福井のとある街。将棋道場やアマチュア大会に出ては優勝を掻っ攫う小学生になり立ての男児。彼は幼い顔の下で”もっと強い相手と満足するまで指したい”と相手に不足を感じていた。
自分の様な小学生にも本気で指す対局相手には敬意を払って倒す。舐めてかかる者、警戒する者、諦める者平等に吹き飛ばしていると大会で同地区の小学生に対局を避けられた。
闘わなければ負けない。もっともなことである。
そこで対等な相手を求めて研修会という機関に入りたいのだが場所が一番近くて大阪。入会金、月謝、月2回の例会に出る為の経費その他諸々必要となる。
両親に借りる以上実績をもって説得するなどと考えているあたり本当に子供らしくない。
ゲストとして来ていたプロ棋士との指導対局に向かう彼の願望は予想外の形で叶えられるのだが。
むっすと不機嫌顔で大阪なにわ筋を邁進する少女と八一は並んで歩く。少年の表情筋はぴくりとも動かないが内心困り果てていた。隣の姉弟子は先程TVの取材を受けた後からずっとこの調子である。正確にはスマホを取り出して何やら調べた直後からである。
「姉弟子。何を書かれていたか知りませんけど気にしない方が良いですよ」
「…付けられた」
「は?」
「変な異名を付けられた」
「はあ。そういうの気にしないと思ってましたよ」
歩道に駐輪された自転車の脇を抜け福島駅に登る。環状線内回りの電車を待つ間に鞄を探り彼女が何と言われているのやら調べようとするもスマホを奪われた。素早くポケットにしまわれて手が出せない。
「自分の事は一切見ないくせに何調べてる」
「次の電車が来る時間を少し」
「見え透いた嘘を吐くなぼけぇ」
悪手でますます不機嫌にしてしまった。公共の場で姉弟子を暴れさせる訳にもいかず八一は付かず離れずの位置を維持することに努める。ここで完全に離れると後日に響くことはその辺に疎い八一も学習済みである。
野田で電車を降りて見慣れた密集住宅地域に入ると騒がしさが一気に遠のく。静けさの中ぽつりと姉弟子が言葉を漏らした。
「浪速の白雪姫だって」
「ああ、姉弟子は綺麗ですしね」
「…ッ」
姉弟子が黙り込んだことで場に微妙な空気が流れる。流石の八一も不快にさせたかと隣を見ると首筋まで赤くした姉弟子の姿が目に入った。この程度で照れていてはこれから大変だろう。
「早くVS」
「はいはい」
彼女の機嫌は良くなった様なので良しとする。やはり練習とはいえ対局には互いに良い状態で臨みたい。しかしこの後の練習将棋で八一は姉弟子に負け越した。
夕食の場で珍しく落ち込む弟弟子の姿が見られたという。
夜静まり返った日本家屋の二階。八一は今後の身の振り方を考えていた。要は高校に進学するかどうか、住まいをどうするか。将棋に全てを注ぐ覚悟はとうに出来ている。
しかし進学するかどうかは別の話だろう。現に先達の中学生プロ棋士は皆進学している。世間体を気にする八一ではないが両親がどう思っているかも気になる。
「どちらにせよ一旦実家に帰るか。プロ入り決めてすぐ公式戦だったからな」
幸い次の公式戦は11月半ばの玉座戦一次予選。無論プロ棋士達の対局はごまんとあり検討、研究幾らでもすることはあるが時間はある。むしろ順位戦他タイトル戦が始まる来年の方が忙しいはずだ。
「師匠は起きているか…?」
清滝鋼介。姉弟子と自分の師匠にしてこの屋敷の主。あと数日で50歳を迎える一児の父。幼い弟子2人が紆余曲折あって憧れを抱いたプロ棋士。順位戦B級1組で死闘を続けるばりばりの現役である。
「うむ親御さんとよう話し合って来い。別に中学を出てもここにいてええからな。収入が入ったからと家族を放り出すわけないやろ」
「ありがとうございます」
晩酌をしていた師匠に考えを伝えたところすぐ返答が帰ってきた。師匠もこの件は考えてくれていたのだろう。全く感謝の思いしか湧いてこない。いつか溜まった恩を返すことができるのだろうか。
「では明日福井に帰ります」
「八一、銀子にはちゃんと説明しい」
「…?はい」
姉弟子に事情を話すことなど当たり前だ。師匠の言葉を不思議に思いつつ一礼して部屋に戻る八一であった。
――銀子ちゃんそっちに行ってないかしら。
「何故ここにいるんですか姉弟子?」
「休暇よ」
新大阪と金沢を結ぶ特急列車の青を基調とした車内に八一の呆れを含んだ声が響く。最も長い付き合いのある者にしか声音の違いは分からない程度だが。
朝一番のサンダーバードに乗った彼は一時間ほど経った頃ファンに囲まれた姉弟子の姿を目にしたのだ。次いで桂香さんからの一報。もう自分に付いて来たのは明らかであるが面と向かって指摘するのは悪手。ここは知らないふりである。
「和倉温泉ですか?」
「…福井」
「奇遇ですね。実家に寄っても良ければ案内しましょうか」
「ん」
取り敢えず温泉好きの姉弟子を考慮し芦原温泉は確定。幸い実家との距離は北陸本線で三駅程と近くアクセスも良い。恐竜博やらその他は興味も示さないはずだ。
「日帰りですし急ぎますか」
「疲れた。まだなの?」
「もう少し鍛えた方が良いですよ」
「うるさい体力お化け」
駅の裏手に広がる水田と用水路を背に密集する民家の一軒。日本海沿岸の強風と頻繁に降る雨に対応する雨戸、生垣を備えた典型的な日本家屋が九頭竜家だ。八一は大阪清滝家で暮らした時間の方が長い為変わらない風景にほっとしている。
八一は後ろで小さくなる姉弟子を引っ張って実家の戸を開ける。九頭竜家と空家は同門に子を預ける関係で顔を知っていた。にも拘わらず八一が女性を連れてきたと九頭竜家は大騒ぎ。姉弟子は自分の後ろで更に縮こまりしばらく収拾は着きそうにない。
結論から言うと両親は自分の決断に任せてくれた。多芸な八一なら後から高認を取ることも出来るだろうとは父の言葉だ。今までもずっと親の心情より子の意志を優先させてくれた2人には頭が上がらない。
九頭竜家を出て芦原で疲れを取った二人は屋台村で腹も満たし特急の座席に並んで座った。脳内将棋盤で早指しを行うこと二回。舌足らずなしゃべり方で姉弟子が話しかけてくる。
「八一。師匠の家を出てくの?」
「はい」
「そう。明日福島の賃貸探しに行くわよ」
「姉弟子のお手間を取らせる訳には。適当に決めておきます」
「うるさい。黙って従え」
「はぁ…」
言い終わるや否やこてんと頭を八一の肩にのせてスースーと眠る彼女。腰に掛けていたジャケットを彼女に掛けてやる。
昔から姉弟子の命令に振り回されてきた八一の宿命である。
「…ありがとうございます」
八一は幼少の頃からずっと共に将棋を指してくれた銀子に深く感謝している。一人で指す将棋は二人のそれより味気ないのだから。
誤字報告ありがとうございました。