ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

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第四十五話 ハイラル世界のパイデイア

 遠い昔の、ある王の御世のことであった。

 

 金の麦穂の波麗しきタバンタ地方に大いなる災いが降りかかった。突如として翼と鉤爪を持つ魔物の群れが空を覆い尽くした。空飛ぶ魔物は町や村や田畑を荒らしまわり、無辜(むこ)の民に襲い掛かった。

 

 魔物たちは、醜悪な鳴き声を発する怪鳥カーゴロックや、剣と盾を持ち鱗を纏う空飛ぶ蜥蜴(とかげ)ガーナイルたちであった。魔物たちは氷雪と極低温の世界、ヘブラ地方の山岳地帯の洞窟から湧いて出た。封印の役目を果たしていた永久氷塊が異常気象のために溶け、暗き眠りを貪っていた魔物たちが一斉に解き放たれたのであった。

 

 傍若無人に空を乱舞する魔物の群れに、人間たちは恐怖し、絶望した。頑健な肉体と豪勇を誇る益荒男(ますらお)も、自らの顔に向かって飛び込んでくる小さな甲虫や羽虫に怖れをなすことがよくある。ただの人間の身では空の脅威に対しては無力そのものだった。兵士はもとより問題ではなく、地上では無敵を誇る騎士たちも、何らなす術がなかった。

 

 事態が容易ならざることを悟ったハイラル王は、丸一晩執務室に(こも)って熟考した。王は、他種族に援軍を求めることにした。王は、その頃はまだハイラル王国と交流も少なく疎遠であったリト族に使者を送ることにした。王はリト族に共闘を呼びかけたのであった。空の覇者たる猛禽類よりもさらにヒエラルヒーの上位に位置するリト族、あの剽悍(ひょうかん)なる空の戦士たる彼らならば、かの魔物共であってもたちどころに勝利を収めるであろう。王はそう考えたのであった。

 

 親書をもたらされたリト族は即座に承諾した。彼ら自身、空の魔物の害に脅かされていたというのもあるが、決定的な理由は、ハイラル王自身が軍勢を率いると宣言したからであった。猛き戦士たちは勇ある者を尊ぶ。身分は問わない。

 

 宮廷の群臣は王の出陣を諫めた。しかし王は雄々しくも玉座から立ち上がった。王は黄金造りの鎧を身に纏い、王家の剣を腰に差して、白馬に跨って魔物覆滅の親征軍を率いた。

 

 かくして激戦が繰り広げられた。数にして百倍にならんとする空の魔物たちを、リト族の戦士たちは精妙なる弓矢の腕を存分に発揮して叩き落した。王の軍勢はリト族の援護を受けながら、険しい雪山を踏破して敵の本拠地たる洞窟に突入した。暗い洞窟の中、王自身も血刀(けっとう)を振るって奮戦した。近衛騎士たちの死をも厭わぬ勇猛果敢な働きもあって、ついに王とその軍勢は勝利を収めることができた。

 

 その戦いの後に、リトの村で戦勝祝賀会が催された。そこで、ある出来事が起こった。

 

 戦勝祝賀会はごく和やかな雰囲気をもって始まった。夜空には満月が昇っており、無数の星々がきらめいていた。そして、空にはもう魔物はいなかった。豊富な肉と酒が供された。宴もたけなわとなった頃、ある一人のリト族の戦士が余興として詩を吟じた。リト族では詩歌はもっぱら女たちの領分であるとされているが、しかし男たちも詩を知らないわけではなかった。彼は情感豊かに今回の戦いについて詩を詠んだ。詩は見事な六脚韻(ヘクサメトロス)で、それも、まったくの即興によるものであった。

 

 さらに他の戦士たちが楽器を取り出した。彼らはその即興詩にメロディーをつけた。戦士たちはさらに、ピッタリと息を合わせて合唱を始めた。リリトト湖に響き渡る歌声はハイラル王と騎士たちの胸に染み入り、自然と目から涙を零れさせた。

 

 やがて戦士たちの合唱が終わった。王は、こちらも返礼をするべきだと思った。王は(かたわら)にいた一人の近衛騎士に「こういう場に相応しい余興」をするように命じた。その騎士は、筋骨隆々の仲間たちの中にあってはごく小柄で、優しい顔立ちをしており、美しい金髪で、爽やかな声音を持っていた。王は、この者ならば詩をも歌をも知っているであろうと考えたのであった。

 

 畏まって命を受けた騎士は、近くに生えていた一本の大木のそばまで歩いていった。騎士は木の下に立つと、目を閉じて静かに佇んだ。

 

 リト族の戦士たちは抑えきれぬ好奇心を強いて隠しつつ、それを見守った。そんな中、騎士は「やっ!」と声を上げて行動を起こした。騎士は剣を横薙ぎに振るい、突然木を切り倒したのであった。

 

 リト族の戦士たちは唖然(あぜん)とした。それを尻目(しりめ)に、騎士はさらに剣を振るって木をいくつかの薪の束にしてしまった。騎士は薪を火にかけられていた料理鍋へ次々に放り込み、料理を始めた。やがて、一皿の「硬すぎ料理」ができあがった。それは薪の煮込みであった。

 

 そして顎の力も逞しく、騎士はその「硬すぎ料理」をボリボリと噛み砕き始めた。リリトト湖に響き渡るその固い咀嚼音は、はたしてリト族の戦士たちの胸に染み入ったのかどうか……?

 

 ややあって、食べ終えた騎士は言った。「(たわむ)れなれば此度(こたび)はただ一皿にて」

 

 周囲の近衛騎士たちはゲラゲラと子どものように笑い転げ、拍手喝采した。王は知る由もなかったが、「到底食べられないものを無理やり料理して平らげる」という余興は、当時の近衛騎士たちの間では宴会芸の「鉄板ネタ」であった。その余興をやれば必ず笑いが取れるということになっていた。

 

 しかし、リト族の戦士たちはニコリともしなかった。戦士たちの目はどこまでも険しかった。

 

 ハイラル王は大いに嘆いた。

 

「ああ、(ちん)の騎士たちは古今無双の武勇を誇るが、なんと悲しきことかな、これほどまでに野性(ワイルド)に溢れ、これほどまでに教養に欠けているとは……」

 

 この事件より三十年ほど時代が下った頃に著された別の一書によると、この祝勝会の後、ハイラル王国軍はリト族との間で戦争状態に陥ったという。

 

 その書によれば、騎士が余興の際に切り倒した木は、あろうことかリト族が最も大切にしている聖なる木であったという。太古の昔、リト族の始祖がハイラルの大地へ飛来し、初めて翼を休めたのがその木であった。以来リト族は大切にその木を守ってきた。だが、その「御神木(ごしんぼく)」はハイリア人に切り倒されて、しかも食べられてしまった。彼らは憤怒を爆発させた。帰国の途に就く王軍を彼らは空から徹底的に追撃し、ほぼ壊滅させてしまったという。

 

 しかしながら、ハイラル王国側の資料にも、また当のリト族の資料にも、そのような追撃戦に関する記述は見当たらない。そもそもリト族には、確かに「御神木」は存在したのであるが、それはこの戦いの遥か以前に落雷で失われたとされている。それゆえ、この書は多分に虚構を含んでいるものであると見なさなければならない。

 

 だが、この書が持つ資料的価値は別の側面にある。虚構であっても、その虚構にはそれが作られた当時の人々の心性、つまり人々のものの考え方や感じ方が込められているからである。以下に引用する、追撃から辛くも逃れた王が発した言葉にこそ、その書の著者の最も主張せんとするところが示されているのであり、後世に生きる我々はそれに注目しなければならない。

 

(ちん)の騎士たちがリト族の風習について知っており、彼らの信仰を理解しておれば、御神木(ごしんぼく)を切り倒すなどという愚かな行為は決してしなかっただろう。これからの騎士たちは剣と盾、槍と弓矢を持つように、教養を持たねばならぬ。書物に親しみ、竪琴を奏で、詩を詠じて、猛き心に叡智の光をもたらさねばならぬ。そうなれば、無用な(いくさ)をすることもなくなるであろう……」

 

 王の言葉に端的に表されているように、この書の作者はまさに教養の重要性を訴えているのである。騎士の持つべき新たなる資質としての教養である。現在の我々からすればごく当たり前のことを言っているように感じられるかもしれない。だが、それでも当時にあっては、この「教養を重視する」ということが革新的な考えであったということをまず理解しなければならない。

 

 事実、王城に帰還した王は、大臣に命じて国中の優れた詩人たちを呼び寄せ、勅撰(ちょくせん)の詩歌集の編纂事業を興した。王はまた、近衛騎士の訓練課程に「詩歌」を組み入れた。これらの事実は複数の文書によって明確に記録されている。完成した詩歌集は近衛騎士の必須教養とされ、これを覚えることなくして近衛騎士を名乗ることは禁じられた。ハイラル王国の文教政策において教養について明確に目標を定めたのは、これが最初のことだとされている。

 

 批判的な歴史家の中には、「王が教養の習得という目標を文教政策において導入したことは、つまるところリトの村で晒した醜態と恥辱を糊塗するためという矮小な理由から発しているのであり、かつ国王がそう命じたことで、必然的に教養が『国家主義的な』色彩を帯びることになってしまったのは、王国の臣民にとって不幸なことであった』と述べる向きもある。

 

 しかしこれを機会として、騎士たちの性情が(やわ)らげられ、後世の我々が想像するような「文武において秀でたる」騎士が出現するようになったのは認めなければならない。

 

 それまでの騎士たちは、魔物相手であれば面白半分に嬲り殺し、拠点を劫掠(ごうりゃく)するのが常であった。戦う相手が人間であっても、時としては激情のままに捕虜を虐殺し、敵対する町や村を焼き討ちすることも少なくなかった。騎士たちは手づかみで食事をとった。騎士たちは文字が読めなかった。騎士たちは暴れ馬を城下町に放って遊ぶなどした。その蛮性は目も当てられないほどであった。このどうしようもない状態を、仮にそれが「国家主義的な」命令によるものであったとしても、教養によって改善したというのはそれだけで評価に値するのではないだろうか。

 

 それからのハイラル王国で「教養を身につけること」が爆発的に広まったわけではない。だが、徐々に騎士たちは変わって行った。時には「猛き戦士の心を涵養(かんよう)するのに教養などという軟弱なものは不要」と考える為政者によって、騎士の訓練課程から詩歌が削除されることはあったが、それでも教養そのものが消え果てたわけではなかった。次第にハイラル王国に文学という新たな創作形式がもたらされ、小説という新たな精神運動が勃興すると、騎士たちも(こぞ)ってそれに参入していった。

 

 騎士たちから一般庶民、または騎士たちから貴族層への教養概念の浸透、あるいは相互作用という歴史的過程に関しては、未だに研究途上であり詳細は明らかになっていない。だが、それでもハイラル王国全体が次第に詩歌と文学を重んじるようになり、教養にかけがえのない価値を置くようになったのは確かである。健康、財産、自由と並んで、教養が無上の地位を占めるようになったのである。

 

 どの町や村にも必ず学校が作られた。城下町には無数の学寮(コレージュ)が建てられた。図書館には書物がはち切れんばかりに収められた。印刷所は昼夜休まず新しい書物を印刷し続けた。あの忌まわしき大厄災、その直前のハイラル王国は「(むら)不学(ふがく)の戸なく、家に不学の人なし」と断言できるまでに、詩歌と文学、教育と教養が沁みわたっていた。

 

 なんと羨むべき時代だったことか。もっぱら学問を修めるためだけに、人生で最も貴重な期間である青春時代を人々は学校で過ごすことができた。この滅びの時代にあって我々が教養を得るには、魔物が跋扈(ばっこ)する荒野を彷徨(さまよ)って隠者に教えを乞いに行かねばならない。書物を得るには、廃墟を漁って朽ちた書物を拾うほかない。子どもといえども学びのみに時間を費やすわけにはいかない。大人は日々の糧を得るための仕事に忙殺されており、学ぶことなど思いもよらない。

 

 そして、何にもまして嘆かわしいことがある。それは、この緩やかな滅びの中にあってこそ教養が燦然(さんぜん)と輝くということである。

 

 やがて確実に来る絶対的な破滅、それを迎える前に我々は、我々自身の鎮魂歌と墓碑銘を用意しなければならない。だが、それを為すのに必要な教養を得ることが我々にはできないのだ。これほどの悲劇があるだろうか。我々は教養の欠如によって、自分自身の最後の葬儀すらも執り行えないのである。

 

 教養はどこにもない。あるのは、ただ野性(ワイルド)のみである。かの騎士のように、木を切り倒し、薪を料理し、咀嚼するという、あの野性のみが我々を満たしている。

 

 もし滅びの宿命から解放され、再生の途に就くのならば、また我々は野性を()めるために新たな教養を求め、生み出すのだろう。

 

 だが、その日はいつやって来るのだろうか?

 

 

☆☆☆

 

 

 東ハテール地方、ハテノ村に事務所を構える、サクラダ工務店社長兼棟梁にしてデザイナーであるサクラダは、この時代のハイラル王国にあっては一、二を争うほどの教養人であった。また彼は、それを自負していた。

 

 日々のルピーにすら事欠く下積み時代でも、サクラダは毎月一定額を書籍の購入代に費やしていた。彼はあちこちの蔵書家に手紙を送っては貴重な書物に触れる機会を得ようと努力した。

 

 建築家として成功し名声を博するようになっても、サクラダはそれに一切甘んじることなく、常に教養の摂取と自己研鑽に勤しんだ。彼のこじんまりとした事務所には特別に書斎が設けられており、本棚にはぎっしりと自慢のコレクションが収められていた。建築学に偏らず、哲学や歴史、古典、文学と詩、生物学や天体学に至るまで、彼は幅広いジャンルの書物を所有していた。それはまるで、彼の頭脳の中身を表しているかのようだった。

 

 ただ、サクラダの教養観は一般的なそれとは(いささ)(おもむき)を異としていた。大抵の教養人が教養そのものを無批判に善きものとし、ただ「それが教養であるから」という理由だけで教養を求めるのに対して、サクラダは至って合目的(ごうもくてき)的であった。すなわち、彼は「己の理想を具現化する材料を得るため」、ただそれだけのために、教養を求めるのだった。

 

 それでも、サクラダもまたこのハイラルの大地に生きる者の一員として、世間の一般的な傾向から完全に自由であるわけにはいかなかった。自身の教養を誇る者が必ず抱く「無知なる者に己の持つ教養を教える」という使命感を、程度は多少落ちるが彼も抱いていたのであった。事務所を構えて部下を持つようになってから、彼の使命感は当然のように強さを増した。

 

 社員教育とは、仕事において有能な存在にするべく育てるということだけではなく、一個の人間として望ましい教養を授けることでもある。サクラダはそう信じていた。

 

 ゆえに、中央ハイラル地方の南西部の外れにあるこの平原外れの馬宿においても、サクラダは使命を放棄しなかった。たとえその相手が全身に包帯を巻き、ベッドに横になっている若手社員であったとしても、彼は手を緩めなかった。

 

 時刻はちょうど、バナーヌたちが高原の馬宿で命の洗濯をしていた頃であった。まだ昼には時間があった。

 

 ベッドのかたわらに椅子を置いてなよやかに腰掛けつつ、サクラダはその一種独特な色気を持つ声で、ベッドの主に諄々(じゅんじゅん)と説いて聞かせた。

 

「いい、カツラダ? 人間には、若いうちにどうしても出会って読んでおかなければならない本というものがあるのよ。若さっていうのは未熟であると同時に成長可能性も意味する。それになにより、若い精神は柔軟で吸収力が良いの。そういう若い時にどれだけ素晴らしい本を読んだかで、今後の人生と仕事が大きく変わってくるのヨ」

 

 そこまで言うとサクラダは、ふぅと一息ついた。彼は右手に、表紙が桃色の一冊の本を持っていた。彼は言った。

 

「だから、あなたのような若者が愚にもつかない通俗小説なんて読んじゃダメなの。なによこの本、『スカートの中身に興味津々の勇者に執着されてドキドキしちゃう天才魔法少女アイリンちゃん!!』って。知性の欠片も感じられないタイトルね」

 

 ベッドに横になっているカツラダが絶叫した。

 

「ぎゃあああああああああああっ!? 大きな声でタイトルを言わないでくださいッス!!」

 

 桃色のイヤリングをつけた長い耳を、サクラダは思わず覆った。彼は言った。

 

「ちょっと、大きな声を上げないでヨ! 馬宿の店員さんに迷惑じゃない、まったく……まあ、百歩譲ってこの『スカートの中身に興味津々の勇者に執着されてドキドキしちゃう天才魔法少女アイリンちゃん!!』を読むのは許してあげるとしても、それは休憩とか息抜きの時に読むべきものよ。貴重な時間を無駄にしてはダメ。本来なら、あなたは建築学の本を読むべきなのよ。サクラダ工務店の一員ならね」

 

 サクラダは本をパラパラと(めく)った。彼は文章に目を走らせると、またもや溜息をついた。彼はおもむろに音読を始めた。

 

「……『リンクは見ている。見つめている。凝視している。パンツを見ている。どういう物理法則の結果なのか? アイリンの丈の長いローブの(すそ)は知らぬ間に(まく)れ上がっていて、内奥に秘していた純白が外界に姿を晒していた。リンクはなおも見つめている。アイリンは彼の青い瞳に、自分の下着の色が鮮やかに映り込んでいるのをハッキリと見た』……うっわ、何これ。これ、そういう系の小説かなにかかしら?」

 

 カツラダはまたもや絶叫した。

 

「うわぁああああああああああっ!? やめっ、やめてくださいッス!! ま、マジでやめろぉ!!」

 

 サクラダは言った。

 

「ちょっと声が大きいワ!……っていうか、そこまで恥ずかしがることないじゃない!」

 

 そう言いつつ、サクラダはカツラダに対して少しだけ哀れな気持ちを催していた。この恥ずかしがり方は、少し異常だ。彼はそう思った。なにやら、決してやってはならないことをやってしまったのかもしれない。埋め合わせというわけではないが、この本を読むくらいだったら許してやっても良いだろう。内容的には大したことはないが、害にはならないはずだ……

 

 泣き喚きつつ、ギッシギッシとベッドを軋ませて右に左に苦悶するカツラダに、サクラダは本を返してやった。

 

「悪かったワ、カツラダ。確かに療養中の無聊(ぶりょう)を慰めるのにこういう本は必要よね。でも、元気になったらちゃんとした本を読むのよ。そういえばあなたは、プト・レマの『天体論』は読んだのかしら? この旅行に出る前に課題図書として渡しておいたはずだけど……」

 

 サクラダのそばへ、のっそりと一つの影が姿を現した。影が言った。

 

「社長、少しいいですか」

 

 それはサクラダ工務店のベテラン社員、エノキダだった。サクラダがカツラダの本について追及を始めた時、エノキダはこっそりとその場を離れていたのだった。

 

 突然自分を呼びかける声に、サクラダの意識は即座にカツラダから離れた。サクラダはエノキダに言った。

 

「アラ、どうしたのエノキダ?」

 

 エノキダは、自身の隣に立つ人物を示しながら言った。

 

「こちらの方がお話があるとのことで」

 

 サクラダが見ると、むさくるしい顔をしたエノキダの隣に、馬宿の店員が立っていた。店員は言った。

 

「どうも、サクラダさん。お世話になっております。今は、少しお取込み中でしたか。だとしたらすいません」

 

 その店員は、サクラダ一行がこの馬宿に来てからなにくれと面倒を見てくれている、あの純朴で誠実な店員だった。

 

 サクラダは椅子からすっくと立ち上がった。彼は背筋をしゃんと伸ばした。そして彼は言った。

 

「ちゃお~~~♪ どうぞお気になさらないで店員さん。別に取り込み中とかそういうわけではないワ。単に社員教育をしていただけですカラ。それで、ご用件は何かしら?」

 

 その言葉を聞いて、店員はなにやらぎこちない笑みを浮かべた。馬宿協会の社員教育もなかなか厳しいが、しかし絶叫して苦悶するようなものではなかった。それを「単なる社員教育」とは。東ハテールの人とは根本的に文化が違うのかもしれない……店員はそう思った。

 

 だが、店員はそういう考えをおくびにも出さなかった。彼はサクラダに用件を切り出した。

 

「カツラダさんは順調に回復されているようで何よりです……ところでですね、お話がありまして。それは他でもない、建築家であるサクラダさんにしか相談できないものでして……」

 

 サクラダの目の色が変わった。

 

「ほう……詳しくお話してくださらないかしら」

 

 店員は詳しい話を始めた。

 

 話は、この「平原外れの馬宿」の各種設備のリノベーションに関するものだった。馬宿協会は大厄災後のハイラルにおいて最も力のある組織であるが、それでもルピーの問題は常に付き纏う。会計報告と監査に基づいて毎年予算配分が行われるが、利用者の多いゲルドキャニオン馬宿やタバンタ大橋馬宿へ比較的潤沢な運営資金が提供されるのに対し、ここのような場末の馬宿には必要最低限の資金しか与えられない。

 

 店員は溜息をつきながら言った。

 

「何とか()り繰りしてはいるんですけどね……」

 

 サクラダが言った。

 

「どうして協会は独立採算制を導入しないのかしら? その方が収益性が向上すると思うんだけド」

 

 店員は答えた。

 

「『馬宿協会の組織全体の秩序と同一性を保つため』というのが本部の見解なんです。それに、我々のような場末の馬宿からしたら、独立採算制なんて悪夢そのものですよ。採算なんてとれるわけがないですから」

 

 彼は話を続けた。削減できる無駄はできる限り省いているが、それでも設備は時間が経つにつれてどうしても劣化する。それを更新・補修するためのルピーがどうしても足りない。おまけに、この馬宿は純粋な善意からデグドの吊り橋の補強を、店員からの拠出(きょしゅつ)金を用いてまで(おこな)っている。それは「旅をする者に奉仕すること」を第一の目的とする馬宿協会の理念にも沿うためであったが、しかし不思議と協会本部から理解を得られたことはない。そんなわけでルピーは全然足りていない。

 

 店員は揉み手をして、やや卑屈とも取れるような笑みを浮かべて、話を締めくくった。

 

「というわけで、大変お恥ずかしい話なのですが、サクラダさんのお力をお借りしたいのです」

 

 サクラダは小さく声を漏らした。

 

「……ふむ……」

 

 サクラダは考えた。なるほど、ハッキリと口に出して言ってはいないが、要するに「格安でこの馬宿の設備改修を請け負ってくれ」という要求なのだろう。彼は言った。

 

「うーん……そうネェ……なるほど……理解はできるワ」

 

 随分と虫の良い話ではあった。だが、サクラダは言下(げんか)に拒否することもできなかった。彼は考えた。この馬宿には随分世話になっている。着いた早々に悪夢に悩まされた時は、馬宿はマモノエキスをタダで提供してくれた。カツラダが大怪我をしてここに運び込まれた時も、店員たちは総出で治療をしてくれたし、今も看護をしてくれている。カツラダの治療用のマモノエキスも無料だ……

 

 そういったこちらの「弱み」を充分に計算に入れた上で、この店員は話を持ち掛けてきたのだろう。足元を見られているようで、サクラダはそれなりに(しゃく)に障った。だが、それ以上に、彼には何か感じるところもあった。

 

 サクラダは、了承することにした。彼は言った。

 

「良いでしょう。あなた方が少ない予算を割いてデグドの吊り橋を補強しているということにすごく漢気(おとこぎ)を感じたワ。うん、すごく漢臭(おとこくさ)い。分かったワ、工事を請け負おうじゃない」

 

 店員は、明らかに愁眉を開いたようだった。

 

「本当ですか!? ありがとうございます! いやぁ、本当に助かりますよ!」

 

 エノキダがこっそりとサクラダに耳打ちした。

 

「良いんですか、社長。明らかに足元を見られていますが」

 

 サクラダは静かに首を左右に振った。

 

「こうなったのも女神様のお導きってやつヨ。それにね、企業というのは利潤を追求するのと同じくらい、公共に奉仕しなければならないのよ。まあ馬宿協会も企業といえば企業だから、それに協力するのが公共への奉仕なのかはビミョーなところだけど……今回はあまり深いことを考えないでおきましょう。それに、宣伝にもなるワ」

 

 社長の決定に否やというエノキダではない。彼は頷いた。

 

「分かりました」

 

 サクラダはやや声を低くしてエノキダに言った。

 

「本当のところを言うとネ、今は少しでもルピーが欲しいのよ。あのバナナ娘に財布を盗られちゃったから、今後の路銀が心配なの。ここでちょっと仕事をして、資金を確保しておきましょう」

 

 エノキダは答えた。

 

「はあ、なるほど」

 

 ちょうど、外はよく晴れていた。絶好の工事日和だった。

 

 サクラダは舌なめずりをした。

 

「さてと……腕が鳴るわ~」

 

 

☆☆☆

 

 

 改修すべき箇所は多岐にわたった。宿の内装、外装、馬小屋、飼葉桶、雨水タンク、資材置き場、井戸、倉庫、調理場、柵……そのすべてを改修しなければならない。

 

 サクラダは一時間ほどで見積もりを出した。これでも彼としては時間をかけたほうだった。彼は昼食を待たずして工事を開始した。彼はエノキダと一緒に道具を振るい始めた。

 

「エノキダ! アナタの中の(おとこ)を見せて!」

「合点!」

 

 ホッ! ハッ! フンッフンッ! フリャホリャハッ! エィッ! テリャッ! エイリャッ!! ハァアアアアアアッ! タァアッ!

 

「エノキダ、(けだもの)よ! 仕事の獣になって!」

「合点!」

 

 ホッ! ハッ! フンッフンッ! フリャホリャハッ! エィッ! テリャッ! エイリャッ!! ハァアアアアアアッ! タァアッ!

 

「アタシの本気……見せてあげる。サクラダ工務店社訓! ペンキは七色……」

「気分は春色!」

 

 ホッ! ハッ! フンッフンッ! フリャホリャハッ! エィッ! テリャッ! エイリャッ!! ハァアアアアアアッ! タァアッ!

 

 店員は思わず声を漏らした。

 

「す、すごすぎる……」

 

 驚異的な工作精度とスピードの建築技術だった。抜群のセンスのデザインだった。ピッタリと息の合ったコンビネーションだった。汗と熱気と漢気(おとこぎ)が飛び散っていた。みるみるうちに数々の設備が改修されていった。店員は言葉を失った。

 

 サクラダこそは紛れもなくハイラル一の建築家だろう。店員はそう思った。本来なら、このような超一流の業者に依頼すれば、工事の総費用は五万ルピーを下るまい。それを、こちらの計算づくだったとはいえ、十分の一以下で請け負ってもらった。サクラダ工務店一行がこの馬宿に投宿したのは、まさに女神様の配剤と言っても良いのでは……?

 

 店員は考えに耽っていた。すると、街道の北のほうから声が聞こえてきた。若い男たちの声だった。店員が顔を上げると、よく顔の似た二人の男が歩いてきているのが見えた。どうやら兄弟であるようだった。その服装や装備から察するに、どうやら兄弟はトレジャーハンターのようだった。

 

「おや、馬宿は改修工事中か。しかしあの魔物研究家、そんなことは言ってなかったが……」

「大丈夫かなドミダク兄さん、今晩はちゃんと泊まれるかな?」

「心配するな弟よ、なるようになるだろう。万が一、泊まることができなかったら、その時はゴネてゴネてゴネまくるまでだ」

「それもそうだね、兄さん。ゴネ得が一番だよね。それに、今回は久しぶりに大きな仕事するんだから、よく休まないとね」

「うむ。だが忘れるな弟よ。俺達の本当の目的はラムダの大秘宝だ。久しぶりの大きな仕事ではあるが、こんなものは所詮、俺たちの踏み台に過ぎん」

「うん、そうだね兄さん……」

 

 今度は街道の南の方から声がした。店員が首をめぐらせると、女と男の二人連れが馬宿へ向かって歩を進めているのが見えた。二人はなにやら話をしていた。

 

姐御(あねご)、あそこが平原外れの馬宿っす」

「ようやく到着かい、足がくたびれたよ。それにしてもあのヒルトンだかミルトンだかいう奴、本当にアタイたちにデカい仕事をやらせるつもりなのかねぇ。なんだか怪しいような気がしてきたよ」

「でも姐御、闘技場跡地のお宝なんて、きっとすげえ価値っすよ。やるだけのことはありますよ」

「ま、なんにせよ今は馬宿で冷たいリンゴ酒を一杯やりたいねぇ……って、なんだい。馬宿は今、工事中なのか」

「なんだあの大工さんたち……やべぇっすよ……爆速(ばくそく)で動いてるっす……」

「ヤバいくらいの爆速だねぇ……」

 

 なんと、この辺鄙な馬宿に一気に四人も客が来るとは。店員はほくそ笑んだ。こんなことはここ数年なかったことだ。もしかしてサクラダは、幸せを運ぶ(たくみ)なのではないだろうか……

 

 次の瞬間、店員は無意識のうちに揉み手をしつつ客たちへ向かって歩きだしていた。彼は言った。

 

「ようこそ、ようこそ! 遠路はるばるよくぞお越し下さいました! 平原外れの馬宿は現在リノベーション工事中ですが、平常通り営業しております! さあ、どうぞどうぞこちらへ……」

 

 もし店員に教養があれば、この時、暗い予感が訪れたかもしれなかった。「月に叢雲花に風」とシーカー族はしかつめらしく言う。良いことずくめの裏で、女神は不運をもたらす企みを意地悪く練っているものだと、そのことわざは言っている。

 

 店員はこの後、心底悔やむことになった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ジューザが先導する馬車が、ハイリア湖南岸に広がるバルーメ平原の、その登り口に到着したのは、午後をかなり回ってからのことだった。

 

 バナーヌたちは絶え間なく襲い来る睡魔と戦いつつ、ゴツゴツとした岩場を登って平原に進入した。彼女たちは休憩も挟まずに即座に行動を起こした。彼女たちは次なる作戦のための偵察を(おこな)った。途中、彼女たちは緑のリザルフォス三匹と遭遇した。だが、いくら眠気が凄まじいとはいえ、その程度の魔物は彼女たちの敵ではなかった。

 

 一時間が経って、偵察が一段落した。日没まであと三時間ほどだった。

 

 バナーヌたちは、地面に横になっていた。バナーヌは体の右側を下にして横向きになっていた。モモンジは仰向けに横になっていた。テッポはうつ伏せになっていた。バルーメ平原の地面は岩盤が剥き出しになっていて、その表面を薄く草が覆っていた。草のにおいが彼女たちの鼻についた。直に横になると凸凹(デコボコ)とした岩が体に突き刺さるが、この際彼女たちは文句を言えなかった。それほどまでに彼女たちは眠気に圧倒されかけていた。

 

 曇りがちだった空はやや晴れて、うろこ雲が天に浮かんでいた。バナーヌが、誰に言うでもなく呟いた。

 

「……夜は雨が降るかもしれない」

 

 それを聞いて、隣に寝そべっていたモモンジが不可解な表情を浮かべた。彼女の眠たげな垂れ目に、少しだけ光が戻った。彼女は言った。

 

「……なんでそんなことが分かるんですか、バナーヌ先輩……」

 

 テッポがバナーヌの代わりに声を上げた。

 

「さっきは空に巻雲が出ていて、今度は巻積雲(けんせきうん)が出てきたでしょ。だから、この後は悪天候になる可能性があるってこと。観天望気(かんてんぼうき)ってやつよ」

 

 先ほどまでピクリとも動かなかった割には、テッポのいたいけな声は存外ハッキリとしていた。

 

 それに対するモモンジの声は、あたかも夢の世界の住人が現世(うつしよ)に呼びかけてくるような、そういう不明瞭な声だった。

 

「……カンテンボーキ……?……なんだか、美味しそうな名前ですね……」

 

 テッポは呆れたように言った。

 

「なんで美味しそうな名前になるのよ……観天望気(かんてんぼうき)よ、観天望気。一種のお天気占いのこと」

 

 テッポはむくりと起き上がると、モモンジをその鳶色の瞳で見つめた。モモンジはその顔にイーガ団員の証である白い仮面を薄く被せていた。そうやってモモンジは日光が(まぶた)を刺すのを防いでいた。モモンジは得物(えもの)である風斬り刀を胸に抱いていた。獣革の袋に包まれた鞘が、モモンジのカエンバトのように大きく膨らんだ胸に挟まれていた。敵が来ても、たちどころに抜刀できる態勢だった。

 

 どんなに疲れている時でも、こういった剣術家としての心がけを忘れないところが、モモンジを密林仮面剣法伝承者たらしめている所以(ゆえん)なのかもしれないわ。身についた習慣がそうさせるのかもしれないけど、それよりもモモンジは生まれつき真面目なのね。そういうところが、やっぱり可愛いんじゃないかしら……テッポは睡魔によってぼんやりとしている頭で、どこか遠くそのように思った。

 

 そんなテッポの内心も知らず、モモンジはようやく得心(とくしん)が行ったというふうに言った。

 

「……ああー、お天気占いですね。それなら私も知ってますよ……」

 

 今度はバナーヌが答えた。

 

「……どんな?」

 

 今まで閉じていたバナーヌの両目は、薄く開いていた。真面目なモモンジは、気力を振り絞ってなんとかそれに答えた。

 

「……えーっとですね……ガンバリバチが地面から這い出して来たら大雨で、ゴーゴーガエルが顔を洗うと(ひょう)になって、スナホリスズメが鳴くと雷雨で、オルディンダチョウがタマゴを産んだら隕石が降るらしいです……」

 

 あたかも酩酊者(めいていしゃ)()ね上げた粘土細工のようなことをモモンジは言った。テッポは呆れてしまった。テッポは言った。

 

「滅茶苦茶なことを言うんじゃないわ、モモンジ。正しくは、ガンバリバチが低く飛ぶと雷雨で、ガッツガエルが鳴くと雨で、アオナミスズメが低く飛ぶと雨、でしょ。オルディンダチョウの話は知らないけど……」

 

 バナーヌが静かに口を開いた。

 

「……オルディンダチョウの話は聞いたことがある」

 

 テッポが答えた。

 

「えっ、ほんと? 本当に隕石が降るの?」

 

 バナーヌは言った。

 

「……そう。前に何かの本で読んだ」

 

 テッポが答えた。

 

「へぇー、知らなかったわ……オルディンダチョウが卵を産んだら、隕石がねぇ……」

 

 モモンジが大気に溶け込むような声で言った。

 

「……二人とも物知りですねぇ……あーあ、私も教養が欲しいなぁ……」

 

 その言い方にはあまりにもしみじみとした情感がこもっていた。テッポは思わず溜息をついた。

 

「モモンジ、この程度のことは教養とは言わないわ。せいぜい雑学といったところよ」

 

 モモンジは、健気にも反論した。

 

「……えー、でも私からすると雑学も教養もあまり違わないように思えますよぉ……物知りだってことには変わらないんですから……」

 

 その言葉には意外な鋭さがあった。テッポは首を傾げた。

 

「言われてみればそうね。雑学と教養って、どういう違いがあるのかしら」

 

 テッポが考え込む(いとま)も与えず、モモンジが新たな話題を提供した。

 

「……教養と言えば、サンベ殿はハッパ殿から怒られてましたね……」

 

 テッポが答えた。

 

「えっ? お父様が指揮官殿に怒った? お父様はサンベになんて言ってたの?」

 

 モモンジはふにゃふにゃとした声で言った。

 

「……えーっと、たしか、『お前は野心ばかりが先行していて、下級幹部として必要な教養が足りてない』とか、何とかかんとか……私はたまたま近くでそれを聞いてたんですけど、聞いているうちにだんだん私も一緒に怒られているような気になっちゃって……」

 

 テッポが言った。

 

「ああー……お父様ならそう言いかねないわね。それで、サンベはどんな様子だったの?」

 

 モモンジは言った。

 

「……あとで、腹を立ててました……修練場で物に当たってました……」

 

 テッポは溜息をついた。

 

「うーん、サンベはまあいつもどおりとして、お父様もお父様ね。そんな言い方をしたら反感を買うっていうのも分かっていそうなのに……いえ、お父様のことだから、きっと分かった上で言ってるのでしょうけど……」

 

 バナーヌは二人の会話を聞きながら、ぼんやりと考えを巡らせていた。

 

 教養も雑学も、知識という範疇に含まれるのは同じだ。それでも、教養と雑学とはやはり異なっている。それはつまるところ、「教養が自己を相対視する材料を与えてくれるのに対して、雑学が単なる無駄知識に過ぎない」という点だろう。前に何かの本でそう書かれているのを読んだはずだ。とにかく、本を読んだり、詩を詠んだりするというのは、教養の本質ではない。学問的に裏付けのある考えではないし、その相対視なるものが具体的にどのようなことを意味するのか未だによく分からないが、とにかく教養とはそういうものだ。そのようにバナーヌは考えた。

 

 以前、ノチがバナーヌに対して言った。

 

「バナーヌ、この前、私、ドゥランさんの奥さんと赤ちゃんに会ったの。奥さんから『赤ちゃんを抱いてあげて』って言われたから、私、抱っこしてあげたんだけど……その子、すごく嫌がって泣いちゃったの。てっきり、『私の抱っこのやり方が悪いからこの子は泣いてるのかな』って思って、奥さんにごめんなさいって謝ったの。そしたら、奥さんがね、こう言ったの。『謝らなくて良いのよ。この子、抱っこされるのがもともと嫌いなの。ノチならあるいはって思ったんだけど、やっぱり嫌なものは嫌なみたいね』って。私、驚いちゃった。だって赤ちゃんってみんな、抱っこされるのが大好きだと思ってたから。当たり前だと思っていることって、本当は当たり前じゃないのかもしれないね……」

 

 あの時のノチは間違いなく、一つの教養を得たに違いないのだ。彼女は当たり前のことが当たり前ではないことに気づいたからだ。バナーヌはそう思った。

 

 今、隣でぐったりとしているモモンジだって、教養と言えば教養だ。バナーヌはまた、そう思った。モモンジはバナナが食べられない。イーガ団員でありながらバナナが食べられないという、ほとんど万に一つもあり得ないような事実をモモンジは抱えている。つい先日、アラフラ平原に向かう馬の上でテッポからそのことを聞くまで、そんな人間がこの世に存在するなどとは思ってもみなかった。

 

 思ってもみなかったことが思えるようになる。それこそ教養なのではないのか? バナーヌはそう考えた。

 

 これまでのバナーヌは、孤独だった。パシリとしての任務は、彼女をただ独りでハイラル世界の荒野をさすらうことを強要した。たった一人で、生死を賭けた過酷な戦いを繰り広げているうちに、彼女は、生き残るためには「思ってもみなかったことを思えるよう」にならなければならないと、おぼろげながら気づくようになった。自己を相対視しなければ、この野性溢れる大地を渡り歩くことができない。そのために必要なのが教養ではないのか?

 

 そんなバナーヌであるから、彼女はサンベの指揮能力を強く疑っていた。テッポの父親ハッパはサンベに、「お前は教養がない」と言ったそうだ。つまりサンベは「思ってもみなかったことを思えるようにする」力がないということだ。しかし、千変万化する戦場の状況に対応するには、その力こそが不可欠なのではないか? それに、サンベは傲慢な性格だとも聞く。傲慢とはつまり、自己を絶対視しているということだ。相対視とは対極だ。

 

 事実、輸送馬車がシーカー族の急襲を受けて、続けて魔物に矢を射掛けられた時、サンベは終始狼狽(ろうばい)してなんら有効な手立てを講じなかったという。おそらくサンベは、襲撃を受けるなどとは思ってみなかったのだろう。

 

 薄暮を期して、バナーヌたちは魔物たちの拠点に攻撃を仕掛けることになっていた。バナーヌたちが搦手(からめて)から、サンベとヒエタが正面の大手(おおて)から攻める。二手に分かれての同時攻撃だ。ジューザにその旨を伝えるよう頼んでおいたが、はたしてサンベはちゃんとこの作戦の意義について理解してくれるだろうか。彼が己の正しさを盲信してあの小さなタコツボに籠り続けることを選ぶなら、この作戦は半分失敗したも同然だ……

 

 バナーヌが考え込んでいる間に、テッポとモモンジの会話が聞こえなくなっていた。バナーヌが見ると、モモンジに寄り添うようにしてテッポが眠っていた。すうすうという可愛らしい寝息を立てて、二人は仲の良い姉妹のように安らかな眠りについていた。

 

 バナーヌは言った。

 

「……少し寝よう」

 

 考えても仕方がない。どんなに上司に恵まれなくとも、状況が悪くとも、任務は果たさなければならないのだ。それがイーガ団員たる者の宿命だ。バナーヌはそう結論した。

 

 やがてバナーヌは、睡魔に意識を譲り渡した。たっぷり三時間寝れば、気力も体力も元通りになるだろう。その後は、戦いだ……

 

 穏やかな風が、彼女のツルギバナナのような金髪のポニーテールをふっと撫でた。彼女はいとも安らかに眠りの世界へ落ちていた。




謎の老人「ちょっ、それ食べるの? 薪の煮込みだよそれ? お腹壊すよ? ピリ辛山海焼きにしときなって」
リンク「ボリボリ」
 剣の試練の時には薪を料理した「硬すぎ料理」にはお世話になりました……戦闘が下手な私にとっては割と生命線でした。
 今回の冒頭に関しては、最初は別の観点から教養について書いていたのですが、どうしても論理的整合性が取れず、また書いてて面白くない上に読んでも面白くないという致命的な欠点を持っていたので、4,500字を削除して新たに書き直しました。

※柴猫侍先生より、ありがたくもまたもや支援絵をいただきました! 本当に感謝しかありません! 許可をいただきましたので、この場を借りて紹介させていただきます。改めて柴猫侍先生、本当にありがとうございました!

・超かっこいいバナーヌ(柴猫侍先生曰く、アメコミ風の塗りを意識したとのこと。痺れるぜ)

【挿絵表示】


※加筆修正しました。(2023/05/18/木)
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