ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

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第二十話 乙女の祈り

 このハイラルの大地はあまりに強大で、残酷で、峻烈である。この世界が持つ圧倒的な偉力の前に、ちっぽけな人間はあまりにもなす術を知らない。

 

 例えば、美しい青天を黒く染める雷雨がある。それは順調な旅路のさなかに突如現れ、篠突く大粒の雨はさながら矢のごとく人を打つ。恐ろしい唸り声を伴った青白い雷はさながら巨人のナイフのごとく、熟練の木こりが一日かかって切り倒す大木を、わずか半秒の間に一撃で地面に倒れ伏せさせる。

 

 あるいは、穏やかな海岸に吹きすさぶ大風がある。それはカニや貝を楽しげに拾い集め、暢気(のんき)に釣り糸を垂れる漁師たちに牙を剥く。大風は彼らの目を潰し、彼らを吹き飛ばし、彼らの生気を奪い去る。大風は沖を行く小舟やイカダを木の葉のようにあしらい、弄び、転覆させる。

 

 もっとも恐ろしいのは火山である。地底の奥深く、年々蓄えられた膨大な熱と火は、ある日突然に大地を割ってドロドロと溢れ出す。その破壊的現出を前にして人間は、おろおろと逃げ惑い、泣き叫び、嘆き悲しみつつ住み慣れた故郷を捨てざるを得ない。

 

 数え上げればきりがない。ハイラルの人間が自然の暴威に蹂躙されることなど、ごく当たり前のことなのだ。

 

 いや、自然だけではない。人間の前には更なる脅威が立ちはだかっている。

 

 それは魔物である。魔物は森の主たるイノシシよりも凶暴で、臆病なシカのように俊敏で、おとなしいキツネのように狡猾である。手に手にこん棒やボコ槍を持ち、徒党を組むボコブリン、おおざっぱで大ぶりな武器を軽々と振り回すモリブリン、群れをなして夜空を乱舞するキース……魔物どもは躊躇なく人を襲い、命を奪い、まだ生温かい肉をガツガツと貪る。

 

 さらに、魔物よりも恐ろしいものがいる。それは無機質なる殺意の具現、すなわちガーディアンである。いまや辺境に逼塞している人間一般にとって、ガーディアンはさほど日常的な存在ではない。だが、血気に逸る冒険者や旅人たちの前に、ガーディアンはさながら死神のごとく降臨する。

 

 多脚単眼の歩行型ガーディアンはあらゆる地形を走破し、その速さは駿馬を凌駕する。翼無き飛行機械である飛行型ガーディアンは空からあらゆる獲物を探り出し、その目の鋭さはタカなど及びもつかない。

 

 暗い空、ぼやけた地平線、あの向こうには何があるのだろう? 丘を越え、先へ行こう。旅人は疲れて萎えた足を引きずり、希望に胸を躍らせ、息を弾ませて歩みを続ける。

 

 そこにぬっと、ガーディアンが現れる。はっとして、旅人は足を止める。その間にガーディアンは赤いポインターを走らせ、旅人の汗が滲んだひたいへ無慈悲に照準を合わせる。

 

 パウッ、と白い光が走る。一巻の終わりである。残されたのは何かの残骸だ。何事もなかったかのようにガーディアンは走り去ってゆく。暗い空から雨が降ってきて、惨劇の痕跡を洗い流す。

 

 あまりにもハイラルの大地は厳しい。世界は、暴君のごとく意のままに振舞っている。この中にあって人は、人智は、人間性は、無力にして無価値なのか?

 

 そうではない、決して人間は無力ではないのだ。貧弱な腕力で農具を振るい、大地の表皮をわずかに削って粗末な糧を得ていても、矮小な頭脳で知恵と技術を絞り出し、強大な自然に立ち向かった果てに打ち倒されても、人間は決して無力ではない。

 

 なぜなら、人間には祈りがあるからだ。

 

 信も正義も、そして愛すらも消え果てた今、天地に怨念と瘴気が渦巻くこの今も、祈りだけはまだ生き残っている。

 

 そう、確かに存在しているのだ!

 

 人は知らない。滅んだハイラル城で百年という長きにわたり、今もなお祈りを捧げる乙女がいることを、人は知らない。何もかもを失い、幾度もの絶望を味わいながら、乙女は毅然として立ち、清らかなる祈りを続けている。

 

 すべては、愛するもののために。彼女は祈る。やがて来る、光に満ちた世界を信じて、彼女は祈り続ける。

 

 人は知らない。その祈りこそ厄災を封じ込めていることを、人は知らない。その祈りこそ、破局的終末を迎えるはずだったハイラルの世界を百年という長きに渡り存続させていることを、人は知らない。

 

 しかし、ちょっと待ってくれという人もいるかもしれない。

 

 なるほど、世界と比べて人間はあまりに無力である。現に百年前、人間は一度滅亡する一歩手前まで追い込まれた。そんな事態を、ある乙女が聖なる祈りでギリギリ食い止めていると、まあ、あなたはそう言うわけですな。それでもって、あなたは人間には祈りがある、だから人間は決して無力無価値ではないと説くわけだが……でも、言わせてくれ。それは、その乙女がさながら神に選ばれたかのような格別に強い存在だからであって、そういう乙女が祈りをするから意味があるだけなのではないか? 普通の人間が普通の祈りをしたところで、魔物をやっつけられるわけではないし、自然が優しく微笑むわけでもない。一般的な人間にとって、祈りなんていうものは、一種の精神的な錯乱状態で、意味があるわけでも力があるわけでもない。だから、あなたの考えには同意し難い。結局人間は、みじめに這いつくばっているしかない存在ではないか……

 

 このような反論に、更なる反論で以て応じることは無益なことだろう。祈りの力を信じられぬ者に、更に言葉を尽くして祈りの力の偉大さを説いたところで、それはただ双方が双方なりの思想信条をぶつけ合っているだけで、とうてい議論にはならない。

 

 どうすれば良いのだろうか、頑なな人を納得させるには? 人が知能を得て言葉を使い始めて以来、頭を悩まし続けているこの問題は、容易に解決できない。

 

 だが「祈りが通じた」のだと確かに信じたくなるような出来事には、人は一生のうちに必ず出会う。どれだけ不幸で、どれだけ恵まれず、どれだけ打ちのめされている人であっても、「祈りによって自分は救われた」という瞬間は、もしくは「祈りによって大切な人を救いたい」と信じ願う瞬間は、必ず訪れるものなのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 カルサー谷のイーガ団アジト、その中の暗い一室で、ノチは一心に祈っていた。

 

 乾燥し、変化に乏しい気候のカルサー谷にしては珍しく、その日の天気は曇っていた。時刻は早朝を少し過ぎた頃であった。

 

 短い黒い髪、まだあどけなさを残した可愛らしい顔つき、歳は花盛りの十代中頃、そんな少女のノチは、部屋の真ん中に跪いていた。彼女は手のひらを合わせて、言葉も発さず一途に祈り続けていた。

 

 親友のバナーヌのことを、ノチは祈っていた。どうかバナーヌが無事に、元気で帰ってきますように……

 

 祈りはノチの習慣の一つだった。忙しい日中の仕事の最中にふと訪れる、ちょっと空いた時間、そういう時に自然と彼女は手を合わせることにしていた。

 

 彼女が祈りを捧げる対象は、物心つく前に他界した両親だった。当然、イーガ団の一員としてノチは魔王様にも祈ったが、その比重は明らかに偏っていた。

 

 幼いころから魔王様を信じ、魔王様のために生きよとノチは教えられてきた。その教えは確かに、彼女の精神の根底の一部となっていた。日々の炊事や掃除や洗濯、裁縫や矢づくりなど、そういう地味で(つら)い裏方仕事をしているのも、すべてはイーガ団のため、総長コーガ様のため、そして魔王様のためであると彼女は信じていた。その信じ方は素朴ではあるが、純真そのものであった。

 

 だがノチは、こと祈るという時には、なぜか頭の中に両親のイメージが浮かぶのだった。おぼろげながら覚えている、柔らかに優しく微笑んでいる父と、仏頂面だが口元がわずかに緩んでいる母、そんな両親の背後から、きらきらと黄金の光が差している。彼女が目をそっと閉じて、心を祈りに集中させると、そんなイメージが自然と浮かび上がってきた。

 

 彼女が魔王様にお祈りする時は、そういうイメージは湧いてこなかった。いつもしどろもどろなお祈りの言葉が頭の中によぎるだけで、何らかの光景が頭の中に出来上がるということはなかった。文言を考えているうちに、彼女の心はどこかお祈りから離れてしまうのだった。

 

 例えば、「最近コーガ様の水虫が酷いのでお前らも祈れ」と幹部が言った時には、ノチも手を合わせた。そういう時、彼女は両親ではなく魔王様へお祈りを捧げた。だって、総長コーガ様は魔王様に最も愛されている人だから。

 

「……魔王様、魔王様、謹んでお祈りを申し上げます。愚かしくも、えーっと、哀れな私の願いをどうかお聞き入れください。このたび私が申し上げますのは、えーっと、私が敬愛いたします総長コーガ様の水虫のことでございます。あぁー、えーっと、コーガ様は日々足の痒みと痛みに苦しめられております。あの、その、どうかコーガ様にご慈悲を御示しください、そして悪い水虫を懲らしめてください……」

 

 他には、作戦成功を祈る集団祈祷の時、老齢の神官がブツブツと祝詞(のりと)を唱えるのだが、ノチはそれについていくだけで精一杯だった。神官の言葉遣いは難しく、魔王様をイメージしながらお祈りをするなど彼女には思いもよらなかった。彼女の隣にいるバナーヌはいつものように冷静で、じっと念じているようだった。自分にもバナーヌみたいな集中力が欲しいなぁ、と彼女は事ごとに思った。

 

 そんなわけだからノチは、自分流のやり方で気軽にお祈りができる両親へ、気がつけば手を合わせているのだった。手のあかぎれを治してほしいとか、ゴキブリを退治してほしいとか、もっとバナナが食べたいとか、そういうちっぽけな願い事から、遠い空の下で過酷な任務に従事する仲間の団員たち、わけても親友のバナーヌの無事を祈ることまで、なんでも彼女は両親に祈った。

 

 そして彼女は、今朝はいつにも増して真剣に、とても集中してお祈りをしていた。やらなければならない仕事の量を考えると、祈りにかまけて時間を無駄にすることなど許されないのだが、それでもノチは祈らずにはいられなかった。

 

 彼女をそんな心境にさせたきっかけは、ついさきほど、ある人から語られた言葉だった。

 

 

☆☆☆

 

 

 時間はやや遡る。場所は同じくイーガ団のアジトだった。アジトの中の、とある一室の前で、ノチは緊張して身を強張らせていた。

 

 その部屋は、ある上級幹部が住まいとしているものであった。なぜノチはこのような所に来たのか? それは昨晩、ようやく仕事から解放されて身を休めている彼女のもとへ、唐突にある指示が届いたからだった。

 

 指示と言っても大したものではなかった。やってきた団員はノチに「明日の朝、ウカミ様の御髪(おぐし)のお手入れの手伝いをするように」と告げたのだった。

 

 ウカミ様! ノチは息を呑んだ。ウカミ様に私が呼ばれるなんて!?

 

 総長コーガ様を頂点とするイーガ団の組織はピラミッド型の構造をしている。一人の総長の下に数人の上級幹部がおり、その上級幹部の下にさらに複数の幹部がおり、その幹部が多数の下っ端の団員たちを抱えている。

 

 ウカミはその上級幹部の一人で、なおかつ、唯一の女性であった。徹底した実力主義を採るイーガ団にあっては彼女もその例外ではなく、突出した戦闘能力と冷徹な指揮能力を持っていると言われていた。だが、ここ最近、彼女は前線に出ていない。彼女が近年に何らかの成果を上げたとか、功績を残したとか、そういう話もなかった。

 

 そんなウカミであったが、不思議なことに組織内部において隠然とした影響力を及ぼしていた。どうやら、ウカミはコーガ様と()()()()()()をもっているらしい。いわば公然の秘密というやつだが、彼女に対するコーガ様の甘い態度を見ると、団員たちは「ああ、やはり」という感を強くするのだった。

 

 ただ、ウカミの影響力というのは、彼女が総長の愛人であるから、という単純な理由からのみ生まれているものではなかった。純粋に、彼女が優秀であるということも、その一因だった。

 

 コーガ様は天性のカリスマでイーガ団を纏め上げているが、組織運営において肝心(かなめ)であるところの実務能力はさっぱりであった。やる気を出したらできないこともない、むしろ優れているくらいらしいのだが、当の本人にはまったくやる気がなかった。若手の幹部時代から、面倒なことは全部他のやつらにやってもらうというスタンスをコーガ様はとっていた。

 

 大厄災以来、大規模な作戦行動の必要もないイーガ団である。難敵を撃破するという課題があればこそ、戦闘集団はその士気を保ち、構成員の結束も強くなるというものだが、平和で単調な日々にあってはともすればその規律は緩みがちである。魔王への狂信的なまでの信仰心を持ち、それを絆としているイーガ団でも、その例外ではなかった。

 

 そんな現状に、コーガ様はうまく対処していた。より正確に言えば、コーガ様の部下たちがうまく対処していた。その筆頭がウカミであった。優秀な配下を持つということ自体が優れた器量の持ち主であることを意味するならば、コーガ様は確かに望ましい統率者であった。だが、その配下を手足のごとく操るという指揮能力こそは、ウカミがもたらしているものであった。

 

 団員たちは、ウカミを恐れていた。ある意味では、団員たちは彼女を総長より恐れていた。コーガ様も怒る時は烈火のごとく怒り、罰として命じるお仕置きは苛烈そのものであるが、普段は基本的に上機嫌で、趣味や娯楽を邪魔しない限り多少の失態や粗相をしても気を悪くしない。

 

 一方のウカミは、コーガ様とは違う恐ろしさを持っていた。彼女は物静かで、穏やかで、微笑みを絶やさないが、逆に言えばどういう感情を抱いているのかが分からない。チラチラと顔色を窺うだけが能のおべっか使いたちは、いつもハラハラしながらウカミに接していた。ウカミは合理主義者であり、情実を介さぬ冷静な組織運営を行う。それでいて他人の心情の機微に敏感であり、わずかな兆候からすぐに心の動きを察知してくる。要するに、ウカミの前ではいっさいのごまかしがきかないのだった。

 

 とても怖い上級幹部、そしてコーガ様の愛し人……そんな人の部屋の前にノチは立っていた。指定された時間まで、あと五分ほどあった。精神を落ち着かせようと、彼女はゆっくりと深呼吸をした。心と呼吸は関係していると、彼女は以前バナーヌから教わった。

 

 ノチは、お祈りをした。どうか、上手くいきますように。ウカミ様の前で、粗相をしませんように……

 

 彼女は、ウカミの姿を見たことがなかった。ノチが下っ端の下っ端で日々雑務に追われ、組織の上級者と出会う機会など全然持たないということもあるが、ウカミ自身が、あまり公の場に姿を現さない。

 

 どんな人なんだろう? やっぱり、噂通りの怖い人なんだろうか? 怒られたらどうしよう……とりとめもなくノチは考え続けた。

 

 いきなり、ノチの目の前の扉が、音もなく開いた。ノチは驚いたが、漏れ出ようとする悲鳴を喉の奥で押し殺した。

 

 出てきたのは、ウカミの侍女だった。その年齢はノチより少し上なようで、整った顔立ちをしていた。侍女は肩まで届く黒髪だった。勝気に吊り上がった目が鋭い光を放っていた。扉を開いたら目の前にノチがいたことに彼女のほうも少し驚いたようだったが、そのことをおくびにも出さず、静かに言った。

 

「ノチ、中でウカミ様がお待ちです。入りなさい。決して粗相のないように」

 

 ノチは答えた。

 

「は、はいっ」

 

 おずおずと、ノチは室内へ足を踏み入れた。ドキドキと彼女の心臓が鳴っていた。自分の呼吸の音がやけに大きく感じられた。すでに何かとんでもない間違いをしているのではないかと、ノチは錯覚しそうになった。

 

 室内は薄暗かった。頼りない光を放つ青銅製の燭台が、部屋の左右に二つ置かれていた。採光窓にはイーガ団の象徴たる、涙目の逆さ紋様が染め抜かれた赤い幕がかかっていて、日光を遮っていた。

 

 香が焚かれているのか、かぐわしい甘い香りであたりは満たされていた。だが、それはごくさりげないもので、鼻につくほどではなかった。

 

 部屋の奥は一段高くなっていた。それを区切るのは、黒漆と金箔で装飾された大きな衝立(ついたて)だった。衝立には大きなツルギバナナの木が描かれていた。たっぷりと実った、黄金色のバナナの房が木に実っていた。

 

 ノチは、息を呑んだ。

 

「あっ……」

 

 衝立の向こう側に何かがいることを、彼女は感じた。胸を強く締め付けるような、強烈な緊張感を放つ何者かの存在を、彼女は確かに察した。

 

 きっと、あそこにウカミ様がいる。

 

 何もかもがノチの知識と経験の中にないものだった。まるで別世界だった。ちょっと前までは平穏な日常だったのに……クラクラと、眩暈(めまい)にも似た感覚を彼女は覚えていた。彼女は軽いショック状態に陥っていた。

 

 しかし侍女は、この部屋ではそういう状態になることを知っているようだった。侍女は衝立の前で音も立てずに(ひざまず)くと、平然と口を開いた。

 

「ウカミ様、ノチが参上いたしました。ノチ、ご挨拶をして」

 

 下っ端の裏方担当とはいえ、ノチもまたイーガ団の一員である。彼女は何とか気力を取り戻すと、侍女と同様に跪いて、精一杯の声を張り上げた。

 

「はっ、はい! ノチ、遅ればせながら参上しました!」

 

 下っ端はどんな時でも全身全霊で返事をしなければならない。ノチの大声はそういう教育の賜物だった。ただこの場合、それは少し場違いのようだった。侍女は振り返って、鋭い視線でノチを見やった。声が大きすぎる、ウカミ様に失礼だ。そう言いたげな表情だった。

 

 しまった! (さと)いノチは侍女の視線の意味をすぐに理解した。何とかして失敗を取り繕おうと彼女は思った。しかし、その方法が分からない。なにもできず、彼女は身を縮こまらせるだけだった。

 

 だが衝立の向こうの存在は、そんなことをまったく意に介していないようだった。ノチに聞こえてきたのは、意外にも、円満に人格が成熟した女性に特有の、優しさと親しみを感じさせる声だった。

 

「……うふふ……元気が良いわね。私まで元気になっちゃいそうだわ」

 

 ふぅというため息が聞こえた。衣擦れの音もしたようだった。続けて、柔らかな声が聞こえてきた。

 

「サミ、あまり怖い顔をしちゃ駄目よ。せっかくこの部屋に来てくれたのに、怖がらせちゃったら気の毒だわ」

 

 ノチを睨んでいた侍女のサミは、(あるじ)の声を聞いてハッとしたようだった。

 

「も、申し訳ございません!」

 

 重大な失態を犯したことを恥じるかのように、サミは姿勢を正して畏まった。それを見たノチは、何だか申し訳ない気持ちになってしまった。

 

 ほんの一瞬、静寂が場を支配した。だが、すぐに向こう側からの声がそれを破った。

 

「ごめんなさいね、ノチ。サミはいつも一生懸命なの。模範的なイーガ団員なんだけど、女の子としてはちょっとたおやかさに欠けるわね。ともあれ、あなたを歓迎するわ。さあ、こっちに来て、あなたのかわいいお顔を私に見せて頂戴」

 

 ノチは答えた。

 

「はいっ!」

 

 ついに呼ばれた! ノチの心臓がさらに動悸を激しくした。全身の神経が電流を帯びて昂ぶり、熱を持った血液がゾゾと逆流するような感覚がした。下っ端にとってはただの幹部ですら非日常的な存在であるのに、それが今は雲上人たる上級幹部から、しかもあの怖くて有名なウカミ様から、直接声をかけられている。

 

 凝り固まった肉体をギクシャクと動かして立ち上がると、ノチは衝立の向こう側へと右側から回り込んだ。彼女は、関節という関節から音が出ているような気がした。衝立に描かれた黄金のバナナがやけに彼女の目についた。こちらを見てくるサミの真剣な表情も、彼女は見た。

 

 長い長い時が経ったように彼女には思われた。実際にはほんの数秒でしかなかった。ノチは回り込むや即座に跪いて、やはり全身全霊の大きな声で挨拶を述べた。

 

「ノチ、まかりこしぇ、(まか)り越しました!」

 

 噛んだ。噛んでしまった。ここぞという時に、失敗の許されぬところで噛んでしまった。ノチは自分の顔が真っ赤になるのを感じた。

 

 だが、当人にとっては顔から火が出るほどの恥ずかしさであっても、上位者から見れば微笑ましいものであるようだった。床と一体になるほどにひれ伏しているノチに、優しい声がかけられた。

 

「うふふ、そうやって伏せていたら、あなたのお顔が見られないわ。さあ、顔を上げて、こっちを見て」

 

 ノチは叫ぶように答えた。

 

「はいっ!」

 

 意を決して、ノチは顔を上げた。

 

 ノチの目に飛び込んできたのは、一人の妙齢の佳人が、絹の(しとね)になよやかに横になっている光景だった。

 

 その美人は、螺鈿(らでん)の施された黒塗りの寄懸(よりかかり)に半身を預けて、にこにこと微笑んでいた。薄暗い部屋の中でもはっきりと分かるほどに、美人の肌は白くきめ細やかだった。(つや)やかで滑らかな、とても長い黒髪だった。鼻は高く、あごは細かった。ひたいは高い知性を証明するかのように広かった。柳眉の下の茶色の瞳は柔和な光を宿していた。その目尻はどこか眠たげに垂れていた。

 

 美人はその身に白く薄い、木綿の肌襦袢(じゅばん)だけを着ていた。そのおかげで、彼女の肉体の豊かな起伏が否が応にも明らかになっていた。ノチの目は今や釘付けだった。横になっているため正確には分からないが、背丈は一般的な女性よりも高いだろう。バナーヌに匹敵するか、それより少し低いくらいか。腰は細くて、見事なくびれを形作っていた。

 

 なによりノチの目を離して止まなかったのは、その胸だった。大きい。とても大きい。きっと……ううん、絶対に、バナーヌの胸よりも大きい。ノチはそう思った。

 

 姿かたち、そのどこをとっても美の要素に欠けていない。それでいて、その全体は完全な調和を示している。

 

 この(かた)が、ウカミ様か……ノチは先刻までの緊張を忘れて、目の前の美人に見惚れていた。バナーヌも美人ではあると彼女は思うが、この(かた)の美しさは彼女の短い人生経験ではちょっと表現し切れないものだった。

 

 ノチの反応が面白いのだろうか、ウカミは笑みを浮かべて彼女の様子を眺めていた。やがてウカミはため息をつくと、やや体を動かして、居ずまいを正した。ウカミは言った。

 

「そう、あなたがノチなのね。はじめまして、私はウカミ。知っているかもしれないけど、コーガ様に仕える幹部の一員として仕事をしているわ」

 

 ウカミの(なま)めかしい姿態に見入っていたノチは、弾かれたように返事をした。

 

「は、はひっ!」

 

 返事にならなかった。ノチは満足に声をあげることすらできなくなっていた。圧倒的なまでの美を前にして、彼女の精神は電撃に打たれたようになっていた。

 

 ウカミは身を起こした。肌襦袢が少しはだけて、豊かな白い胸が露わになりかけた。ウカミはそっとノチのそばに身を寄せると、白く繊細な指を伸ばして、ノチの頬に軽く触れた。ノチは声を漏らした。

 

「あっ……」

 

 ウカミは優しく言った。

 

「大丈夫、落ち着いて。私の目を見て、ゆっくりと呼吸を整えるのよ……」

 

 よしよしとあやしながら、ウカミはノチの精神が落ち着きを取り戻すまで、その指でノチの頬を優しく撫で続けた。

 

「綺麗な肌をしてるわね。それに、とっても可愛いわ……」

 

 甘く、とろけるような声音と撫で方だった。ノチが平静を取り戻すのにさほど時間はかからなかった。頃合いを見て、ウカミが話しかけた。

 

「落ち着いた?」

 

 ノチはやっとのことで答えた。

 

「は、はい……」

 

 ウカミは笑みを浮かべていた。

 

「うふふ、それは良かったわ」

 

 そう言うと、ウカミは撫でるのを止めて、おもむろにノチへ背中を向けた。優美なうなじがノチの目の前であらわになった。

 

「さっそくで悪いけど、あなたには私の髪の手入れをして欲しいの。櫛はそれを使ってね」

 

 そう言ってウカミは、化粧台の上にある櫛をそっと指し示した。

 

 ノチは、すっかり元通りになっていた。やる気に満ちた大きな声で、彼女は元気よく返事をした。

 

「はい!」

 

 

☆☆☆

 

 

 ウカミは、とても気さくな人だった。その美しく長い黒髪をノチが細心の注意を払って懸命に()いている最中にも、ウカミはあくまで邪魔にならない程度に、ゆったりとした口調で様々な話題を振りまいた。

 

 年齢は? 両親は? 仕事は何をしているのか? 仕事は辛くないか? お化粧は毎日欠かしていないか? 好きなバナナ料理は?……

 

 ノチにとって、ウカミは噂とは全く異なる存在であるように思われた。怖いなど、この方に限ってあり得ない。温かくて、優しくて、まるでお母さんみたい……

 

 優しい雰囲気に誘われて、ノチのほうからも質問をした。本来下っ端が上級幹部に話しかけるなど、悪くすれば懲罰の対象となるほどの「絶対に許されない」行為なのだが、ウカミはまったく気にしなかった。

 

「ウカミ様。どうして私のような者をお呼びになったのですか? サミ様もいらっしゃるのに……」

 

 ウカミは微笑みつつ答えた。

 

「ふふ、それはね。とっても(うるわ)しいお話をサミから聞いたからよ。お風呂の時に、仲睦まじげに洗いっこをする二人の女の子のお話をね。だから、私も羨ましくなっちゃって。さすがにお湯浴みを一緒にすることはできないけど、髪の手入れなら大丈夫って、サミも言うものだから」

 

 ノチは声を漏らした。

 

「それって……」

 

 ウカミは頷いた。

 

「そう、あなたと、バナーヌのことよ」

 

 それからウカミは、バナーヌについて色々とノチに尋ねた。あの子、無表情で無口だから、知らないことが多いのよ。好きな花とか、よく歌う歌とか、趣味とか、ノチは何か知らないかしら……?

 

 ノチは、胸を張ってそれらの質問に答えた。

 

「バナーヌは、私の一番の友達なんです! 好きな花はバナナの花で、歌は歌わないのでよく分からないですけど、趣味は読書と、バナナの葉を使った小物細工作りです! あと、バナナが大好物です!」

 

 ウカミは優しげに笑った。

 

「そう、バナーヌは、やっぱりバナナが大好きなのね」

 

 ウカミの言葉に、ノチは嬉しそうに頷いた。

 

「本当にバナナが好きなんです! こないだだって任務の前なのにあげバナナを何本も食べようとするから、止めるのが大変で……」

 

 仲の良い親子が時間を忘れておしゃべりに興じるように、ノチとウカミは会話を楽しんだ。だが、どれだけウカミの黒髪が長く豊かでたっぷりとしていても、()き続けていればいずれ梳くべき髪はなくなる。

 

 それに気づいたノチは、「あっ」と残念そうな声を上げた。

 

「ウカミ様、御髪(おぐし)のお手入れが終わりました……」

 

 ウカミは言った。

 

「そう、どうもありがとう、ノチ。とっても気持ちよかったわ。あら、どうしてそんなに残念そうなのかしら?」

 

 ノチは残念そうに言った。

 

「だって、もう綺麗な御髪に触れることができないから……」

 

 ウカミはノチへと振り返ると、にっこりと微笑んだ。

 

「ふふ、ノチは本当に可愛いわね。でも安心して。これからもできるだけあなたを呼んで、私の髪の手入れをお願いするから」

 

 ノチは感激した。こんなに綺麗で美しい人に認められたんだ! こんなに楽しい時間を、これからも過ごすことができるんだ! 彼女は答えた。

 

「はいっ! ありがとうございます!」

 

 嬉しさのあまり涙目になっているノチを、ウカミはにこやかに見つめた。そして、ウカミは何かを思い出したように懐に手をやると、一本の(かんざし)を取り出した。簪は銅製で、黄金のバナナの房があしらわれていた。

 

 ウカミはそれをノチに差し出して、言った。

 

「ノチ、今日はよく来てくれたわね。二人が出会った記念に、あなたにこの簪をあげる。あなたの綺麗な黒髪になら、きっと似合うはずよ。さあ、私が挿してあげるから、こっちにおいで」

 

 ノチは恐縮した。

 

「えっ、そんな、私にはもったいないです!」

 

 ウカミは笑いながら言った。

 

「いいから、いいから。私があげたいんだから、あなたは受け取らないとダメよ。気にしなくて良いから。さあ、こっちにおいで……」

 

 実際、その簪はノチに良く似合った。ウカミは至極満足そうな表情を浮かべた。

 

「まあ、とっても綺麗。ノチ、今のあなたはお人形さんよりも綺麗よ。昔のハイラル王国の王女様にだって、絶対に負けてないわ」

 

 ノチの感激はとどまるところを知らなかった。

 

「ありがとうございます!」

 

 ついに別れの時が来た。あたかも地獄から天国へ移ったような、夢のような時間だった。ノチは幸福に満たされていた。

 

 別れ際も、ウカミは微笑みを絶やさなかった。

 

「また、きっといらっしゃいね。待ってるわ。何か困ったことがあったら、すぐに私に言ってね」

 

 ノチは返事をした。

 

「はい! そうします!」

 

 何度も何度もお礼の言葉を言ってから、ノチは部屋を後にした。

 

 様々な思いがノチの心中を駆け抜けた。ウカミ様、とっても綺麗で、美しくて、優しくて……また、ここに来たいな。バナーヌにも、お話しなくちゃ。帰って来たらすぐに教えてあげようっと。ウカミ様は噂と違って、とっても良い人だって……

 

 浮かれているノチに冷や水を浴びせるように、低く冷たい声が掛けられた。

 

「ノチ、よくやったわ」

 

 見ると、廊下の壁に背中を預けるようにして、侍女のサミが腕を組んで佇んでいた。

 

 ノチは驚いた。彼女はてっきり、部屋から出たのは自分だけだと思っていた。彼女はサミに言った。

 

「サミ様! 今日はありがとうございました!」

 

 サミは怪訝な顔をした。

 

「なぜ? なぜ私に感謝するの?」

 

 ノチは明るい声で言った。

 

「ウカミ様に私をご推薦してくれたのはサミ様だと、ウカミ様ご自身から伺いました」

 

 サミは軽く頭を振った。

 

「そう……確かに、あなたとバナーヌのことは私がウカミ様にお話ししました。でも、あなたをお部屋に招くというのは、ウカミ様のご意志によるもの。私が感謝されるべきではありません」

 

 ノチは言った。

 

「でも、その、あの……とにかく、ありがとうございました!」

 

 満面の笑みで感謝の言葉を述べるノチに、サミはどこか気の毒そうな顔をした。

 

「でもあなた、大丈夫なの?」

 

 ノチは首を傾げた。

 

「大丈夫って、何がですか?」

 

 サミは、あまり関心がなさそうな口調で言った。

 

「だって、あなたの親友のバナーヌ、いま大変な目に遭ってるらしいじゃない。ゲルドキャニオンで敵に遭遇して、手傷を負って血を吐いてるとか……」

 

 ノチの表情は、凍り付いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 悄然として、ノチは部屋へ帰っていった。それを見届けると、サミは主の部屋へ戻った。サミは主人に報告をした。

 

「ウカミ様、ノチは帰っていきました」

 

 ウカミが衝立の向こう側から返事をした。

 

「そう、ありがとう」

 

 その声音に、さきほどまでノチと話していた時のような柔らかさはなかった。ウカミはさらに言った。

 

「それで、例のことは話したの?」

 

 サミは答えた。

 

「話しました。気の毒なくらいに落ち込んでおりました」

 

 ウカミはどこか面白そうに言った。

 

「あら、ちょっと可哀そうなことをしたかしら」

 

 サミは、心外だという色をわずかに表情に浮かべた。

 

「話せとご指示をされたのはウカミ様でございます」

 

 衝立の向こうから、笑い声が漏れた。

 

「うふふ。そうだったわね、そうだった。気を悪くしないでね、サミ」

 

 ややムキになってサミは答えた。

 

「悪くしておりません、決して」

 

 からかうような調子のウカミの声が響いた。

 

「もしかして、()いてるのかしら? あなた、もしかして、『このままじゃノチに居場所を取られちゃう』なんて、そんな乙女な気持ちになっちゃった? 案外かわいいところがあるじゃない。見直したわ」

 

 これ以上ウカミ様の言葉に応じると、完全に会話の主導権を奪われてしまう。サミはそう思った。彼女は、多少強引だが話題を切り替えることにした。

 

「乙女な気持ちにはなっておりません。それはそれとして、よろしかったのですか? 今回が初めてということもありましたが、あまりバナーヌに関する情報を引き出せなかったようですが」

 

 ふぅ、とため息が聞こえた。教え諭すような調子の言葉が返ってきた。

 

「『これを奪わんと欲すれば必ずしばらくこれに与う』 古代シーカー族のありがたい教えよ。あなたもよく覚えておきなさい。今回は私についての好印象を彼女に与えることができた。()()のはこれからよ」

 

 サミは短く答えた。

 

「ははっ!」

 

 ウカミは言った。

 

「いずれ、こちらが望んでいなくても、勝手に情報が出てくるでしょう。あのバナナみたいな娘には、そういう不思議な力があるから。それよりサミ、はやくこっちに来て着替えを手伝って頂戴。そろそろ()()()も起きる時間だし……」

 

 何かを暗示するかのように、燭台の蝋燭が音を立てた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ノチが部屋に帰って、バナーヌのために一心不乱に祈りを捧げていたその頃、デグドの吊り橋にほど近いその大地は、無惨に破壊し尽くされていた。

 

 一面に大小様々なクレーターが咲いており、ところどころから煙が一筋、二筋と立ち上っていた。砕け散ったメテオは無数の破片をまき散らして地表を覆っていた。

 

 ポツンと地面に落ちているメテオロッドが、煌々(こうこう)と明るい光を放っていた。その主は、もうこの世にいなかった。

 

 生きている者などどこにもいない、静寂に満ちた死の大地だった。その一角に、奇妙なものが生えていた。それは、一本のバナナだった。いやバナナではなかった。バナナのように見事な、金髪のポニーテールだった。

 

 もぞもぞと地面が動いた。突然、にょきっと、土に汚れた細く白い腕が一本生え出てきた。続けて二本目が、勢いよく地面の上に飛び出してきた。二本の腕は力を込めて大地を抑え込むと、ついにその本体が、待ちかねたりとばかりに地上へ出てきた。

 

 荒い呼吸音が響いた。

 

「ぷはっ! がはっ! はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 ノチの祈りが通じたのか、それとも持って生まれた類稀な生命力によるものか。

 

 バナーヌは、死の淵より生還を果たした。




 今回はかなりの難産でした。辛かった。苦しかった。人妻の色気を描くのなんてどうやれば良いんだ。これもすべてコーガ様のせいだぞ! コーガ様が中年太りのブヨブヨお腹をしてるのに愛人なんて持ってるから! コーガ様のくせに! コーガ様のくせに!
 よし、いまからアジトにカチコミかけるぞ! みんな、丸太は持ったな!! 行くぞォ!!
 死んでるじゃねーか、オイ!!

※月日の経つのは早いものですが、それ以上に驚いているのは、完全な執筆素人のほいれんで・くーが、よくもまあ第二十話まで話を書き続けられたということです。字数にして約15万字になりました。これもすべて応援してくださる読者の皆様のおかげです。いつも本当にありがとうございます。バナナ輸送の護衛を命じられたバナーヌの旅路も、そろそろ終盤へと入ります。私の拙い語りでは、どこまでお話をできるか自信が持てませんが、出来る限りの力を尽くして、皆様に作品をお見せすることができればと思います。
愛を込めて ほいれんで・くー(2018/04/13/金)
※加筆修正しました。5年前は「そろそろ終盤」とか言ってたってマジ……?(2023/05/07/日)
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