おかしい、なかなか帰ってこない。ふと、ルージュは不安な気持ちを抱いた。
ビューラにイーガ団を捕まえるように命じたが、生真面目な彼女のことだ、隊長チークに命令を伝えたあとは、すぐに馬車へ戻ってきて自分の側に居てくれるはず。ルージュはそう思っていた。
それが、なかなか帰ってこない。兵士たちが代わりに護衛にくるのかとも思ったが、それもこない。窓を開けて様子を窺いたいが、ビューラと約束した手前、それもできない……
いくら早熟で気丈夫であっても、未だルージュは幼かった。やっぱり一人は寂しいし、心細い。ましてや、この族長専用車がいくら頑丈でその防御は鉄壁であるとしても、敵が近くにいる状況で孤独に待つというのは、
ルージュは、一般的な子どもと同じく、無力であった。彼女は独力で身を守る術を持たなかった。ゲルド族は、たとえ貴人であっても自ら戦う。彼女の母である現族長は槍の使い手で、その技量の高さは幼少期より有名であった。およそ百年前のゲルドの英傑ウルボザは、演舞のような鮮烈華麗な剣術と、雷電の力を自由自在に操る強大な魔法力で敵を寄せ付けなかったという。
だが、ルージュはまだなんの力も持たなかった。もちろん彼女は剣や槍、弓矢を手に取ったことがあるし、その時は「なかなか
ぬいぐるみを抱きしめながら、ルージュの頭脳はとめどなき妄想を始めてしまった。
「もしや、わらわの想像もしていない事態が起こっているのでは……?」
毎晩の母の本の読み聞かせによって鍛えられたルージュの想像力は様々な怪物を生み出し、弛まぬ努力によって日々蓄えられた様々な知識がそれに迫真のリアリティを与えた。
ルージュは、妄想した。追い詰められたイーガ団が不思議な
ルージュの妄想がいよいよクライマックスに達したその時、馬車が大きく揺れた。
妄想の世界から現実へと意識を引き戻されたルージュは、短く悲鳴を上げた。
「ぴっ!?」
彼女の心臓がドキドキと音を立てていた。まさか、本当にイーガ団なのでは……? いや、そんなはずはない。きっとビューラが戻ってきてくれたのだ。彼女は声をかけた。
「ビューラか?」
返事はなかった。だが、何かの気配がする。何かがそこに、扉の向こう側に確実にいる!
「ビューラよ、なぜ返事をせぬ。早く入ってこい!」
不安と焦燥から、ルージュは、彼女としては滅多にないことだが、声を
「ビューラ! 返事をせよ!」
突然、分厚い窓ガラスが割れた。
「ブヒィイイイッ!!」
ガラスの破片を撒き散らし、耐え難い悪臭を放ちながら、何かが狭い窓枠に頭を突っ込んで
「ブヒィイイイッ!!」
フゴフゴと鳴る豚のような鼻、バタバタと動く豚のような耳、
ルージュは、声を限りに絶叫した。
「ぴぎゃーー!!」
☆☆☆
バナーヌの意識は、朦朧としていた。彼女の視界はグラグラと揺れていた。キーンという甲高い耳鳴りが彼女を襲っていた。口に溢れる血液の鉄臭さと、脇腹を走る
状況を打開するために、さっさと思考を走らせなければならない。しかし、バナーヌの頭脳はどうしようもなくぼんやりとしていた。疾風のブーメランが効かない。矢も落とされた。殴っても蹴っても手応えがまったくない。二刀流の戦士はつけ入る隙がまだあったが、今度の敵は、まったく手に負えない。頭と脇腹に一発ずつ良いものを貰ってしまった。空を飛んだ。何かが、口の中を満たしている。これは、血の味だ……
そんなバナーヌの目の前に、いつの間に現れたのか、誰かがいた。大きな背中だった。彼女には、それがとても頼もしく感じられた。その誰かは自分を守るように長い刀を構えていて、ゲルドの戦士と対峙していた。何か二人で言葉を交わしているようだが、その内容はよく分からなかった。
突然、女の子の悲鳴が響いた。ゲルドの戦士があからさまに動揺した次の瞬間、その分厚く大きい両手剣を、目の前の誰かが真っ二つに叩き折った。
それからの一連の出来事はバナーヌにとって、あたかもゲルド高地の大雪崩のように、あっという間に起こった。
「ルージュ様!?」
両手剣を失った戦士は蹴りを放って対戦者を振り払うと、向こうへ全速力で駆けていった。
兵士たちが叫んだ。
「今の声は、ルージュ様!?」
「しまった!」
「急げ! 急げみんな! 走れ、走れ!!」
周りの女兵士たちも一斉に駆け出した。
誰かがバナーヌのもとへやって来て、肩を抱き、何かを語りかけてきた。
「バナーヌ! バナーヌ! しっかりしろ! 早くこの場を離れるんだ!」
ドゥランだったのか。バナーヌはありがたいと思った。剣鬼のドゥランでなければ、きっとあの女戦士の相手はできなかっただろう。バナーヌは声を漏らした。
「……ドゥラン、ありがとう」
ドゥランは気づかわしげな声をかけてきた。
「立てるか? 肩を貸す。さっさと立つんだ」
だが、どうしても彼女の体には力が入らなかった。肋骨が折れているのだろうか? バナーヌはドゥランにだらしなくもたれ掛かるしかなかった。
その時、兵士たちの絶叫が聞こえてきた。
「魔物だぁ!」
「魔物が馬車にいるぞっ!」
「ルージュ様を守れっ!」
けたたましい馬の
轢かれる寸前、ドゥランがバナーヌを抱えて
「危ないっ!」
二人は間一髪のところで回避することに成功した。しかし、人一人を抱えた大ジャンプは無謀だった。彼らは着地に失敗し、ゴロゴロと地面を転がった。ドゥランとバナーヌは離れてしまった。
倒れていたゴロン三兄弟が、もののついでといわんばかりに馬車に弾き飛ばされた。三兄弟は無念の叫びをあげた。
「ゴロぉおおおっ!?」
「ぐべらっ!?」
「ボクたち、これで退場ゴロ……」
バナーヌたちを轢き損ねた馬車は、ほとんど横転しそうなほどに傾きながら旋回した。
ドゥランが叫んだ。
「また突っ込んでくるぞ! バナーヌ、
勢いを増して、馬車は再度バナーヌのほうへ突っ込んできた。歯を剥き出しにした、血走った目の白馬たちが彼女には見えた。鞭を手当たり次第に振り回し、殺意に赤い目を光らせる、
またドゥランの声が聞こえた。
「バナーヌ、なにをしている!?」
バナーヌの体は、自然と動いていた。彼女は幽霊のように立ち上がっていた。なぜ、そうしたのかは彼女自身でも分からなかった。どこにそんな力が残っていたのかも彼女には分からなかった。
だが、彼女を突き動かす一つの意志は、確固とした形を保ったまま精神に残留していた。
彼女は、呟くように言った。
「……行かなければ」
決して、組織への忠誠心ゆえではない。任務への情熱でもない。ただ、生存本能にも似た、先へ行かなければという意志だけが彼女の中にあった。
それが、彼女の萎えてしまった筋肉を無理やり動かした。そのしなやかな両脚に力が入った。軽やかに跳躍すると、バナーヌは暴走する馬車の
魔物が驚きの声をあげた。
「ブヒィイイイッ!?」
バナーヌの隣には、白銀色のボコブリンがいた。魔物は鞭で滅茶苦茶に馬を殴りつけていた。
バナーヌはその顔面へ、ほぼ反射的に正拳突きを放った。拳が魔物の顔にめり込んだ。
☆☆☆
「ぴぎゃーー!!」
「ルージュ様!?」
しまった! ビューラの心中を駆け巡ったのは、嵐のような後悔だった。そして次の瞬間には、その手に持っている両手剣を新手のイーガ団に破壊されていた。
だが、砂漠の至宝たるビューラは、肉体と同じく精神をコントロールする能力にも長けていた。優れた戦士といえども、感情に全身を支配されてしまうことはある。重要なのは、その支配からいち早く脱することだ。
彼女の後悔は半秒だけだった。ビューラは目前のイーガ団へ蹴りを放つと、躊躇することなく背を向けて、大地を砕かんばかりに地面を力一杯蹴ってルージュの馬車へ駆けた。
魔物が盛んに
「ブヒッ、ブヒヒッ! ブヒィイイ!!」
馬車の
ビューラは瞬時に状況を観察した。窓ガラスは割れているが、扉は開かれていなかった。
無事であってくれという切実な思いを込めて、ビューラは主の名を叫んだ。
「ルージュ様、ルージュ様!」
怯えた声が馬車の中から聞こえた。
「ビューラ!? 助けて、魔物が!!」
ギリギリだが、なんとかご無事のようだ! ビューラがホッとしたのもつかの間だった。魔物が声をあげた。
「ブヒ!」
ビューラと白銀ボコブリンの目が合った。魔物は、ニヤリと笑った。ピシッと鞭を馬に当てると、魔物は馬車を急発進させた。馬車は、周りを守って取り囲んでいた護衛の四輪馬車や二輪の小型戦車に衝突し、跳ね飛ばし、バリバリと音を立てて踏み潰した。
暴走が始まった。金色の巨大な馬車が猛スピードでビューラへ迫った。
「チィッ!!」
彼女は素早い身のこなしで脇へ跳び、ギリギリのところで暴走馬車を回避した。
だが、ビューラの後から追いかけて来た女兵士たちはそうはいかなかった。まさか馬車が突っ込んでくるとは彼女たちは思わなかった。
「きゃああああ!」
「ぐわぁっ!」
「うわあああああ!」
咄嗟に避けることができなかった女兵士たちは、あるいは跳ね飛ばされ、あるいは轢かれた。その光景を見たビューラは毒づいた。
「畜生!」
あの白銀ボコブリンは、間違いなく例の「三本角」だ。ビューラはそう思った。つい最近、ランジェたちが確かに討伐したはずだが。なぜ生きているのかは分からないが、やつは明らかに人間に強い敵意を抱いている。明確な復讐心を抱いている!
グズグズしてはいられない。ビューラは、無事だった戦車に目をつけると、手近な女兵士へと声を掛けた。
「追いかけるぞ、コーム! お前が操縦しろ!」
女兵士コームは元気良く答えた。
「はいっ!」
ビューラは身を躍らせて戦車に乗り込んだ。操縦台に立つ女兵士コームが鞭を振るった。馬が嘶いた。熟練の手綱捌きのもと、戦車はガラガラと轟音を立てて暴走馬車を猛然と追いかけ始めた。
ビューラの視線の先で、馬車がゴロン三兄弟を弾き飛ばした。
「ゴロぉおおおっ!?」
「ぐべらっ!?」
「ボクたち、これで退場ゴロ……」
馬車は勢いを弱めることなく、次の目標を二人のイーガ団に定めて突進した。新手のイーガ団の方は避けたが、半裸の女イーガ団はユラリと立ち上がったあとはピクリとも動かず、ぼんやりと迫る馬車を見ていた。このまま轢き殺されるのか?
次に起こったことを目にして、ビューラは思わず声を漏らした。
「なにっ!?」
女のイーガ団は、華麗な跳躍で馬車に飛び乗った。そして間髪を入れず、ボコブリンへ向かって正拳突きを放った。
突然、顔面に衝撃を受けて、魔物の滅茶苦茶な操縦がさらに乱れた。馬車はグルリと進路を変えると、今度は南へと道を進み始めた。
馬車は猛烈な速度で砂煙を巻き上げて
戦車は徐々に馬車との距離を詰め、ついに並走するところまで追いついた。
三本角とイーガ団は、激しく揺れる狭い
飛び移ったイーガ団の意図は分からなかった。だが、これは好機だ。ビューラはあらん限りの声で馬車のキャビンへ呼びかけた。
「ルージュ様! ルージュ様!」
答える声があった。
「ビューラ!」
ルージュが窓から顔を覗かせた。ルージュの表情は青褪め、大きな目は不安げにビューラを見つめていた。その両腕は潰さんばかりにぬいぐるみを抱き締めていた。
主の姿を見て、ビューラの胸は張り裂けそうだった。彼女は叫んだ。
「遅くなりました、今、お助けいたします! おい、コーム! もう少しだけ寄せろ!」
コームは訊き返した。
「えっ、なんですって!? 寄せるって、どういうことですか!?」
ビューラは言った。
「先に敵を排除する! 馬車にもっと寄せろ! そうでないと敵を討てない!」
得心がいったコームは答えた。
「了解!」
馬一頭分の距離をあけて、馬車と戦車は並走していた。ビューラは戦車に積まれていたゲルドの弓を手に取り、構えた。激しく振動する戦車の上から、同じように激しく揺れる馬車へと、彼女は正確に狙いをつけた。
必中の信念と共に、ビューラは矢を放った。ビュンっと弦が鳴った。彼女は、こちらに背を向けているイーガ団から先に撃ち落とすつもりだった。しかし矢はその肩を掠めて、白銀ボコブリンの
「ブヒィイイイッ!!」
ビューラは呪いの言葉を吐いた。
「サヴォーテン! 畜生めっ!」
放たれた矢は魔物の頭蓋を貫通しなかった。矢は真ん中の折れた角に当たって、その勢いを殺されたのだった。
矢を受けて怒り狂ったボコブリンは、鞭を取り上げると滅茶苦茶に振り回した。鞭が馬に当たった。馬の皮が裂け肉が弾け飛び、真っ赤な血が噴出した。馬は激痛に狂い嘶き、身を
仲間のあまりの痛がりように、他の三頭は動揺した。その動揺は馬車全体に伝わり、唐突にその進路を右方向へと転じさせた。そこには並走している戦車がいた。
突如として巨大な馬車が眼前に迫り、ビューラは声をあげた。
「何っ!」
コームも咄嗟に声を発した。
「危ない!」
戦車を操るコームは咄嗟に避けようとしたが、戦車はあまり操縦性の良い乗り物ではなかった。避けきれず、戦車は馬車の右側面にけたたましい音を立てて、浅い角度で衝突した。
嫌な音を立てて、戦車の左輪が脱輪した。コームが悲鳴を上げた。
「きゃあああっ!!」
ビューラも無念の雄叫びを上げた。
「ぐぉおおっ!!」
片方の車輪を失った戦車はもんどり打って横転した。ビューラとコームは車体から投げ出され、宙を舞った。
☆☆☆
「ビューラ! コーム!」
悲痛の念がルージュの胸を貫いた。助けようと追いかけて来てくれた戦車が無惨に横転し、みるみるうちに遠ざかっていった。
ルージュの目から涙がこぼれそうになった。ここまで、あっという間の出来事だった。目の前で
すまない、兵士たちよ! すまない、ビューラよ! わらわのせいで取り返しのつかないことになってしまった! すべてわらわの責任だ! 強い後悔と深い絶望がルージュの心を満たしていた。彼女は声をあげて泣いた。
だが、彼女の嘆きが頂点に達しようとした、その時であった。ルージュの柔らかで優しい精神が、突如として確かな変容をきたした。砂糖菓子のように脆く甘い心の外殻が、強すぎる衝撃で粉々に砕けたと思われたその次の瞬間には、真昼の太陽のように赤く光る熱い内核が姿を現していた。
それは、強い怒りだった。
それは、ビューラやチークや兵士たち、大切な人たちを踏み躙る、理不尽な暴力への怒りだった。それは、愛する母を奪い去ろうとする運命への怒りだった。いやそれはむしろ、自分の心を傷つけた憎き敵どもへの、純粋なる強い怒りだった。
生れて初めて、ルージュは怒っていた。
「おのれ……!」
ルージュは馭者台を見た。小さい窓からは、三本角の白銀ボコブリンと、大きな胸を曝け出した金髪の女が、激しい殴り合いを続けていた。
ルージュの口から、低い声が漏れた。
「お前たちの……お前たちのせいで……」
溶岩の奔流のような膨大な熱量が、ルージュの体の深奥で生み出された。熱は魔力を生み、魔力は新緑色の雷電となった。バチバチと音を立てて、小さな彼女の体が帯電した。電気でソファーが焦げ、独特の臭いを発した。
右手を上げると、ルージュは人差し指を馭者台へ向けた。
抑えられぬ強い怒りのままに、ルージュは緑の雷電を放った。彼女は叫んだ。
「思い知れぇっ!!」
☆☆☆
突如として馬車の中から放たれた激しい電流は、御者台の白銀ボコブリンとバナーヌを飲み込んだ。
その余波は、狂奔する四頭の白馬たちにも及んだ。馬たちは電撃でその身を硬直させると、一斉に転倒した。
巨大な馬車は、砂塵を巻き上げて横転した。
☆☆☆
これは、なんだ。
バナーヌは宙を舞っていた。彼女の全身が痺れていた。元から朦朧としていた彼女の意識は、さらに希薄なものとなっていった。
砂漠のリザルフォスやエレキースのものとは比べ物にならないほどの、力強くて清らかな電撃だった。それに刺激されて、バナーヌの脳内のスクリーンに、ある光景が映し出された。
奇妙なほどに懐かしいが、しかし見覚えのない光景だと、彼女には感じられた。
一人の少年が、いや少年にさえまだ届かない、小さな小さな男の子が、リンゴのように赤い頬をして、ふうふうと
少年を励ます、誰かの声がした。
「頑張って……良い子だから……きっと大丈夫……あなたは強い子……」
優しい声だった。それに励まされたのか、男の子はうっすらと目を開けると、こちらを見つめてにっこりと笑った。
「目が覚めたのね。本当に良かった……」
男の子の頭へ、手が伸びた。手は、柔らかな蜂蜜色の髪をかき混ぜるように、しかし愛しげに男の子の頭を撫でた。また声がした。
「お腹減った?」
男の子は頷いた。
「バナナの果実煮込み、食べる?」
男の子は首を左右に振った。
「じゃあ、あげバナナ食べる?」
男の子は首を左右に振った。
その光景を見ているバナーヌは、
女性の優しい笑い声が聞こえた。
「もう! バナナを食べなきゃ元気にならないでしょ、ふふふ……」
突然、その光景は、ぐにゃりと溶けた飴細工のように湾曲した。光景の輪郭はぐにゃぐにゃとだらしなく変形し、グルグルと勢いをつけて回転し始めた。そして、いつの間にか現れた暗闇の中へ、光景は次第に呑み込まれていった。
「うぇ」
バナーヌの意識は、チカチカと明と暗の世界を行き来していた。彼女はあまり良い気分ではなかった。彼女は頭痛がしたし、吐き気もした。
気づいた時には、バナーヌは乾いた地面に座り込んでいた。いつ抜いたのか、その右手には折れた首刈り刀が握られていた。
彼女の目の前には、金色の馬車が横転していた。白馬たちが泡を吹いて白目を剥いていた。
「ブ、ブヒ……」
そして、左足を引き摺りながら、じりじりと歩みを進める白銀ボコブリンがいた。その歩く先には、赤い髪をした褐色の肌の女の子が、仰向けに倒れていた。
なぜか、バナーヌの中で、その女の子と寝台のあの男の子のイメージが重なった。
守らねばならない。バナーヌは立ち上がった。
バナーヌは魔物の背後へ近づくと、その頭頂部へ折れた刀を力一杯振り下ろした。
☆☆☆
「ルージュ様、ルージュ様! どうか、どうか目をお覚ましください、ルージュ様、どうか……」
泣き出しそうな声を聞いて、ルージュの意識は覚醒へと導かれた。彼女が目を開けると、そこにはビューラの顔があった。今まで見たこともないほどに不安そうな表情をビューラは浮かべていた。
僅かな光にも眩しげに大きな目を瞬かせて、弱々しくルージュは答えた。
「ビューラ……」
主の声を聞いた瞬間、ビューラは男泣きに、いや女泣きに泣いた。彼女は無様に泣き崩れた。
「おお、おお……ルージュ様、ルージュ様……」
ルージュは優しく言った。
「どうしたビューラ、なぜ泣くのだ。ゲルドの至宝たるお前が泣くなど……」
ビューラは泣き続けた。
「お許しください……どうか、お許しください……」
しばらく、室内にはビューラの嗚咽だけが聞こえていた。ルージュは、その頭を優しく撫でてやった。やがて、彼女は言った。
「さて、泣くのはもう良いだろう、ビューラ。これまでのことを報告してくれ」
ビューラは答えた。
「はっ!」
ビューラは語り始めた。ここはゲルドキャニオン馬宿であること。戦車が横転したあと、すぐに馬車を追いかけたこと。眩い閃光が見えたこと。大急ぎで駆けつけると、黒ずんで風化しつつある魔物の死骸があり、その
そこまで聞いてから、ルージュははっと気が付いて、慌てたように言った。
「いや、わらわのことなどどうでも良いのだ。皆はどうなった? 怪我人は? チークはどうした? まさか、死者が出たのではあるまいな……?」
胸を締め付けるような想像に、ルージュは顔を歪ませた。
ビューラは答えた。
「ご安心ください、ルージュ様。奇跡的に誰も死にませんでした」
チークはイーガ団に不意をつかれて気絶させられたが、ほどなくして意識を取り戻したという。暴走した馬車に轢かれた者は九名で、いずれも重傷だった。そのうち三名は数カ月間寝台の上での生活を余儀なくされるであろうが、命に別状はないという。
ルージュは言った。
「コームはどうなった。お前の戦車を操縦していたコームは?」
ビューラは目を伏せた。
「右足を折りました。後遺症が残るかもしれません」
コームはスナザラシラリーの名手だった。だが、足を折ってしまっては現役引退となるかもしれない。惜しいことをした、とルージュは嘆息した。
ビューラは続けて、重傷者以外にもほとんどの者が軽い傷を負ったが、誰も休むことなくみなルージュの回復を願って祈り続けている、と言った。
ルージュは身を起こそうとした。
「それでは早速起きて『ルージュ健在なり』ということを皆に知らせてやらねば……」
ビューラはそれを抑えた。
「なりませぬ! まだお目覚めになられたばかり、どうかそのままでお休みになられますよう」
訊くべきことはまだ残っていた。それはイーガ団のことだった。ルージュは強いて自分を寝かせようとするビューラに尋ねた。
「イーガ団はどうした。捕らえたか」
ビューラは苦渋に満ちた声で答えた。
「申し訳ございません。逃しました」
一度は追い詰めたが、救援が出現した。その新手は見事な剣の使い手で、ビューラの両手剣を叩き折った。馬車に飛び乗った女のイーガ団の行方も掴めないという。
ルージュは小さく嘆息した。
「手がかりを失ったか」
ビューラは答えた。
「申し訳ございませぬ。このうえは……」
ルージュはビューラの言葉が終わるのを待たずに言った。
「良い。イーガ団は逃げおおせ、その一方で我らは多くの勇士が傷ついた。
ビューラは頭をさげた。
「はっ!」
それに、何も成果がなかったわけではない。ルージュは右手の指先を見つめた。
あの時のあの一撃、体を駆け巡る新たな力の奔流、目にも鮮やかな雷電の輝き……
確かに自分は、この旅で成長したのだと思う。
「母様も、喜んで下さるだろうか」
そう呟くルージュの顔は、窓から優しく射し込む月光に照らされて、美しく輝いていた。
☆☆☆
そこはゲルドキャニオンの崖上のどこかだった。日は既に地平線へと没していた。冷たい月が淡い光線を放っていた。
バナーヌは、胸のさらしをキツく巻き直した。
「これでよし」
気合を入れるように、彼女はパンッと胸を軽く叩いた。両手剣で殴られた脇腹には携行していた薬を塗り、さらしをキツく巻いておいた。頭には大きなタンコブができているが、たぶん一晩も経てば小さくなるだろう。
彼女は忍びスーツを身につけた。仮面は真っ二つにされて、もはや役に立たなかった。彼女は紺色の手拭いで覆面をした。ないよりはマシだろう。手拭いには白いバナナの模様が染められていた。
彼女は呟いた。
「急がなければ」
だいぶ寄り道をしてしまった。平原外れの馬宿へ急がなければならない。
「あっ」
そういえば、ドゥランは無事に逃げられただろうか? バナーヌはそう思った。絶体絶命のあの瞬間、彼が助けてくれなければ自分は囚われの身となり、今頃は
冷たい夜風に吹かれて、彼女のツルギバナナのような金髪のポニーテールがふさふさと揺れた。
先鋭なシルエットが動き出した。バナーヌは、音も立てずに駆け出していた。
彼女の次なる目的地は、デグドの吊り橋だった。
明日になったら、バナナ食べようよ!
※加筆修正しました。(2023/05/06/土)