伊吹萃香との交戦が始まって数十分。彼女が能力を使ってからは、ひたすら逃げに転じてみた。理由としては彼女の能力を探るため。
……迂闊だった。こんなに有名なんだ、彼女の能力を知っているやつくらいいるはずだ。聞いておくべきだった。
反省はさておいて。数十分殴り合ってみての感想だが、彼女は「掴みどころのない」やつだ。
これは別に、暗喩というわけではない。
文字通り「掴みどころがない」。
というより。
「触れねぇ……」
掴もうと伸ばした手が悉く、空を切るのだ。
あまりにも触れられないものだから自分の視力を疑った。いよいよ老眼か?この場合はどっちだ?近視?
幾度となく目をパチパチさせる。
「お〜?どうした少年?疲れたか?」
「まさか。始まったばっかだよ」
そう、始まったばかりである。ゆっくり考えても良い。しかし彼女の猛攻は留まる事を知らない。時間をかければ間違いなく此方が劣勢。疲れ知らずに加えて馬鹿力。四天王相手に様子見など悠長なことをしている場合ではなかった。
致し方なく。
少し、こちらから仕掛けてみようか。
とはいえ、先から弾幕も多少ではあるが飛ばしている。躱して、躱して、距離が開けば鋭く、早く飛ぶ弾幕を展開する。
が、当たる気配がない。
重たい枷を手足につけていることなど気にもしない足取りで飄々と躱す。
素面じゃないのに。
紙一重で。俺の弾幕を躱していく。
それなら、と、一度派手なことをしてみようと目論む。
俺は、いつぞやの『鯨』をイメージした。
鷹揚と交戦した時のことだ。あれから俺は不思議だったのだ。なぜ鯨なのか。
すぐに答えは出たのだが、あの意識が朦朧としている中、恐らく祖母と結びつく記憶が弾幕として展開されたのではないか、と。
俺の『反転』の能力は祖母のものだ。使おうとすれば必然、祖母が俺に埋め込んだ呪術は反応する。嫌でも彼女との記憶が断片的にでも思い浮かんでくるのだ。
意識が朦朧としているのなら、尚更。走馬灯の如く彼女との記憶が蘇る。
では、一体どこで鯨と祖母が結びついたのか。決して、俺の祖母が鯨とか、そういうわけでない。
鯨は、祖母が持っていた多くの小説の一つに出ていたのだ。
───海外の文豪が手がけた作品だった。
「ハーマン・メルヴィル、『白鯨』」
「はく……うん?なんだそれ??」
俺は、右手を地面にそっと置いた。
「恐ろしい怪物さ」
「───なんっ!?」
ズンっと大きく地面が揺れた。
萃香の驚愕も置き去りに、回避に転じる間もなく、巨大な鯨は地中から姿を表し、萃香を飲み込んだ。
地中から大きな音を立てて、鯨は夜空に向かってヒレを動かした。
姿は残念ながら白くはない。深海のような黒に、モヤのような、或いは鯨が頭部から出す霧のようなものがユラユラと鯨の周りを漂っている。
体調30メートルほどの、恐ろしい怪物。祖母の小説で見た、幼かった俺の鯨に対するイメージが、どうやら俺は弾幕として展開できるらしい。あまりにも一瞬で、瞬きの暇すらないこの戦いの中で、鯨はゆっくりと空中を泳いでいる。
腹に響くような雄叫びを挙げながら、その時間だけ、100分の1にまでスローになったかのようだった。
鯨は地上に姿を表すとすぐに、地中に向かって落ちていく。遥か上空まで萃香を連れて行き、そのまま地面へと叩きつける。
激しい音を立てながら、鯨は霧散していく。
自分で言うのもなんだが、一撃必殺級の技ではあるのだ。
しかし。
いや、やはりと言うべきか。
「あっ………ぶねぇ〜!!!何だ今の!!」
「躱すか……」
萃香は依然とピンピンしていた。
○○○
ズシンという地響きが聞こえたかと思うと、私の視界は一瞬にして暗闇に包まれた。太陽の光も届かない遥か深海で、溺れているかのような息苦しさが私の体を襲った。
(やば……!)
私は自らの能力で鯨の中から抜け出した。体を霧散させたにも関わらず出るには非常に手間取った。
霧すら逃がさない、高密度な弾幕。
地面を介して当ててきたか。
能力を使っても尚、萃香は四肢に幾つかの傷を負った。
苦しい状況にも関わらず、萃香の口角は上がっていた。
「なんだか懐かしい空気感……」
割と優勢だと思ったのだけれど、今の一撃でそういう訳にもいかなくなった。いつ、どのタイミングで死が最も近くなるか分からない。
瞬きする暇すらない。息を吐く瞬間すら許されない。
肌がビリビリと震えるようなこの空気感が、なぜだか懐かしい。
無論、数百年と生きてきて、生死を彷徨うような戦いは幾万とあった。一瞬の緩みが命取りとなる喧嘩など飽きるほどやった。
しかし、今回の喧嘩はそれとは違う。肋が折れた勇儀の時とも違ければ、八雲紫の弾幕を散々喰らった時とも違う。
どこかで味わった事があるような、『緊張感』。
たしか…………。
地底の"悪鬼"とかいう小僧も似たような雰囲気だったか……。
「久々に、面白いじゃんか…っ!」
決して酒のせいなどではない。
これは高揚感だ。
久々に、血で血を洗うような必死な喧嘩を今しているのだ。堪らないじゃないか。
相変わらず、人間のために動いてるのが気に食わないが。やはり、あの女の息子ってことなのか。
……ん?
あっ、そうか、この懐かしい感覚。
あの悪魔の女と同じ感覚だ。そうかそうか、あいつの子か。
全てを見透かしたような真っ赤な瞳、月夜に輝く白い髪。
今も昔も、鬼と人間の前に立ちはだかるのは、お人好しな悪魔なのだな。
萃香は、それがやけに気に食わなかった事を思い出した。
まぁ理由はなんでもいい。
今はこの喧嘩を楽しみたい。
「本気でいくよ…少年っ!」
○○○
「……見えた」
私はいつかの台風を思い出した。
あの時と同じ、大きな鯨が突然視界に現れた。黒く、禍々しい、恐ろしい鯨だ。
間違いなくあれはシオンの弾幕だ。弾幕かどうかも怪しいけれど。
なぜ鯨なのか、聞いたことがあった。
幼い時、本の中で鯨の存在を知った、大きく、力強い、白鯨。
彼は鯨を恐ろしく思ったらしい。
そんな昔の記憶から、生まれた『鯨』。
恐ろしい怪物。
曰く、悪魔は姿を変えるらしい。紅魔館の図書館の司書の知識である。
和風で古風な巫女には訳の分からない話だったけれど、西洋の神話にはよく描かれるようだ。
その人が最も恐ろしいと思うものに、化けるらしい。
時には獅子に。
時には狼に。
時には鯨に。
彼のあの弾幕を見るたび、私は彼が人とは程遠くなっていってしまうような気がしてならなかった。
人ではない、恐ろしい姿に変容する悪魔のようになってしまうようで。
私はそれが何よりも怖かった。
最近彼の良い噂を聞かない。
彼が異変の引き金になっているのでは等と、ありもしない噂が人里を走り回っている。
悪魔だと、散々言われて。
それでも尚、何故守ろうとするのか。
彼が信じようとしているのに、裏切られる瞬間を私は見たくない。
彼がまた自分を犠牲にするんじゃないかと思うと──
「霊夢!!」
「っ……なに」
「心ここに在らずってやつか?」
「そ、そういうんじゃ」
「ずっと呼んでも返事がなかったからな」
ついに反論の余地すら無くなった。
らしくもなく、寝巻きのまま飛び出した。
魔理沙も騒動を聞いて駆けつけたのか、いつものチャームポイントのような帽子をかぶっていない。
余裕がないのはお互い様だった。
二人無言のまま宴会会場に向かっていたが、その静寂を破ったのは魔理沙だった。
「……着いたとして」
「ん?」
「着いたとして、どう解決するつもりなんだ」
それ聞いて改めて自覚した。
ノープランで助けようだなんて、確かに甚だ無謀だった。なんと言ったって相手はあの『伊吹萃香』。紫でさえ彼女はインチキだと評価している。
到底敵うか分からない相手だ。
それでも───。
「私たちでやるしかないでしょ」
「萃香をか?!」
「今までそうやってたんだから。今回だって何も変わらないわ」
「……そうだよな」
何一つ変わらない。何も変わらず、私たちのやるべき事をやる。
幻想郷に住む、人々を守る。
妖怪達との調和を保つ。
───シオンは人なの?
「っ……!!」
不意に横入りをしてくる思考を振り払おうと頭を横に振る。
紛う事なき人だ。
人並み以上に感受性があって、誰よりも優しさを持った、人間だ。
だから、守るのだ。
「急ぐぜ、霊夢」
「えぇ、"最悪のケース"だけは避けるのよ」
「オーケー」
私は、私の責務を果たす。
もう誰も傷つかせやしない。
もう二度と。
彼を悲しませやしない。