ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

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第三十一話 悪意への処方箋

 悲しいかな、至高の善は形而上学的に想定し得るのに対し、人間の底なしの愚かしさは測るに(すべ)がない。

 

 だが、この愚かしさなるものを知ることは、より善く生きていく上で必要不可欠である。

 

 公的な歴史書には、輝かしい記録のみが書かれている。そこに登場する人々は、伝説の勇者や姫巫女ほどではないにせよ、何かしら偉大な功績を残した人々である。寡兵(かへい)にて魔物の大群を殲滅した大将軍や、住民の福利厚生の向上に著しく貢献した官吏、暴れる河川に見事な土木工事を施した技術者……こういった偉大なる人々について読んでいると、ハイリア人は全員、善良で穏健で、思慮に富んだ存在であると錯覚してしまう。愚か者は歴史書に書かれないのだ。

 

 したがって、愚かしさの「伝説」を探求するには、当たるべき史料と採るべきアプローチを変える必要がある。公的な記録、ボロボロの記念碑、御用学者による伝記、(かび)の生えたような神官の説教集……そんなものは役に立たない。

 

 栄光の影で、闇から闇へと葬られた、見るに()えないほどに悲惨な愚か者たちの伝説を、ここで一つ紹介しよう。

 

 その時代、ハイラル王国は平穏のうちに繁栄を謳歌していた。しかし、健康な肉体を持つ人間が突発的な病魔に苦しむことがあるように、ある問題が王と民を悩ますようになった。

 

 ある時、峻険な山々と永久の氷雪に閉ざされたヘブラ地方に、魔物の軍勢が興った。魔物たちは強大だった。魔物たちは村を襲い、人々を拉致し、街道を封鎖した。数ヶ月も経ずして、ヘブラ地方は魔物の王国と化した。

 

 駐屯地から中央へ早馬が飛び、討伐軍の派遣が要請された。だが中央は動かなかった。それは所詮、中央ハイラルから遠く離れたヘブラ地方での出来事、敵はたかだか魔物であり、そしてヘブラ地方は貧しい。戦利品は期待できない。実入りは少なく、出費ばかりが増えるだろう……軍を率いる立場にある貴族たちは、なかなか討伐軍の指揮官として名乗りを上げなかった。

 

 しかしこの状況下で、奇貨(きか)居くべしとばかりに、ある男が颯爽(さっそう)と名乗りを上げた。その男の名は、マトートと言った。マトートはヘブラ地方の貧乏貴族の四男だった。彼は、貴族社会において顧みられることのない、いかにもぱっとしない男だった。彼の軍歴は、軽騎兵の一個中隊を指揮して魔物を討伐したことくらいしか、特筆すべきことがなかった。大軍を指揮する能力も識見(しきけん)もない。そう思われていた。

 

 マトートの名乗りは、通常ならば一笑に付されるだけだった。だが、運命はどこまでも悪意に満ちたものであった。あたかも運動競技者が障害物を軽やかに飛び越えていくように、マトートは常にない熱弁と行動力を発揮して王と軍と貴族たちを説き伏せ、ついに彼は討伐軍の大将の座に収まってしまった。

 

 王は、ハイラル王家の血筋に違わぬ聡明な頭脳の持ち主だった。王は、この風采の上がらぬ男のうちに、秘められた才知の輝きがあることを見抜いていた。

 

 しかし、貴族たちの思惑は違った。彼らの眼差しは悪意に満ちていた。彼らとしては、このマトートが大失敗をして討伐軍が壊滅することを期待していたのである。そうなれば、賢い王は二度と軍を興そうとしないだろう。したがって、自分たちはこれ以上軍役(ぐんえき)を負わなくて済む。そういう考えだった。

 

 様々な思惑が宮中を飛び交う中、市民たちの歓呼の声に送られて討伐軍は進軍を開始した。寄せ集めの兵たちは指揮官マトートに対して、まったく期待を抱いていなかった。だが、指揮官マトートは事前に十全なる準備を整えていた。彼は行軍中に何度も戦闘訓練を行った。のみならず、彼は険しい道にあっては自ら荷車を押すなど、積極的に率先垂範の態度を示した。次第に討伐軍の士気は高まり、兵たちは精強となっていった。

 

 マトートの軍は無数の魔物の小拠点を攻め落とし、村々を奪回し、包囲機動と迂回を繰り返した。マトートの軍は、次第に魔物の群れを決戦地へと追い詰めていった。

 

 そしてついに、雪深い北タバンタ雪原で両軍は対峙した。

 

 ここで「討伐軍によって魔物の群れは殲滅された」と書くことができるならば、どんなに嬉しいだろう。しかし、運命は男たちに残酷無惨な結末をもたらしたのだった。

 

 魔物を率いていたのは、容貌魁偉(かいい)な半人半獣の魔物だった。雪原の戦闘に熟知し、かつ魔物を戦闘集団として纏め上げるカリスマ性を持っていたその魔物は、マトートを将帥(しょうすい)として格段に上回っていた。

 

 両軍は昼頃から夕刻まで激しく戦った。その結果、マトートの軍は潰走(かいそう)した。

 

 マトートは決して諦めなかった。彼は崩壊した戦列を立て直し、敗走してくる兵たちを収容すると、素早く進路を南に取り、タバンタ村へ向けて退却した。

 

 マトートには勝算があった。戦闘の終盤、乱戦の中で「かの魔物の長に深手を与えた」という報告があったからである。しかし、兵は少なく、糧食は底を尽きかけていた。ここはタバンタ村に籠城し、中央へ援軍を要請して再起を図るべきだ。増援を得たならば、必ずやタバンタの魔物たちを殲滅できよう。彼はそう考えた。

 

 彼は伝令を出した。魔物たちの重囲を潜り抜けて、決死の伝令数騎は重き使命を身に受けて街道をひた走った。一週間を経たずして、中央ハイラルは即座に状況を把握した。

 

 だが、どうしようもなく世界は悪意に満ちていた。大臣と貴族たちはマトートの援軍の要請を黙殺したのであった。さらに致命的だったのは、折り悪く、最期の頼みとしていた国王が急病に倒れたことだった。王は人事不省だった。

 

 貴族たちは、見殺しを選択した。増援など送れば、あの矮小な男の大手柄となるのは確実だ。ここは屍を雪に埋めてもらおう。

 

 愚かなる者どもよ! 知を(たの)み、策を弄し、巧言令色を事とする者どもよ! 決して(そそ)ぐことの叶わぬ大罪によって汚れた汝らに比して、かのマトートの軍の兵士たちの、なんと雄々しく偉大であったことか!

 

 マトートとその男たちは、数ヶ月に及ぶ籠城戦の末に全滅した。討ち取られたマトートの首は槍の穂先に刺され、高々と掲げられたという。糧食のない兵士らは木炭を齧り、雪を口に含み、魔物の肝さえ糧として、弓折れ矢尽きながらも最後の一兵となるまで奮戦した。魔物の手にかかって死んだ者よりも、飢えによって命を儚くした者のほうが多かったと言われている。

 

 これまでに述べてきた悲劇は、マトートの軍に所属した兵士の一人が、その最後を迎える前日まで淡々と書き続けていた日記に依っている。公式記録には、この戦いは以下の僅か数行しか書かれていない。

 

「ヘブラ地方に起こった魔物の争乱に対し、急遽マトートを指揮官とする討伐軍が派遣されたが、補給計画の不備と連絡の不手際により、タバンタ雪原における決戦でマトート軍は敗北した」

 

 さて、この物語において、愚か者として(そし)られるべきなのは、いったい誰であろうか? 指揮官のマトートだろうか? 確かに、マトートはその身を焦がす野心の赴くまま、兵士たちを酷寒の地へ導き、全滅の憂き目に遭わせた。マトートは身の丈に合わぬ欲望により破滅した、実に愚かしき男と言えるかもしれない。

 

 しかし、真に愚かであったのは、やはり貴族たちであろう。彼らは国益を考慮せず、ただ自己保身と理財にのみ汲々としていた。悪意に満ち満ちていた彼らは、伝令が血と共に吐き出した援軍要請を、無下に拒否した。

 

 そう、ただ悪意によって、彼らは援軍を拒否したのだ。

 

 貴族たちの口の端は、悪意に歪んでいただろう。その吐息は腐臭を放っていただろう。あのマトートは実に生意気だった。そのまま朽ち果ててしまえば良い。木っ端のごとき兵卒の命など知ったことではない。愚か者が減って、ハイラルの大地がもっと住みやすくなるはずだ…… 

 

 悪意、これこそ真なる愚かしさではないか? 悪意こそ、人間の持つありとあらゆる愚かしさの極致であり、いわば目に見えぬ黒い毒薬である。これに比べれば、知能の低いこと、職務において有能ではないこと、教養の薄いことがなんであろうか。

 

 そして、いざ我が身を見てみれば、今まで生きてきた中で悪意に身を任せたことが一度ならずあることに、我々は慄然(りつぜん)とする。豪雨により住処を流された民を見て、「土台を安上がりに仕上げたからだ」と悪罵(あくば)したことはないか? 魔物に襲われ子を失った母を見て、「なんと不注意な馬鹿者だ」と嘲笑ったことはないか? 路上を徘徊する乞食を見て、「怠け者はそのまま野たれ死んでしまえば良い」と、冷ややかな視線を向けたことはないか? いずれも悪意によって発された言葉ではなかったか?

 

 だが、ありとあらゆる物事は表裏の面を備えている。それは、あたかも蝶番(ちょうづがい)が回転するように、反転する。愚劣は賢明へ、悪意は善意へと、我々は心を入れ替えることができる。

 

 悪意に凝り固まった頑なな心も、いつかは春の柔らかな日差しに氷解する残雪のように、穏やかで善に満ちた心へと変化する。

 

 そう信じなければならない。さもなければ、地獄に堕ちるだけである。自分自身で作り上げた、この世の地獄に、我々は堕ちることになる。

 

 

☆☆☆

 

 

 雲は移り気だった。先ほどまでハイリア湖岸を薄明るく照らしていた月の光は、今は雲の厚いヴェールに阻まれていた。付近は闇に包まれていた。

 

 バナーヌとテッポが輸送指揮官サンベの元へ報告に行った後、ヒエタと馭者(ぎょしゃ)たちは「成り行きやいかに」と耳を澄ませていた。

 

 初めは、ボソボソと呟くように交わされる会話が聞こえてきた。そして次第に、サンベの声量が大きくなった。最後には、はっきりとした彼の怒声を聞き取ることができた。

 

「……だからお前は……! どうせ俺のことを見くびって……! 親父の権威をかさにきてんだろう……! 舐めるな、俺だって……!」

 

 ヒエタたちは博打の札を弄びながら、会話に興じていた。至極面倒そうに札を切りながら、ヒエタが言った。

 

「あの様子じゃ、テッポは相当、指揮官殿に油を搾られたみたいだな。ああ、可哀想に、可哀想に」

 

 ヒエタによって配られた札に目をやりながら、馭者たちが口々に言った。

 

「指揮官殿はやはり小物よ。殴れる相手なら女子供にだって躊躇しないが、上役相手にはいつもへらへら(こび)を売るような人だからの」

「確かに深追いしたテッポには責任があるがの。しかし可愛らしい娘じゃ。ここはひとつ手心を加えるってのが人間らしい心ってもんじゃないかね。おっ、良い札が来たわい」

「俺たちの中で一番指揮官殿を尊敬しているのはテッポだってのに、指揮官殿はそれが分かっておらんようじゃ。それにテッポがハッパ殿に密告(チンコロ)したらどうするつもりじゃ。下手するとぶち殺されるぞ。ちっ、札が悪い」

 

 札を並べ替えたヒエタは仮面の下で、その幸先の良さに表情を緩めた。この手なら楽勝だ。彼はポーチからバナナを取り出すと、先端に指を押し込み、器用につるりと皮を剥いた。ヒエタはバナナを食べながら言った。

 

「組織に属するってのは、上役の際限のない悪意に耐え忍ぶってことだ。テッポも良い勉強になったろう。指揮官殿のそれは少しばかり強烈だがな」

 

 馭者たちがせせら笑った。

 

「それでテッポが上役になったら、また部下を虐めるんですかい。まるで終わりのない憎しみの連鎖だわな」

「へっ、(さかし)げな! 坊さんみたいなことを言うなや。それに、俺だったらテッポみたいな娘に罵倒されるのは結構楽しいほうだと思うわ。『このバカー!』なんてな」

「はは、そんな悪趣味なのはお前だけじゃわ」

 

 男たちのとりとめのない会話は、そこで終わった。

 

 バナーヌとテッポが戻ってきた。闇が深いせいで男たちにはよく見えなかったが、バナーヌがいささかも表情を変えていないのに対し、どうやらテッポは怒っているような、泣き出すのを我慢しているような、今にも崩れ出しそうな無念の表情を浮かべているようだった。

 

 車座になっている男たちの前に、二人が立ち止まった。しばらく沈黙が満ちた。全員の視線が絡み合った。だが、テッポだけはじっと暗い夜空を見上げていた。その目尻には、かすかに涙が浮かんでいるようだった。

 

 ヒエタがいつもどおりの軽薄な調子で、テッポに話しかけた。

 

「おう、テッポ。指揮官殿のご機嫌はどうだった?」

 

 テッポは、すぐには答えなかった。二回か三回、浅く呼吸をすると、彼女はその鳶色の綺麗な瞳を潤ませて、短く無感情に言った。

 

「指揮官殿に帰隊を報告しました。疲れたのでこれから少し仮眠します」

 

 そう言うと、テッポはその場から一人去っていった。テッポは離れたところに停めてある輸送馬車の、その傍らの草地に身を横たえた。彼女は顔の上に片腕を乗せて、じっと口を閉じた。

 

 ヒエタはバナナを食べながら、どうでも良いとばかりに無造作に口を開いた。

 

「あーあ、テッポめ。ふて寝しちゃったよ。こりゃ、指揮官殿から相当嫌なことを言われたかな? ねえ、どうだったのさ、カルサー谷のバナーヌさんよ」

 

 バナーヌは、即答しなかった。彼女はすっと、右手をヒエタに差し出した。ヒエタはその動作の意味を理解した。ヒエタはポーチからバナナを一本取り出すと、バナーヌに放り投げるようにして渡した。バナナをそのように扱うなど、あまり程度の良い振舞いとはいえなかった。だが、バナーヌはそれを咎めなかった。

 

 バナーヌはバナナの皮を剥いた。彼女は言った。

 

「アイツはご立腹だった」

 

 ヒエタは頷いた。

 

「うんうん。それはそうだろう。テッポは、指揮官殿の心配の種だったからな。で、アンタにはなんて言った?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「『向こうへ行け』と言われた」

 

 ヒエタはまた頷いた。

 

「ああ、そうか、なるほどな。アンタは援軍とはいえ、カルサー谷から来た『よそ者』だからな」

 

 バナーヌは言った。

 

「よそ者?」

 

 へっ、とヒエタは鼻で笑った。そして、彼は勝手にベラベラと喋り続けた。

 

「カルサー谷出身ってだけで、俺たちフィローネ支部の人間からすればよっぽど恵まれているように感じられるのさ。カルサー谷は総長コーガ様のお膝元で、人員はたっぷりいて、資金も沢山にあって、休日もあれば残業手当もある。それに柔らかい寝床に美味い飯だ。それに比べちゃあ、フィローネ支部なんてまさしく『リトとキース』さ。安い給料に臭い飯で、仕事といっちゃあカルサー谷の下請けばかり。自分たちが食えもしないバナナを、ヒイコラ言いながら運ぶんだからな。なにも、指揮官殿だけじゃない。フィローネ支部の連中は、多かれ少なかれカルサー谷には憧れとやっかみが入り混じった気持ちがするんだよ。ま、憎悪ってほどではないが、悪意はちょっとあるかな」

 

 喋り続けるヒエタを、バナーヌは青い眼差しでじっと見つめていた。そして、彼女はポツリと言った。

 

「じゃあ、お前は?」

 

 ヒエタはバナーヌのほうを見ていなかった。彼は一枚の札を隣の馭者と交換すると、舌打ちをした。どうやら良くない札のようだった。やがて、彼は言った。

 

「俺か? 俺は模範的なイーガ団員さ。どこの奴でも仲間だったら大歓迎だよ、大歓迎。特に、アンタみたいな美人だったらな。なあ、こんな辛気臭い話してないで、アンタも俺たちと一緒に遊ばないか?」

 

 ヒエタに便乗するように、馭者たちも口々に言った。

 

「おお、男ばかりでウンザリしてたところなんじゃ。アンタみたいな綺麗どころと一緒に博打(ばくち)ができるなんて最高じゃ。さあ、ここに座れや」

「へへ、そんなブ男じゃなくて、俺の隣に座れよ。俺が優しくフィローネ流の博打術を教えてやるぜ」

「どうだ、カルサー谷の博打の手練手管(てれんてくだ)を見せてくれや。あと、俺に椰子酒の酌をしてくれ」

 

 だが、バナーヌは身じろぎ一つしなかった。にべもなく彼女は言った。

 

「断る」

 

 バナーヌは腕を組んで、冷ややかに男たちを眺めた。やがて、彼女は背を向けて、テッポの方へと静かに去っていった。

 

 ヒエタがヒューと口笛を吹いた。

 

「いやぁ、良いねぇ。美人な上に物静かだってのは! うちのカアチャンとは大違いだよ」

 

 ぐびりと一杯、ヒエタは椰子酒を喉に流し込んだ。そして、何もかもを忘れて、博打に没頭し始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 馬の息遣いが聞こえた。冷涼な湖の風に、ほのかに臭気が漂っていた。それは馬の臭いだった。動物特有の臭いだった。夜露に湿った草が、忍びスーツ越しにテッポの背中をくすぐった。

 

 テッポは、眠れなかった。先ほどサンベに言われたことが、ぐるぐると彼女の頭の中で残響音を伴って駆け巡っていた。

 

 一日ぶりに会ったサンベの顔はやつれていて、おまけに青ざめていた。腹が痛むのであろうか、夜目(よめ)にも分かるほどの脂汗を顔中に浮かべて、サンベは帰隊を申告するテッポを睨みつけた。テッポは嫌な予感がした。

 

 最初は物分かりの良いような、いかにも「良い指揮官」であるかのような調子で話していたサンベだったが、そのうち気が(たかぶ)ってきたのか、彼は怒声をあげてテッポを(なじ)り始めた。

 

「まったく、幹部様の娘っていうのは恵まれてるよな! 身のほど知らずに深追いをしたなら、シーカー族に(むご)たらしくぶっ殺されるってのが筋なのに、なぜかお前は助かっちまった! それだけじゃねぇ、今お前は俺の目の前で、のうのうと元気な(ツラ)して『帰ってきました』なんて(のたま)うんだからな! こちとら、一日中お前の行方を心配して、グンゼまで派遣して探し回ったってのにな! お前は、そんな俺の苦労も知らずに、今ここで平然としてそのツラを見せたってわけだ!」

 

 テッポは消え入りそうな声で指揮官に答えた。

 

「申し訳ございません。深く反省しています」

 

 だが、サンベの悪態は留まるところを知らなかった。彼はさらに言った。

 

「『申し訳ございません、深く反省しています』だってよ! ふん、俺の知らない間に、随分と偉くなったもんだ! もしそうなら、少しは申し訳なさそうな顔をしたらどうだ? ああ、そんなことはできないか。なんせ、お前はお偉い幹部ハッパ様の一人娘だもんな! 俺みたいな下っ端相手に表情なんて作りたくないってか! 『蝶よ花よ』と育てられたお嬢様は、下っ端の俺と口をきくのも嫌なんだろ! おい、なんで黙ってる? なんか言ったらどうだ……?」

 

 他にも、テッポはサンベから色々と言われた。いずれもテッポの幼い自尊心を傷つけるには十分過ぎる威力を持った、悪意に満ちた言葉だった。

 

 実のところを言えば、テッポは恐れと同時に、少し期待してもいた。父ハッパからは日頃、「任務にあたっては敢闘精神こそが重要で、何事も元気いっぱい体当たりで遂行することが肝要だ」と彼女は教えられてきた。サンベからは叱られるかもしれないけど、その心意気だけは褒めてもらえるかもしれない……彼女は、そんな幼稚な思惑を抱いて、サンベのもとへ報告にいったのだった。

 

 それが、この叱責であった。否、叱責ではなかった。上役が部下に対して行う叱責とは、仕事上の欠点を指摘し、その具体的な改善策を明確に教え示すことが含まれるはずだが、サンベのそれは単なる憂さ晴らしだったからである。

 

 決して反論してこない、そして虐め甲斐のある少女を、サンベは言葉の暴力によってしつこくいたぶった。テッポがこれほどまでにひどいことを言われたのは、生まれて初めてだった。

 

 テッポはまた、指揮官から慰めてもらいたかった。シーカー族を深追いして、いつの間にか本隊とはぐれてしまったことに気づいた時は、彼女はただの少女のように狼狽(ろうばい)した。彼女は闇の中で、人知れず涙まで流した。身に着けた技術も積み上げてきた鍛錬もまるで役に立たなかった。暗夜の街道を狂ったように走っていた時、彼女はこの世に一人だけになってしまったかのような、そういう絶望的な孤独感を味わわされた。

 

 だが、決して慰めを求めてはならない人物というものが、この世には存在する。そのことをテッポは思い知った。その代償として、彼女の心は深く傷つくことになってしまった。

 

 とどめとばかりにサンベが言い放った言葉が、横になっているテッポの耳管(じかん)の中でその時もなお反響していた。

 

「お前みたいな役立たずの足手まといは、死んだほうがマシだ!」

 

 指揮官の前では、テッポは泣かなかった。その時になって初めて、彼女の目から涙が零れた。ぽろりぽろりと、そして次第にとめどなく、透き通るような涙が、しとどにテッポの顔を濡らした。彼女が何度も拭っても、涙は止まらなかった。

 

 その時ふと、テッポは傍らに誰かが座っているのを感じた。慌てて彼女は、それまで脱いでいた仮面を、薄く顔に被せた。泣き出しそうになるのを必死に(こら)えながら、テッポは気丈に言葉を発した。

 

「何しに来たのよ、バナーヌ」

 

 バナーヌが、いつの間にかテッポの傍らに腰を下ろしていた。野卑な男たちには決して醸し出すことのできない、美しく静謐な雰囲気を、彼女は纏っていた。

 

 バナーヌは何も言わなかった。テッポは、そっと彼女の表情を窺った。雲は再び月に場を譲っていた。月は煌々と光を発していた。

 

 バナーヌの怜悧な顔立ちが白く輝いて見えた。金髪のポニーテールが優しく揺れていた。テッポにとっては驚いたことに、普段は殺気に近いような鋭い眼光を放つそのサファイアの瞳が、その時は秋のハイリア湖のような穏やかさを(たた)えていた。

 

 テッポは、目をそらした。彼女は横向きになって、背中をバナーヌに見せた。

 

 しばらくの間、沈黙が二人の間に舞い降りた。だが、いつまでも黙っていられるほど、テッポの心は落ち着いていなかった。彼女は言った。

 

「何? 用がないなら向こうへ行って。今は一人になりたいの……」

 

 突然、バナーヌがテッポに手を伸ばしてきた。テッポは一瞬、体を震わせた。しかし次の瞬間、彼女は、バナーヌの手が自分の背中を優しく撫で始めたのを感じた。テッポは戸惑ったように言った。

 

「ちょっと、何のつもり……? 私、わたし、別にそんなことをされる必要なんてない……ないわ……私、わたし……」

 

 テッポの言葉は、乱れていった。バナーヌは何も言わなかった。ただ優しく、癒すかのように、バナーヌはテッポの背中を撫で続けた。

 

 いつの間にか、テッポの頭からサンベの言葉は完全に消えていた。その代わりのように、テッポの心の中には、今日というたった一日の短い時間の中で鮮烈に目に焼き付いたバナーヌの姿の数々が、思い浮かんでいた。

 

 バナーヌ。テッポの中で、その名前が優しく響いた。初めて出会った時は同士討ちをしてしまって、さらには「ダンコー・クニ」で危うく殺しそうになった。でも、バナーヌはまったく怒らなかった。すぐに許してくれた。

 

 バナーヌ。無口で無表情で、バナナジャンキーで、マックスドリアンが嫌いで、外で裸になって水浴びをする変わり者。でもすごく強くて、敵を相手に一歩も退かない。いつも凛としていて、決して取り乱すことがない。

 

 バナーヌ。爆弾で魔物を殺して、その無惨さに動揺していた時に、「よくやった」と褒めてくれた人。魔物の大群をこともなげに退けて、自分を無事に仲間のところまで導いてくれた人。

 

 バナーヌ。とても綺麗な人、とても優しい人……

 

 突然、バナーヌが静かに、月に(うそぶ)くようにテッポに語りかけてきた。バナーヌは言った。

 

「テッポ。あなたと会えて、良かった」

 

 熱い涙が、テッポの両目にあふれた。テッポは叫んだ。

 

「バナーヌ!」

 

 テッポは衝動に身を任せて起き上がり、バナーヌにしがみついた。彼女はバナーヌの胸に顔を埋めた。幼子が母親を求めるように、彼女はバナーヌをその両手で、力いっぱい抱きしめた。

 

 泣きながらテッポは言った。

 

「バナーヌ、私、わたし……」

 

 バナーヌが答えた。

 

「泣け。泣いて良い」

 

 テッポは泣いた。テッポは安心して、泣いていた。バナーヌも、そっとテッポを抱きしめ返した。

 

 月が二人を優しく照らしていた。ここまでの長い旅路を越えてきた二人を祝福しているようだった。そして、これからの困難な旅路に幸あれと祈っているようだった。

 

 いつの間にか、嗚咽は止んでいた。バナーヌの腕の中で、テッポは穏やかな寝息を漏らしていた。バナーヌはそっと彼女を地面に横たえた。彼女は馬車から毛布を持ってきて、あまりにも小さな身体にかけてやった。

 

 しばらく、バナーヌはテッポを見ていた。その次の瞬間には、彼女の瞳から先ほどまでの温もりが消えていた。その目はある種の決意と、そして怒りの色を帯びていた。

 

 バナーヌは、博打に興じているだらしない男たちへ目を向けた。行動を起こさねばならない。彼女は歩き始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ヒエタは、今夜の博打の成果に満足していた。だが彼は、入手したルピーとバナナの多さに対して満足したのではなかった。博打の手練れたる三人の馭者たちの鼻を明かしてやった。そのことが、彼の自尊心をくすぐっていた。

 

 彼の背後に、バナーヌが音もなく現れた。博打の最中、ずっと椰子酒の杯を重ねていたヒエタの顔は、赤くなっていた。彼は仮面を外して顔を拭うと、そのふやけた表情を彼女に向けた。彼は言った。

 

「おう、お嬢様はもうお休みかい? そんなら、どうだ、ここからはひとつ大人の時間ってことで、アンタも一杯椰子酒をやらないか……」

 

 聞く耳を持たないとばかりに、ぴしゃりと打つようにバナーヌが言った。

 

「話がある」

 

 それでもヒエタはへらへらと笑っていた。彼は言った。

 

「それはなんだい? 儲け話かい?」

 

 バナーヌは言った。

 

「任務についてだ」

 

 彼女の燃えるような眼差しに射抜かれて、ヒエタは浮ついた気分が急速に冷めていくのを感じた。手に持っていた酒の杯を地面に置くと、彼は大儀そうに立ち上がった。彼は、手を腰にやった。

 

 馭者たちは、張り詰めた雰囲気を察して黙っていた。

 

 ヒエタは相手を探るような目をして、軽薄さに少しばかりの警戒感を混ぜつつ言った。

 

「ふん……任務。任務ねえ。あんたはどんなことが知りたい? 俺たちの指揮官殿は腹痛で動けないし、怪我をした馬の代わりを探しに高原の馬宿へ行ったモモンジとヒコロクは一日経っても戻ってこないし、街道は魔物の弓矢で制圧されているし、俺たちはとっくにやる気を失ってて指揮官殿には愛想を尽かしてる、ってこと以外なら、特に教えることはないな」

 

 バナーヌは無表情ながら、熱心にヒエタの言葉を聞いていた。しばらく考えるようだったが、やがて彼女は静かに口を開いた。

 

「街道を強行突破することは可能か?」

 

 ヒエタが律儀に答えた。

 

「無理だね。四頭立ての馬車は速度が出るが、出足(であし)が遅い。街道をノロノロと走り始めたら、たちまち魔物の矢でハリネズミになっちまうだろうさ。おまけに車軸が歪むくらい荷物(バナナ)を積んでるし、馬は各三頭しかいない。どうしたって離脱する前にやられちまうだろうな」

 

 バナーヌは、また問いを発した。

 

「発煙弾で遮蔽するのはどうだ」

 

 ヒエタは答えた。

 

「たとえ何十発も発煙弾を焚いたとしても、大きな馬車を三両も隠し切るのは難しいだろうな。それに、ここは風が強い。煙幕はすぐに消えちまう」

 

 バナーヌは言った。

 

「では、魔物を排除するしかない」

 

 ヒエタは乾いた笑い声をあげた。彼は言った。

 

「ハハハ……それができたら苦労はしないさ。考えてみろよ。俺とお前と、腹痛の指揮官殿と、半人前のテッポの四人。その四人で、魔物が待ち構えているあの高台へ攻めあがる。それはちょっと無謀じゃないですかね? あ、この馭者たちは戦闘に参加させないからな。こいつらがやられちまったら、馬車が動かせなくなる」

 

 数瞬の沈黙があった。バナーヌはヒエタの顔を見据えると、言った。

 

「モモンジとヒコロクを迎えに行く」

 

 ヒエタは驚いた。彼は目の前の女団員が、そこまで自発的に行動をする類の人間だとは思っていなかった。バナーヌの無表情の裏に固い決意があることを、ヒエタは遅まきながら察した。彼はわざと、おどけたような声をして言った。

 

「そりゃあの二人が合流すれば、高台の魔物どもなんてイチコロだろうさ。だが、ここから二人が今いるはずの『高原の馬宿』まではけっこう距離があるぜ? まさかアンタ、走っていくつもりか?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「馬を使う。足が速いのを一頭よこせ」

 

 ヒエタは肩をすくめた。

 

「なるほど、ご名案だな。でも、ここから馬に乗って出るのは一苦労だぞ。魔物どもは昼も夜もなく俺たちを見張ってやがるからな。この斜面から姿を現した瞬間には、矢の雨が降り注ぐことになるってわけさ。一発でも矢が当たれば、その馬はもう馬車を牽くことができなくなる。そして俺たちは、もうこれ以上使える馬を減らすわけにはいかないのさ」

 

 喋りながらヒエタは、ひたいに冷や汗をかいているのを感じていた。この女、有無を言わさぬ妙な迫力がある。そこまでしてバナナを運びたいのだろうか。ここでふと、ヒエタは妙なことを考えた。いやまさか……もしかするとこの女、ただの援軍と見せかけて、カルサー谷の本部が俺たちに送り込んだ督戦隊なのでは……?

 

 ヒエタの胸中を知ってか知らずか、バナーヌはポツリと言った。

 

「策ならある。今から言う物を用意しろ」

 

 ごくりと喉を鳴らして、ヒエタは頷いた。

 

 バナーヌは言った。

 

「音響弾に、発煙弾三発、夜間用の信号花火三発、それから、バナナの皮」

 

 続けて、バナーヌは言葉少なく策の詳細について語った。それを聞いて、ヒエタと馭者たちは忍び笑いをした。

 

「そいつはいいな! 最高だよ!」

「愉快そうだな、是非やってくだされや」

「あいつの驚く顔が目に浮かぶわい」

「なに、ちょっとした悪戯(イタズラ)じゃ。やってもバチは当たらんよ」

 

 嬉々として、男たちは準備を始めた。

 

 バナーヌは、ふとテッポのほうへ目をやった。そこには、毛布だけが落ちていた。

 

 凛とした声がバナーヌの傍らから聞こえてきた。

 

「話は聞いたわ。私も一緒に行く」

 

 そこには、晴れやかな表情のテッポがいた。テッポは言った。

 

「発煙弾と花火なら任せて。馬車に積んである物の中から、とびきり性能の良いものを選ぶから」

 

 バナーヌは頷いた。テッポはもう大丈夫だろう。彼女は言った。

 

「任せた」

 

 にわかに一行は活気づいた。しかし、指揮官のこもるタコツボは、未だに沈黙を守ったままだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 サンベは、久しぶりに腹痛から解放されていた。彼はタコツボの底深くに身をひそめていた。彼は腹を(いたわ)るように両腕で抱いていた。彼は心地よい微睡(まどろみ)に精神を揺蕩(たゆた)わせていた。

 

 テッポが無事に帰ってきたのは、実に良いことだった。これであのハッパに殺される心配はしないでよくなった。それに、あのいけ好かない幹部の大切な一人娘を思う存分罵ってやったことで、鬱屈した心が一気に軽くなった。それだけで、どんなに薬を飲んでも収まらなかった腹痛が軽くなったのだから、そういう点ではあの役立たずの小娘もちょっとは有用だったわけだ……サンベはそう思った。

 

 夢現(ゆめうつつ)のままに、サンベは都合の良い妄想を巡らせた。どうせ明日になったら、テッポと同じような感じでモモンジとヒコロクは帰ってくるだろう。二人が帰ってきたら、高台の魔物どもに逆襲だ。部下共は、特にあのヒエタは、俺のことを明らかに軽蔑しているからな。ここらで一つ、魔物どもをできるだけ(むご)たらしくぶち殺してやって、未来のフィローネ支部長が本来持っている(すご)みというやつを見せつけてやらねばならない……

 

 それに、とサンベは考えを続けた。あのカルサー谷からの援軍の女は、あくまで勘だが、危険だ。パシリのバナーヌの噂は以前どこかで聞いたことがある。だが、ただのパシリが単身で長駆カルサー谷からここまで来るわけがない。あの佇まいと雰囲気からも、あの女はただの下っ端団員ではないだろう……

 

 サンベは考え続けた。きっとあの女は、例のウカミとかいう上級幹部がこちらに寄越した隠密、密偵に違いない。あの女はなんだかんだとこちらの粗探しをして、良くない報告を本部に上げるつもりだろう。

 

 そうなる前に、何とかして俺の隊から追い出さなければ……そうだ、高台を攻撃する時に、俺たちの先頭に立たせれば良い。魔物にやられてくれればそれで良し、そうでなければ、俺がこの手で背中を……

 

 そこまで考えた時だった。

 

 サンベの頭上で突如、大爆音が響き渡った。それは周囲数キロに響き渡った。静かな夜には、まったく似つかわしくない爆発音だった。

 

 サンベの聴覚は一時的に失われた。甲高い耳鳴りがしていた。彼は狼狽しながら叫んだ。

 

「うお、なっ、なんだっ!? なんなんだっ!? 敵襲かっ?」

 

 何か重量感のあるものが、穴の壁面を跳ねながら落ちてきた。

 

「むっ?」

 

 目をこすった後、サンベは穴に落ちてきたものを確認した。なんだ、なんだ? さっきの爆発音に驚いた野ネズミでも、俺のタコツボに逃げ込んできたのだろうか……?

 

 野ネズミなどではなかった。

 

 それは、黒々とした輝きを放つ爆弾だった。

 

 サンベは叫んだ。

 

「なっ!」

 

 彼は慌ててそれを掴み、外へ放り投げようとした。だが、爆弾は手の中で破裂した。案外、弱い爆発だった。それは軽い音を立てて、爆竹のような弱々しい衝撃を放った。

 

 直後、それは濛々(もうもう)と、灰色の濃い煙を盛大に吹き上げ始めた。

 

 その煙を吸い込んでしまったサンベは、途端に激しく咳き込んだ。

 

「ゴホッゴホッ……! ゴホッ……! なんだ、これは!? おい、なんで発煙弾がここにある!?」

 

 だが、その叫びが終わらないうちに、さらに爆弾が投げ込まれた。爆弾はさきほどのものと同じように破裂し、同じように煙を出し始めた。呼吸すら困難になるほどの濃密な煙がタコツボに充満した。サンベはさらにむせた。

 

 そこへ、赤青黄色の無数の火花を撒き散らす信号花火が加わった。それはタコツボの狭い空間を所狭しと飛び回った。バチバチと火薬の爆ぜる音を立てて、火花が座り込んでいるサンベに襲い掛かった。サンベはついに悲鳴を上げた。

 

「うっ、うわぁあああっ!」

 

 サンベはタコツボから脱出しようとした。彼は穴のふちに手を伸ばした。彼は両手に力を込めて、その全体重を持ち上げようとした。

 

 しかし、彼の手は思いきり滑った。彼は叫んだ。

 

「なっ、なにぃいいっ!?」

 

 予想だにしない事態にサンベは混乱した。穴の中に何かが落ちてきた。

 

 それは、バナナの皮だった。

 

「ゴホッゴホッ! クソ、ふざけた真似を! ゴホッ!」

 

 何度も何度も、サンベは脱出しようとした。そして、何度も何度も彼の手は滑った。飛び跳ねる信号弾のせいで、サンベの腕や脚に無数の火傷ができた。

 

 どうやら、穴のふちには隙間なく、大量のバナナの皮が敷き詰められているようだった。サンベは言った。

 

「クソッ! 誰だこんなことをしたやつは! ぶっ殺してやる!」

 

 絶望的な努力をサンベは繰り返した。だが、それも一分か二分の間に過ぎなかった。ついにサンベは、タコツボの外へと身を乗り出すことに成功した。

 

 彼を、無数の矢が待っていた。騒ぎを聞きつけて高台に集結した魔物たちが、一斉にそれを放ったのだった。

 

 サンベは、声を漏らした。

 

「あっ」

 

 嫌な感触がした。その時サンベの下腹部で、何か決定的な事態が発生した。

 

 この騒ぎの間に、一頭の馬が別の煙幕に隠れてそこから走り去っていった。馬は大きな影と小さな影を乗せていた。

 

 サンベも魔物も、それに気づかなかった。




「例外は許されている」
「指揮官が無能の場合だ!」
 戦場で死ぬ指揮官の五人に一人は味方による故意の殺害なんてのはよく言われます。兵士の回顧録を見ると「そんなこともあるかなー」と思いますが、その一方で「まさかそんなことはないだろー」とも思います。想像を絶する困難な状況下、その場にいる人間にしか分からない心理があります。ただ、想像するしかありません。
 今回は少し長くなりましたが、二十二話からの一連のエピソードのしめくくりという感じです。これ以上長くするのは私の技量的に限界なので、次回からは文量を抑えると思います、たぶん。

※加筆修正しました。(2023/05/09/火)
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