「……学校に行きたい」
突然、いのりはそんなことを言い出した。普段は自己主張すらせず音葉の近くで寄り添ってあやとりや歌を唄う彼女であったが、こうして何かを要求するのは初めてのことだった。少し驚いて音葉はいのりの顔を見つめる。いったいどうしてそんなこと言い出したのかと。
「急にどうしたの?」
「……だって、私に付き添っているから学校に行ってないって」
「そんな心配しなくてもいいのに……」
確かに、いのりの警護という理由で彼女の側を離れられないのは事実。かと言って、彼女を家の中でしか活動できないようにするというのは音葉の幸せにするという目的とはかけ離れていると思う。外の世界に触れることを欲しているのなら、自分が警護に付きながら外出させた方が安心なのは明白。事情も何も知らない集と出掛けるというのは言語道断。むしろ手を出したら八つ裂きにするくらいの忠告はしてある。
音葉は考えた。手はないでもない。同じクラスにするのも容易だ。それにはツテを最大限に利用することになるが、借りを作るきっかけにもなり兼ねない。いのりと天秤に掛けた結果、重要性はいのりの方が高かった。
「OK.その前にテストしましょう」
「…何をするの?」
「ちょっとした学力テストよ。せめて赤点を取らないくらいにはなってもらわないと困るから」
簡単に現在学校で使用している問題集を用意する。まとめ問題のページだけを抜き出していのりに差し出す。正直、理数系以外は集に教わった方がいいと思ったので適当に出しただけだ。音葉は理数系以外の成績があまり良くない。
「…できた」
「少なくとも100問はあったのだけど」
終わったとのことで問題集を全部答えと照らし合わせてみる。意外な事に全問正解。学力的には集も音葉も遠く及ばなかった。
「……ごめんなさい。勉強教えてくれない?」
膝から崩れ落ちた音葉は切実に頼んだ。
学校を休んで一週間、本格的に英文等の科目がヤバかった。
❇︎
供奉院。表でその名を知らぬ者はいないだろう。数多くの企業グループを牛耳る代表で、クホウイングループと総じて呼ばれる事が世界で精通しており天王洲第一高校では出資も行なっている大株主だ。裏でもその名を知らぬ者はいない。特に音葉にとって縁深いのは表ではなく裏の供奉院の方だった。
「相変わらず大きい屋敷ね」
供奉院邸。ここに来るのは四度目くらいだろうか。いずれにせよ裏の事情で通い詰めていた為に道に迷うことはなかったが、入るのを気後れするような趣味の悪い家だと思った。やたらデカくて掃除をするだけでも一苦労なその外観に呆れてモノも言えない。
事前に連絡はしてある為に不在ということはないだろう。仕事を蹴ってまで時間を用意してくれたというのだからこちらも遅れるわけにはいかない。意を決して呼び鈴を鳴らす。そうすると歳若い女性の声が–––というか、学校でも訊き慣れている声が出迎えた。
『はい? どちら様でしょうか』
「霧崎音葉です。ハロー、生徒会長」
『……お祖父様が大切な来客だからと予定をキャンセルしたけど、貴女だったのね』
「まぁ、そこまでたいした用じゃないんだけど」
『待って。いま開けるわ』
鉄柵が自動で開く。大きな音に耳を塞ぎながら稼働が終わるのを待つ。開いた後でゆっくり門を通るとそのまま庭を突き進み屋敷の扉の前へ着いた。
コンコン、と今度はノブをノック。
一分程で木製の扉は開き、横に並ぶメイドとSP達が整列している姿が。
「ようこそおいでくださいました。音葉様」
一字一句違わず、声を揃えて、動作もぴったりとあったお辞儀。
毎回ながら、居心地が悪くなる光景だった。
「いらっしゃい。音葉君。お祖父様がお待ちよ」
「毎回思うんですけどなんとかならないですかね、これ。亞里沙先輩」
「供奉院にとって貴女がそれだけ特別ということよ」
「特別悪意でも込めてるって意味ですか」
胃薬が欲しくなる話だ。いや、頭痛役の方が今は役にたつかもしれない。
供奉院亞里沙の先導で屋敷の中を歩く。いつものことながらだだっ広い屋敷に退屈に目を向けながら応接室へと向かった。
「お祖父様、お連れしました」
「入れ」
木製のドアをノックし、礼儀正しい所作で亞理沙が入室する。中から聞こえた声といえば貫禄のある爺の声だ。相変わらずだなぁと音葉はなんともいえない気持ちになる。扉の先で待っていたのはやはり初老を既に超えた爺だ。
「よく来たな霧崎殿」
「今日は時間を作ってくれてありがと、おじさま」
「相変わらずおぬしは歳をとると性別がはっきりしなくなるのぉ」
「褒め言葉として受け取っておくわね」
対面のソファーへと座り、すかさずお茶が出て来る。好みは熟知しているのか紅茶だ。そして、やはり金持ちか高級品の類を平然と用意してくれる。
「それで早速で悪いけど、今日はお願いがあって来たの」
「珍しいな。こちらで叶えられるものなら叶えよう」
「まだ何も言ってないんだけど」
「こちらも世話になっておるからな」
取り敢えず、願いだけを叶えてさっさと帰ってしまいたい気分だった。今後とも宜しくとも意味合いの取れる言葉を聞き流して、音葉は本題を切り出した。
「実は、私のお願いというのは一人天王洲第一高校に転入……させたい子がいるの。私と同じクラスで、三年間同じにしてくれると助かるんだけど」
「なんだ、そんなもので良いのか?」
「もし得られるのならGHQの動きに関しての情報も逐一欲しいわ」
「うむ、手配しよう」
「じゃあ、私はもう帰るから」
「……まぁ、待て。もう少しじっくり話をしようではないか」
「……例えば?」
「うちの孫娘と婚姻–––」
「確かに綺麗で可愛くてエロくて素敵ですけど、その話はまたの機会に」
音葉は逃げるようにその場を後にした。
❇︎
「それでは転校生を紹介する」
天王洲第一高校・1ー1の教室は今朝からかなり賑わっていた。理由は見ての通り、『転校生の話題』についていつもはさほど高くないテンションはこれほどかと上がっていた。音葉は朝から一緒に登校して来たし驚く程でもないが、かなりの騒めきに少し苛立っていた。
トントントントントントン。リズミカルに机を叩く指の音など周りのクラスメイト達からすれば話題の方が重要なようで、耳にも入っていない様子だった。
そして、時は来た–––。
教師の入室を促す言葉に反応して桜色の髪の少女が入室する。それだけで教室は静寂に包まれた。
「うおおおぉぉぉ! 可愛い!!」
直後に爆発した。
思わず、音葉は耳を抑えて机に突っ伏した。
魂館颯太だったか、彼のブラックリスト入りは確定した。
「楪いのりです。…よろしくお願いします」
二度目の爆発が起こる。あれか。一々爆発しないと生きれないのか? 大音量で雑音を流された気分になりながら音葉は深く机に沈み込む。本格的に頭痛薬が欲しくなって来たところだった。
「席は……ちょうど霧崎の隣が空いてるからそこに」
指定された席は教室の角の窓際にいる音葉の隣。教師の指示でゆっくりといのりは歩いて行く。これも数日前に決まったことだが、急な席替えを行い事前に隣は開けられていた。転校生が来る、という理由は教師側に伝えられたもので教師側も不審には思ってもいない。その全てが一人のクラスメイトのせいだとは誰も露ほども思わないだろう。
「……音葉、疲れてるみたい」
「まさか男子がここまで枯れてるとは思ってなくてね」
「…膝枕、する?」
もちろんお願いした。
邪魔者(教師)がいなくなれば飢えた狼が我先にといのりに押し寄せる。しかし、大半の男子は意気地無しが多くむしろ女子の方が近寄り易いことで言えばそれが自然だった。魂館颯太はその狼の一人。ここぞという時にばかり勇気を発する。
「はいはい、楪さんは何処に住んでるの!?」
男子生徒の大半の耳が反応した。
押し寄せる質問にいのりは静かな様子で受け止める。きっと殆ど何も考えていない表情で、彼女は隣で頬杖をついている音葉に視線を送るもたいした意味などないのだろう。首を傾げて見せるといのりは質問に戻る。
「音葉と同じ…部屋も一緒」
「え、えぇ? ちょっ、どういうことだよそれ!?」
男子生徒……どころか女子生徒の心中も代弁したかのようなセリフ。颯太は音葉に詰め寄るのではなく、同居人の集へと詰め寄った。
「どうって言われても……ねぇ?」
集は助けてくれと言わんばかりに音葉に視線を向ける。集自身もまだ姉に似た少女をいきなり連れて来られて意味も何もわかっていないのだから、どう説明をすればいいのかも検討がつかない。
そんな困惑している集と比べて堂々とした態度で音葉は答えた。
「一緒に住んでいることに横槍を入れられる筋合いはないのだけど」
「……実は兄妹とか?」
「そんなわけないでしょ」
むしろ姉妹というなら音葉の視界に今も浮遊している幽霊もどきの真名といのりが、と言われた方がしっくりくる気がした。
「だったらなんだってんだよ!? 転校生がかなり可愛い子だったのにお手つき済みとか酷過ぎんだろうがチクショウ!」
「手ェ出したらそのナニ斬り落とすから。……他の男子も余計なことはしないことね」
「イェス・マム!」
正確には「イエッサー」だが敢えて音葉は無視した。最近、女王様もかくや呼ばれることの多い彼は女磨きというかなんというか変な方向に覚醒しつつある。もちろん心は男子だ。だというのに誰が見ても女子と言う。素性を隠すには性別を逆に気取ることで裏では動きやすくしているがその癖が最近、表にも反映しているせいなのかもしれないが。
「もう質問がないなら、切るわよ」
「ちょっ、待った、あと一つだけ」
最後の質問となる。指を一本立ててそう主張するもこれで本当に終わるだろうか。いのりは人に初めて大量に囲まれて疲弊しているように見えた。
「ズバリ、楪さんの好みの男子は!」
そんなこと思いつきもしなかった。音葉にも興味のある案件だ。いのりに向き直ると彼女も音葉を見つめていた。
「…音葉みたいな人」
「……無理だ」
クラス中の男子生徒が崩れ落ちた。
下校時間になり、電車に乗って二人帰路に着く。音葉の後ろをついて回るいのりの様子に何処か微笑ましい様子で見送ったクラスメイト達と別れて簡単な買い物を終えると、マンションに帰れたのは夕暮れ、指紋認証システムに手をかざして電子ロックを開けて中に入り、さっさと着替えに行ってしまったいのり。その着替えを待つ間に買い物で今日買った食材などを冷蔵庫にしまった。
「…音葉」
「早いね。なに?」
「座って」
女の子にしては早着替えないのりにびっくりしていると、ソファーに座ったいのりが隣をポンポンと叩く。促されるままに座ると今度は引っ張られて膝枕された。
「初日、どうだった?」
「…楽しかった」
淡白な感想。それでも少し緩んだ口元を見れば本気だと言うことが伝わってくる。それなら良かった、と自然と音葉の口元も緩んだ。
「まだ楽しいことはあるよ。体育祭に文化祭、修学旅行に林間学校もあるらしいし」
「でも、少しだけ…疲れた…かも」
「ゆっくりお休み。初めて大勢に囲まれたんだから」
精神的な疲労は時に肉体的な疲労よりも色濃く出る場合がある。こうやっていのり自身に興味を持つ人間との接触は初めてだったのだろう。受け答えだけでかなり消耗したいのりはそのままぐっすりと眠ってしまった。
膝枕も名残惜しかったが起き上がって、いのりを部屋へと連れて行く。ベッドに寝かせて布団を掛けたところで突然、目眩に襲われ足元がふらついた。
「あっ、まず……」
片腕をベッドに突いた。膝から崩れ落ちる。急激な痛みと発熱が襲う。
「……発作が、始まっ、た……」
あの日からずっと、一定周期で来る症状。
渇き。痛み。苦しみ。
薬も何も効かない病名不明のそれは、体表に紫の結晶を作る。
アポカリプスが体を蝕む。
『……またはじまったのね。大丈夫よ。貴女がそれに殺されることはないもの』
ひんやりとした幽霊の手が額を撫でた。
朦朧とした意識の中、その感触だけが光のような。
錯覚の中で音葉は眠りに落ちた。