竜王戦が終わり途中福井に帰郷し大阪に戻って来た八一。早速今年中に溜まった用事を済ませんと動き出した。まず天衣と師弟契約を結ぶ為に彼女を連れて会館事務所を訪れる。
棋士の卵達が集い研鑽を重ねる研修会。一昨年東海、今年は九州と新しく研修会が開かれ関東と全国を二分とは言えなくなったがその熱気は今も変わらない。
最も今日は別の意味で騒がしかったが。
「例会は月2回第2、第4日曜日に開かれる。幹事指導者は久留野義経七段、本田修二七段、佐東貴文六段。棋士と奨励会員による指導もある」
「は?今月もう過ぎてるじゃない。大阪まで呼んでおいて馬鹿なの?」
早速噛みついてくる彼女に苦笑して言葉を続ける。初めて会った時と変わらず黒の衣服を纏い良く通る声で話す物だから容姿と相まって周囲からの視線が絶えない。
「今日は稽古のついでに書類を出しに来た」
「郵送しなさいよ。給料減らすわよ」
「残念ながらお前はもう弟子なんでな。その手は効かん」
「っち」
舌打ちして扇子を弄りだした彼女と三階事務所で連盟職員と入会手続きを行う。しかし周囲は相当忙し気だ。聞けば取材要請から入会の電話、果ては迷惑電話まで殺到しているらしい。自分のせいだったこともあり具合が悪い。
「はい、お終い。竜王の推薦を断る訳ないです」
「良かったな」
「ふん」
「こんな時に来なくても試験当日でいいんですよ?」
「すみません。早く済ませたかったんで。あとこれ皆さんでどうぞ」
両手に下げた糸谷堂特製ロールケーキを差し出す。棋士室に詰める棋士会員達にも十分行き渡る量だ。少し財布が軽くなった。
「これは、先生も悪ですなあ」
「よろしくお願いします」
「絶対分かってないわよこいつ。まあ、お願いするわ」
何やら意味あり気な言葉だったが良く分からない。取り敢えず頼んでおけば間違いないだろう。そして左隣が先程から自分に厳しい。
会館の自動ドアを出て右へ。駐車場の白線ぎりぎりで収まる高級車へ向かう。精算機の前で待っていた晶さんは当然の様に後部ドアを開けて天衣を待つ。いつも天衣の側を離れない彼女だが今回はここで待つと聞かなかった。
「それでどこに行くのよ?」
「浪速区恵美須東。ここから車で10分少しの場所だな。晶さんがいて助かります」
「先生も二輪を取ったらどうだ。16だろう?」
「考えたことも無かったです」
「止めておきなさい。多分事故るわ」
「……」
一瞬18で大型を乗り回す自分を想像したのだが天衣の一言で夢と消えた。阪神高速を飛ばす車の後部座席で少しだけ落ち込む。ままならないものだ。
「あ、貴方は将棋指しておけばいいのよ」
先程まで尖っていただけに分かりやすく気を使ってくる弟子の言葉が痛かった。
「何よここ」
車を降り高架を背後にタイルの敷かれた道へ入り左折。更に狭いアーケード街へ入る。焼き肉、串カツ、飲み所、理容店、射的屋まで立ち並ぶ横丁。目的地は姉弟子共々お世話になった道場だ。晶さんに人混みから守られながら横丁に足を踏み入れた天衣は周囲を見渡し顔をしかめる。
「新世界。今日の稽古はここで行う」
「こんなところでか?」
「自分と姉弟子も通った道です」
歩きながらネックウォーマーを引き上げ野球帽を取り出し深く被る。目の前には将棋盤と囲碁盤が並ぶ正面がガラス張りの店。幾人かのギャラリーが立ち見して中を覗いている。
「レベルが低いわ。相手にならない」
「相手がいなくなったら次の場所へ変える。一端指して来い。ああ…」
奥に特徴的な人物を確認し笑みがこぼれた。ポケットを探り角の潰れたタバコの箱を取り出す。机の中に仕舞っていた懐かしき思い出の品だ。よれた跡は姉弟子の仕業である。
「先生?未成年だろ」
「強い人と手っ取り早く戦う為です」
「これタバコ…じゃなくて千円札ね」
「ん、取り敢えず一本賭けて奥の虎柄だ。勝った分は小遣いだな」
「まあいいけど」
扉を開けた瞬間聞こえてくる罵声に固まる天衣。漏れ出た鼻をつく煙で再起したのかバアンッと限界まで開け放つ。そのまま席主を無視して奥へ行ってしまった。金払えと睨む席主に三人分の料金を払い晶さんと彼女を追う。
「ハアア?!」
「あちゃー、アホな事してもうたわ」
隣の席を取り晶さんと観戦するも早速やられた様だ。ちらりと見ると角頭歩戦法に迷わず飛び込む天衣の一手が見える。力で捻じ伏せると判断したのか油断しているのか。角交換が済んでしばらく。徐々に形勢が逆転していく。
「お前みたいな子供はあのクソガキ共を思い出していかん。踏み潰したくてかなわんわ!」
「何で、何でこっちが不利なのよ!」
「何でやろうなー」
ここで冷静に対処できるかが境目となる。しかし相手の揺さぶりに崩れた天衣はそのまま連敗、次いで別の相手にも連敗してしまった。
「嬢ちゃんもう十分じゃろ?別に賭けじゃなくても受けるぞ」
「っくぅぅ!!」
「待ってくださいお嬢様!」
天衣は黒星を4つ重ねたところで駒を盤上にぶちまけ外に駆け出した。残された老人に謝り駒を直す。まんま何時か見た光景にそっくりなので対応は慣れた物だ。
「あのパンサー、次は殺す」
数刻が過ぎ夕方。動物園前で空となった箱を握り潰し地団駄を踏む彼女がいた。八一は彼女が地面に叩きつけたそれを拾い懐に仕舞う。…ポイ捨てはいけない。
既に定めた稽古の時間を過ぎこのまま解散の流れだ。今日はこれで最後だと今後に関わる事を済ませておく。
実のところ今日の相手に対して天衣の勝算は十分あった。この数ヵ月で鍛え上げた彼女の基礎力は多少の小細工を跳ね返すレベルにあるからだ。敗因はハメ手への対応、対人経験の少なさ、それに伴う心の強度等多々あるが大元はこれだと判断する。
「負けた理由は分かるか?」
「ちょっと動揺しただけ!冷静になれば勝てたわよ」
「そうだな。良く分かっている。では何故実力で劣る相手に連敗するほど動揺した?」
「っ!」
「相手を侮ったな?挑発も勝ち気なのも構わない。ただ対局相手に敬意を払え。それは己の心の緩みを引き締めもする」
「…分かった」
「分かれば良し。素直な子は伸びる」
項垂れる彼女の頭に手をのせると全身で振り払ってくる。
「何するのよ!」
「そう気落ちするなと言っている。これは稽古だ。次から気を付ければ良い」
「気にしてなんかいないわよ!」
そう最初から何でも出来たら此方の立つ瀬が無いというのに落ち込むからだ。こっちはようやく師匠らしい教えを出来たというのに。師匠の受け売りだが。
ちなみに彼の師匠は同じ悩みを抱えた挙句10年経ってようやく少し報われていたりする。
「道場の1つや2つすぐに制覇してやるわよ!」
「まあ次のは無理だと思うが。まずは虎柄を倒すことだ」
何処よそれと噛みつく弟子を車に追いやり自分も乗り込む。八一が福島で降りるまで教えろ秘密だと騒がしいやり取りが続いた。
駒の動きを覚えた少女はまず倉庫から引っ張り出した将棋盤で脳裏に焼き付けた駒の動きを再現することから始める。最初に両者の歩が突進するこの形は?
「相掛かり」
古びた将棋本から序盤戦術の一覧にそれらしき図を見つけた彼女は目を輝かせた。この調子で読み解けば彼の考えが分かるかもしれない。
「あいー。少し手伝って」
「はーい」
親の呼ぶ声に返事をして急いで一冊の本を開き頭に内容を叩きこむ。うんと頷いた少女は広げた物を収納に隠してバタバタと部屋を後にした。