ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

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第四十四話 この世はでっかい夢をみる島

 眠りは単なる睡眠以上の意味を持つ。なんとなれば、眠りは一種の義務だからである。

 

 すべての知性ある被造物は、本来ならば夜の世界で活動することを許されていない。闇が呼吸し、蠢き、その長い(かいな)(あまね)く地上に差し伸ばす暗黒の世界では、昼に生きるべく定められた被造物は沈黙しなければならない。

 

 鳥は空高く飛び、魚は水に棲まい、獣は大地を駆ける。魚が大地を駆け、獣が空を飛び、鳥が水底で卵を抱くことは決してあってはならない。それと同様に、昼を生きるものは夜かならず眠らねばならない。それが黄金の三大神降臨以来のこの世界の(ことわり)である。

 

 親は子に子守唄を歌い、恋人たちは睦言(むつごと)を交わし、夫婦は枕を並べて、まどろみながらより深い眠りの世界へと落ちていく。毎夜毎夜、生きている限り、我々は瞑目(めいもく)して自らを仮死状態へと追い込む。それは、生理的要求にただ従っているからではない。そうではなく、我々は眠りという義務を果たすことで、この世の理を守らねばならないからである。

 

 ゆえに、眠るべき存在でありながら夜を行く存在に対して、我々は怒りと嫌悪感を抱く。課せられた義務を果たさない者に対して、赤熱する銑鉄(せんてつ)のような感情を我々は抱く。我々は夜眠らないものを、税を納めず、戦線に背を向け、労役から逃れるものと同じだと、魂の奥底で知っている。

 

 あらゆる怪我や病気にもまして我々が不眠症を怖れるのも同じ理由による。不眠症への恐怖は、理から外れ世界から落伍するかもしれないという恐怖そのものである。我々が毎夜、誠実に義務を果たそうとするのは、疲れを癒し、翌日の仕事や勉学や遊びのための活力を得ようとするためではなく、根源的には、この恐怖から逃れんがためである。

 

 しかしながら義務は常に重く、そして往々(おうおう)にして人はその重みに耐えられない。重みを厭わしく思う気持ちが恐怖を凌駕することもままある。加えて、人が社会という理をこしらえて、それを世界の理よりも重視するようになれば、眠りはさらに軽んじられるようになる。

 

 大厄災前のハイラルでは、睡眠に関する商品やアイテムが数多く流通していた。その大半は、乾燥させたしのび草を刻んだものを詰め込んだ「快眠まくら」や、ゾーラ族の神父が一つずつ丹念に祈りを込めたという触れ込みのアイマスク、あるいはリト族の羽毛を用いた高級羽布団や、神殿の巫女お手製の導眠のお香など、眠りという義務を少しでも楽にしようとする、無害で他愛のないものばかりだったが、しかし中にはとんでもないものも含まれていた。

 

 各種記録を総合して物語風に再構成すれば、そのとんでもないものにまつわる事件は以下のようになる。

 

 それを作った男の名は、クワーサといった。クワーサは東城下町の物見塔近くに住んでいた。そこは城下町の中でも特に陰気で、水捌(みずは)けが悪く、空気の澱んでいる地区であった。

 

 役所に登録されたクワーサの職業は野菜や果物や魚などの食料品の仲買いであった。だが、実際のところ彼が荷車を引いたり市場を歩き回ったりすることはほとんどなかった。

 

 クワーサはいつも自宅の部屋にこもっていて、彼は各地からルピーをかけて取り寄せた珍しい素材や出所(でどころ)定かならぬ怪しげな薬品を混ぜ合わせていた。つまり、クワーサの本当の職業は、モグリの薬剤師であった。それでも彼自身は自らを「科学者である」と称していた。

 

 王城と城下町という大消費地にあって、薬品は常に不足気味だった。風邪薬から二日酔いの薬、胃薬から鎮痛剤に至るまで、その需要は高かった。だが、供給は至って不足していた。学校を出て国家資格を得た正規の薬剤師や、森のほとりに居を構える魔女たちが生産するだけでは到底賄いきれるものではなかった。

 

 ゆえにモグリの薬剤師という稼業が成立したのであった。ちゃんとした薬剤師が作る薬は手に入りづらいし、とても高い。一方で、安い薬があり、効能も「最新の研究に基づいた製薬!」だの「ゲルド族も認めた大効能!」だの「王家御用達!」だのと謳われている。それなら、きっと効くのだろう。それに、あまり人に言えない恥ずかしい病気もあるし……無知な人々はこうして騙されていった。

 

 ハチミツと砂糖を溶かした水を赤く着色したものを赤いクスリとして売ったり、ハイラル草を岩塩とガンバリバッタと一緒に煮込んだものをがんばり薬として売ったりするのはモグリの中でもまだマシな部類だった。酷いものになると、パンを丸めて細かい木屑をまぶしつけたものを「歯痛退散丸薬」として一粒五十ルピーで売り付けたり、ただのリンゴ酒のラベルを貼り替えて百五十ルピーのスタミナ薬と偽ったり、甚だしいものになると、ただの炭酸水を「青春に悔いなきエッチ ツー オー水」として一本百ルピーで売ったりしたというのだから、その手口の多彩さには呆れる他ない。

 

 だが、例のクワーサはモグリの中でも一風変わっていた。他の連中が実質的には詐欺師だったのに対し、彼は本当に良い薬を生み出そうという熱意に溢れていた。

 

 クワーサの不幸は、熱意が先行するばかりで、それを具体的な成果へとつなげる方法論や学術的知識にまったく欠けていたことだった。またそれ以上に、どうしようもない自尊心があったことがクワーサの救い難い欠点だった。一念発起して学校に入るなり、名のある薬剤師の弟子となって研鑽(けんさん)を積めば良かったのに、彼は「独立独歩」という幻想を抱いていて、なんとしてでも独力で画期的な製薬法を生み出してやろうという妄執(もうしゅう)にとらわれていた。

 

 そんなわけで、クワーサの薬学研究は行き当たりばったりの、脈絡のない、独りよがりのものとなってしまった。彼が作る薬はどれも効果がなく、むしろ有害で、それでいて高かった。彼は次第に闇業者からも見放された。

 

 こんな話は人間社会にはよくあることである。だから、この世の善なる法則を信じる者はきっと、クワーサは度重なる失敗によって早々に自滅したと思うだろう。だが彼に舞い込んできたのは破滅ではなく、幸運だった。破滅以上に破滅的な幸運が彼のもとへやってきたのだった。

 

 借金苦に喘いでいたクワーサは、自宅の一室を密輸業者の倉庫として貸し出していたのだが、ある日、そこに南国の果実が大量に運び込まれた。その果実は黄金に輝いており、甘い香りを放っていた。果実は美しい形の実が連なってひとつの房となっていた。それはツルギバナナであった。

 

 当時は、王国内でのバナナの取引を禁じる「バナナ勅令」が下されてから一世紀ほどが過ぎようとしていた。密輸業者にとって、バナナは黄金のルピーと同じだけの価値を持っていた。

 

 後にまとめられた調書によると、当初クワーサは契約に忠実に、倉庫のバナナには一切手を触れないでいたという。しかしある晩、彼は空腹と好奇心に負けて、コッソリとバナナを食べてしまった。そしてたちまち、彼はバナナの魅力に取り憑かれてしまったという。

 

 どんなに見どころのない人間でも、何かしら他より秀でたものを必ず持っている。クワーサにもそれがあった。彼は「ツルギバナナを薬として利用できないか」と思いついたのだった。それだけで価値があるものにあえて手を加えて、より良いものを作ろうとする意志、それだけを見れば、彼は立派な科学者だった。

 

 試行錯誤の末に、クワーサはついにそれを生み出した。その名も「眠らなくてもダイジョーブな薬」といった。クワーサはツルギバナナの筋力増強効果と興奮作用に着目した。調書によれば、彼は「魔物がバナナを好んで食べるという話から着想を得た」と述べている。彼はゾーラ族から教わった魚類乾燥法を援用して、ツルギバナナを主原料とした粉末薬を開発することに成功した。

 

 後に王立アカデミーが分析したところ、「眠らなくてもダイジョーブな薬」にはツルギバナナだけではなく、ツルギソウ、ツルギダケ、ボコブリンの肝、キースの目玉、硝酸カリウム、赤色硫化水銀などが含まれていた。

 

 薬の値段は十回分で八百ルピーであった。原料を考慮すれば安いとは言えなかった。だが、この薬には値段に見合うだけの効果があった。この薬を服用した者は、猛烈に、強烈に、激烈に興奮した。持続時間は八時間から十二時間だった。一回薬を服用すれば一晩中起きていられる計算であった。

 

「眠らなくてもダイジョーブな薬」は瞬く間に城下町にひろまった。生産的な人間にとっても、享楽的な人間にとっても、眠りとは納税と同じく「厭わしい義務」であった。この薬を飲めばそれから解放される。売れないはずがなかった。キャッチコピーの「人生を二倍以上豊かに!」という文言も、人々の購買意欲を極端に(あお)った。

 

 ほどなくして、一般庶民だけではなく貴族たちもこの薬を好むようになった。いわゆるパーティードラッグとして貴族はこの薬を買い求めた。たとえば、ある貴族が出した仮面舞踏会の招待状には「各種の珍品(ちんぴん)酒肴(しゅこう)はもちろん、()()()()()()()()()()()()()()()()ご用意いたしました」と書かれていた。王立アカデミーの研究者たちは早くから危険性を訴えていたが、もはや「眠らなくてもダイジョーブな薬」は社交界において欠かせない存在となっていた。

 

 社会的な悪影響はほどなくして現れた。薬がデビューしてから一年後、城下町の暴力事件や殺人事件等の凶悪犯罪件数は前年比の約六倍となり、交通事故、詐欺、自己破産等の件数も激増した。因果関係の分析については種々異論があるが、大方は「眠らなくてもダイジョーブな薬」が原因であったと認めている。

 

 その終焉は、王城でのある事件がきっかけだった。ある朝、若い貴族の男が異常な興奮状態で王城の大食堂に乱入して槍を振り回し、多数の死傷者を出す事件が起こった。取り押さえられた貴族の男は、その日のうちに心臓破裂で死亡した。調査の結果、貴族の男は前夜に例の薬を推奨量の百倍服用していたことが判明した。

 

 それからの流れはあえて詳述する必要はないだろう。数年間の逃亡生活の末、「眠らなくてもダイジョーブな薬」の生みの親であるクワーサは逮捕され、裁判の後、アッカレ地方のチクルン島に終身遠島(えんとう)となった。

 

 ここで一つ、興味深い話が残されている。東城下町のクワーサの自宅からは大量の試料と研究ノートが押収されたのだが、「眠らなくてもダイジョーブな薬」の製法そのものを記録した文書はついに見つからなかったというのである。クワーサは取り調べにおいて「もともと文書は作成しておらず、関連するメモも焼却した」と供述したが、これが後に様々な憶測を呼んだ。

 

 いわく「当局が秘密裏に回収したのだ」とか「いやそうではない、王立アカデミーがすでに高値で買い取っていたのだ」とか、あるいは「さる高位の貴族へ製法は売られていたのだ」といった憶測である。いずれも確たる証拠はない。

 

 有力な説としては、製法が反王国の武装勢力であるイーガ団に渡ったというものがある。イーガ団の工作員らしき者がクワーサの支援者の中にいたこと、クワーサ逮捕の数年後にゲルド地方で「眠らなくてもダイジョーブな薬」と酷似した粉末薬が出回ったこと、イーガ団員が異常にツルギバナナを好むということ、そういったことからこの説は一部研究者に熱烈に支持されている。だが、やはり確証はない。

 

 ともあれ、眠りという義務から解放されるという幻想は、いや夢は、(あぶく)のように消え去った。その後も多くのモグリの薬剤師が「眠らなくてもダイジョーブな薬」を再現するために無益な努力を続けた。

 

 しかし、大厄災後のハイラルの大地には、未だに眠りという義務に反抗し続ける者たちがいる。闇に溶け込み闇に蠢く彼らは、この世の(ことわり)を蔑視し、踏みにじる。彼らはツルギバナナを貪食(どんしょく)する。彼らは夜を(した)って太陽に背を向け、嬉々(きき)としてこの世を滅ぼす邪悪な意志に従っている。

 

 もしかすると、本当にイーガ団はあの薬を受け継いでいるのではないだろうか? 眠りという義務を果たさずして、夢という権利だけを享受する彼らこそ、あの薬を好むはずであるから……

 

 

☆☆☆

 

 

 午後になると雨は上がった。空はいまだに雲に覆われていた。時折、雲の切れ間から顔を覗かせる太陽は常と変わらぬ強さの光線を放っており、湿った大地に熱と活力を惜しみなく注いでいた。

 

 アラフラ平原と樹海フィンラスを南北に繋ぐ街道を、数頭の馬と幌付き馬車が進んでいた。先頭の馬は一際(ひときわ)馬格が良く、簡素ながらも機能的な馬具を纏っていた。騎乗者は馬宿協会の制服を着ていて、後方に続く六頭の馬と二頭立ての馬車を率いていた。それだけを見れば、それはただ馬宿の店員が他の馬宿へ馬を移しに行く光景であるように思われた。しかし、それにしては、馬に乗る者の眼光は鋭すぎた。騎乗者は異様なまでに物々しい雰囲気を纏っていた。

 

 騎乗者が後方へ、もう何回目になるか分からない声かけをした。カケスのようにその声はしわがれていた。

 

「おい、ロクロ! なにも異常はないか? 問題なくついて来てるか?」

 

 一人で六頭の馬を連れている男、ロクロは、少しばかりウンザリしたような口調で返事をした。

 

「へい、店長。さっきと変わりなく、なにも問題ありませんぜ。こいつらもご機嫌で、俺もご機嫌でさぁ」

 

 騎乗者である店長のジューザは、しっかりと頷いた。彼は、今度は馬車の方へ声をかけた。

 

「ヨンロンはどうだ、馬車に異常はないか?」

 

 だが、馬車の御者台から返事はなかった。ジューザが見ると、御者のヨンロンはこっくりこっくりと舟を漕いでいた。ジューザは思わず声を荒らげた。

 

「おいっ、てめぇヨンロン! なに居眠りなんかしてやがるんだ! とっとと起きやがれ!」

 

 ヨンロンは飛び起きた。

 

「ウワッ!? て、店長、スンマセン!」

 

 ヨンロンは気を取り直したように居ずまいを正し、しっかりと手綱を握り直した。

 

 その様子を見て、ジューザは密かに溜息をついた。まったく、俺の手下共はブッたるんでやがる。あれだけ出発前に「今度の仕事は絶対に失敗できないぞ」と気合いを入れてやったのに……天気が良くなってきたらすぐに眠ろうとしやがる。

 

 しかし、不甲斐ない手下に対するジューザの苛立ちはすぐに消えた。それも仕方のねぇことか。なにしろ、俺たちは前日からろくに休んでねぇ。前夜は外を包囲する魔物に対して警戒態勢をとっていたし、午前中は戦闘もした。戦いが終わったら終わったで、雨の中を走り回って馬を集め、風呂を沸かし、食事を用意して、出発の準備に大忙しだった。俺だって、こうして気を張り詰めていなければ、この雨上がりの陽気に眠気を誘われないとも限らねぇ……

 

 そこまで考えてから、ジューザは首を激しく振った。彼は言った。

 

「いや、そんなことがあるか。俺たちよりもテッポ殿たちの方がよっぽど苦労してるじゃねぇか」

 

 ジューザは再度、馬車へ目をやった。あの(ほろ)の中には、幼くも凛々しいイーガ団フィローネ支部幹部ハッパの一人娘テッポがいるし、桃髪の剣術家モモンジがいる。それに、あのよく正体が掴めないバナナのような髪をした女バナーヌがいる。彼女たちが前日から繰り広げていた激戦を思えば、自分たちの苦労などガンバリバッタの一ジャンプくらいでしかないだろう……

 

 あの時テッポから説教されて、ジューザは改めて己がイーガ団員であることの意味を考え直した。

 

 高原の馬宿の店長となって以来、彼は馬を飼育すること、馬格を改良すること、優れた野生馬を捕獲することにばかり熱中していた。ふとした時に彼は「このまま本当に馬宿の一員になってしまおうか」と考えさえもした。口うるさいソエの婆さんは煩わしかったが、それでも彼にとって馬宿での穏やかで生産的な日々は、組織の一員としての息詰まるような堅苦しい生活よりも確かに魅力的だった。

 

 その安逸(あんいつ)さに(ほだ)されて、彼は重要なことを見失いかけていた。本来ならば、いくら幹部の娘とはいえ、あのように幼い娘の叱責などで彼がその心構えを一新することなどないはずだった。そうなるには彼はあまりにも歳をとっていたし、そこまで素直な性格を持って生まれたわけでもなかった。

 

 それでもなお、ジューザがテッポの言葉をすんなりと受け入れることができたのは、これまで彼がいつも心のどこかで「こんなはずではない」と思っていたからかもしれなかった。店長とはいえ、所詮は支部内での出世競争に敗れた末の身の上である。その落胆と失望が、馬宿の職務への愛着を生み出したのだろう。それは愛着というよりも、一種の逃避かもしれなかった。

 

 たぶん、自分は夢を見ていたのだろう。ジューザはそう思った。義務から逃れて、甘い夢を見続けていたのだろう。どこまでも甘く、非現実的な夢を……今回の仕事は、そんな自分をイーガ団員として更生させるのにちょうど良い。

 

 あの時、風呂から上がってきた彼女たちを見て、ジューザの中に強烈な思いがこみ上げた。

 

 彼女たちは、美しかった。

 

 泥と汗と魔物の血潮に(まみ)れ、戦闘の緊張と疲労でやつれた姿は、たっぷりとした温かい湯と石鹸できれいに洗われ、一新されていた。

 

 ジューザが風呂上がりの彼女たちを見た時に抱いた気持ちは、単に見目(みめ)麗しい女性を見る時に感じるそれと同じではなかった。ジューザは、湯上りで顔を上気させたテッポに、またモモンジの溌剌(はつらつ)とした表情に、そしてバナーヌの光り輝く金髪に、最初に憧れ忠誠を誓ったイーガ団の、その団員としてのあるべき姿を見出していた。

 

 自分も、あのようになりたい。たとえもう歳をとりすぎているにしても、せめてほんの少しでも近付きたい。彼はそう思った。これだって甘い夢だが、少なくとも馬宿の店長云々(うんぬん)より現実的ではある。

 

 ジューザはまだ馬車を見ていた。彼女たちは今、馬車の中で何をしているのだろうか? きっと、次の作戦のための打ち合わせを(おこな)っているに違いない。彼女たちは、プロだ。アラフラ平原における一連の戦闘は見事だった。馬宿が定期的に雇用する冒険者たちや傭兵まがいの連中では、決してあのようにいくまい。ヒコロクは気の毒だったが、あの程度の怪我で済んで良かったとも言える。それに、彼は今、医者の本格的な治療を受けているのだから心配はない。本当のプロフェッショナル、戦闘の専門家、理想的なイーガ団であるからこそ勝利を収めたのだ。

 

 若い女たちにできて、自分にできないはずがない。若い女たちがやっているのに、自分がやらないでいられるはずがない。

 

 ジューザは、再度気を引き締めた。樹海フィンラスでは樹の上から落ちてくる魔物に気をつけなければならない。エレキースも飛んでくるかもしれない。そうだ、茂みからボコブリンが飛び出してくるかもしれない。樹海を抜けたらオクタに警戒しなければ……モモンジの話によれば、奴らは街道沿いにうじゃうじゃいるらしい。

 

 なにより、あの魔物のマスクを被った正体不明のシーカー族も出てくるかもしれない。とにかく、最初の目的地であるバルーメ平原の登り口まで、彼女たちを無事に送り届けなければ……

 

 ジューザは空を見上げた。太陽が雲間から見えていた。あと半時間ほどで樹海に入れるものと思われた。順調にいけば、登り口には夕刻前に到着するだろう。彼はそう予想した。

 

 

☆☆☆

 

 

 三人は割と限界だった。三人は馬宿で風呂に入り、食事をした。だが、絶対的なまでに睡眠量が足りていなかった。

 

 テッポの、どこか気の抜けた声がした。

 

「いただきまーす」

 

 それを聞いたモモンジの顔が、サーっと青ざめた。彼女の視線は隣のテッポが手に持つ、緑色をしたトゲトゲの果物へと釘付けになっていた。モモンジは慌てたように言った。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいテッポ殿! もしかして、今からそれを食べようとするんですか? えっ、あのっ、マジですか? それ、マックスドリアンですよね? それをこの狭い車内で食べる? 正気ですか?」

 

 今にも小刀をマックスドリアンに突き立てようとしていたテッポは、意外な横槍に首を傾げた。

 

「あら? なんでいまさらそんなこと訊くのかしら、モモンジ。無論、私はそうするつもりだけど? だって、馬宿だとデザートを食べる時間がなかったんだもん。デザートのない人生なんて考えられないわ。それに、食べなきゃ力が出ないじゃない。マックスドリアンは果物の王様、食べれば力がビンビンに湧いてくるわ。ね、だから私が今ここでこれを食べても何も問題はないでしょ?」

 

 モモンジは言い淀んだ。

 

「ええ……で、でも、マックスドリアンってその、あの、においが、その……」

 

 その言葉に、テッポは不可解そうな表情を浮かべた。

 

「におい? でもあなた、前に『マックスドリアン大好き』って言ってたじゃない。『病みつきです』って言ってたじゃない。『マックスドリアンは良いにおいです』とも言ってたし……あっ! もしかしてモモンジ、本当はマックスドリアンが嫌いなの? 私に嘘をついたの?」

 

 モモンジは猛烈な勢いで首を左右に振った。椰子の木のような桃色の(まげ)が、大風に煽られたように激しく揺れた。彼女は言った。

 

「い、いえ! 私もマックスドリアン大好きです! 好き好き、ホントに好きですよ! 大好きですとも!」

 

 テッポは小刀を握り締めた。

 

「じゃあ、遠慮なく」

 

 モモンジは叫んだ。

 

「わーっ! 待って待って! 待ってください! それだけはダメですって!」

 

 そんなかまびすしい会話を、二人の対面に座るバナーヌは、どこか遠く聞いていた。

 

 モモンジが焦るのはよく分かる。マックスドリアンは、本当に凄まじいにおいを放つ果物だ。果肉は甘くて美味いらしいが、においがすべてを台無しにしている。それにしてもテッポはなんであんなものを喜んで食べるのだろうか。果物の王様と言っているが、そんなことを言うならバナナは果物の神様、いや魔王様だ……バナナを食べろ、バナナを。彼女はそう思った。

 

 だが、バナーヌが抗議の声を上げることはなかった。彼女は今、魂すら溶けるような微睡(まどろみ)の中にいた。道のデコボコを馬車の車輪が乗り越える時の振動が、彼女を羽毛のような心地のする眠気へと着実に誘っていた。それにそもそも、彼女は少し前にちょっと食事をとり過ぎていた。

 

 彼女は思った。バナナを食べ過ぎてしまった。高原の馬宿にあったバナナをほとんど食べてしまった。それに、しのび山菜おにぎりに、岩塩焼肉に、バナナに、甘露煮キノコに、野菜オムレツに、バナナに……あの時の自分を見るジューザと手下共は、あたかもバケモノの食事でも見るような目をしていた。失礼なやつらだ。私よりもモモンジのほうがよく食べていたではないか……

 

 テッポとモモンジの声が一際大きくなったようにバナーヌには思われた。その次に、彼女の鼻先に独特の腐敗臭が漂った気がした。だが、それもどこか遠い世界での出来事のように彼女は感じた。とにかく、彼女は眠かった。

 

 眠りは質量のないバナナ菓子。

 

 いつの間にかバナーヌは、違う場所にいた。いや、まったく違うという訳でもなかった。そこは馬車の中だった。先ほどまで彼女とテッポとモモンジが乗っていた、簡素な造りに使い古しの粗布(そふ)(ほろ)の馬車ではない、もっと立派な内装をした馬車だった。

 

 窓には透明度の高い、大きなガラスがはまっていた。バナーヌはガラス越しに暖かい日光を感じた。彼女は外へ目をやった。外には長閑(のどか)な田園風景が広がっていた。バナーヌはその景色を見たことがなかったが、その一方で彼女はその景色をどこか懐かしく感じた。

 

 彼女は周囲に視線を巡らせた。黒く硬い上質な木材でできたキャビンに彼女はいた。よく磨かれた青銅製の手すりがあった。座席は車内の両側に、縦に四つずつ並んでいた。座席には柔らかな赤いクッションが張られていた。バナーヌは左側の、前から二番目の席に座っていた。

 

 これは、乗合(のりあい)馬車だ。バナーヌはそう思った。大厄災前のハイラルで、全土を網の目のように走る路線を忙しなく行き来していた公共の交通機関、それが乗合馬車だ。本の中でしか知らないはずの、かつて文明が誇った高速輸送手段、その中で自分は静かに腰掛けているようだ。

 

 どうやらここは、夢の中らしい。彼女はようやく納得した。

 

 しかし、なぜこれが乗合馬車であるとすぐに分かったのだろうか? 彼女は疑問に思った。その名前と概念しか自分は知らない。実物を初めて見るはずなのに、それをそれとしてすぐに認識できるのはおかしいではないか。

 

 だが、まあ、夢とはそういうものだろう。バナーヌはすぐに結論を出した。夢の中では、知らないはずのものを知っていて、できないはずのことができるということがよくある。以前、夢の中で読めもしない古典をスラスラと音読したことがある。できもしない難しい刺繍をすいすいとやっていたこともある。コーガ様を、理由は分からないが、思い切りぶん殴ったことだってある。だから、知らないはずの乗合馬車を知っていても何もおかしくはないのだ……

 

 ふと、バナーヌは車内に自分以外の誰かがいることに気づいた。その誰かは、彼女の真向かいの座席に腰掛けていた。正面に居たのに、いまさら気づくということがあるのだろうか? まあ、そういうこともあるだろう。なにせ、ここは夢の中なのだから。彼女はその誰かに改めて視線を向けた。

 

 その人物は、静かに本を読んでいた。その人物は、臙脂色(えんじいろ)のイーガ団の標準忍びスーツを身に纏っていた。小柄だった。胸に膨らみがあった。女性だった。本を読んでいるその目は黒目がちで、形良く整っていた。柔和で優しげな顔つきだった。

 

 そこでようやくバナーヌは、その人物が自分のよく知っている存在だということに気づいた。

 

 それはノチだった。バナーヌは声をかけた。

 

「ノチ?」

 

 しかし、ノチはなんら反応を示さなかった。

 

 おかしい。バナーヌは首を傾げた。私が声をかけてノチが反応しないなどということはあり得ない。どんなに集中して本を読んでいる時でも、ノチは私が話しかければ嫌な顔一つせずにニッコリと答えてくれる子だ。寝てる時でも声をかけられたら寝言で返事をするような子なのに……

 

 念のために、バナーヌはもう一度ノチに声をかけた。

 

「ノチ」

 

 先ほどよりもはっきりと、大きな声で彼女は名前を読んだ。だが、ノチは目線を本に落としたままだった。

 

 ここでバナーヌは、新しいことに気が付いた。彼女は声を上げた。

 

「あっ」

 

 ノチの両耳にバナナが詰まっている!

 

 黄色い皮を中ほどまで剥いたバナナが、ノチの耳の穴の中へ入っていた。白くて柔らかそうな果肉を押し潰しつつ、バナナはすっぽりとノチの耳に()まり込んでいた。

 

 なるほど、耳にバナナが詰まっているのならば、こちらの声は絶対に聞こえないだろう。だが……バナーヌはまた首を傾げた。

 

「……なんで?」

 

 そうだ。問題なのは、なぜノチがバナナを耳に詰めているのかということだ。さらに言うと、なぜノチは乗合馬車に乗っていて、一心不乱に本を読んでいるのだろうか? いや、夢の中なのだから別にノチが馬車に乗って本を読んでいてもなんらおかしくはない。そうだ。繰り返すが、やはり問題なのはなぜノチが耳にバナナを詰めているのかということだ。夢の中だとなんだか考えがうまく纏まらないが、とにかくそれが問題だ。バナーヌはそう思った。

 

 夢だとしても、あまりにも奇妙奇天烈すぎる状況だった。

 

 彼女は考えた。以前読んだ本で、夢とは「起きている間の記憶の整理のあらわれ」だと書かれていた。夢の内容とは、それがどれだけおかしなものであっても、現実に見たこと、聞いたこと、覚えたことを(もと)にして成り立っているのであると、本にはそう書かれていた。

 

 では、自分は今までにノチが耳にバナナを詰めたのを見たことがあるか? まさか。絶対に見たことはない。そもそも、そんな冒瀆(ぼうとく)的な行為をノチがするはずがないではないか。

 

 ならば、こう考えてみたらどうだろう。夢とは「何らかの願望の反映である」とも本は言っていた。起きている時に強く願ったことが、自然と夢へと反映される。だから夢の達人は、自由自在に見たい夢を操ることができるらしい。

 

 じゃあ、ノチがバナナを耳に詰めているのは、それを自分が強く願ったからだろうか? そんなことはなおさらあり得ないだろう。

 

 重々しく車輪が鳴り、馬の蹄が乾いた音を立てていた。車内は沈黙に包まれたままだった。状況は何も変わらなかった。

 

 そのうち、バナーヌは()れてきた。この夢は、決して悪夢ではないが、かと言って良い夢でもない。きっとたくさん食べた後に寝たものだから、消化不良を起こしているのだろう。こうなったら、さっさと起きてしまうに限る。バナーヌは意識を覚醒へと持っていくべく、精神を集中させた。

 

 しかし何も起こらなかった。

 

 すると、どこかから声が聞こえてきた。

 

「……一緒にお風呂に入った時にふと思ったんだけど、あなたもバナーヌもなんでそんなに胸が大きいの?」

「……えー、テッポ殿、いくら暇だからってそんなことを訊くんですか……?」

 

 声は続いた。

 

「だってしょうがないじゃない! バナーヌに色々質問しようと思ってたのに、彼女寝ちゃったんだもん。私もなんだか眠たくなってきたし……あえて馬鹿馬鹿しい話題を出して、眠気を追い払おうと思ったのよ」

「あー、なるほど」

 

 声はまだ響いてきた。

 

「で、なんでそんなに大きいの? 教えなさいよ、ほらほら」

「特に秘訣とかないんですけど……ていうか、私の胸ってそんなに大きいんですか? バナーヌ先輩と比べたら小ぶりだと思うんですけど」

 

「バナーヌのは別格よ! そもそも比較対象にならないわ」

「それもそうですね……うーん、私はよく運動をして、よくお肉を食べて、よく寝てますけど、他には特に何もやってないです」

 

「あー、そういえば、私も前に『体格を良くするには睡眠が大事』って聞いたことがあるわ。『寝る子は育つ』って言うじゃない? 三年(さんねん)()ゴロンとか」

「三年寝ゴロンはちょっと違くないですか? でも今もバナーヌ先輩はよく眠ってますね。だから大きくなるのかなぁ?」

 

「けっこう可愛い寝顔よね。あ、そうそう、お父様が前にお話ししてくれたの。昔のイーガ団では『寝なくてもヘーキな薬』だったか、『眠らなくてもダイジョーブな薬』っていうのを使っていたらしいわ。それを飲むと何日でも不眠不休で働き続けることができたそうよ」

「え、なにそれ! すごいですね。私も欲しいです」

 

「それがね、その薬を使ったら、みんな寿命が縮んでしまったそうよ。大人が使ったら心臓麻痺を起こしたり、病気になったりして、子どもが使ったら身長が伸びなくなったりして。使用者はもれなく早死にしたそうよ」

「えーっ!? それ、劇薬じゃないですか!」

 

「というより、むしろ毒薬ね。主原料はツルギバナナとか水銀だったらしいわ。『バナナを変に(いじく)った天罰だろう』ということで、そのうち使用禁止になったみたい」

「へー……ところで、もともと何の話をしてたんでしたっけ?」

 

「そうよ! 胸の大きさの話をしてたんだった!」

「ああ、そうでした! でも、ホントに秘訣とかないんですよ」

 

「いっそのこと、バナーヌ本人に訊いてみるのはどうかしら」

「うーん……訊いたところで話してくれますかね? バナーヌ先輩、こういう話題には乗ってこなさそうな雰囲気がありますけど」

 

「うーん、そうね……あ、そうだ。それじゃあ、彼女の体に訊いてみましょう」

「は?」

 

「直接揉んでみるのよ」

「えーっ!?」

 

「確かにバナーヌには悪いけど、ちょっとでもあの境地に私は近づいてみたいのよ! あなたもそう思わない?」

「……もしかしてテッポ殿、ものすごく疲れてたりしません? 言ってることが滅茶苦茶なんですけど……」

 

「そんなこと自覚してるわ! そうよ、私ものすごく疲れてるの! あとものすごく眠いの! ちょっと刺激的なことでもしないと次の作戦に疲れと眠気を持ち越すことになりかねないわ!」

「あー……」

 

「だから揉むわ。私は揉む。断固揉む。揉み揉みする。あなたも揉みなさい。共犯者がいたほうが罪悪感が少なくて済むから……」

「ちょっ、やっぱりダメですよ……!」

 

 なんだか雲行きが怪しくなってきたのをバナーヌは感じた。このまま目覚めずにいたら、テッポとモモンジに胸を好き放題されてしまうだろう。別に、あの二人になら胸を揉まれても構わないとバナーヌは思った。だがその一方で、ノチにも揉まれたことがないのに二人にタダで揉ませるのは、それはそれでもったいない気もした。

 

 そうだ、ノチだ。バナーヌは考え直した。どうにも、この夢から醒めるには目の前のノチをどうにかするしかないような気がしてきた。

 

 とりあえず、ノチの耳に詰まってるバナナをどうにかしなければ。そう考えたバナーヌは、思い切って大声を出すことにした。

 

「ノチ!」

 

 ノチはバナーヌのほうを向かなかった。耳の遠い老人を相手にするように、バナーヌはさらに大きな声を出した。

 

「ノチ!!」

 

 ようやく、ノチは顔を上げてくれた。ノチはなんだか不思議そうな顔をしていた。彼女は言った。

 

「あれ、バナーヌ? どうしたの?」

 

 どうしたの、ではない。バナーヌはそう思った。耳にバナナが詰まっているノチのほうがどうかしている。彼女は言った。

 

「ノチ、耳にバナナが詰まってる」

 

 ノチは訊き返してきた。

 

「えっ?」

 

 やはり聞こえづらいようだ。そう思ったバナーヌは、今度は一語一語をハッキリと区切って言った。

 

「ノチ、あなたの、耳に、バナナが、詰まってる」

 

 ノチはまた訊き返してきた。

 

「えっ? バナーヌ、なんて言ったの?」

 

 バナーヌは滅多に出すことのない大声を出した。

 

「ノチ! あなたの! 耳に! バナナが! 詰まってる!」

 

 ノチはまたまた訊き返してきた。

 

「えっ? なになに? ごめん、バナーヌ、聞こえないよ!」

 

 あたかも、奇跡でも起こらない限り倒せないような強敵を相手にする時に出すような、そういう決死的な大声をバナーヌは出した。

 

「ノチ!! あなたの!! 耳に!! バナナが!! 詰まってる!!」

 

 ノチは悲しげな表情を浮かべて、いかにも申し訳なさそうに答えた。

 

「ごめんねバナーヌ。バナーヌがなんて言ってるのか、全然分からないの……だって……」

 

 ノチはいったん言葉を切った。そして彼女は悲しそうに言った。

 

「だって私の耳、今、バナナが詰まってるから……」

 

 ガックリとバナーヌは項垂(うなだ)れた。万事休すだ。もうノチの両耳のバナナをどうすることもできない。

 

 先ほどから彼女は胸に違和感を感じていた。くすぐったいような、こそばゆいような、ちょっと痛いような……そういう感触がした。揉まれているなと彼女は思った。どうやらすべてが遅かったようだった。

 

 その時なんの脈絡もなく、男性の低い声がした。

 

「いかがなさいましたか? 気分が優れないようですね。あまり顔色が良くない。空気が悪いのかもしれません。少し窓を開けましょうか」

 

 バナーヌは目を上げた。先ほどまでノチが座っていたところに、人品卑しからぬ紳士が座っていた。紳士は糊の利いたシャツに、上等な黒い布地の上着を着ていた。紳士はメガネをかけていた。メガネの奥の目は知的な光を(たた)えていた。

 

 バナーヌは返事をしようとした。だが、彼女の喉から出てきたのは、彼女のものではない声だった。落ち着いた、成人した女性の声だった。

 

「……お気遣いありがとうございます。おっしゃるとおり、あまり気分が良くないのです。なにしろ、こういった乗り物に乗るのは生まれて初めてでして……」

 

 紳士は微笑んだ。

 

「こういった乗合馬車には向き不向きがある。まして、ヘブラから中央ハイラルまでの遠い道のりです。初めての乗り物ならば気分が悪くなって当然でしょう。私が御者に一声かけるから、しばらく外で休憩するというのはいかがですか?」

 

 夢とはいえ、自分のものでない声が自分から出てくることにバナーヌは困惑していた。だが、そんな彼女に構うことなく、声は自動的に発せられた。

 

「いえ、私の勝手で馬車を止めるわけにはいきません。あなたの御迷惑になります。私としても、はやく城下町へ行きたいので……大丈夫です、そのうち治ると思います」

 

 気丈で健気な言葉だった。紳士はそれに心を打たれたようだった。紳士は(かたわ)らの水差しをとってガラスのコップに水を注ぎ、バナーヌのほうへと差し出してきた。

 

「では、少し水をお飲みなさい、気分が良くなるはずです。それにしても、ずいぶんと旅路を急ぐのですね。何か急用でもあるのですか」

 

 ここで、バナーヌの視界が急速にぼやけてきた。乳白色のもやが一面にかかり、紳士の姿が見えなくなった。聞こえてくる音も、まるで水中にいるかのように、ぼんやりとしてはっきりと聞こえなくなった。

 

 いくつか、会話が挟まれたようだった。そのいずれも、バナーヌはまったく聞き取ることができなかった。

 

 それでもなぜか、最後に聞こえてきた女性の声は、バナーヌの耳に妙に残った。

 

「王城に勤めている家族に会いに行くんです。今はもう、私の故郷に身寄りはいませんから。そうだ、あなたは近衛騎士についてご存知ですか? 城下町についたら、まずはそこを訪ねろと言われていて……」

 

 突然、光が溢れた。現実世界へと、バナーヌの目が開いたのだった。数秒して、その網膜と視神経によって彼女は視覚情報をもたらされた。

 

 バナーヌが見ると、モモンジが彼女の胸を思いっきり良く揉んでいた。モモンジの両手の白い指が大きくて柔らかい胸に埋もれていた。

 

 テッポとモモンジが気まずそうな顔をしていた。テッポが言った。

 

「あ、起きた……」

 

 バナーヌはモモンジをじっと見つめた。モモンジはなおも胸を揉みつつ、慌てたように言った。

 

「ひぇっ!? あ、あの、バナーヌ先輩、これはですね……その……へ、へへへ。すごく柔らかいですね。あの、ごめんなさい」

 

 バナーヌはモモンジの手を軽く払った。彼女は言った。

 

「別に、気にしてない」

 

 しばらくの間、車内を沈黙が支配した。

 

 ややあって、テッポが言った。

 

「……ところで、バナーヌ。なんでさっき、あなたはあんなことを言ったの?」

 

 バナーヌはわずかに首を傾げた。

 

「何が?」

 

 モモンジがテッポの代わりに答えた。

 

「さっき、一言だけバナーヌ先輩が寝言を言ったんですよ。それがちょっと変わったものだったので……」

 

 表情をいささかも変えず、バナーヌは言った。

 

「どんな寝言?」

 

 テッポが、なんということはないというふうに言った。

 

「あなた、寝言で『リンク』って言ってたわ。百年前の英傑を寝言で呼ぶなんて、あなたどんな夢を見てたの?」

 

 バナーヌは、聞こえるか聞こえないかの小さな溜息をついた。彼女は答えた。

 

「……耳にバナナが詰まってる夢」

 

 馬車はそろそろ、樹海を抜けるところだった。




 Switch版「ゼルダの伝説 夢をみる島」やはり最高でした……
 ブレスオブザワイルドにも「夢をみる島」の地名がけっこう出てきますよね。サイハテノ島のコホリト台地とか、コポンガ沼とか……ここ掘れワンワンもそうですし、巨大な化石もかぜのさかながモチーフですよね(たぶん)。
 今回はけっこう小ネタをばらまいてみました。耳にバナナが詰まっているの話は、伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』で紹介されていたジョークです。実は連載当初からいつ出そうかとずっと考えていたネタでした。

※追記(2019/10/13/日 23時)
 本当にありがたいことに、柴猫侍先生からまたしても支援絵をいただきました! ご本人のご許可を頂いたので、この場を借りて公開したいと思います。自分の小説に絵をつけてもらえるのは、この世で最も幸せなことのひとつかもしれませんね。
柴猫侍先生、本当にありがとうございました!

一枚目 忍び装束バナーヌ

【挿絵表示】


二枚目 淑女の服バナーヌ

【挿絵表示】


三枚目 まーたバナナ食べてるよ

【挿絵表示】


※加筆修正しました。(2023/05/17/水)

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