ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

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第五章 カルサー谷からの長い手
第四十三話 剣士リンクのメモラビリア


 時間は半日ほど(さかのぼ)る。場所は遠く(へだ)たっている。アラフラ平原に到達したバナーヌとテッポが、モモンジと共にボコブリンたちをひとまず退け、疎林にてヒコロクの重傷を治療していた、まさにその頃のことである。

 

 暗い青紫の東方の空に、緋色の可憐な衣を纏った太陽がはにかむように姿を現した。その日もハイラルは朝を迎えていた。

 

 ゲルド地方の奥また奥にあるカルサー谷のイーガ団のアジトは、この百年間ずっとそうであったように、穏やかで、いつもと何もかわり映えのしない日常を開始した。

 

 砂漠地帯特有の、朝の冷涼な空気と風が大気を満たしていた。墨染(すみぞめ)の山の()を、昇りかけの日の光が薔薇色に染めていた。だが、新しい一日の始まりに相応しい、可愛らしい小鳥の鳴き声は聞こえなかった。

 

 そのかわりに聞こえてくるのは、矢叫(やたけ)びだった。矢叫びに様々な音が唱和していた。ギリギリと弦が引き絞られる音、ふっと一瞬息を呑む息遣い、放たれて猛烈な勢いで空中を突進する矢の飛翔音、的に矢が突き刺さる鈍い音……それぞれの音は渾然一体となって、その空間に満ちていた。

 

 そこはイーガ団アジトの弓術訓練場であった。イーガ団の中でも特に射撃の腕に優れる者たちは、朝に眠りから覚めて寝台からおりると、すぐに支度(したく)を整えてここへ来ることになっていた。たっぷり一時間は弓の訓練をした後、彼らはバナナ付きの朝食を食べて、一日の活動を開始するというわけだった。

 

 だが、今日はいつもと少し様子が違った。彼らはいつも通り訓練を行っていた。だが、その注意は弓矢と的に対してではなく、その場にいる、ある三人の人物に向けられているようだった。

 

 三人は、いずれも女性であった。若い女の声が響いた。

 

「サミ、頑張ってねー。あ、ノチ。ちょっとお茶を持ってきてちょうだい。運動前には水分を摂っておかないと」

 

 その若い女の声に、さらに若い女の声が答えた。

 

「は、はい、ウカミ様! ただいまお持ちいたします!」

 

 その三人の女は、訓練場の真ん中に位置を占めていた。一人の女は、弓に矢を(つが)えて佇立(ちょりつ)していた。女はその鋭い目で、四十メートル彼方(かなた)にある円形の的を見やっていた。もう一人の女は絹の(しとね)にゆったりと腰を下ろし、柔和な顔つきで弓矢を手にする自分の側近を見つめていた。最後の一人は、二人のやや後方におり、その手には手拭いや水筒を、そして(かご)に盛られたバナナを抱えていた。

 

 弓を持った女の目は、いまや空から獲物を探すタカのようであった。猛禽類のごとき鋭いその視線は標的を射抜いた。女の体は、積み上げられた鍛錬の通りに理想的に動いた。女から息が漏れた。

 

「ふぅ……はっ!」

 

 弓を構えていた女はサミであった。サミは自分の(あるじ)からの視線を受けながらもそれに(おく)することなく、至極冷静に、普段通りの動作と息遣いで矢を放った。ムカデのような装飾が施された二連弓から放たれた二本の矢は、あたかもそれ自体が意思を持つ生き物であるかのように空中を駆け抜けた。矢は数秒も経たずして的に命中した。

 

 それを確認するまでもなく、サミは間を置かずに次の矢を放った。二回目、三回目、四回目……そのすべてが命中した。恐ろしいばかりに高い射撃技量であった。だが、当の本人であるサミはこの程度どうということもない、という表情を浮かべていた。その証拠のように、彼女はまったく息を切らしていなかった。

 

 的の近くに控えていた判定員が結果を叫んだ。

 

「サミ様、八本中八本命中! お見事でございます!」

 

 的にはサミの放った八本の矢が、どれも円の中心のごく近いところに林立していた。弓術特練生でもこのような結果を残すのは難しいだろう。絹の(しとね)の上に座っていた、イーガ団上級幹部のウカミは、判定員の報告を聞いて相好を崩した。彼女は嬉しそうに言った。

 

「すごいわ、さすがはサミね。あなたの弓の腕は、紛れもなく技量『特甲』だわ」

 

 サミは深々と頭を下げた。彼女は言った。

 

「もったいないお言葉でございます」

 

 ウカミはニコニコと笑っていた。その口元を扇子(せんす)で隠しながら彼女はサミに言った。

 

「うふふ……サミは本当に素晴らしい娘だわ。ねえ、こっちにいらっしゃい。ご褒美に頭を撫でてあげるから」

 

 サミは、やや顔を赤らめた。首を左右に軽く振ると、彼女は呟くように言った。

 

「また御戯(おたわむ)れを……」

 

 そう言いつつ、サミは後ろに下がった。彼女は自分の座に腰を下ろした。

 

 まったく、いつもどおりだ。サミはそう思った。的に矢が全部命中することも、ウカミ様がからかってくることも……ただ、この場にノチがいることだけがいつもと違う。それを除けばいつもどおりだ……

 

 ウカミは朝に訓練場で軽く汗を流し、その後に入浴する。入浴後にウカミはたっぷりと時間を掛けて化粧を済ませ、バナナをはじめとしたフルーツ主体の朝食を摂る。それがウカミの朝のルーティンであった。朝の訓練の時、ウカミはだいたいいつも剣術訓練場のほうを利用するが、ごくたまに弓術訓練場へ足を向けることもある。今日がその「たまに」の日だった。

 

 今朝、ウカミを起こしに行ったサミは、ウカミから「今日はノチも連れて弓術訓練場のほうへ行くわ」と告げられた。自分の主のノチへの熱心な入れ込みように内心で溜息をつきながらも、サミはそれに従った。サミはだらしない寝顔をして寝台で寝入っているノチを叩き起こして、弓術訓練場へ連れてきたのだった。

 

 あどけない顔をしたノチが、サミに手拭いと水筒を差し出してきた。花が咲いたような満面の笑みでノチはサミを称賛した。

 

「サミ様、お見事です! サミ様がこんなにすごい弓術の腕前をお持ちだったなんて、私、知りませんでした!」

 

 サミは手拭いを受け取った。主に対する態度とは対照的に、彼女はごく無感動に、ややもすれば冷淡とも取れるような態度でノチに答えた。

 

「別に、こんなことは大したことではないわ。あなたのような子からしたらすごいように見えるかもしれないけど、これくらいのことはウカミ様のそば近くお仕えする者として出来て当然なのよ」

 

 ノチはしゅんとなった。彼女は落ち込んだように言った。

 

「あ、はい……そうですよね……」

 

 そんなノチを一切気に掛けることなく、サミは手拭いでその白く細い首回りの汗を拭っていた。ノチのことなどどうでもよいといわんばかりの態度だった。

 

 一方で、ノチの気分はずるずると落ち込み続けた。弓術は、イーガ団員にとっては当たり前にできること。それにサミ様のように、ウカミ様という素晴らしい方にお仕えする人にとっては、「技量特甲」などというのは「イシロックをひっくり返す」ように簡単なことなのかもしれない。私の称賛の言葉なんて余計なことだったのかな……そのように考え込むほどに、ノチの顔つきは暗くなっていった。

 

 そんなノチに、いつの間にか近くに寄っていたウカミが優しく語りかけた。

 

「あらあら、可哀そうなノチ。でも安心してね。サミは冷淡なように見えて、ただ照れているだけなのよ。あなたに冷たくするのは、ただの照れ隠しなの。この子、他人からの純粋な好意に弱いから。特に、あなたのように純真無垢な子から褒められると、嬉しくてたまらなくなっちゃうのよ」

 

 主の言葉を聞いて、サミは途端に顔を赤くした。自分の主は、自分が秘めておきたい性格的特徴をいつも簡単に暴露してしまう。本当に困ったものだ。サミは言った。

 

「照れてなどおりません。何度も言うようですが、あの程度のことはイーガ団員として当たり前にできることでございます」

 

 寵愛する側近の健気な反撃に対して、ウカミはニヤニヤとした笑みを浮かべていた。ウカミは言った。

 

「その当たり前ができるようになるまで、サミはずいぶん苦労したわね。まだあなたが今の半分くらいの身長しかない頃に、私が手取り足取り弓矢の使い方を教えてあげて、それからはどんどん上手くなっていったのよねぇ……」

 

 ウカミの言葉を聞いたサミの顔からは、すでに照れは消えていた。それにかわって、隠し切れない誇りの感情がその表情に(にじ)み出ていた。サミは(りん)とした声で答えた。

 

「はい。今日(こんにち)の私の戦闘技量のすべては、ウカミ様ご自身のご指導によってその基礎が作られました。未熟だった私を親鳥のように育ててくださったこと、まことに感謝の念に()えません」

 

 控えて話を聞いていたノチが、驚いたように声を上げた。

 

「えっ! サミ様にもそんな未熟だった頃があったのですか!?」

 

 サミはノチへジロリと視線を向けた。彼女は茶を一杯口に含んで飲み干すと、どこか嫌そうな声で言った。

 

「昔の話よ。まだほんの子どもの頃の話。私だって未熟な頃はあった。イワロックだって初めはイシロックなのよ」

 

 すると、ウカミが音もなくすっくと立ち上がった。ウカミは言った。

 

「さてと、次は私の番ね。頑張るわ」

 

 サミが何も言わず、すっとウカミに近寄った。彼女は恭しい態度でウカミに弓を差し出した。その弓はイーガ団の標準装備の二連弓ではなかった。それはシーカー族が用いるぬばたまの黒い弓、「一心の弓」だった。

 

 遠く的場(まとば)の方では、他の団員がキビキビとした動きで的を交換していた。その的は、先ほどサミが射ったものとは異なっていた。的はさらにもう一回りほど小さなものだった。

 

 ウカミが位置に立った。ウカミは、先ほどまでは縹色(はなだいろ)と金色の豪奢(どうしゃ)打掛(うちかけ)を羽織っていたが、今はそれを脱いでいた。一般団員が身に纏うのと何ら変わらない、標準の忍びスーツが露わになっていた。

 

 ノチはその姿を見て、息を呑んだ。ウカミは美しかった。

 

 まず最初に、バナーヌ以上に豊満で大きく突き出た胸部がノチの目についた。しかし全体的な印象としてはむしろ、ウカミはしなやかで強靭な筋肉を搭載した肉食獣のようであった。これまでに何回かノチは、(おそ)れ多くもウカミの一糸纏わぬ素肌を目にしていた。だが、忍びスーツを纏った彼女を見るのは、ノチには初めてのことだった。

 

 忍びスーツ姿のウカミは、まさに理想的な女性の容姿であった。また、理想的なイーガ団員の姿であった。後光が差しているかのような圧倒的な美だった。それを目の当たりにして、ノチは()も言われぬ多幸感に心の中が満たされていくのを感じた。

 

 だが、それと同時に、ノチの脳裏にバナーヌの姿がふっとよぎった。それはウカミの美に触発されて、ノチの記憶中枢にある美のイメージの代表であるバナーヌが引きずり出されてきたからかもしれなかった。あるいは、ノチは敬愛するウカミの美と親友のバナーヌのそれとを無意識のうちに比較しようとしたのかもしれなかった。いずれにせよ、ノチは自分自身の心的な動きを自覚していなかった。彼女はただ呆然として、ウカミを見ていた。

 

 ウカミの口から声が漏れた。

 

「……ふっ!」

 

 ウカミは無造作に矢を(つが)えると、矢を放った。放たれた矢はあやまたず、五十メートル先にある小さな的の、その中心に命中した。

 

 おお……とノチから溜息が漏れた。それも束の間だった。ウカミはさらに矢を放った。一発、二発、三発、四発……矢色(やいろ)はまったく衰えなかった。矢風(やかぜ)は凄まじかった。それぞれの矢は、あたかも自動機械人形のような精確な動きによって放たれた。瞠目(どうもく)すべきことに、それぞれの矢は、前に放った矢の尻の部分、矢筈(やはず)に命中して突き立っていた。威力も凄まじいのだろう、一発目から三発目までの矢は縦に裂けていた。

 

 上級幹部による絶技を見せつけられた遠くの判定員が、狂喜したように叫んだ。

 

「お見事にございますウカミ様! お見事でございます! すべて命中です!」

 

 ウカミは判定員へ軽く手を振った。それから彼女は、(かたわ)らにいるサミとノチの二人に微笑みかけた。サミはいつもながらのクールな表情だったが、その頬は上気してほんのりと桃色になっていた。ノチに至っては、ポカンと口をあけて放心していた。ウカミは(たしな)めるように言った。

 

「あらあら、ダメよノチ。女の子がそんな顔をしちゃ。おくちを開けたままだとキースが飛び込むわ」

 

 ノチはハッとしたように答えた。

 

「は、はひっ! 申し訳ございません!」

 

 ウカミはノチの頬を優しく撫でた。撫でながら彼女はサミへ顔を向け、ニッコリと笑った。彼女は言った。

 

「サミが『出来て当たり前』って言ってたから、失敗したらどうしようとハラハラしていたのだけど、案外うまくいったわね。ああ、ホッとしたわ」

 

 サミとノチは口々に称賛と感嘆の声を上げた。

 

「さすがはウカミ様です。これほどの弓の腕前、古今において右に出る者はいないでしょう」

「すごかったです! あの、その、何と言ったらいいか……とにかくすごすぎて言葉で表現できません!」

 

 だが、ウカミは、軽く首を左右に振った。彼女は言った。

 

「あらあら、あなたたち、ちょっと褒めすぎよ。別に私の腕前が良いわけじゃないわ。これはね、私が使ってる『一心の弓』のおかげなの。この弓を構えて精神を集中すると、遠くのものがはっきりと、大きく見えるようになるの。だから、ある意味これはズルなのよ。弓の性能に頼っただけなんだから。そう、ズルばかりするシーカー族が使う弓だから、やっぱりズルい弓なのね。それに、この世の中には私よりも遥かに上の技量を有する人が沢山いるのよ。それと比べたら私なんて……そう、『井戸の中のガッツガエル』のようなものね」

 

 ウカミはサミに一心の弓を渡した。彼女はノチから打掛(うちかけ)を受け取って、それを羽織った。ウカミは控えの間へと歩いていった。サミとノチはウカミに続いた。

 

 控えの間でウカミは二人に言った。

 

「ちょっと休憩をしましょう。少し昔話をしてあげるわ。バナナとお茶を楽しみながら、ね? リラックスして、私の話を聞いてちょうだい」

 

 狭い部屋の中で、ウカミは絹の(しとね)になよやかに腰掛つつ、冷たい茶の入った(わん)を手にして、話を始めた。

 

 それは、大昔に存在した、ある剣士の話だった。

 

 

☆☆☆

 

 

 それはおよそ百年ほど前、王国の占い師が「厄災復活の予兆あり」との警告を発する以前の話である。その頃のハイラル王国は(げん)として地上に秩序と支配を確立していた。王国は繁栄を謳歌していた。

 

 中央ハイラルの南西部にひとつの湖がある。馬蹄型のその湖は、名をアクオ湖といった。その湖に取り囲まれるようにして、ひとつの建造物があった。建造物は巨大だった。その建造物は、闘技場だった。闘技場は連日賑わいを見せていた。

 

 この闘技場は、かつてハイラル王家が体育競技を振興するために巨費を投じて建設したものであった。それによって優秀な士卒を抜擢するのが目的であった。建設当初、闘技場は王家による直営であったが、時代ごとにその所有者は代わった。この話の頃には、闘技場は王家からの委託を受けた民間の業者によって運営されていた。

 

 イーガ団員である彼、ムケリは、闘技場運営スタッフの一員としてそこに潜伏していた。

 

 時のハイラル王、ローム・ボスフォレームス・ハイラルは非常に聡明な人物であった。王は、この闘技場を民間に委ねるにあたり、相当厳密なチェックを入れた。王はそれによって不逞(ふてい)の輩や山師の類、なかんずくイーガ団員が闘技場に潜入するのを防ごうとしたのであったが、しかしやはりと言おうか、イーガ団は狡猾にも人員を潜り込ませることに成功していた。

 

 彼の仕事は、表向きには出場者たちの世話役、つまりマネージャーである。その裏では、闘技場へやって来る王国内の腕利きたちの情報を集め、また、超レートの違法賭博を裏で取り仕切り、イーガ団にとってはバナナの次に貴重な外貨を稼ぐことを生業としていた。

 

 イーガ団員ムケリは、もう二十年は闘技場にいた。彼は闘技場に関わるありとあらゆるを知っていた。運営の実態はもちろんのこと、剣士たちの常套戦術から住所、家族構成に至るまで、彼は調べ上げていた。また彼は、違法賭博に精を出している貴族たちや高級官僚らの名前と、賭け金の多寡、さらにはそれらの負う借金の金額すら把握していた。これら大から小に至るまでの様々な情報がカルサー谷へ送られ、(きた)る決起の日のために戦略を練る上層部の思考の材料となっていたのだった。

 

 その一方で、ムケリはイーガ団員でありながら、闘技場のスタッフという仕事に明確に愛着を抱いていた。彼はベテランの剣士を応援し、新人の剣士を気にかけ、それとなく差し入れをしたり、時には贔屓(ひいき)の選手に対戦相手の情報を横流ししたりするなどしていた。そんな彼を選手たちもまた信頼していた。彼は「闘技場に来たならば最初に会うべき人物はムケリだ」とまで言われるようになった。彼は満足していた。彼はやりがいをもって仕事にあたっていた。そんな生活をムケリは送っていた。

 

 ある日、新人の剣士がムケリのもとへ挨拶にやってきた。彼が新人と会うのはいつものことだった。彼は新人に闘技場のルールとならわしを教え、怪我をしないコツ、もしくは生き残ったりするためのコツを教えたりしていた。こうすることで、彼は有望な新人の情報をいち早く手に入れることができた。また、彼はその情報を裏賭博の連中に横流しして、大枚(たいまい)のルピーをせしめることもできた。

 

 その時も彼は、それがいつもどおりのままに終わると思っていた。だが、その新人は彼が今までに会ったことのないような青年だった。

 

 新人の歳の頃は、十代半ばのようだった。あるいは、それより二、三年は過ぎているだろう。おそらく、二十歳前だと思われた。

 

 新人の青年は灰色のフードを被り、地味なベージュのシャツとパンツを身につけていた。その姿を見れば、身の程知らずにも田舎からやってきて、剣技らしきもので身を立てようとしている思慮の浅い若者だという印象を受けた。

 

 だが、青年がフードを脱いだ時、ムケリは思わず息を呑んだ。

 

 美が、そこにあった。少なくとも、彼の感性はそう告げていた。

 

 青年の髪は、刈り入れを待つばかりの穂を満々と実らせたタバンタ小麦の畑を思わせるような金髪だった。その耳は、神々の声をより正確に聞くためにと言わんばかりに尖っていた。眼は磨き抜かれた大粒のサファイアのようだった。その容貌は少女と見紛うばかりの美しさだった。それでいて、その白い肌の下に若き熱い血潮が力強く、しかしひそやかに流れているのが感じられた。

 

 青年は、同年代の剣士たちと比べると小柄だった。青年は筋肉が少ないように見えた。その骨格も女性のように華奢なように一見思えた。だが、ふとした拍子に青年が見せるその身のこなしは、彼がただならぬ力量を秘めていることを暗示していた。

 

 なによりムケリの目を惹いたのは、青年の背にある長剣だった。長剣は、小柄な青年が扱うには(いささ)か大造りであった。長剣は上質な黒革の鞘に収められていた。その柄には、これまで多くの業物(わざもの)を見てきたムケリでも初めて見るような、見事な意匠が施されていた。鞘から剣を抜けば、魂まで魅了されてしまうような白刃が(きら)めくであろう。そう思われた。

 

 これは、一波乱ありそうだ。そう考えつつ、ムケリは青年に名と出身地を尋ねた。青年はただ一言だけ答えた。

 

「名はリンクル。ハテノ村出身」

 

 リンクルとは、おそらく偽名だろうとムケリは思った。いくら女性的な雰囲気を醸し出しているとはいえ、リンクルなどという女性そのもの名前であるはずがない。ただ、彼はそれを追及しなかった。この闘技場に来る連中は、だいたいが「ワケアリ」だ。なにか、名前を伏せないといけない事情があるのだろう。彼はそう思った。

 

 続けてムケリは青年に、どのような武器を得意とするかについて尋ねた。得意とする武器によって出場するプログラムが変わってくるため、その質問は必須であった。青年は、意外な返答を返してきた。

 

「剣、槍、斧、大剣……すべて一通りは扱えます。ですが、弓矢は少し苦手です」

 

 ムケリは、彼の言葉を信じた。普通ならば、若者特有のホラ話と思うところだろう。新人たちの中には、実力を誇張するためにこの手の答えをする者がいる。この歳にして武芸十八般(じゅうはっぱん)であるはずはないのだ。

 

 だがこの青年の口ぶりは、あたかも「読み書き算術ができる」と言うのと同じような、ごく自然なものであった。いや、そんなはずはないだろうという内心の反問のほうが、却って嘘らしく聞こえるほどだった。

 

 その青年は、無口だったが、話すべきことは明瞭に話した。自分はハテノ村から城下町へ出て、どこか名のある貴族に仕官することにした。だが、自分は僻地(へきち)出身で家柄も低く実績もないため、どこも紹介状を書いてくれない。そこで、まずはこの闘技場で名を上げることにした。ここでの実績が紹介状の代わりになるだろう。また、今後の生活のことを見越して少し纏まった金が欲しい。戦闘には自信があるから、新人だからといって簡単なプログラムに出すことはせず、いきなり最高難易度に挑戦させてほしい……

 

 それを聞いて、ムケリは少し考えた。それは、青年の要求を断るためにどんな言葉を使うべきかについてではなかった。彼としては、もう青年を出場させる気になっていた。他の連中がどう言おうが、この青年は大きな力を秘めている。圧倒的な力をこの青年は持っているだろう。長年選手を見てきた自分だからこそ直感的に分かる。この青年は、きっと闘技場の新たなるスタァとして君臨するだろう……

 

 ムケリには、その光景すら思い浮かべることができた。青年が表彰台の上で大きな黄金の優勝杯を抱え、その頭に月桂樹の冠を被り、クールな無表情を浮べたまま大会主催者から寿(ことほ)ぎを受けるその光景を、彼は想像した。

 

 それに、とムケリは考えた。この青年をスタァに仕立て上げることで、きっと裏賭博は大いに盛り上がるだろう。いつものようにうまいこと情報を操作して馬鹿な貴族共を騙すことができれば、大量の金ルピーをせしめることができる。そうすれば俺もバナナが食べ放題になるし、上層部からの覚えもめでたくなる……

 

 問題は、闘技場の規則であった。新人はまず、新人だけで構成された五人のチームで、ボコブリン十匹と戦わなければならないという決まりになっていた。二十年ほど前、実力を偽って申告した者が最高難易度にいきなり挑んだことがあった。結果、その者は成す術もなく魔物に八つ裂きにされて無惨な死を遂げた。あろうことか、それは国王臨席の試合でのことであった。国王は心を痛めた。その事故を受けて特別立法がなされ、新人は必ず最初に、上記のようなプログラムに参加すべきことが定められた。

 

 そのことをムケリは青年に説明した。

 

「……ということなんだが、えーと、リンクル君だっけ? すまないが、最初の一戦だけはそうしてもらえないかね。規則は規則なんでね」

 

 青年は、意外なほどに素直だった。彼は答えた。

 

「決まりならば、そうしましょう」

 

 そう答える青年のサファイアの瞳の奥に、一瞬だけ獰猛(どうもう)な戦闘者の眼光が垣間見えた。ムケリは人知れず身震いをした。

 

 

☆☆☆

 

 

 リンクルと名乗る青年が闘技場にやってきてから、早や三日が経った。青年のデビュー戦の時がやってきた。ムケリは控室に行くと、新人たちにプログラムの内容を説明した。

 

「敵は十匹のボコブリンだ。九匹が赤ボコブリンで、一匹だけが青色だ。赤ボコブリンの武器はいずれもボコこん棒にボコ槍。青ボコブリンは兵士の剣と盾を持っている。だが、心配することはない。しっかりと盾を使って、仲間同士で気を配って連携すれば、難なく倒せる敵だ……」

 

 説明しつつ、ムケリは新人たちを観察していた。彼らは緊張で顔を強張らせ、ともすると足すらがくがくと震わせていた。だが、例の青年だけは、熱心に聞き入っているようでありながら、どこか超然とした雰囲気をしていた。

 

 その後、出場の時まで、ムケリは新人チームに付き添っていた。一人が緊張に耐えかねて、その朝に景気づけとして食べたのであろうマックストリュフ添えの上ケモノ肉ステーキを盛大に床に吐いた。それまで木刀で素振りをしていた青年は、それを見るとすぐさま近くに寄り、優しく背中を撫で(さす)ってやった。吐いた新人は青年に言った。

 

「あ、ありがとうリンクルさん……俺、やっぱり怖くて……」

 

 青年は静かに言った。

 

「気にするな。最初はみんなそういうものだ」

 

 その瞬間、チームの中で誰が一番頼りになるのか、全員が理解したようだった。

 

 プログラムは呆気ないほど短時間で片が付いた。しかし、観客たちに与えたインパクトは絶大だった。

 

 戦いが始まるや否や、青年はチームに指示を出し、円陣防御の陣形を取った。四人が盾を構え、青年はその中に立って弓矢を手にしていた。意外だな、とムケリは思った。青年は陣の中から敵を狙撃しようというのだろうか? ムケリとしてはてっきり、青年が有無を言わさず敵の只中(ただなか)に突入して、その長剣で敵を斬って回るものだと予想していた。当てが外れて、彼は少し呆気にとられた。

 

 観客からもブーイングが起こった。あまりにも戦意に欠ける戦いぶりだ。赤ボコブリンなど、「村一番の力持ち」であるなら容易に倒せる程度の敵だ。そんなものに怖気づいて初手(しょて)から円陣を組むとは……やる気があるのか!

 

 しかし、次の瞬間であった。青年は、控室で嘔吐していた新人の肩にパッと音もなく飛び乗ると、そこからさらに高く空中へ身を躍らせ、そして弓を構えた。

 

 一呼吸ほどの間、瞬きすらしていなかったはずのごく僅かな時間だった。見逃すはずはなかった。だが、いつの間にか、敵のボコブリン十匹のひたいに、それぞれ一本ずつの矢が深々と刺さっていた。

 

 弓を手にした青年が、闘技場の石畳にふわりと着地した。そして、青年は一声(ひとこえ)かけて仲間たちに指示を出した。四人の新人たちはおめき叫んで剣を振り回し、脳天に致命的な一撃を喰らって激痛に悶え苦しむボコブリンたちへ向かって突撃していった。

 

 狂乱しながら赤ボコブリンを斬って回る仲間たちを後目(しりめ)に、青年は一人、青ボコブリンのもとへ走り寄った。そして、いまだに矢の一撃でふらついている敵に対して、彼は至近距離からもう一発の矢を放った。青ボコブリンは剣も盾も使うことができなかった。魔物は瞬時に絶命し、死体を黒く風化させた。

 

 試合時間は、僅かに三分だった。一人が興奮して自分の足を誤って斬ってしまった以外、新人チームに怪我人はいなかった。

 

 闘技場は、大歓声に包まれた。その中を青年は、まるで何も聞いていないかのように平然と歩いていた。青年は一緒に戦った仲間をねぎらい、怪我をした者に肩を貸して、控室へと戻っていった。

 

 ムケリの隣にいた、でっぷりと太った商人が興奮冷めやらぬといった風に彼に語りかけてきた。

 

「おい、見たか、あの金髪の小僧を! なんという弓の腕前だ! しかし何が起きたのかさっぱり分からなかった。ムケリ、アンタは分かるかい!?」

 

 ぽりぽりと頬を掻きつつ、ムケリは答えた。

 

「彼はリンクルという名前のハテノ村出身の剣士でしてね、つい先日ここに来たばかりです。いや、それにしても鮮やかな戦いぶりでした。ですが彼は私に『弓矢は少し苦手だ』と言っていましたが……」

 

 商人の目が輝いた。隣に侍らせている着飾った若い女性に、商人は気負いこんで話しかけた。

 

「おい聞いたか!? あれで弓矢が苦手なんだそうだ! とんでもない新人が現れたな、本当にな! よし、これからはあのチンクルだかリンクルだかいう青年に大金を賭けるぞ! お前も賭けるがいい! 何? ルピーがない? そんなことはわしに任せておけ……」

 

 若い女は苦笑いをしていた。しかし、その商人のまわりにいる人間は、一様に商人と同じ表情をしていた。これからの賭け事は、きっと面白くなる。彼らはその目を欲望でギラつかせていた。その黄ばんだ肌には脂の含んだ汗を浮かべていた。

 

 ムケリはそれを見てほくそ笑んだ。よし、筋書き通りに進んでいるな。あのリンクルは、俺の見立て通り、確実にスタァ選手になるだろう。大儲けのチャンス到来だ……

 

 自然とニヤついてくる表情を何とか抑えながら、彼は将来の大スタァの待つ控え室へと向かった。

 

 

☆☆☆

 

 

 かくして、夜空の流れ星の如き鮮烈な登場(デビュー)を、青年リンクルは果たした。だが結局、彼が大スタァになることはなかった。彼はある一戦を境に、突如として闘技場から姿を消してしまった。

 

 そして、青年が消えたのと同時に、闘技場の違法賭博は壊滅した。ムケリは間一髪のところで当局の摘発を免れたが、すべてを捨ててカルサー谷へ逃げ帰ることしかできなかった。

 

 青年はあの初戦の後、いくつかの中難易度のプログラムにたった一人で出場した。彼は背中の長剣を振るうこともなく、自ら苦手としている弓矢だけで難なく敵を撃破していった。ビッグブーメランを操るリザルフォスのチーム、騎馬ボコブリン、鎧兜(よろいかぶと)にチェーンハンマーを持ったモリブリンの群れ、ボコブリン百人組手など……彼はそのすべてにおいて圧勝した。

 

 剣を抜かざる剣士、新たなるスタァ選手の登場だった。闘技場のみならず、中央ハイラル全体がそれに熱狂した。闘技場は連日満員御礼だった。売買される食物や飲物の総額は、通常時の三倍になった。

 

 そして、ムケリが関わっていた違法賭博も、過去最高の盛り上がりを見せた。ただでさえ高率だったレートは青天井のように吊り上がった。違法賭博は無数の成金とそれ以上の数の貧乏人を生み出しつつあった。

 

 そんな状況下で、あの最後の戦いがやってきたのだった。

 

 ムケリはいつものとおり、明日行われる大一番(おおいちばん)のプログラムについて青年に説明していた。青年には個別の控室が与えられていた。控室の机の上には花束だの贈り物の紙箱だの、手紙だのが山盛りになっていた。手紙のほとんどはファンレターだった。中には、うら若き乙女たちからのラブレターもあった。そして、賭博で失敗した者の怨嗟(えんさ)の手紙も混ざっていた。

 

 ムケリは青年に言った。

 

「明日、君が戦う相手はヒノックスだ」

 

 青年は、一瞬頭の上に「?」という文字を浮かべたようだった。彼は答えた。

 

「ヒノックス、ですか?」

 

 微笑みながらムケリは言った。

 

「そう、ヒノックス。紛れもないヒノックスさ。ああ、君の疑問も分かるよ。『どうやって、そんな大型魔族をこの闘技場に運び込んだんだ』ってことだろう? 実は数年前、デグドの吊り橋で一匹の黒ヒノックスが捕獲されてね。本来なら、そいつはハイラル城の騎士訓練場へ標的として運ばれる予定だったんだが、そいつは妙に大人しくて戦意がまったくない。これでは使い物にならないということで、騎士訓練場は受け取りを拒否した。だから、そいつはこの闘技場に引き取られることになったんだ。今は、そいつはここの地下の(おり)に閉じ込められている」

 

 一瞬、青年の顔に驚くような表情が浮かんだ。しかし、熱を入れて話を続けるムケリは青年の表情の変化を気にも留めなかった。彼は説明を続けた。

 

「明日は、その黒ヒノックスとリンクル君との一騎打ちというわけさ。何、心配することはない。さっきも言ったように、そのヒノックスはハテノウシみたいに大人しいやつだから、明日もきっと簡単に君に倒されてくれるはずさ。一応、戦いを盛り上げるために、やつの手足には鉄製の鎧をつける予定だが、肝心の弱点の目玉は剥き出しのままにしておく。君のお得意の弓矢で目玉を虐め続ければ、すぐにでも勝敗は明らかになる。やってくれるね? もう明日のことでハイラル中が大騒ぎなんだ」

 

 賭博のこともあるしな、とムケリは内心で付け加えた。この戦いが終われば、彼のもとに少なくとも十万ルピーが入ってくる計算になっている。小型のスループ艦が一隻買えてしまうほどの大金だ……

 

 珍しいことに、青年は少し考え込む様子を見せた。まさか、この()に及んで断るのでは? 一抹の不安がムケリの心中をよぎったが、次に聞こえてきた青年の返答はいつもどおりだった。

 

「分かりました、やりましょう。ではまた明日に」

 

 次の日の正午になった。天候は雲一つない晴れだった。気温はやや高かったが、日差しは強くなかった。優に数千人は収容できる闘技場の座席は満席であった。通路には立ち見の客が溢れていた。係員たちは、階下へ零れ落ちそうになるほどの観客の群れを誘導整理するのに必死だった。

 

 勝負は、正午から十分が経った後に始まった。

 

 青年は、いつも通りのフードとくたびれたシャツとパンツ姿であった。晴れの舞台なのだから少しは着飾って欲しいとムケリは言ったが、彼は「目立つから」という理由でそれを断った。いまさら目立つとは何を言うのかとムケリは笑ったが、青年は真剣な面持ちを崩さなかった。

 

 黒ヒノックスは、地下からエレベーターで地上に上げられてきた。巨大な魔物は力なく、ぐったりと座り込んでいた。その全身には無数の傷跡が刻まれていた。その体色は上質の木炭のように真っ黒だった。その手足はエルム丘陵産の木材のように太く逞しく、重厚な造りの鉄製の装甲を纏っていた。見る者すべてに怖気を震わせるその黄色い単眼には、今は目隠しがされていた。目隠しは、試合開始と同時に紐で引っ張って外れるようになっていた。

 

 なぜかそのヒノックスは、首から白い包みを下げていた。その丸みから見て、包みの中にはなにか球体のようなものが入っているものと思われた。

 

 黒ヒノックスが完全に姿を現した瞬間、観客たちは一斉に静まり返った。何しろ、当時の平和なハイラル世界では滅多に見ることのない大型魔族であった。こんなに巨大で、堪えがたいほどの獣臭を放ち、なによりも醜悪な外見をした魔物がいるなどとは思ってもみなかった。そんな連中が大半だった。

 

 耳障りな声のアナウンスが終わった後、青年は静かに弓矢を構えた。それと同時に係員が魔物の目隠しを外した。いよいよ試合開始であった。

 

 ヒノックスは、突然単眼に差し込んできた日光を受けて、眩しそうに二、三回(またた)いた。次にヒノックスは、その大きな頭を左右に振り、キョロキョロと辺りを見回した。そして最後に、魔物は、目の前にいる小さな金髪の人間の姿を認めた。

 

 さて、今回は何分で片が付くかな。ムケリは考えていた。闘技場の裏賭博において重要なのは、誰が勝つかではなく、誰が「どのくらいの時間で勝つか」である。それによって賭け金がまた変わってくるからだった。

 

 だがそんな彼の皮算用は、次の瞬間響き渡った魔物の咆哮によって頭から吹き飛んでしまった。

 

 闘技場が崩壊するのではないかと思われるほどの鳴き声だった。観客たちは、魂すら消し飛んでしまいかねないほどの衝撃を受けて放心状態となった。

 

 魔物に詳しい者ならば分かったであろう、黒ヒノックスは、対戦者に対して激怒していた。

 

 それも、ただの激怒ではなかった。あらゆる怨念と憎悪を極限まで高めたような、呪詛に近いほどの激情を魔物は発していた。今や魔物は完全に立ち上がっていた。魔物はその単眼を真っ赤に染めて、腕をグルグルと振り回していた。魔物は青年に襲い掛かった。

 

 一方の青年は、そんな咆哮を真正面から受けながらも、まったく動じないでいた。彼は冷静に距離をとると、素早く弓矢を構えて、いつもながらの目にも止まらぬ早業でヒノックスの目玉に矢を撃ち込んだ。

 

 地響きを立てて、ヒノックスは床に尻もちをついた。ここで青年は初めて、デビュー戦以来決して抜くことのなかった背中の長剣をスラリと抜いた。

 

 その刃は、冷厳(れいげん)な輝きを放っていた。霊妙な青白い光が刀身全体を覆っていた。それを見る者の精神をぐっと引き込むような一種の魔力が感じられた。

 

 青年は長剣を構えて、痛みに悶えているヒノックスへ突進した。青年は魔物の股下に到達すると、鮮やかな回転斬りを放った。マネージャーは、そのような斬り方では脚の鎧に阻まれてしまうだろうと思った。だが、聞こえてきたのは分厚い肉を斬る鈍い音だけだった。金属音は一切しなかった。

 

 鎧と鎧の隙間を狙って、青年は剣を振るったのだった。それも、これまで誰も闘技場で披露できなかった大技である回転斬りを使って、青年は魔物を斬ったのだった。

 

 ヒノックスはしばらく斬られるに任せたままだった。やがて魔物は一声(ひとこえ)叫ぶとまた起き上がった。魔物は、今度はその巨大石柱のような右腕で、青年に向かってパンチを繰り出した。青年は鮮やかなバック宙を打ってそれを回避した。標的を逃した拳はそのまま石畳を直撃し、無数の石片をぶちまけた。

 

 ヒノックスの腕が伸び切っているその瞬間を狙って、青年は再度攻勢に出た。青年は魔物の腕を駆け上がり、そのまま敵の肩に乗った。ムケリは青年の凄まじい戦いぶりを見て、なんとなく「やり慣れているな」と思った。

 

 敵が肩の上に乗っていることに、ヒノックスはさらに怒りを募らせた。魔物は乱雑に体を揺すり、石畳を踏み砕く勢いで地団駄を踏んだ。さらに、魔物は両腕を振り回して肩の上の人間を振り落とそうとした。少しでも青年がバランスを崩せば、一巻の終わりであった。

 

 しかし青年は驚異的なバランス感覚を持っているようだった。彼は落ちることなく、しかも長剣を振るって、ヒノックスの単眼を執拗に攻撃し始めた。

 

 肉を斬る音が響き、紫色の体液が飛び散った。ヒノックスが絶望的な咆哮をあげる中、なおも青白い刀身は振るわれ続けた。

 

 時間にして十分だろうか、それとも一分も経っていなかったかもしれない。黒ヒノックスは、重要器官が詰まっている頭部と、なによりもかけがえのない単眼を集中的に切り刻まされたために、ついにダウンした。

 

 自身が流した体液によって、ヒノックスの足元はどうしようもないほど不安定になっていた。ヒノックスは足を滑らせた。魔物は背中から地面に倒れた。その衝撃は、観客たちを座席から浮き上がらせるほどだった。

 

 その時、魔物が首から下げていた白い包みが、コロコロと床を転がった。

 

 勝負はついた。青年の完全勝利であった。彼の着衣は今や魔物の体液で紫色に染め上げられていた。だが、その呼吸はまったく乱れていなかった。

 

 それでも、青年は魔物にトドメを刺そうとしなかった。彼は、(かたわ)らに転がっている白い包みに注目していた。

 

 青年は、剣先で包みを解いた。その中から出て来たのは、黒い球体だった。

 

 一方、観客たちは一言も漏らさず壮絶な戦いを観戦し続けていたが、やがて青年が勝利をわがものとしたことを認識すると、ぼつぼつと、ある言葉を連呼し始めた。

 

「……せ!……せ!」

 

「……ろせ!……ろせ!」

 

「殺せ! 殺せ!」

 

「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」

 

 闘技場は、たちまち異常な殺意に溢れた。魔物を殺せ! その巨大魔族を殺せ! 確実に殺せ! 今すぐ殺せ! 歯を剥き出しにし、目を血走らせ、口から泡を飛ばして、観客たちは殺せと絶叫し続けた。

 

 彼らは今になって初めて知ったのだった。魔物の脅威を、人間を喰らい、ハイラルの大地を汚す魔族の本当の姿を、その暴威(ぼうい)狂猛(きょうもう)業悪(ごうあく)を、彼らはその時初めて知ったのだった。

 

 その熱気に当てられたように、ムケリもいつしか叫んでいた。殺せ、殺せ! 今すぐ殺せ! どうした、なぜ殺さない……!

 

 しかし、青年は動かなかった。彼は相変わらず、白い包みから出て来た黒い球体を見つめ続けていた。やがて、彼はつい先ほどまで自分が切り刻んでいた魔物を一瞥(いちべつ)すると、長剣をサッとひと振りして血潮を払い、鞘に収めた。

 

 そして、狂気を孕んだ怒号の嵐を無視するかのように、青年は静かな足取りで控室へと帰っていってしまった。

 

 ムケリはそれを見て、なんとなく青年が悲しんでいるのではないかと思った。

 

 

☆☆☆

 

 

 ウカミはそこまで話すと、ふぅと溜息をついた。彼女は冷たいお茶の入った椀をそっと口に運んで喉を潤した。熱心に話に聞き入っていたサミとノチに、ウカミは優しい眼差しを投げかけつつ言った。

 

「はい、これで昔話はおしまいよ。でも、話してる間にちょっと主題がずれちゃったかしら? まあ、それでもいいわね。お話というものはそういうものよ。ところで、この昔話には色々な謎があったと思うのだけど……そうね、ノチ、あなたの感想は?」

 

 いきなり指名されて、ノチは電撃に打たれたかのように体を震わせた。

 

「はひっ!? 私ですか!?」

 

 ウカミは見る者を陶然とさせる笑みを浮かべていた。ウカミは言った。

 

「そうよ、ノチ。私、あなたの感想が聞きたいわ。あなたはどう思った?」

 

 音を立てて、ノチの思考回路が全速力で稼働した。数秒して、彼女は言うべきことを整理できたようだった。彼女は口を開いた。

 

「えーっと、そのリンクルとかいう青年は、私が思うに、あのリンクですよね。あのハイリア人の英傑のリンクではないかと思います。リンクルという偽名からしてそうですし、その長剣はかの退魔の剣だと思われるので……でも、近衛騎士のリンクが、なんで闘技場なんかにいたんでしょうか?」

 

 ウカミは満足げに頷いた。そして、彼女はサミのほうへ視線をやった。その意味に気付いたサミは、ノチの疑問に答えた。

 

「かのリンクは、いわゆる(おとり)捜査をしていたのだと推測できます。おそらく、奴が闘技場に現れたのに前後して、王国の捜査官が他にも何人か潜入していたのでしょう」

 

 ノチはそれを聞いて、ハッとしたようだった。

 

「そうか! リンクが大活躍をして闘技場を盛り上げれば、違法賭博の規模も大きくなる。そうなれば尻尾も出やすくなって、捜査官としても摘発するのが容易になるわけですね!」

 

 サミが静かに頷いた。

 

「かのハイラル王は、不良貴族や汚職官僚、またそれらと結託する大商人たちを弾圧し、王権の強化を図ったと言われています。闘技場での違法賭博にそういった連中が絡んでいることを察知した王家が、配下の近衛騎士と捜査官を走らせて、一網打尽に取り締まろうとしたのでしょう」

 

 そこまで聞いたウカミは、ぱちぱちと手を叩いた。

 

「はーい、二人とも大正解! 闘技場の未完のスタァ『リンクル』はかの英傑リンクで、その目的は違法賭博の一斉摘発にあったのでした! 正解した二人にご褒美をあげるわ。頭をなでなでしてあげる。二人ともこっちにおいで。」

 

 サミとノチは明らかに狼狽した。上級幹部に頭を撫でてもらうなど、畏れ多いにもほどがあることだった。なんとかして話題を転換しようと、ノチがさらなる疑問を発した。

 

「あっ、あの、その! そのリンクですけど、なんでヒノックスにトドメを刺さなかったんでしょうか? あの冷酷非情で残忍無比なリンクが、魔物の命を奪わなかったなんて不思議でなりません」

 

 サミもそれに追従した。

 

「そうです! なぜリンクはそこまで魔物を追い詰めておきながら手を下さなかったのでしょうか? それに、その白い包みと黒い球体とはなんだったのでしょうか?」

 

 ウカミは人差し指を顎に当て、うーんと唸ってしばらく考えた。彼女は言った。

 

「……そうね、白い包みについては分からないけど……たぶん、英傑リンクはとても優しい人だったんじゃないかしら。魔物にも哀れな気持ちを抱いてしまうくらい、とても強くて、とても優しい人だった。だからトドメを刺さなかった。そんな理解で良いんじゃない?」

 

 サミが叫んだ。

 

「そんな! ウカミ様ともあろうお(かた)が、かの男をそのように評価するなんて! あの悪鬼が『優しい』など、そんなことがあろうはずがございません!」

 

 そんなサミを見て、ウカミは微笑んだ。

 

「ふふ、サミったら純情ねぇ。ねえ、二人ともよく聞いて。これは重要なことなんだけど、優しいというのは、必ずしも肯定的な意味を持たないのよ。あなたたちがもう少し歳をとって、今よりもうんと人生経験を積んだらきっと分かるようになるわ。優しさというのは弱さの裏返しで、時にはさらに転化して、傲慢にもなり得るということを、あなたたちはきっと知るはずよ」

 

 そこで、ノチが怖々(こわごわ)と手を上げた。ウカミが言った。

 

「あらノチ、どうしたの?」

 

 ノチは恐る恐るというふうに言った。

 

「あ、あの……ウカミ様は私たちにとても優しくしてくださいます。だから私はその、優しさが弱さに繋がるというのが、よく理解できなくて……」

 

 それを聞いたサミが、無言でノチのわき腹を肘で突いた。ノチが「ひゃうっ」と悲鳴を上げた。

 

 ウカミは笑みを崩さなかった。彼女は言った。

 

「そうね、ノチが言うとおり、私は優しいわ。たぶんコーガ様よりもずっと優しいでしょう。ノチ、あなたよりも私はもっと優しいし、あなたの大好きなバナーヌよりも私はもっともっと優しいと思うわ。私はそれだけ弱くて、傲慢な人間なのよ」

 

 思いがけない言葉に、二人は息を呑んだ。だが、ウカミは(いささ)かも調子を変えずに言葉を続けた。

 

「だから私、あなたたちに助けてもらわないと生きていけないの。優しくて、弱くて、傲慢だから、助けてもらわないと生きられない。だから二人とも、これからも私を支えてね。あなたたちだけが頼りなの」

 

 サミとノチは言葉もなく、平伏した。

 

 そんな二人を見やるウカミの眼差しは、どこまでも優しかった。どこまでも純粋な眼差しだった。

 

 しばらくして、ウカミはポンと手を叩いた。彼女は、いかにも今思い出したというふうに言った。

 

「あら、いけないわ! ずいぶんと長い時間おしゃべりをしてしまったわね。もう朝ごはんの時間じゃないかしら?」

 

 サミが顔を上げた。

 

「ウカミ様、お食事の前にお湯浴みをお召しになってください」

 

 ノチも口を開いた。

 

「そ、そうですよ! それに、お化粧もまだですし……」

 

 ウカミは薄く笑った。

 

「それじゃあ、三人で一緒にお風呂に入りましょう? あら、ノチ、恥ずかしがってるの? あなたと私の仲じゃない、いまさらお風呂くらいで恥ずかしがることなんてないわ……」

 

 次第に、弓術訓練場から、三人の声は遠ざかっていった。

 

 その日のカルサー谷も、きっといつものように過ぎていくのだろう。




 リンク「所詮遊びだ」
 今回から新章突入です。改めてよろしくお願いします。
 四十三話にして気づいたことですが、やはりリンクさんは書いていて楽しいですね。
 今回はやたらと「スタァ」という語が出てきましたが、誤記ではありません。トワプリのアレに従っただけです。下に剣山を植えやがって! 絶対に許さんぞ!

※加筆修正しました。(2023/05/16/火)
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