峠を越えて三本松城のある津和野に入った。
山口で輝弘殿が命と引き換えに毛利軍を足止めしてくれたおかげで、退却開始から二日が過ぎてなお、未だにどの勢力とも交戦せずにここまで逃げ切れている。
「もう津和野かー、かなり飛ばしたな、俺ら」
兵庫が馬上で采配を弄びながら呟く。その声音にはやや疲労が垣間見えた。
「俺も一息入れたいが、これからが大変だぞ。毛利軍二万のうち八千が追手になっている。大将は吉川元春だ」
しかし、元就はそんな容易く暇をくれるわけがない。
留守の火縄による高嶺城大炎上ののち、毛利軍は二万の兵を三隊に分けた。
一つが吉川元春率いる追討軍八千。参戦武将は
二つ目が穂井田元清の四千。東に向かっていたため、浦上家を裏切った宇喜多直家*1に加勢して東部の混乱を収拾させるつもりだろう。
最後は山口に陣取る毛利元就本軍八千。防長の安定のために配置されていると予想できるが、吉川元春の予備隊としての側面も否定できない。
「ひどい時は最大一万六千の毛利軍が迫ってくる。あと、これに比べると目立たないが、石見も少し動いている」
石見の方も深刻だ。今まで動きを封じてきた毛利家支持の国人・
彼は本城氏の処分に関わる、忍原以前に石見豪族の毛利帰順を主導するなど毛利の石見政策に大きな役割を果たしており、流動的な石見勢の核になれる数少ない存在だった。
「げえ、それ宗麟様の本軍でも苦労するやつじゃねーか。もうだるいから三本松城に籠ろうぜ」
嫌そうな顔をして三本松城を指差す兵庫に対し、俺は苦笑いを浮かべながら首を振った。
「三本松城は要害のつもりで確保したんだが、三千五百が一万六千相手に援軍なしで篭るのは流石によろしくない。おまけに敵地の真ん中だ。
輝弘軍を丸々吸収して籠城し、後背の山地を生かして徐々に北に逃していくというのが、当初のプランだった。が、まとめ役の輝弘殿が討たれ、兵も思いのほか山口に残ってしまっている。本来ならこの時点で四千五百は残ってるはずだった。
しかし、今になって考えてみればそのプランも無駄だったのだろう。他に戦線を抱えているはずなのにこっちに一万六千も差し向けてこられたら、少しでも兵が減れば城を支えられなくなる。
「そうだ兵庫。もう城は使わないから城に残した久綱様と勝久、それと兵糧とかを回収してきてくれ」
一応の保険として三本松城には千五百と兵糧を残してある。ただ、これ以上の補給はもう望めないだろう。兵はどう足掻いても増えず、兵糧は村々への略奪に頼るほかない。
今はまだ村々に対して略奪を命じたことはないが、もし命じたら何か決定的なものが歪んでしまうような気がした。
「わーった。んじゃ行ってくるわ」
俺の内心を知ってかしらずか隊列から二百を連れて飄々と兵庫は三本松城に向かう。
兵庫を待つ間、ひとまずの休憩として俺は方円陣を敷くように命じ、三本松城東の野原に待機させた。
「伝令! 伝令! 東方から二百の集団がこちらに向かっております。おそらく一揆軍とみられます!」
しかし、それは悪い結果を生んだらしい。兵庫を欠く状態で初の接敵を迎えることとなった。
俺は東側の備えを任せた親次殿に「二百なら構わん。今のまま撃退しろ」と下知を飛ばして床几に腰を下ろす。
今の方円陣の配置は北に鹿之助、西に益田殿、南に兵庫、東に親次殿の隊だ。
朝倉殿は俺の隣で兵站の管理をしている。一隊を任せようと考えたこともあったが、今までの行状のせいでそろそろ裏切りそうな益田殿並みに信用できない。
「いよいよ、始まりましたなあ。はてはて、この老いぼれは生き延びられるやら」
「まあ、お前が一番生き残りそうな気がするけどな」
「流石、実績がある方の言葉は違いますなあ。そのように言われますとなぜか生き残れるような気がしてきまする」
「そんな台詞を言われたってお前の場合どんなつもりで言ってかわからんからなあ……」
「いやはや、今回は褒めているつもりですぞ。悲しいかな、今の儂にはふざけ倒すほどの余裕を持てませなんだ」
言うと、朝倉殿はわざと滅多に見ない真面目な顔を作り、一揆勢を見据える。二百の一揆勢に親次殿はオーバーキルだったようで30分足らずで素早く鎮圧された。
しかし、それでも朝倉殿の表情は晴れない。
「綱憲殿、本陣の兵を西に厚くした方が良いかと。何やら臭いがまする」
朝倉殿が言うと同時に西側の益田勢七百が、旗を翻してこちらに向かってきた。
「流石だな、朝倉殿」
「其方も分かっているくせに何を言いますやら。山中殿と横道殿の残兵に挟撃をしておくよう伝令を送っておきまする」
「ならば、俺は西を保たせにいくか。少し間隔が空くだろうし。それと挟撃の後は南北に横陣を敷くように伝えて欲しい。どうやらあのジジイは波状攻撃を開始したらしい」
二百から七百の連戦。益田殿が機を見るに敏なだけなのかもしれないが、元就が手を引いている可能性だってある。早く手を打って備えられるうちに備えておきたかった。
伝えるだけ伝えた俺は本陣を朝倉殿に任せ、西の前線に向かう。西には大体三百の兵を当てていた。すぐに潰されることはないが、長期戦のために少しでも兵の減りを抑えなくてはならない。
「南北の軍はすでに動かした。ちっとばかし我慢をすれば必ず勝てる!」
二十の騎馬を率いて前線をめぐり、檄を飛ばす。少し数に押されているようなところには切り込みをかけて劣勢を覆した。
十分ぐらい孤軍奮闘しているうちに南北の軍が益田隊に攻撃をかけ、袋叩きにする。これで兵数でも勝り、機を逸した益田隊はたちまちに潰走した。
深追いはしなかったが、伝令曰く益田殿は所領に逃げ帰ったらしい。
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戦から一時間が過ぎた頃に兵庫が三本松城の残務処理を終えて帰ってきた。連れ帰ってきてくれた千五百の兵は今となっては心底ありがたい。おかげで兵数を四千の大台に戻すことができた。
「おいおい、ちっと目を離したうちに何が起きたんだこれ?」
「二百に襲われて七百に裏切られた。あと、近いうちに石見勢か毛利が来そうだから備えておいてくれ」
戦禍の跡に目を見開く兵庫に淡々と伝える。「平然とした様子で言うことじゃねえぞ、それ」と兵庫は苦笑いしたが、これからはこういった内応や離反が当たり前のことになるはずだ。
いちいち取り合って気を消耗させたくはない。
「とりあえず足を止めない方がいいな。毛利本軍に捕まる前に益田領で船を強奪して逃げる。それが、俺たちが生き延びる唯一の道だ」
「うむ、それが最善であろうな」
久綱様もまた同じことを考えていたらしく、頷いている。
「久綱様と勝久に聞きたいんだが、一揆について知らないか。なんか民同士の密会が増えたとかその類の話だ」
二人に問うと勝久が苦々しい表情を浮かべる。詳しく聞いてみると、捕らえていた吉見広頼が脱獄。民をまとめて佐波軍に身を寄せたことがわかった。
「となると、佐波軍の兵が増えたか。んで、現地民を味方にしたということは地の利を得たことにもなる……」
ますます状況は悪くなっていた。益田勢だけではなくさっきの一揆勢まで元就の手がかかっている可能性が高まってくる。用途としては足止め用の捨て駒だろうか。
「それで、勝久。それはいつのことだ?」
「五日前のことでした。乱破は送りましたが、おそらくは道中で世鬼衆に討たれたのでしょう」
五日前で石見の海岸部の豪族である佐波に逃げ込む……。いや、正確には情報を掴めたのが五日前でもっと前から広頼はいる。脱走の手引きが佐波軍によるものなら、佐波軍の準備はこちらが三本松城を攻めている段階から始まっていたのかもしれない。
「これは少しまずいことになったか……」
頭を抱える。九州方面に細作を手厚く放っていたことの弊害が今ここに来て足を引っ張っていた。
「佐波軍の姿を三里先に確認。兵数はおよそ二千! 至急備えをされたし!」
考えているうちに北に放っていた数少ない細作が戻ってくる。
ようやくわかった。俺は毛利元就という樹海そのものを警戒していて、目の前の木である佐波軍を侮っていたのだ。
たかだか一豪族に何が出来ると。元はと言えば、俺自身も佐波軍側と同じような単なる一部隊の立場だったくせに。
歯をくいしばる。
俺は本当の意味でわかっていなかったのかもしれない。
孤軍で一大名家を相手にするということはどういうことかを。
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「我が策成れり」
静かに馬上で佐波隆秀はほくそ笑む。
一豪族に過ぎない自分があの塩谷綱憲を出し抜いたからだ。
本営との連絡は綱憲に遮断されてできない。
しかし、一放浪軍が連絡を遮断できるほどに細作を手厚くしているという事実から、隆秀は綱憲の思考を読んだ。
「今の綱憲は元春様の軍をどのように相手にするかばかりを考えている。我が軍が未だ八百しかおらぬゆえ致し方のないことだが」
隆秀はこの放置されている状況と細作の偏りを逆手に取った。北側の細作を可能な限り始末した上で、僅かながらに与えられた世鬼衆を潜り込ませ、吉見広頼を救出。
その次は広頼に水面下で遺民一揆を糾合させ、千二百の兵と二百の別働隊を得た。
幸いなことに益田氏が内応に乗ってくれたことも大きい。別働隊と益田氏のおかげで佐波軍は塩谷軍に肉薄することができた。
「塩谷綱憲よ! 蛮行はもうたいがいにしろ! この私がお前を仕留める!」
吉見広頼が勢いよく北の志賀親次の陣に駆ける。
広頼の力量は未だ足りないが、勢いに任せれば少しは補える。
「とはいえ、あまり芳しくはないな」
流石は塩谷軍と言うべきか。
連戦を強いた割にはあまり兵の疲弊を感じない。
ひとしきり広頼に志賀勢を攻めさせたのちは、一旦退かせて横陣を敷く。
「なにゆえ、退かねばならぬのですか!?」
戻ってきた広頼は不満たらたらで隆秀に食らいついてくる。
「致し方なかろう。あの志賀勢で千弱。あれだけ攻めても崩れが見えない以上、我が軍だけでは勝てぬ。ただ、あやつらの目的は鯨海まで逃げること。重しになるぐらいなら我が軍でもできる」
隆秀の見立ては正しかった。
この発言を綱憲が聞いたならば、確実に嫌な顔をするだろう。
佐波隆秀もまた塩谷綱憲と同じような小身の名将だった。
軽い立場ゆえに自由に動きやすく、卓越した、されど近視的な戦術眼を持って戦況を左右する。
時折、こういった武将が戦場を勇躍する。それは大きな勢力ほどよく見られる。いや、むしろそういった武将を擁することこそが大勢力の条件であるのかもしれない。
*****
「石見国・津和野にて佐波隆秀様が塩谷綱憲と会戦! さしたる戦果は上がらず、膠着しておりまする!」
津和野合戦の夜、石防国境にて吉川元春は伝令からの報告を受けていた。
「膠着? いや、十分じゃけえ……。佐波は良い働きをしちょる。あやつをしごうしたる日はそう遠くはないけえ」
吉川元春が在陣している石防国境から津和野まではもう移動時間6時間圏内だ。今から進軍すれば、朝方に塩谷軍に奇襲をかけることができる。そうなれば、挟み撃ちが完遂し一網打尽だ。
「これより津和野に向けて進軍じゃあッ!」
意気揚々と元春は行軍し、予定通り朝方に津和野に至る。しかし、そこに塩谷軍と佐波軍の姿はなかった。
「これはどういうことじゃけえッ! 塩谷はどうした!? 佐波もどうしちょる!?」
元春は現地の住民を怒鳴りつけて事情を問うと、昨晩のうちに忽然と塩谷軍は姿を消し、佐波軍は北上したと情報を得た。
「さっぱり分からん。間道でも隠しちょったのか?」
吉川元春は存外石見の地理を知らない。任地である出雲の近くの山吹城近辺や、吉川家の元々の所領に近い地域については知悉していたが、南部については佐波氏など石見の豪族の情報が頼りだった。
「まあ、良いけえ。佐波が北に向かったということはそのような心当たりがあることの証左になるけえ。わしらも北に向かうけえ」
冷静になり、再度元春は軍を北上させる。騎馬が主体の吉川軍ならば、峠を越えた津和野から北の脚は早い。
(とはいえ、そう容易くあやつらを捉えられないような気がするけえ。……ただ、最後に必ずあやつらは海辺に姿を現わす。それだけはわかっちょる。上陸に使った船が寝返った益田に焼かれちょる以上、船を奪うために港で武力を使わねばならん。狙うならば、そこじゃけえ)
馬上で元春は静かに姫切を研ぐ。吉弘鎮理との戦いは凄まじく、ところどころ刃毀れが生じていた。
「後、一振りでおそらくこの戦は終わるはずじゃ。山中鹿之介なら何合も打ち合わなきゃならんが、塩谷綱憲はその限りではない」
塩谷綱憲の武力は元春から見ればつたない。ほぼほぼ一太刀で決まるだろう。
「とはいえ、そこまで至るのに手を焼かされるのが、塩谷綱憲じゃけえ。こうまで追い詰めた以上、あやつらも死兵と化すのは必定。こちらも腹をくくらねばならん」
姫切を研ぎ終わると、軍は三叉路に至る。
「ここは左ですな」と傍らに控えていた熊谷信直が進路を返そうとしたが、元春はこれを制した。
「いや、ここは右じゃ。左も悪くはないが、右の方が良い気がしちょる」
突然の変更に信直は目を見開くが、すぐに首肯した。
「承知致しました。全ては姫さまの御意のままに」
命じられるがままに隊列が右に向かって伸びていく。
その右手で高津川*2は暁光に煌々と照らされていた。
読んでくださりありがとうございます。
鉱脈が枯渇しかけていますが、なんとか頑張ります。
なお、この話でストックが枯渇した模様。