「も、もう……、やめ……へ」
恵が絶句したのも無理もない。
観柳の様子はあまりに常軌を逸していたのだ。
顔は憔悴し、シワが増えて急激に年を取ったかのよう。
涙と鼻水と涎で酷くぐしゃぐしゃになっている。
着地した拍子に折ったのだろうか、片足は曲がっていてもはやマトモに立つこともできない。
それゆえ腕だけで動こうとしているのだろうが、その動作の滑稽たるや。
泣きながら芋虫のように身を引き摺ってこの場から離れようともがく様は、相手へのわだかまりがありながらなお同情を禁じ得ないほどだった。
「かん、りゅう……?」
恵の呟く声はおろか、この場にいる女性と式尉に気付くこともなく観柳はもがき続ける。
観柳に最後に会ったのはほんの数刻ほど前だ。
それから今の今までに一体なにが起きたというのか?
浪人らが?
そう考えて、観柳が落ちてきた上の方を見上げようとしたときだった。
見上げるより先に三つの影が目の前に落ちてきた。
「……!」
その影は、見知った存在だった。
御庭番衆の火男が、その巨体さゆえ地響きを立てながら観柳の横に着地し、その隣に御頭の蒼紫が音を立てずに降り立った。
式尉が側にいるのだ、今さら二人を見ても恵に驚きは無かった。
観柳に雇われていた彼らが、どうして観柳がこうなるのを許したのかは分からないが、そもそも恵はそこまで考えていなかった。
なにせ今の恵は、ある一点のみを見詰めているから。
「―――狩生くん!」
観柳を挟んで向こう側に降り立ったのは他でもない、いつかまた会えたらと願っていた青年、狩生十徳その人だった。
だが、当の十徳はちらりと恵たちを一瞥しただけ。
すぐに観柳の前で屈み、その後頭部を掴んで無理矢理視線を合わさせると何事かを呟いた。
意図的に小声で話しているのだろうか、恵には何を言っているのかは杳として分からなかった。
何かを言う度に観柳の肩が震え、滂沱の涙を溢して喘ぎながら必死に頷いていた。
「ッ……なんつう鬼畜。
「無論だ。修羅か羅刹の類いと思っていたが、その片鱗を見れたのは寧ろ僥倖。人の皮を被った鬼だと言われても、納得こそすれど敬遠する理由にはなるまい」
「羅刹、ねぇ……零距離で殺気を顔面に何度もぶつけたり、口腔内に手ぇ突っ込んだり、舌を引っ掴んでちぎろうと脅――」
「はーい、よい子は聞かなくて良いことだからねー。お耳閉じ閉じしましょーねー」
「ふゃ?!」
鎌足の背中から降りて、蒼紫と火男の会話を聞きながら十徳のところに歩いていた恵たち三人。
その途中、恵の耳を鎌足が塞いで聴覚をシャットアウトさせた。
物騒極まりない話の内容に脚色は一切無いため、その行動は正しい。
十徳は肩を組むようにして観柳を捉えていたことを良いことに、徹底的に脅したのだ。
余計な事は口走らないこと、変な企ては持たないこと、そして二度と陽の光りを浴びようとは思わないこと等々。
十徳は観柳に二度殺されかけた。
一度目は、隠密御庭番衆を差し向けられて。
二度目は、雇っている浪人らを差し向けられて。
故に、それらをはね除けた十徳にとっては、もはや観柳は純然な“排除すべき敵”となっているのだ。
例え裏切ることを前提とした協力関係を築いていたとしても、事ここに至れば容赦も遠慮も要らなくなった。
結果、三階から突き落とした際には死んでしまってもいいとすら考えていた。
科学捜査の“か”の字もないこの時代、事故に見せかける、或いは浪人どもによる
生きようと死のうと、無様な姿の観柳を恵の眼前に晒け出し、自らを縛る鎖が斯くの如くなっているのだと彼女の心に焼き付けられれば、それでよかった。
十徳は鎌足に、暗に耳から手をどけるようジェスチャーして、そして告げた。
「武田観柳。密輸した大量の阿片と武器を政治家及び軍関係者、ひいては公職に就く者に賄賂として贈与し、当人たちの心身を著しく害した。私利私欲という醜い理由で国政を担い得る者を凋落させ、もって英国の侵略の一端を担った……これに相違ないな?」
「は……ひ。そ、そ……ひ、ありま……へ、ん」
「結構」
答えを聞き届けた十徳は観柳を掴むと、乱雑に火男に投げた。
慌てながらも観柳をキャッチした火男は、十徳の意を悟って渋々と肩に背負った。
当の観柳に抵抗する素振りは一切なく、それどころか瞳には恐怖と絶望の色が濃く映り込んでいるほど。
それを解した十徳はここにきて初めて全員に向き直り、宣した。
「聞いたな?観柳の阿片及び武器の密輸入は確認済み。証拠もあるし、自白もたった今得られた。また一切の事に
「ッ?!」
「忠勤大儀である……皆、よくやった」
先程の十徳の罪状説明は恵もしっかりと聞いていたし、掠れる声で観柳がそれを認めたことも聞いていた。
正直なにが起きているのか理解出来ていないが、強調されて言われた“無関係”という単語から、十徳が何らかの細工をしていたということは薄々と理解できていた。
だが、だからと言って納得できるかは全くの別問題だ。
十徳が続けて何かを言おうとしたとき、屋敷の奥の方から一際大きな爆音が響いた。
「ッ、今の爆発……何かに引火したか?御頭、屋敷が崩れ落ちるのも時間の問題ですぜ」
「じっくん、私たちも早く離れましょう。浪人どももホラ、あそこから色んな物担いで逃げてるし」
此処で犯されて殺させることが運命だと思っていた。
此処で嬲られて朽ちることが宿業だと思っていた。
何故なら、そうなるべきことを仕出かしてきたから。
自分の不注意で悪を醜く肥え太らせ、多くの人の生を壊した。
そうして生きる意思を無くし、さりとて死ぬ気力も無く。
言われるがままに、自己保身のために阿片を作り続けてきた。
「御頭、番頭(十徳のこと)。早いとこ退避しようぜ」
「そうだな。十徳、行くぞ」
無関係なわけがない。
むしろ発端、根元、諸悪である。
裁かれるべきは自分も同様。
助けられる筋合いや資格なんて露ほども無いのだ。
だから、どうして。
どうしてそんな私を。
火の粉から逃れるため門前まで来た恵たちは、燃え盛る観柳邸を見ていた。
だが恵は、つとその視線を切った。
そっと横から肩に添えられた鎌足の手を感じながら、横を見る。
そこには、真剣な眼差しをした十徳がいた。
やがて彼の口から溢れた言葉は、一つの問いだった。
「高荷さん。貴方が背負っているその罪を、俺に返してくれないか?」
「……え?」
空気が抜けたような軽い音が、恵の口からこぼれた。
罪とは、正しく自分が阿片を作って多くの人の生と命を台無しにしたことだろう。
それを返す?どういうこと?
要領を得ない突然の質問に、恵は混乱した。
「白状するとさ。俺は知ってたんだ、貴女が観柳に利用されていたことも、あへん……良からぬ物を作っていたことも」
その言葉に、恵は驚くこともなかった。
何の目的かは知らないが、彼は観柳と懇意にしていたのだ。
自分のことを知らないわけもないだろうと分かっていたのだ。
「でも俺は、観柳を利用する為に貴女を助けなかった。救わなかった。阻止するべき立場にありながらも、止めるべき力を持ちながらも、貴女に過酷な罪を背負わせ続ける道を選んだ」
「狩生、くん……」
「そして貴女が作った物を観柳が利用する際、その利用先を俺が選んだ。廃人に墜とすべき人物の選定を、俺がしたんだ。俺の一存で、多くの人の人生をぶっ壊した。俺が率先して、そうなるべき人物を選んだ」
その言葉で初めて、恵は目を見開いた。
観柳が何をしていたのか、具体的に恵は把握していなかった。
自らが精製した阿片を観柳が徴収し、しかし当の観柳が阿片を使用している様子が見られなかったため、どこか別の誰かに売っていたのだろうとは考えていた。
それでも、まったく関係の無い誰かであろうと、作った阿片は最終的には「使用者」に行き届くのだから、罪の重さに違いはないと考えていた。
だが、そこに十徳が絡んでいたら?
「使用者」が十徳の人選によるものだとしたら……
「無論、ただ無作為に選んでたわけではない。きちんと俺に利する相手を厳選した結果だ。利とは何かと問われると……悪いが教えられない。でも、だからこそ、一つだけ、言えることがある――」
……それでもきっと、関係ない。
発端は自分であり、そこに十徳が居ようと居まいと罪の重さに差は生まれない。
なぜ?
なぜ、その利を得るために悪事を働いた?
あの優しさと暖かさを見せてくれた狩生くんが、どうして?
そんな疑問が分かりやすく顔に出ていたのだろう、十徳が澄んだ声音で言った。
「貴女のその罪は貴女のものじゃない、
どくん、と心臓が跳ね上がり、恵の呼吸が止まった。
確かに、恵の精製した阿片によって多くの人が廃人になった。
その人生が大きく狂っただろう、多くの人が不幸になっただろう。
きっと当人だけではない。
その人にも家族は居ただろう、恋人が居ただろう、友人が居ただろう。
大切な人が居たハズだ。
そんな人たちの人生も壊したのだ。
そして繰り返すが、そうなるべき人物を選んだのは十徳だ。
ならば、罪は誰が一番重い?
阿片を作った恵か、阿片を渡した観柳か。
それとも、阻止するべき立場に居ながら阻止せず、それどころか国益のためと称しながら多くの人を破滅に追い込み、あまつさえ私腹を肥やした十徳か。
法学者ならば誰を選ぶ?
事情を知った一般人ならば?
或いは何も知らない人ならば?
国政を担う者ならば?
笑止、と十徳は一蹴する。
全ては俺が招いたこと、と嗤う。
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そも観柳という屑の存在は原作知識から疾うに知っていたし、恵が本意でなく阿片を作っていたことも知っていた。
されど止められる立場にあり、止められる個の力も群の力もありながら止めなかった。
もし本気で止めようと動いたならば、阿片による被害を確実に僅少にできたと考えている。
否、確信している。
されど、そうしなかった。
観柳を利用して多くの人たちを苦しめ、そんな人たちを観柳もろとも処分して国の為だったとほざく。
あまつさえ全ての罪を観柳に着せ、恵の罪をも有耶無耶にする。
悪を肥え太らせて巨悪に育て、利用する。
そして使い終えた後、容赦なく処分する。
悪を使えるのは、より大きな悪である。
巨悪を使い潰せるのは、悪鬼羅刹の俺をおいて他にいない。
俺こそが悪だ、観柳に関するあまねく真の罪は誰にも渡さない。
受けるべき罰は全て俺のものだ、誰にも背負わせはしない。
それこそが十徳の意思であり、全ては十徳が仕組んだ結果だ。
そうしようと決意し、そして背負うことを受け入れた罪の形だ。
絶対に誰にも渡さない
「そんな……でも、」
十徳の真意を理解した恵は、しかし上手く言葉を続けられなかった。
胸に生じた激しい感情に、ひどく苛まれているのだ。
恵自身も、己の胸に渦巻くこの感情を理解しきれていない。
ただ一つ分かることは、とても胸が締め付けられるほどに苦しいこと。
それは、とても悲しいからだということ。
それだけは、言葉にできずとも分かった。
罪悪を感じないようにする、などできるわけがない。
例え仕組まれたものと分かったところで、罪の意識になんら変化はない。
罪を忘れて日常に戻るなんて、できるハズがない。
けれど、
罪を物のように受け渡しするなど、できるハズがない。
けれど、
そのあまりに大きな覚悟が、ひどく冷たくて、痛々しかった。
自分に覚悟なんて、何一つない。
罪を受け入れるのは、単なる諦観が故。
犯した罪の重さに喘いで、苦しいから、助かりたいから罰を求める。
けれど、彼は違う。
自分こそが罰を受けるべき悪なのだと、胸を張る。
罪は全て己が身からあふれ出たもの、だから全ての罪は俺へと遡ると言う。
自分とは正反対な彼の、罪への向かい方が、ひどく眩しく見える反面、どうしてか、どこか辛く感じてしまうのだった。
それはきっと、罪を背負う彼の在り方に、多分に優しさが含まれているからだ。
自分を慮っての結果が今の目の前の光景だと思うのは、きっと自惚れではない気がする。
だからだろう、こんな自分を助けるため、ここまで大きな覚悟を強いてしまったことが、とても辛かった。
彼の顔には片目を隠すように大きく包帯が巻かれている。
頬に深く付けられている傷から、もしかしたら片目を大きく切り裂いているのかもしれない。
右腕だって以前と変わらず包帯が巻かれている。
服で隠れている身体だって、きっと傷だらけなのかもしれない。
あまりに痛々しい姿、あまりにいたたまれない姿。
なのに。
なのに彼は、こんなにも堂々としている。
こんなにも敢然としている、こんなにも毅然としている。
こんなにも強く在り続けている。
恵の胸の痛みは、一層ひどくなった。
つと、恵は十徳の視線が屋敷ではなく、反対の通りの方を向いていることに気がついた。
それにつられて通りを見ると、一人の警官が走ってきているのが見えた。
肩を大きく上下させ、額が汗でぐっしょりしている。
燃え上がっている観柳邸を見て、驚きから足を止めた丸眼鏡のパンチパーマをした男性が十徳に声を掛けた。
「はあ、はあ、ぜえ、……十徳くん。これ、は……?」
「署長。どうやら観柳が囲い込んでいた浪人どもが狼藉を働いたようです。観柳の身柄は捕らえましたが、奴等にかなりいたぶられた後だったようで、ご覧の通り……」
そう言って火男に目線を向ければ、彼は意を汲み観柳を降ろしてその身を署長に渡した。
その観柳の容態を見て署長は荒れていた息を飲む。
「あと彼女が件の軟禁されていた女性です。心身ともに疲弊しています。養生できるよう……」
「なるほど、彼女が……えぇ、大丈夫ですよ。家内にも冴子にも伝えてあります。一時的に私の家で保護しましょう」
「ありがとうございます。ところで、周りの首尾はどうですか?」
「貴方たちの動きに呼応して、警視本署に残るほとんどの警官を動員させて、観柳と縁を持った人たちの逮捕に動きました。討伐隊が壊滅したこの時に大規模捜査をするのはどうかと思いましたが、大警視のご意向ですし、皆さんに全力で動いてもらってます」
「署内が混乱しているのは分かります。けれど、それで本署が機能しなくなるようでは相手の思う壺です。ここは、死に物狂いになってでも動かなくてはなりません」
「……えぇ、そうですね。その通りです。今はとにかく、職務に忠勤すべき時ですね」
汗を手拭いで拭き終えた署長は、十徳を見据えて問う。
「観柳の身柄は引き受けます。狩生くんたちは、この後どうされますか?」
「予定通り次の任務に動きます」
そう答え、十徳は全員に向けて言った。
「鎌足は高荷さんを署長宅にお連れしろ。観柳の件が片付いた以上、S捜査がメインになるからお前を前面に出すことは当分ない。だから優先して高荷さんのケアに当たってくれ」
「りょ~かい!でもでも。S捜査以外のことで私が必要になったら、いつでも呼んでね♪」
「ああ、そうさせてもらう。蒼紫たちは京に行ってくれ。道中の通信拠点は徹底的に潰して構わない。十本刀と遭遇しても好きに暴れて……いや、違うな。立ちはだかる奴は全て刈り取れ。容赦無く、だ。いいな?」
「ふ、了解だ。連れていくのは式尉と火男と癋見だな?」
「ああ。般若たちは、ロシア人との接触が成功するかは運次第だが、第一の目的(工作員が北関東に居ないことの確認)が達成したら西に行きながら探すよう伝えてあるから、いずれお前たちと合流するだろう。お前たちも京に着いたら情報網の敷設に尽力しろよ。それと、例の人探しもな」
「分かっている。任せておけ」
「頼んだぞ。横浜から東京に来る際に、観柳の土産を大量に持ってきたろ?好きなのを持っていけ。俺は──」
「番頭!」
十徳の口から続きが語られようとしたときだった。
駆けてきた癋見が割り込んできたのだ。
「癋見。連絡役のお前が来たということは……現れたのか?」
「ヤベェですぜ。想定を上回る事態だ」
十徳は悲壮感と焦燥感を顔に張り付けている癋見を落ち着かせ、何が起きたのかを問うた。
「多数飛来してきた不明飛翔物体がダイナマイトをばら撒いてやがる。陸軍省は現在爆撃を受けている」
===========
「どうする?」
「どうもしない」
蒼紫の質問を受けると、十徳は一瞬の間もなく答えた。
「予定に変更はない。俺たちは俺たちの任務を優先する」
「……そうか」
「阿呆で役立たずで、俺より弱くてしょーも無ェ奴等だ。そんな部下どもを信じる気なんざさらさら無いが、それでもやる時はやってくれる。そんぐらいは分かんだよ」
次回!乞う!ご期待!
下の方に報告というか、愚痴というか、そんなものを書きました
物語の雰囲気がぶち壊れるので、そーいうのはヤダという人はご注意ください
読まないことをお勧めします
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白状しますと、本章を投稿し初めてからストックが一話も増えてません
次話でストックが切れます
なんか、全然書けなくなっちゃいました
ほんと凄く、凄く書くのがしんどくなってきちゃって……ごめんなさい
頭にはストーリーが出来上がってるというのに、文字におこすのが凄く辛くなって
一日の限られたプライベート時間に無理矢理書こうとしても、全然指が動いてくれない
なんとか書き進めても、まるで文字がただの記号にしか見えなくなって、自分の作る世界なのにそこに入れなくて
すみません、取り敢えず明日には残る話を投稿します
読者の方々にも納得してもらえるよう、内容も修正しておきます
今までは、ある程度書き留めてから投稿していたのですが、今後はちょっと厳しいかもです
かなりスパンが空くかもしれません
或いは、お茶会みたいな舞台裏のお気楽な閑話を投稿するかもしれません
或いは、何食わぬ顔して普通に投稿を続けているかもしれません
すみませんが、取り敢えず、またノシ