ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

52 / 54
第五十二話 お前の任務はまだ終わらない

 どの時代、どの土地、どの状況においても偉大な人物というものは必ず生まれてくる。偉大な人物は人々の上に立ち、リーダシップを振るい、利害関係を調整する。彼は戦列の先頭に立ち、敵を粉砕し、共同体に勝利と栄誉をもたらす。彼は物語に語られ、共同体の共有記憶に保存されることによって、さらに偉大な者となっていく。

 

 歴史の原動力は、まさにこういった偉大な人物たちである。彼らは燦然と輝いており、今後も輝き続けるであろう。偉大な人物なき歴史は存在せず、偉大な人物によらずして歴史を描くことは不可能である。少なくとも、そう思える。

 

 しかし、偉大な人物だけが歴史を生み出し、歴史を動かしてきたわけではもちろんない。一人の偉大な人物の周りには、偉大ではない無数の人々が存在している。ひとつの巨大な恒星の周囲を複数の惑星が取り巻き、それによってひとつの星系が構成されているように、歴史もまたひとつの星系であると見なすのならば、偉大なる人物という恒星と同じくらい偉大ではない人々という惑星も重要である。

 

 無論、歴史を記す者たちもそのようなことは理解していた。彼らは常に語り方、書き方を工夫してきた。彼らは、偉大な人物について語ること以上に、偉大ではない人々が果たした役割を正当に評価し、適切な地位を与えることに腐心してきた。彼らが天文学を必須の教養とみなしていたのは、単なる趣味や知的優位性の確保のためではない。星々の配列と動きを学び、観察することで、より正確な歴史を記す上での参考にしようとしたためである。

 

 だが、そうした営々たる努力にもかかわらず、どうしても語られない者たちもまた存在する。それは語るのに価値がないとみなされたから語られなかったのではない。そうではなくて、語る上で必要な材料、つまり事実や証拠といったものがあまりにも少ないためにそうなってしまったのである。

 

 隠密(おんみつ)が、その例の筆頭である。隠密、スパイ、特殊工作員といった者たちは、これまでの歴史においても確かに存在した。歴史に刻まれる偉大なる人物も、こういった者たちの存在なしにはその功業を打ち建てることは不可能であった。彼らは闇の中で生まれ、闇の中で仕事をし、そして闇の中で死んでいった。彼らは同時代においても知られることがなく、従って記録されることもなく、記録されることがなかったために記憶されることもなかったのである。

 

 ゆえに、隠密に関して書かれた記録は貴重である。そして、貴重であるがゆえに考察する上ではより一層の慎重さと入念さが必要となる。他と比較照合することができないため、そこに書かれたことが真実であるかどうかが分からないからである。

 

 その上なお、彼ら隠密の歴史を研究する上で私たちを悩ませるのは、彼らの生きた世界と彼らのなした仕事が、私たちの想像とあまりにもかけ離れていることである。彼らは本質的に一種の神秘性を纏っているのであり、その魅力はあまりにも強い。物事から神秘性を引き剥がすのを本務とする歴史学者にとって、彼らは真なる意味での強敵といえる。

 

 まず、隠密とはどのような人物であったのか。これが最初の問題となる。隠密とは隠密であるがゆえに、社会に完全に溶け込んでいる。彼らは一農民であったり、一兵士であったり、一商人であったりした。彼らの仕事は平凡であり、ことさらにひっそりとしているわけではなかったが、やはり目立つこともなかった。そのような人々は社会に無数に存在している。その中から隠密を見つけ出すにあたっては、直接的な証拠に頼ることはできない。状況的な証拠に頼らざるを得ない。

 

 だが、なにごとにおいても例外は存在する。ある人物の歴史が、隠密とはいかなるものであったのかを私たちに教えてくれる。

 

 リト族の歴史において、この上ないほどの変人、奇人として記録されている人物がいる。その名はジリボンと言った。この奇妙な響きの名前は彼の奇行にちなんだ一種のあだ名であり、本当の名は「ワカー」という。

 

 ジリボンはリトの里で詩人一族の次男として生まれた。彼は詩人としての教育を受け、ある時長男が不慮の事故で死亡してからは、一族の正当なる後継者として見なされるようになった。

 

 ジリボンは大変聡明な若者であったという。彼は記憶力に優れており、一度その詩を聞けば、たとえそれがどれだけ長く難解なものであっても完璧に再現することができた。成人するまでに彼はリトの里に伝えられているすべての詩と歌を習得し、かつあらゆる楽器を演奏できるようになった。彼は礼儀正しく、生活態度は明朗そのもので、年長の者を敬い、弱者に対する労りを忘れなかった。

 

 また、彼は数多くの自作の詩を残した。現代にも彼が作ったと言われている詩が何編か保存されている。特に有名なのが「族長の娘の婚礼を祝う歌」と、「遠征から帰還した戦士たちを讃える歌」であり、これらは今でも折に触れてリト族が朗誦する。その韻律は高度な数学的計算によって構成されており、伝統を受け継ぎつつもオリジナリティに溢れている。詩の文言はいささかの哀調を帯びているが、基本的には生の尊さと喜びを歌ったものである。

 

 詩人として最高の素質を有していたジリボンは、戦士としても優れていたと言われている。弓矢の腕前は五十メートル離れた標的の中心に三本連続で命中させることができたほどで、弓術に限らず、ある時の槍術の大会では決勝戦まで進み、惜しくも二位となったものの、その槍さばきの流麗さは優勝者のそれを凌いだとも言われている。彼は数々の戦闘に一戦士として参加し、そのたびに戦果を残した。

 

 かくほどまでに優れたリト族の詩人・戦士であったジリボンが、なぜ「ワカー」としてではなく、奇人「ジリボン」として知られるようになったのか。

 

 ある日を境にして、彼は完全に別人になったかのように変貌した。

 

 ジリボンはその時まで、詩人として各地を巡っていた。彼は砂嵐吹き荒れるゲルド地方の砂漠から、溶岩が絶え間なく噴出するデスマウンテンの火口、さらには何もないことで有名なアッカレ地方まで翼を伸ばし、存分に詩人としての才腕を振るっていた。彼は他種族にもその名を知られるようになり、ついにはハイラル王に招かれて王城にて詩を披露することになった。彼はハイラル王の御前にて見事に詩を歌い上げ、王だけでなく、宮廷の貴族たちをも魅了したという。

 

 一躍時の人となったジリボンは、約一年間もハイラル城に留まった。その間に何が起こったのかは分からない。城からリトの里に戻ってきた時、彼の性格は一変していた。酒嫌いだった彼は、里に帰ってから酒に溺れるようになった。のみならず、粗暴な言動を繰り返すようになり、また生活そのものも乱れがちになった。

 

 当然、里の者は彼に対して苦言を呈した。それに対して、ジリボンはこう返したと言われている。「王城での生活は良かった。みんな親切で、食べ物も酒もたっぷりあった。俺は一生あそこで歌を歌って暮らしても良かったんだ。だが俺は、その安逸な生活を捨ててこの里に帰ってきた。それはお前たちが俺に早く帰ってこいと強く言ったからだ。俺はお前たちの要求に応えてやった。今度はお前たちが俺の言うことを聞く番だ」

 

 ジリボンはますます放蕩を繰り返すようになった。戦争に参加することもなく、楽器を弾くこともなく、詩を作ることもない。初めのうちは、彼を擁護する声もあった。しかし、ジリボン自身がそれを強く否定した。彼は、彼を罵る声に対してはさして反応を見せず、むしろせせら笑うことすらしたが、彼を擁護する者に対しては不思議なまでに攻撃性を剥き出しにした。かくして彼を弁護する者は一人もいなくなった。

 

 彼には婚約者がいたが、ほどなくして婚約は破談となった。里一番の詩人「ワカー」は里一番の厄介者「ジリボン」となり、次第に彼の周りから人が消えていった。彼にはそれまでの仕事で得た莫大な資産があったが、それも瞬く間に蕩尽し、借金を繰り返すようになった。彼はその生活を楽しんでいるようであった。彼は酒を飲み、里の者に罵声を浴びせ、他の詩人の楽器を壊して回ることまでした。

 

 ジリボンは破滅的な生活を送りつつ、しばしば旅行をした。里の者はそれを「借金取りから逃れるための飛行」であると噂した。主に彼が飛んだ先はハイラル城であった。冬が終わりかける頃に彼は飛び立ち、春に城に着くと、そこで歌を歌ってルピーを得、夏はまた豪勢な生活を送り、秋になるとリトの里へ戻ってきた。

 

 不摂生が祟ったためか、ジリボンは寿命を全うせずに死んだ。一段と寒さの厳しかった冬のある日、自宅の寝台で冷たくなっているジリボンが発見された。遺書の類はまったく残していなかった。わずかに残された財産はすべて債権者に分配された。葬儀は簡素なものであり、参列者は数人しかいなかったと言われている。彼の波乱に満ちた生涯を哀れに思った一婦人が私財を投じて彼の墓所を設けた。彼は今もそこで眠っている。

 

 ジリボンは長らくリト族が生んだ一大奇人として記憶されていたが、ハイリア人の歴史研究者コンダイによって再評価がなされた。コンダイによれば、「ジリボンは隠密であった」という。彼は族長直属の隠密であり、情報収集をはじめとした特殊工作によってリトの里の安全保障に貢献していたのだとコンダイは分析する。

 

「ワカー、つまりジリボンがリト族の隠密であったという直接的な証拠はないが」とコンダイは言う。「数々の状況的な証拠がその事実を裏付けている。ひとつは、彼は族長の三女と婚約を結んでおり、それは彼の不行状ゆえに結局破談となったが、その後も彼は族長の屋敷への出入りを許されている。また、族長が彼に宛てて寄越した書簡が何通か保存されており、そのいずれもが『屋敷にて詳しい話が聞きたい』というものであって、彼を叱責するものはない」

 

 コンダイはまた続けて、「ふたつ目は、ハイラル城側の記録である。ハイラル側は表向き彼を歓迎していたが、裏では彼のことを『隠密の可能性がある』として見なしていた。王室警備隊情報部の報告書にはしばしば彼の名前が登場しており、『動向に注視する必要がある』と述べられている」

 

 さらに、「三つ目には、彼の資金源が挙げられる。彼はほとんど何も残さなかったと伝えられているが、ゾーラ族の金融機関には彼の死んだ兄名義の口座があり、彼がそこから定期的に出金を繰り返していたことが記録されている。入金者はリト族の族長の女婿であり、それは年額五千ルピーにも達した」

 

 以上の状況的な証拠からコンダイは以下のように結論する。「ジリボンが隠密であったことはほぼ疑いようがない。当時、リト族は中央ハイラルとの間で国境問題を抱えており、散発的な紛争がいっそう両者の緊張関係を深めていた。ジリボンが里から王城へと『逃走』している間に行われたハイラル軍によるタバンタ地方への出兵は、すべてリト族の戦士団によって出鼻を挫かれ、失敗している。軍はしばしば中央に対して情報が漏洩している可能性を指摘し、対応を求めていた。結局、ジリボンが生きていた間、リト族は兵力において劣勢であったのにもかかわらず国境において優勢を保つことに成功している」

 

 コンダイはこのように研究を結んでいる。「リト族の詩人ワカーは最後まで隠密として行動し、それを誰にも悟らせないまま奇人ジリボンとして死んだのであった」

 

 隠密ジリボンはハイラルの歴史を動かしたのだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。彼はただの一変数に過ぎず、その影響力は限定的であった可能性もある。

 

 おそらく、ジリボン自身は歴史を変えようとは思わなかったはずである。彼の念願はあくまでリト族の繁栄にあった。それは彼が残した詩から窺える。彼が晩年に残した詩に、「翼が萎え、羽抜け落ちた老鳥も、その眼は燃えている。翼ではなく、眼にこそリトの魂が宿る」というものがある。その粗暴な言動とは裏腹に、彼がリト族に対して深い愛着を抱いていたことが推測できる。だが、これも状況証拠でしかない。

 

 彼ら隠密の歴史は、通常の歴史とは本質的に異なっているのだ。それは「歴史として語られない歴史」と言うことができる。彼らは始まりから終わりまで誰にも知られることがない。そして知った時には、彼らはすでにこの地上から消えてなくなっている。

 

 誰かに知られたい、誰かに知って欲しいという感情は、知恵ある生き物に固有なものである。隠密は、その感情を押し殺す。その点において、彼らはその心のあり方からして普通の人々と異なっているようにも見える。

 

 だが、知られずにいられることを心の底から願う生き物など、本当に存在するのだろうか? 彼らの心は、私たちのそれと本当に異なっているのだろうか?

 

 

☆☆☆

 

 

 その日のゲルド砂漠は朝から猛烈な砂嵐に見舞われていた。この時期にこれだけの風が吹き、これだけの砂が舞うのは特に記録に値することであった。ゲルドの街の住人は窓を閉じ、隙間に布を詰めて、暴風となって吹き荒れる砂漠の息吹に備えた。商店は軒並み休業を余儀なくされた。放牧されていたスナザラシたちは、みな厩舎へと戻された。

 

 そのような砂嵐にも、カルサー谷は苦しめられることはなかった。ゲルド砂漠の北、その奥に位置するカルサー谷は、雪に覆われたゲルド高地から吹き下ろす冷涼な風に守られていた。骨すらも焼く炎暑も、岩すらも削り取る嵐も、カルサー谷は無縁だった。だからこそイーガ団はそこにアジトを築き、それが不落のものとなるように営々たる努力を重ねてきたのであった。

 

 カルサー谷のアジトはその日も厳として揺るがず、そこにあった。だが、そのアジトは今、恐慌状態に陥っていた。恐慌といっても、決して取り乱したような空気ではなかった。右往左往する者もいなければ、絶望の言葉を叫び散らすものもいなかった。しかし、確かにアジトのイーガ団員たちは平静を失っていた。

 

 彼らは食料箱を開き、その中身を確認し、また蓋を閉じるということを十分おきに繰り返していた。彼らは一縷(いちる)の希望を持って貯蔵庫に行き、そこに相変わらず何もないのを認め、「ああやっぱり」という諦めの気持ちと、「まだなのか」という憤りの気持ちとが相半ばした溜息をつく、そのような行為を飽きることなく続けた。アジトの日常の業務は停滞しつつあった。無気力感と、それに矛盾するかのような焦燥感が、団員たちの精神を蝕んでいた。

 

 実際のところ、食糧ならばあった。塩漬けにされた肉、乾燥野菜、ゲルド高地から収穫してきた野生の果物、各地から収奪してきた穀物、パン、飼育している家畜から得られるバター、ミルク……それらを食べている限り、彼らの肉体は健康を保ったままでいられるはずだった。

 

 だが……バナナがない! そう、バナナがないのだ!

 

 すべては、バナナがないことが原因だった。アジトのバナナはすでに枯渇しつつあった。食糧ならば潤沢にある。しかし、バナナがないのだ。言うまでもなくイーガ団員にとってバナナは紛れもなく食糧以上のものであった。バナナは彼らの精神を満たすものであり、彼らの活力と気力とを生み出すものであった。バナナは彼らの信仰の対象であり、より正確に言うならば、信仰そのものであった。

 

 ゾーラ族にとって水のない生活が考えられないものであるのと同様に、イーガ団にとってバナナのない生活は考えられないものであった。彼らは窒息しつつあった。彼らは、バナナが豊富だった頃を懐かしく思い出すようになっていた。ほんの一週間前まではそうだった。あの頃に食べたバナナ、飽きるほどに食べたバナナ、ただなんとなく習慣にしたがって、ろくに味わいもせずに食べたバナナ、そのいずれもが彼らの前に幻影として現れ、粗略な食べ方をしたことを無言で詰問するようになっていた。

 

 それでも、豊かな者というのはいつでも存在する。欠乏の海のただなかに、豊饒(ほうじょう)の島が浮かんでいる。漂流者が荒波に呑まれ、もがいているその最中にも、豊饒の島の住民はのびやかな気持ちで食卓を囲み、音楽に興じ、荒れる海を眺めてその様子を詩として詠んでいる。

 

 それは、支配者が本来的に有する特権である。いや、それは特権であること以上に、義務ですらある。なぜなら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 イーガ団総長であるコーガ様は、恐慌状態に陥ったアジトにおいても、相も変わらず義務を遂行していた。だが、いかに力量に優れた人物であっても、義務を果たすには誰かの補佐を必要とする。かくして支配者の周囲に支配層が形成される。

 

 そしてその層の筆頭が、上級幹部の一人であるウカミであった。そのウカミの周囲にもまた、層が形成されていた。その層には、ウカミの側近であるサミと、近頃ウカミに目をかけられているノチが含まれていた。

 

 それはちょうど、バナーヌとテッポ、モモンジの三人たちが街道の結節点でイワロックら魔物と交戦している時だった。ハイラル世界の西に位置するカルサー谷は、早くも夜を迎えていた。朝から砂漠一帯に吹き続けた砂嵐は未だに収まっていなかった。アジトの高台からは、カルサー谷の入口付近に砂の塊が滞留している様子がよく見えた。

 

 闇の中に、三人が浮かぶように立っていた。その中でひときわ優美な影を持つ者が、長い黒髪を夜風に靡かせていた。その人、ウカミが言った。

 

「砂漠が砂嵐に見舞われている時、この谷の空は澄んでいる。ごらんなさい、サミ、ノチ。星が綺麗だわ。よく輝いている。まるで私たちに何かを物語ろうとしているみたい」

 

 ウカミは、黒の布地に金糸でバナナの模様が刺繍された上掛けを羽織っていた。上掛けは絹製であった。彼女は、自身の背後で控える二人の少女に向かって、指で夜空を示した。早々と訪れた夜の大気は澄み渡っており、無数の恒星の瞬きを余すところなく伝えていた。ウカミは、また言った。

 

「ねえ、星々はどんな物語を聞かせてくれるのかしら。サミ、あなたはどう思う?」

 

 サミが静かに口を開いた。

 

「私には天文学の知識はありませんので、残念ながらウカミ様のお気に召す話はできかねますが……」

 

 ウカミは笑った。彼女は、サミがそのような返答をするのを予想していたようだった。

 

「本当にサミは真面目ねぇ。こういうのは知識の問題ではないのよ。想像するだけで良いの。想像して、それを言葉に乗せて物語にする。それは知恵のある生き物にだけ許された特権よ。じゃあ、サミじゃなくて、ノチ。あなたはどうかしら?」

 

 後方で息を潜めるようにして立っていたノチは、唐突な問いかけに対して奇妙に裏返った声を返した。

 

「ひゃいっ!?」

 

 この数日においてウカミと多くの時間を過ごしてきたノチは、一般に言われているほどにはこの上級幹部が冷酷ではなく、むしろ優しさと愛情に溢れた人であると思うようになっていたが、それでも問いに対しては緊張を禁じ得ないのであった。

 

 ノチはさらに言葉を続けようとした。何か言わなければならない。しかし、彼女の意志に反して、言葉は明確な形を纏わなかった。

 

「あの、その……えっと……星は、その……あの……」

 

 ノチの言葉にならない言葉を聞いて、ウカミは笑った。妖艶な笑みであったが、それには親しみの念も込められていた。

 

「あらあら。ノチ、ちょっと落ち着いて。ほら、そこにあるものでも食べて、気分を落ち着かせなさいな」

 

 ウカミはノチに木の台を示した。無数の札がベタベタと貼られた台には、夜闇の中でも黄金に輝く果実が山積みにされていた。それはバナナだった。ノチは激しい勢いで首を左右に振った。

 

「そ、それはいけません! 私がバナナをいただくなんて……」

 

 (ひら)の団員、アジトの最底辺、ただの小間使いである自分が、今アジトにおいて最も貴重なものとなっているバナナを食べるわけにはいかない。私もみんなと同じように、この窮乏に耐えるべきだ。ノチはそう思い、恐懼した。

 

 そんなノチに対して、サミが咎めるように言った。

 

「食べなさい、ノチ。ウカミ様の(おぼ)()しです」

 

 ウカミも微笑みつつノチに言った。

 

「いいのよ、ノチ。あなたはいつもたくさんお仕事をしているもの。これは私からあなたにあげるご褒美よ。他の団員に気兼ねする必要なんてないわ。さあ、たくさん召し上がれ」

 

 それでも少しだけ、ノチは迷った。ウカミの顔とバナナとの間で、幾度か視線が往復した。やがて彼女は決心したかのように、大きな声で言った。

 

「それでは、いただきます!」

 

 ノチはバナナの房を手に取ると一本を千切り、丁寧に皮を剥いて食べ始めた。ノチの食べ方は控えめで、穏やかだった。

 

 可愛らしい咀嚼音が薄闇の中で響いた。ノチはほどなくしてバナナを食べ終えた。脳が痺れるような甘さと美味さだった。バナナはやはり、ノチにとっても食べ物以上の何かであった。そんなノチを目を細めて眺めつつ、ウカミはさらに言った。

 

「一本だけじゃ足りないでしょう。もっと食べなさいな。ほらほら、もっともっと」

 

 ノチは答えた。

 

「は、はいっ!」

 

 ノチはさらにバナナを食べ始めた。今さら彼女に拒否などできるわけがなかった。ノチは今や、このアジトでは総長のコーガ様だけに許されている「バナナだけで腹を満たす」という贅沢に溺れていた。

 

 ウカミはサミに言った。

 

「サミ、あなたも食べなさいな。ノチだって一緒に食べる人がいないと寂しいでしょう」

 

 サミは答えた。

 

「ははっ」

 

 サミもバナナに手を伸ばして食べ始めた。ノチは懸命な表情を浮かべ、その一方でサミは涼しい顔をしていたが、ともかくも二人はバナナを食べ続けた。台の上のバナナはなかなか減らなかった。二人はその時、間違いなく豊饒の島にいた。

 

 やがてノチは満腹になった。血糖値が急上昇し、彼女の頭脳をぼんやりとさせた。だがそれ以上に彼女は、ウカミから許されたとはいえ、本来自分が許されていない贅沢に手を染めてしまったという事実にショックを受けていた。バナナを二十本は食べてしまった。ニ十本! 信じられない量だ。他の団員は、黒ずんで腐りかけたバナナを日に一本でも食べられれば良いほうなのに。それは罪の意識だった。彼女はその場に立っていたが、足元はふらついていた。

 

 ウカミはノチを見て満足そうに頷いた。

 

「お腹いっぱいになったみたいね。良かったわ」

 

 彼女は音もなくノチに近づくと、その小さな体を両腕で優しく抱え上げて、地面に敷かれた畳に横たわらせた。畳はサミが用意したものであった。ウカミもまた畳に腰をおろし、膝の上にノチの頭を乗せた。

 

 ノチの頭を撫で始めたウカミは、子守唄を歌うように言った。

 

「眠りなさい、眠りなさい……バナナの(いと)し子、かわいい子。夢のお空は青い空。お空にバナナが浮かんでる、たくさんバナナが浮かんでる……」

 

 ウカミは温かく、柔らかかった。良い香りがした。ノチはすでに半ば眠りに落ちていたが、それでも団員としての義務感からウカミに対して返事をしようとした。

 

「ウカミ様……」

 

 ここで眠るわけにはいかない。彼女は懸命に(あらが)った。そんな彼女にウカミはほんの少しだけ眉を寄せてから言った。

 

「眠りなさい、眠りなさい……良いのよ、ノチ。眠りなさい。とってもかわいい子。さあ、私に体を預けて。星もあなたに言っているわ。眠りなさい、眠りなさいって……」

 

 ほどなくして、穏やかな寝息が聞こえてきた。ノチは豊かな気持ちと共に、あっけなく眠りの世界へ落ちてしまった。

 

 ウカミとサミはしばらくそれに耳を傾けた。サミは少しだけノチのことを見直していた。大人しく、ひ弱で、チュチュほどの力も持たないのに、ウカミ様の膝の上で眠ることができるとは。この娘は見かけによらず、豪胆なところがあるのかもしれない……少なくとも、自分にはできないことだ。

 

 サミがそんなことを考えている間に、ウカミは自分が羽織っていた上掛けをノチの体にかけていた。そして音もなく立ち上がると、ウカミはしばし星空を眺めた。彼女は口を開いた。

 

「星々はなんでも知っているわ。過去に偉大なる人々が存在したこと。今、偉大なる人々が生きていること。そして将来、偉大なる人々が生まれるであろうこと。星々は時の監視者。その(きら)めきの一瞬に、膨大な記憶を(たた)えている……」

 

 その場を風が吹き抜けた。夜の風は冷たく、刺すようだった。サミはウカミに言った。

 

「フィローネ支部からのバナナ輸送が遅れています。皆、バナナの欠乏で禁断症状に陥っています。このままではアジトは自滅することになります。いかがでしょうか、ゲルド高地の秘密貯蔵庫を開放して、緊急の備蓄を放出するというのは……」

 

 その秘密貯蔵庫にはバナナが大量に蓄えられていた。ただし、すべてが冷凍されていた。味としては生のものよりも数段劣るが、禁断症状は緩和できるはずだった。

 

 サミの言葉に対して、ウカミはなんら反応を見せなかった。ウカミは風に(うぞぶ)くように言った。

 

「……でも、星々ですら知らないことがあるわ。星々は偉大な人も、偉大ではない人も知っている。でも、知っているのはその行為と結果だけ。()()()()()()()()()()()()()。偉大な人は、本当に偉大だったのかしら? 偉大な人は、本当に偉大なことだけを考えていたのかしら。その心はまったく偉大ではなかったのに、たまたま偉大なことができたから、偉大な人として記憶されているだけなんじゃないかしら」

 

 サミは何も言わなかった。彼女は頭脳を働かせて、自分の主が何を言わんとしているのかを察そうとしていた。ウカミはさらに言った。

 

「偉大ではなかった人も、本当は偉大なことを考えていたのかもしれない。その行為と結果は偉大ではなかったかもしれないけど、その心は偉大だったのかもしれない。星々は時の監視者。その煌めきの一瞬に、膨大な記憶を湛えている……でも、人の心までは知らないのよ」

 

 サミは口を開いた。

 

「しかし、ウカミ様はご存じであるはずです。ウカミ様はコーガ様と共に、我がイーガ団の支配を司っておられます。そうであるならば当然、私たち団員の心もウカミ様はご存じのはず……」

 

 ウカミは笑ってその言葉を打ち消した。

 

「いいえサミ。私も心までは知らないのよ。心そのものは誰にも分からない。そう、その心の持ち主でさえ、それがどんなものであるのかは知らない。私が知っているのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それだけなの。私は、その人が本当に偉大な心を持っているか分からない。でも、偉大なことをするようにさせることはできるわ。そして、もちろんその逆もできる。私にとっては、それで充分なの」

 

 その言葉を聞いて、サミはようやくウカミの真意の一端を知った気がした。おそらく、この方はあの二人について考えているに違いない。隠密をこととするイーガ団の中でも特に隠密といえるあの二人について、今この方は言っているのではないか。

 

 イーガ団にとってはまったく偉大なこととは言えない任務に、今あの二人は従事している。あの二人は何を思っているのか? どんな心でいるのか? それは分からない。確かなことは、今もあの二人が、フィローネ支部からの輸送馬車を妨害していることだけだ。

 

 だが、それだけだろうか? サミは考え込んだ。なぜ、ウカミ様はあえてバナナの到着を遅らせるようなことをするのだろうか?

 

 それも、心と関わっているのだろうか?

 

 サミの横で、ウカミが言った。

 

「支配の要諦とは、心をどう動かすかにあるわ。でも、物や金が心を動かすのではない。心を動かすのは、豊かさという感覚なの。満たされているという気持ちは人の心を豊かにして、同時に愚かなものにするわ。豊かさによって、かたくなな心も他愛のない、可愛らしい愚かさへと傾いていく。その(おろ)かさは、支配する者にとってどこまでも都合が良い」

 

 ウカミは畳の上で眠り込んでいるノチへ視線を注いでいた。そして、彼女はまた言葉を続けた。

 

「そして、豊かさ以上に、欠乏という感覚は心を支配する。これが肝心なことよ」

 

 サミははっとしてウカミの顔を見た。

 

「それではウカミ様は……」

 

 そのように言おうとしたサミの口に、ウカミはそっと人差し指を当てた。

 

「賢い子ね。そうよ、そのとおり。与えることしか知らない支配者に、支配者を名乗る資格はないわ。欠乏を知らずして、欠乏を与えずして、真に支配をすることはできない……」

 

 その後も二人は星々を眺めていた。何も知らない星々は、傲慢にも輝き続けていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 バナーヌは走った。大地を揺らす巨大なイワロックを相手にして、テッポとモモンジが戦っている音が後ろから響いてきた。彼女はほんの少しだけ不安を覚えた。あの二人だけでイワロックという難敵を退けることができるだろうか? 不安はほんの数秒しか残存しなかった。できる。あの二人ならば問題はないだろう。

 

 今、自分がなすべきことは、あのボコマスクの敵を倒すことだ。バナーヌは走りつつ、これから相手にしなければならない敵について考えていた。前方に高い旗竿が立っており、破れて半ば朽ちた旗がはためいていた。そのてっぺんに、敵が立っていた。敵は駆け寄ってくるバナーヌに目を向けていた。残光によって実体と影が混ざり、その様子をはっきりと見ることはできなかったが、バナーヌは敵から意識を注がれているのを感じていた。

 

 旗竿の下に辿り着くと、バナーヌは流れるような手つきで二連弓を取り出し、矢をつがえて敵に向けて発射した。敵は、その動きを読んでいたようだった。敵は旗竿の頂点から跳び、木の葉が宙を舞うように回転すると、音も立てずに着地した。敵は宿場町跡地の中へ逃げ込んでいった。

 

 いや、逃げたわけではあるまい。バナーヌは考えた。あれは、明らかにこちらを誘っているのだ。その誘いに乗るべきだろうか? こちらとしては行くしかないだろう。放置しておけば、また車列に妨害を加えられるのは明白だ。敵は、どういう手段に依ったのかは分からないが、イワロックまで持ち出してきた。次は何を連れてくるのか分かったものではない。なんとしてもこの場で倒さなければならない。これまで姿を見せなかった敵が、今は戦いを挑んできている。これは紛れもないチャンスなのだ。逃す手はない。

 

 それに、あのマスクの下にある顔が自分の予想しているものと同じであるかどうか、確かめたい。バナーヌはそう思った。

 

 それでも、バナーヌには懸念があった。目の前には宿場町跡地の廃墟が広がっていた。崩れて天井が抜けた建物は、まるで骸骨のようだった。いや、見ようによってはこの宿場町跡地自体がひとつの大きな骸骨であった。おそらく敵はこの骸骨の中に予め数多くの罠を仕込んでいることだろう。その罠に踏み込んでいかねばならない。

 

 バナーヌは嫌な気持ちになった。罠そのものは大した脅威ではない。自分ならば問題なく突破できる。そうではなくて、彼女は敵の意図に乗せられているのが嫌だった。誰かに誘導されているのが分かっており、しかもその誘導に従わなければならない。それは彼女がもっとも嫌うことのひとつだった。

 

 それでも、行かねばならない。バナーヌは宿場町跡地へ踏み込んだ。そこここで瓦礫が積み重なっており、暗がりには蜘蛛の巣の残骸が分厚く堆積していた。半ば植物と一体化した寝台と寝具が、差し込んでくる夕陽によって奇妙な色合いを醸し出していた。あまり愉快な絵面ではなかった。

 

 バナーヌは敵の気配を探った。気配はどこにも感じられなかったが、それが却って敵が存在することを強力に暗示していた。バナーヌはひとつの建物を抜けるとそれに隣接する建物に入り、それを繰り返して、ひと棟ずつ丁寧に、素早くクリアリングしていった。

 

 珍しく天井の残っている建物に入ったその時、ふと、目の前に何かが落ちているのにバナーヌは気が付いた。思わず彼女の口から声が漏れた。

 

「ウホッ」

 

 それは黄金に輝いていた。それはしなやかで美しい曲線を持っており、芳醇な香りを空間に振りまいていた。バナナだ。見間違えるはずがない。バナーヌはバナナにふらふらとした、しかしどこかおどけたような足取りで近づいていった。

 

 バナナに抗うことができるイーガ団員など存在しない。バナーヌはバナナを拾い上げて、丁寧に皮を剥いて食べ始めた。彼女の食べ方は控えめで、穏やかだった。

 

 瞬く間に一本を食べ終えると、またその目の前にバナナが落ちていた。それを見たバナーヌの口から、また声が漏れた。

 

「ウホッ」

 

 バナーヌはまたバナナに近づいた。バナナは広い客室の中央に置かれていた。彼女の意識の九割(がた)はバナナに向けられていたが、残りの一割は「これは間違いなく罠だ」と彼女に告げていた。それでも彼女はバナナに吸い寄せられてしまった。彼女はバナナを拾うと手に取り、その黄色い皮を剥こうとした。

 

 その瞬間、轟音を立てて天井が落ちた。巨大な石材が雨のようになってバナーヌに降り注いだ。濛々たる土煙が巻き起こり、石材が乱雑に積み重なった。

 

 それでもバナーヌはまったく無事だった。彼女の腕には茶色のパワーブレスレットが嵌められていた。それが怪力を発揮し、落下してくる巨大な質量を難なく受け止めさせたのであった。彼女は頭上に抱えている石材を放り投げると、軽く跳んで廃墟の上に立った。

 

 彼女は激怒していた。バナナを食べるのを邪魔された! まことに許しがたい行為である。バナナを罠に使うのは、まだ良い。それは理解できる。バナナはまさに罠の材料としては最適だからだ。しかし、バナナを食べるのを中断させるのは言語道断である。なぜ、こちらがバナナを見つけた直後に天井を落下させなかったのか? あるいは、せめてこちらがバナナを食べ終えてからそうすべきである。今まさに食べようとしているその瞬間を狙ったのは許せない。高まる敵愾心を視線に込めて、彼女は周囲を見回した。

 

 敵はそこにいた。隣の建物の上に立っていた。今度は敵の姿がよく見えた。敵はボコマスクを被っており、シーカー族の忍び装束を身に纏っていた。その腰には鞘に収められた長大な野太刀がさげられていた。敵はマスク越しにバナーヌの行動をじっと観察していた。

 

 もしかすると敵は、自分がパワーブレスレットを用いて罠を破ることを予測していたのではないか? バナーヌはそう感じた。どうにも、今までの敵とは勝手が違うようだった。

 

 しかし、敵はもう手の届くところにいる。バナーヌは大きく跳んで敵へと向かった。敵もバナーヌとほぼ同時に跳び、廃墟から地面へと降りて、さらに奥へと駆けていった。バナーヌは後を追った。二人は影となった。

 

 やがて二つの影は広場に達した。そこには噴水があった。当然のことながら、噴水は機能を停止していた。バナーヌは噴水を挟むようにして敵と対峙した。

 

 睨み合いは一分も続かなかった。先に動いたのは敵の方だった。敵はマスクの下に両手の人差し指を差し込むと、鋭い指笛を一声(ひとこえ)発した。それは魔物を呼ぶための笛だった。数秒も経たずして、廃墟のあちこちから魔物たちが姿を現した。魔物は主にボコブリンだった。赤ボコブリンが大半で、青ボコブリンが数体混ざっていた。

 

 体力と戦闘力に優れた黒ボコブリンがいないのは幸いだったが、いかんせん数が多かった。魔物は叫び声をあげて四方から群がり寄ってきた。バナーヌは包囲されないように走った。魔物たちが手に持っている得物(えもの)が、沈みかけている日の光を浴びて鈍く輝いた。錆びた剣、錆びた槍、旅人の剣、兵士の槍、木のモップ……

 

 魔物たちはちゃちな武器しか持っていなかった。それがバナーヌの戦意を高めた。こんな敵にやられてたまるか! 彼女は自分の持っている不思議アイテムに頼ることにした。

 

 彼女はポーチへと手を伸ばそうとした。その時、(ふところ)に何か硬いものが入っていることに彼女は気が付いた。

 

 あれ、なんだったっけ、これ? ほんの半秒だけ彼女は考えた。やがて、それが何であるか彼女は思い至った。ああ、これはハイリア大橋の上で手に入れた「何かの(うろこ)」だ。ひんやりとしていて、それでいて熱を帯びているような不思議な感触がする。それが彼女の大きな胸部に貼り付くようにしてそこに存在していた。

 

 だが今は、こんなものは何の役にも立たない。彼女は頭を軽く振った。魔物たちは目の前に迫ってきている。再度意識を集中すると、バナーヌはポーチから不思議アイテムを取り出した。それは疾風のブーメランだった。バナーヌは狙いをつけると、それを手から放った。猛烈な突風を引き連れて、薄緑を纏った白いブーメランは敵の群れを()いだ。

 

 その勢いは凄まじかった。魔物たちの手から武器が飛び、音を立てて落ちた。敵は目を回していた。バナーヌは戻ってきたブーメランをキャッチすると、今度は腰の首刈り刀を抜き、敵に対して斬りかかった。わずか十秒ほどの間に、敵は脆くも全滅した。

 

 敵を処理している間にも、バナーヌはずっとその脳内に疑問符を浮かべたままだった。なぜ、あの敵はかかってこないのか? 自分を討つならば、魔物共を相手している今が絶好のチャンスのはずである。しかし、敵は来ない。またもや、バナーヌは先ほどと同様のことを感じていた。もしかすると、()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()() 先ほどのパワーブレスレットと同じく、()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その意図は分からなかった。どうしてそのようなことをする必要があるのか? まるで敵はこちらを倒そうとしているのではなく、むしろ情報を引き出そうとしているようだ……そこまで考えたバナーヌであったが、彼女は考えを打ち切った。

 

「ウホッ」

 

 彼女の目の前に、またもやバナナが落ちていた。バナナは建物の(かど)に落ちていた。バナナは淡い光に包まれていて幻想的な雰囲気を放っていたが、同時に強い存在感をも示していた。

 

 間違いなく、罠だ。バナーヌも愚かではなかった。思わず「ウホッ」と言ってしまったが、もう騙されない。彼女は慎重にそこへ近づいていった。もしまたバナナを手に取ったら、その時こそ敵はきっと、何か決定的な態度を示すであろう。

 

 あの建物の角の向こうに、敵が待ち伏せしている。バナーヌはそう直感していた。だからこそ、彼女はあえてそれに乗ることにした。彼女は「ウホホッ」と声を上げて、バナナに近づき、角から身を出してそれを拾おうとした。決してバナナが食べたいわけではない。決して。これは誘ってくる敵を逆に誘い返すためにやっているのだ。

 

 そう考えつつ、バナーヌが身を屈めようとしたその瞬間だった。

 

 何かが空気を切り裂く音を立てて飛来した。それは一筋の矢だった。矢はバナーヌの豊かに膨らんだ胸に直撃し、突き刺さった。

 

 やられた、とバナーヌは思った。まさか、あえて弓矢を使ってくるとは思わなかった。てっきり、(かど)(かたな)を構えて待ち伏せしているものと思っていたのだ。その方が待ち伏せの効果があがるし、確実性も増すからだ。

 

 衝撃は強かった。バナーヌは姿勢を崩した。倒れながら、彼女は咄嗟に矢の飛んできた方向へと目をやっていた。そこには、あのボコマスクを被った敵が、シーカー族が好んで用いる「一心の弓」を手にして立っていた。距離は二十メートルほど離れていた。敵は、いわゆる「出待ち」の戦法をとったらしい。

 

 バナーヌは倒れた。矢の突き刺さった胸が、炎で焼かれているように熱かった。彼女は目を閉じ、呼吸を止めた。

 

 敵はしばらく、様子を窺っているようだった。やがて、胸部の動きからバナーヌの呼吸が停止していることを察すると、敵は近寄ってきた。どうやらトドメを刺そうとしているようだった。敵は鞘に収められた野太刀を引き抜いた。鋭利な刃が薄闇の中で輝いていた。敵はすり足で歩き、動かなくなったバナーヌの体にさらに近づいてきた。

 

 バナーヌの顔に敵の影が差した。バナーヌの顔からは血の気が失われており、ただでさえ白く美しい彼女の顔は今や透き通るほどになっていた。それが死を感じさせた。敵は野太刀を振りかぶった。そして、振り下ろす勢いで彼女の首を胴体から切断しようとした。

 

 突然、バナーヌが動いた。彼女はいつの間にか、手に疾風のブーメランを持っていた。刀が振り下ろされるその直前に、彼女はブーメランを放った。

 

 ブーメランは敵に直撃した。暴風が吹き荒れ、敵を苛んだ。しかし、敵は流石に魔物とは違った。敵はなかなか武器を手放さなかった。

 

 ブーメランはなおも敵の周りを飛び回った。やがて、風の圧力に抗しかねたのか、敵の手から野太刀が飛んだ。ほんの少しだけ、敵が戸惑うような気配を見せた。バナーヌはその隙を逃さなかった。胸に矢が突き刺さったままの彼女は敵の懐へ瞬時にして飛び込むと、右手に拳を作って、それをボコマスクに叩き込んだ。

 

 鈍い音が響いた。ボコマスクがある程度(こぶし)による打撃を吸収したようだった。それでも敵はよろめいた。バナーヌは間を置かずにさらなる拳を繰り出した。そのいずれもが敵に命中した。顔と腹部に多数の拳がめり込んだ。致命部に矢を受けたはずのバナーヌがそのような肉弾攻撃を行うことができたのは驚異的なことであった。

 

 実際のところは、まったく驚異的なことではなかった。バナーヌはいっさいダメージを受けていなかったからであった。矢は、彼女の胸を守るようにして貼り付いていた「何かの鱗」によって阻まれていた。

 

 いくら敵がこちらの不思議アイテムのことを知っていようとも、旅の途中で得たこの「何かの鱗」のことまでは知るまい。バナーヌの読みは的中した。そこに彼女が得意とする戦闘術のひとつ、「フリシ・ニ」を加えれば、結果は約束されたようなものだった。

 

 やろうと思えば首刈り刀を振るうこともできたバナーヌがあえて拳の打撃にこだわったのには、理由があった。彼女はまた疾風のブーメランを取り出すと、今度は敵のボコマスクに向かって投げた。敵はバナーヌの意図を察したようで、ブーメランが周りを飛び回る中、手でマスクを抑えようとしていた。それも無駄な努力に過ぎなかった。

 

 ブーメランがボコマスクを剥ぎ取った。

 

 その下から出てきた顔を見て、バナーヌは言った。

 

「……ウロ」

 

 一種の懐かしさと共に、彼女はその名前を口にしていた。

 

 その敵、ウロは、バナーヌを睨みつけていた。頬に走った一筋の刀傷(かたなきず)相俟(あいま)って、ウロは凄愴(せいそう)なまでの美しさを示していた。黒髪の長い(まげ)が夕方の風に揺れていた。

 

 しばらく、二人は無言で睨み合った。ウロには敵意があった。だが、バナーヌはもはや敵意を持っていなかった。

 

 彼女にはただ、疑問の念だけがあった。半ば予想はしていたとはいえ、なぜウロがここにいるのか? 最優秀団員の一人で、今は上級幹部の「隠密」として働いていると噂されているあのウロがなぜ、フィローネ支部からのバナナ輸送を妨害しているのか?

 

 バナーヌは声をかけようとして口を開きかけた。そして、口を閉じた。問いなど意味のないことだ、特にイーガ団の隠密に対しては。隠密とは、決して胸の内を明かさないものなのだ。たとえ肉を焼き、骨を溶かすような炎によって責められても、隠密は決して白状しない。岩石や植物を拷問にかけるようなものだ。それは無意味であり、無駄である。

 

 でも、なにか言ってやりたい。バナーヌはだんだんイライラし始めた。思えば、ここまで長い道のりだった。その道中に数々の困難があった。そのほとんどは、この目の前にいるウロがもたらしたものなのである。いや、決定的な証拠があるわけではないが、たぶん、きっとそうだ。

 

 おそらく、上層部には何らかの思惑があるのだろう。下っ端のバナーヌには思いもよらないような、そういう思惑が。ウロはその思惑を果たすために仕事をしている。そうに違いない。その立場はある程度理解できる。

 

 だが、それでも……なにか言ってやりたい。そして、できるならもう一発殴ってやりたい。こちらばかり物分かりが良くてたまるか。

 

 そうだ、ぶん殴ってやる。

 

 バナーヌがそう考え、ついになにか言ってやろうと口を開きかけたその瞬間、ウロの方が言葉を発した。

 

「パシリのバナーヌ。お前は私に勝った」

 

 バナーヌは少しばかり目を見開いた。それは意外な言葉だった。バナーヌは思わず声を上げた。

 

「おい、訂正しろ。私はパシリじゃ……」

 

 バナーヌの言葉が終わるのを待たず、ウロはさらに言った。

 

「だが、お前は私の心までは知るまい。私の心を知っているのは、ただ一人のお(かた)だけだ。言っておくが、私はここで敗北しなければならなかったのだ。私は今、ひとつの任務を終えた。だが、お前の任務はまだ終わらない」

 

 隠密にしてはずいぶんとよく喋るな、とバナーヌは思った。おそらく、ここで自分に対して素顔を晒して何かを言うこともウロの任務のひとつなのだろう。そう思っている間にも、ウロはまだ話し続けた。

 

「お前は不幸だ。お前の任務はいつまでも終わらない。これからも私はお前を見ているぞ」

 

 その口ぶりから、ウロがこの場から去ろうとしているのがバナーヌには感じられた。彼女は言った。

 

「待て、消える前に一発殴らせろ」

 

 突如、軽い爆発音が起こり、閃光があたりに満ちた。バナーヌの視界は煙幕によって閉ざされた。

 

 煙が晴れ始めたその時にはもう、ウロの姿は消えていた。

 

 バナーヌは胸に突き刺さったままだった矢を引き抜くと、それをまだ残っている煙に投げつけた。彼女は歩き始めた。

 

 私の心までは知るまい、だって? 彼女は歩きながらそう考えた。

 

 知ってたまるか。どうせろくなもんじゃない!

 

 車列からはいまだに戦闘騒音が響いていた。彼女は足を早めた。




 これにて第五章はおしまいです。次章で第一部が終わります。なんとかここまでこぎつけました……ちなみに「ウロ」という名前は仏教用語の「有漏」(うろう)からとっています。

※加筆修正しました。(2023/05/24/水)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。