断絶剪定事象――狂喜月香世界 ヤーナム 作:見捨てられた娘と共に空を見上げる
……てか、想像以上で緊張しまくってるんですけど。あっ、あんまり展開が気に入らないとかあったらごめんよ!許して!
――大きく、しかし小さなまどろみの中。
――それは深い、溺れるほどの水に包まれるのに似ている。しとり、しとり、と。響く音は鈍く鋭く、だが強くだが弱い。
――“夢”は眠りの中にのみ存在し得る。故に、それを断絶することこそが守護を意味する。
――前触れは残る。されどそれに手は決して、永遠に、届かない。
――……はずであったのに。
藤丸立香は――ゆっくりと、意識が覚醒し始めていた。
「……あ、ぅ……んぁ……?」
寝ぼけ眼に映るのは――古ぼけた木材の天井。まるで湿っているかのような木の暗い色は、陰鬱な雰囲気を滲み出していた。吊るされているだけの灯りのないシャンデリア。嗅いだ事のあるアルコールの刺激臭。寝ている感触の固さ、視界の端に映る多くの棚。
「……知らない天井だ」
寝ぼけたまま、そう呟く。
見るに、木材で出来た何処かにいるようだ、と思ったが――寝ぼけた頭では思考が纏まらない。
立香は茫然と首を動かし、辺りを見渡した。
壁の近くに設置された棚には、ビンの他にも医務室で見た事のある治療器具類も入っているのが目に入る。……何処か歪で気取った印象を受けるソレらに何となく首を傾げた。
そして、隣には――
「マ、シュ……?」
――信頼をおける後輩の少女。マシュ・キリエライトが、同じように横になっているのが見えた。表情にわかりやすい変化は無かったが、目を静かに閉じた姿はとても落ち着いていて、特段苦しそうには思えなかった。
ああ、薬が効いて風邪は治ったのか――そう、安心するのもつかの間。
違和感は急激にやってきた。
「ん……?」
マシュが寝かされている寝台。それは明らかにカルデアの医務室のベッドではなかった。
錆びは無く、綺麗であるけれど、冷たさを強く感じる銀色によって組み立てられているのが分かるソレには、ベッドにあるようなバネもクッションも、ましてやシーツなんてものも無い。
ただ、無骨に無機質に、人を寝かせるだけの役目しかない。そう、まるで――手術台のような。
「えっ……」
さらに、その手術台であろうものの近くに添えられているように立っている鉄の棒。
そこには、精緻な装飾が施された容器が吊るされていた。容器全体は、濃密な赤に満たされている。
その底にはチューブが付いており、それは下へと伸びている。チューブには容器の中身が伝わっているようで、チューブ全てが真っ赤に染められていた。
そして、チューブの先は――立香から見て、マシュの腕へと伸びているように映る。
その姿は、まるで点滴を打ってい――
「―――ッッ!!」
身体全体を襲う寝ぼけは直ぐに霧散した。
直ぐに起き上がり、同じく横たわっていた手術台から降りる。
床に立った時のぴちゃん、と鳴る音すらも埒外で、立香はマシュの元に駆け寄り、チューブの先の見る。
「あっ!……っと。あぁ……良かった……!」
チューブの先はマシュの腕ではなく――床へと伸びていて、行き場を失ったチューブはぶらんぶらんと揺れていた。立香の思った通り、それは点滴であったようで、チューブの先には注射針があり、そこから液体が漏れていた。ぴちゃん、ぴちゃん、と等間隔に繰り返し、赤の水たまりを床に作り上げていた。
それを確認し、立香は深く安堵のため息を吐いた。
立香は楽観主義ではあったが――寝ている間に、それも知らない所で、大切な人が、得体のしれないものを身体に入れられている所を見て、悠長に納得出来るはずは無かった。
第一印象というのは重要なもので、見るからに陰鬱な雰囲気を漂わせる場所での医療行為など――得体の知れない以外の何物でもない。
「俺にも……何かを入れようとしていたのか」
マシュに一先ずの危険は無さそうだと確認した後、立香は自分が寝かされていた場所を見やる。
もう、何処をどう見てもそれは寝台などではない手術台であり、マシュの所と同様に真っ赤な液体が入った容器が吊るされていた。
……液体の正体は、おおよそ分かっていた。
点滴に吊るされる赤い色の液体。そして、水たまりから香る――嗅ぎ慣れた、鉄臭い嫌な匂い。
「血……」
たぶんそうだろうと立香は納得する。
触ったり、舐めたりすれば直ぐに分かるだろうが――
そもそも、誰の……いや、何の血かも分からないモノの正体などあまり知りたくもなかった。
血と分かればそれで十分。自分やマシュに入れられてるもなし。ならば、今はそれで納得は出来る。
「さて――」
取り敢えず、自分の腕やマシュの腕に注射痕が無いのを肌を指で撫でながら確認しつつ、状況の把握に掛かる。
立香は一般人だと自称しているが――何分、知らない場所に飛ばされるのは慣れ切ったもので、一先ずの混乱が収まれば、冷静になれるくらいには鍛えられていた。
それに――近くに誰かいるというのも大きい。それもいるのは後輩のマシュだ。安心感と……使命感みたいなモノが湧いてくる。
「知らない場所。知らない部屋。部屋の物は医療関係ばかり、たぶん医務室。血を入れられようとしていたけど………うん、大丈夫。俺にもマシュにも跡は無いね」
一言一言、呟きながら――把握する。
声に出すというものは、それだけ理解力を高める……と、立香は教わった。それを忠実に守っているのだ。
「扉は二つ。どっちが出口……ていうのもわかんないか。窓も無いし」
腕の確認を終えた立香は、マシュから少し離れて部屋全体の把握に移る。
部屋を出れる扉は二つ。扉には硝子が付いていて、所々が割れていた。そのおかげで辛うじて外を覗けるが――見えるのは暗い闇ばかりで、出口なのか何なのか分からない。
部屋に窓が無いのを見るに、地下……という可能性も浮上する。ただ、此処には手術台らしきものがあるという事もある。手術室に窓は付けないだろう。だから、一階か二階かもしれない。
……灯りも、壁際に設置された細い蝋燭が数本あるだけ、部屋全体はかなり暗い。
それに――かなり気になる事は他にもあった。
立香は、未だに安らかに寝ているマシュを見る。
別段、異常は無い事を確認していた――恰好、マシュが今身に着けているモノ。それに、異常はあった。
――カルデアの戦闘服をベースにした、騎士甲冑。そして近くの壁に立てかけてある巨大な盾。
所々、身体にある扇情的なラインが女らしさを魅せている部分もあるが――やはり、甲冑である事に変わりなく、西洋騎士が身に着けているような洗練した勇ましい印象を与えている。
それは――
「どういう事だ……?」
マシュは、人理救済の戦いを終えた後――何らかの影響で、サーヴァントとしての力を失っていた。……いや、出せなくなってしまったというのが正しい。
故に、風邪を引いてしまうという事も起きたのだ。
立香はそんなマシュの事を知っているし、現にこの目でマシュが騎士甲冑を展開しようとして失敗している姿を何度も見ている。
それが――今はこうして存在している。
「………」
ましてや、マシュの主武装たる十字架を模しているのだろう長盾もそこにある。
……本来ならば。
やったねーっ!治ったじゃぁ―ン!っと。立香は思うだろう。だが、それはカルデアで、且つ、マシュ自身の意思によってそうなった時だけだ。
こんな陰鬱な場所で喜ぶ事なんて――不可能だ。
「……ふぅ――良し」
ともかく。考えてもわからない事に時間を掛けるのは、無駄だ。最初は無知なだけであった一般人である立香はそれを良く知ってる。
それにどういう理由でこんな所にいるかは不明だが、本人の了解無く、輸血を施そうとしている場所など信用ならない。もし、此処の住人が起きている立香を見たら襲いかかってくる……かもしれないのだ。
大きく息を吐き、意識を切り替えた立香は、優しくマシュの肩を揺らす。
「マシュ、起きて」
「……っ、うぅ……」
そういえば、と。
マシュに起こされた事はあっても、マシュを起こした事なんて滅多に無いなと立香はぼんやりと思った。
起こされるのを嫌がるようにむずがるのも、ピクピクと動く瞼や眉が……妙にこう……グッとくる感じがするのだ。
……これでもし頬を突いたらどうなるんだろう。もしや食べ物と間違えてくわ――
「――はっ!」
そこで、立香は我に返った。いけないいけないと頭を振る。
やっぱり先ほどまでと違って、自分は誰かが近くにいると安心して変な方向に行ってしまいがちになるな、と少し自分を恥じた。
声掛けと肩ゆすりを繰り返して、少し。
マシュの目はゆっくりと開かれていった、寝起きの焦点の合わない紫色の瞳と目があった。
「えっ……あ、う……?」
「おはよう、マシュ。良く寝れた?」
「あっ……おはよう、ございます。はい、ただちょっと、痛いです」
「あー……そりゃあ、こんなとこに寝かせられりゃあね。……起きれる?」
立香はマシュの背に手を添えながら、少し強引に起き上がらせる。本当はゆっくりと起こしてあげたかったが、状況はそれを許さない。
手術台の上で腰掛けた状態のマシュは、瞳の焦点が合っていく内に困惑したように辺りを見渡し、自分の姿を見て、目を見開き――困惑に困惑を重ねたような混乱した表情で、マシュは立香の顔を見る。
「えっ、あれ?ここは……といいますか、どうして魔術回路はこんなに快調で……えっ?どうして武装展開されて――」
「――マシュ」
慌てるマシュも可愛かったが、立香はそれを堪えて――マシュの両手を優しく掴み、マシュと目をきっちりと合わす。
マシュはいきなり見つめられた事に頬を紅潮させたが、立香の真剣な目に気づいたのか、同じく目に真剣さを帯びさせた。
「たぶん――此処は特異点だ」
“特異点”とは、人類史という身体に巣食ったガンに等しいものだ。放置してしまえば、その身体を喰らい尽くし、存在そのものを瓦解させてしまう。
それを抑え、“特異点”を消す。それが立香達、カルデアの職務であり――使命だった。
立香は今迄の事を鑑みて――そういった結論に至った。
そもそも、最後の記憶は風邪になったマシュの隣のベッドで寝たという事だけ。起きるとするならば医務室か、病人の隣で寝るとは何事か、と憤ったナイチンゲール女史によって戻された自室で目覚めるか――そのどちらかであるはずなのだ。
そうでない事。すなわち特異点。……何だか短絡的な結論に思えてしまう。
だが、様々な特異点を共に渡ったマシュも、そう断言する立香に、静かに周りに視線を廻した後――同意するように頷いた。
「確かに、目覚めた場所にしては妙に異質です。サーヴァントの方々の私室改造は全部、ダ・ヴィンチちゃんと私でチェックして、承認しているので、その線も無いですから――先輩の言う通り、特異点……なのでしょう」
私の身体もこうなってますし……と自分の騎士甲冑を指で撫でながら、マシュは言う。
確かに、突然今迄苦労していたものが治りました!という言うより、特異点の影響によってと考えた方が妥当だった。
問題は――
「ですが、特異点を発生させ得る存在であるゲーティアもその魔神柱達も、先日のセイレムでの一件によって終結しています。もうこうしたものが起こせる存在なんて……」
そう。
人理救済の戦い。その元凶たるゲーティアという存在は、もう居ない。カルデアを支えた友の存在を犠牲にして打倒したのだ。それに、その戦いで逃げ出し、各々の思惑を以て動いていた魔神柱と呼ばれる存在も、先日の一件を最後に完全に消滅した事を確認された。
つまり、当面の敵は居ない筈なのだ。なのにこうして――特異点が発生しているならば、
「新たな敵、かな?……漫画なら盛り上がる展開だけど、現実なんだから勘弁して欲しいよ」
苦笑交じりの立香の言葉は、二人にとって――笑えない冗談にもほどがあった。
せっかく未来を勝ち取れたというのに……その未来でも戦いが待っているなど、考えたくも無かった事だ。だが、現にこうあっては認識せざるを得ない。
――敵がいる。この特異点を産み出した存在を打倒する。
それが、二人の――カルデアの使命なのだから。
「とにかく。今の状況をわかった限り説明するね?」
「はい、お願いします」
「此処はたぶん医療関係の建物の中。俺達はこの手術台で寝ていて、その側にはいつでも使えるようにしているみたいな点滴があった。中身は血」
「血……ですか?」
「うん、触ってとかしてないけど――匂いが、ね。あっ、点滴自体はされてないよ。注射痕とかも無かったし」
マシュは点滴や手術台を見て、少し顔を曇らせた。……その事を気づいた立香だったが、それに気づかない振りをした。マシュ自身の出自の事だ。あまり触れられたくないだろう。
「んでもって、出られそうな扉は二つある。……何の目的かは分からないけど、ベッドとかソファーとかじゃなくて手術台にわざわざ寝かせた所を見ると……」
「友好的ではない可能性がある、ですね。私もそう思います」
マシュは立香の言葉に頷く。
そして、壁に立てかけられていた彼女がサーヴァントたる所以の――盾を持ち上げる。
彼女の身長よりも少し大きい高さを誇る盾を片手で持てる事こそ、彼女がサーヴァントである事の証明であり、力を取り戻した証明でもあった。
マシュは、調子を確かめるように盾を軽く揺らす。
「…………本当に元に戻ってる」
信じられないようにマシュは呟く。
それほどまでに、力が使えなくなった事による苦悩といきなり使えるようになっている驚愕が大きいという事だろう。
「大丈夫そう?」
「えっと……はい。ただ、やっぱりちょっと不安です」
立香の問いに、マシュは素直な心境を漏らした。表情も不安そうに揺れている。
確かに不安だろう。ただでさえ、使えなかったものが突然使えるようになったのだから。それも安心出来る所ではなく、いつどこでなにが起こるか分からない場所で、だ。不安になるなと言う方が無理がある。
普通なら、ここで立香とマシュ以外にいる誰かが、人生を生き抜いた教訓を元に諭してくれたりするものだが――残念な事におらず、それが出来るのは立香一人だけ。
「………」
だが、立香は人生を生き抜いた訳でもなく、武器も満足に使った事もない一般人である……と本人は自称している。こんな自分が何か言ってもフォローさせてしまった、とマシュをさらに落ち込ませてしまう事になるだろう。
だから、立香は努めて明るい笑顔を浮かべるのを意識して、腕を大きく天井へ突き上げる。
「よしっ!がんばるぞ!」
「えっ!?……えっ、と――が、がんばるぞ!です!」
急に気合いを入れ出した立香に若干困惑しながらも、マシュも倣うように腕を突き上げた。その状態で何となく固まった二人は――どちらとも無く静かに笑った。
言葉は要らない。信頼が伝われば、マシュもまた安心出来るだろうと立香は思ったのだ。だからこそいきなり気合いを入れた。それに、彼の出身国である日本においては「気合いと根性で何とかする」というのがある。今では、ある種の悪い風習と認識されがちだが、こういう状況では役に立つ。……彼の語彙力の乏しさを誤魔化せたりも出来る――実に素晴らしい方法だ。
「取り敢えず、此処から出よう。どの道、このまま居ても埒が明かないしね」
「了解です。行きましょう、先輩」
立香とマシュは一度強く頷き合い、歩きだそうとして――止まる。彼らの視線は、交互に右の扉と左の扉を往復する。
ふと、二人の視線が重なった。
「………えっと、どの扉が出口なんだろう?」
「………わかんないです」
立香とマシュの新たな戦いの始まりは、ちょっと締まらない形で始まった。
少し二人は話し合って――右の扉に行く事にした。
そもそも、外の様子が分からない以上、どれを選んだ所で変わらないだろうという結論だ。扉を決める際に、マシュの盾を使った棒倒しで決めようという意見が約一人によって出たが、古ぼけた此処でそんな事をして床が倒壊した大変だ、という事とそんな事に使ったら絶対怒られるという反対意見が出た為却下された。
「んじゃあ、行こっ……か……?」
「どうしました先輩?」
「いや、紙が落ちてきちゃって……」
「紙、ですか?」
立香は緊張を滲ませて扉へと進もうとした時、その足を止めるように一枚の紙が、彼の前に落ちた。たぶん近くの机か椅子かにあったものが滑り落ちたのだろうと当たりを付けた。
古ぼけた部屋には似合わない新しく綺麗な紙には、綺麗な英文が書かれていた。
何か情報があるかもしれない、と考えた立香は読もうとその文面を睨むが――
「…………」
「…………」
「…………」
「……えっと、私が変わりに読みましょうか?」
「……いや、違うんだよ?別に英語が出来ないって訳じゃないんだよ?喋れるし、書けるんだよ?ただ筆記体に慣れてないってだけだから。出来ないんじゃないんだよ?」
「はい、分かってます。ただ、先輩は筆記体が読めないだけですよね」
「……ぐふっ」
言い訳をしてみたものの、オブラートも無い断言に小さく呻く立香。とはいえ、あまりふざける状況でも無いので素直にマシュに手渡した。
必要そうな情報だけを読み取れれば大丈夫だよ、と。言おうと思ったが、二行ぐらいだったので静かにマシュが読み取るのを待つ。
「……んぅ?」
程なくして、マシュは文面を見ながら首を傾げた。
どうしたのだろう。自分みたいに筆記体が読めないのだろうか。そうだよね。あんなミミズみたいな文字読める訳ないよねと立香を思いながら、どうしたの?と聞く。
「えっと、書いてある意味がちょっと良く分からなくて……」
「うむぅ?どゆこと?」
「その……」
そう言って紙面を見せて、ある文言を見せてくれる。……うん、見せてくれても筆記体読めないって言ったよね、と突っ込むのは可哀そうなので堪え、分かった風に
「この
直後――
大きな破砕音がその場に響き渡った。
「「――ッッ!!」」
その音は近かったが、それでも立香達の部屋で起きては居なかった。だが、部屋全体を震わせ、二人がよろめくほどの衝撃に襲われた。
二人は直ぐ体勢を整え、音の方向――選んだ扉とは、逆の左の扉を見やる。
マシュはその方向に盾を構え、立香は邪魔をしないよう、しかし直ぐに状況が把握出来る位置である左後ろに回った。
程なくして聞こえたのは――くぐもった悲鳴。
それは男であったり、女であったり――子供であったり。そこに性差などは関係無く、大小問わず、恐慌の悲鳴が絶えず聞こえてくる。時折、銃声や勇ましい雄叫びのようなものも聞こえたが、悲鳴は止む事は無く――やがて、何も聞こえなくなった。
助けに行く……という選択肢が、二人の頭を過ったが、一瞬の出来事で防御の体勢を取る事しか出来ず――その一瞬で、静寂が訪れたのだ。
「……終わり、で――」
「――シッ。マシュ、静かに。……誰か来てる」
「……ッッ!!」
程なくして、マシュの耳にも足音が聞こえてきた。頻度から走っていて、その音は段々大きくなっている事から此方に向かって来ている。
「どうします?」
「……隠れる所はない。迎え撃とう。場合によって、全力で後ろの扉に走るぞ。……頼めるか、マシュ」
「――勿論です、頑張ります」
立香の言葉に、マシュは力強く頷き――盾を強く構える。
最近見ていなかった見慣れた背中は、緊張している立香を落ちつかせるには十分だった。
足音は大きく、大きくなっていき――ガタンッ!と大きな音を立てて、扉が開かれた。
マシュと立香は強く構えるが――それは直ぐに緩んだ。
「はっはっ、はっは……!!」
扉から出てきたのは身体中に包帯を巻いた少し汚い男だった。男は息を切らしつつも、扉を閉め、近くの棚を倒してバリケードを作る。
そして直ぐに反転し、逃げようとして――立香達と目があった。
「あっ……!お前ら先生が助けた余所者か……?」
「えっ?余所者?先生というのは――」
「――ううぅ、煩い!!どけぇ!!」
男は立香達を見て、一瞬身体を震わせたが――正体に気が付くと安堵の息を零したが、直ぐに慌てたように立香達の身体を押し退けて、後ろの扉を強引に開けて、その中に消えて行った。
「………」
突然の事に茫然としたが、直ぐに我に返る。
「どっ、どうします?」
指示を仰ぐマシュに、立香は直ぐに考えを巡らせた。バリケードの先を行くというのも選択肢に上がったが――もう、あそこにいたであろう人達は殺されてしまったのだろう。あの行動を見れば、何か恐ろしいものが追いかけてきたに違いない。
……いつもなら、それでもまだ生きている人がいるかもしれない。助けに行こう!と――言えたかもしれない。でも、此処にいるのは自分とマシュだけだ。戦力的な面で不安は残るし――自分達がどうなっているのか、いまいちまだ状況を理解出来ない。
その中での短慮な行動は、憚られた。
「……あの男の人を追い掛けよう。何か知っているかもしれない」
立香はそう言って、バリケード――その先から目を逸らす。
自分達の生存を優先しているのが……少し、心に来るものがあったから。それに――何らかの感情を込めて見てくる後輩の言葉をあまり聞きたくなかったという事もあった。
「……はい。なら私が先行します。行きましょう!」
そう言って、自分の言葉に従ってくれたのが嬉しく感じた――そういう自分が、立香は嫌いだった。
扉の先は下る階段になっており、自分達が二階にいたという事に立香は気が付いた。一階に降りると先ほどと同じような手術台が並べられた広間が広がっていた。
人気は無かったが、暗いのに良く見える赤がやけに目に残った。
逃げた男は、その広間の奥。広間を出る扉の前で横になっていた。足の近くに……死体がある所を見るにそれに躓いてしまったようだった。
マシュは、その死体に一度息を詰まらせたが――意識を切り替えて、うつ伏せで荒い息を吐き続ける男に声を掛ける。
「あっ、あの……すみま――」
「――うわぁ!!」
男は声を掛けられたと同時に、大きく身体を動かし、逃げようとする。しかし、直ぐに足が絡まって転ぶ。大きく転んだ拍子に、顔が此方に向き――目があった。
「……ちっ!ああ、お前らか……びっくりさせんなよあの悪魔が来たのかと。つぅ……!」
「悪魔?」
唐突に出てきた言葉に、立香がそう聞くと男は一瞬信じられないような顔をしたが、直ぐに納得したような顔をする。
「そうか、お前らはあそこに居たから見てねぇのか。……突然、壁をブチ破って入って来た“獣”の事だよ!変な恰好した子供みたいに見えたが……あんな、あんな…っ!!狂ってやがるっ!あんなもんが街にいるのかよ!?冗談じゃねぇッ!!それにッ……ヨセフカ先生もおかしかった。あの一人、ただの医者のはずなのにどうして“狩人”共の武器を……それにあの気色悪い触手……あれは、あれは……」
目の焦点は無く、ただ感情のまま吐き出すその様は完全に恐怖に支配された者そのものだった。そんな男に掛ける言葉が見つからず、右往左往している二人に――何を勘違いしたのか、男は勝手に話しだした。
「ああ?ああ、そうだよ。診療所の前で倒れてたお前らを運んだのはヨセフカ先生だ。“獣狩りの夜”に外で寝てる奴――それも、余所者なんだからほっとけって皆言ったのに、先生は余所者だろうと救うのが医者の仕事だって……お前らみたいな得体も知れねぇ奴らを助けようとする……あんな良い人だったのに……どうして……」
男は蹲り、少し呻くと突然「うひっ、うひひひひっっ!」と狂ったように笑いだした。
「ハハハッッ!!……ヤーナムは終わりだ!!!あんな獣がいるんだ。もう何処も安全じゃねぇ。狩人共はほんとクソにも役に立たねぇ!血狂い共が何のためにお前らが生きてると思ってるんだ!!クソガッ!!!……医療教会の連中も聖堂街への大橋を封鎖しやがって、市街に住んでる俺らなんてどうでもいいんだ!!ふざけんな俺は絶対俺は……俺は、絶対に生き残ってやる!どんな事をしてでも!!こんな街、獣共にくれてやる!あんな姿になるのだけはごめんだ!」
そしてそのまま何事かを延々と呟き始めた。その目には立香達を映していながらも映しておらず。ただ獣、狩人、医療協会という単語に対する悪態ばかりを叫んでいる。
立香とマシュはそれを茫然と見た後、顔を見合わせて、静かに頷く。そして刺激しないように男から距離を取った。
「……先輩」
「……色んな名前が拾えたな」
「はい。
マシュが挙げた名前を確認するように、立香は頷いた。
「獣とかともかく……ヤーナムって地名に聞き覚えある?俺は無い」
「……私も同様です。もしやかなり古い時代の地名なのかも……」
「だけど、あの男の人が着てる服はかなり俺達と時代が近い。もしかして訛った地名なのかも……」
「成程。特異点における異常は、“獣”ですかね」
「たぶん。あと、さっき俺達は診療所の前に倒れてたって言ってた。診療所っていうのがこの建物の事なら……」
「――私達はどうして、そこに倒れていたのか、ですね?」
「うん。特異点に飛ばされた際のレイシフトの反動で、着いたはいいものの倒れてしまった……とかかな」
「ですが、私の記憶では風邪で寝た時以降の記憶はありません」
「俺もその辺。マシュと一緒に寝た時で止まってる」
「では、レイシフトしていない……?」
「それか寝た時からレイシフトした時までの記憶が無くなっているか……」
二人は静かに、そして素早く情報を擦り合わせを行なう。
後ろに男をあそこまで狂乱させる“獣”というものがいる以上、長居は出来ない。
速やかに且つ短時間で情報を整理し、ある程度お互い納得した後――男を連れて、此処から逃げなくちゃいけない。……せめて、自分達が助けられる範囲は助けたいという気持ちが立香にあった。そして、それはマシュも同様だった。
「OK。取り敢えず、此処はヤーナムという場所。特異点の異常はおそらく“獣”で、狩人や医療教会というのはそれに対抗する組織の可能性がある。齟齬は?」
「ありません。まずは、安全な場所を見つけてから、その狩人さん達に接触しましょう」
「良し――」
話は纏まった。二人は頷き合うと、男に近づく。
男は未だに蹲りながら、他者への悪態を吐きながら叫んでいた。腕を床に何度も打ちつけ、手には血が滲んでいるのにも気づかず何度も何度も叩きつけている。
マシュがどう声を掛けようかと悩んでいると――立香が一歩前に出た。戦闘は任せっきりなので、こういう時ぐらいは役に立ちたいのだ。
「……あの――」
「クソッ、おかしいと思ったんだ。いつまでたっても獣狩りは終わらねぇ。どうせ狩人も医療教会もヤーナムもなにもかも全部グルだ!くそったれだ!俺を騙して殺そうとしてやがるんだ……ふひひっ、そうはいかねぇ絶対生き残って――」
「その、俺らと一緒に此処から逃げませんか?」
「――んあ?」
逃げる、という言葉が響いたのかは分からないが、男の目に少しだけ焦点が戻る。
そしてそのぼんやりとした瞳に――立香が映った。
「お前……いま、なんて言った?」
「俺達と一緒に逃げようって言いました」
「……なんでだよ?」
「なんで、って……だってその、獣がまだこの建物にいるんでしょう?だったらさっさと逃げないと」
「……いや、違う。なんで俺、と。お前らが一緒に逃げるんだよ?」
「貴方を助ける為です。俺達、こう見て結構戦えるんですよ?……俺じゃなくて、彼女がですけど」
少し照れたようにマシュを指す立香。マシュも後ろを警戒しながら、頭を下げた。
その様子を信じられないように見上げた男は、震えながら首を振る。
「嘘だ……どうせ隙をついて俺を殺すつもりなんだろう?」
「嘘じゃないです。……この街の事を知らなくて、色々と教えて貰いたいなー、とは思ってますけど――助けたいっていうのは本音です」
「…………なんだって、俺を助けようとする?お前ら自身が大事じゃないのか?俺は狩人共みてぇに戦える訳でもねぇ。足手まといなんだぞ?」
「だから、なんです?その――助けるのに理由がいりますか?」
男は口をあんぐりと開ける。大きく開けた口から尖った犬歯が、立香の目に入った。
それに気を取られていると――男は、突然低く笑いだす。だけど、先ほどとは違う声色の、笑いだった。
「ふっ――ふふふっ、なんだそりゃ。珍妙な恰好だと思ってたが、まさか頭ん中まで珍妙だとはなぁ!」
立香達を嘲るような物言い、でも立香は気づいていた。男の気持ちに少しでも届くものがあったという事を。その後ろでマシュも嬉しそうに笑っていた。
立香は、男に対して手を差し出す。男は笑いながら、その手を握った。ゴツゴツとして尖った感触が立香の手に伝わって来た。
「ああ、良いぜ。騙されてやるよお前らに」
「はい。思う存分騙されて下さい」
「ははは、馬鹿だなぁお前らも」
立香は手を引き、男を立ち上がらせる。「すまねぇな」と礼を言う男は少し照れくさそうだった。
もう大丈夫だ、と立香はマシュに視線を向けると――マシュも男を不安にさせないように普通に近づくよう装いながら、後ろの警戒を続ける。
「……んじゃ。行こうぜ。何処も獣だらけだが、下水道を使って聖堂街に行ける裏口を知っている。そこで俺の家に行こう。あの辺はまだ安全だろう」
「あっ、ちょっと待って下さい!」
「……なんだよ?」
「名前!俺、藤丸……ああ、いやリツカ・フジマルって言います。んで、こっちが――」
「――マシュ・キリエライトです。宜しくお願いします」
「……はぁ、自己紹介なんて何時振りだろうな。それも、よりにもよって余所者に言う時が来るとは思わなかった」
男は苦笑を零すと、確認するように立香とマシュを見た。
「フジマルとキリエライトだな」
「はい、宜しくです」
「ああ、そうだな。んでもって俺は――――」
ふと――
「ん?」
立香は耳に入った小さなその音に首を傾げる。もしや、後ろにいた獣という奴がこっちに来てしまったのかとマシュに視線を向けるが――マシュもまた、耳を澄ますようにしている。
しかし、少し待っても何にも無く、二人は緊張の末に小さな音に過敏に反応し過ぎたんだろうと笑い――「遮ってすいません」と男に声を掛けようとした。
――が。
「うっ、あっ……」
男は遠目でも分かるほど滲むような脂汗を掻きながらうめき声を上げていた。目の焦点はまたもや無くなり、それどころか――瞳の輪郭が崩れ、蕩け始めていた。
突然の変化に立香は手を伸ばそうとすると――
「――近づくなッッ!!」
男に強く弾き飛ばされる。立香はそれに大きくのけ反り――数メートルほど跳ね飛ばされた。
「うぐぁっ……!!」
「――先輩ッ!」
マシュは急いで駆け寄る。痛みに呻く立香は心配いらないと手を振るが、信じられない気持ちでいた。男は痩せ型で突き飛ばしたとしても少しよろけるぐらいだろう。立香とて、生半可な筋肉はしていない。
だが、飛ばされた――数メートルもだ。まるで漫画の過剰演出のように。
マシュは、一度息を吐くと――盾を構える。男の方へ。
「あああ、ああああああ!!!いっ、いやだっ!!あんな、あんな風になりたくないっっ!俺は違う!俺は俺は俺はぁああ!!!なっ、なあ頼む、フジマル!キリエライト!俺を、俺を殺せ!早く殺せ殺……うぐぐぁ、グァア――』
男は――変わり始めた。
服が隠す身体の肉が盛り上がり、その圧に耐え切れなかった服ははじけ飛ぶ。剥き出しになった身体は人間には無い黒い毛に覆われ、顔も――人間ではないものへ。
汚らしい何かを身体中から撒き散らしながら、男の叫びは――耳を劈く奇声にへと。
変わる。変わる。
そこで――チャリチャリン、と金属が床に落ちた音がした。
その音を辿ると、それは二つの鍵だった。男の服が千切れた拍子に落ちてしまったのだろう。
何にも繋がれていない鍵。一つは何の変哲も無いただの鍵。もう一つは――何故か血に濡れていた。
「――ッッ!」
弾かれるように見た先は――外へと繋がるであろう扉に付いている外付けの鍵穴。
「――マシュッッ!!」
立香が叫んだ意図は、マシュに正しく伝わっていた。
マシュは男――“獣”に鋭く接近。盾をソレに向ける。
獲物が自分から近づいてきたと思ったのか、“獣”はのっそりとした動き大口を開けた。
そしてその口目掛けて――マシュは盾を叩き込んだ。
「ハッ――!!」
『グキャア……!?』
突然の強い衝撃にサメのような歯を数本飛ばしながら、獣は痛がるように呻きを上げた。
その隙にマシュは、落ちていた鍵を二つ無造作に握り――後ろから走ってきた立香に向かって、投げる。
「先輩ッッ!」
「ああ――!!」
立香はそのまま駆け抜けて扉の前に立つと、鍵穴に向かって――血に濡れた鍵を差し込む。ガチャンッという小気味良い音とともに鍵が開く音がした。
後ろでマシュが“獣”を抑えている戦闘音を聞きながら、直ぐに扉を開け、外の安全を確認。特に異常が無いのを見て、マシュを声を掛ける。
「マシュ!来てッ!」
「はい!せいッ――ヤッ!!」
マシュは、返事と共に盾を“獣”の頭に思いっきり叩きつける。変わり果てても、臓器部分は変わっていないようで脳を激しく揺さぶられた“獣”は目が回ったように呻く。
マシュはその間に乗じて、立香の下に辿り着いた。立香は急いで扉を閉めた後――何かを抑えるものを探す。扉のガラスからは眩暈が治った“獣”が叫びながらこっちに向かって駆けてくるのが見えた。
それと同時に、立香は扉を外から覆うシャッター式の檻ががあるのを気が付き、それを思いっきり下げた。
「はっはっは……!!」
「せっ、せんぱ――」
――数瞬して、
『――グァアアアアアアア!!!!』
扉を粉砕しつつ、“獣”がこちらに飛びかかってきた。反射的にマシュが立香の前に出ようとするが――“獣”の牙は二人ではなく、先ほど降ろした檻を齧りつく。
『グゥァ!!グァアア!!グアアアアアッッ!!!』
檻の隙間に歯を入れながら、勢いのまま立香達を襲うとする“獣”だが――檻が頑丈であるらしく、少しずつ歪めてはいるが立香達に届くモノではない。
「……行こう!早く!」
「はっ、はい!」
“獣”が止まったのを確認した立香達は、急いで診療所の入り口から離れた。奇声でしかない男であっただけの“獣”の声を後ろから聞きながら。
「………」
「……こんな……」
診療所を出ると、建物全体を陰鬱な雰囲気は晴れた。冷たくひんやりとした風が二人を撫でる。少し清涼感を与えたが、それと同時に――鉄錆びのような匂いが鼻に付いた。
診療所を囲む塀から出れる
中世ヨーロッパ風の建物が入り乱れた近世の街。ガス灯があり、馬車がある所を見れば、産業革命期前後であると推測出来た。
煉瓦で出来た道。そこに乗り捨てられた馬車に、その窓から半身を出した状態で息絶えている人であったように見える物体。馬は、大きなモノに齧られた跡を残したまま蠅が集っている。
何か十字架のようなものが燃えているのが見える。そこには――先ほどの“獣”の顔した人型が、炎の中で磔にされていた。
「………」
「………」
まさしく――悪夢のような光景に、立香とマシュに立ち尽くす。
……どちらとも無く、手が伸び、互いの手を強く握りしめた。湧き出る不安を、誤魔化すように。
遠くで、獣の叫びが聞こえる。
それに、呼応するようにその叫びは――無数に重なり、耳障りな慟哭へと成り代わって行った。
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※エネミーデータが更新されました。
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・『罹患者の獣』
ヤーナムの“病”に侵された人間の成れの果て。
身体にへばりつく服の断片やベルトという文明の残り香が、彼ら彼女らが人間であったという事を強く印象付ける。
しかし、彼らの瞳に理性は無く、ただ人を食い散らかす“獣”でしかなく――“そうであったもの”でしかないのだ。
――
変わり果てる前、男は言っていた。
「ヨセフカという医者は、変な服を着た子供の形をした悪魔に殺された」と。