前に語ったような家庭状況であったが、広域的に考えれば、外の世界は比較的平和な時代であったと思う。特に俺の国はそうだった。
しかし、何も最初からそうではなかった。
長い歴史の中で、数千年という人類史の中で、うち過半数は黒い記憶ばかり。
暗い歴史を抱え、目も当てられない悲劇を重ね、今の時代を確立してきた。
発展していく未来の土台には、血生臭く塗り潰された過去が重く項垂れていた。
俺はその事実を突きつけられ、手拳を強く握った。
頭は思いの外冷静だった。
「その、ヴィネアは魔女狩りの犠牲者に?」
「そこまでは書かれていなかったの」
俺の祖母もとい母親なのかもしれない、魔女ヴィネア───これも俗人から呼ばれていた名称らしいが───、大抵その名を聞けば青筋を浮かばせる者がほとんどであると。文献にそう書いてあるものの、彼女について書き連ねられているのは実に見開き1ページ分だけであった。
これほどの存在であったにも関わらず、それに見合わない情報量の少なさは一体。
理解し難い歴史に眉を顰めると、パチュリーは見開きの最後の行を指でなぞって読み上げた。
『同市では既に2桁に上る異端発見の報告を受けているにも関わらず、彼女の存在が発覚したのは制度発足から実に30年後の事である。その間、住処どころか行動を目撃した情報すら入ってこなかった。』
同市。
この文献は小さな範囲で執筆されたものか。魔女狩りが表立って動き始めた中世ヨーロッパにおいての、その末端。小さな世界で行われていた大きな歴史である。
その中で、息を潜めて生きていた景色が思い浮かぶ。
『鬱蒼と生い茂る雑草を掻き分けた先にあった屋敷は、確かに彼女が根城としていたところであろうが、人が住んでいたというには信じ難く、廃墟というにはやけに綺麗であった。』
ヴィネアは、自分の正体が露見したのを皮切りに姿を消した。
『数日前まで掴めていた姿体は煙に巻かれ、我々は空を切るしかなかった。』
大きなお屋敷だけを残して。
『惜しくも処刑にまで至らなかった容疑者。長年人の皮を被り、民を欺き、街の安寧を脅かし続けた悪魔の権化。』
彼女はどこに行った。
『たった数日で姿を消した、神出鬼没の悪魔。』
姿形は自由自在。
正体は一生かけても掴めず、触れてみようものなら指先から腐り落ちていく。
『ソロモンの神話に倣い、我々は彼女を"ヴィネア"と呼称することにした。』
まるで悪魔のよう。
「貴方が気になっている人のページはこれで最後」
「…………うん、ありがとう。わざわざ調べてくれて」
「良いのよ。貴方にはままお世話になっているから。それより……」
本に視線を落としていたばかりに、伏せがちであった長い睫毛は持ち上げられ、薄茶の瞳は上目でこちらを見つめていた。
仄かにどこか心配そうであった。
「その、割と残酷な話をしたのだけれど」
単に俺のメンタルを慮ってくれているようであった。
心配せずとも、不思議と思考は冷静であった。
「大丈夫だよ。思った以上にショックはなかった」
「そう……なら良かった。何か、参考になると良いのだけどね」
気持ちの良い話ではなかったなぁで終わる気はさらさらなく、何か思い出せることがあるのならそれで良い。
決して明るい過去ではないことは覚悟の上であった。しかし、この文献に記された事に、俺が携わっているかは定かではない。少なくとも、俺の海馬が擽られる様な感触はなく、ただ、ヴィネアの壮絶な過去の一端を垣間見ただけにすぎない。
記憶の内に留めておくこととして、いつか何かの手がかりになると思って、大事に仕舞い込んでおこう。
「助かったよ。流石に見識が深いだけのことはある」
「伊達に数年も生きてないわ。その割には、まだ魔術の底なんて見えやしないもの」
水底に足着くには、人生はあまりに短いものだわ。と、パチュリーはその長い寿命をもってしてもそんな言葉を吐いた。
それはどこか虚しさを孕んだ台詞だった。
物憂げに見えたのは気のせいだろうか。
困った様な表情の彼女を無視するわけにもいかず、立ち上がり様に言葉をかける。
「パチュリーみたいな奴が1人でもいれば心強いもんだよ」
「え?」
「莫大な知識を持ってしても、決して胡座をかかず、そうして他人の気持ちを図ってくれる。俺の様な奴には救いみたいなもんだよ」
それに親近感が持てる。と、付け加える様に言った。紛れもない本心であった。親近感については、自分が似た境遇にあることを知ってからだが。半永久的に死ねなくなってしまってからというもの、人肌恋しくなれど、虚しさは埋まらずにいたのだから。
「俺と似た様な存在。だけど、極めて貴い。大切な存在だ」
「……私の知ってる貴方は、少なくともそういう事を恥ずかしげもなくいう人じゃなかったわ」
彼女は、先の文献を口許に当てて、不満気に眉を顰めたかと思えば視線を逸らした。
照れている事は明白だった。
自分自身、いつからこんな軟派な性格になったのか定かじゃない。別に無理して口に出している訳ではない。
些か不思議な心地に襲われるが、パチュリーのいじらしい反応を見ていたら刹那、そんな考えは消え失せた。
んんっ、とパチュリーは咳払い一つで取り乱した心を落ち着かせると、未だ頬は朱色のまま、話を続けた。
「ともかく、私から言える話は今のところこれだけ。あと….こあに頼んでることもあるけど」
「?….こあに?」
何やら思案顔でパチュリーは部屋の奥を見つめた。先から何やら作業しているこあが居る方向であるが。
パチュリーの声に応えるように、こあはすぐに声を上げた。
「あ!ありましたよ!」
「ほんと?持ってきてもらえるかしら」
「はいー!ただいま!」
静かな森にパッと咲いた花のような声がした。すぐに小悪魔は赤い長い髪を揺らしてパタパタと小走りでこちらへ向かってきていた。
両手で大事そうに抱えていたのは、これまた一冊の本だった。
「こちらです!彼女について書かれていたのは本当一節ですが……」
「よく見つけたわね….ありがとうこあ」
「いえいえー!」
小悪魔が指で挟んでいたページを開き、パチュリーはひたすらその記載を見つめていた。
酷く達筆に記された内容は、やはり読ませる気がないようである。はたして本当に読めるのだろうか……。
パチュリーは、ズラリと枠に沿って書かれた文章を指でなぞっていた。
「ん?」
「……どうかした?」
思わず俺は声を出していたようだった。
疑問を伺わせる一声に、パチュリーは文献から目を離さないまま反応をくれた。
「縦読み?」
「えぇ、そうね。日本で作成された書類だもの。それも昔の」
そうか。ヴィネアが英名であって、というよりは通称であるところは今判然としたところである。彼女が、いわゆる"人類"と格別された存在であることは承知の上、調べるとしたら海外の古い文献にあたるのは最適解だろう。
しかして、些か疑問なのが俺の存在である。
俺の脳には『久榮』という名前が色濃く刻まれており、裏付けるかのように、俺は数年前まで日本にいた。
比較的平和な時代の、中でも平和な国。
差し当たって、日本にも何か手がかりがあると考えても良い筈なのだ。
「それで、住民票か……」
「彼女ほどの存在が、海外でも文献はあれだけ、日本では公的文書のみ……にわかに信じられないけどね。……あ、ここか」
ポツポツと疑念を口に出しながら、尚も淡々と文字を追っていた。
ついぞ見つけ、白い指が差していた一節。そこには確かに『宗馬 久榮』と、俺でもギリギリ読めるように記載されていた。
「……久しぶりに見たな。この名前」
「貴方の苗字"宗馬"だったの」
「そうだったっけね」
かつて生活を共にしていた彼らと同じだと思うと気分が悪くなるものだから、あえて思い出そうとはしなかった。
えてして、こうして文字で見ても、音で聞いても、何も思わなくなったのは心に余裕が出来たからであろうか。
「というか、これを調べたのは一体……」
そもそも、何故公的文書がここにあるのか疑問であるが。
「本名が書かれてるんじゃないかと思って」
「本名?」
一度首を傾げたが、すぐに「あぁ」と思い当たる。
「英名の方か」
「さっきの本にも書かれてたけど、ヴィネアは相当見目麗しかったそうよ」
「まぁ、そうだったかな。少なくとも、東洋人の顔はしていなかった」
病的なまでに白い肌と、高い鼻に彫りの深い目は、まるで作り物のようであった。
「となると、彼女は海外生まれ。順番的には欧州で長らく住んでいたけれど、先の事件により移動を余儀なくされた。その際向かったのが日本」
「相当昔の話になるよな。なぜ日本を選んだんだろうな」
「未開拓の地だったからよ。神も悪魔もいない世界に行くのが最適だったのよ」
たかが隣国に亡命したところで、既に世界のほとんどは例の宗派が浸透していた。細かな違い、信じるものの齟齬によって幾つかの派閥に決別したにせよ、魔女と呼ばれる存在を受け入れてくれる世界はなかった。
少なくとも、あの近辺には。
「日本では"宗馬久榮"の名前で生きていた事が分かったのだから、芋蔓式に他の資料も見つかれば良かったんだけど….」
「残念ながらそこまで揃ってはないですね……」
残念ながら、経歴を追うには住民票だけでは心許なかった。というのも、どうやら来日後すぐに日本人男性に嫁いでいるようで、記録されていた過去の住居地はただの1つだけ。
戸籍謄本も附票もないものだから、裏付けるには証拠が足りない。そもそも記載の住居地は、俺が住んでいた家と同じである。彼女が死没したのも、もれなく同所。
つまりは、日本に来てから彼女の動向は全くの不明である。
「調べてもらって悪かったね。手がかりは少ないけど、あとは自分の足でも使って探して───」
俺は早々に引き下がって、数少ない彼女の足取りを追うしかないと考えた。
俺の言葉を遮ったのはパチュリーであった。
「いいえ。手がかりならあるわ」
「?まぁ、彼女の動きが見えたから、それは….」
「手がかりというよりは、疑問点ね」
どうぞ、座って。と、パチュリーは再び俺を向かいの席に座らせた。小悪魔はパチュリーのすぐ横で綺麗な姿勢で立っていた。さながら秘書である。
妙に空気が張り詰める感覚がした。
「経歴的には、確かに情報量が少ないわ。ただそれは、記載の情報だけを見たから」
パチュリーの手元には、たった今見せてもらった2つの本が開かれていた。
情報だけ。
本に描かれた文字だけを読み解いたに過ぎない。彼女はそう語る。
「16世紀頃に作成された海外の文献に、日本の住民票」
「だな。形に残る手がかりはこれだけ」
パチュリーはどこか、俺を訝しむような目で見ている。目線の動き、体の動かし方、喋り方。非常に少ない情報量から何かを探り出そうとしている。
俺が何かに気づくのを確かめていたのか。
パチュリーはしばらく俺に向けていた視線をふっと外し、核心から話してみせた。
「日本で住民票制度の運用が開始されたのは、どんなに遡っても明治初期よ」
「明治……っていうと…」
「1868年くらいだったかしら」
その言葉を聞いて、ヒュッと息が詰まる感覚が刹那的に襲う。
流石に、俺でも何が違和感であるのか分かる。
「魔女狩りが全盛期を迎えたのは16世紀後半から17世紀にかけて。制度発足から30年経てようやくその足取りを掴めている。文献では制度発足は16世紀半ば頃ね。そこから30年……まぁ、ちょうど全盛期かしら」
概算であるものの、着実に彼女の経歴を、足取りを、淡々と追っていく。
「その後、彼女は忽然と居なくなった。後の手がかりとして残るのは住民票……というより、戸籍簿かしら?文字が掠れてしまっているけれど、恐らく登録されたのは大正に入ってからよ」
間違いなく捏造された生年月日からその特定をした。1914年生まれ。日本史で言うところの大正時代の期間である事がわかる。
ここでまず一つの疑問点。
「約300年間、ヴィネアは何をしていたのかしらね」
空白の期間。あまりにも莫大な、しかして、魔女からしたらちっぽけな年数。
「……各地を転々としていたか」
「ふむ….まぁそう考えるのが妥当かしらね。彼女、人の噂で〜というより、本当に魔女みたいだし」
そう考える他無かった、というのが正確だろうか。300年間誰にも見つからない生活は可能なのだろうか。可能であったにせよ、酷く惨めだ。
虚しい生き方を強いられていた。
「……っ…?」
ふと。
何か、記憶の隅に景色がチラついた。
映画のフィルムに焼き移したような景色が。
パチュリーの話は続く。
「それともう一つ。貴方には他にも家族がいたわよね」
「あ、あぁ……父と、母と…あれ、でも母はヴィネアで….あと姉も」
「少なくとも、1900年頃に作成された戸籍簿に名前がないわね。ご両親は今おいくつ?」
パチュリーの言う両親とは、恐らくあのろくでなしの事だろう。
恐らくではあるが、微かに記憶にある。
「生きていれば….父が60くらい、母は57….くらいか」
「どちらがヴィネアの子であっても、到底子供を産める年齢でない事は分かる?」
一瞬、理解が遅れた。先から思うように頭が働かない。何か、記憶の奥底を突かれるような感覚に陥る。
熱くなってきた呼吸を落ち着かせて、計算をしてみる。
父が60であるならば、1987年生まれか……母であるならば…………
「どの道、70歳超えてるじゃないか….!」
「そうね。魔女なら然したる問題じゃないのだろうけど、貴方の話を聞く限り、ヴィネアの魔女らしい姿を見たことはないみたいね」
「歳相応….まぁ、何歳か分からないけど、普通に老人だった」
「魔女は不老よ。もうその頃には、彼女はただの人間だったのかも」
話が頭の中で反芻され、膨らんでいく。苦痛に耐えようとして、徐々に顔は熱を帯びていく。
尚も、冷え切ったパチュリーの声は続く。
「この事は貴方を呼ぶ前に気づいてたの。だから、少し覗き見させてもらったわ」
「……は…?」
「これ」
俺の目の前に置かれたのは一枚の紙。
比較的真新しく、ほのかに色づいた紙はいわゆる除籍謄本であった。
つい1週間前に発行されたものである。
「ど、どうやって….」
「えへへ……」
小悪魔はバツが悪そうに笑ってみせた。
恐らく、何らかの不正を働いて得たその手がかりは、幾分情報が詰まっていた。
「貴方が姉と呼ぶ人は既に籍を変えてるみたい。どこかで生きてるわね。その他の家族はみな死んでるわ」
「そ、そうだな……」
淡々と述べられた事実に頷くしかなかった。しかし、これは俺も知っている。
両親は居間のソファで心中。ヴィネアは老衰であった。
パチュリーは、まぁそれはともかく、と華麗に流してみせると、『正史』と標題の付いた項目を指差した。
俺の父であった。
「貴方が父と呼んでいた人は、どうやら特別養子縁組だったそうよ」
「と、とくべつ……」
「育ての親がヴィネアとその夫。生みの親が別にいるのよ。恐らく拾い子でしょうね。捨てられたのよ、きっと」
追究すればするほど、残酷な現実を突きつけられる。けれど、やはり俺はさほどショックではなかった。
「その男は何不自由なく育って、結婚して、娘が1人産まれた。貴方の家族について言えるのはこれだけよ」
ヴィネアがどのタイミングで不老を捨てたかは定かではないが、恐らくまだ赤子であった父を拾った時点では、まだ若々しくいた事だろう。その後の人生が極めて不可解なことになるから。忍んで生きていた彼女が、そう目立つ真似をする事はないだろう。
側から見ればおかしな話だが、事情を知っていれば何も食い違うポイントはない。
パチュリーはまだ話す気でいた。
本題はそこではない。
彼女の聞きたかった事は、最初から決まっていたのだ。ただ、俺の様子を見ていた。タイミングを伺っていた。
俺の脳みそが痛みを訴え始める、今がその時だった。
「何処にも、貴方の名前がないの」
数百年分のフラッシュバック。
「私達も、貴方の名前が分からなくなった」
思えば、ずっと俺は名前を呼ばれていない。
「散々言われたでしょうけど、改めて言わせて」
私の名前は、なんだっけ。
「貴方は何者?」