雷十太くん……君、書きやすいね
目の前の現実は、石動雷十太にとって悪夢そのものだった。
十年の歳月を掛けて体得した真古流剣術の極意。
それは、日本の剣術世界において頂点に君臨するべきものであると信じて疑わなかった。
事実、身に付けた秘剣は有象無象を寄せ付けぬほどに強い。
ましてや間合いの外から一方的に攻撃できる飛飯綱を放てば、並みの剣客はおろか軍隊すら相手取れるほどだ。
己が自信の根幹となっていた。
「はぁ…はぁ…、ぬぅん!!」
飯綱を振るえばどんな相手であれ鎧袖一触だった。
今までがそうだったし、これからもそうあると思っていた、否、そうあるべきなのだ。
だというのに、目の前の現象はいったい何なのだ?!
再び放った飛飯綱は立ち込める蒸気の中に飛び込んでいき、地響きを伴う爆音が奴に命中したことを教えてくれる。
なのに、手応えがまったく感じられない。
得体の知れない蒸気の向こうに、未だ奴が生きているという予感を拭い去れない。
「ぬ……ぐぅ、……ぅああ!」
焦燥と得も知れない何かに駆られ、再度飛飯綱を放つ。
その一撃も変わらず爆音を奏で、しかし一向に蒸気を打ち払わない。
そうだ。
飛飯綱を立て続けに喰らってなお死なないこともおかしいが、この耳を塞ぎたくなる爆音もおかしい。
通常の飛飯綱ならば起こり得ない現象だ。
あの蒸気はいったい何だ?
あの蒸気の向こうに、何がある?
奴はいったい、何者なんだ?!
根源的な恐怖に駆られて手が震えるも、なんとか刀の柄を握り締め、もう何度目になるか分からない飛飯綱を放つ。
「……ッ、ぬあぁぁ!」
その一刀は、殺意を込めた純粋なものではなかった。
恐れ、戸惑い、疑い、焦り。
それらが混じった一刀には当然力など乗るハズもなく、蒸気に突入しようとした飛飯綱はしかし、突入するより先に蒸気より現出した巨腕によって
「……ッ、!!」
己自身が飛ばした斬撃が爆散することなく、出鱈目に回転しながら自分に向かって飛んでくる。
完全に飛飯綱が押し負けたのだ。
その事実が信じられず、目を剥いて固まってしまったために初動が遅れてしまった。
結果、自らが放った技が自らの肩に裂傷を刻み付けたのだ。
「ぐッ、はぁ……!」
傷口を押さえつけ、深傷ではないことを確認してから再び前を振り向くと
じゃり
と、次第に薄れ始めた蒸気の中から傷一つ負っている様子のない狩生十徳が現れた。
その表情は、最初はまるで初めて玩具を与えられた無垢な子供のように朗らかな笑みを湛えていたのに、石動雷十太の顔を認めると直ぐにその感情が顔から溢れ落ちた。
例えを続けるなら、せっかく与えられた玩具を壊してしまった子供のようなもの。
無意識に向けていた期待が塵となってしまったような、そんな顔をしていた。
「……あぁ、そっか。そうだよな。お前は
はぁ、と溜め息と一緒に溢す言葉は石動雷十太にとって意味が分からなかった。
だが、なんとなく自分に対する失望を含んでいるということは声音から分かった。
分かったが故に、それが非常に腹立たしかった。
殺意は言うに及ばず、敵意を向けられるならいざ知らず、失望されるのは意味が分からずとも癪に障るのだ。
まるで、敵としての価値すら無いと告げられているかのようで、許せなかった。
「き、貴様ァ……!」
「なぁ。最後の、いや、それ以前にさ、あの雑念の混じった一連の攻撃はなんだよ。殺意の乗っていない一閃はなんだよ」
「なんだとッ?!」
「ぶれっぶれだ。どんどん飛飯綱の威力が弱くなっていった。スタミナ切れかとも思ったが、その顔を見るに違うようだな。ただ単純に、お前自身が
自分の攻撃に身を削られるとはな、と呟き二度目の溜め息を溢す。
それとともに右肩から熱気の籠った空気が喧しく排出され、赤熱化した右腕の温度が下がり始めた。
その様子を、石動雷十太は冷や汗を垂らしながら見ていた。
目の前の意気消沈している男に、恐怖していたのだ。
秘剣たる纏飯綱と飛飯綱がまったく通用せず、掠り傷一つさえ負わずに、むしろこんな程度かとでも言い出しそうな相貌の男に、たじろいでいた。
腹立たしい。
だが同時に得体の知れなさに、底の見えなさに恐怖していた。
いったい、どんな経験を積めばこんな人間になれる。
この若造は、いったいどれほどの死地と地獄を歩んできたというのだ!
「もういいよ。怒りも楽しみも、何もかもが失せた。何もかもが……無くなっちまったよ」
そう言って狩生は己の右肩にそっと触れると、空気が抜ける音を立てて己が義腕を落とした。
がしゃん、と音を立てて落ちた巨大な右腕から解放された狩生の元の右腕を見て、石動雷十太は生唾を飲み込んだ。
それは今しがた落とした
己の腕を入れられるほど大きくなく、むしろちょうど人の腕ほどに細く、小さいからだ。
生来の腕ではあり得ない色と光沢、そして存在感を醸し出す禍々しい右腕。
あれも、機巧の武器なのか。
自らの腕を、改造したとでもいうのか!
その右腕を動かし、手を握ったり開いたりして動作確認をする有り様を見て、背筋が凍る感覚に襲われながら、叫んだ。
「……き、貴様ッ、その右腕は何なのだ!落としたそれも、今身に付けているそれも、それはなんなのだ?!」
「ぁあ?ただの右腕の代わりだよ。生き残る為に捨てた右腕の代替。木っ端に爆散させた腕の、代用物だ」
「なッ、自ら腕を棄てただと?貴様、狂って……!」
「お前もそのクチか。俺にとっては沙汰に正も凶も関係無いんだよ。例え腕がもげようが、足がちぎれようが、取れる手段が変わっても成すべき事に変わりはないんだから」
お前は違うのか
青く貫くような眼光を放ちながら呟くその姿を見て
そして、確信した。
目の前の男は、人間ではないということを。
機巧に身体を委ねた狂人。
己が目的を果たすためなら如何様にも身体を弄る異常者。
きっと腕を、否、首を切り落としてもコイツは止まらない。止められない!
その首すら代用する何かにすげ替え、戦い続ける羅刹の類いだ!
「……、ッ……、!!」
もはや震えるのは手だけではなかった。
肩が、足が、全身が。
寒さで震える以上に小刻みに痙攣し、ついには刀すら落としてしまった。
今まで自分が相手にしてきたのは、人ではなかった。
人の皮を被った、怪物だったのだ。
故に、もう、本能的に、ただただ怖かった。
「突っ立ってくれるのは有り難い。殺しやすいからな」
そんな石動雷十太の様子を見て狩生は再度溜め息を一つ吐くと、ゆっくりと歩き出した。
「戦意喪失?それが戦いを終わらせる理由になるわけないだろう。言ったハズだ。ここは殺るか殺られるかの、殺し合いの場だと。何がどうなろうと、その土俵から勝手に降りることは--俺が許さない」
どちらかの死こそが、死合終了の笛音なのだから。
そう嘯き、狩生は足取りを乱すことなく石動に近付いていく。
その瞳からはハイライトが消え、その表情から先程の昂っていた感情の面影は微塵も見当たらなかった。
そして
左腕で胸ぐらを掴み、膝裏を蹴って地に膝を着かせ、目線を同じ高さに合わせた。
幻ではなく、その瞳と同じように、狩生の掴む左手がとてつもなく冷たく感じた。
「死ぬるべき時節には死ぬがよく候ってな……あばよ」
大きく右腕を振りかぶった瞬間
狩生の背を
一陣の風と絶叫が撫でた。
==========
突き放った豪腕を寸でのところで軌道修正し、石動雷十太の頬横数ミリを掠めていった。
う、お、お、ぉぉぉおおおお!
っぶねぇぇぇええ!間一髪!!
良かった、あとほんの少し正気に戻るのが遅かったら
確実に殺してた。
蒸気を突き破り、石動雷十太の怯えきった表情を見て幾ばくかの冷静さを取り戻した俺の心を襲ったのは、とてつもないほどの虚無感だった。
もう何もかもがどうでもよくなって、全てを壊したくなって、そして目の前の愚物をどうしても殺したくなって。
なんでか異常なまでにハイになった直後に襲ってきた虚しさ。
そこには自分でも不気味に思うほどのどす黒い殺意が含まれていた。
あれは本当に気持ち悪かった。
刃衛との殺し合いの時にすら感じなかった、禍々しい殺意。
まるで、まるで自分の心に高粘性の泥を掛けられたかのようだった。
自分のテンションが急にハイになったり、逆にダウンしたり、もしかして……
「ッ、まぁなんだ……良かったな、最後にお前がうざがってた弟子に救われて。今のお前にはその滑稽さが丁度いいぜ」
怪しげな思考を頭を振って打ち切り、両膝を立てて頭を抱えている雷十太を一瞥して告げる。
最後の最後、俺の背に掛けられたのは由太郎くんの悲痛な制止の声だった。
言葉はよく覚えていない。
けど、耳をつんざくあの悲しげな叫び声は、俺の心を覆っていたどす黒い何かを通り抜け、そして胸に届いたのだ。
「先生!大丈夫ですか、先生?!」
と、俺の横を通り抜け、由太郎くんが雷十太の傍に駆け寄った。
その表情は信じられないものを見たかのように青褪めていて、酷く戸惑っていた。
無理もない。
彼にとって雷十太の強さは絶対であり、強いからこそ惹かれ、憧れていたのだから。
「先生、肩がッ……と、取り合えず止血を」
腕を失い師に裏切られる悲しい結末は避けられた。
だが、この結末がbetterかと問われたら、そんなことは決してないだろう。
彼は今、理想の強さ、そして追い掛けようとしていた強さが、目の前で崩れ去ってしまったのだ。
「傷が深いッ……肩は、肩は動かせますか?!」
夢を求めていつしか溺れてしまった雷十太と、追い掛けていた夢が途端に消えてしまった由太郎くん。
前者はともかく後者をもたらしたのは他でもない、この俺だ。
ならば、俺にできることは何だ?
慰めの言葉を掛ける?阿呆か、そんなのは侮辱だ。
「先生!気をしっかり持ってください!」
由太郎くんにとって、俺は敬愛する師を倒した憎き敵なんだ。
そんな奴に慰められる?
一人前の志を持つ彼にそんなこと出来るわけないだろう。
彼の強さを追い求める熱意を無下にしたくない。
強くなりたい、強くありたいという気持ちは、痛いほどに俺も分かるから。
だから、今の俺に出来ることといえば--
「はん、ザマぁねぇな」
「……!」
驚き、振り向いて俺を見上げる由太郎くんを睥睨する。
「ま、コイツの強さも所詮はこの程度だったということだ。飯綱?爪切りの方がまだ俺に深傷を負わせられるぜ……深爪だけにな、ふふ」
「なッ、なんだと?!先生はッ……お前の戦い方が変だから!お前が剣を持って戦っていれば、絶対にこんな結果には--」
「生憎と俺は剣客じゃないんでね。剣で応える筋合いは毛頭ないんだ。それに相手がどうのこうのと言い訳をするのは止しな、みっともない」
ずきりと走る胸の痛みを顔に出さず、俺は鼻息を一つ鳴らして嘲笑する。
「それに一つ教えてあげるよ。この御時世、剣の強さを誇る奴なんざ只の犯罪者だ。コイツは廃刀令違反に殺人未遂、公務執行妨害をしでかした立派な反社会的人物なんだ。精々残りの生涯を塀に囲まれた場所でひっそりと生きていく存在になる……いや、この俺がしてやるよ」
「お、お前ッ……!」
「あ~あ、ホント阿呆くさ。実力も無ければカリスマも無い、ましてや覚悟も無い自称剣術の未来を憂う剣客さんに少しは期待したんだがな。君は大道芸師を目指してたんだっけ?だったら確かに、丁度いい師だったよ。まぁ犯罪に手を染める時点で社会不適合者だがな」
「黙れぇぇええ!」
俺の挑発に堪忍袋の緒が切れたようで、由太郎くんが傍に落ちていた雷十太の刀を拾って俺に斬りかかってきた。
その太刀筋は、術理をまったく身に付けていない事が明らかに分かるほどに粗雑で、やはり雷十太から指南されていないようだった。
けど、それには一切の迷いがない、純粋な怒りが込められた気持ちのいい一刀だった。
がん、と硬質な音が響き、同時に再び由太郎くんが驚愕に目を見開いた。
「雷十太から稽古をつけてもらえてなかったんだね。けどそれは僥倖だよ。真古流なんつぅ胡散臭い剣術なんざ俺には通用しないからね。例え何人束になって掛かって来ようと、だ。ここに来るまでに見なかったか?真古流門下生共の哀れな末路を」
「くそッ……離せ!」
「剣を術として身に付けたいのなら、まず剣の道を知れ。それが出来なきゃ雷十太の二の舞だからね。君は些か視野が狭い。馬鹿にしてた剣道を知ること、そこから全てが始まると考えるんだ」
そう言って俺は右手に力を込め、刀身を
一流の剣客の一刀なら手が両断されるかも知れないだろうが、由太郎くんの一刀なら屁でもない。
折れた刀を茫然として見る由太郎くんの足を払って、転倒させた。
ごめんね。
君は俺を恨んでくれていい。
憎んで、呪って、嫌ってくれ。
いつか俺を斬り殺すぐらいに強くなってくれ。
「……ッぐぅ」
「そうして剣を知り、身に付けるんだ。それが出来れば
「お前……ッ!」
「それともここで俺に刃向かうか?痛い目見て、犯罪者を擁護して、同じ塀の向こうにブチ込まれたいか?」
尻餅をついて此方を見上げてる由太郎くんに睨みを利かせて黙らせる。
由太郎くんは青い顔をして黙ったが、それでも唇を噛み締めて俺の瞳を睨み返してきた。
あぁ……そうだ、その瞳だ。
ありありと俺を憎悪していることがよく分かる。
でもこれじゃあ剣を身に付ける以前に闇討ちしてこないか不安になるが……まぁそれも良し、だ。
失意のまま何も出来なくなるよりかは万倍マシだからな。
震えそうになる喉に必死に喝を入れ、平静な声を絞り出す。
「嫌いな俺の助言は聞く気も起きないだろうけど、これは真実だ。意固地になって視野と見聞を狭めたら、それこそ雷十太と同じで自分の考えを絶対と信じる愚鈍になる。君が雷十太と同じになりたいのなら止めはしないが、それだと永遠に俺を越えられないよ。ま、どうするかは君次第だけどね」
由太郎くんと絡めていた視線を切り、俺は雷十太の胸ぐらを掴み上げて立たせる。
今の今まで震えていて、今もなお心ここにあらずの状態だ。
連行するには丁度いい。
俺は雷十太を引っ張ってこの場を去ろうとして、ふと小さな可能性に気付き、振り返って由太郎くんに告げた。
「神谷活心流。そこに弟子入りするといい。そこの師範代とか、いずれ集ういろんな人を見て、君の追い求める強さを定めるんだ。そこで君が、真の剣の道を見出だせることを祈っているよ」
なんて、本当に入門してくれたら嬉しいんだけど、流石にそこまで俺の言を唯々諾々と受け入れるわけないか。
まぁどこの道場であってもいいんだけどね。
きっと由太郎くんならどこの流派でも大成する。
如何な動機であれ、きっとだ。
強くなりたいと願う
弱い俺は喜んで嫌われ役を引き受けようじゃないか。
由太郎くんには強く生きてほしいです