ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

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第十四話 取引

 中央ハイラル地方の南西部に、その湖はあった。名前は特になかった。周辺住民は「あの湖」とか、「デグドの吊り橋の湖」などと呼んでいた。湖には北からヒメガミ川、東から黄泉の川が滝となって流れ込んでいた。湖は豊富な水量を(たた)えていた。

 

 その地形的特徴として第一に、大小七つの浮き島が挙げられる。いずれも湖面から高く聳え立っており、根本から上部にかけてくびれた形をしている。上部はまるで水平に切ったように平たい。浮島は一種の奇観を呈していた。

 

 これらの浮島に合計六本の木製の吊り橋が掛かっている。これがデグドの吊り橋である。デグドという名前の由来はよく分かっていない。設計者の名前からだとか、いや建設当時の大臣の名前だとか、そうではない、吊り橋の設計様式から取ったのだとか、諸説紛々(ふんぷん)であった。そしてその真偽を確かめる(すべ)はもうない。

 

 もう一つの特徴は、湖岸がほぼ存在しないことである。北東に細長い小さな浜があるだけで、他に舟をつけられる場所はない。周囲は切り立った崖に囲まれている。さながら底の深い洗濯桶のようだった。つまり、一度湖に落ちたら這い上がるのが非常に難しい。

 

 ハイラルの水瓶と呼ばれるハイリア湖や、周辺五湖と合わせて広大な面積を誇るフィローネのフロリア湖と比較すれば、この湖の規模は微々たるものであるが、それでも、ハイリア人にとっての馴染み深さという点では決して劣っていない。

 

 中央ハイラルとゲルド地方のちょうど中間地点に当たるこの湖は、古くから景勝地として知られていた。溜池のような地形でありながらも、二本の川から常に新鮮な水が流れ込むことで、その水面は澱むことがない。水草が豊富に繁茂し、様々な川魚が群れを作って泳ぐ。シラホシガモは睦まじく体を浮かべ、魚を狙うアオバサギ、モモイロサギは慎重な足運びをして、意地悪く目を光らせている。上空には空の覇者たるシマオタカがヒョロヒョロと鳴き声を上げて悠然と飛翔する。浮島には色とりどりの草花が生えていて、その間を虫たちがブンブンと羽音を立てて乱舞する。画家や詩人たちはしばしばこの湖へ足を伸ばし、のびのびと創作に励んだものだった。

 

 だが、この湖にまつわる歴史は、やや暗い。これからゲルドキャニオンへ挑もうというハイリア人にとって、この湖は最後の「自然豊かな」地であった。ここはちょうど、緑豊かな中央ハイラルと、黄色の埃にまみれたゲルド地方の中間地点である。桟道(さんどう)建設の出稼ぎ労働者たちや遠征軍の兵士たちは、もう二度と戻っては来れないかもしれないという寂しい感慨を持って湖を渡った。

 

 不思議とも、悲惨とも言えるエピソードがある。それは、第四次イーガ団討伐軍が派遣された時のことであった。一人の変わった将軍がいた。将軍はアッカレ地方の寒村の出身で、十二人兄弟の末っ子だった。両親から愛されず、口減らしとして軍隊に送られた彼は、幼い頃から輜重隊(しちょうたい)の一員として馬糞にまみれて働き、あるいは労務者として石材や土嚢を運んだりして苦労を重ねた。

 

 こんな人間は当時のハイラルには幾らでもいたのだが、彼は少し違った。伝承によれば、彼がとある地方の沼地埋め立てに駆り出されていたある日のこと、奇妙な石像がその地で掘り出されたという。それは二本の角と一対の翼を持つ、黒い石像だった。現場監督は、そんな気味の悪い石像はさっさとぶっ壊してしまえと命令し、彼も唯々諾々とそれに従った。

 

 だが、つるはしを振り下ろす寸前、彼に不思議な声が聞こえたという。

 

「俺とひとつ、取引をしないか。命と力を司る俺とな……」

 

 彼は、それ以来変わった。今まで軽々と運んでいた大樽や石材を、彼は持てなくなった。ダッシュすれば、彼はすぐに息切れしてしまった。崖登りをしても、彼はズルズルと滑り落ちてしまった。仲間たちは病気を疑った。だが、彼はせせら笑ってこう答えたという。

 

「俺はな、がんばりの代わりに絶対に死なない体を手に入れたのさ。俺は無敵になったんだ」

 

 無論、彼は正気を疑われた。だが、ほどなくして彼の言葉が本当であることが戦場で証明された。彼は死ななかった。彼はがんばりがきかない代わりに異常に打たれ強くなった。仲間がバタバタと屍を重ねる過酷な戦場でも、彼はしぶとく生存し続けた。あらゆる戦場に顔を出し、必ず生還することから、彼は「不死身」とも「死神」とも呼ばれた。

 

 ついに将軍へとのぼり詰めた時、新聞記者のインタビューに対して彼はこう答えたといわれている。

 

「生き残る秘訣だって? 売って百、買うのに百二十、差し引きたったの二十ルピーの取引さ」

 

 意味不明な回答に記者は首を傾げたが、おそらく戦場での命のやり取りについて諧謔を込めて語ったものであろうと解釈した。

 

 彼は第四次イーガ団討伐軍の大将を命じられた。その打たれ強さと幸運を買われてのことだった。なまじ才のある人間よりも、しぶとい人間を大将とすべし! それがたとえ死神であっても! 当時の王の直々の指名だったと伝えられている。

 

 そんな彼が立派な白馬に跨り、デグドの吊り橋に差し掛かった時であった。ちょうど朝日が顔を出し、水面をキラキラと輝かせていた。(もや)が晴れ、爽やかな風が吹き抜けた。美しく、幻想的な光景がいたく彼の胸を打ったようだった。

 

 振り返りつつ、彼は部下にこう言ったという。

 

「女神ハイリアなど信じたことはないが、この光景を見ると少しだけ信心深くなる気がするな」

 

 彼がこう口にした瞬間、吊り橋が突然崩壊した。多数の随員と共に、彼はあっという間に湖へ落ちていった。懸命な捜索にも関わらず、その死体はついに浮かび上がらなかったという。

 

 

☆☆☆

 

 

 仄暗い夜空と冷たい大気だった。忍び寄る雲が、キラキラと輝く星々と、明るい月を徐々に隠そうとしていた。

 

 ズキズキと、頭のタンコブが痛んでいた。ジリジリと、殴られた脇腹が熱を持っていた。低気圧が接近しているのだろうか。直に雨が降るかもしれない。金髪のポニーテールをふさふさと揺らして走りながら、バナーヌはそう思った。

 

 彼女がデグドの吊り橋に到着したのは、夜明けまであと三時間ほどの時だった。彼女がゲルドキャニオンで落石を撤去し、直後にゲルド族の精鋭たちと死闘を繰り広げ、辛くも虎口を脱してから、まだ一日と時間は経っていなかった。

 

 あれから駆け通しだった。幸い、あれ以降敵らしい敵には遭遇していない。いつもならば小規模なボコブリンの拠点を襲撃し、矢と武器、場合によっては固くて臭い焼きケモノ肉を分捕るのだが、今はそんな場合ではなかった。バナーヌは脇目も振らずゲルドキャニオン本道を疾走した。

 

 その甲斐あってか、彼女はゲルドキャニオン後半をすんなりと抜けることができた。だが、立ち止まって休むことはまだ彼女には許されなかった。彼女はデグドの吊り橋の状況を確認しなければならなかった。

 

 孤影が走り、跳んだ。疲れた体に鞭打って、バナーヌは南から北へ、六本の橋を丹念に見て回った。あのゲルド族の大車列が通ったはずであるから、どこかに負荷が掛かって壊れかけている、なんてことがあるかもしれない。念には念を入れておかなければ。大厄災以来ロクに整備されていない古い橋だから、たまに橋板が欠けていることもある。それに魔物共が、どういう目的かは分からないが、綱に切れ込みを入れていることもある。前に一度あったきりだが、火薬樽が仕掛けられていたこともある。魔物にとって吊り橋という存在は、とかくイタズラ心を呼び起こす存在らしい。人間にとってはたまったものではないが……

 

 バナーヌはたいまつを使わなかった。すべて頼りない月明かりの下で、彼女は目視で確認をした。訓練されたイーガ団員の夜目はフクロウのように鋭いため、照明など必要ではない。それに、そもそも彼女はたいまつを持っていなかった。

 

 やがて、彼女は言った。

 

「……ここも問題なし」

 

 バナーヌは最後の橋を見終わった。どれも問題はなかった。それどころか、重要部は新しい部材で補強されてさえいた。どうやら、つい最近になって誰かの手が入ったようだった。平原外れの馬宿がやったのだろうか? これならガッチムッチなゴロン族百人がガッチりと隊列を組んでムッチムッチと大行進をしても大丈夫だろう。

 

 あとは平原外れの馬宿に行って、フィローネ支部からやってくる輸送馬車と待ち合わせるだけだった。

 

 一仕事を終えたバナーヌは、誰に言うでもなく呟いた。

 

「……疲れた」

 

 誤魔化しようのない疲労感が彼女を襲っていた。何しろ、ここまで休みなしだった。食事はロクにとっていないし、仮眠も取っていない。傷は痛むし、体は埃と血で汚れている。

 

 バナーヌは、パシリのプロである。それは完璧にパシリをこなすという意味ではない。極力サボりつつ、要求されたことだけこなすという意味である。身も心も組織に捧げている人間ならば、このまま真っ直ぐに平原外れの馬宿へ向かい、万全の態勢を整えて輸送馬車を待ち受けるだろう。それどころか、自分から迎えに行くことまでするだろう。だが、そこまでバナーヌは「出来た」イーガ団員ではない。プロとは、休み上手を意味する。私はプロだから休む。彼女はそう考えていた。

 

 だから、バナーヌは、休憩に入ることにした。ちょうど、デグドの吊り橋には人目につかずに休むのにうってつけの場所があった。彼女は吊り橋を渡り、湖の真ん中に浮かぶ一際大きな浮島へ向かった。

 

 ここの下には祠があった。それは例の、古代シーカー族が作ったというあの祠だった。そこは吊り橋の上からは死角になっており、かつ一度下に降りると容易に上には戻れないため、一般人は絶対に寄り付かない場所だった。ゲルドキャニオン馬宿ではピルエとかいうゴーゴーダケジャンキーに裸を見られるという不幸があったが、ここならば大丈夫だろう。バナーヌはそう思った。あそこもここと同じく祠の近くではあったが……

 

 バナーヌはスルスルと浮島の側面を降りると、難なく祠へと辿り着いた。彼女はポーチから包みを取り出すと、残っていた食料をすべて食べた。食べ物は焼きトリ肉と、ビリビリフルーツだった。肉の脂と果実の甘みが彼女に活力を与えた。

 

 バナーヌは、食事をしながらノチのことを思い出していた。この時間帯ならば、彼女はぐっすりと寝ているだろう。ノチは体が弱く運動神経も鈍いため、矢玉が飛び交う前線には出されないが、それでも日中は掃除炊事洗濯とあらゆる仕事にかかり切りだ。自分よりもよほど働き者であるとバナーヌは思っている。

 

 食事を終えたら? 当然、水浴びだ。バナーヌは身に着けているものを全てさっと脱いでしまった。拘束を逃れた豊満な胸部が惜しげもなく外気に晒された。起伏に富んだ白い裸体が闇に浮かび上がった。彼女は軽く伸びをすると、湖に勢いよく飛び込んだ。もちろん、彼女は武器を手放さなかった。その手には疾風のブーメランを持っていた。

 

 闇夜に水泳などまったく命知らずな行為であるが、バナーヌはこれが好きだった。疲労した時こそ運動を! へブラ地方の人間の格言だという。どんなに疲労していても、彼らはスキーや盾サーフィンを一日一回は必ずやるとか。一理あると彼女は思っている。運動後にバナナがあればなお良いが、ないものねだりはできない。コポコポという水泡の音を楽しみながら、彼女は両腕を胸の前で掻き、両足を後方に蹴り出した。まるでガッツガエルになったようだった。

 

 冷たい水がバナーヌに癒しと再生の力を与えた。埃と汗に塗れた肉体は泳げば泳ぐだけ白く輝き、くすんでいた金髪は豊かに流れる金糸のごとき美しさを取り戻した。

 

 水音を立てて、バナーヌは祠の近くに上がった。いつの間にか、しとしとと雨が降っていた。彼女の全身から水が滴り落ちた。その白い肌には濡れた金髪が張り付いていた。豊かな胸部を揺らして、彼女は体を拭いた。久しぶりに思う存分水浴びができた、と彼女は満足した。

 

 突然、バナーヌの足元に何かが飛んできて、ドカッと音を立てて砕け散った。それは、人の頭よりも大きい岩だった。彼女は即座に二連弓を手に持って戦闘態勢を取ると同時に、岩が飛んできた方向を確認した。

 

 雨雲のせいでさらに弱々しくなった月光の薄明かりの中に、そいつは黄色い双眼をギョロつかせていた。擬態用の草を一筋生やした、ブヨブヨと膨らんだ青い頭部があった。虚ろな口、折り畳まれた触手……それらから明らかなように、それはタコの魔物、水オクタであった。

 

 バナーヌは、ホッとした。運が良かった! やはり疲労が溜まって、思考力が落ちていたようだ。水辺に来た時にはまず水オクタを警戒すべきだというのに、そのことがまったく頭から抜け落ちていた。暢気(のんき)に全裸になって水泳を楽しんでしまったが、もしその最中を襲われていたら大変なことになっていた。イーガ団員としてあるまじき緊張感のなさであった。

 

 そんなことを考えていたら、二発目が飛来していた。バナーヌは最小限の動きで回避したが、祠の硬い壁面に着弾した岩は、細かい石片となって彼女の体に降り注いだ。鬱陶しいことこの上ない。

 

 水オクタは非常に射撃能力に長けた魔物である。水の中に潜伏し、岸を行く者や舟で行く者が近づくと、突如水面上に姿を現し、奇襲的に岩を放つ。その射程は長く、一度捕捉されれば被弾せずに離脱することは困難である。吐き出される岩には、人の骨の一本や二本を難なく圧し折る威力がある。

 

 そして、水オクタの一番厄介なところと言われるのは、その偏差射撃能力である。大きな目玉で目標の動きを完全に先読みし、たとえ全力で回避運動をしたとしても、正確な射弾を容赦なく送り込んでくる。

 

 だが、バナーヌは慌てなかった。彼女は弓を構え、水オクタが三発目を撃ってくるのを待った。彼女はギリギリまで動かなかった。彼女は矢を(つが)え引き絞り、澄んだサファイア色の瞳に殺気を漲らせて水オクタを見据えた。

 

 水オクタは浮上すると同時に三発目を放った。そして直後にまた潜行した。だが、そこで魔物の命運は尽きた。潜った直後、そのギョロついた二つの目玉に一本ずつ矢が突き刺さっていた。水オクタの最後に放った三発目は惜しくもバナーヌの頭を掠め、またもや祠の壁面に当たって空しく砕け散った。

 

 水オクタが偏差射撃をするのならば、人間もまた偏差射撃をすれば良い。岩を吐き出した直後に水オクタは潜行する。ならば、発射音と同時に水中へ向けて矢を放てば良いだけだ。水オクタは深く潜行しないため、矢は水によって威力が減衰する前に目標に到達するというわけだった。

 

 醜い叫び声と爆発音を立てて水オクタは爆発四散した。ボチャボチャと残骸が水面に落下した。せっかくだからと考えて、バナーヌはそれらを回収することにした。手に入れたものは、オクタの足、オクタの目玉、そして、オクタ風船が二個だった。

 

 バナーヌは下着を履き、さらしを巻き、忍び装束を着て装備を身に着けると、祠の影で横になった。夜明けまで、あと少しだった。空はどんよりと暗かった。雨はまだまだ降り続いていた。雨音の他、音は何もしなかった。水泳のおかげで、彼女の体は温まっていた。

 

 彼女はオクタの足を引っ張ったり縮めたりしてもてあそんだ。指に吸盤がくっついた。これが、バナナだったら良かったのに。バナーヌはそう思った。バナナはゲルドキャニオン馬宿で食べたきりだ。しかも粗悪極まるものを。あれは酷かった。人生最後のバナナがあんなものになった可能性だってあった。ああ、ノチの作ってくれたあげバナナが恋しい。それだけではない、バナナの煮込み果実も恋しい。バナナのハチミツ果実も良い。いや、シンプルに、ただのバナナが恋しい。冷えたバナナシェイクも飲みたい。ああ、バナナ。ああ、バナナ……

 

 本当はそろそろ休憩を打ち切って、平原外れの馬宿へ向かわねばならない。だが、バナーヌは睡眠という甘い誘惑に負けた。彼女は瞼をそっと閉じて、まどろみを楽しんだ。その長い睫毛(まつげ)には細かい水滴がついていた。せめてバナナの夢を見たい。山盛りのバナナをパクつく夢を……

 

 仕事に取り掛かる前の刹那の睡眠、なぜこの睡眠は何にも増して甘美なのであろうか。

 

 ぼんやりとした意識の中で、音がした。浮島の上の方から声がした。男の声が三人に、女みたいな男の声が一人だった。何かおしゃべりをしているようだった。一人が突然、何か叫んだ。駆け出していく足音がした。追う声がし、「あっ」と叫ぶ声がし、崖をズルズルと何かが滑る音がした。そして、大きな着水音が響いた。

 

 何かが起こっている。バナーヌはすでに覚醒していた。彼女は油断なく二連弓を構え、耳をウサギのようにそば立たせて、祠の影から様子を窺った。

 

 何かが祠の建っている陸地に這い上がって来た。人間の男だった。男はヨロヨロと立ち上がり、力なく(そで)を絞っていた。男は風采の上がらない風貌だった。その髪型はマックストリュフのようだった。年齢は、ほんのちょっと老いているくらいだろうか? 若くはない。男は青い半纏を着ていて、腰にはゲンノウを差していた。

 

 上から二人の男の声が響いてきた。

 

「おーい! エノキダ! エノキダ! 生きてる!? 生きてるなら返事をしてェ!! エノキダー!!」

「エノキダさーん! エノキダさーん! 返事をしてくださいっス! エノキダさーん!」

 

 男も負けじと声を張り上げた。

 

「おーい、おーい! ここだ! ここだ! おーい!」

 

 上と下でしばらく呼び交わしていたが、そのうち上からの声がしなくなった。

 

「おーい、おーい……むぅ……」

 

 男は諦めたように座り込んだ。彼は足を労るように撫でていた。どうやら怪我をしているようだった。

 

「足は……折れていないな……」

 

 彼は力なく雨の降る空を見上げていた。

 

「俺としたことが……とんだことになった」

 

 どうやら、なんらかの事情で上から滑落してきたらしい。放っておいても害はないだろうが……バナーヌとしては、このまま捨て置くこともできなかった。この時間帯、この場所に、この天候の下で、三人(ないしは四人)で来ること自体が普通ではない。調べるだけ調べ、吐かせるだけ吐かせたら、当て身でも食らわせて寝かせておこう。バナーヌはそう決めた。

 

 音もなく背後に近づくと、バナーヌは弓矢を構え、男の後頭部に(やじり)の先端を押し付けた。彼女は言った。

 

「動くな。動くと撃つ」

 

 男は、一瞬動揺したようだった。だが、神経が鈍いのか豪胆なのか、男は開き直ったように言った。

 

「分かった。動かない」

 

 バナーヌは尋問を開始した。

 

「質問に答えろ。名は?」

 

 男は答えた。

 

「エノキダ」

 

 バナーヌは言った。

 

「職業は?」

 

 エノキダと名乗る男は淡々と答えた。

 

「サクラダ工務店社員。大工だ」

 

 バナーヌはまた言った。

 

「なぜここに来た?」

 

 エノキダは短く答えた。

 

「棟梁に連れられて」

 

 バナーヌの脳内を疑問が埋め尽くした。なぜ大工? なぜここに、この時間帯に? 先ほどの叫び声や追う声は何だったのか?

 

 混乱する彼女の心境にお構いなしに、今度はエノキダの方が話しかけてきた。

 

「すまないが、一度武器を下ろしてくれないか」

 

 バナーヌは答えた。

 

「なぜだ?」

 

 エノキダは言った。

 

「サクラダ工務店社訓を実践しなければならない。頼む」

 

 意味が分からない。こんな緊迫した状況下で実践しなけばならないこととは何だろうか? そう思いつつも、彼女は言った。

 

「妙なことをすれば、撃つ」

 

 エノキダは言った。

 

「妙なことはしない。まあ、ちょっと見ろ」

 

 そう言うと彼は、独特な節回しの歌と妙な振り付けの踊りを始めた。彼はクソ真面目な顔をしながら、少し音痴な低い調子の歌声を披露した。

 

「新築 減築 解体 外構〜

 家の 事なら なんでも ございっ♪」

「その名も サクラダ

 DADADA サクラダ工務店〜」

「さくらだっ DADADA さくらだっ♪」

「フワフワ」

「シャキーン!」

 

 エノキダは最後にポーズを取った。直後、その足元に二本の矢が勢いよくブスリと突き刺さった。

 

「妙なことをすれば撃つと言ったはずだ」

 

 そう言うバナーヌに対して、エノキダは弁明をした。

 

「待ってくれ。サクラダ工務店社訓、『名刺代わりに歌と踊りで』を実践しただけだ。他意はない」

 

 その時、男が腰につけていた袋がベチャリと地面に落ちた。結び目が緩んでいたのだろう、袋の中から出てきたのは竹の皮に包まれた山菜おにぎりが四つに、それから……バナーヌは息を呑んだ。

 

「バナナ……!」

 

 暗闇にあって黄金のごとく輝く果実、ツルギバナナが一房こぼれ落ちていた。ひと目見ただけで彼女はそれと分かった。新鮮で、身が詰まっていて、甘くて栄養満点なバナナ、完璧なバナナだ、完璧なバナナだ! バナーヌは改めて息を呑んだ。

 

「バナナ……!」

 

 バナーヌの目はバナナに釘付けだった。綺麗なサファイアの瞳が心なしか輝いていた。

 

 その様子を見て、エノキダはチャンスと感じたようだった。どうやらこの野盗は、ずいぶんバナナに執心しているようだ。ならば、それにつけこむしかない。

 

「お前が何者かは知らないが、俺はこのとおり、ちょっと困っている。助けてくれないか?」

 

 バナーヌの目がさらに輝いた。それでも無表情は崩さなかった。バナーヌはエノキダと静かに会話を交わした。

 

「取引か」

 

 エノキダは頷いた。

 

「ああ、そうだ」

 

 バナーヌは言った。

 

「報酬は?」

 

 エノキダは少し考えてから言った。

 

「お前が俺を見逃す。それでバナナ一房。そして、俺が上に戻るのをお前が手助けする。それでバナナ二房。合計でバナナ三房、十五本のバナナだ」

 

 バナーヌは首を左右に振った。

 

「あと一房よこせ」

 

 エノキダは頷いた。

 

「それでは、バナナ二十本でどうだ?」

 

 バナーヌも頷いた。

 

「よし、いいだろう」

 

 交渉は妥結した。こんなに簡単にバナナが二十本も手に入るなどありえないことだった。奇跡的だった。降って湧いたバナナだった。バナナがバナナを背負ってやって来た。

 

 だが、どうやって男を上に戻すか? バナーヌは考えた。雨はしとしとと降り続いていた。時間的に夜明けは迎えたようだが、厚い雨雲に遮られていて辺りはまだ薄暗かった。この悪条件の下、怪我をした男がこの急峻な崖を()じ登るのは難しいだろう。ロープを何処(どこ)かから見つけてきて、上から引き上げるのが一番早いだろうが、この近場で長いロープを見つけ出すのは難しそうだった。

 

 その時、バナーヌの脳内に閃くものがあった。彼女はじっと男を見つめた。

 

 それは氷のような、怜悧さを秘めた美貌だった。サファイア色の美しい双眼が光っていた。女に、それも美しい女に見つめられることなど、今までの人生で一度もなかったエノキダはどぎまぎした。彼は言った。

 

「なんだ?」

 

 バナーヌは視線を逸らさず、澄んだ声で言った。

 

「服を脱げ」




 ハイラルにおけるチョコバナナ実現の可能性とは?

※加筆修正しました。(2023/05/06/土)
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