ちょっと情報量過多なので、ここで分けます。
長い夢から目が覚めたようだった。
ぼうっとした目に写ったのは広大な群青の空だった。遥か先まで続く山陵に沿った紅が徐々に夜に飲まれていく。
黄昏時。
語源は『誰そ彼時』とか言ったっけ。
日没直後、まだ陽の赤みが西の空に残る時間帯。刻一刻と消え失せるその暖かみのように、あらゆる判別が曖昧になっていく。
己を人たらしめている境界線が、闇に呑まれていく。
上体を起こしてみると異常な程に体が重い。頭もぐらつく。
ただ一つ。
首筋に残る感覚だけが冴えている。
これは夢だ。いつもと同じ。前の家で不意に目を覚ましては、ハッキリしない意識の中でぼんやりするだけの。極めて不愉快な夢。
だが今回はいつもと違う。
彼女の走馬灯で感じた自害の痛み。そうして去年、ここの屋上で首を刺した手の感覚。
先の異変で隅々まで思い出してしまった。
故に。
この妙な夢の中でさえハッキリと幻想郷を覚えている。
というのに、夢は未だ覚めない。
いつもは思い出したと同時に覚めるのだが……。
なんだ、なんだこの感覚。今までにない気持ち悪さだ。去年の冬を思い出す。
いや、それどころか。
思い出してはいけない事まで思い出してしまったような。
兎に角気味が悪い。
鉛のように重たい身体をぐっと持ち上げて、居間に向かう。
向かうまでの数分が無駄に長く感じた。頭の中は不気味な感覚でいっぱいだった。
居間へ続く扉は鉄製かと思うほど重かった。
開いて直ぐ目に飛び込んだのは、薄暗い夕日に照らされ、二人仲良くソファで眠っている両親だった。
仲睦まじい筈の光景に、凄まじい吐き気を覚えた。
「ッ……!!」
思わず口を手で覆う。
なんだこの感覚。気持ちが悪い。なんでだ。
なんで涙一つ出てこない?
間違いなく二人は死んでいるだろう?
確実だ。なんて言ったって、去年の冬、この目で見た光景だ。
夢の中で、御伽噺のような景色を背景に、怖いくらいリアルな描写が目の前でまざまざと表現されている。
「なんだよこれ…なんなんだよ…」
としか言えず、逃げるように居間を後にした。
それを皮切りに、その時の状況が次々出てくる。
両親の心中を理由に俺も自棄にやったのだ。そうして両親の足元に落ちていた包丁を手に、最後くらいは大好きな星空の下でと……。
大好きな星……。
「そうだ、ばあちゃん……」
不意に彼女の存在が頭を過ぎる。と同時に激しい頭痛が疾る。
確か、確か同日に、祖母も死んで……。
あれ…?
原因は何だっけ……?
一目その最期を見届ければ良いのに、怖かった。
しかしそんな気持ちに反して、身体は恐る恐るながら祖母の部屋の引き戸に手を掛ける。
そうだ、確かここで婆ちゃんは、寿命で……。
───本当に?
見た筈だろう?それなのに変な疑惑が生まれる。
何か。
無理やり、ここだけの記憶を消されたような───。
デジャヴ。
ずっと追い求めていた記憶の答えがここにあるような気がして思い切り扉を開ける。
「……ァ、ハァッ…!」
ずっと緊張していた呼吸が一気に緩むと、同時に、空気中に満ちた鉄の匂いに思わず息を吸い込む。
不規則に呼吸をしたせいで「ハッ、ハァッ…」と過呼吸気味になってしまった。
鼻腔いっぱいに、その鮮血の匂いが入り込む。
「ばあちゃん……!」
掠れた声でそう言うのがやっとだった。
そう。
寿命なんかじゃなかった。
思い出した。
"魔女"に寿命など、笑わせてくれる。
刺したのだ。
無理心中を図ったんだ。
俺の両親は。
唐突に呼び起こされた過去に頭はパンク寸前である。夢の中で気絶しそうだ。
瞳孔は開き、意識は朦朧としてきた。
そんな中、呻きもがく祖母が目に入る。
布団いっぱいに広がる血。それでも尚出血は止まっていないようだ。
もう間に合いそうもない。声をかける事だけを続けようとした。
「ばあちゃん!!ばあちゃん…!!」
「シオン……私の……愛しい息子…」
「…………は」
「どうか……その命だけは…無駄にしないで……」
「ま、待てよ。ボケてる場合じゃないって。俺はアンタの…」
孫だ。
何故かそう言えなかった。
胸に何かが痞えて、吐き出せなかった。
まだ祖母の言葉は続く。這いずり跪いた俺の近くまで来ると、細くシワだらけの手で優しく俺の手を包んだ。
「私の事は忘れて……新しい世界を生きて……」
「な、何を……」
「これは呪い……貴方が幸せになるまで、死ねない呪い……今までの不幸全部忘れて、誰かと生きるまで…解けない呪い……」
「ぁ……」
か細く声が漏れた。
霊夢が言ってたっけ。『魔女の呪い』。
皮肉だな。アンタのことを思い出そうとして、幸せを守ろうとして、命を賭けて…。
結果その願いは全部叶わず、俺は呪われたまま。
ここで手を振り払えば、俺は何事もなく、屋上でその命の終焉を迎える筈だ。
だと言うのに、身体は動かない。手を振り払おうと身体は動いてくれない。
ただ、最後。
涙ながらに放った祖母の一言を黙って聞くだけであった。
「ごめんね……」
「ばあちゃん……」
それを最後に細い手はパタリと畳に落ちた。
何が悲しくて、折角忘れていた家族の最期を、こうして改めて見返すことになった。
なんて悪趣味な夢だ。自分でも訳が分からない。
ただ、夢が覚める前。
俺の呟いたその言葉は、決して言い間違いなんかじゃなかった。
「……母さん…」
震えた細い声で、最後にそう言った。
決して、言い間違いではない。
気分はまるで全知全能だ。ずっと忘れていた記憶が全て呼び起こされたのだ。この世の全てが分かった気分だ。
が、突如と襲ってきた睡魔に耐えられず、また俺は深い眠りについた。
祖母の亡骸を抱いて。