霧崎音葉の朝は一杯の紅茶から始まる。……というのは妄想であり、理想であり、幻想に過ぎない。朝起きれば、隣には幼馴染の義母である春夏が緩んだ頰を必死になって戻しながら此方を見て来ていた。下着姿が家でのスタイルでかなりズボラなのか服は脱ぎ捨てて床に転がるのが常だ。
外見は美少女。だが、心は確実に男の子な霧崎音葉にとってこの光景は目に毒だ。いくら見慣れているからと言って長時間の直視はかなり危険である。
6:18.
時計が差すのはまだ学校に行くよりも早い時間帯。
霧崎音葉は朝に弱い。
力なく伸ばした手でアラームを消しておく。
「ね…む…い…」
「私がシャワーを浴び終えるまでに起きてること。いいわね?」
退室して朝のシャワーに行く春夏を見送りながら這い出すように布団から出る。服を用意していない彼女の代わりに音葉は取り敢えず目に付いた清潔な衣服を箪笥やクローゼットから選ぶ。そんな日常的にやっているような物怖じしない音葉の隣に浮いているピンク髪の少女が手元を覗き込む。半透明な体。透き通るような肌と瞳は何処か幻想的な雰囲気を醸し出している。彼女はにんまりと人の悪い笑みを浮かべる。
『黒ね』
「言っておくけど、選んでるわけじゃないの」
『あら、どうかしら』
「最初に手に取ったものの上下を探しているだけだから」
『ふーん。そう』
ニヤニヤとした笑みをやめない少女。彼女の名前は桜満真名。数年前のロストクリスマスで死んでしまった音葉の元恋人だ。真名の恋人が音葉と言った方が正確かもしれないが。彼女は死んだ今も現世に居着いている。それも音葉の魂そのものに粘着する形で。
『今日の私は何色だと思う?』
「さぁ、何色だろう」
スカートをひらひらと捲ったり離したり真名が挑発を仕掛ける。相手をしたら思うツボだと学習している音葉はポーカーフェイスでそう答えたのだった。不機嫌そうに真名は背後から抱き着いてくる。腕を前に回して甘えるような仕草、耳を甘噛みしたり頰を擦り付けたり、ご機嫌は良好な方に回復した。
「朝からベタベタしない」
『死んでも一緒って言ったじゃない』
いやー、愛されてるね。なんて冗談半分で受け流す。ガチャリ、と扉が開く音が背後から。振り返るとさっきシャワーを浴びるために部屋を出た春夏が部屋を覗き込むようにして立っていた。
「そうだ、インターフェイス……完成したわよ」
「じゃあ、近日中に盗りに行きますね」
「……気をつけてね。子供と言えど、容赦はしないだろうから」
「大丈夫ですよ。……スケープゴートは用意してあるんで」
まるでその場には一人しかいないような態度で音葉を見つめる春夏はそれだけ言うと去って行く。
彼女を貫通した視線は、仕方ないことなのかもしれない。それでもやはり胸に痛みを覚えて、胸元の布地を握り締め歯軋りの音が二人だけの部屋に木霊した。
❇︎
警報が鳴り響く。GHQセフィラゲノミクス。春夏の勤め先を悠々と歩く白髪の彼を不審人物として扱う者はいない。それどころかまるで見えていないように隣を通り過ぎて行く。警報によって警戒地点へと走る兵士達を尻目に、冷笑とも見える微笑を浮かべて踊るようにステップを踏んで行く。
『いつからこんな酷い事出来るような子になっちゃったのかしら』
「さぁ、少なくとも真名の所為で性格は歪んだかもね」
『えー。ちょっと着せ替え人形にしただけじゃない。集もトリトンも嫌がるから、消去法で貴女しかいなかったのよ』
「女の子の仕草も作法も教え込もうとしたよね。そのせいで、自分を『私』としか呼べなくなったんだけど」
成長したら余計に女々しくなって絶望するかと思いきや、耐性が付いていた所為であまり抵抗はなかったものの。
今回の作戦について、真名は利用されたテロリストに同情を覚え始めていた。
「ツグミ、進行状況はどう?」
『音にぃ。こっちは苦戦中。なんでそっちには兵隊が行かないのよ』
耳につけた通信機から紛う事なき少女の声。かなりあどけない声だ。
「もう少し計画は詰めないと。あ、下層E-02の監視カメラとか諸々シャットアウトしてくれる?」
『早っ。保って30秒よ』
「十分。終わったら葬儀社の方に専念よろしく」
『約束、デートだからね』
「ツグミン愛してる」
通信は終了し、周囲の警報装置、監視カメラ、電源全てが落とされる。この区画だけは特別なようで非常用予備電源が入り薄明かりが灯った。
目の前の鉄扉に手を触れる。軽く触れただけでぐにゃりと壁は歪む。口角を吊り上げながらクールに無音で壁を破壊する。大きな魔法陣が展開し、消えた。
「……本当に趣味が悪い」
部屋に足を踏み入れて第一声がそれだった。培養液のようなエメラルドグリーンの液体と、その中心に鎮座する機械製の拘束具のような装置の中には裸の少女が胎児のように丸まっていた。真名が生きていれば年齢はそのくらいだろうか。かなり似た容姿の別の人型、桜色の髪の少女を見て同じく桜色の髪の少女はあられもない姿に魅入る。
『私の模造品、か……これ私のからだにしちゃってい?』
「ダーメ。自我があるのなら私が育てる。もう二度と同じ結末は辿らない」
『えー、ぶーぶー。私としたくないの?』
「馬鹿言ってないで撤退するよ」
『葬儀社に罪擦りつけて?』
「どうせやるつもりだったんでしょう。なら、免罪にはならないでしょ」
『まったく酷いんだから』
お姉ちゃんはそんな子に育てた覚えはありません、と腰に手を当てて説教してくるが育てられた覚えもなく–––むしろ調教された感があるが真名の言葉を無視した。
液体の上に足を踏み出す。すると、どういうことか足は沈む気配がなかった。波紋が広がりそのままゆっくりと歩き少女の元へと接近し、真下へと到着すると手を伸ばし拘束具がバラバラに崩れ落ちた。崩れ落ちる鉄片の中から少女だけを掬い上げて着ていたコートを羽織らせる。男性としては好ましい状況であるが状況を選ばないほど馬鹿ではない。
「おまえは誰だ!?」
一安心したのも束の間、広間に男性の声が響いた。
情報は把握している。金髪の男は葬儀社・リーダー、恙神涯。
加えて四分儀と月島アルゴ。
なるほど、面倒な面子が出しゃばってきた。
「私は私。それ以外に答えは必要?」
「……その手にある少女を渡せ」
「却下、と言ったら?」
「実力行使だ」
彼らの求めるもの。それはこちら側にある。だというのに、問答無用で銃を構えたかと思うと発砲。コンマ0.3の常人なら躱せないような精密射撃を霧崎音葉の脳天へと迫らせ、直撃は必至かと思われたが何もせずに銃弾は逸れた。
「これは警告だ。怪我をしたくなかったらさっさと渡せ」
「優しいのね、お前」
「無駄口を叩く暇があったら–––」
「残念、時間切れ」
少女を横抱きにしたまま音葉は地面を破壊した。上がる粒子の煙に残された三人は目を守りながらも消えた行方を追って粉塵が収まる頃には誰の姿もなかった。通信機から仲間の声が聞こえる。時間切れだと。任務の失敗に歯軋りをしながら涯は撤退を始めた。
❇︎
少女が目を覚ましたのは深夜を過ぎてからだった。弱々しく布団を払い除けて自分の姿を見下ろす。一糸纏わぬ裸体を見て首を傾げるものの、状況は把握出来なかった。自分がどうして此処にいるのか。自分は誰なのか。どうして裸なのか。絶えない疑問に寝惚けた思考を覚醒させようとするも、言えるのは一つだけ。
「何もない……」
「あっ、起きた?」
再度、首を傾げる少女に音葉は挨拶代わりに問い掛けた。意味などない、自分を認識させるための声掛けに想像以上に少女が肩を跳ねさせた。急いで裸体を隠すあたり羞恥心はあるのだろう。赤児レベルの知能なら困っていたところだ。
「あなたはダレ?」
「私は霧崎音葉。男だよ」
悲しいことに自己紹介をする時は性別について自己申告をしなければならない。これは長年でついた癖だ。
「君の名前は?」
「私は……ない。何も、ないの」
「じゃあ、私がつけようか」
急遽考えられた名前は願望、とも取れるような。
或いは、彼女に願う、彼女への願いそのもの。
「いのり。……どう?」
「いの、り…いのり…いのり…」
コクン、と満足したように頷いた。無表情で反芻しては飴玉を転がすように何度も自分の名前を呼び続ける。不意に少女–––いのりは音葉を見つめた。ぐぎゅる〜と可愛らしい音が鳴った。
「お風呂入っておいで。ご飯は用意しとくから。深夜だから軽めのものしかしないけど」
「お風呂……?」
「なるほど。一般常識は曖昧なわけか」
いのりが起きるまで迂闊に動けなかった音葉はシャワーを浴びていない。取り敢えず、二人分の着替えを用意していのりを案内すると自分の衣服を脱いで裸のままの彼女に中に入るよう勧めた。ついでに誰でも彼でも一緒に入浴をしないようにと釘を指す。簡単に自分の身体を洗ってみせて実践してもらう形式で入浴を終えると今度は軽食の準備。おにぎりを2つ、漬け物を少量。いのりは黙々と完食してしまった。
「夜も遅いし、そろそろ寝ましょう」
部屋の用意をしてなかったので、必然的に春夏と音葉どちらかの部屋となる。春夏は残業で泊まり込みの仕事に追われていて今はいないのでどちらかが春夏の部屋を使うことになる。しかし、おそらく春夏の部屋は悲惨なことになっているので案内はできない。消去法で自分の部屋を差し出すことになった。
「ここ使って。私は別の部屋で寝るから」
「……」
「どうしたの?」
退室しようと扉の方に歩こうとすると、袖をぐいっと引っ張られた。振り返ればいのりが必死に抵抗している。
「独りは…嫌」
一瞬、きゅんとしてしまった。最初から可愛いのはわかっていたが不意打ちは流石にクリティカルヒットだ。無表情で見上げられるのも何考えているかわからないが、それを補って余りある言葉の破壊力。この時、音葉の常識やら倫理やら何もかもが吹き飛んだ。
「もー、可愛いなぁもぉ」
「…苦しい」
思わず抱き着いてきた音葉に抵抗することなく主張すると、我に帰った音葉がいのりの拘束を解く。
「さ、寝ましょうか」
「…うん」
ベッドの奥側にいのりを誘導して、音葉が手前側に陣取る。布団をかぶるといのりは音葉に身を寄せるように接近した。
「……落ち着く」
理由はわからない。けれど、一緒にいると安らぐ。自分の居る場所が彼の隣で良かったと改めて思いながら眠りに落ちた。
翌日。6時に目覚まし時計の音で目を覚ましたいのりは目覚まし時計の音を止めた。寝惚け眼でのそりと起き上がるとフラフラ部屋の外に出て状況を確認する。辺りを見回していると別の扉が鳴った。硬直しているとその部屋から同年代の男が出て来る。お互いにバッチリ目が合い欠伸をしていた男は大口を開けたまま固まってしまった。
すぐさま後退して、いのりは扉を閉めるとまだ寝ている音葉を揺り起こす。軽くパニックを起こしている彼女は起きるまで揺り起こし続けた。結果、朝弱い音葉を叩き起こす事に成功した。
「待って…買い物は午後から…眠らせて」
「起きて。…誰かいたの」
「男? 女?」
「……女?」
この時、既にいのりの中で男女は逆転していた。初めて見た男が霧崎音葉という異常性故の誤解だった。
「春夏さんじゃないかな。帰ってきてたの…」
「誰?」
「保護者的な立場の人」
簡潔に説明を終えると再び眠りに就こうとする。誤解が誤解を生む形になったがいのりは納得して布団に入った。
こうして出来たいのりの誤解と集の抱いた謎が解けたのは集が学校から帰宅した夕方過ぎの事だった。