鼻をつく血の匂いが清滝の丘にまで漂ってくる。
眼下には屍山血河が広がっていた。
「これは嵌められたな……」
毛利軍に追い立てられる大友軍を見て、俺は嘆息していた。
関門海峡から南蛮船が撤退してからというもの、少し前の優勢が見間違えだと思ってしまうほど大友軍は壊乱していた。
この流れから見るに、初め大友軍と門司城の将の間に内応が取り付けられていたのだろう。狼煙が城から上がって攻めかかるなんてそれぐらいしか考えられない。しかし、それは毛利軍の大将……おそらくは小早川隆景に看破されており、逆用されて今の状況に至ったと考える方が自然か。
「そろそろ潮時か。本陣に帰ろう」
こうまで綺麗に嵌められれば、勝敗は明らか。観戦するこちらとて危うくなる。
そう思って退去しようとしたが、どうやら一足遅かったらしい。
「怪しい者め! 大友の間者かは知らぬが、ここで会ったのが運の尽きよ!」
毛利軍の斥候に発見されてしまったのだ。幸い数が少ないため撒けそうだが、むざむざと俺たちの存在を知らせたくはない。
「あくまで後陣でうろつくだけだから表だって戦に巻き込まれることはないと思っていたが、どうやら戦の方が俺を追いかけてきたらしい。孫四郎、これより死地に参るが異存はないな?」
「も、固よりそのために仕えておりまする。未だ未熟者でございますが、存分にこの命をお使い下さい」
実戦が初めてだからか勝久の表情に怯えがある。いささか心配ではあるが、この状況ならまだマシだ。この際だから前々から考えていたことをやらせるとしようか。
ここでやらずとも良いが、いつかはやらなければならないことだしな。やれる時にやった方がいい。
*****
……斥候との戦いは長かった。というのも勝久に全て任せたのである。
斥候の力量が人並みの兵士と同じぐらいだったため勝久一人でも問題ないと判断したのだ。
「……はあ、はあ。兜首、ちょうだいする……」
息も絶え絶えに勝久が斥候の首を刈り取る。その表情はひどく沈鬱なものだ。
「お屋形様、やりました。手柄です」
「良くやった。……辛いだろう、人を殺すことは」
「はい……」
勝久が俯く。
やはり自らの手で人を斬ったという事実がその肩に重くのしかかっているようだ。
「だが、そうしなくては生き残れないのが武家だ。とりわけ九州では知っての通り姫武将殺さずの掟もない」
過去に一度、俺は勝久の願望を聞いた。
せっかく生き永らえたこの命を無駄にしたくはない。この願いはかつて俺が願ったものでもある。
だが、この乱世で武家がその願いを果たすには自らが他者の命を奪わねばならない。
「勝久。お前はまだ引き返せるぞ。出家すれば、殲滅戦に遭わなければ武家なんぞより長く、人も殺さずに生き延びられる。だが、お前はそれでも武家を選んだ。だから問わせてもらう。……お前は何のために戦うのか?ってな」
この問いには答えてもらえないと困る。そうでなくては勝久を被保護者から仲間に引き上げることができないのだ。正直なところ今の俺にはもう被保護者を養う余裕はない。いささか性急だとは思うが、勝久には自立してもらう−−共に戦える仲間になってくれなければならなかった。
「わたしは……」
すぐに答えられないのか、問われると勝久は少し考える仕草を取る。
そうして待つこと数分。ついに勝久は口を開いた。
「……色々考えましたが、わたしの戦う理由はやはり新宮党の誇りを守るためでした。増長したといえど、新宮党はその武で尼子を支えてきたという実績があります。願わくば、わたしもひいじいさまのように尼子家の矛となりたいです」
「ひいじいさまと言えば、久幸様か」
尼子久幸。先先代当主の経久様の弟で勇将の誉れ高く、当時名前はつけられていなかったが新宮党の祖である。経久様のインパクトが強いが、彼もまた尼子の元勲と言うべき存在だった。勝久が憧れるのもわかる。
「わたしは未だ武勇拙く、さりとてひいじいさまのような沈着さもない……。ですが、それでも誇りだけは変わらぬと自負しております」
終始勝久は堂々とした様子で答えてくれた。もうどこにも出会った時のような死にたくないと怯える姿はない。本当によくぞここまで育ってくれたと思う。
しかし、だからこそ俺は幾ばくかの哀しみを覚えた。
きっと今の彼女ならば尼子滅亡を迎えれば確実に尼子再興を唱え始めるだろう。それこそ史実と同じように。
このように鹿之介だけではなく、勝久までもが運命の渦に呑まれてゆく。さりとて、俺にはそれを回避する手段はない。なにせいくら俺が策を講じても運命の方が彼女らを追ってくるのだからどうしようもない。
知らず、歯をくいしばる。
どうして運命ってやつはこうも彼女らを供物に要求するのか。
ひどくやりきれない気持ちを抱えたまま、俺は丘を下り始めた。
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退却する綱憲につき従うかのように大友軍は毛利軍は押し込まれていた。今や清滝の地には一文字三星の旗がひらめき、それよりも南部に位置する大里が花杏葉紋の北限となっている。
「田北鑑生隊、
「同じく田原親賢隊、
「戸次鑑連隊、
毛利軍の攻勢は留まることを知らず、大友軍の本陣には凶報ばかりがもたらされる。
「……ああ、ああ」
それを義鎮は頭痛と震えに苛まれながら聞いていた。
こうなった義鎮は最早使い物にならない。
家臣に促されるまでもなく義鎮は呟いていた。
「……全軍、撤退。撤退よ」
恐ろしかった。逃げ出したくてたまらなかった。そして心苦しかった。
小早川隆景は自らが考えてきた術策全てを先回りして叩きのめしてくる上に最前線に赴く勇気もある。
だというのに、自分は怒りに突き動かされているくせにいざとなると怯懦に囚われて本陣から出馬することさえできない。
同じ姫武将だというのにどうしてこうも不甲斐ないのだろう。
(決してこんな臆病なわたしが勝てる相手じゃなかった……! ついてきてくれたみんなに申し訳ない……!)
だが、いくら義鎮が悔いたところで前線に大友軍の主力が孤立するという戦況は変わらない。
今の彼女に出来るのは震えながらも撤退して綱憲と諸将を待つことだけだった。
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勝久の立ち合いののち、本隊に帰るべく俺たちは大里のあたりまで南下していた。
大里は俺たちがいた清滝の丘から南西に二・五キロくらい離れたところで平野が広がっている。
丘伝いに逃げようと初めは考えていたが、丘の切れ目に毛利軍の伏兵を発見してしまったため泣く泣く軍勢が布陣する中を押し通ることとなってしまった。
「いつまでも二人でいるわけにもいくまい、手近な大友方の隊と合流するぞ」
木を隠すなら森の中、ならば人を隠すなら軍の中だろう。
乱戦を切り抜けながらも俺たちは近くにいた田北鑑生隊に接触に成功した。
「塩谷どの。よくぞここまで生き延びた。だが、申し訳ないがこの隊はもう保たぬ」
斬られた肩を抑え、荒い息を吐きながら鑑生殿は言う。
田北隊は乃美宗勝によってかなりの痛手を被っていた。
今でこそ小康状態だが、一時間前には乃美宗勝に肉薄されて田北隊随一の剛の者を討ち取られ、鑑生殿は手傷を負わされて軍の指揮に支障が出ている。
「小生が保たせまする。指揮が難しいというのならこの戦だけで構いませぬ。小生に預けてくだされ。これでも山陰では一軍の将を務めておりましたゆえ何も出来ぬままに敗れるということはありませぬ」
「話を聞いていなかったのか。わしはそなたに暗に逃げろと言ったつもりだ。それがどうして指揮の話になる」
「もはや小生と孫四郎だけでこの大里を抜けられるとは思っておりませぬ。小生は武勇こそ人並み以上にはありますが、万夫不当とはいきませぬ。ゆえにこの死線を抜けるためにはどうしても貴軍の力を借りなければならぬのです」
「……ううむ」
顎鬚をさする鑑生殿。
かなり悩んでいるのが分かる。窮地にいきなり他国からの新参が口出ししてきたのだ。安易に考えを受け入れるわけにはいかないだろう。
「……兵の指揮は預けられぬ。だが、そなたの指図には従おう」
最終的に鑑生殿が間に挟まることでまとまり、俺は考えていた策を彼に伝えた。
策を聞いた鑑生殿はやはり半信半疑だったが、かといって代案になり得るものがないため頷いてくれた。
*****
大里からさらに南西することしばし、富野の丘に俺は布陣していた。対面の手向山には田北家の一門の将が陣取っている。
大里から続く平野はここで手向山に阻まれて海岸側の赤坂か山側の富野を迂回しなければならなくなる。
「本当に実現できるのだろうな、この策は。成らねば田北家の全軍は完全に毛利軍の中に孤立するぞ」
隣に立つ田北紹鉄殿が不満そうな顔を浮かべている。俺が指図するようになってからずっとこんな調子だ。命運を外様の俺に任せるのが余程嫌なのだろう。
「今、この敗勢だからこそできる策にございまする。小生がやれることはすでにやり申した。要となるのはむしろ鑑生殿の方。指示どおりに動いてくれねば、どうにもなりませぬ」
「兄上のことだ。出来なくはないだろう。しかし、此度の合戦では小早川隆景に多くの策を読み切られた。向こうがそうやすやすと引っかかってくれるか」
「確かに小早川隆景が居れば、これしきの策は見破られるでしょう。ならば、乃美宗勝の方を隆景の目の届かないところに動かせばよいのです。……紹鉄殿、どうやら押し問答をしている暇ではないようです」
気づけば、鑑生殿率いる一隊が富野へ入ってきていた。
それを乃美宗勝が追いかけてきている。
鑑生殿の隊が五百、追う乃美宗勝は三千ほどか。正面から当たれば向こうが雑に戦っても負ける戦力差だ。
だが、だからこそ俺は此度の策を迷いなく採決した。
今、乃美宗勝は部将級の首を挙げる大功を立てようと逸っているだろう。鑑生殿が這々の体で撤退しているこの好機を歴戦の勇者、とりわけ武勇で鳴らした乃美宗勝がこれをむざむざ逃すとは考えにくい。その逸りを俺は衝く。
乃美宗勝の隊がちょうど谷間の真ん中に至るのを視認すると、俺は紹鉄殿に旗指物を立てるように指示する。すると、手向山の方からも幟が上がり、喊声が富野の谷間に響き渡った。
「くっ、誘い込まれたか……」
今更気づいたようだが、もう遅い。
鑑生殿も反転して三隊は一斉に乃美宗勝隊に襲いかかる。
狭隘な谷間を突き進んだ結果隊列ヶ縦に伸びきった状態で逆落としを食らえば、如何な軍とてただじゃ済まないだろう。
釣り野伏せ。
島津家が誇る必殺戦術にして、難度が高く余程優れた将でなければ自軍を潰走させてしまう諸刃の剣である。
正直、俺には敷居が高い戦法だったがこの敗勢を乗り切り無事に豊後に帰れる方法がこれしか考えられなかった。
しかし、本当にだいぶ分の悪い賭けだった。
もし乃美宗勝が途中で冷静さを取り戻したら、あるいは疑いようもないほど鑑生殿がうまく逃げてくれなければ、俺たちは確実にこの富野の地に骨を埋めることとなっただろう。
三隊の奮戦によって乃美宗勝隊はかなりの兵を失い、将である乃美宗勝は紹鉄殿に捕らえられた。
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その後、この戦いにより生じた戦力の空白地帯を田北隊は駆け抜けて戸次鑑連隊と合流に成功。往路と同じ道を用いて豊後に撤退した。
だが、香春岳城を陥されるなど被害は大きく、しばらくは大友家の勢威は減退を余儀なくされることとなる。
あまり数を読んでないからなんとも言えないけど、乱世転生オリ主はだいたい釣り野伏せをどっかでやってる気がする。