歌ちゃんは期待するように上目遣(うわめづか)いで俺を見ている。

 

 そんな顔、されちゃな。

 

「俺のスマホでいいかな」

 

 千歌ちゃんはうなずいた。

 

 俺は千歌ちゃんの隣に立ち、カメラを切り替えてセルフタイマーにして、思い切り腕を伸ばした。

 

 シャッター音がして画面に一瞬、写真が映る。

 

 俺は腕を伸ばしたせいで角度も微妙で、引きつった変な顔をしていた。

 でもカメラは、千歌ちゃんのとびきりの笑顔をとらえていた。

 

        ・

 

 あとで千歌ちゃんに写真を送ると約束して、ふたたび歩き出す。

 大プールを泳ぐイルカを眺めてから、ペンギンやアシカのいるほうへ。水族館は思ったよりも広かった。

 

 歩きながら千歌ちゃんといろいろな話をした。

 

 ラブライブのこと。函館に行ったこと。桜内さんや渡辺さん、そのほかAqoursのメンバーの話。

 俺のほうは千歌ちゃんほど劇的な人生を送っているわけではない。

 でも男子校や部活の話は千歌ちゃんには新鮮だったらしい。そんな話題なら事欠(ことか)かなかった。

 

 屋外を一通(ひととお)り回ってすこし疲労感を覚えたころ、ちょうど昼に近い時刻になって、俺は千歌ちゃんに食事にしないかと提案する。

 もちろんおごるつもりだった。

 

 千歌ちゃんは同意して、嬉しいことを言ってくれた。

 

「あの、私、お弁当、作ってきたんだけど。よかったら、食べる?」

 

 もちろん、大歓迎だった。

 

 柔らかい春の光のなか、駿河湾から吹く風に触れながら食べる千歌ちゃんのお弁当は、おいしかった。それまでに千歌ちゃんと一緒に食べた何よりも。バレンタインデーのチョコレートと、同じくらい。

 

 素直にそう口にすると千歌ちゃんは、いつも作っているからとかなんとか、口のなかで、もごもご言ってから、はっとしたように話す。

 

「あっ、お弁当を作ってるんじゃなくて、おうちの手伝いだけど!」

 

 もしかして俺が誤解するとでも思ったのだろうか。俺はくすっと笑ってしまい、千歌ちゃんはぶすっとする。

 

「わざわざありがとう、千歌ちゃん」

 

 あわてて俺がそう言うと千歌ちゃんは機嫌を直したみたいだった。

 

 食事を終えて、館内へ戻る。

 

 深海の魚の展示は面白かった。さっき千歌ちゃんが話していたように、駿河湾ならではの展示だろう。

 千歌ちゃんは愛嬌(あいきょう)がある――というかむしろグロテスクな魚たちをじっくりと見つめていた。

 俺は聞いてみる。

 

「退屈しない、千歌ちゃん?」

「ううん、ぜんぜん」

 

 千歌ちゃんは、どうして? という感じで首をかしげた。

 

「来たことあるみたいだし、いろいろ詳しいし、さ」

「それは、地元だもん。でも、展示はときどき入れ替わってるし、魚は可愛いし、見ていて飽きないし……」

 

 千歌ちゃんは笑う。愚問(ぐもん)だったみたいだ。

 

「そうか、ごめん。……でも、俺のためなのかなって思ってさ」

 

 俺の何気(なにげ)ない一言(ひとこと)に千歌ちゃんは複雑な表情になった。

 

「それは、今日、来たのは晴樹くんのためだけど。でも……」

 

 千歌ちゃんは目をそらした。小さい声で続ける。

 

「晴樹くんと一緒なら、たいくつなんかしないから」

 

 そのまま千歌ちゃんは、水族館のおさえた照明でもわかるくらい、真っ赤になってしまった。

 俺はぐっと胸が詰まる。

 

 千歌ちゃん、こんなに可愛かったっけ。

 

 俺がなにも言えずに固まっていると千歌ちゃんは早口で話す。

 

「あ、次のコーナー、私、一番好きかも。行こう!」

 

 向きを変えて歩き出す千歌ちゃんに、俺はついて行った。

 

        ・

 

 次の展示室へ入ったところで俺は息をのむ。

 

 無限に続く暗い通路。壁面の水槽には無数のクラゲたちが、青く照らされながらゆらゆらと揺れていた。

 陳腐な表現だけれど、幻想的な光景だった。

 

「ね、素敵でしょ」

「うん」

 

 俺を見た千歌ちゃんは満足そうな表情になった。

 

 前にいた客が先に進み、展示室には俺と千歌ちゃんだけになる。

 

 無限に続くように見えたのは鏡による錯覚らしい。

 それでも俺はその錯覚に、積極的に身をゆだねた。

 

 ふたりで水槽を眺めるうちに照明は青から緑、黄色へとゆっくりと変化していく。それにつれて印象の変わる、千歌ちゃんの横顔。

 俺は両方を視野に入れて見守った。

 

 どのくらい見ていたのかわからない。

 背後から聞こえてきた子供の声で我に返る。千歌ちゃんもまるで夢から覚めるように何度かまばたきし、俺に向かって微笑んだ。

 

 そのまま無言で、俺たちは次の扉から建物の外に出た。

 深海から海面に浮上するように。

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