ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

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第三十五話 「こんな夜中にバナナかよ」

 バナーヌとテッポは、アラフラ平原へと向かっていた。そこで代替馬を手に入れようとしている二人の仲間、モモンジとヒコロクに合流するためだった。

 

 馬が手に入らなければバナナ輸送馬車はカルサー谷に到達することはおろか、ハイリア大橋を渡ることすらできない。彼女たちは無事に馬を入手できるのだろうか。カルサー谷のイーガ団アジトの命運は、今や彼女らの双肩にかかっていた。そう言っても決して過言ではなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ところで、馬について次のような寓話(ぐうわ)が伝えられている。

 

「昔々、大昔、まだまだハイリア人の数が少なく、住んでいるところも狭く、あまり他の種族と交流のなかった時代のことです。一人のハイリア人の男が、馬に乗ってラネール地方へと旅に出ました」

 

「男が道を進んでいくと、向こうから見たこともない人がやって来ました。その人の肌は奇妙な暗い緑色でした。全身がウロコで覆われていました。頭はちょうど魚のような大きさと形で、腕からはヒレが垂れ下がっていて、目は鋭く、手は長くて地面につきそうなほどでした。男は知りませんでしたが、その魚のような人はゾーラ族という種族の一人でした」

 

「二人は挨拶をしました。男がゾーラ族に言いました。『どうやらあなたは歩いて喋る魚の種族らしいが、こんなに埃っぽくて乾いた道を歩くのは大変でしょう』 ゾーラ族が答えました。『確かに、里を出てからここ数日、道を歩いていると体が乾いて仕方がありません』 ゾーラ族は続けて男に言いました。『あなたは足が四本あって、歩くのがとても楽そうですね。羨ましいです』 男は仰天しました。『いいえ! 私の足は二本ですよ!』 しかしゾーラ族は首を左右に振りました。『だって、現に四本の足で大地に立っているではありませんか』」

 

「そう、そのゾーラ族は、馬を知らなかったのです。男は、相手が馬すら知らないのを残念に思いました。彼は馬から降りました。ゾーラ族は仰天しました。『なんということを! 自分から下半身を捨てるなんて!? あなた、大丈夫ですか!? 血は出ていませんか!?』 騒ぐゾーラ族を(なだ)めるのに、男はとても苦労しました」

 

「話すうちに意気投合した彼らは、互いに贈り物をしてお別れをすることになりました。男は、ゾーラ族に馬をあげました。ゾーラ族は男に『しずむルアー』をあげました。故郷に帰ると、男は『しずむルアー』を使って毎日たくさんの魚を釣り上げました。ついには、男は王国一の漁師として名声を得ました。『これは良い贈り物をもらったわい』と男は思いました」

 

「一方、馬をもらったゾーラ族も大喜びをしました。これで陸を歩くのが楽になります。男と別れた後、彼はすぐに馬に乗ることにしました。ですが、彼は大変な目に遭いました。まず乗るのに何回も失敗して、傷だらけ泥だらけになりました。涙を堪えて、彼はやっと馬にまたがることができました。ですが馬は得体の知れないものを背中に乗せるのを嫌がったのか、それとも魚のような生臭いにおいに我慢できなかったのか、暴走を始めてしまいました」

 

「ゾーラ族は、振り落とされまいと必死に馬にしがみつきました。馬はますます猛り狂いました。馬は脚の赴くままに駆けに駆けて、そのうちゾーラの里にやって来てしまいました。背中のゾーラ族は、もう息も絶え絶えでした。ちょうど里の広場では、新しく出来上がった夜光石の王妃様の彫像の除幕式が行われているところでした。そこに暴れ馬が乱入したので、大変な騒ぎになってしまいました」

 

「馬はひとしきり暴れました。馬は逃げ惑うゾーラ族をはね飛ばし、背中にしつこくしがみついていた彼も振り落としました。最後に馬は王妃様の彫像に体当たりをして、それを粉々に砕いてしまいました。そして馬は何処(いずこ)へともなく走り去ってしまいました」

 

「王は、彼があのような怪物を連れて帰ってきて、しかも自分の深く愛する王妃様の彫像を破壊したことに大変怒りました。哀れな彼は罰を受けました。彼は寒いラネール山に連れて行かれて、そこで氷漬けにされてしまいました」

 

「教訓 何かを欲する時は、その欲しいものが本当は何なのか、よく考えること。よく考えて充分に分かった上で、それを欲すること。そうすれば『しずむルアー』を手に入れることができる。よく考えなかったら『暴れ馬』を手に入れることになる」

 

 この寓話はムリグー兄弟が編纂した『ハイラルの子どもと家庭のためのメルヘン集』の一篇「しずむルアーと暴れ馬」に収録されている。

 

 この童話については、様々な批判がなされた。例えば、「ハイリア人だけが思慮が深くゾーラ族がそうではないという描かれ方は、ハイリア人が自らの文化水準の高さを誇るための一種の捏造である」と主張する者がいる。他には、「霊峰ラネールをゾーラ族が処刑場として使うのはあり得ない。そのような描写は、ゾーラ族の文化を野蛮なものとして見る偏見を内包している」と説く者もいる。さらには、「この寓話(ぐうわ)がハイリア人の側にしか存在せず、ゾーラ族側のバージョンが存在しないのは、とりもなおさず、ハイリア人によるゾーラ族への根深い蔑視があり、そのひとつのあらわれとしてこの物語が書かれたことを示している」と主張する研究もある。

 

 文化的優越や種族間差別といったすぐに結論の出ない問題はいったんおく。ここで我々が注目すべきであるのは、やはり馬そのものだろう。

 

 この寓話は太古の昔から、それこそ異種族との交流さえなかったようなそのような大昔から、ハイリア人が他のどのような種族よりも上手に馬を乗りこなし、馬と共に旅をしていたことを伝えている。確かに、ハイリア人の特徴は何かと問われれば、「それは馬術である」と答えざるを得ない。それほどまでにハイリア人とハイリア人の生活は馬に依存している。

 

 神々によるハイラルの大地開闢(かいびゃく)以来、人間は数多くの人間以外の友を得てきた。例えば、それは牛でありヤギでありコッコであり、そして、馬であった。

 

 これらの家畜の中でも馬は最も性質が穏やかでよく人に馴れる。そして、あまり危険ではない。牛には太く大きな角があり、暴れ始めれば小さな納屋などたちまち破壊してしまう。ヤギもその突進をもろに喰らえば、人間は簡単に命を失う。コッコの危険性については、いまさら言うまでもない。彼らにちょっかいを決して出してはいけないし、ましてや暴力など絶対に振るってはいけない。コッコの報復は目を覆いたくなるほどの惨状を現出させる。その点、馬は何も持っていない。太く大きい角も、突進するほどの激情も、コッコのような憤怒も、馬は持っていない。イノシシのような尖った牙もなければ、熊のような鋭い爪も持たない。

 

 まさに馬は、人間の友となるべく生まれてきた種であるといえる。

 

 その背は広く、人一人を乗せるに充分足りる。その口にハミと手綱を通し、その背に(くら)(あぶみ)を載せれば、人は自由自在に馬と意を通じ合わせることができる。さらに調教がなされれば、馬は人を乗せて障害物を飛び越えて走ることはもちろん、馬車を()いたり、農具を牽いたり、装甲を纏った騎士を乗せて戦場を駆けることもできるようになる。

 

 伝説によると、ハイリア人の祖先たちは天空に浮かぶ大地で生活していた時、大きな鳥を馬のようにして扱っていたという。動物を乗りこなすことができる能力が血に乗って、悠久の歴史の中を連綿と受け継がれてきたのだろうか。

 

 ハイラルの大地もまた、馬たちの友であるかのようだった。より正確に言えば、ハイラル平原こそは、まさに馬が活動するのにうってつけの土地だった。広大な平原には真っ直ぐに通った街道が幾筋も作られ、荷物を満載した馬車は軽々と道を越えていった。

 

 なにより、ハイラル平原には、軍馬(ぐんば)の突撃を遮るものが何一つとしてない。王国の誇る精強なる騎士団は戦いの度に、立ちはだかる敵を完膚なきまでに叩き潰したものだった。馬に騎乗した騎士たちは分厚い全身鎧に身を包み、ギラリと鈍く光る騎士の槍を林立させて、横一列に並んで突撃をした。騎士たちが叫喚を上げて殺到すれば、どのような魔物であっても粉砕された。その大瀑布(だいばくふ)がごとき一斉突撃の威力は、ハイリア人がまさに中原の覇者であることの証明であった。

 

 だが、それは馬の機動力が充分に発揮されるハイラル平原に限った話であった。辺境の峨々(がが)たる山脈や溶岩を噴き出す火山、深い谷や急な河川、暗い密林や大豪雪地帯といったところでは、ハイラル王国自慢の騎馬軍団も物の役に立たなかった。ハイラル王国は、ある意味では、その最も愛する友である馬によって、王国の領分というものを決定されてしまったのかもしれない。

 

 ある記録は、黒き砂漠の民の王であり、魔盗賊であった男の言葉を伝えている。その男は、王国近衛騎士団が魔物の群れを粉砕する様を観戦して、以下のように言ったという。

 

「実に素晴らしい。だが、これは戦争ではない」

 

 男は、ハイラル王国が誇る騎士団は真なる意味での「戦争の術」を知らぬ、と述べたのであった。

 

 なるほど、その男のいうとおり、騎士たちはよく武装されており、よく訓練されてよく鍛え上げられてはいた。だが、彼ら騎士団には戦闘組織に不可欠なある種の「有機的な結合」が欠けていた。それをかの男は見抜いたのであった。男には、騎士たちが個人的な武名を上げようとバラバラに戦っているようにしか見えなかった。騎士たちは無秩序で、戦争の術たる陣形を知らぬ。男はそう考えた。さらに言えば、騎士たちは良好な環境と優秀な軍馬に胡坐(あぐら)をかいていて、戦術の考究を怠っていた。仮に戦術があったとしても、それをごく大雑把なものとしてしか捉えていない。そのように男は思った。

 

 黒き砂漠の民の王は、後にハイラル王国に反旗を翻した際、自らが作り上げた秩序ある軍団を率い、練り上げた新戦術を以て、栄光あるハイラル王国近衛騎士団を粉砕した。

 

 ともあれ、このような辛酸を舐めつつ、ハイラル王国の騎士団は長い時間をかけて成長していった。

 

 あの百年前の大厄災の際、王と王城を失った騎士団たちは最後まで戦意を失わなかった。彼らは避難民たちを守るべく、文字通り肉の壁となった。彼らは古代の自動戦闘機械が発する真っ白な光線を受けて灰となった。彼らは勝ちに乗じた魔物の群れに取り囲まれ、切り刻まれた。押し寄せる歩行型ガーディアンの軍団に対して彼らは華々しくも無惨な突撃を敢行した。ついに長き歴史を誇る騎士団は玉砕したのであった。

 

 騎士と馬の二つによって発展してきたハイラル王国は、やはり騎士と馬の二つによって幕引きを彩ったのだと言えよう。

 

 人間の争いに巻き込まれた馬たちは、ある意味で人間たちよりも悲惨だった。あの大厄災の際、人間に劣らぬくらい数多(あまた)の馬の命が失われた。それまで平原のあちこちで見られた野生馬は、ほとんど見られなくなってしまった。王国は滅亡する時に、王国にとって最良の友を失っていたのである。

 

 およそ百年が経過した現在、ようやく馬たちがふたたび人間の前に姿を見せ始めている。彼らは睦まじげに肩を寄せ合い、柔らかな草を食んでは、歌うように平原を駆けていく。

 

 だが、歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目はさらなる悲劇として。真の滅びの途上にあるこのハイラルで、馬を戦いに利用せんと暗躍する漆黒の影が蠢いている。

 

 

☆☆☆

 

 

 フィローネ地方は中央ハイラルの南に広がる、広大な緑の海原のごとき草原地帯である。日光によってハイリア湖から蒸発した水分が、豊富な雨となってフィローネの草と樹木を育む。その植物が、虫、鳥、獣など、ありとあらゆる生命にとっての揺りかごとなり、食料庫となっている。

 

 アラフラ平原は、そのフィローネ地方に無数にある平原地帯の一つである。ハイリア湖南岸の樹海フィンラス、そのさらに南方にアラフラ平原は位置している。

 

 アラフラ平原は、平原というよりも、一種の箱庭的な「高原」といって差し支えはない。地図上では、その周辺にバルーメ平原やグチニザ平原、西に目をやればテトラ平原などの文字が読み取れるが、それらのどれともまったく違う景色をその平原は有している。

 

 アラフラ平原と樹海フィンラスを結ぶ道は一本だけである。道の両側は高い崖となっている。道は、樹海側から平原側へ向かって、急激な登りの坂道となっている。

 

 その坂を登れば即座に視界が開けるというわけではない。平原とはいえ、アラフラ平原はまったく平坦な地形ではない。小規模な丘陵をその平原は有している。平原に繁茂している草は膝上までの高さがあり、時として胸の上にまでそれは達する。平原を歩く際の見通しは良くない。

 

 アラフラ平原の地形的特徴として、その南西部にあるハラヤ池と、東部にある疎林が挙げられる。ハラヤ池は特に魚も()まないごく浅いこじんまりとした池である。その水は澄んでいて飲用に適している。疎林は、人間がこの地に定住する際に必要とする木材を提供するだけの規模がある。また、容易に馬を乗り入れることができないほどには、木々が生い茂っている。

 

 上記のごとき地形的特徴により、アラフラ平原は(いにしえ)より、ハイラル王国にとってある重要な役割を担ってきた。それはすなわち、軍馬の供給である。

 

 高原特有の薄い酸素と澄んだ空気により、アラフラ平原産の馬の心肺機能は、他の平原産のものよりも格段に優れている。豊富な草と飲用水により、アラフラ平原の馬たちは放し飼いにされているだけで他の地方のどんな馬よりも頑健強壮に育つ。自由で豊かな環境で育った馬たちは、自由でのびのびとした性格をしている。

 

 優れた運動能力と、人間の指示をよく聞く従順な気質という、およそ使役(しえき)馬に望み得る最高の要素二つを兼ね備えているのがアラフラ平原産の馬であるといえる。

 

 かつては王城から派遣された軍馬徴用官がアラフラ平原の奥、現在の「高原の馬宿」が建っている場所に居を構えていた。軍馬徴用官は毎日、自身で馬を駆っては部下と共に野生馬を追い回し、軍馬としての適性があるもの、馬車や砲車を牽くのに適しているもの、あるいは農耕馬として適当なものなどを見分け、選別していた。

 

 ある時代の軍馬徴用官が王城へ送った報告書には、アラフラ平原で捕獲した野生馬七百九十六頭のうち、軍馬として実用に適するものは四百八十九頭、輓馬(ばんば)としては二百五十四頭、農耕馬としては五十三頭が計上されている。農耕馬は、一般的に軍馬や輓馬と比較して能力が劣り、また輓馬も軍馬に及ぶべくもないところから、仮に軍馬を一等級の馬とすると、アラフラ平原における野生馬のおよそ六割が一等級相当となる。

 

 同時期のハイラル平原のロンロン牧場では、一等級の軍馬の割合はおよそ二割であった。このことを併せてみても、アラフラ平原の六割とは驚異的な数字である。ハイラル王国軍の一個騎兵連隊は五個中隊およそ五百騎で編成されていた。ゆえに、アラフラ平原産の馬だけで優に一個騎兵連隊を賄えた計算となる。

 

 王国の軍馬徴用官だけではなく、近衛騎士たちも、自らの乗用馬を求めてしばしばこの地に足を運んだという。騎士たちはアラフラ平原のさらに南にあるマーロンの泉へ行って大妖精に祈りを捧げた後、軍馬徴用官の館に泊まりながら、彼らは時間の許す限り自分の好みに合う馬を探し続けた。馬の取り合いに熱が入りすぎ、ついには騎士同士の流血沙汰にまで発展したこともしばしばあったという。

 

 かの有名な勇者の馬エポナも、地元の人間が主張するところによれば、もとはこのアラフラ平原で産まれた馬であったという。エポナは当歳馬の時にハイラル平原のロンロン牧場へ送られたということである。だが、この説はよくある行き過ぎた郷土愛からくる事実誤認の一種として、研究者からは否定されている。

 

 大厄災の後、アラフラ平原の馬も、他の平原と同じように、その数を著しく減らした。ハイラル王国の対大厄災戦はごく短期間で終結し、新たに馬が徴用されることはなかったので、戦争が減少の直接的な原因ではなかった。かといって自然環境が激変したわけでもなく、また、生き残った人間が乱獲したわけでもない。では、現象の原因はいったい何であったのか。

 

 原因は、魔物であった。ボコブリンがこのアラフラ平原に棲みつくようになってから、馬たちはその数を減らした。ハイラル王国健在なりし頃は、この平原での生存はおろか接近すら許されなかった魔物たちは、大厄災後は誰からも邪魔されることなく、大手を振って、大挙してこの平原へと雪崩(なだれ)こんだ。

 

 魔物の中でもボコブリンは特に知恵がない。ボコブリンたちは、馬を優しく(いたわ)り、調教し、太らせ、優秀な仔馬を産ませるといった、畜産的な技術や知見を何一つ持ち合わせていなかった。当然のことながら、魔物たちはアラフラ平原の「馬」という資源を乱獲し、食い潰してしまった。数年を経ずして、アラフラ平原に棲む野生馬の数は最盛期のおよそ三割を下回るようになった。

 

 人間たちも、この状況を指を(くわ)えて見ていたわけではない。特に、ハイラル各地で馬宿を経営する馬宿協会は、伝統あるこのアラフラ平原が魔物の跋扈(ばっこ)する地と成り果てたことに、強い不快感と懸念を抱いていた。なんとしてでも魔物を駆逐して、アラフラ平原を再び馬たちの「楽園」としなければならない! そう決意した馬宿協会は、その資金力と情報力と人脈とを生かして、アラフラ平原奪回のための義勇軍を募った。義勇軍は苦戦を重ねつつも、次第に魔物の勢力を弱らせていった。ついに人間側は、アラフラ平原のおよそ七割をふたたび支配下に収めることに成功した。

 

 しかし、魔物たちも義勇軍のそれ以上の前進を許さなかった。魔物たちは逆襲を繰り返し、多少押し戻すこともした。戦況は完全に膠着(こうちゃく)してしまった。

 

 これが、ここ十年間にこの平原で起こった話である。今でも魔物たちは馬に乗って人間を襲い、高原の馬宿に襲撃をかけるなど、活発な戦闘行動を続行していた。

 

 イーガ団フィローネ支部に所属するモモンジとヒコロクが、代替馬を求めてわざわざ向かったアラフラ平原とは、実に上述のような複雑にして苛烈な戦いの(ちまた)だったのである。

 

 

☆☆☆

 

 

 アラフラ平原の東部に、その疎林は、あたかも小さな膏薬(こうやく)を大地にぺたりと貼ったように存在していた。

 

 フィローネ支部所属の団員の一人であるヒコロクは、(こら)えきれないうめき声を何とか圧し殺そうと努力していた。彼は、先ほど腹に負ってしまった大きな傷口に、消毒用の蒸留酒を吹きかけていた。

 

 損傷した細胞と切断された神経が、酒の持つ強烈なアルコールによって容赦ない打撃を与えられた。彼はほとんど悲鳴のような声を上げた。

 

「クソぉ……コイツぁ、沁みるぜ……!」

 

 だがこれで良い。こうしなければならないのだ。ヒコロクは痛みで朦朧(もうろう)としながらそう思った。俺の婆さんも掠り傷だとか言って強がって傷をそのままにしていたら、あっという間に全身が紫色に膨れ上がって死んじまった。こうして酒で消毒しないと、俺もオクタ風船のように膨れ上がって、最期は婆さんのように……彼は少しだけ身を震わせた。

 

 ヒコロクはまだ若かった。彼は、数年前に同じフィローネ支部の女性イーガ団員と結婚したばかりだった。子どもはまだいなかった。欲しいとは思っていたが、彼は最近忙しくて、ゆっくりと家庭で過ごすことができなかった。

 

 カルサー谷から「野獣と魔物の巣窟」と揶揄されるフィローネ支部において、ヒコロクは明らかに平均以上の容貌を有していた。その涼やかな目と、筋の通った鼻梁と、血色の良い唇はつとに有名だった。「器量良しの妻を得たのも顔のおかげであろう」と、彼は他の団員からやっかみ半分に言われた。

 

 だが、本人としてはそう思っていなかった。ヒコロクが自身の最大の長所とするところは、やはり戦闘能力であった。特に、彼は弓矢の腕前を自慢としていた。

 

 パックリと腹部に大きく開いた傷口からは、未だに真っ赤な血液が溢れ出ていた。簡易的な手当てはしたが、流血は容易に止みそうになかった。

 

 ポーチから取り出した真っ白なさらしを、ヒコロクは力任せにぐるぐると傷口に巻いた。なんとも、戦闘者としては恥ずかしい姿だ。彼の口から思わず愚痴がこぼれた。

 

「まさか、才能に溢れたこの俺が、こんな有様になるとはな……!」

 

 楽観的な性格をしている彼でも、自分の傷が相当重いことを意識していた。これでは自慢の弓も満足に引くことができない。彼は苦々しくそう思った。

 

 彼は暗澹たる気分のまま包帯を巻き終えた。その時、疎林の外からヒコロクに向かって、黒い影が一直線に走り込んで来た。

 

 思わず、彼は傍らの地面に置いてある首刈り刀を手に取った。しかしその影の正体に気づくと、彼はホッとした。その弛緩した気持ちを隠しながら、彼は低く抑えた声を影に向かって発した。

 

「……おい、モモンジ! 真っ直ぐに俺のところに来たら、魔物どもに俺の居場所がバレちまうじゃねーか。俺は今、怪我をしてるんだぜ? ただの怪我じゃない、はっきり言って重傷だ! 奴らがここに来たらロクに抵抗もできずに(なぶ)り殺しにされちまうんだぞ」

 

 モモンジと呼ばれたその黒い影は、低い怒声を受けて、ビクリと怯えたように体を震わせた。モモンジは直立不動の姿勢を取り、逆さ涙目の紋様が刻まれた白い仮面を取って、深々と頭を下げた。モモンジは、若い娘に特有の甲高い声を上げた。

 

「も、申し訳ありません、ヒコロク先輩! 次からは気をつけますっ!」

 

 モモンジの謝罪の言葉は疎林中に響いた。ヒコロクの神経は、またもや余計な心配で掻き乱された。敵に気づかれるかも。彼は言った。

 

「バカッ。大声を出す奴がいるか! 敵に気取られるだろ……ほら、俺のそばに来て、今度は声を小さくして、偵察の結果を知らせろ!」

 

 そこまで言ってから、彼はモモンジの顔を見た。モモンジの歳の頃は十四か十五、まだ小娘だ。焦げ茶色の瞳が彼を見つめていた。その目は涙ぐんでいた。目尻はやや眠たげに垂れていた。その顔は綺麗に整ってはいるが、どちらかといえば美しさより可愛らしさを感じさせる。せっかく可愛い顔をしているのに、疲労と緊張で引き()っている。気の毒だな、と彼は思った。

 

 モモンジの白い肌は土と草露でくすんでいた。頭巾から覗く彼女の桃色の髪は、前日より打ち続く戦闘によって汚れていた。椰子の木のように結い上げたその髷が、「もう駄目です」と言わんばかりに力なく垂れ下がっていた。

 

 そんな憔悴(しょうすい)しきったモモンジの様子を見て、ヒコロクは喉から出掛かっていた言葉を引っ込めた。彼はこう言おうとしていた。「お前、『次からは次からは』といつも言うが、その次が来たことは一度もねぇじゃねーか!」 だが、そんな罵倒文句を言って何になる? 彼は溜息をついた。

 

 こんな小娘を相手にして、ムキになるのも馬鹿馬鹿しい。彼は急に力が抜ける思いがした。まだ立ったままのモモンジに、彼はやや声のトーンを落として呟くように言った。

 

「まあ、座れ。お前も疲れただろ」

 

 モモンジは一礼すると、周囲に目をやって一応状況を確認してから、ヒコロクのそばに腰を下ろした。

 

 ゴン、と鈍い音がした。モモンジが腰から下げている刀の鞘袋(さやぶくろ)が石に当たった音だった。

 

 その刀は大きかった。細身でかつ長かった。今は鞘に収まっているその刀身は、あたかも二匹の蛇が絡み合っているかのような複雑な造りをしていた。刀の名は「風斬り刀」といった。熟練者が精神統一した上で振り抜けば、真空の刃すら生み出せる、そういう業物(わざもの)であった。イーガ団においても特に技量優良な者のみが帯刀が許される、特別な刀だった。

 

 そんな大拵(おおごしら)えの刀を、若くて背の低いモモンジが持っていた。風斬り刀はどう見ても彼女の手に余りそうな代物だった。だが、そのことについてヒコロクはどうこう言うつもりはなかった。むしろ、それがなければ自分たち二人は死んでしまうと思っていた。今は風斬り刀と、なによりモモンジの剣技だけが頼りだった。

 

 この娘は剣術馬鹿だからな。ヒコロクはそう考えた。その馬鹿さに今は賭けるしかない。彼は顎を軽くやって、モモンジが発言をするよう促した。

 

「そんで、どうだった? 偵察の結果は?」

 

 モモンジは自身の胸に手を当てた。ピッタリとした忍びスーツ越しでもはっきりと分かるほどにふっくらとした大きな胸だった。手を当てながら、彼女は小さな声で話し始めた。

 

「……はい。疎林を出たところ、すぐに哨戒中の三騎の騎馬ボコブリンに発見されました。どうやらこちらが疎林から出てくるのを待ち受けていたみたいで……ボコブリンはいずれも青色で、弓矢を装備していました。ボコブリンたちは矢を放ってきました。私は、刀で矢を払いながら草むらに飛び込んで隠れました。しばらく隠れた後、馬宿方面へ抜けることができないか試みました。ですが、もう少しで抜けられるというその時に、二匹の黒の騎馬ボコブリンと出くわしたんです。たぶん、青ボコブリンが呼んだ増援だったんでしょうね……」

 

 彼女の声は小さすぎて聞き取り辛かったが、ヒコロクはもう多少のことには目を(つむ)ることにした。彼は、さきほど傷口に振り掛けた蒸留酒をチビチビと(あお)りつつ、モモンジの報告を聞いていた。負傷時に飲酒は厳禁であることを彼もよく知っていた。だが彼は、そうでもしないとやってられない気持ちだった。これが飲まずにいられるか。馬鹿にしやがって。

 

 ヒコロクは呟くように言葉を漏らした。

 

「……ふん……それで?」

 

 モモンジは胸から膝へと両手をやると、その膝頭を握りしめた。彼女は言った。

 

「黒い二匹のボコブリンは私に接近戦を挑んできたので、叩き斬ってやりました。万全の調子なら馬ごと斬れたんでしょうけど……」

 

 ヒコロクはそれを聞き流した。()()()()()()()()()、この娘ならば普通にやり遂げるだろう。重要なのは、その後のことだった。彼はまた言った。

 

「そんで、高原の馬宿と連絡は取れたのか? ジューザとは会えたのか?」

 

 モモンジは、残念そうに首を左右に振った。

 

「いえ、駄目でした。馬宿の周囲はガッチリとボコブリンたちに囲まれていて、ゴーゴーガエル一匹這い出るだけの余裕もありませんでした。私は、二匹の黒ボコブリンを斬り倒した後、何とか囲みを突破しようと突撃したんですけど、あの、その……えっと……あの……」

 

 急にモモンジはもじもじと言い淀んだ。その理由をヒコロクは既に察していた。彼は言った。

 

「分かるぞ。『腹が減って力が出なくなった』んだろ?」

 

 ヒコロクがそう言った直後、グゥーと、腹の鳴る音が聞こえた。モモンジは夜目にも分かるほどに、顔面を赤くした。彼女は恥ずかしそうに言った。

 

「……はい、その通りです……だからここまで撤退して来たんです……本当にすいません……」

 

 ヒコロクは深く大きな溜息をついた。

 

「はぁ……」

 

 溜息と共に生命力まで抜けていくかのような錯覚をヒコロクは覚えていた。前から分かってはいたことだが、このモモンジという娘は燃費が悪すぎる。そして、その欠点がこんなところでもろに影響するとは。

 

 彼は腰のポーチを探ると「駄目でもともと」という気持ちで、その中身をモモンジに差し出した。

 

 それは黄金に光り輝く、一本のツルギバナナだった。彼は言った。

 

「どうだ、食えるか?」

 

 モモンジはそれを見て、ヒッという悲鳴を呑み込んだ。彼女は震える声で答えた。

 

「あ、あうぅ……バ、バナナ……私、バナナは駄目なんです……ごめんなさい、ヒコロク先輩ぃ……」

 

 チッとヒコロクは舌打ちをした。これだよ、この女の難儀なところは。このモモンジは、イーガ団員でありながらバナナが食べられない体質なのだ。なんて面倒くさい体質だ。そのくせ人一倍、いや人二・五倍は飯を食う。もっと成長すれば人三倍は軽く食べるようになるだろう。ヒノックスか何かだろうか。そして、燃費が悪い。訓練されたイーガ団員ならバナナが三本もあれば二十四時間は連続で動けるのだが、こいつはバナナ以外の食事を一日に三食、たっぷりと食べないと満足に働けない。

 

 単なる個人的な好みで甘えを言っているのだろうと、前に支部長が無理やりバナナをモモンジに食べさせたことがあった。口にバナナが詰め込まれた直後、彼女の全身に蕁麻疹(じんましん)が出来た。そのうち呼吸まで停止してしまった。医者が診察しても、結局モモンジがバナナを食べられない原因は不明のままだった。そのうち、「これはそういう体質なんだろう」ということになった。

 

 だがこの娘は、バナナの神から見放されたような壮絶な欠点を抱え込んでいるが、剣の腕前だけは本物だ。ヒコロクはそう思った。正面での戦いならば魔物に負けることは絶対にない。さすがはフィローネ支部随一の剣術特練生ではある。ちょっと頭が悪いのと、燃費が悪いことなどは、この才能の前では大したことではない。

 

 だが、イーガ団員でありながらバナナが食べられない。そのことを考えてみると、やはりモモンジは才能と欠点とのバランスが取れていなかった。むしろ欠点のほうへ傾いている。ヒコロクはそう思った。

 

 ここでヒコロクは、モモンジがじっと彼を見つめていることに気がついた。咎めるように彼は言った。

 

「おい、なんだよ」

 

 モモンジは申し訳なさそうな顔をして答えた。

 

「……本当に申し訳ございません、ヒコロク先輩……私を(かば)ったばかりにこんな深手(ふかで)を負って……せめて、私に配給された分のバナナまで食べて元気になってください……」

 

 そう言うと、彼女はポーチから一房のツルギバナナを取り出し、うやうやしい態度でヒコロクに差し出した。たとえバナナを食べることはできなくとも、イーガ団員たるものはバナナを常に携帯していなければならない。彼女は団の教えに忠実だった。彼女は自分の食べられないバナナを、せめてもの罪滅ぼしとしてヒコロクに提供しようとしているのだった。

 

 健気(けなげ)なやつめ。ヒコロクは、わざとらしく鼻で笑った。

 

「はっ! こんな夜中にバナナかよ。いや、俺だってバナナは好きだが、実はお前が偵察に出ている最中にバナナを食っていたんだ。さすがにこれ以上食うと傷口からバナナが飛び出てきそうだから、今はいらん。それはお前が持っておけ。バナナは幸運のお守りでもあるんだからな。持っていれば良いことがある」

 

 ヒコロクの言葉を聞いたモモンジの両目から、綺麗な大粒の涙が(あふ)れ出てきた。

 

「ヒ、ヒコロク先輩……!」

 

 その時だった。平原の北の方から、一発の鋭い爆発音が響いてきた。爆音はそれから短時間のうちに連続した。心なしか、爆音は次第に疎林へと近づいてくるようだった。

 

 ヒコロクは、思わず首刈り刀に手を伸ばした。彼は言った。

 

「なんだ、あの爆音は?」

 

 モモンジも刀に手をやって、中腰(ちゅうごし)の体勢を取った。彼女はしばらく考えるようだった。だが、やがて思い至るところがあったのか、どこか明るい声で彼女は言った。

 

「あっ、あの爆音は、あの爆音はもしかして……? あの、ヒコロク先輩、あの爆音は、もしかしたらテッポ殿の爆弾ではないでしょうか?」

 

 そう言われて、ヒコロクにもハッとするところがあった。確かに、爆音はいつも支部の訓練場で派手に鳴り響いているテッポの爆弾の炸裂音と酷似していた。

 

 彼は、口元をニヤリと歪めて言った。

 

「確かにコイツは、テッポ殿の爆弾だな。これは、運が向いてきたのかも知れねぇぞ……おい、モモンジ!」

 

 彼はポーチから油紙に包まれた大きな肉の塊を取り出した。彼はそれをモモンジに投げてよこした。彼は言った。

 

「こんなこともあろうかと、虎の子として保存しておいたチカラ極上岩塩焼き肉だ。冷えてても美味いぞ。モモンジ、お前はそれを食って気合い入れ直して、テッポ殿を迎えに行ってこい!」

 

 モモンジの顔に生気が戻った。彼女は答えた。

 

「はいっ!」

 

 大きな肉の塊に(かぶ)りつく小柄なモモンジの姿が、沈みかけの月の僅かな光に照らし出された。最後の一片まで食べ終わると、モモンジは風斬り刀を抜刀して肩に担いだ。彼女はマックストカゲの如き俊敏さで疎林を飛び出していった。

 

 爆音は、なおも続いていた。




 およそ二ヶ月ぶりの更新、そして新キャラ登場でございます。モモンジの活躍については、次回以降に是非ご期待ください。
 軍馬の徴用について今回は触れてみました。執筆にあたり、アーサー・フェリル『戦争の起源 石器時代からアレクサンドロスにいたる戦争の古代史』(鈴木主税、石原正毅訳、ちくま学芸文庫、2018年)がかなり参考になりました。イメージを膨らませるにはやはり読書が一番です。興味のある方は是非ご一読下さい。

※加筆修正しました。(2023/05/10/水)

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