ゼルダの外伝 バナナ・リパブリック   作:ほいれんで・くー

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第五十四話 もし私が億万長者になったら……

 いまさら言うまでもないことであるが、ルピーには魔力がある。それはファイアロッドやアイスロッドといった魔法的なアイテムのそれと同等同質ではないにしても、やはりある種の魔力を有していると言ってよい。それは、「ありとあらゆるものと交換をすることができる」という魔力である。どのように珍奇で希少な魔法アイテムであっても、ルピーが有するこの魔力だけは発揮することはできない。このハイラルにおいて最もありふれているが、しかし稀有な能力を持つ魔法アイテム、それがルピーであると言えるのかもしれない。

 

 十ルピーあれば一食分の食べ物を得ることができる。二十ルピーあれば馬宿のベッドで一泊することができる。百二十ルピーあれば旅装として用いることのできる、新品のハイリアの服を手に入れられる。三千ルピーもあれば田舎の一軒家を所有することも可能である。大厄災によって既存の秩序が崩壊した後の世界においても、ルピーはかくほどまでに強大な魔力を保持し続けている。

 

 このルピーの魔力に魅せられ、破滅した者たちの話はハイラルの歴史においてそれこそ枚挙にいとまがない。そうであるからこそ、神殿の神官たちや賢者たち、あるいは説話作家たちは、ルピーへの欲望を戒める教訓話を営々と、無数に作り上げてきた。

 

 ハイラルにおける説話文学作家の代表者であるニーズッキもまた例に漏れず、ルピーに関する数多くの話を書き残している。そのひとつとして有名なのは「スタルチュラハウスの一家」の話である。

 

 その一家は長年に渡って困窮した生活を余儀なくされていた。一家の主は人一倍ルピーに対する欲望が深かった。しかしながら、彼がルピーを得んとして欲望を募らせれば募らせるほどに、ルピーは彼からますます離れていった。どういうわけかは分からないが、彼は完全にルピーから見放されていた。彼は村で一番の貧乏人と蔑まれていた。どんなに懸命に働いても、彼は決して彼の家族の空腹を満たすことはできなかった。

 

 ある日のこと、彼はついうっかり、せっかく得たルピーを村の井戸に落としてしまった。井戸は深く、暗く、満々と水を(たた)えていた。貴重な稼ぎの詰まった袋は今や井戸の底にある。どうしても諦めきれなかった彼は、何度も釣瓶(つるべ)を水へと落とし、何回もそれを上げてルピーを回収しようとした。しかし、すべては無駄だった。何度やっても桶の中には水しかなかった。ついに彼も諦めて井戸から去ろうとした。

 

 その時、暗く低い声で彼に話しかける者がいた。それは井戸の底に潜んでいる悪霊であった。悪霊は彼に囁きかけた。ルピーが欲しいか? 彼はその声の邪悪な響きに(おのの)きつつも、そうだと答えた。悪霊は彼に取引を持ちかけた。お前がルピーを得るには、二つの選択肢がある。ひとつは、お前が先ほど井戸に落としたルピーを私から受け取ることである。そのルピーはお前の働きと労苦によって得た正当なものである。そのルピーはお前を幸せにはしないだろうが、これ以上不幸にもしないだろう。

 

 ふたつめは、お前が先ほど落としたルピーを私に払うことで、私からある秘法を得ることである。その秘法は、支払った以上のルピーをお前にもたらすであろう。使いきれないほどのルピー、貧乏を忘れるほどのルピー、一匹の貧乏人、この地上を這いずり回るだけの卑しいお前を、この世の支配者以上に強大にすることができるルピー、それほどまでに莫大なルピーを秘法によって得ることができる。どちらを選ぶか?

 

 悪霊が提示した二つの選択肢を前にして、彼は一瞬も迷わなかった。彼はルピーを悪霊に支払って秘法を(あがな)った。悪霊は彼に言った。毎日、天と地の光と影が溶け合う、太陽が沈む頃に、クモを一匹見つけて殺せ。殺す時は必ずその脚を一本ずつ、左上から左下へ、次に右上から右下へもぎ取り、最後に火で顔を焼き潰せ。殺したクモの死骸を、お前の家の中心部、その床下に埋めよ。そうすれば、お前はルピーを得ることができる。

 

 悪霊は彼に秘法を伝えると、また井戸の底へと戻っていった。彼は白昼夢でも見ていたかのようにぼんやりとしていた。折しも、その時まさに日が沈もうとしていた。我に返った彼はクモを探し、言われたとおりに脚をもぎ、火で顔を焼き潰し、家の床下に埋めた。

 

 その次の日から、彼と彼の一家の生活は文字通り一変した。彼には大量のルピーがもたらされるようになった。日雇い人として畑の雑草取りをすれば地面に埋まった金のルピーを見つけ、どぶを(さら)えば泥に埋もれた銀のルピーを見つけた。雇われの羊飼いとして野に出た時は地面に開いた穴に落ち、中にいた隠者の老人から「ナイショダヨ」と言われて三百ルピーを渡された。彼が何をしても、たとえどんなにくだらなくてつまらないことをしても、まるでその報酬であるかのように必ずルピーが得られた。

 

 彼の一家は一年も経たないうちに村一番の大金持ちになった。彼は村で最も重んじられ、そして怖れられる人物となった。彼に借金を申し込む者は後を絶たなかった。それまで彼を蔑み、ほとんど無視をしていた者たちが、友人になるべく腰を低くして彼の家へとやってきた。彼はルピーを貸してやった。友人になりたいと申し出てくる者を拒まなかった。彼はルピーを大いに使ったが、ルピーは決してなくなることがなかった。むしろ、彼の資産は増え続けた。三度人生をやり直しても決して使い切ることができないほどに、彼の財産は膨らんでいた。

 

 そんな生活が三年ほど続いた。ある日の黄昏時、彼はいつもどおりに一匹のクモを見つけ、それを殺そうとした。それはちょうど一千匹目のクモだった。そのクモはそれまでのクモとは異なっていた。そのクモは二回り以上も大きく、黄金の外殻を身に纏っていた。外殻は人間の髑髏(スタル)にそっくりだった。目の部分が怪しげな赤い光を発していた。

 

 黄金のクモは彼に言った。我はスタルチュラ(クモ)、黄金のスタルチュラである。お前はこれまでに九百九十九匹の我が同胞を殺した。そしてお前は莫大な富を得た。その所業はまことに許しがたいが、あえて許しがたいものを許すというのが我が種族の教えであり、掟である。お前には今、二つの選択肢がある。ひとつは我を殺さずに見逃し、そして今後もクモを殺さぬことである。お前は富を失うであろうが、命はまっとうすることができるであろう。

 

 もうひとつは、ここで我を殺すことである。我を殺せば、お前の富は今後いかなる災厄が世界を襲おうとも盤石なものであり続けるが、お前とお前の家族はみな我が一族の呪いを受け、人間としての生命をまっとうすることはできなくなる。

 

 どうするのか? 人間としての生命をとるのか? それともルピーをとるのか?

 

 彼はふたつめの選択肢を選んだ。彼にとって、もはやルピーは生命以上に捨てがたいものとなっていたからである。彼は黄金のスタルチュラの脚をもぎ、顔を焼き潰した。その夜、彼と彼の一家は巨大なクモへと変身した。一夜にして、彼と彼の一家はハイラルにおいて最も富貴な存在から最も呪われた存在となった。

 

 彼らは未来永劫にわたってクモとして生きなければならなくなった。それまで引きも切らずに人が訪れていた屋敷には誰も来なくなり、いつしか「スタルチュラハウス」として怖れられるようになった。

 

 結局、彼と彼の家族は救われた。かの伝説の勇者が百匹の黄金のスタルチュラを討伐して彼の一家にかけられた呪いを解いたからである。彼は返報として勇者に大量のルピーを贈った。それは魔王討伐の一助となった。

 

 ニーズッキは、物語の最後に以下のような言葉を書き添えている。

 

「まことに神々の叡智は偉大なものがあり、それは人智の及ぶところではない。すべては神々の御計画であったのだ。神々は井戸の悪霊をして彼に働きかけさせ、彼は呪いを受けつつもルピーを蓄えた。勇者は呪いを解くという功業を成し遂げ、魔王討伐のために必要な実力とルピーを得た。だが、神々の叡智の前にあっては、ルピーの力などどれほどのことがあろう。ルピーを追い求めることは愚かであるが、その愚かさすらも神々の御計画に含まれているのである」

 

 だが、ハイリア人の文筆家にして警世家であるギリトーソーは、『随想』において、ニーズッキのこの話を評して皮肉交じりにこう述べている。

 

「なるほど神々の叡智はまことに偉大なものがある。ただしそれは、うんざりするほどに迂遠で、まどろっこしく、回りくどい」

 

 ニーズッキは他に、「城下町のジョバンニ」という説話作品も残している。

 

 城下町のジョバンニは商人の家の一人息子として生まれ、何不自由なく育った。彼は善良な性格をしていたが、知力と思慮に乏しく、欲望にすぐ負けた。また、その容貌は優れたものではなく、人間というよりはボコブリンに近い姿形をしていた。それはまったく彼の責任ではなかったが、人々は彼を蔑んだ。

 

 両親が亡くなると、若い彼は財産のすべてを相続した。動産、不動産を含めて、相続した財産は一億ルピーにもなる莫大なものであった。だが、それは次第に減っていった。というのは、彼は友人たちに対していつも大盤振る舞いをしていたからである。彼は自らの容貌の醜さを知っており、そんな自分が友情を繋ぎとめるためにはルピーの力に頼らざるを得ないと信じ込んでいた。友人たちは彼に代わるような形で、彼の財産のほとんどを蕩尽した。

 

 十年近くが経過した。若さと共に、ジョバンニの財産も消え失せていた。この時になってジョバンニは初めて恋をした。彼にとってその女性は人生の伴侶として迎えるのに充分な魅力を持っているように感じられた。彼は熱烈に好意を寄せた。女はジョバンニの好意を受け入れた。彼らは恋人同士となったが、女はジョバンニに対して事あるごとにルピーを要求した。女は未だにジョバンニが城下町でも有数の資産家だと信じていたからである。

 

 ジョバンニは女のためにわずかに残っていた財産をすべて使い果たした。のみならず、彼は借金を重ねた。彼は自分の邸宅すらも抵当に入れた。返済の期日が迫り、いよいよ明日には家を出なければならなくなったその夜、困り果てた彼のもとに六十人の悪魔が訪れた。悪魔たちはルピーを司る者たちであった。ルピーの悪魔たちはジョバンニに対して、魂を売ればそれに見合っただけの財宝を与えると約束した。彼は悪魔に魂を売った。

 

 悪魔たちは彼の家を金貨と宝石で満たすと、彼の肉体から魂を引き抜き、大鎌を振るって六十個に分割した。魂を失った彼の体は、黄金の人形へと変じた。彼はルピーと引き換えにして、人間としての生命を失ったのであった。

 

 彼もまた伝説の勇者によって呪いを解かれたが、彼の愛した女性はすでに他の男と結婚して街を去っていた。ジョバンニはその後酒に溺れる日々を送り、使いきれないほどの財産を抱えたまま死んだ。

 

 話の最後に、ニーズッキは言う。

 

「まことに神々の御思慮は完全にして無欠である。神々はルピーの悪魔ですらもその掌中に収め、意のままに操られたのである。勇者が巨悪を討伐するためには、六十ものルピーの悪魔を倒して実力を養う必要があった。勇者はすべての悪魔を倒してジョバンニを救った。ジョバンニは貪欲にルピーを求める愚か者であったが、彼のその愚かしさすらもハイラル救済のために神々が立てた御計画のうちに含まれていたのである」

 

 このニーズッキの言葉に対して、またギリトーソーは『随想』において言う。

 

「もし悪魔たちがルピーを司っているなら、神々はルピーを司っていないことになる。つまり、神々は貧乏ということになる。世の中においては貧乏であるがゆえに余計な手間がかかるということがよくある。神々の御計画がすべて迂遠で、まどろっこしくて、回りくどいのは、ひとえに神々が貧乏であることを原因としている」

 

 ギリトーソーはまた、別の箇所で以下のように述べている。

 

「……ニーズッキをはじめとした説話作家や神官たちは、ルピーが本来的に有する魔力について非常に巧みに述べている。彼らによればルピーとは破滅の元凶であり、諸悪の根源であり、悪魔の属性である。彼らはルピーを純粋に邪悪なものとして見なしている。私も、確かにルピーにはそのように思わせるだけの力があると考える。しかしながら、この世をより良いものとし、住みやすくし、楽しみを増やし、苦しみを減じさせてきたのも、またルピーではなかったのか? 賢明な彼らがこのことに関して決して述べようとしなかったのはまことに不可解である……」

 

 さらにギリトーソーは述べる。

 

「善い行いをして得たルピーも、悪い行いをして得たルピーも、同じように輝いている。どれほど理屈を捏ねても、結局のところルピーはルピーでしかないのだ。ルピーとは、()()()()()()()()()()()()()『交換可能』という魔力を持っている。この奇妙な循環論法を理解した者だけがルピーを支配することができる。ルピーを邪悪なものとして遠ざけている限りは、あるいは『ルピーは邪悪なものである』という物語を信じている限りは、私たちはルピーの魔力に囚われたままである。ルピーを支配しない限り、私たちは()()()(私はここであえて『()()()』という副詞を用いる)、賢明で豊かな生活を送ることはできない」

 

 だが、物事の本質を理解する者はいつの時代でも常に少ない。ルピーの魔力はいつまでも愚かな人々の心を惑わし続けるだろう。この荒廃しきった今の時代においても、ルピーの輝きはまったく色褪せていない。人々は命を懸けて儚いルピーをかき集めるために這いずり回り、そして、己の全人生をかけてまで追い求めたそのルピーとは結局何であったのか理解することもなく、ひっそりと死んでいく。

 

 ルピーはいつまでも輝き続ける。ギリトーソーの言うように、その輝きに眩惑されない者のことを、おそらく富豪と呼ぶのであるのに違いない。

 

 今も富豪はいるのだろうか? そう、きっといるだろう。なぜなら、物事の本質を理解する者はいつの時代でも常に少ないが、しかし少ないながらも確実に存在するからである。だが、彼らにも彼らなりの苦しみがあることを知っている者は、より少ない。

 

 

☆☆☆

 

 

 青白い月が天球に刻まれた航路をたどって昇り、無数の星々が無分別に輝き、一筋の黄色い流れ星が走るように光る。それは夜という偉大な生き物の生理的反応であると言えなくもなかった。

 

 夜は刻一刻と成長を続けていた。闇が深まり、息吹は強くなっていた。どこまでも黒くてしなやかな(ひだ)は、昼の痕跡をすべて覆い隠そうとしていた。やがて夜も老い、朝日に看取られて死ぬのであろうが、それにはまだ時間があった。

 

 一両の馬車が、平原外れの馬宿近くの街道に止まっていた。馬車は街道そばの丈高い草むらの中に隠れていた。馬車は純白だった。昼には目にも鮮やかなその白さが、夜闇の中ではあたかも幽霊の衣装のようであった。馬車は頑丈な造りをしていた。それでいて凝った意匠の彫刻が施されていた。実用性と芸術性という相反する二つの要素が、その馬車においては矛盾なく両立していた。

 

 二頭の白い精悍な馬が(くびき)から解き放たれて、馬車の近くで草を食んでいた。白い馬たちは無論、白い馬車に合わせて選ばれたものであった。馬たちは大人しく、落ち着いていた。馬たちの隆起した筋肉が夜露に濡れていた。夜空から降り注ぐ微光が濡れた馬たちを照らし出し、馬たちの若さと健康と、力強さを際立たせていた。

 

 馬車も馬も、大厄災後のハイラル世界では滅多に見ることができないほどに上等で高価なものであった。馬車の内装もまた同様だった。天井から吊るされた夜光石のランプが、緑色の光を広いキャビンの中に放散していた。窓には高価な分厚い一枚ガラスが嵌っていた。ガラスの透明度は高かった。座席はリトの羽毛が用いられた柔らかなソファーだった。ソファーの表面を、しっとりとして柔らかな仔牛の革が覆っていた。

 

 キャビンの中に、一人の男がいた。

 

 その男、ハギは、座席の上で両腕を組み、物思いに耽っていた。彼の肌は浅黒かった。彼は見事に太っていたが、その分厚い脂肪の下にはしっかりとした筋肉があった。彼は金髪だった。しかし髪は少しくすんでいた。彼はゆったりとした上質な絹の衣服に身を包んでいた。彼の目は細く、鋭かった。目は闇の奥、さらにそのまた奥を貫こうとしているかのようだった。その目が、彼の風貌全体に緊張感を纏わせていた。

 

 夜はますます深まっていたが、ハギに眠気はまったくなかった。このところ、彼は夜に眠気を覚えたことがなかった。そして彼は、それに関して特段の痛痒(つうよう)を感じなかった。むしろ彼は、夜に眠るのは馬鹿者のやることだと思っていた。馬鹿者たちは夜の使い方を知らない。夜こそが(ルピー)の源泉であるのに、それを知らないし知ろうともしない。夜には眠るものだと疑いもせずに信じ込んでいる。だから彼らはいつまで経っても馬鹿で愚かなままであり、結局はその一生をつまらない有象無象のひとつとして生きることになる。彼はそう思っていた。

 

 ハギは目の前のテーブルに置かれたワイン瓶へと手を伸ばし、それを掴んで傾けると、そのルビーのように赤い液体をクリスタルの杯へと注いだ。杯はゾーラの里の工房で作られたものだった。彼はちょっとだけ口をつけた。苦みと渋みのある味だった。彼はそれをあまり美味いとは思わなかった。彼は独り言を言った。

 

「つまらないですねぇ……所詮、酒は酒に過ぎないということでしょうか」

 

 それでもハギはワインを飲み続けた。飲みながら、彼はこのワインはいくらだったかと考えていた。このハイラル世界において、ブドウで作られたワインは稀少である。これを持ってきた商人は、ワインを得るには廃墟の中から苦労して発掘するより他にないと言っていた。商人は吹っ掛けてきた。確か、この一本だけで一千ルピーはしたはずだ。一千ルピー、それは彼にとって大した金額ではなかった。彼は言われた通りの金額を払ってやった。

 

 ハギは瓶の半分ほどまで飲んだ。そこで彼はじっと耳を澄ませた。何も聞こえない。夜は、ありとあらゆるものに沈黙を強いているようだった。彼にはそれが心地良かった。少なくとも、ワインを飲むよりは快であるといえた。少しだけ彼の口の端が緩んだ。

 

 しかし、それもほんの数秒に過ぎなかった。ハギの聴覚はある異音を聞き取った。それは馭者台から聞こえてきた。馭者がいびきを立てていた。ハギは眉をしかめた。馭者台で、馭者が毛布に包まって眠っている。馭者もまた、夜だから眠るという一匹の愚か者であった。ハギはうんざりしたように言った。

 

「うるさいですねぇ……」

 

 一度意識してしまったいびきは、次第にとてつもない雑音として彼に感じられるようになってきた。この旅行が終わったら、馘首(クビ)にしてやる。彼はそう思った。一流の馬車に、一流の馬、それを操るのは一流の馭者であるべきだ。夜だから眠り、眠っているのだからいびきを立てるというような凡庸な馭者は、私に相応しくない。彼はまたグラスからワインを飲んだ。

 

 馘首(クビ)を宣告してやったら、馭者はどういう顔をするだろうか。「チミはもう、馘首(クビ)です」 ハギはその時の馭者の表情を容易に想像することができた。まず驚き、次に怒りが浮かび、最後には卑屈になる。卑屈な態度で懇願し、職にしがみつこうとする。だが、決して恥じ入ろうとはしないだろう。なぜなら、馭者は自分が正しいと思っているからだ。それどころか、こちらのことを職を奪う極悪人だと思うだろう。そもそもその職を与えたのが、目の前の当人であることを忘れて。

 

「ふん、煩わしいですね」

 

 だから庶民というものは嫌なのだ、とハギは思った。奴らは貧乏で、愚かで、卑しい。それなのに自分はいつも正しいと思っている。いつまでも学習しないし、学習してもすぐに忘れる。経験から原則を引き出すことができない。自分を変える努力をまったくしない。庶民という最底辺の地位から脱出するための試みをいっさいしない。奴らは開き直っていて、それどころか庶民であることに誇りを持ってすらいる。

 

 だから庶民というものは嫌なのだ。()()()()()()()()()()()。ハギはワインを飲んだ。ワインの味は彼の苦々しい思いとそっくりだった。

 

 だが、その気持ちは分からなくもない、とハギは思った。庶民という地位にいつまでも甘んじていたいという気持ち、薄汚い「成金」になるくらいだったら清貧な庶民のままでいたいという願望、それは分からなくもない。なぜなら、弱い者でいるということ、弱さのうちに留まっているということは、安心感をもたらすからだ。失敗し、敗北し、損害を負うことになっても、「自分は弱者であるから仕方がない」と言い訳をすることができる。常に言い訳をすることができる。それが安心感の(もとい)となっている。

 

 それでも私は、その安心感を振り捨てたのだ。ハギは窓の外へ目をやりつつ、そう思った。馬車の外は漆黒の闇で満ちていた。私には強い意志があった。私は金持ちになりたかった。強い者となり、ルピーを支配し、ルピーによってヒトとモノを支配したかった。そのためには、なんとしてでも弱者という境遇から脱出しなければならなかった。安心感こそが弱者を弱者たらしめているのであるならば、それはまったく不要だった。不要であるどころか、有害ですらあった。だから私はそれを捨てた。

 

 しかし、何かを捨てたからには、何かを得る必要があった。安心感に代わる、何か人生の軸となるような考え、いうなれば哲学のようなもの、そういったものが必要だった。自分のこれまでの人生は、ルピーを得ることよりはむしろ、その哲学を得るために費やされてきたのかもしれない。ハギはそう思った。

 

 ハギは瓶を傾けた。瓶の中身はもうなくなっていた。彼はテーブルの下の小箱から、また一本の瓶を取り出した。これも確か、一千ルピーはする貴重なシロモノのはずだ。こういう平凡な夜に一人で飲んで良いものではない。

 

「まあ、飲みますけどね」

 

 だからこそ、一人で飲む価値があると言える。ハギはそう考えた。自分は庶民から成金と呼ばれている。愚かな庶民にしては、正しいことを言うものだ。確かに自分は成金である。成金であるから、ルピーを湯水のように使うことができるのだ。ただの金持ち、資産家だったら、こんなふうにルピーを使うことはできない。やつらも結局のところはルピーの奴隷に過ぎないからだ。ハギはまた独り言を漏らした。

 

「ですが、私はルピーを支配している」

 

 ハギはワインを一口飲んだ後、テーブルに頬杖をついて、物思いにふけった。父と母は貧しい庶民だった。ただの庶民ではなかった。庶民であることを誇っている、いわば一流の庶民だった。元の血筋を辿ればアッカレ地方の大貴族か何かに連なる家系らしいが、父も母も日常そのようなことは一切口にしなかった。父も母も、貧しいということを何か尊いことであるかのように見なしていた。

 

 父はよく、あの説話作家ニーズッキの本を自分に語り聞かせたものだった。ハギはその時の光景を思い浮かべた。暗い夜、雨が降っていて、破れかけた天井から水滴が落ちている。小さなランプの灯りの下で、父がニーズッキのありがたい説話を読みあげる。父のお気に入りは「スタルチュラハウスの一家」と「城下町ジョバンニ」の話だった。

 

 ルピーこそが人生を破滅させるものだと、父は心から信じていた。だが、幼い私は幼いなりにその話に反感を覚えていた。ハギは思った。その反感こそが、自分にここまでの富を抱かせた出発点だったのだろう。

 

 歳をとり、成長をし、一人の若者となったハギは、つまらない仕事をして日銭を稼いでいた。こつこつと真面目に働いているのならば、たとえ貧乏でルピーとは無縁の生活を送るとしても恥ではない。父と母からはそう教えられていた。生きているだけで人間は尊いのであり、尊くあるためにはルピーは余計だ。ルピーは人を卑しくする。ルピーを持つことは恥そのものだ。そういう教えだった。

 

 しかし、その教えが正しいものであるとは彼にはどうしても思えなかった。父は病気で死んだ。ルピーがなかったために、薬を買うことができなかった。母は怪我で死んだ。ルピーがなかったために、医者にかかることができなかった。二人の葬式を出すルピーもなかった。両親の死を悼む者は誰もおらず、墓穴は息子であるハギ自身が掘らねばならなかった。

 

 自分の死を飾るためのルピーがないこと、それは死に至るまでに送ってきた生のすべてをないがしろにすることではないか? 墓標もない、ただの土の盛り上がりに過ぎない父母の墓の前に立つと、ハギはいつもそう思ったものだった。

 

 父と母は、ルピーを持つことは恥であると言った。だが、生をないがしろにすることこそ、真なる意味での恥ではないのか? 父と母の墓は、恥さらしの末路の象徴であるように彼には思われた。

 

 ハギは、生を謳歌したいと念願するようになった。(ぜい)を極め、豪奢(ごうしゃ)な生活を送ること。使いきれないほどのルピーを集め、湯水のように消費すること。そうやって生を飾る。そうすることで初めて、死を飾ることができるのではないか? 死を飾ることができたならば、その者は恥のうちに生きたとは言われまい。

 

 父と母は間違っていた。人が人として死ぬためには、やはりルピーは必要だ。

 

 ハギは猛然と努力した。ルピーを得るために必要な考え方、教え、哲学、そういったものが彼には必要だった。仕事をしながら、彼はよく本を読んだ。彼が好んだのは、あの皮肉屋の警世家、ギリトーソーの著作だった。説話作家ニーズッキを攻撃するギリトーソーの筆致は、彼にとって痛快そのものだった。ギリトーソーはルピーを得ることが善であること、ルピーを支配することで初めて人間は人間らしい人生を送れることを教えてくれた。彼はギリトーソーに依拠しつつ、次第に彼なりの哲学を構築していった。

 

 私は努力を重ねた。ハギはワインをグラスになみなみと注いだ。努力が形になるには数多くの幸運が必要だったが、その幸運すらも私の努力によって引き寄せたのだと思わなくもない。ハギはワインを飲んだ。酔いつつあるのを彼は自覚した。彼の思考はとりとめもなく次々と続いていった。

 

 私はルピーを得た。私は成金になった。私は生を贅沢に飾るようになった。ワインで濡れた彼の口の端が、奇妙な形に歪んだ。その時、彼は確かに喜悦を味わっていた。すべては、私が哲学を得たからだ。それは私が考えて、私が鍛えあげた哲学だ。

 

 彼の心に湧いた喜びも、ほんの一瞬だけだった。彼はまた、もとのむっつりとした不機嫌な表情へと戻った。しかし、と彼は思った。所詮、()()()()()()()()()()()()()()。自分は自分なりの哲学に従って、ルピーを得て、ありとあらゆるものを手に入れた。すべてを手に入れてしまったと言っても良い。

 

 だからこそ、自分の哲学にはどこか欠陥があったと思い知ることになったのだ。

 

 それに気付いたのは、彼の妻であるハルリが娘を産んだ時だった。娘は彼によく似ていた。彼は娘にハーニーという名前をつけた。ハーニーを抱き、乳をやりながら、ハルリは彼に言った。

 

「これであなたは、本当の意味ですべてを手に入れたことになるのね」

 

 彼は問いを返した。

 

「どういうことですか」

 

 ハルリは幸せに満ちた顔をして答えた。

 

「だって、いくらお金持ちのあなただって、いつかは死ぬでしょう? でも、あなたの命はこの子を通じて未来に繋がっていく。あなたはこの子のおかげで、永遠の命を得たのよ。ルピーでは決して手に入れることのできない、永遠の命を……」

 

 そんなはずはなかった。彼は自分の娘をみた。娘はどこまでも(いと)おしく、可愛らしかった。彼は自分が娘に対して(いだ)く愛情の深さに戸惑った。そして、こんなにも小さい娘が、自分がこれまでに営々と蓄え、築いてきたルピー以上のものであるわけがないと彼は思った。彼の哲学によれば、この世にルピー以上のものがあるわけがなかった。だが彼の父親としての直感が、娘がルピー以上の何かであることを告げていた。彼は戸惑いを深くした。

 

 やがて娘が成長し、そして奇妙な病気を持っていることが判明すると、彼の直感が正しかったことがますます証明されるようになった。彼は娘の病気を癒すために、莫大なルピーを注ぎ込んだ。だが、娘は治らなかった。これまでルピーで得られないもの、手に入れられないものはなかった。しかし、娘は治らなかった。

 

 今も治らないままだ。娘ハーニーは今も、母親のハルリと共に家にいる。

 

 娘の健康と命こそ、彼にとって最も買いたいもの、これまでの人生で最も強く買いたいと思ったものであった。それをルピーで買うことができない。娘は、彼の構築してきたルピーの哲学をあっさりと粉砕してしまった。

 

 いや、()()()()()()()()()()()()、実のところをいえばハギにとっては()()()()()()()()()()()()()()、ハギにとっては()()()()()()()()()()()()

 

 それは、娘によって破壊された哲学に代わる新しい哲学を、どうしても手に入れることができないということであった。

 

 今後も続くであろううんざりするほど長い人生、それをなんとか生きていくための哲学が、どこにもない。

 

 ルピー以上のものがあると知った以上、もはや自分はルピーに頼ることはできない。だが、父母が示したように、ルピーをすべて捨てることも間違っている。どうすれば良いのか? 自分はルピーをどう扱えば良いのか? 自分が新たに依るべき哲学は、いったいどんなものであるべきなのか?

 

 おそらく、そんなものは見つかるまい。ハギはそう思った。私はすでに、手遅れな状態に落ち込んでいるのだ。虚無という底なしの泥沼に自分は嵌ってしまった。妻子を捨てて旅に出て、湯水のようにルピーを使うのも、すべては悪あがきにすぎない。

 

 私は何も信じられなくなった。今後も何も信じないだろう。一番信じていたルピーに裏切られてしまったのだから。ハギは溜息をついた。胃の腑に溜まったワインが、彼の吐息に独特の臭気を付与していた。

 

 その時、ドアがノックされた。誰かが窓の外に立っているのが感じられた。おそらく、あの女だろう。黒い服で真っ赤な髪の、あの女だ。ハギは酔いの回った頭脳で、ぼんやりとそう思った。おそらく、()()()()()について、その算段がついたことを報告しに来たに違いない。面倒くさい、という気分が先に立った。

 

 確かに、自分はキルトンに言った。「私の面白いと思うものは、人が死んだり傷ついたり、裏切ったり裏切られたり、殺し合ったりする、いわば最高級の演劇なんですよ。命のやり取り、その生命力の迸り。そういったものが見たいんです。すべてを手に入れた私にとって、()()()()()()()()()()()()……」

 

 だが実際は、そんなものが楽しいとはまったく思っていない。ハギはまた溜息を漏らした。

 

 それでも、自分はその催し物を見るだろう。あの闘技場で、宝を目当てにして集まったトレジャーハンターたちが阿鼻叫喚の地獄絵図を繰り広げる様を見て、私はきっと歓声をあげるだろう。それが、私の抱える虚無を一時でも忘れさせてくれるなら、私はそれを見る。

 

 あの時、キルトンは言った。「あなたこそ本当の魔物かもしれませんね! 魔物以上に魔物的だ!」

 

 魔物であるわけがないと、ハギは思った。私は魔物ではなく、人間だ。

 

「そうです。私ほど人間らしい人間など、他にいるわけがないのです」

 

 すべてがくだらない。()()()()()()()()()()()()()()、決して面白いとは思わない。

 

 ハギは窓の外を見て、闇の中に立っている人物を確認すると、気怠そうな動作でドアを開けた。

 

 

☆☆☆

 

 

 狭い馬車の中で、バナーヌはぐったりと横になっていた。なよやかで優美な曲線を持った彼女の肉体は今や疲れ果てていて、見ようによっては房からもぎ取られて時間の経った一本のバナナのように見えなくもなかった。

 

 彼女はぼんやりとした視線を周囲に巡らせた。馬車の中には、テッポと、モモンジと、木の檻に閉じ込められたゾーラ族のフララットがいた。

 

 それまでに充分に眠って休むことができていたテッポは、黙々と装備を点検していた。ランプの仄かな灯りが彼女の幼いながらも凛々しい顔を薄く照らしていた。綺麗な鳶色の瞳は真剣さに溢れていて、手に取っている爆弾や導火線へと一心に向けられていた。

 

 モモンジが、木の檻を挟んだ向こう側に座っていた。モモンジもまたテッポと同じく、武器と装備の点検を(おこな)っていた。モモンジは風斬り刀の手入れをしていた。鋭利で、独特の刃紋を持つ刀が、オレンジ色に光っていた。

 

 だがテッポとは異なり、モモンジの目は眠たげだった。ただでさえ普段から眠そうに垂れている彼女の目は、今や閉じる寸前になっていた。桃色の長い髷が眠気に煽られて前後に揺れていた。大嵐に見舞われたヤシの木のようだった。

 

 危ない、とバナーヌは思った。刃物を扱う時は細心の注意を払わねばならないのに。彼女は声をかけようとした。しかし、その前にテッポが声を発した。

 

「モモンジ、しっかりして! そんな調子じゃ怪我をするわ!」

 

 モモンジは声を上げた。

 

「は、はい!?」

 

 声をかけられて、モモンジは弾かれたように肩を動かした。彼女はぶんぶんと頭を振って、眠気を追い払おうとした。だが、眠気は消えないようだった。それでも彼女は手を休めようとしなかった。

 

 テッポは呆れたような、しかしどこか労りの感情のこもった口調で言った。

 

「そんなに眠いのなら眠れば良いじゃない。大丈夫よ、ここには私とバナーヌがいるんだから。安心して眠って」

 

 モモンジは答えた。

 

「い、いえテッポ殿。私は毎日必ず、刀を手入れしてから眠ることにしているんです。どんなに疲れていて眠かったとしても、これだけは欠かすわけにはいきません」

 

 テッポは首を傾げた。

 

「そうなの?」

「そうです。刀を大事にしないなんて密林仮面剣法伝承者の名折れですからね」

 

 モモンジは健気にもそう言った。テッポは微笑んだ。二人とも沈黙し、また作業へと戻った。バナーヌは、そんな二人を好ましく思うのと同時に、自分も二人に倣って装備の手入れをしなければならないと思った。だが体は動かなかった。めんどうくさい。とてつもなく、めんどうくさかった。

 

 それもこれも、昼間に働きすぎたせいだ。バナーヌはそう思った。イーガ団は夜に生き、夜に仕事をするものである。だから、基本的に昼間はひっそりとして、体力を養っておくべきなのだ。それなのに今日の昼は変なやつとマラソンをしたり、強敵のウロと戦ったりしないといけなかった。魔物の掃討もしなければならなかった。

 

 バナーヌは、自分のことを決して怠け者だとは思っていないが、働き者であるとも思っていなかった。ほどほど、そう、自分はほどほどな感じのイーガ団員である。だが今日は、仮に自分が働き者のイーガ団員であったとしても、やはり働きすぎだった。彼女はそう思った。仮に怠け者ならば過労死しているであろう。

 

 訓練生時代に、ある教官が言い放ったことをバナーヌは思い出した。教官は言った。「一日は二十四時間しかない。だから夜を使え」 夜を使え、か。なんて馬鹿なことを言ったものだろう、と彼女は思った。昼も働いて、夜も働く。じゃあいつ休めば良いのか。昼に働くのだったら、夜は休む。夜に働くのだったら、昼は休む。それが当然の道理であろう。

 

 それなのに、なぜか世の中の賢者の類は「寝る間も惜しんで働け」と言うのだ。おかしな話である。眠気に支配されつつある頭脳で、バナーヌは以前読んだ本を思い出していた。確か、ニーズッキとかいう大昔の作家の本だったと思うが、それには「勇者は一日をどう過ごしていたか」という話が書かれていた。

 

 それによると、勇者はまったく眠ることがなく、それでまったく健康上問題はなかったという。世界を救うためには眠りなど不要だったというのだ。信じがたい話である。それどころか、勇者は「太陽の歌」などという邪術を心得ていて、不要な夜が来るとその歌を演奏し、無理やり太陽を昇らせて朝にしてしまったらしい。とんでもないやつだとバナーヌは思った。しかし、ニーズッキは勇者を褒めているのだ。その上、みんな勇者を見習えとまで言う。

 

「なるほど、魔王を討伐できるのは勇者だけである。誰もが魔王を倒すという偉業を為せるわけではない。しかし、勇者のように夜を厭い眠りを避けることができれば、富貴な身分になることはできる。富める者たちを見るが良い。彼らは常に努力を重ねている。無一文の状態から身を起こした者も、親から財産を受け継いだ者も、みな昼と夜の区別なく働いている。なぜ怠け者は眠り続けるのか? 眠りさえしなければルピーを得られるというのに。ルピーがあれば、人は幸せに生きられる。家族を養える。いつも満腹でいられる……」

 

 いや、どうだったかな、とバナーヌは思った。なんか怪しいぞ。本当にニーズッキはそんなことを言っていたっけ? バナーヌの思考は乱れ始めた。確か、別の箇所でニーズッキは「人生においてルピーはそんなに重要じゃない」と言っていたような気がする。「スタルチュラハウスの一家」の話か何かでそう言っていたはずだ。

 

 だとしたら、ニーズッキの言っていることはとんでもなく矛盾していることになる。ルピーを求めるな。でも、ルピーがないと幸せにはなれない。やっぱりおかしいのではないか? バナーヌはそう思った。そのうち、「生きろ、でも死ね」とまで言い出すのではないか、このニーズッキとかいうやつは? あるいは「バナナを食べるな、でも食べろ」と言うかもしれない……

 

 きっと、このニーズッキというやつは夜に眠らなかったせいで頭がおかしくなってしまったのだろう。バナーヌはそう結論付けた。ニーズッキはおそらく、寝る間も惜しんで本を書いたに違いない。だから色んな箇所で相互に矛盾しているようなことを平気で書くことができたのだ。

 

 夜に眠らないやつはみんな頭がおかしい。バナーヌはそう思った。思い返してみると、あの「夜を使え」と言った教官はいつも言動がおかしかった。それに、そもそも夜に生きるイーガ団員は全員どこかしら頭がおかしいではないか。少数の例外、そうテッポとか、モモンジとか、それにノチとか、そういう例外はいるにしても、やはりみんなどこか頭がおかしい。いや、もしかするとテッポもモモンジもノチもおかしいかもしれない。この自分も……

 

 考えがまとまらない。バナーヌは内心で毒づいた。それもこれも全部寝不足のせいなのだ。やはりろくでもない。もし、イーガ団員が朝に起きて、昼間に働いて、夜はしっかりと寝るようになったら、きっと今よりもっと仕事ができるようになるはずだ。

 

 もっと仕事ができるようになったら、もっとルピーが増える。もっとルピーが増えたら、もっとバナナが食べられる。それは幸せなことだ、間違いなく……

 

 やはり、眠ることがすべての鍵なのだ。バナーヌはそう思った。もし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そいつはきっと起きた後にとんでもない量の仕事をして、とんでもない量のルピーを稼ぐに違いない。百年間も眠り続けるなんてことができる人間がいるとは、到底思えないが。

 

 思考の渦に飲み込まれて、バナーヌは眠りの深遠へと落ちかけていた。しかし、彼女の意識はまた現世へと戻ってきた。モモンジが自分へ話しかけているのに気付いたからであった。

 

「……先輩、ねえバナーヌ先輩。バナーヌ先輩はどうしますか?」

 

 聞こえてしまったからには無視するわけにもいかない。バナーヌは短く答えた。

 

「なにが?」

 

 ぼやけたままの視界の中で、モモンジがその大きく膨らんだ胸をさらに大きく張っているのが見えた。モモンジは言った。

 

「いえ、ですからね。もし億万長者になったらなにをするかって話ですよ!」

「うん?」

 

 バナーヌは曖昧な返事をした。どうしてそんな話になったのか、彼女には見当もつかなかった。テッポがそんなバナーヌを見て、補足するように言った。

 

「ごめんね、バナーヌ。私がモモンジに話を振ったのよ。モモンジ、とても眠そうだったから、おしゃべりでもしたら眠気覚ましになるかと思って……」

 

 テッポに続いて、モモンジが言った。

 

「ちなみに私がもし億万長者になったら、剣術道場を建てますね。フィローネの密林の中でも特に険しい土地を選んで、そこに総板張りの立派な道場を建てます。使う木材は全部千年樹から切り出した上等なもので、道場の横には弟子たちが生活するための寮も併設するんです。全部個室にして、お風呂とキッチンもつけます。身体づくりのために食事にも気をつけます。毎食必ずお肉をつけて……あ、もちろんバナナも出しますよ!」

 

 テッポが言った。

 

「でも、あなたの流派の密林仮面剣法は一子相伝なんじゃなかったの? そんなに立派な道場を建てて多くの弟子をとるのはあなたの流派的にアウトなんじゃないかしら」

「いえ、それは大丈夫です!」

 

 モモンジは目を輝かせて言った。

 

「たくさん弟子をとって、弟子たちの間で争わせるんですよ! たぶんその争いは血で血を洗うものとなるでしょうけど、まあ後継者選びのためには仕方ないですよね。そうこうしているうちに最強の弟子が出てくるでしょうから、そいつに跡を継がせます!」

 

 バナーヌはぽつりと言った。

 

「なんか聞いたことのある話だな」

 

 しかしその言葉をモモンジは聞いていないようだった。やっぱりモモンジもイーガ団員だけあってどこか頭がおかしいなとバナーヌは思った。

 

 次にテッポが口を開いた。

 

「もし私が湯水のようにルピーを使えるようになったら、まずはフィローネ支部の生活環境の改善を目指すわ。今の支部は色々なところが古びていて生活しづらいから。まずは設備を全面的にリノベーションする。その次は、団員のための保険制度と、老後のための年金制度を作ろうかしら。小さい子たちのために学校を建てるのも良いかもしれないわね。学校と一緒に研究所も建てて、そこでバナナの新しい栽培方法とか、新しい肥料とか、あと爆弾に使う火薬とかを開発させる……」

 

 モモンジが感心したような声をあげた。

 

「へええ……すごいなぁ……」

 

 モモンジはさらに言った。

 

「流石に幹部の娘ともなると私とは発想が根本からして違いますねぇ……じゃあ、個人的なことにルピーを使うならどんなことに使いますか?」

 

 テッポは答えた。

 

「えっ? 個人的なこと? そうね……特に欲しいものもないし、貯金するとか?」

 

 モモンジが呆れたような声を出した。

 

「貯金するなんていう答えはこの手の話題にとっては禁物ですよ、テッポ殿。私たちはルピーがあったらどうするかという夢の話をしているのであって、貯金なんていう現実の話を持ち出してはいけません」

 

 モモンジからそのような理路整然とした言葉が出てくるとは、バナーヌにとっても意外だった。テッポが戸惑ったように言った。

 

「そ、それもそうね……モモンジの言うとおりだわ。じゃ、じゃあ、投資するとか?」

 

 モモンジが言った。

 

「さっきよりはだいぶ夢寄りの現実になりましたね。じゃあ、何に投資するんですか?」

 

 テッポは少し唸った。

 

「うーん……」

 

 テッポはしばらく考えた。そして「あっ!」と叫ぶなり手をポンと打ち、言った。

 

「そうよ! マックスドリアンの温室栽培!」

 

 バナーヌとモモンジはほぼ同時に驚きの声を上げた。

 

「えっ!?」

 

 そんな二人を余所に、テッポは勢い込んで話し始めた。

 

「もし私が億万長者になったらハイラル全土に温室を作るわ! 全面ガラス張りで嵐にも負けない立派な構造の温室よ! そこでマックスドリアンを大量栽培するの! それで、全世界の人間が毎日毎食マックスドリアンが食べられるようにするわ! かつては本当の大富豪しか食べられなかったマックスドリアンが、この私の手で一般家庭でも食べられるようになるのよ! 素晴らしいわ! ハイラル全土がマックスドリアンの芳醇で濃厚な香りに包まれるのよ! そう、私はマックスドリアンの母になるの! すごい! 最高……!」

 

 バナーヌがぽつりと言った。

 

「温室で栽培するのだったらドリアンではなく、バナナだろう」

 

 バナーヌの言葉をテッポは聞いていなかった。テッポは熱に浮かされたように喋り続けた。やっぱりテッポもイーガ団員だけあってどこか頭がおかしいなとバナーヌは思った。

 

 突然、亡霊のような声が響いた。

 

「もし、私が億万長者だったら……」

 

 テッポもモモンジも、バナーヌもぎょっとした。

 

「もし、私が億万長者だったら……」

 

 また、同じ言葉が響いた。氷の結晶のように美しく、繊細で、それでいて冷たい声だった。

 

 それは、車内の中央部に置かれた木の檻の中から発せられていた。声の主は、囚われの身となっているフララットだった。

 

 フララットは続けて言った。

 

「数億ルピー出しても良いですから、コップ一杯のお水をもらいます。もう喉が砂漠みたいにカラカラなので……砂漠に行ったことはないですけど……」

 

 今にも消え入りそうな声だった。慌ててテッポが口を開いた。

 

「ご、ごめんなさい、フララットさん! あなたにお水をあげるのをすっかり忘れていたわ! はい! これ、お水!」

 

 テッポはフララットに水筒を差し出した。バナーヌとモモンジもテッポにならった。フララットはそれがあたかも極上の甘露であるかのように、喉を動かして飲んだ。

 

 バナーヌは、潤いを取り戻しつつあるフララットを見ながら、もし自分が億万長者になったら、いったい何にルピーを使うだろうかと考えた。

 

 そして、たぶんバナナを買って食べるだろうなと彼女は思った。

 

 ルピーに魔力なんてない。バナーヌは思った。もし魔力があったとしても、きっとバナナを買うだけの力しかないだろう。たとえ億万のルピーがあったとしても、夜空に浮かぶ星を手に入れることなどできないのだ。

 

 バナナを買うだけの力、それで充分だ。バナナさえ買えればそれで良い……

 

 夜は更けていった。バナーヌたちは「おやすみ」と声をかけあって、やがてまた来る明日のために静かな眠りに就いた。

 

 彼女たちが眠り始めて、数分が経過した頃だった。

 

 夜空から何かが降ってきた。それは星だった。星が地表に落ちると大きな爆発音が起こった。この世の終わりのように大地が揺れた。




 金だ! 空から金が降ってくるぞ! やった!!!!
 続編発売が間近に迫ってまいりました。生きましょう。

※微修正しました。(2023/05/26/金)
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