僕が住まう館にやってきた彼女は泣いていた。顔には出していないけど、泣いていたと断言できる。
話を聞いたことには、父と弟を亡くしたらしい。
だが、残酷なことに周りは彼女を顧みることはなかった。
周りは突然倒れた彼女の父の代わりを彼女に求めた。
それは降って湧いてきたように彼女に責任が転がり込んだ瞬間だった。責任ある立場は生半可な発言を許さなかった。
さらに悪いことに家督争いの最中に彼女の父が死んだため、「彼女が二人を殺したのだ」と讒言する者まで現れる始末だ。そうなってしまっては彼女の言葉は誰かに届くことはない。
だから、僕だけは彼女の声を受け止めよう。たとえ彼女にまつわる噂が真実であったとしても。たとえ彼女が僕を必要としなくても。
それだけが力のない僕だけが担えた唯一の役割だった。
「やりましたな、姫さま! これで毛利軍は完全撤兵。筑豊はこれより姫さまのものになりまする!」
重臣の一人が戦勝を寿ぐ。
じりじりとした長期戦の果てに陥落させた立花山城の本丸で宗麟はそれに耳を傾けていた。
綱憲が抜けた後も大友軍は戦線を押し上げ、遂に立花山城包囲に移れるまでに至った。そして、いざ包囲せんというところで毛利軍は撤退を開始したのである。
「そうだね」
しかし、重臣らが喜ぶ中で宗麟は曖昧な笑みを浮かべている。
(立花山城を落とせたのは大きい。少なくともこれで博多は完全に抑えることができた。けど、これも綱憲くんや輝弘の犠牲の上に成り立っていることだよ)
確かに戦線を押し上げたのは大友本軍のおかげではある。だが、やはり決定打となったのは、山陰での綱憲たちの撹乱だということを宗麟は分かっている。
まだ、喜ぶ気にはなれなかった。
「この期に九州から毛利の勢力を一掃するよ。まず、疲弊が激しい家はもう帰らせて、残った二万のうち、八千で戸次は秋月や香春岳の平定をお願い。一万二千は私と一緒に門司城を目指すよ」
宗麟の下知に家臣たちは熱狂する。
今、この時九州六ヶ国の女王が誕生した。
大友方が勢威をあげる一方、九州戦線からの毛利方の撤退は酸鼻を窮めた。
勢いに乗った戸次鑑連の追撃や筑豊国人衆の寝返りによる道中の強襲。さらには、来島・因島両村上家の造反による舟の不足。
特に村上水軍の縮小化は手痛く、舟を確保するために道中の宗像氏を制圧して舟を押収しなければならないほどだった。
「大友宗麟では、あるまいな。あまりに策の性質が違う。間違いなく大友宗麟以外の謀将がおるな」
宗像領の湊にて。元就は船に兵や物資が積み込まれていく様を見ながら呟いた。
「それが塩谷綱憲では?」
「いや、此度は違うぞ隆景どの。あやつの妙は機を得た時の勢いとその機が訪れるまでのらりくらりとやり過ごすことにある。このように半ば強引に展開を動かすのは、あまりあやつらしくはない」
「となるとまた別の謀将がいると。父上はおっしゃるのですか」
隆景に問われて元就は頷く。
「いかにも。おそらくそのものは策の偏りから鑑みて塩谷綱憲の横におる。隆景どの、心せよ。かつて石見にてその矛で我らを苦しめた塩谷綱憲とその一党は豊後にて智慧を得た。三国志で言うならば、まさしく劉玄徳に他ならぬ。劉玄徳はかの曹孟徳を前に生き延び、ついには巴蜀を得て皇帝となった。しかし、我らは曹孟徳になってはならぬ」
「それは重々承知しています」
深く頷く隆景。
その姿を見て元就はよくここまで賢く育ってくれたと内心で歓喜した。仮に自分が居なくなっても隆景がいる限りは毛利家は回るだろう。
その後、宗像から進発した毛利軍は播生に上陸すると直ちに長府に移動し、ひとまず休憩を取った。
三万五千で立花山城に向かい、本州に帰れたのは二万五千ばかり。大友の追撃によってかなりの数を減らしたが、それ以上に国人衆の離反が決定的だった。
物資と兵数の確認が終わると、元就は再び下知を発した。
「隆景どのは五千を率いて安芸へ戻り、兵を整えてから備中の援軍に当たれ。残りの二万はわしと共に山口の平定にあたる。よいな?」
「山口に二万? おやっさん、多すぎやしやせんか?」
「これで適量よ。それに山口だけではない。石見にも寝返りおった国人がある。これだけの兵数があれば、戦わずしてあやつらを鎮定できよう」
石見の豪族は流動的。これは、大内と尼子が二大勢力を形成した時から変わらない。たやすく強きになびくが、抜け目ないことに利益を得られると判断すれば躊躇がなく裏切る。
「なるほど、今は戦わん方がいいということじゃな」
元春は下知に首を傾げたが、元就が説くとすぐに納得した。
このような聞き分けの良さが元春の美点だった。武を恃みにして横柄に振る舞うようでは、いくら武力があっても軍団には向かない。
元春の振る舞いが変わらない限り、おそらく両川が割れることはない。そう分かり、元就は安堵の息を漏らした。
だが、すぐに気を張り詰め、謀将の顔となる。
(石見の難物どもを動かすあたり、綱憲は厄介ではある。ただ、それはわしらの出陣でひっくり返る。あやつらの行動はその程度の火遊びでしかない。これで退路は塞いだぞ? さあ、どうする塩谷綱憲よ)
防長、石見、安芸。西中国の地図を広げながら、元就は謀神らしく口の端を吊り上げた。
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山口南方に毛利軍二万が布陣。
そんな報告が俺の耳に入った。
「やはり帰ってきたか。さて、どうしたものかな」
山口にいるのは輝弘軍の二千とこっちが連れてきた千五百で三千五百。後で来る石見勢千を足せば四千五百に届くが、山口が攻め落としたてで籠城に向かない。応急処置として落としてから朝倉殿に普請をさせてこそいるが、焼け石に水だろう。
「鹿之介と輝弘殿を呼んでくれ。手を打つ」
なのでやりたくはないが、山口を守るならある程度外で戦う必要がある。
しばし待つと、両者が現れる。
両者それぞれ戦機が近いことを察したのか、小袖をまとっていた。
「二人に聞きたい。山口で毛利を凌ぐべきか、あるいは山口を放棄して退く方が良いのか。俺は今回の戦の目的をあくまで九州戦線の膠着の打破と考えている。毛利軍が此方に来た以上、目的はすでに果たした」
目的達成の観点で言えば、すでに達成している。
だからいまは、どうやって戦を終わらせるのか、また派兵の根拠とした理念を貫くのかという選択を設けたつもりだ。
鹿之介にはすでに選んでもらっているから輝弘殿次第でやる事が変わる。
「僕は山口で毛利を防ぎたいと思う。せっかく取ったものを明け渡すのは武士としてはあまりよろしくない」
聞いた俺は思わず目を見開いていただろう。
まさか、まさかだ。まさか、輝弘殿が生き残るための選択である退却を選ばないとは思わなかった。
「山口が籠城に向かず、毛利が此方の四倍の兵力を抱えていても、か?」
「ええ」
「……他言はしない。もしや大内旧臣に言わされているのではないか?」
「確かに大内旧臣は山口に居ることを望んでいます。しかし、それを僕に強制はしなかった。僕自身の考えで山口に居たいと思っています」
二度、深く問うたが輝弘殿は淀みなく答えた。この状況で落ち着いているのは良いことだが、あまりに落ち着き過ぎているような気がして何やら胸騒ぎを覚える。
だから、最後に一つだけ問うことにした。
「それで輝弘殿が死に、宗麟様が悲しまれるとしても、か?」
「……ッ」
ここで初めて輝弘殿の表情が揺らいだ。
「俺にあまり言えることじゃないが、残される側にとって辛い選択はするべきじゃないと思うぞ」
少なくとも、俺はそのことを鹿之介から学んだ。
宗麟様は常に弟の死に苛まれている。今回とて原因が時勢の流れに過ぎないのに、俺たちの死を背負い込むつもりでいるだろう。
それを、俺より長くいた輝弘殿が分かっていないはずがない。
「……だからこそ、だからこそ僕は選んだのです。綱憲殿……、そんなあなただからこそ……」
何かを噛みしめるようにたどたどしく輝弘殿は言葉を紡ぐ。後半は声がかすれてしまっていて聞き取ることが出来なかった。
だから、身を乗り出して輝弘殿の口元に耳を近づけようとしたところ、鹿之介に止められた。
「……熊之丞。もういいでしょう。もはや私たちが輝弘殿にかけられる言葉はありません」
そう説く鹿之介の表情は痛切なもので、俺は何か言い返すことができなかった。きっとこれ以上の言葉は野暮なのだろう。
その後、沈鬱な雰囲気の中で話し合った結果、毛利軍が攻め寄せ次第山口から退却。そのまま北上して石見から脱出することに決定した。
二人を呼び出してから三日後。ついに高嶺城の櫓から毛利軍を視界に捉えた。
あらかじめ定めていた退却の刻限である。
「皆の者、戦はこれで終わりだ! 後は北上して九州に帰るぞ!」
待機させていた兵に命じて俺たちは山口から脱出を始める。
城に残したのは、僅かばかりの金と米のみ。見事なまでのイナゴ戦法だった。
「さすが、汚いことをやらせたら出雲一だな」
先導役として轡を並べている兵庫がからかうが、生き残るためには仕方ないことだ。むしろ徴発したり焼き払ったりしなかった分、良心的でさえある。
「気を抜いてる場合じゃないぞ、兵庫。この作戦はこれからが大変なんだ。元就があんな兵力で来てしまった以上、石見の豪族の返り忠が始まる。多分、上方の金ヶ崎の退き口を超える修羅場になる」
これ以上喋って体力を使うのも惜しい。
腿を締めて、馬に加速を伝える。
すると馬はたちまちの間に山道を駆け上がり、峠の中腹……山口を眼下に見渡せるとこに出た。
ここから見る限りでは、毛利軍はまだ高嶺城を攻めている最中だった。
「……おかしい」
しかし、俺はそのあまりの遅滞ぶりに違和感を感じた。
高嶺城には山口に残ることを固執した大内家の残党を配置した。
まあ、端的に言えば捨て駒だ。
彼らは士気こそあるが、戦慣れしていない。それゆえにあまり足止めとしての機能は期待していなかった。
なのに、今の今まで高嶺城はまだ毛利軍の足止めができている。
確実にあの軍団を統率している者がいる。つまりは、あの中に輝弘殿がいるのだ。
俺はすぐに小姓に命じて朝倉殿を呼び出した。
「二度もやられれば、流石に分かる。あの残党の中に輝弘殿を混ぜ込んだのは、朝倉殿、お前だな」
「如何にも」
怒気を露わにする俺を前にしても朝倉殿、いや朝倉一玄は飄然としていた。
「お前には、輝弘殿を退却組に入れるよう指示していたはずだが?」
輝弘殿には生きてもらわねばならない。
たとえ様子がおかしくても、俺はそう思っていた。
だから、俺は大内残党から輝弘殿を遠ざけた。
強要されてはいないだろう。ただ単に感化されているはずだろう。冷静になれば、正しく宗麟様の為になることを選択するだろう、と。
しかし、結果はこうだ。
「儂も止めるよう言ったのだがなぁ。しかし、聞き入れおらなんだ。それほどまでにあやつは腹をくくっていたのよ」
珍しくばつが悪そうに朝倉一玄は語る。
その時だった。
眼下の高嶺城が轟音を立てて爆ぜたのは。
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