言うまでもない。百年前の大厄災により、各地の神殿は滅び去った。学識ある神官は消え失せ、清らかな祈りを捧げる巫女たちは姿を消した。
だが、ハイラル
「世に
そう、神々は大地と、この世を動かす
事実、ハイリア人は、また他の種族は、この大地が生み出すありとあらゆる生命を利用し、また新たなる生命を生み出していった。たとえば、人は野を走る馬に
動物も植物も、いや魚までも、すべてがハイリア人のために存在しているようだった。より正確に言えば、ハイリア人がそれらを
では、と訊く者があるかもしれない。虫はどうだろうか、と。ヤンマ、アゲハ、バッタ、カブトといった虫はどうであるか。大地に
なるほど、虫も神々が作り給うた生命に違いない。そして我々はこれまで虫を利用して生きてきたし、今も利用している。
それどころか大厄災以降、ますます人が虫を利用する度合いは増している。かつては城下町や村々に必ず薬局があり、そこには専門的な修練を積んだ薬剤師たちがいた。それらが消え去った今、我々は自分たちの力と知恵で薬を調達しなければならない。冒険者を志す者にとって、一番に学ぶべき事柄は剣と盾を自在に操ることであり、二番目に学ぶべき事柄は虫と薬の調合の知識である。
しかしながら、ハイラルにおける虫利用の歴史を見てみると、それは断絶と復活の連続であったように思われる。
もはや神話と言っても良い時代、我々の祖先が天空に浮かぶ都市に住まい、過酷な地上と凶悪な魔族たちから難を逃れていた時代のことであるが、祖先たちは実によく虫を活用したと伝えられている。王立図書館が保管している古文書の中にはクスリ調合のレシピについて書かれたものがある。例えば、あの有名な騎士セバスンが愛飲したと伝えられている滋養強壮薬「ガンバオール」について、アリン著『クスリ調合に関する覚書』は以下のように述べている。
「……
ガンバオールの値段は、資料によって異なるが、だいたい二十ルピーから五十ルピーだったようだ。かなりの安値であるといえるが、素材となる昆虫は調合を依頼した者が持参する必要があったので、いずれにしても薬を手に入れるのは容易ではなかっただろう。
また、他の古文書によると、ある天空の島には虫だけを集めた「虫の島」があったとも伝えられる。かのセバスンと騎士学校において同窓だったオストと呼ばれる人物は、虫の収集に尋常ならざる興味を持ち、天空に浮かぶ島を丸々一つ虫のための場所として開拓し、いわば巨大な虫駕籠としたという。
オストは、単なる好奇心とコレクション欲からではなく、虫が人々の生活にとってより役立つものとなるように、自身の知的能力を働かせた。
このように、天空時代において虫は大いに利用され研究されていたけれども、しかしながらハイリア人が大地に降りて王国を建設し、そしてそのまま時代が下るにつれて、ハイリア人は次第に虫を薬として扱わないようになった。虫は装飾や造形や絵画のモチーフとして、また鑑賞用として、もしくは釣り餌として大いに利用されたが、天空時代の薬学の伝統と知識は忽然と姿を消してしまった。
その原因は定かではないが、一説によれば「キノコの発見」がその一因であるという。ハイリア人が大地に降りた時、彼らを驚かせたのは小さな鳥たちであった。天空都市には人が乗れるような大きな鳥、ロフトバードしか鳥類がいなかったからである。だが、それよりも彼らを驚かせたのは、地を埋め尽くさんばかりに乱れ生える大きなキノコであったという。彼らはさっそくキノコを食べものとして、また薬として利用し始めた。キノコの胞子を利用した薬の調合は、虫を使った場合と比較して時間的にも費用的にも、また素材収集の労力的にも遥かに容易であった。ゆえに、王国の薬学は自然の流れとして虫ではなくキノコを基礎としたものとなった、とその説はいう。
実際、天空時代以降の薬剤師のシンボルは「
しかし、歴史とは継続的、持続的、段階的な発展をするものではない。歴史とは衰退と復活、断絶と再発見の繰り返しによって展開するものであるのだ。このことは虫利用の歴史に特に当てはまる。
虫がリバイバルを果たしたのは、ある女性研究者の手によってであった。その女性研究者の名はアゲハといった。彼女は、その幼少期においては「虫さん王国のプリンセス」を自称していた。それほどまでに彼女は虫好きであった。彼女こそはハイラル王国史上初の女性昆虫学者であった。彼女は、天空出身の昆虫学者オスト以来断絶していた、体系的な昆虫研究を復興させた。
伝説において、アゲハは勇者との関係によって特に有名である。勇者は彼女のためにハイラル各地でひっそりと生息する黄金の虫を集め、莫大なルピーをその引き換えとして受け取っていたと言われている。勇者を影で資金援助した彼女の功績は数々の歴史書において触れられている。しかし、彼女の昆虫研究についてはこれまでほとんどの歴史研究者から等閑に付されてきた。
アゲハは膨大な標本のコレクションを残した。また、彼女は昆虫の新分類法を考案した。それらもさることながら、彼女の一番大きな功績は、「虫の薬学的価値」を再発見したことである。
アゲハはハイラル城下町にたった一人で住んでいたと言われている。彼女の両親については一切が不明である。幼少期にして彼女はすでに莫大な資産を有していた。そのことから、彼女は貴族か大商人に連なる血筋だったのではないかと推測されるが、定かなことは分からない。
彼女には友人らしい友人もおらず、日の出から日没まで城壁の外で一人昆虫採集をする日々を送っていた。そんな彼女に、ある日、転機が訪れた。当時、ハイラル全土に店舗を出店していた「ショップ王」マロより、高品質の薬品を安価かつ大量に生産することについて彼女は相談を受けたのだった。
マロの相談は、実のところは城下町随一の資産家であるアゲハに、製薬という新事業のための融資を依頼するものであったらしい。だが彼女が興味をそそられたのはルピーについてではなかった。マロが何気なく放った一言、「新技術として昆虫を活用した製薬を導入する計画を立てている」という言葉に彼女は関心を持った。マロは読書家としても知られていた。彼は事業経営の傍ら王立図書館の蔵書を読み漁り、新たな商売のタネを熱心に探究する人物であった。どうやら彼は、例のオストの大事典の断片を読んでいたようだ。
融資に関しては冷淡な態度を取っていたアゲハだったが、マロのその言葉にはいたく興味を刺激された。彼女はその場で協力を約束した。彼女は新設された「マロマート製薬部門」所属の研究者として、昆虫研究に従事するようになった。彼女の膨大な昆虫研究の成果のほとんどは、このマロマート所属時代に生み出されたものである。このマロマートこそが、ハイラル全土に再び昆虫製剤を広めたのであった。
これまでの歴史学者は昆虫製薬の復興という功績をマロという傑出した経営者と、マロマートという巨大企業に
そしてもう一つ、アゲハが残した偉大な遺産がある。それは養蜂技術である。
アゲハにとっては昆虫すべてが素晴らしかったものであったが、そんな彼女が「最も素晴らしい昆虫の一つ」として称賛したのが、ガンバリバチであった。奇矯な文体の彼女の日記には、折に触れてガンバリバチの有用性について書かれている。
「……ああ、ガンバリバチさん、ガンバリバチさん。あなたたちのその
この日記の記述から数年後に、マロマートは王室へ養蜂で得たガンバリバチのハチミツを献上している。以来、ハイラル全土ににわかなハチミツブームが到来した。マロマートの巧みな宣伝戦略により、ハチミツは天然の滋養強壮剤として人々から見なされるようになった。ハチミツは皮膚病から
ハチミツクレープ、ハチミツアメ、ケモノ肉のハチミツ焼き、ハチミツミルクティー……ハチミツを用いた料理が数多く考案され、人々の舌を楽しませた。
その
これらのハチミツブームは、アゲハがいなければ決して起きなかった。彼女はまさに、ハイラルにおける養蜂の母といって良いだろう。
百年前の大厄災以前のハイラルにおいてもなお、養蜂事業は盛んであった。中央ハイラル地方では、メーベの町が養蜂の拠点として特に有名であった。また、寒村の多いアッカレ地方の数少ない高級輸出品の一つがハチミツであった。だが、他種族へと養蜂技術が
今現在、養蜂技術は失われたままである、それでもガンバリバチのハチミツを求めて各地を放浪する者が後を絶たない。キビ砂糖よりも強烈に甘く、ガンバリダケよりも猛烈なスタミナ源となるハチミツは、まさに天然のご馳走だ。平原外れの馬宿においてはガンバリバチのハチミツのクレープがサービスの目玉となっている。また冒険者にとってハチミツは、高価であるが、あらゆる困難を乗り越える原動力となる食材として珍重されている。
しかし、誰が知るであろうか、このハチミツを生み出すガンバリバチが隠している、もう一つの事実を。あの小さくて愛らしい、脚を花粉と蜜でまっ黄色にしてせかせかと飛び回る生き物たちは、厄災の
決して人間に靡かないが、最も人間の役に立つ昆虫、それがガンバリバチだといえるかもしれない。
☆☆☆
その者は、そっと遠くから高原の馬宿を窺っていた。その者は草むらに伏せていた。伏せつつも、しかし視界が得られるような高所にその者は潜んでいた。
天候は雨だった。夜明け頃からポツポツと降り始めた小雨は今では本降りとなっていた。その者が身に纏うシーカー族の忍び装束を雨はしとどに濡らした。忍び装束の
丈高い草の葉の裏に、巣に戻り損ねた一匹のガンバリバチがしがみついていた。健気な虫は灰色の空から襲い掛かる大粒の雨を必死に耐えていた。
その者は、ふと、あの奇怪な顔と体をした魔物研究者の言葉を思い出した。
「……そのボコブリンマスクですが、まだ試作品です。完璧ではないのです。形と色を完璧に再現できなかったのです。ボコブリンの肝から抽出した香料でごまかしてあります。万が一、そのにおいが薄れたら、ボコブリンたちはあなたが偽モノであることに勘づくかもしれません。まあ、あなたはマスクなしでも魔物をどうにかできる力がありますが、それでも雨の時にはマスクを脱いでおいた方が賢明でしょう……」
そっと、音を立てずにその者はマスクを脱いだ。マスクの下から最初に出てきたのは、黒く長い
その顔を見る者は、はたしてその者が男であるのか女であるのか、容易に判断がつかないであろう。男にしても美しく、女にしても美しい。しかし、その肌の色ときめの細かさ、そしてその桃色の唇の鮮やかさと繊細な鼻筋を見れば、その者が女であることが分かるだろう。だが、その顔を見てしまった者は、女によってたちどころに命を奪われるであろう。
彼女は微動だにしなかった。マスクをポーチにしまった後も、彼女は相変わらずその鋭い視線を馬宿と魔物たちへ注ぎ続けて、観察をしていた。
彼女に授けられた任務は二つだった。一つは、フィローネ支部のバナナ輸送を
彼女はもう一人の仲間と共に、ここ数日の間それを忠実に実行してきた。彼女はシーカー族の忍び装束を身につけ、ハイリア大橋付近で輸送馬車の車列へ向かってクナイを投げつけた。彼女はさらに、車列へ魔物を
車列を守っていた小さな黒髪の団員が、もう一人の仲間を追っていった。小さな団員と仲間はハイリア大橋を渡って向こうへ行ってしまった。それを見届けた後、彼女は密かにその場に留まって、輸送車列の損害状況を確認した。馬が何頭か傷ついているのが彼女には見えた。おそらく彼らは、フィローネ支部の馬供給地であるアラフラ平原の「高原の馬宿」へ代替馬を調達しに行くだろう。彼女はそう考えた。その前に先回りして、ひとつ魔物たちを手懐けておかねばならない……彼女は平原へと走った。
アラフラ平原には、ちょうど魔物たちが大挙集結しているところだった。もともと魔物を操ることにかけては随一の腕前を持つ彼女であった。この任務の前に調達したボコブリンマスクが、仕事をさらに容易にした。ほどなくして、魔物たちは彼女の意のままに従うようになった。
彼女は準備を整えた。彼女は、威力偵察を兼ねて高原の馬宿を魔物たちに襲撃させた。馬宿の中から、イーガ団員が二人飛び出してきて、元気よく戦い始めた。情報によれば、あれはフィローネ支部の一般団員ヒコロクとモモンジだ。彼女はそう思った。予想したとおり、馬を調達に来たのだろう。
それにしても、「輸送任務遂行が不可能にならない程度に」力加減をするのは難しかった。雨を浴びつつ、草むらの中に潜んでいる彼女は、溜息をついた。彼らには馬を手に入れてもらわなければならない。しかし、それが非常に困難になるようにこちらが手を加えて調整しなければならない……結局、彼女が採った手段は単純だった。彼女は、「二人のイーガ団員のどちらか片方を戦闘不能に追い込む」ことを選んだ。
その日の夜になって、彼女に立ち向かってきたのはモモンジとかいう団員だった。モモンジは、
しかし、モモンジが見せた反応は予想外だった。バナナを目にしたモモンジは、バナナに飛びつくわけでもバナナを食べ始めるわけでもなく、なぜかその場に立ち尽くしてしまった。それでも、隙は隙だった。彼女はモモンジに斬りかかった。それを、ヒコロクとかいう若い男の団員が身を挺して庇った。彼女にとってはそのことも予想外だった。だが、彼女は目的を達した。ヒコロクは腹部を斬られた。
まったく、彼らを褒めてやりたい。彼女はそう思った。任務に精励し、魔物の大群と戦い、命がけで仲間を
本当に、
彼女は、任務を言い渡された時のことを思い起こした。あの方、あの美しくも恐ろしい上級幹部であるウカミ様は、あの日、自分ともう一人の仲間を呼び出した……そして、ウカミは彼女ら二人に二つの任務を授けた。
「ご苦労だけど、これから二人ともちょっとカルサー谷から出かけて、フィローネ支部のバナナ輸送馬車に軽く『ちょっかい』を出してきてちょうだい。彼らがウンザリするくらい徹底的にちょっかいをかけるのよ。そう、『もうこんな任務なんて嫌だ、カルサー谷の奴らのために、なんで俺たちがこんなに苦労をしないといけないんだ』って思わせるほどに、彼らを滅茶苦茶に妨害してやるのよ。でも、皆殺しにしたり、馬車を破壊したりしてはダメ。バナナは運ばれなければならないわ。
ウカミの意図が
「これはね、フィローネ支部の忠誠心を試すためなのよ」
ウカミはそれ以上のことは言わなかった。彼女は考えた。数々の妨害にめげずに輸送任務を完遂するならば、それはフィローネ支部の忠誠心が高いということの証明になる。それをウカミ様は知りたいのだろうか? しかし、それならばもっと他に穏当なやり方があるだろう。なぜ、わざわざ彼らの憎悪をかき立てるようなことをするのか? おそらく、別に何らかの意図が込められている。たぶんに高度な政治的な意図が、きっとそこにある。しかし、それが具体的に何であるのかまでは分からない……そもそもウカミ様が何を考えているのか、側近のサミでさえ理解できないらしい。
それに、そんなことを
なおも彼女は雨に打たれつつ馬宿を観察した。その入口は大盾で塞がれていた。内部の照明は落とされていた。馬宿は、誰もいないかのようにひっそりと静まりかえっていた。一方で、馬宿を囲んでいる魔物たちは雨を浴びて喜んでいた。何が楽しいのか、輪になって踊り出している魔物もいた。馬鹿なやつらだ。彼女はそう思った。だが、馬鹿であるからこそ操りがいがある……
次に、彼女は遠くの疎林へと目をやった。あそこには、手傷を負わせたヒコロクとその仲間モモンジがいる。それから、その二人を救援するためにやってきた、フィローネ支部幹部ハッパの娘であるテッポと、それからバナーヌがいるだろう……
そう、あのバナーヌがいる! 彼女の目が激情によって輝いた。忍ぶ者としては鮮やかすぎるほどに美しい金髪のポニーテール、湖面のように澄んだサファイアの碧眼、均整が取れつつも女性的な魅力に溢れた肢体……あの女、高い能力を持ちながらそれを生かすことなく、つまらないパシリの地位に甘んじている、あの女がいる! 彼女は奥歯を嚙み締めた。
彼女は、バナーヌを観察しなければならなかった。彼女がウカミから授けられたもう一つの任務は、それだった。バナーヌの行動をよく観察し、細大漏らさず報告せよと、彼女は命じられた。
ウカミの言葉が彼女の脳裏をよぎった。ウカミはあの時彼女へ、聞くものを陶然とした気持ちにさせる甘い声で言った。
「輸送馬車妨害以外に、もう一つあなたたちにやってもらうことがあるわ。今回の輸送作戦だけど、カルサー谷からは援軍としてバナーヌを送ることになったの。そう、あなたたちもよく知っている、あのバナーヌよ。真面目な彼女は、きっといつもどおり一生懸命、任務遂行に
その理由について、彼女はウカミに問いかけた。ウカミは答えた。
「えっ? 『なんであの娘をそんなに気に掛けるのか』、ですって? あらやだ、あなたも可愛いわね。ふふふ……嫉妬してるんでしょ? えっ、違う? あら、それは残念ね……そうね、実を言うと私、最近あのバナーヌのことを考えると、なんだか胸がドキドキするのよ。ふとした時に、彼女の綺麗な金髪のポニーテールが脳裏をよぎって……もしかしたら、これは恋かもしれないわ。だからね、私はあの娘のことをもっとよく知りたいのよ。あら、大丈夫よ。たとえ私がバナーヌに恋をしちゃったとしても、あなたたちのことはずっと大好きなままだから……」
疎林から視線を外すと、彼女は思案のためにそっと目を伏せた。バナーヌと彼女は、知らない仲ではなかった。むしろ、彼女はバナーヌをよく知っていた。幼い頃の過酷な養成訓練において、彼女はバナーヌと成績を競い合ったものだった。彼女の未熟な過去を知っているのは、バナーヌだった。
夜明け前に行われたあの戦闘では、モモンジとテッポが
しかしその時は近いだろう。彼女はそう考えた。バナーヌたちは必ず、あの馬宿の包囲を解きにやって来るはずだ。その時バナーヌは必ず、何らかの形で「不思議アイテム」を使うだろう。それを絶対に見逃してはならない。ウカミ様のために、すべてを見なければならない。ウカミ様に、失望されるわけにはいかない。それは死よりも恐ろしいことだ……
すると突然、馬宿から騒音と悲鳴が聞こえてきた。彼女は思考に沈んでいた意識を、瞬時にして現実へと戻した。
彼女が目をやると、馬宿周辺は大混乱に陥っていた。ボコブリンたちに、濃密な黒い
そこから少し離れた場所に、桃色の髪の毛のモモンジがいた。モモンジは醜怪な造形の仮面を顔につけていた。その体には、奇妙な紋様が描かれていた。モモンジは、曰く形容しがたい奇妙な踊りをしていた。
次の瞬間、黒い影が二つ、モモンジの両脇からマックストカゲが疾走するように飛び出した。
間違いない。バナーヌたちが行動に出たな。彼女は一段と目を鋭くさせた。これから起こることを、一つとして見逃すまい。彼女は改めて気を引き締め直した。
☆☆☆
時間は、やや前に
テッポが口を開いた。
「それでモモンジ、その『アレ』ってなんなの?」
モモンジは答えた。
「……はい、テッポ殿。その『アレ』はですね、私の流派『密林仮面剣法オド・ルワ』の奥義の一つでして…………でもそれ、やるとなるとすごく恥ずかしいんですよね……まずは、これを顔に被るんです」
モモンジはポーチから仮面を取り出した。その仮面は、イーガ団の逆さ涙目の紋様が刻まれた白い仮面とは別のものだった。その仮面は凝った意匠だった。
凝っているというよりも、それは、明らかに異様だった。仮面はどことなく
なにより目を惹くのは、両頬の辺りにある突起部だった。その先端には、銀ルピーのような宝石がつけられていた。耳を模したものであった。
テッポはその仮面を見て息を呑んだ。バナーヌも表情には出さなかったが、内心では非常に驚いていた。各地でいろいろなものを見てきた彼女も、このような仮面は見たことはなかった。
仮面はその見た目に違わず重いようだった。モモンジは「よっと」と軽く声を上げると、首を軽く捻り、あたかも潜り込ませるようにして仮面を顔面に装着した。彼女は言った。
「ふう……やっぱりこの仮面、圧迫感が凄いな……これはですね、私の流派『密林仮面剣法オド・ルワ』の正統継承者が、代々大事に受け継いでいる仮面なんです。名前を『オド・ルワの亡骸』といいます。父からは『偉大なる開祖の亡骸だから大切に敬え』と言われましたが……まあ、たぶん嘘でしょう。これは仮面であって、亡骸ではありません。私はそう思っています。でも、大切な仮面です。というのは、この仮面を被らないと私は
話し続けるモモンジを、バナーヌとテッポは見つめていた。仮面は、まるで密林が抱え持つ暗黒の闇と熱のある殺気を具現化したようだった。その仮面の下から、モモンジの可愛らしい声が聞こえていた。仮面の上方からは、桃色の
なんとも、アンバランスな有様だ。バナーヌはやや呆れた。仮面は、モモンジに全然似合っていなかった。バナーヌは言った。
「それで、奥義とはなんだ」
バナーヌの問いに対して、モモンジが顔を向けてきた。凄まじい迫力だった。バナーヌは圧倒されるものを感じた。どんな魔物でもこの仮面を見たら逃げ出すのではないだろうか、などとバナーヌはぼんやりと思った。
モモンジは答えた。
「その奥義の名前は、『ムシ・ゴウロ』というんです。術者がこの『オド・ルワの亡骸』を顔につけて特殊な舞いをすることで奥義は発動します。虚空から無数の虫を召喚して、敵に纏わりつかせるという奥義です。開祖はこの奥義を用いてフィローネの密林奥地で勇者を
テッポが口を挟んだ。
「虫を召喚する奥義なの? それって、凄い技だとは思うけど、でもただ虫を喚び出すだけじゃ『勝利確実』とは言えないんじゃない? 魔物たちはびっくりするかもしれないけど……」
テッポが言い切る前に、バナーヌがそれを
「いやテッポ、ガンバリバチだ」
それを聞いて、テッポはポンと手を叩いた。
「あっ、そうか! 『ムシ・ゴウロ』でガンバリバチを呼び出せば、きっとボコブリンたちは大混乱するでしょうね! それは間違いないわ! あいつら、ガンバリバチ相手には手も足も出ないから!」
モモンジが頷いた。仮面の両側から垂れている宝石が、ぶらぶらと揺れた。彼女は言った。
「そのとおりです、テッポ殿、バナーヌ先輩。『ムシ・ゴウロ』でガンバリバチを呼び出せば良いんです。この奥義では、術者が思い浮かべる虫を自在に喚び出すことができますから。私がガンバリバチを召喚して、それをボコブリンたちに襲い掛からせれば、それはまぎれもない奇襲になると思います。ただ欠点もいくつかあって……」
テッポが言った。
「どんな欠点なの?」
モモンジは答えた。
「一つは、奥義を発動するのに少し時間がかかるんです。決められた舞いをひとさし舞わないと、虫たちは出てきません。まあ、舞いそのものは恥ずかし……いえ単純なものですから、敵さえ近づけなければ問題はないと思います」
テッポが言った。
「大丈夫、あなたが踊っている最中は私とバナーヌがあなたをしっかり守るから。他には?」
モモンジは静かに話を続けた。
「もう一つは、この奥義が膨大な
テッポは真剣に話を聞いていた。
「なるほど、
テッポは腰のポーチに手を伸ばすと、その中から水色の紙で包装された何かを取り出した。彼女はそれをモモンジに差し出して、言った。
「
モモンジは明るい声を上げた。
「あっ、ありがとうございます、テッポ殿! これだけあるならきっと大丈夫です!」
しかし、テッポは疑問を口に出した。
「でも、その仮面をつけたままで口にアメを入れることができるの? いちいち仮面を脱がないといけないんだったら大変じゃない?」
モモンジは答えた。
「その点については心配ご無用です。ほらこのとおり」
そう言うなり、モモンジは手早くアメの包装を剥いた。剥き終わるや、彼女はあっという間に白いハチミツアメを口元に運んでいき、仮面の割れ目に押し込んでしまった。彼女はうっとりとしたような声を上げた。
「うーん、甘くて美味しい……脳が
テッポが肩を震わせていた。テッポは幼い声で怒鳴った。
「モモンジのおバカ! 貴重な補給源を戦闘前に食べる人間がいますか! 貴重品なのよ!」
モモンジは慌てたように答えた。
「はぅっ!? ごめんなさい、ごめんなさい! つい、いつもの癖で……」
モモンジは何度もテッポに向けて頭を下げた。仮面の迫力とまったく釣り合わないその情けなさにテッポは毒気を抜かれた。気を取り直してテッポは言った。
「……まあ、いいわ。残った分でも充分足りるでしょう。懸念事項はこれで全部かしら?」
モモンジは少し首を
「そうですね……そういえば、『あまりやり過ぎるな』と父からは言われました。『この奥義は、やり過ぎるととんでもないことになる』って……でも、『やり過ぎ』っていうのは具体的にどのあたりから『やり過ぎ』になるんでしょうね? それに、今は四の五の言ってられません。たぶん大丈夫でしょう、きっと」
テッポは怪訝そうな表情を浮かべた。
「たぶん大丈夫って、そんなアバウトな……まあ、でも、本人がそう言うならそうなんでしょう。それで納得することにするわ。じゃあ、次は攻撃の段取りを……」
ここで、黙って話を聞いていたバナーヌが疑問の声を上げた。
「いや待て、テッポ。まだある」
テッポが答えた。
「どうしたの、バナーヌ。なにか気になることがあるの?」
バナーヌはモモンジの方へ顔を向けて言った。
「モモンジ、何か隠していることがあるだろう」
バナーヌの青い視線を受けて、モモンジは
「えっ!? あの、バナーヌ先輩、その、それはですね……」
テッポも口を開いた。
「そう言われれば……確かにそうね。そういえば、あなたは随分とこの奥義について話すのを渋っていたわ。『恥ずかしい』ってあなたは言っていたわね。さっき話してくれた二つの欠点は、話すのを渋るほどのものではなかった……ねえ、モモンジ。あなた、まだ何かを隠しているでしょう。いったい何を隠しているの?」
心中を言い当てられたためか、モモンジはさらに動揺した。彼女は言った。
「ひぅっ!?……あの、えと、その……」
仮面の下の彼女は表情は、おそらく青ざめているのに違いなかった。それでも彼女はなかなか口を割らなかった。
ここで、モモンジに助け船を出す存在がいた。それは、先ほどからずっとモモンジの膝枕で休んでいたヒコロクだった。彼は言った。
「……まったくモモンジ、お前というやつは本当にしょうがねぇな。まあ、お前が恥ずかしがるのも分かるさ。俺もお前の立場だったら、お前と同じようにギリギリまで隠そうとしただろう。だが今は俺の命がかかっているんだ。俺の命だけじゃない、輸送馬車の命運もかかっている。一刻を争うんだ。頼むよ、二人に話してやってくれ」
モモンジはなおも逡巡した。彼女は呻くような声を上げた。
「うう……」
テッポがモモンジに優しく語りかけた。
「モモンジ、今はあなたの奥義だけが頼りなの。私たちイーガ団員は、目的のためならどんな屈辱にも耐えてみせると魔王様とバナナの神様に誓約をしているじゃない。だから、勇気を出さないといけないわ。さあ、私たちに話して。でも、それがどんなに恥ずかしいことであっても私たちは決して馬鹿にしないし、笑ったりもしない。仲間なんですから。だから安心して」
テッポの言葉に同意するように、バナーヌも頷いた。
「うん。笑ったりしない」
モモンジは、ついに決心したようだった。
「……はい、わかりました。二人とも、お心遣いありがとうございます。私も覚悟を決めました。ではヒコロク先輩、少しだけ向こうに行っていて下さい」
ヒコロクは答えた。
「おう。お前の膝枕はもうおしまいか。ちょっと残念だな」
モモンジはヒコロクを抱き抱えると、少し離れた木陰へ彼を運んでいき、横たえた。そしてモモンジはまた元の場所に戻った。彼女はおもむろに仮面を外し、大きく深呼吸した。
そして、モモンジは服を脱いだ。白い肌がさらけ出された。
テッポが素っ頓狂な声を上げた。
「ええっ!? なんで脱いでるの!?」
理由の分からない行動にバナーヌも目を見開いていた。テッポは同じ言葉を繰り返した。
「モモンジ、なんで脱いでるの!? いや、なんで脱いでるの!? どうして脱いでるの!?」
モモンジは申し訳なさそうに言った。
「すみませんテッポ殿。でも、服を脱ぐのはどうしても必要なことなんです」
モモンジは忍びスーツを脱いだ。彼女は下着をも脱いだ。下着は彼女の髪と同じく、桃色だった。彼女の上半身は今や完全に素肌を露わにしていた。服の上から分かるほどに盛り上がっていたその胸部は、裸になるといっそう存在感を増していた。カエンバトのような見事なまでにふっくらとした胸だった。
太陽光線が強く降り注ぐフィローネ地方に住まう人間でありながら、その肌は血管までもが透き通るように白く、きめ細やかで、まさしく玉の肌と形容し得るものだった。
テッポが
「お、大きいわね……形も良いわ……そして白い……」
次にモモンジはポーチから小箱を一つと、巻物を一つ取り出した。手慣れた手つきで彼女は巻物を解いた。その動きによって、その大きな白い胸がチュチュゼリーのように揺れた。
モモンジは、拡げた巻物をバナーヌとテッポの二人に示した。巻物には人間の上半身の表側と裏側が描かれていた。それぞれに、赤・青・黄・緑で彩色された複雑な図案が示されていた。
モモンジは言った。
「隠していたのは、これです。奥義『ムシ・ゴウロ』の発動のためには、『オド・ルワの亡骸』を被り、踊りをすることに加えて、この巻物に描かれているとおりの
テッポはようやく得心したように頷いた。
「分かったわ。紋様を描くために上半身は裸にならないといけない。しかも異形の仮面をつけて、敵の前で踊らないといけない。男ならいざ知らず、女の子の身としてはこれはたしかに恥ずかしいでしょう」
そんな気遣うような言葉に、モモンジは首を左右に振った。彼女はどこか力強い声で言った。
「いえ、テッポ殿。私も覚悟を決めました。それに今となっては、さっきまでこのことをお二人に隠そうとしていた自分が腹立たしく思えるんです。テッポ殿が言ったように、私たちイーガ団員は絶対的な忠誠を誓っています。私も恥ずかしいからと言って任務から逃げ出すようなことはしません。それに、ヒコロク先輩の命もかかっています……」
普段は眠たげにやや目尻が垂れ下がっているその焦げ茶色の目は、強い決心の色で煌めいていた。モモンジはいったん言葉を切ると、力強い口調でバナーヌとテッポに言った。
「やります! 私、奥義『ムシ・ゴウロ』をなにがなんでもやり抜きます!」
二人も、力強く首肯した。
「良いだろう」
「いいわ、やりましょう!」
その時、疎林の中をひとつの冷たい風が吹き抜けた。突如襲い掛かった寒さに、モモンジは両腕を胸に回して身体を抱き締めた。その大きな白い胸がチュチュゼリーのようにふんわりと形を変えた。
彼女はブルブルと震えて、可愛らしいくしゃみをした。
「……くしゅっ! うう、寒い……あの二人とも、このように覚悟は決まりましたので、どうかその図案のとおりに、私の体を化粧してください。この小箱に化粧のための筆と顔料は入ってますので……」
モモンジの差し出す小箱を、二人は受け取った。二人は言った。
「ああ、うん……分かった」
「なんか、その、ごめんね……さあ、やりますか」
それからしばらくの間、疎林の中は妙な空気に包まれた。三人の会話が響いた。
「あ、バナーヌ、そこ違うわよ! そこは緑色じゃなくて、黄色! それに、もっと鋭角に印をつけないと」
「こうか。ああ、分かった。一度拭き取って、描き直そう」
「ひゃぅっ!? もっと優しくしてください……そこ、敏感なところなので……」
「……うん。あっ、テッポ。その箇所は青色じゃない、緑色だ」
「あっ、間違えた……やり直さないと……拭きましょう」
「あうっ!? もうちょっと優しく拭き取って下さい……そこ、敏感なんです……」
「この模様は、他の部分よりも太い線で描かれてるわね。ちょうど大事な部分を隠しているし、力を入れて、こう、グイっと……」
「わひゃあっ!? あうう……そこ、そこは特に敏感な部分なんです……優しくして……」
「……胸は終わり。次は腹だ」
「だんだん慣れてきたわ。この分なら思ったよりも早く終わりそうね」
「うう……風邪をひきそうです……」
三人から離れた場所にヒコロクは横になっていた。彼はわざと
風に嘯くように、彼は独り言ちた。
「良かったな、モモンジ。毎日毎日修行
彼は言った。
「……勝ってくれよ」
準備万端整えた三人が疎林を出たのは、それから小一時間ほどが経過してからだった。
四十話に到達しました。これもひとえに読者の皆様の温かい応援と励ましがあってこそです。感謝申し上げます。
虫が好きなアゲハ様が昆虫を薬学的に研究するようになるのか? かなり悩みましたが、虫のことならなんでも探究したいと願っているのが彼女ではないでしょうか。一つの解釈ということで大目に見ていただければ幸いです。
今回執筆するに際してオドルワさんの亡骸と体の模様についていちいち参照しなければなりませんでした。しかし苦労して参照したことが生かされているかどうか……やはり絵を文章で表現するのは難しいです。
※加筆修正しました。(2023/05/13/土)
※タイトルを「素肌のモモンジと「オド・ルワ」の紋様」から「モモンジは服を脱いだ」変更しました。(2023/05/13/土)