たとえば、時代と歴史について思いを廻らせ、論文や書籍を読んだり、数々の史料を照らし合わせる時、我々が最も衝撃を受けるのは、現代の精神と過去の精神との
確かに、歴史を読む際にその物質的な側面に着目することは重要ではある。我々の祖先が物質的窮乏にどのように立ち向かい、そしてどのようにそれを克服したかを知ることなしには、我々は現代において享受している数々の物質的恩恵の真の意味を知ることができないからである。
日々、当たり前のように使用している井戸、排水路、
この事実に関しては、誰もが「それはまさにそのとおりであって、いまさら言われるまでもない」と言うであろう。なぜなら大厄災以降、文明という生命維持装置を失った辺境の人間たちは、過酷な自給自足生活を強いられているからである。祖先の叡智と技術を継承することの重要性を嫌というほどに思い知らされているゆえに、我々にとっては却って過去と現在との物質的差異はさしたる驚きではない。
歴史を紐解いて、「大厄災以前にはこんなモノがあった、あんなモノがあった」と騒ぐことがあったとしても、それは驚きというよりもむしろ、「百年前の人たちはこんなにも豊かな生活を送っていたのか……私もこんな生活ができたなら」という、一種の憧れの念に近いものである。たとえばかつて王家の姫君がお召し上がりになったといわれる、今は失われたフルーツケーキに思いを馳せるように……
だが、「感性」という精神的事柄になると、我々の心は純粋なる驚きに支配されることになる。
疑いようもなく、我々は今や物質的に窮乏している。確かに、食はある。衣服もあれば家もある。しかし、我々は余剰食料を大規模な車列に載せて他所へ運ぶことはできない。また、華麗に染め上げた衣服を各地方へ大々的に売ることもできない。家は新たに建てるよりも、古びたものを取り壊すことのほうが多い。
我々がそういったことをすることができない原因はただ一つである。つまりそれは、魔物が至るところに跳梁跋扈し、人間が逆に数を減らしていることである。年々、人間の村は消滅を続けている。逆に、魔物の拠点は数を増している。
我々は衰退している。我々の生命の領域はどうしようもなく縮小を続けている。我々の「時代の感性」はまさに、「
ではここで、現在と過去の「時代の感性」を比べるならば、いったいどのような違いが見えてくるであろうか。
単純に考えれば、こうなるのではないだろうか。
「百年前の大厄災以前、王国には精強な軍と勤勉な民がいた。王国軍は魔物どもを駆逐し、王国の民は各々の
「現在とは違って、かくほどまでに物質的に恵まれた過去の人々ならば、その時代の感性もまた、現世肯定的なものであったであろう。繁栄、拡大、充実、進歩、安寧といった感性が当時の人間を形作っていた……」
ところが、事実はそうではない。廃墟の中にわずかに残された市民たちの日記や、大臣の手記、半ば崩れかけた公文書館に保管された文書類を分析すると、驚くべきことに、百年前の時代の人間の感性は、現代の我々が想像するものとはかけ離れたものであることが分かる。
例えば、当時随一の文筆家として知られ、数々の著作を残したサグモは、日記に以下のような記述を残している。
「現代の歴史学者たちは、ある種の偏見と独断により自家中毒に陥っている。彼らは、ハイラルの歴史は段階的発展を続ける『進歩的』歴史であるとする。それは彼らの言うところの『進歩史観』である。『ハイリア人は歴史的段階を常に上昇し続ける歴史的宿命を担っているのだから、保守・反動・懐古主義は断固として退けるべきである』と彼らは主張する。そういうわけで、王国のシーカー族の再雇用と重臣への抜擢、古代技術の発掘といった政策に対しては、彼らは非難の大合唱を続けている。『それらは古きものであり、進歩にはそぐわない』からと彼らは言う……」
「……(中略)……私としては、彼らの論法は王国の政治と実利にとって有害であり、そればかりか、あまりにも一般民衆の感性と乖離していると言わざるを得ない。書物に囲まれ、終日石造りの頑丈な建物の中にいる学者先生方には分かるまいが、今民衆たちの心を支配しているのは、『進歩』などではなく、その対極とも言える、一種の『破滅願望』である……」
「……(中略)……無論、すべての民衆がそうであるとは言わない。だが城下町の、特に恵まれない者たちが住む地区では、この『破滅願望』は強固に根付いているように思われる。彼らは実りなき日々を送っており、望みなき未来へ向かって歩いている。彼らは、彼らの置かれた状況の過酷さを認識しており、そこからできるならば脱出したいと思っているが、その方法が分からな。
「これは私の妄想などではなく、実際に私がこの耳で聞いたことである。貧民たちの集う酒場で聞こえてくるのは、『厄災ガノンさんとやら、来るならば早く来てくれ、そして早く俺たちを違う世界へ連れて行ってくれ』という言葉である。そのくせ、彼らは同じ口で王国の安寧と王の聡明さと姫君の美しさを褒め称えるのだ。一見、明らかに矛盾しているように思われる彼らの感性であるが、彼らにとってはなんら不思議なことではないようだった。彼らは厄災ガノンによる破滅と姫君の麗しさを、同時に心に秘めるという奇妙な感性を有しているのだ……」
物質的に恵まれた過去の人々が実は「破滅願望」に取り憑かれていたという事実は、我々の心を揺さぶる。
別の記録を挙げよう。ある大臣付き書記官はその日記に以下のような記述を残している。
「……本日午後、城下町南の行政担当官より報告を受ける。『住民たちが厄災ガノン復活を祈願する
「……尋問によれば、首謀者は『厄災ガノンが復活すれば王国の秩序はひっくり返る。そうなれば俺たちが貴族や大臣になって、お前たちが俺たちみたいな貧民になってもおかしくはねえ』と悪態をついたとのこと……」
「……私は、一部の国民の間で『破滅願望』が支配的になりつつあるこの状況を深く憂慮している。大臣閣下が国王陛下にご報告申し上げたところ、『早急に人心刷新のための策を練るように』とのお言葉を賜った……」
「……実は、民だけではない。一部下級貴族の間でも、
これらの記述を信じるならば、我々の祖先はなんと愚かで、なんと無思慮であったのかと思わざるを得ない。その愚かさの代償はあまりにも大きかった。いや、これが歴史の必然的な帰着であったというのならば、その過酷さはなんと重く後の世代の我々にのしかかったことか。
彼らの破滅願望とは、つまるところ真の破滅願望ではなかった。
破滅願望は、厄災信仰と言って良いだろう。破滅を絶対的な救いと信ずるならば、それは、破滅をもたらす存在である厄災ガノンを信仰することと同義だからである。
厄災復活の兆しありとの報が流れてから大厄災勃発までのごく短期間の間に、当局に摘発された「厄災ガノンを本尊とする新興宗教団体」の数は城下町だけで八を数え、王国全土を合わせると二十一にも及んだと言われている。
その中でも最も大きな勢力を有していたのが「はぐれ者たちの教団」と呼ばれる宗教団体だった。かの団体の信者たちは獣の仮面を被り、「むんじゃら〜もんじゃら〜むんじゃら〜もんじゃら〜」という謎の呪文を唱え続けた。呪文を唱えることで身を清く保てば、
「はぐれ者たちの教団」は結束力が強かった。教祖の指導力は高く、教団員の信仰心も篤かった。摘発時はこん棒と槍を応酬する流血沙汰になったと記録は述べている。
そして、そういった新興宗教団体以上に厄介だったのが、あの謀略と暗殺を事とする集団、イーガ団であった。イーガ団に関しては詳しい資料が残されていないため推測によるほかないが、この時期にイーガ団は大量の新入団員の確保に成功したと伝えられている。大厄災後のイーガ団の目に余るほどの跳梁には、この新入団員たちが大きな役割を果たしたと推測されている。
当時のイーガ団は活動を活発化させており、ゲルドの街へ
雨後のキノコのように続々と生まれた新興宗教団体は、決して彼らが望んだ形ではなかっただろうが、すべてが破滅した。しかし、もっとも破滅するべき存在であるイーガ団は、大厄災よりおよそ百年が経った今になっても生き残っている。
彼らは歯を剥き出して笑っている。彼らはバナナを
彼らは繁栄している。彼らの生命の領域はどうしようもなく拡大を続けている。
彼らの感性は、繁栄、充実、進歩、安寧……彼らは厄災が再復活するのを心待ちにしている。
☆☆☆
しとしとと、アラフラ平原に陰気な雨が降り続いていた。散らばったボコブリンたちの残骸は、あるいは風に飛ばされ、あるいは泥水に浸り、あるいは雨粒に洗われてその色を鮮やかにしていた。打ち捨てられた武器の数々を顧みるものは、もう誰もいなかった。
黒雲に阻まれて太陽は見えなかった。昼というにはまだもう少し時間がかかろうかという時刻であった。あの熾烈な戦いから、まだ半時間ほどしか時間は経っていなかった。
バナーヌ、テッポ、モモンジの三人はまさしく獅子奮迅の活躍をし、激闘を制した。アラフラ平原の支配権は、ふたたび人間側に戻ったのであった。
馬宿の空間は、仄暗い照明とボツボツという単調な雨音に包まれていた。その中で一人の少女が、
その知的な
そんなテッポを見かねたバナーヌが声をかけた。
「テッポ、大丈夫?」
バナーヌの声を受けて、テッポはビクッと体を震わせた。彼女はバナーヌの方へ顔を向けると、なんということはないというふうに答えた。
「ありがとう、大丈夫。私は平気よ。ヒコロクがここに来るまでねりゅ……ゴホン、寝るわけにはいかないわ。それに、ジューザにはどうしても言っておかないといけないこともあるし……」
そう言ったそばから、テッポはまたもや眠気と疲労との戦いを再開した。木こりに切り倒される直前の杉の木のような動きを、彼女は一定のリズムで繰り返した。
休憩を取らせる必要がある。バナーヌはそう思った。テッポにも、モモンジにも、そして、自分自身にも、休憩が必要だ。
そういえば昨晩は、ロクに睡眠を取らないで輸送馬車の車列から出発したのだった。バナーヌは思った。キースの大群とオクタと格闘しながらアラフラ平原に行き、平原に着いた後は間髪を入れずに魔物たちと戦闘をした。戦闘の後には、ヒコロクに手術をして治療と看護に当たった。それが済んだと思ったら偵察に出なければならなかったし、最後にはあの大激闘をしなければならなかった。バナーヌは誰にも聞こえないような小さな溜息をついた。
体力的に余裕がある自分でも、今はかなりの疲労感を覚えている。成長途上にあるテッポが戦闘の緊張感から解き放たれた今、もはや限界を迎えているのは、仕方のないことだ。むしろテッポだからこそ、ここまでよく戦い、よく生き残ることができたのだろう。並の実力のイーガ団員ならば三回は死んでいるはずだ。
バナーヌがそんなことを考えていると、馬宿の入り口から若い女性の声が聞こえてきた。それはモモンジの声だった。モモンジはバナーヌとテッポになにやら呼びかけていた。
「テッポ殿、バナーヌ先輩! ヒコロク先輩を連れてきましたよ! さあジューザ、早く運び入れて……段差があるから気をつけてください……」
そう言いつつ、モモンジが室内に入ってきた。戦闘後、彼女は裸の上半身にさらし巻き付けたあられもない姿をしていたが、今はしっかりとイーガ団の標準忍びスーツを身に纏っていた。
モモンジの次に入ってきたのは、担架を運ぶ二人と、担架に横たわる一人だった。担架を運んでいるのは馬宿の店長にしてイーガ団員であるジューザと、その手下のロクロだった。担架で運ばれているのはヒコロクだった。
ジューザとヒコロクの二人が軽口を叩き合っている。ジューザが言った。
「疎林の中で雨に打たれているかと思って心配したが、木の枝ぶりが良かったおかげでほとんど濡れてなかったな」
ヒコロクが言った。
「お前たちがすぐに迎えに来てくれたから、あれ以上濡れずに済んだんだ。それにしても、迎えに来たモモンジの姿が天使に見えたぜ」
モモンジは恥ずかしそうに言った。
「そんな……天使だなんて……」
モモンジはわずかに顔を赤らめていた。そんな彼女を
「よし、ロクロ、そっと持ち上げろ。よし、ベッドに乗せるぞ……いち、にぃ、さんっと! よし……うまく移せたな。どうだヒコロク、傷は痛まないか?」
ヒコロクは答えた。
「お前らしくもねぇな、ジューザ。どうも浮ついてるぜ。『傷は痛まないか』なんて、そんな殊勝なことを言うなんてよ。俺たちを見捨てて自己保身に走ろうとした奴の口ぶりだとは、到底思えないぜ……」
ヒコロクの言葉を聞いたジューザの顔が少しばかり苦しげに歪んだ。だが、その次に彼はわざとらしい軽薄な笑顔を浮かべた。
そんなジューザを見たバナーヌは、ヒコロクと同じ感想を持った。どうにも浮ついている。まるで、
ジューザは相変わらずの軽口をヒコロクに言った。
「それだけ憎まれ口を叩けるのなら、これ以上、傷の心配はしないでも良いかな」
だが、ヒコロクは
「この馬鹿が。お前に必要なのはもっと別の種類の心配だろうが。せいぜいあの三人娘に
ジューザは顔を曇らせた。彼は答えた。
「ああ分かってる、分かってるさ……」
寝台に横になったヒコロクのほうへ、バナーヌとテッポが近寄ってきた。それを見たジューザは、そっと一歩分だけその場を離れた。
寝台の周りに三人の娘たちが立っていた。テッポがその細い眉を心配そうに寄せてヒコロクに尋ねた。
「ヒコロク、傷の具合はどう? 痛くなったりしてない? 雨の中を長い時間待たせてしまったから……ごめんね」
ヒコロクは薄く笑って手を軽く振ると、テッポの懸念を打ち消した。
「心配御無用ですよ、テッポ殿。そこのバナーヌさんの処置が良かったおかげか、今も痛むには痛みますが、人生を投げ出したくなるほどの痛みではありません」
テッポは明らかに愁眉を開いたようだった。彼女は言った。
「そう……それなら良かった……よく休んでね」
次に、モモンジがヒコロクに話しかけた。
「ヒコロク先輩、何か食べたいものはありませんか?」
ヒコロクはぷっと吹き出した。
「モモンジ、本当にお前はいつも食欲に取り憑かれているな! 別に今は食欲はねーよ。食欲が湧くのはもっと時間が経ってからだろう。お前こそ、腹は減ってないのか?」
そうヒコロクが言った直後、モモンジの腹部から可愛らしい音が鳴った。モモンジの顔が瞬時に赤くなった。ヒコロクが笑って言った。
「ハハハ、やっぱりそうじゃねーか! この腹ペコ仮面戦士め!」
モモンジは顔を真っ赤にした。
「くぅう……恥ずかしいです……」
ヒコロクは優しい目をモモンジに向けた。彼は言った。
「まあ、お前もよく頑張ったな。ありがとよ。せいぜい美味いものでもたらふく食べさせてもらうんだな……」
そんな他愛もない会話が続くのを、バナーヌは腕組みをして見守っていた。やがて、彼女はその場から離れて、先ほどから思案げな顔をして俯いているジューザの近くへと寄った。
バナーヌはジューザに短く質問を発した。
「医者は呼んだのか」
突然バナーヌから声をかけられたジューザは、驚いたように目を見開いた。だが、次の瞬間には彼は平静を取り戻して、ぶっきらぼうに答えた。
「ああ。ヒコロクを連れてくる前に、ジーロを馬に乗せて医者を呼びにやらせたよ。この雨だからここに到着するには少し時間がかかるかもしれないが、馬宿には薬もあるし包帯もある。医者がいなくとも、できる限りの看護はするつもりだ……」
すると、そのすぐ
「ジューザ、話があります」
バナーヌが目をやると、テッポが腰に手を当ててジューザを見上げていた。テッポは憤然とした内心を強いて隠そうとしているようだった。幼さに似合わぬ迫力のある眼光と、語気の鋭さから、彼女の内心は明らかだった。
ジューザは直立不動の姿勢をとった。ジューザは真面目な口調で答えた。
「はいっ、テッポ殿」
大の大人が少女に
テッポは語り始めた。
「ジューザ、あなたの立場は私も理解しています。この高原の馬宿の店長としては、馬宿と馬を守ることが第一の任務でしょう。ですから昨晩あなたがヒコロクとモモンジの積極策に賛同せず、馬宿から出撃しなかったのも、一理あると私は思います。また私は、『ヒコロクが重傷を負ったのは、あなたが出撃しなかったからだ』などという短絡的なことは言いません。ヒコロクが負傷したのは、第一に不覚をとった彼とモモンジの責任ですから、そのことに関してあなたの責任を問うのは不当でしょう。ですが……」
テッポの言葉は続いた。不思議といえば不思議な状況だった。テッポの言葉は、馬宿内部の空間を完全に支配していた。寝台に横たわっているヒコロクも、どうなることかと思ってハラハラとしているモモンジも、
「ですがあなたは、私たちが
ここまで話してからテッポは、微かにふらついた。疲労感が募っているようだった。しかし、彼女は足に力を入れてぐっと
「なぜなら、あなたは、馬宿の店長である前に、イーガ団員だからです。あの時、あなたは、負傷した仲間のために、店長としての務めを一度
ジューザはうなだれていた。テッポは目つきをさらに鋭くし、ジューザを見据えて言った。
「ここではっきりと言っておきます。あなたは仲間を、負傷したヒコロクを見殺しにしようとしたのです。だから、まずは、ヒコロクに謝るべきではないのですか? イーガ団員として恥を知っているのならば、ヒコロクに対してどんな言葉をかけるべきか、あなたにはわかるでしょう」
しばし、沈黙があたりを包んだ。その場にいる全員の視線が、ジューザに集中していた。馬宿の天井を打ち続ける単調な雨の音が、どこか遠く聞こえた。
ややあって、ジューザが動いた。彼はヒコロクの寝台の
「ヒコロク、申し訳なかった。俺は誤った判断をして、お前の命を危険に晒した。俺は、同じイーガ団員を見捨てようとした。許されるとは思っていないが、どうかこの謝罪の言葉だけは聞いて欲しい……」
またもや、しばしの沈黙がその場に訪れた。血を失って蒼白になったヒコロクの顔は、ジューザの謝罪を聞いている時は真面目に引き締まっていた。
だが、やがて、ヒコロクの表情は弛緩した。彼は朗らかな声を響かせた。
「良し、許す!」
モモンジが驚いたような、呆れたような声を上げた。
「ええー……そんなに軽く許すんですか……もっと、こう、なにか、この場にふさわしい言いようってものがあるんじゃ……」
モモンジに向かって、ヒコロクはニヤリと笑った。
「こうやって許すのが一番良いのさ。もし、ここで俺が許さなかったら、ジューザの立つ瀬がない。それに、テッポ殿は怒り
一方のジューザは、困惑しているようだった。彼は戸惑ったように言った。
「良いのか? 本当に俺を許してくれるのか? 俺はお前を見捨てようとしたんだぞ」
面倒くさそうにヒコロクは答えた。
「うるさいやつだなぁ。許すって言ってんだから許すんだよ。ねっ、テッポ殿? 俺が許したんだから、この件はこれでオシマイですよね?」
テッポは満足げに微笑んだ。彼女は言った。
「ええ、ヒコロクが許したんですから、この件はもう終わりよ。良かったわねジューザ、ヒコロクの心が広くて。ちゃんと謝ることができて偉かったわ……あっ……」
そこまで話した時、テッポはガクリと脱力して床に膝をついた。バナーヌが即座に駆け寄り、テッポを抱き抱えた。彼女はテッポに声をかけた。
「テッポ、大丈夫か」
テッポは、バナーヌの腕の中で、絞り出すように声を出した。
「うう、バナーヌ……私、もう疲労の限界よ……今、ものすっごく眠いの……」
バナーヌは優しい声で言った。
「そうか、寝ろ」
ただでさえ消耗していたところに慣れないお説教をしたせいで、テッポは体力の限界を突破してしまったようだった。バナーヌはテッポを横にして抱き上げると、近くの寝台まで運んでいった。
テッポは子犬のように温かく、羽毛のように軽かった。こんな小さな体で戦い続けたのか。バナーヌは感心するのと同時に、少し悲しい気持ちがした。悲しい? イーガ団員であるならば戦いは当然のことなのに? 彼女はちょっとだけ考えた。そして、やっぱり悲しいものは悲しいのだと思った。
そんなバナーヌの内心も知らずに、抱かれているテッポを見たモモンジが能天気な声を上げた。
「あっ、それっていわゆる『お姫様だっこ』ってやつですよね! いいなあテッポ殿、私もお姫様だっこ、やってもらいたいなぁ……女の子の夢ですよね、お姫様だっこは……」
ヒコロクは呆れた顔をして言った。
「いったい何を言ってんだお前は……お前も疲労と眠気でだいぶ頭がおかしなことになってるんじゃないのか? なんか妙なこと口走ってるぞ」
だがモモンジは首を左右に振った。彼女は言った。その口調はどこかふにゃふにゃとしていた。
「いえ、今は眠気よりやっぱり食い気ですね。私、もうお腹が減ってしまって……いえ、食い気より眠気? そう考えてみるとやっぱり眠い感じもしますね、ああ、ねむい……」
ヒコロクは言った。
「本当にしょうがいないやつだな、お前は。ほら、お前もちゃんと寝台に横になって、寝ろよ」
モモンジとヒコロクの会話を聞き流しつつ、バナーヌはテッポをふかふかの寝台に横たわらせた。テッポはすでに、静かな寝息を立てていた。
バナーヌは、先ほどのテッポの説教について思い返していた。まったくテッポは人を率いる術をよく知っている。話をするということは、人を率いる基本だ。父親の英才教育のおかげかそれとも天性の才能かは分からないが、まったく大したものだった。あそこでジューザに説教できるのはテッポだけだった。テッポはフィローネ支部の幹部ハッパの一人娘であるし、それにいわゆる「幹部候補生」の立場にある。テッポだからこそジューザも話を聞いたのだ。
いや、それだけではないとバナーヌは思った。テッポには「まっすぐさ」という美点がある。純粋で不正を憎む彼女だからこそ、あの説教には説得力があったのだ。幼いながらもあそこで凛として声を上げたのは、本当に偉かったと思う。
ジューザには、この後にも色々と仕事をしてもらわなければならないのだ。彼には代替馬を用意してもらわないといけないし、それにヒコロクの看護もしてもらわないといけない。場合によっては、輸送馬車まで馬を連れていく役目まで果たしてもらうことになるかもしれない。そんなジューザに、感情的なしこりを残したままでいさせるのは危険なのだ。
テッポはあの時、あえて怒ることで、ジューザに気持ちを整理させることを促した。いわばテッポは、生命の洗濯をしてやったのだ。バナーヌは頷いた。そうだ。イーガ団員であることと馬宿の店長であることとの板挟み、そして、仲間を見殺しにしかけたという罪悪感……こういった負の感情を洗い落とすことなしに、今後も充分な仕事などできるはずがない。
それにおそらくテッポは、ヒコロクがすぐに許すであろうことも知っていた。だから、問題は早く決着するだろうと予測していたのだろう。
バナーヌは、テッポが示した才能に改めて感心した。この
すると突然、テッポの目がぱっちりと開いた。艶ややかな長いまつげの奥で、眼差しがぼんやりと光っていた。案外ハッキリとした口調で、テッポはバナーヌに話しかけた。
「バナーヌ、私、いつまで寝てて良いのかしら?」
バナーヌは、また優しくテッポの頭を撫でてやった。さらさらだった黒髪は、戦闘を経てざらついていた。彼女は言った。
「風呂が沸いたら起こしてやる」
テッポの顔が
「そう、ありがとう……ねぇ、バナーヌ……」
テッポがそんな声を出すのをバナーヌは初めて聞いた。彼女は答えた。
「なに?」
次第に消え入りそうになる声で、テッポは言った。
「さっきの私……あれで良かったかな? 私、ジューザにあんなことを言う資格があったのかな……」
バナーヌは、軽く頷いた。
「ああ、あれで良かった」
その言葉を聞いたのか聞かなかったのか、テッポはすでに
しばらくテッポの寝顔を見つめた後、バナーヌも寝台で横になることにした。少しでも寝て、体力を回復させておかねばならない。彼女は思った。敵の大群を撃破することができた。どうにか代替馬は確保できそうだ。だが、これからもまだまだやるべきことが残っている……それをこなすためには、さしあたって睡眠と、入浴と、食事が必要だ。
私たちだって、生命の洗濯をしないといけない。それは大仕事なのだ。
ジューザがなにやら店員に声をかけているのが聞こえた。どうやらジューザは、「風呂の準備をしろ」と言ったようだった。店員が馬宿を出て、裏手にある風呂へと行く気配がした。
普段は煩わしい雨音が、今だけは自然の子守唄となっていた。バナーヌは、バナナのように甘い
☆☆☆
モモンジが言った。
「あのー、テッポ殿。私たち、こんなにのんびりして良いんですか?」
テッポが怪訝そうに答えた。
「なに、モモンジ? どういうこと?」
モモンジが言った。
「いえ、だってですね、サンベ殿たちはたぶん、一刻も早く私たちが代替馬を連れて帰ってくるのを待ってると思うんですよ」
テッポは頷いた。
「そうね。指揮官殿は首を長くして私たちを待っているでしょうね。それで?」
モモンジはさらに言った。
「それなのに私たちは今、お風呂にゆっくりと入ってのんびりとしている。それがなんだか、申し訳ないという感じがしてですね……」
テッポが答えた。
「あら、モモンジ、あなたはバナーヌから聞かなかったの? バナーヌの話では、『戦闘の前に逃がしておいた馬たちを集めるには、最低でも五時間はかかる』のですって。そうジューザが言っていたそうよ。雨だから時間がかかるらしいわ。だから、私たちは五時間も休むことができるのよ。さっきのお昼寝で私たちは一時間半くらい寝た。だから、あと三時間半はゆっくりできるわね」
モモンジが驚いたような声を上げた。
「えっ!? これから三時間半もお風呂に入るんですか!? さすがにそれはちょっと……そんなに長くお風呂に入ったら茹でオクタになっちゃいますよ……」
テッポは呆れたような声で言った。
「なに言ってるのよ、もう……そんなに長くお風呂に入るわけないでしょ! ほら、あなたに描いた
狭く薄暗い浴室に、白い湯気が垂れ込めていた。明り取りの小窓から空が見えていた。空は濃い灰色一色に塗りこめられていた。雨雲はあいかわらず、細かな水滴を地上へ無限に落とし続けていた。
何よりも甘美な睡眠を、テッポとモモンジはつかの間だけ味わうことができた。二人は今、高原の馬宿の裏手に建っている
もともと、高原の馬宿に風呂は備わっていなかった。ある時、ジューザがイーガ団員を接待するという名目で風呂を作らせた。その作りは伝統的なカカリコ村様式だった。湯船は遠くラウル丘陵から運ばせた上質な杉材で出来ていた。貴重な真水と
手拭いと石鹸を手に持ったテッポが、モモンジの後ろに立った。テッポは行儀良く湯浴み着を身に纏っていた。モモンジは一糸纏わぬ裸体を晒していた。
カラス共と揶揄されるフィローネ支部所属でありながら、モモンジの肌はまったく日焼けしていなかった。その健康的で
モモンジは、その豊かな桃色の髪を湯浴みのために結い上げていた。彼女はどこか気遣わしげな声を発した。
「油性の顔料のおかげで雨にも負けずに耐えてくれましたけど、この紋様、ちゃんと消えるんでしょうか……?」
この後も、必ず戦闘はあるだろう。そのためには紋様は残しておいたほうが良いかもしれない。風呂に入る前に、モモンジはバナーヌとテッポにそう言った。だが、二人からは「いざとなったらまた描いてあげる」と彼女は言われた。彼女は、もったいないという気持ちがしつつも、紋様を風呂で洗い落とすことにしたのだった。
モモンジと同じように豊かな黒髪を結い上げているテッポが、薄い胸をことさらに張って答えた。
「大丈夫よ! 石鹸をたっぷり使うから、きっと油性の顔料であっても落ちるはず! さあ、洗って洗って洗い倒すわよ!」
あっ、とモモンジが声を上げた。
「その石鹸、もしかしてフィローネ支部特産の、例の『バナナ石鹸』ではないですよね……? あの、申し訳ないのですが、あれだけはやめてくださいね……? 前に何も知らないで使ったら全身のお肌がかぶれちゃって……」
テッポは答えた。
「大丈夫よ、その点も抜かりないわ。この石鹸はハテノ村産の牛乳石鹸だから。さあ、ごしごしして綺麗にしましょうね」
モモンジは言った。
「は、はあ……ではあの、ふつつか者ですが、よろしくお願いします……」
テッポは手拭いに石鹸を塗りつけた。また、彼女はモモンジの背中にも直接石鹸を塗りつけた。それから彼女は力を込めて、丹念に紋様を拭き始めた。
手を動かしているうちにテッポは、モモンジの肉体がしなやかで強靭な筋肉を持っていることに気が付いた。大振りな風斬り刀を手足のように扱い、魔物の腕を斬り飛ばし、真空刃を発生させ、馬の首を切断する……そういったことを可能とする膂力を生み出しているのがこの筋肉なのだということを、テッポは実際に手で触れて知った。
テッポが呟くように言った。
「私も筋力を鍛えたほうが良いのかな……」
モモンジはその言葉を聞きもらさなかった。彼女は言った。
「えっ? テッポ殿、筋力トレーニングに興味がありますか? それなら良い方法がありますよ。うちの流派に代々伝えられている筋力の鍛錬法があって……」
テッポはどこか投げやりな感じで答えた。
「やっぱり止めとくわ。たぶんついていけない気がする……」
浴室内は次第に淡く繊細な無数のシャボン玉で溢れかえっていった。
モモンジがいかにも気の抜けたような声音で言った。
「ああー、テッポ殿は洗うのがお上手ですねぇ……すごく気持ち良いですよ……」
手を休めることなくテッポがそれに答えた。
「そう? ちょうど良い
その言葉を聞いてモモンジが笑った。
「ちょっ、テッポ殿、『塩梅』って……ふふふ、若い娘がそんな言葉遣いしますか?」
テッポも首を傾げた。すでにモモンジの背中の紋様はほとんどが消えつつあった。彼女は首をかしげながら言った。
「確かに、若い娘が『塩梅』なんて言葉を使うかしら? なんかおばあちゃんみたいね。まあ、いいか」
気を取り直したようにテッポはまた言った。
「さあ、モモンジ。次は前よ、前! こっちを向きなさい!」
モモンジは慌てたように言った。
「い、いえ、テッポ殿! 前は良いですよ、前は! 前を洗うのは自分でやりますから!」
だが、テッポはなおも言った。
「ダメよ! 私があなたの体を洗うの! それにあなたの体、なんかごしごしするのが楽しいのよ! 脂肪の柔らかさと筋肉の固さがちょうどよい塩梅というか……あ、また塩梅って言っちゃった……とにかく、もっとごしごしさせなさい!」
モモンジは悲鳴を上げた。
「そ、そんな……お、お助けー!」
しばらく揉み合うような気配がした。ややあって、先ほどとはトーンの異なった会話が聞こえてきた。
「お、大きい……やっぱり大きいわ……それに白くて形も良いし……なによ、この柔らかさ……この柔らかさ、いったいなによ」
「しくしく……」
「バナーヌには流石に負けるけど、モモンジ、あなたもすごくすごいモノを持ってるわ……すごいわこの柔らかさ、なにこれすごい」
「しくしく……ひどいです、テッポ殿……」
テッポは手を動かしていた。モモンジは泣くふりをしていた。二人は他愛のないじゃれ合いに興じていた。それは、失われた生命を取り戻すための、一種の儀式だった。戦闘で磨耗した精神、損なわれた霊魂、魔物によって汚された感情……それらを回復し、洗い直し、もとの純白さを復元させるための儀式を彼女たちは執り行っていた。それは真なる意味での、生命の洗濯だった。
ふと、モモンジが首を傾げた。
「そういえば、テッポ殿はバナーヌ先輩の裸を見たことあるんですか?」
テッポは頷いた。
「あるわ。つい先日、あなた達とはぐれた次の日の朝にね……バナーヌったら、誰も見てないからってお外で水浴びをしたのよ……あれには驚いたわ」
揉まれるに任せていたモモンジは、そこで急に姿勢を正した。彼女は不思議そうな顔をして言った。
「テッポ殿とバナーヌ先輩、ぴったり息が合ってるからなんとなく長年の付き合いなんだと思ってましたけど、考えてみればお二人が出会ったのはここ数日の話なんですよね。バナーヌ先輩の性格のだいたいのところは、今回の戦いで私も把握したつもりですけど……いったい、バナーヌ先輩って何者なんですか?」
そう問われたテッポは揉むのをやめて、腕を組むと考え始めた。テッポは言った。
「……うーん、そう言われてみると……私も彼女のこと、まったく知らないわね……私の年齢くらいの頃のバナーヌって、どんな子だったのかしら……私、彼女の好きなファッションとか、好きな本とか知らないわ。彼女が好きな食べ物も私は……いえ、それはバナナね、間違いなく。バナーヌはバナナ好きだわ。あと、本人はそう言わないけど、マックスドリアンが嫌いみたい。なんでマックスドリアンを嫌うのか、理解に苦しむけど」
モモンジがテッポの考えを引き継ぐように言った。
「バナーヌ先輩は冷静沈着で、すごい戦闘巧者だと思います! あの華麗な
手拭いを持ったテッポが、今度はモモンジの胸の紋様を消し始めた。モモンジの胸は面白いように形を変えた。それに苦戦しながらも、テッポは先を促した。
「あとは?」
モモンジはぐっと握りこぶしを胸の前で作った。彼女は断言するように言った。
「バナーヌ先輩は、とても優しい人だと思います!」
テッポは小さな妖精のように微笑んだ。
「そうね。バナーヌはとっても優しいわ」
その時突然、ガラリと浴室の
二人が振り向くと、入り口に全裸のバナーヌが立っていた。彼女は白い手拭いを手にさげていた。
二人の視線は順にバナーヌの身体の各部を辿っていった。どこまでも白く、深雪を思わせるような肌だった。芸術的なまでに均整の取れた肢体だった。腰は美しくくびれていた。
そして、それを見て、二人は同時に声を発した。
「お、大きいわね……」
「お、大きいですね……」
バナーヌは、サファイアの瞳にやや疑問の色を浮かべて、僅かに首を傾げた。
これにて第四章は終了です。第四章は新キャラであるモモンジの登場をメインテーマとした話になりました。アラフラ平原に関する考察、馬に関する知識、寡で衆を撃破する戦闘の構築、迫力ある戦闘描写、女の子の肌の質感など、書き終えた後は「もう少し勉強してから書きたかったなぁ」という気持ちになりましたが、書けるだけのことは書いたので満足感もあります。
※加筆修正しました。(2023/05/15/月)