ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

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第五十話 ウサギずきんの継承者

 一万年以上の長きにわたるハイラル世界の歴史において、ハイリア人が体験し得たスピードの極限がせいぜい馬のそれでしかなかったことは驚愕に値するであろう。馬宿協会の記録によれば、最も速く走る馬は時速にしておよそ七万五千メートルを発揮したとされている。大厄災の二年前に開催された千四百メートルの短距離レースにおいて、「ゴロンゴンゴン号」がその記録を達成したという。無論、馬は常にそれだけのスピードを維持できるわけではない。馬たちの全力疾走は一分ほどしか続かない。続かないというのは、それ以上走ると馬は呼吸器系に甚大なダメージを受けるからであり、端的に言うと死ぬからである。つまり人間が味わうことのできるスピードの極限もまた一分ほどしか続かないということになる。

 

 それは他種族に比較すると、まことに貧弱なスピードといえる。ハイリア人以外の種族はみな優れたスピードを有している。空の覇者であるリト族を例に挙げると、彼らの最高速力は時速四十五万メートルに達するとされている。高空から低空へ一気に急降下することによって、彼らはそれだけのスピードに達するのである。リト族の戦士たちは弓矢と詩歌の腕前を競うが、また同様にスピードも競う。彼らが高く飛べるように日々鍛錬を重ねるのは、高く飛べば飛ぶほど急降下による加速の恩恵が得られるからであり、恐怖を感じないように日々精神を練磨するのは、急降下によってみるみるうちに眼前に迫る広大な大地に対して最後まで目を開いたままでいられるようにするためである。かのリト族の英傑リーバルは一説によると「音よりも速く飛んだ」と言われている。字義どおりに受け取れる説ではないが、そのような形容がふさわしいほどに彼は速く飛ぶことができたということであろう。

 

 見た目が鈍重そのものであるゴロン族も、ハイリア人と比較すれば遥かに優れたスピードを有している。ゴロン族は岩のように丸まって転がることができる。転がるスピードは馬のそれに匹敵する。彼らが高い山に登るのは、登ったのちに山頂から転がり落ちることで彼らなりに最高のスピードを味わおうとするからである。かつてゴロン族には「ゴロンレース」と呼ばれる悪名高い催しがあった。転がることで峻険な山谷を駆け抜けるという単純にして豪快なレースであった。このレースにおいて、参加者たちには体当たりといった実力行使が許されていたため、負傷者や死者が出るのは毎回のことであったと言われている。あまりにも多くの犠牲者が出たためゴロン族はレースそのものを廃止してしまったが、今でも彼らは転がることをやめない。

 

 ゲルド族にはスナザラシラリーと呼ばれる伝統的な競技がある。これもスピードを競うものである。ゲルド族は広大な砂漠を移動するのにスナザラシという動物を利用する。スナザラシは砂の中を自由に泳ぐことができ、その速度は砂漠の王者であるモルドラジークに匹敵するか、それを凌ぐ。スナザラシを良く操り、速く走らせることのできる者が、族長に次いで尊敬を集める。ハイリア人以上にゲルド族はスピードを追い求める傾向が強いが、それは砂漠の暑熱と無関係ではないだろう。スナザラシを走らせることで、ゲルド族は涼風を感じることができるからである。ゲルド族は涼感を得るためにはどのようなことでもする。

 

 ゾーラ族についてはあえて多く言及しない。彼らが水中を矢の如く泳ぐということを言えばそれで充分である。

 

 以上のような他種族に比べると、ハイリア人が味わえるスピードはまことに貧弱である。馬以外にスピードを発揮する乗り物といえば船があるが、これもゾーラ族とは比較にならない。例外としては、ただラインバック七世の体験が挙げられるだけである。ハイリア人の船乗りラインバック七世は小型帆船でアッカレ地方沖の外海を航行している最中、猛烈な嵐に巻き込まれ、一晩の間にローメイ島南岸から遠くカエデ半島沖まで吹き流されたと伝えられている。彼の手記によれば「風は夜半にかけて一番強くなり」「最高速度はおそらく時速五万六千メートルに達した」という。「船が分解しなかったのは幸運だった」と彼は述べている。「帆船はそれほど速く走るように設計されていない。帆船においては瞬間的に速く走ることではなく、遅くとも走り続けることが重要だからである」 彼はまた言う。「ゾーラ族のように速く泳ぐ必要はない。ゾーラ族より遠くへ泳げれば良いのだ」 

 

 ラインバック七世のこの言葉は、なにも帆船にのみ当てはまるものではない。ハイリア人において、スピードとは主に「瞬間的な最高速度」ではなく「経済的な巡航速度」として考えられてきた。言い換えれば、ハイリア人はスピードそのものに関心があったのではなく、スピードを持続的にもたらす要素、つまりスタミナ(がんばり)に関心があったのだと言える。

 

 たとえば騎兵たちにとっても、軍馬として最も望ましい資質はスピードではなくスタミナであった。重装騎兵の場合、軍馬は、鎧兜に身を固め武具を手にした騎乗者を乗せるだけではなく、馬自身も鎧を身に纏わねばならなかった。重装騎兵は戦闘の最終局面において「決定的一撃」を加えるために投入されることが多く、それは必然的に待機時間が長くなるということも意味したため、なおさらスタミナが重視されたのであった。いくら脚が速くとも、長時間立ち続けることができなければ話にならないというわけである。

 

 騎兵、軍馬のみならず、歩兵においてもスタミナが重視された。歩兵たちには速く走るのではなく、走り続けることが求められた。また、はやく剣を振るのではなく、剣を振り続けることが求められた。それは歩兵たちが主に相手にする敵が、人間ではなく魔物だったことに由来するのであろう。人間と比較して遥かに体力で優れる魔物に勝利するためには、長時間粘り強く戦い続けられるだけのスタミナが必要となる。魔物は膂力(りょりょく)に優れ、瞬間的なスピードにおいては人間はおろか熊すらも凌駕するが、それと比較して知能は至って低く、したがって効率的にスタミナを配分することができない。人間側としてはここにつけ入る隙がある。

 

 ハイリア人歩兵の訓練は、主に走り込みから成っていた。十五歳の時に一兵卒として入隊し、数々の戦闘において武勲を立て、最終的アッカレ砦守備隊副司令官にまで昇進した伝説的兵士ロットキャの手記によれば、彼が受けた最初の訓練は「とにかく走ること」であったという。

 

「私たちは司令官からの訓示を聞いた後、配属された各中隊ごとに整列した……被服と物品を受け取り、私たちは兵舎に入った。訓示を聞いている時から『とんでもないところに来てしまった』という気持ちがしていたが、この後よりいっそう『とんでもないところに来てしまった』と私は思うようになった。私たちがお喋りをしているところにベテランの兵長が現れ、『外に出ろ!』と叫んだ。手に棒を持っていて、グズグズしている者の臀部を叩いて外へと追い立てる。私たちは訳が分からないまま外へ出され、それから延々と走らされた。兵舎を出た時は朝十時頃であったが、帰ってきた時には昼食の時間から一時間以上が過ぎていた」

 

 それから毎日、ロットキャとその仲間たちはハイラル大森林の南、ラウル丘陵の東の麓にあるハイラル軍演習場の近くを走らされることになった。「地形は決して平坦ではなく、登り坂と下り坂ばかりで、どんなに体力の優れた者でもコースを一周し終えた時には息を切らしていた……(中略)……私たちは演習場を出た後、ラウル丘陵一帯を走り、西に達した後は南へくだってラウル村に入る。村人たちは疲労困憊している私たちに向かって生温かい笑みを投げかけてくる。『兵隊さん、がんばれ!』と声がかけられる。それを励みにして演習場への最後の道を駆け抜ける。こんなことが一ヶ月繰り返されたが、その頃にはハイラル王国軍兵士として最低限必要なスタミナ(がんばり)を身につけることができていた」

 

 兵士たちだけではなく、一般人もまた、こぞってスタミナ(がんばり)を争う競技に精を出した。ハイラル城下町で刊行されていた各種のパンフレット、雑誌、告知を調べてみると、定期的に「マラソン大会」なるものが開催されていたことが分かる。大厄災の五十年前に開かれたマラソン大会の告知文によれば、大会は「ハイラルで一番スタミナ(がんばり)のある人間を決める」ことを趣旨とし、「優勝者には二百ルピー、二位には百ルピー、三位以下の入賞者には三十ルピーの賞金」が支払われることになっていた。

 

 スタート地点は城下町西門で、走者たちは砕石場を南へ通り抜けた後、グスタフ山を右手に見ながら更に南下し、巨人の森とダフネス山を通過、風見の平原に達した後は交易所を経由して進路を西へとり、最後はアクオ橋を渡って闘技場に入ることになっていた。闘技場の内部に設けられたコースを一周して、ようやくゴールとなる。なお、この時のレースの参加者は総数三百二十一人で、完走者は二百五十三人、傷病者が三十四人、死亡者が三人であったと記録されている。

 

 表彰式は闘技場で行われた。優勝者には賞金、トロフィーと賞状が授与されたが、その他に記念品として「ウサギずきん」が贈呈されたという。これはハイラル史において伝説的マラソンランナーとされている「マラソンマン」が被っていたずきんにちなんだものであった。

 

 マラソンマンは全ハイリア人マラソンランナーの理想であり、一種の神格化がなされていた人物であるが、彼について分かっている事実はごく少ない。ハイラル平原を一日で十周するほどの脚力の持ち主であり、かの勇者とも親交があったという。マラソンマンはある日、勇者と足の速さを競い合い、勝利した。勇者はその記念として「ウサギずきん」を彼に授けたと伝承は言う。

 

 さらに、他の伝承は以下のような話を伝えている。勇者とのマラソンに勝ち、「ウサギずきん」を贈られたマラソンマンは、その世界において比肩するものがないほどのスピードを得るに至った。「ウサギずきん」には神々の力が込められており、被る者の脚力を三倍に高める効果があったからである。彼の足の速さは馬をも凌ぎ、魔王の軍勢すらも置き去りにするほどであったが、流石の彼もそのうち老いを感じるようになった。老いから逃れるために彼はさらに走り続け、ついには死すら置き去りにした。死を置き去りにした彼は、次第に肉体と魂が分離し、それぞれが競い合うようになった。魂には重さがなかったため肉体よりもスピードで優ったが、肉体には肉と骨と血液があったためスタミナ(がんばり)で優っていた。

 

 魂はますますスピードを増し、その速さが極限に達したため、ついにこの世界を離れて走り去ってしまったという。一方の肉体には無限のスタミナがあったため、地形が変わり種族が入れ替わるほどの時間が経っても走り続けた。最終的に、彼の肉体はデスマウンテンの奥深くへと走り、消えたという。今でも時折大地が鳴動するのは、火山の中を走り続けているマラソンマンがたまに地表に近づくためであると言われている。

 

 大厄災後の世界においては、スタミナ(がんばり)はさほど重視されなくなった。いくらスタミナがあったところで、地上に跋扈する魔物の群れをすべて討滅することなどできない。魔物に対してはスタミナで戦うのではなく、スピードによって逃げるのが基本となった。ここに至ってスピードが復権したのである。魔物の縄張りから一刻も早く離脱できるだけのスピードが今や重視されている。馬たちはもう鎧を纏うことも、鎧を纏った騎士を乗せることもない。旅行者が街道で不意に魔物と遭遇した時、即座にその場を走り去ることができるスピードが馬には求められている。

 

 かつて人間はそのスタミナ(がんばり)を以って、獲物を地の果てまで追い詰めることができた。そのようにして人間は、足が速くとも走り続けることができない獣たちを押しやって、この世の頂点に君臨したのである。また、力強く戦うことができても粘り強く戦うことはできない魔物たちを、人間はそのスタミナで打ち破ることができた。今では違う。人間は追われる側となったのだ。今では、人間は頼りにならないスピードを唯一の手段として、惨めにも地上を逃げ回る敗残者に過ぎない。

 

 それでもなお、追う者がこの世から消え去ることはない。追われる者がいるのならば、追う者もまた存在する。荒廃したこの世界において、追う者たちはみな邪悪である。彼らはスピードの害を知っており、ただスタミナ(がんばり)を信奉している。スタミナもまた、追う者を裏切らない。追う者たちは今後の世界においても、スタミナの祝福を受けて、追う者であり続けるだろう。

 

 では、そのスタミナをもたらすものはいったい何なのだろうか? おそらくそれは、黄色いバナナであるに違いない。追う者たちはいつも、黄色いバナナを食べているのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 車列はそろそろと、慎重に、あたかも穴だらけの薄氷の上を行くかのようにして動き始めた。

 

 前夜に降り続いた雨は道を軟弱なものにしていた。ところどころに水たまりができていた。馭者(ぎょしゃ)たちはそれが気になるようであった。やがて数分が経過し、どうやら通常のペースで進ませても良いことが判明すると、馭者たちはそれまでのおっかなびっくりという感じの操縦をやめ、いつもの自信を取り戻して馬車を進ませ始めた。

 

 四両の馬車によって車列は構成されていた。先頭と、二番目と、三番目の馬車は、四頭の馬に牽かれた四輪の大型車両であった。車体は頑丈な木材が四角く組み合わされたもので、黒い塗料が塗られていた。荷台には分厚い帆布(はんぷ)製の(ほろ)がかかっていた。車軸は太く、音を立てて回転する四つの車輪はまるでこの世を()(ひし)ぐ運命をそのまま形にしたかのような迫力だった。馬車には大量の木箱が積載されていた。木箱には「ツルギバナナ」という字がスタンプされていた。逆さ涙目の紋様が描かれた護符がごてごてと貼り付けられており、それが木箱に威厳めいたものを付与していた。

 

 車列の最後尾を行く馬車は、前の三両と比較すると小柄で、弱々しい外見をしていた。その馬車は、四輪である点は他の馬車と同じであったが、それを()く馬は二頭だけだった。しかし搭載物がさほど重くないため、馬たちは苦もなく足を進めることができた。馭者のジューザがときおり「ハイ!」とか「ホウホウ!」とかいう掛け声を発していた。ジューザの声には張りがあった。声には仕事に対するやる気が感じられた。

 

 バナーヌは、それをどこかぼんやりとした心地で聞いていた。彼女は四両目の馬車の荷台の中で、静かに横になっていた。幌に覆われた荷台の中は薄暗かった。中央には大きな木製の檻が置かれており、その中には囚われの身となったゾーラ族の王室書記官フララットがひっそりと座っていた。

 

 檻を挟んだ向こう側にはテッポがいた。テッポは行儀よく正座をしていた。彼女は目を閉じて、静かな呼吸をしていた。どうやら眠っているようだった。あるいは完全に眠っているのではなく、半醒半睡という状態なのかもしれなかった。

 

 今は任務中であり、本来ならば眠ることは許されない。しかし、バナーヌはテッポを起こさなかった。眠りそのものより、まどろみの方が甘美でしかも疲れを癒すものであることを彼女は知っていた。テッポはまだ幼く、体も未発達だ。初めての任務で心身共に消耗しているだろう。これまで激戦続きだった。よく無事に戦い抜いたものだとバナーヌは思う。休めるうちに休めば良い。

 

 車輪が道の窪みを越えたり、小石を踏んだりすると、馬車は大きく跳ねた。しかし誰も声を発さなかった。振動は、むしろ眠気を助長した。

 

 バナーヌは頭を上げて、幌の隙間から車外を見た。馬車の傍をモモンジが歩いていた。車列の護衛のため、彼女は馬車を降りていたのだった。目に鮮やかな桃色の髪が一本に纏められて、微風に葉先を揺らせるヤシの木のように動いていた。モモンジは油断なく周囲を見回しつつ、馬車に遅れないように早足で、しかし音も立てずに歩いていた。事が起これば腰にさがっている風斬り刀をすぐに抜けるようにしているのが、バナーヌには分かった。

 

 空はまだ明るさを取り戻していなかった。ちょうど車列はハイリア湖にかかるハイリア大橋の門に差し掛かったところで、湖の東の空には柔らかな乳色の薄膜に包まれた太陽がようやく姿を見せていた。今はまだ無害で可愛らしい太陽であるが、数時間も経たないうちに凶暴に成長し、街道一帯に強烈な光と熱を撒き散らすのであろう。そのことを思うとバナーヌは多少うんざりとした気持ちになった。雨は厄介なものだが、陽の光はさらに厭わしい。特にイーガ団のように、闇に生き闇に死ぬ者にとっては……

 

 だから、今のうちに休んでおくに限るとバナーヌは思った。ルピーやバナナと同じように、スタミナ(がんばり)というものもまた有限だ。いつどこで辛抱を強いられるか、スタミナを要求されるようになるか分かったものではない。無駄遣いしてはならず、大切にしなければならない。そのためには、眠っておくのが一番だ。そう、今そこでまどろみの中に沈んでいるテッポのように。

 

 バナーヌは目を閉じて、自分も眠ろうとした。しかし、彼女は眠れなかった。ある想念が彼女の入眠を妨げていた。しつこく訴えかけ、決して去ろうとしない想念が、ますます形と声を伴って彼女の精神の中を徘徊していた。

 

 いったい、敵は誰だろうか?

 

 アラフラ平原でモモンジとヒコロクを襲い、ヒコロクを戦線離脱させたという敵。確証はないが、あの丘の魔物たちを手引きして罠を張り巡らせ、難攻不落の砦とした敵。その影が今もどこかで蠢いているのを、バナーヌは感じていた。

 

 その影から、バナナの匂いがする。仲間たちの匂いがかすかに漂っている。まさか、と思う。しかし、とも思う。しかしあり得るのだ。仲間が仲間ではなく、実は仲間を装った敵であるというのは、このイーガ団においてはさして珍しいことではない。

 

 バナーヌは眼前にある人物を思い浮かべていた。その人はバナーヌとほぼ同い年で、彼女と同じころに新米団員として訓練を受けていた。その人は小さい頃、とても可愛らしかった。しかしその可愛さにはどこか陰影を伴っていた。いつも寂しそうな顔をしていて、それでいてたまに見せる笑顔が印象的な娘だった。

 

 なぜ見えない敵を考えようとしているのに、あの娘を思い出してしまうのだろうか? そのことを疑問に感じつつも、バナーヌはさらに過去の記憶を手繰った。

 

 そう、まだイーガ団に入って間もない頃、彼女たちはしょっちゅう走らされたものだった。彼女たちは常に走らされた。「どんなに無能でも走ることはできる」というのが訓練教官の言い分だった。「無能ならばせめてスタミナ(がんばり)を身につけろ」 イーガ団では無能が無能でい続けることは許されなかった。バナーヌたちは無能から脱出するために走らされた。

 

 走る場所はその時々によって違っていた。柔らかい砂に覆われたカルサー谷を一日中走ると、必ず彼女たちの足指に水疱(すいほう)ができた。夜は真っ赤になるまで熱した針でそれを(つつ)き、潰した。最初は耐え難いほどの苦痛であったが、そのうち彼女たちは慣れてしまった。その潰れた水疱の上にほどなくしてまた新しい水疱ができた。そんなことが続いているうちに、水疱はできなくなった。

 

 あの娘は、体があまり頑丈ではなかった。バナーヌはある日のことを思い出した。走ることの基礎を叩きこまれた後、次は呼吸器を鍛えられることになった。イーガ団のアジトの裏手には万年雪に覆われたゲルド高地が広がっており、そこは高地トレーニングに最適だった。寒気が刺すように身に沁みた。冷たい空気は肺を凍らせるようだった。

 

 その日はゲルド高地の一角をなす、オルパー台地を走ることになった。バナーヌたちは隊伍を組み、一団となって雪の中を走り続けた。体格と体力に優れ、熱烈な忠誠心を持つ者が先頭を走った。先頭の者は隊旗を持っていた。隊旗には逆さ涙目の紋様と、バナナが描かれていた。バナーヌの体格と体力はその者と比較しても決して劣るものではなかったが、忠誠心に乏しいと判断されたため、彼女は集団の最後方に配置された。

 

 しばらく、彼女たちは走り続けた。そのうち、バナーヌは隣から荒い呼吸が聞こえてくるのに気付いた。隣にいるのは特に体力がなく、いつも教官から「いつ死んでくれるのか」と言われている娘であった。見ると、その娘がふらふらと、しかし必死になって足を動かしていた。

 

 今にも倒れそうだった。もし倒れたら、もう一度立ち上がることはできないだろう。周りの者たちはまったくそれを気にしていなかった。気付いていないのか、あえて無視をしているのかは分からなかった。娘がちょっとだけ顔をバナーヌに向けた。子ども用の小さな仮面の向こうに、助けを求めている顔が見えたように思われた。

 

 バナーヌは一瞬迷った。しかしその迷いは一歩を踏み出す間に消え去った。彼女はごく自然に、娘に肩を貸していた。この広大な雪原のオルパー台地で落伍すれば絶対に助からない。だが、だからといって落伍する者を助けようとすれば、その者もまた体力を失って落伍することになりかねない。死体が一つから二つに増えるだけである。それでもバナーヌはその娘を助けた。

 

 娘は最初、戸惑うような様子を見せたが、そのうちバナーヌの助力を受け入れた。「ごめん」という小さな声が聞こえた。バナーヌは何も言わなかった。彼女たちは今や二人一組になって、集団から遅れて走り始めた。集団は彼女たちを嘲笑うかのように一段と速度を上げ、雪煙を立てて先へ先へと進んでいった。

 

 二人は置き去りになった。それでも黙々とバナーヌは足を進めた。次第に疲労感が募ってきた。肩を貸している娘の呼吸がさらに乱れた。バナーヌにもたれかかる重さが増した。それでも彼女たちは二人一組を崩さずに走り続けた。とっくにスタミナ(がんばり)は消えてなくなっていた。

 

 それでは今、何が自分たちを走らせているのか? バナーヌには分からなかった。

 

 彼女たちはコースを走り終えた。奇跡的なことだった。あるいはバナーヌが奇跡を引き寄せたのかもしれなかった。骨の髄まで疲労し、生ける屍のようになって彼女たちは帰ってきたが、前を走っていた仲間たちはそのことにまったく言及しなかった。彼女たちは無視をされたが、走り終えた後に供されることになっているバナナだけはいつもどおり与えられた。

 

 娘がバナーヌにバナナを一本差し出した。娘はバナーヌに「食べて」と一言だけ言った。仮面を脱いだ娘の顔は、バナナのように輝いていた。バナーヌはバナナを受け取り、よく噛んでそれを味わった……

 

 教官はいつも「いつ死んでくれるのか」と言っていたが、結局その娘は死ななかった。その後もバナーヌたちはオルパー台地を走らされた。回を重ねるごとに娘はたくましくなっていった。娘はもはやバナーヌの助けを必要としなくなった。むしろ、娘は強くなっていくにつれてバナーヌを避けるようになっていった。単なる羞恥のためか、それともバナーヌを己の未熟な過去の象徴とみなしたからであるのか、それは判然としなかった。バナーヌもあえて娘との交わりを深めようとは思わなかった。

 

 娘は成長し一人前になると、魔物を操るという特殊能力を上層部に認められ、特別な任務をこなすようになった。一方で、バナーヌは一山いくらの使い走りという地位に転落した。

 

 なんという名前だったっけ? とバナーヌは思った。「いつ死んでくれるのか」と言われていた娘は最終的に「同期の星」となり、年間最優秀団員として表彰されるようになった。今ではイーガ団の中でも特に秘密の任務を任される集団に属しているという噂を聞く。バナーヌにはどうしてもその名前がはっきりとしない。奇妙なまでにすっぽりと、彼女の記憶の中からその名前が抜け落ちていた。

 

 なんだっけ、「ホロ」だっけ? いや、ホロではない。でも「ほにゃらら『ロ』」だったような気がする。「ボロ」? いやいや、ボロなんて酷すぎる。いくら闇に生きて闇に死ぬイーガ団員でも馬糞を意味する「ボロ」なんて名前はあり得ない。なんだっけ? ロロ? クロ? シロ? うーん……

 

 考えているうちに、バナーヌは自分が眠りの世界に落ちつつあるのを感じた。これではいけない。自分が真面目な性格をしているとは思っていないが、任務中に眠りこけるのはちょっとどうかと思う。何かきっかけが欲しい。何か、自分の眠気を追い払うようなきっかけが。バナーヌはしばらく様子を見ることにした。気合いを出せばきっかけなどなくとも瞼をこじ開けることができるが、それをやるとたぶん疲れる。だるさが後を引く。もう少しだけ待ってみよう。そう、これは一種の賭けだ。自分自身に対する賭けである。

 

 バナーヌは賭けに勝った。前方から大きな声が聞こえてきた。

 

「とまれー!」

 

 馬がいななき、馬車が音を立てて止まった。止まった時の強い衝撃で馬車が大きく揺れた。「キャッ!」という声が檻の中から聞こえた。

 

「なにかしら?」とテッポが言った。テッポは目を擦っていた。

 

「何かあったようだ」とバナーヌが答えた。「誰だ!」とか「なんだお前!?」などと馭者たちが騒いでいるのが聞こえた。「てめぇ、邪魔だ! あっちに行け!」と叫ぶサンベの声が響いて来た。

 

「テッポはここで待ってて」

 

 そう言うとバナーヌは素早い動きで身を起こし、馬車を降りた。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌは車列を通り抜けて前方へ向かった。モモンジが彼女についてきた。モモンジが言った。

 

「いったいなんなんでしょうね?」

 

 バナーヌは答えた。

 

「さあ」

 

 車列はちょうどハイリア大橋の中ほどで止まっていた。そこには往時の国家的威信を象徴するかのような大きな噴水があった。しかし今では水は枯れ、彫刻は砕け、石の破片が散乱しているだけだった。

 

 その上に誰かが立っているのを、バナーヌは見た。朝日が逆光になっているため、その姿はしばらくはっきりしなかった。やがて目が慣れてくると、その者が中肉中背の男で、白い半袖のシャツと短ズボンを身に纏い、頭に何か妙な被り物をしているのが見えた。

 

 被り物はウサギのずきんだった。黄色い二本の耳が天を向いており、風に揺れていた。

 

 男は腕を組み、堂々と、壊れた噴水の上に立っていた。先頭の馬車に乗っていたサンベがしきりに男へ罵声を浴びせていた。

 

「てめぇ、いったいなんなんだ! 向こうにいけ! 消えろ!」

 

 だが男は何も答えなかった。特に目立った特徴のないその顔は冷静そのものだった。その視線は鋭く車列を貫いていた。

 

 バナーヌとモモンジは少し離れたところからそれを見ていた。モモンジが溜息をついてから言った。

 

「うわぁ。変な人が出てきちゃったなぁ。見てくださいよバナーヌ先輩。あれ、普通じゃないですよ。いい年をした大人がウサギのずきんを被ってるなんて。追い払いましょうか?」

 

 バナーヌは言った。

 

「もう少し様子を見よう」

 

 サンベは男に向かって叫んだ。

 

「おい! そこから消えねぇんだったら痛い目に遭わせるぞ!」

 

 サンベはその得物(えもの)の一つであるエレキロッドを取り出すと振りかぶり、今にも電気の玉を発射するという態勢をとった。粗暴な性格をしているサンベが即座に実力行使に訴えかけるのではなく、威嚇という態度をとったのは特筆すべきことであった。サンベはなおも叫んだ。

 

「おい! 聞いてんのか! 黒焦げにしちまうぞ!」

 

 唐突に、ウサギずきんの男が口を開いた。

 

「私はすでに焼かれている」

 

 その声音にはどこか威厳が漂っていた。サンベと、サンベの周りにいる者たちはあっけにとられた。「ああ? なんだって?」とサンベが言った。男はまた口を開いた。

 

「私はすでに焼かれている。私はすでに焼かれているのだ。いつまでもつきまとってやまない欲望が、太陽のように熱く月のように冷たい理想が、足を前へ前へと進ませ続ける信念が、この私の心身を内側から焼いている。焼き続けているのだ」

 

「物狂いかな?」とモモンジが言った。「私、ああいう物言いをする人はこれまでに何度か見たことがありますよ。剣術を極めようとしてちょっと心を損なってしまった人とか。瞑想のやりすぎで言葉がおかしくなっちゃった人とか。そういえばあの人、雰囲気がそっくりですね。()()()()()()()()()()()()()()()()と」

 

「物狂いではない」と、そのウサギずきんの男は答えた。モモンジはビクッと体を震わせた。距離が離れているのに、男が自分の言うところを正確に聞き取っていたことに驚いたのだった。

 

「ウサギのずきんを被っているから」とバナーヌが言った。「耳も良いのかもしれない」

 

 モモンジが不思議そうに言った。

 

「そんなこと、あるんですかねぇ」

 

 男は滔々と、饒舌に語った。語るというよりは、それは独白に近かった。

 

「あるいは私は狂っているのかもしれない。私は常に狂気を求めている。身も心も忘れ、ただ高みへと至らんとする者は、正常という世界に留まることは許されない。私は狂気に導かれてこの世界を離脱し、真理へと至らんとする者である。狂気は我が導き手である。だが、自覚して狂気を求める者ははたして狂人と呼べるのであろうか」

 

 サンベが叫んだ。

 

「わけのわからねぇことをごちゃごちゃ言ってんじゃねぇ! おい、テメェら! こいつをそこから引きずり下ろせ……!」

 

 その言葉が終わる直前に、ウサギずきんの男は大きく跳躍した。見事な動きといえた。男はしばらく滞空した後、軽やかに地面に降り立った。意外な挙動にサンベたちは少し気圧される形となった。誰も動かなかった。しばらく沈黙があたりを満たした。

 

 ややあって、男はまた口を開いた。

 

「狂気に憑りつかれた者に名乗るべき名などない。しかし名は認識を促す標示(ひょうじ)でもある。ゆえに、あえて私は名乗ろう。我が名は『マラソンマン』 大地を駆ける者である」

 

 マラソンマンは自分の周りに立ち尽くす者たちを眺めた。彼は一人ひとりを吟味するように見た。バナーヌは、面倒くさい気持ちが湧いてやまないのを感じていた。そして、嫌な予感がしてならなかった。自分はよく変人だと言われる。そうかな、と思うし、そうではない、とも思う。だが、変人に目を付けられることはよくある。非常によくある。彼女は今回もそうなるような気がしてならなかった。

 

 不幸なことに、バナーヌの予感は的中した。マラソンマンはバナーヌに顔を向けた。彼の眼光がいっそう鋭さを増したように思われた。彼は言った。

 

「素晴らしい。そこの女よ。そこのバナナのような髪をした女よ。私は今、お前を求めている。お前は狂気をもたらす者であろう。私のもとに来い。私の真意を伝えよう」

 

「呼ばれてますよ、バナーヌ先輩」とモモンジが肘で軽く突いてきた。バナーヌはうんざりした気持ちになった。モモンジがまた言った。「ほら、はやく行ってきてください」

 

 バナーヌは歩き、マラソンマンの前に立った。マラソンマンは改めてバナーヌをじっくりと見た。頭から足の先まで彼は味わうように見た。彫刻品を鑑定する美術家のような眼差しだった。バナーヌは全身が痒くなった。男は言った。

 

「バナナの女よ。私とマラソンをしよう。私はマラソンマン。走ることで己を高めんとする者であり、天空と大地と時の女神たちの伝令である。私とマラソンをしよう。私はそれ以外何も望まない。ただ私と走れ」

 

 バナーヌは答えた。

 

「やだ」

 

 にべもない拒絶だった。だって、気色悪いし。どうして任務の最中にこんな得体の知れない者とマラソンをせねばならないのか? スタミナ(がんばり)というものは有限である。大切にしなければならない。

 

 そんなバナーヌの心を無視して、サンベは乱雑ながらもいつもより低い声音で言った。

 

「……おい、カルサー谷のバナーヌ。お前、こいつと走れ。こいつも気が済んだら勝手に消えるだろ。いつまでもここで時間を潰してるわけにはいかねぇ」

 

 バナーヌはサンベを見た。不思議なことに、サンベからはいつもの粗暴さが消えていた。彼からは恐れのようなものが感じられた。

 

 バナーヌはその時、初めてサンベという男の本質を見たような気がした。つまるところ、こいつはただの臆病者なのだ。自分の知っている範囲のことに関しては強気に出られるが、未知のもの、得体の知れないものに関しては臆病になる。このマラソンマンは、図太い性格をしているバナーヌですらあまり関わり合いになりたくないと思う(たぐい)の人間である。サンベがさっさとこの状況を終わらせたいと思っているのは明白だった。

 

 サンベは言った。

 

「走れよ、なあ」

 

 バナーヌは答えた。

 

「了解」

 

 こんな男でも指揮官ではある。イーガ団員は命令には絶対服従である。バナーヌは走ることにした。マラソンマンは頷いた。

 

「実によろしい。さて、マラソンにはコースというものがある。コースがなければマラソンとは言えない。私はこれから天望の丘の北の麓、東の宿場町跡地入口まで走る。バナナの女よ。私と競う必要はない。ただ私と走れ。私と肩を並べて走れ。そうすれば私は満たされる。私は真理へとまた近づくのだ……」

 

 バナーヌはその言葉が終わるまで待たなかった。

 

「うるさい」

 

 そう一言漏らすと、彼女は勢い良く走り始めた。彼女は走るのには慣れていた。彼女のこれまでの人生はもっぱら走ることで占められてきた。体の重心を丹田に置き、手首と足首はあくまで柔らかく保つ。小鳥を掴むようにそっと手を握り、上体は自然の動きに任せる。胸郭を狭めないこと。胸郭の動きが制限されると呼吸が浅くなり、疲労する……

 

 後ろから、サンベの慌てたような声がした。

 

「あっ、コラッ! いきなり走り出すやつがいるか! おい、てめぇら! さっさと持ち場に戻れ、出発だ……!」

 

 バナーヌは最初からハイペースを保つことにした。彼女はストライドを大きくし、飛ぶような勢いで走った。

 

 しかし、いつの間にか彼女の隣にはマラソンマンがいた。呼吸も乱さず、彼はその呟くような口調で言った。

 

「なるほど、素晴らしい走りだ。訓練されている。走ることが一種の習慣(ハビトゥス)となっている。これほど見事な走りをすることができる者は、今のハイラル世界においてごく少数であろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 バナーヌは横目でマラソンマンを見た。彼の走るフォームは完璧だった。バナーヌが飛ぶように走るのならば、彼は滑るように走っていた。足音すら立てず、息の音を漏らさず、マラソンマンはバナーヌとまったく同じペースで走り続けていた。

 

 後ろから馬車が追従してくる音が聞こえた。このスピードは、通常の馬車の走行よりも幾分か速かった。バナーヌは少し心配になった。馬たちはバテないだろうか? このペースで走り続けたら、馬車の馬たちは東の宿場町跡地に辿り着いた時には疲労しきってしまうかもしれない。それは避けたい。

 

 それでも彼女の足は速度を緩めることがなかった。なんというか、ここでペースを落としたらこのウサギずきんの男に負けたような気がする。バナーヌはマイペースな性格をしているが、それでも人並みに負けん気というものは持っている。というより、弱みを見せたくない。特に、見ず知らずの人間に対しては。

 

 そんなバナーヌの内心を読んだように、マラソンマンが静かに言った。

 

「君は私に負けまいとしている。それは走る者に特有の心性である。だが」

 

 マラソンマンは淡々と言葉を続けた。その言葉は妙に長ったらしかった。

 

「いったい、負けとは何か? 勝ちとは何か? 競争や勝負というものは、いったい何を基準として勝敗を分けるのであろうか? 競争というものは、ある一つのものを巡って行われるものであると定義できるかもしれない。そしてその場合、その一つのものとは、常に恣意的に決定される。決して形而上学的に決定されるものではない。人は言うかもしれない。競争とは常に『一位』を目指して行われるものであると。最初にゴールを通った者が一位であり、一位を獲得した者を勝利者と呼ぶと、人は言うかもしれない。だが、順位を以て競争を定義することはできないと、私は考える。なぜならば、一位を争う競争と同様に、『二位を争う』という競争もまた成立し得るからだ。『一位ではなく、二位を取った者を優勝とする』ということは、恣意的に決定できるのだ。競争者に一位を取らせるように仕向け、己は二位を狙う。それには技巧があり、技術がある。戦術がある。思考が働いている。かつてのハイラルにおいては、レース文化が爛熟していた。二位を得た者を優勝者とするというレースもまた行われた。同じように、三位をとった者、四位をとった者、五位をとった者を優勝者とするレースがあった。最下位の者を優勝者とするレースも存在したという。ゆえに、順位によって競争という概念を定義することは妥当ではない……」

 

 バナーヌは言った。

 

「うるさい」

 

 初めてバナーヌの中にこの男に対する敵意が湧いた。それはごく薄っすらとしたものであったが、確かに敵意であった。うるさい。なにやら哲学めいたことを言っているが、うるさい。哲学をする者たちは哲学こそが人を生かすものであると思い込んでおり、確かにそういうこともあるかもしれないが、しかし哲学とはうるさいものなのだ。今は走ることに集中したい。

 

 バナーヌは足を早めた。マラソンマンはまだ何かブツブツと言っていた。彼女は街道周辺に目をやった。定期的に視線を変えることが長く走る上でのコツだ。視線が固定され、目に入ってくる情報が変わらなくなると、精神は疲労を覚え始める。精神の疲労は筋肉を萎えさせる。丈の高い緑の草が一面に生い茂っていた。バッタが跳ね、小さな羽虫の群れが塊となって漂っていた。白い花に赤い花が重なっていた。花にハチがとまって蜜と花粉を集めていた。おそらくガンバリバチだろう。彼女はそう思った。集められた花の蜜はハチミツとなる。ハチミツはスタミナ(がんばり)を生む。

 

 いつの間にか太陽が高く昇っていた。もはや幼い太陽ではなかった。空は晴れていて、凶暴な太陽光が大地に降り注いでいた。気温は三十度近くまで上昇しているだろうと、バナーヌは思った。昨日までの雨が嘘のようだった。水溜りはすでに乾き、泥がひび割れていた。息が上がりつつあるのを彼女は感じた。

 

 こんな天気では、みずみずしいバナナもすぐにカラカラになってしまう。バナーヌの脳裏にそんなことがよぎった。バナナがカラカラに……そんなバナナはバナナといえるのか? それはバナナではない。バナナのミイラ(ギブド)だ。地下に埋もれた古代の遺跡に大量のミイラ(ギブド)がいる。バナナのミイラ(ギブド)が包帯を纏って整然と横たわっている。ミイラ(ギブド)たちは起き上がり、口を開く。「どうしてカラカラになるまで放っておいたのか……」

 

 いかん、とバナーヌは頭を振った。彼女は少しペースを落とすことにした。走ることに集中しなければならない。

 

 またマラソンマンが言った。またしても彼女の心の内を読んだかのような口ぶりだった。

 

「順位を争うことが競走の、いや競争の本質ではないように、報酬もまた競争の本質ではないのではないか? はたして報酬を得ること、つまり何らかの成果を得ることは競争の本質を成すのか。私は、それが競争の本質を成すとは考えない。競争において、ある競争者が成果を得る場合、その時には必然的に成果を得られなかった競争者も存在する。換言すれば、成果を得るには、成果を得られない者の存在が前提となるのだ。ゆえに、成果を得られない者なしには競争は成立し得ない。従って成果を得るという観点から競争を定義することもまた妥当ではない。では競争とはなんであるのか?」

 

 バナーヌは言った。

 

「うるさい」

 

 ぶん殴りたい、とバナーヌは思った。ぶん殴って黙らせてやりたい。今はっきりと分かった。こいつは走ることに集中していない。なにがマラソンマンだ。それに、ちゃんと全部話を聞いていたわけではないが、こいつの喋る内容はなんとなく厳密性に欠けているような気がする。

 

 もしかしてこいつは、厳密な哲学的議論をしたいわけではなく、なんとなく()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのではないか? ハイリア大橋で、モモンジは「そういうふうになっちゃった人」と言った。こいつは「そういうふうになっちゃった人」ですらない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

 それが事実であるか分からない。もしかしたらこいつは本当に哲人ランナーの類なのかもしれない。しかしそのように思うことで、バナーヌの心は落ち着きを取り戻した。本当の哲人が隣で走っているかもしれないと思うのは、かなりのプレッシャーとなるのだ。魔物と走るのとさほど変わらない。彼女はまたペースをあげ始めた。マラソンマンは苦もなくそれについてきたが、彼女の心が乱れることはなかった。

 

 黙々とバナーヌは走り続けた。マラソンマンは喋っている時以外は、じっと口を閉じていた。右手の丘陵地帯へ彼女は目をやった。天望の丘は、もう中ほどを過ぎていた。あと一時間も経たずに東の宿場町に到達するものと思われた。

 

 だんだんスタミナがなくなってきているのを彼女は感じていた。そろそろ走り終えたいと彼女は思った。

 

 ふと気になって、バナーヌは後ろを振り返った。いつの間にか馬車は遠くなっていた。随分とはやいペースで走ったようだ。彼女は空を見た。太陽は中天から少し降りたところに位置していた。走っている間に昼が過ぎていた。

 

 こうして時間を忘れて走ったのはいつ以来だろう?

 

 マラソンマンが口を開いた。どこかその口調は荘厳だった。

 

「競争というものは、競争を忘れたその瞬間に真なる意味で競争となるのだ。最初、人は臆見(ドクサ)に囚われ、順位を求め、成果を求めることに専心する。それが競争であると思い込んでいる。思い込みつつ、それを極めていく。ついにそれが極まった時、人は没我の境地に到達する。その時、人は自分が競争しているということを忘れる。競争を意識している自我が消えたその没我の境地に達して、ようやく人は()()()()()()()()()()()()。その時はじめて人は解放される。人は時間の奴隷だからだ。競争によって、人間は時間という枠組みをはみ出し、より大いなる生命を生きることになる。スピードもスタミナも、その時は意味を持たなくなる。スピードもスタミナも、時間なしには成り立たないからだ」

 

 いったん言葉を切ると、沈黙を挟み、最後にマラソンマンは締めくくるように言った。

 

「時間に打ち勝つ。これが競争の本質なのだ。分かったかね」

 

 バナーヌは言った。

 

「うるさい!」

 

 バナーヌはマラソンマンをぶん殴った。気持ちの良いほどに勢いのある一発の拳がマラソンマンの頬にめり込んだ。マラソンマンはぶっ飛ばされ、茂った草むらの中へ姿を消した。衝撃で彼の頭からウサギずきんが外れ、ふわふわと空中を漂った後、街道の少し先に落ちた。

 

 速度を緩め、しばらく惰性で進み、バナーヌはようやく足を止めた。荒い呼吸は数秒で元に戻った。彼女は足元に落ちているウサギずきんを拾った。

 

 こうして手に取って見ると、ウサギずきんは実に愛らしいデザインだった。黄色の耳と、黒い目が鮮やかなコントラストを描いていた。

 

 どこかから、声が響いた。

 

「それは君に差し上げよう。今回のマラソンの記念だ」

 

 バナーヌは周囲を見回した。声の主はどこにも見えなかった。また、声が響いた。

 

「時間に追われている限り、君は時間の奴隷に過ぎない。君はスタミナ(がんばり)に優れているようだ。だが、これからは()()()()()()()()()()()()()()()()()。そうすれば君は時間から解放される。私も未だ、時間の奴隷に過ぎない。今のところは、だが。さあ、もう行きたまえ。私も行く。君と走るのはなかなか楽しかったよ……」

 

 しばらく、バナーヌは耳をすませた。声はもう聞こえてこなかった。彼女はウサギずきんをしばらく見つめた。

 

 (かぶ)ろうか? いや、やめよう。

 

 彼女は現在地を確認した。周囲の丘の形と前方遠くに見える森の様子から、いま立っているところが東の宿場町跡地、東西の街道と南北の街道との結節点にほど近いことが彼女には分かった。

 

 彼女は街道の脇にある大きめの石に腰かけた。

 

 マラソンマンは、これまで対峙してきた敵の中で最もうるさいやつだった。彼女はそう思った。なにが「スタミナを超えたスタミナ」だ。こっちの忍耐力(がんばり)はとっくの昔に切れている。バナーヌは無性にバナナが食べたくなった。

 

 涼やかな風が吹き渡った。草木が潮騒のような音を立てた。傾いた陽の光は今や柔らかだった。

 

 馬車は半時間ほど遅れてやってきた。車列の前にはテッポがいた。テッポはバナーヌの姿を見つけると、元気良く駆け寄ってきた。

 

「ああ、バナーヌ! 心配したのよ! 爆速(すごいスピード)で走っていって姿が見えなくなったってモモンジから聞いて……」

 

 バナーヌは言った。

 

「ありがとう」

 

 バナーヌとテッポはしばらく見つめ合った。テッポの目は優しかった。

 

 やがて、テッポが口を開いた。

 

「ところでマラソンマン、だっけ? どこに行ったの? ここにはいないみたいだけど」

 

 バナーヌは答えた。

 

「ぶん殴ってやった。うるさかったから」

 

 テッポは呆れたような、納得したような顔をした。

 

「ああ、そう……そうね、うるさいやつはぶん殴ってやるのが一番ね……」

 

 二人は連れ立って歩き始めた。四両の馬車がその後についてきた。

 

 ほどなくして、バナーヌたちは交差路に辿り着いた。

 

「あれ?」とテッポが言った。「こんなところに岩なんてあったっけ?」

 

 目の前には大きな岩があった。納屋ほどに大きな岩が、街道の真ん中に鎮座していた。

 

「いや、こんな岩はなかった」とバナーヌが言おうとした、その瞬間だった。

 

 岩が生き物のように動き始めた。波のように大地が揺れた。




 ウサ耳ゼルダ様! ウサ耳ゼルダ様!
 いや、ウサ耳リンクも良いな……
 続編ではウサギずきんが出てくると良いな……なんて……

※加筆修正しました。(2023/05/23/火)
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