「まあ良かったじゃない。ヘボ昇級だけど」
「むぅ…」
「な、何よ。不満なら全勝しなさいよ」
「そうだな」
八一がプロ棋士になって迎える2度目の3月。佳境を迎えた順位戦に挑んだ八一は粘る相手を突き放し勝利。更に7勝で並んだ他2人が3敗目を喫したことで最後の一枠に滑り込んでいる。上二枠は全勝と9勝で既に埋まり順位が低い八一は昇級の可能性がほぼ無かったはずが一筋の可能性を引き当ててしまったのだ。
勿論C級2組50名中3番目の勝率であることは間違いない事実。八一も黙して結果を受け止めたがここまで全ての階段を自力で上ってきたがゆえの違和感があった。
「で先生。大体察しは付くがここ京橋に何の用があるのだ?」
「道場があります」
「どうして揃って普通の場所にないんだ。ご当主も一任せよの一言だし…」
「晶。気にしたら負けよ」
八一が天衣、晶を連れて歩くはネオンサインが多く光る京橋の商店街。この中に紛れた木造二階建ての建物が3人の目的地である。かなり強くなっていた虎柄に手こずった天衣が満足行く結果を出したのは先日。それに伴い事前の宣言通り稽古場を変えることになったのだ。
玄関に掛けられた暖簾に書かれたゴキゲンの湯の文字が3人を迎えた。
「銭湯?何考えているのよ?」
「ここの二階が道場だ」
「はぁ?」
木製の引き戸を開けると呼び鈴が鳴る。そして正面の番台で体操服を着て俯いていた少女がこちらを見て固まった。前髪に半分隠れた目が彼女の動揺を表して揺れている。
「こんにちは飛鳥さん」
「や…いち君?」
彼女は生石玉将の娘とあって同年齢でも敬語を使ってしまう。
「またしばらく通います。大人2人子供1人で」
「ぅん…あ、あの。そっちのお二人は?」
「弟子とその連れです。二階に上がっても?」
「で、弟子!?…え、ぇ、あ!っとお父さん下で作業してるから…」
「休憩所で待たせてもらいます。お前は二階で指してくるといい。ここは面白いぞ」
「ふん蹴散らしてやるわよ。晶!」
弟子は尊大な態度を取るも油断の色は見えない。しかしここの常連は捌きのマエストロの手解きを受けた強者揃い。いい勝負になるだろう。
長椅子に腰掛けボイラーでも見ているのだろう店主を待っていると後ろから話しかけられた。
「あ、あの。久しぶり」
「お久しぶりです。姉弟子がお世話になってます」
「ううん。私は何も…」
「姉弟子はここの帰りに機嫌が良いですから。番台の飛鳥さんのお陰です」
「そう、かな?」
互いに口下手なりにぽつぽつと思いついた世間話を脈略なく話す。幸い突飛な将棋界に身を浸す身。話題には事欠かない。
「あの!八一君…」
「おう八一か。今日は銀子ちゃんいないぞ?」
奥から黒いスーツを着た男が現れた。彼の名は生石充。玉将のタイトルを持つトッププロ棋士である。マエストロの異名を広めたその将棋は軽快にして華麗、繊細ながらダイナミックな振り飛車。
10年前、棋士室で姉弟子が”振り飛車なんて消えて無くなれ”と喧嘩を売ったのが初対面。その後逆恨みした彼女とここに殴り込みをかけたのが縁で今では姉弟子が研究相手を組む程の付き合いとなっている。
「弟子を取ったのでその子の稽古に来ました」
「お前、ここを何だと思ってやがる」
「全国屈指の道場ですかね」
「まあいいだろう。その弟子とやらを見に行こうじゃないか」
階段を上がる彼に続こうとした八一は振り返って飛鳥に尋ねる。
「さっき何か言いかけましたか?」
「なんでも、ないよ…」
「そうですか」
無理に聞くこともないだろうと八一は歩を進めた。彼は後ろから刺さる羨望の眼差しに気づかない。
「君が八一のお弟子さん?ほう、うちの連中に勝ったのか」
「んな!お、生石玉将!?」
「何だ知っていたのか。誰よこのおじさんとか言うかと思っていたが」
「貴方趣味悪いわよ!」
それでも弟子を驚かせられたので良しとする。下で席主を待つ間に目立ったのかギャラリーが彼女を囲んでいた。彼等が八一に気づいてどよめく。タイトルホルダーの登場に加え会話を聞く限り目の前の少女が竜王の弟子となるので仕方ないが。
「どれ、少し指すかい?」
「勿論」
「じゃあ飛車落ちで」
駒落ちの対局を素直に応じる辺り冷静に向き合えている。駒落ちは上位者が棋力を埋めて下位の者と真剣に戦おうとしているとも取れるのだ。願わくば今の落ち着いた態度を自分との対局時にも取って欲しい物である。
天衣は右四間飛車を繰り出し右翼を責め立てた。対する生石は何気無く見せて打った歩を餌に銀で桂馬を取るや角の睨みを塞ぎ徐々に手駒を揃えていく。
最善と思う手を指しているにも関わらず不利になっていく感覚に追い立てられた天衣は無理攻めをしてしまった。寄せきれずにいる天衣に対し我が意を得たと寝返った飛車が走る。攻撃力の上がった生石の攻めを前に天衣の守りは崩れ終着。
「…負けました」
「おい八一。この子強いな」
「本来の力ならもっとやれましたよ」
「ふん」
「折角だお前も指してけ。竜王のお手並み拝見だ」
玉将と竜王のVSとあって人が集まって来た。天衣も好きにしたらと了承してくれたので遠慮なく闘争に身を委ねることにする。相変わらず圧倒的な攻撃力を誇るゴキゲン中飛車との激戦を終えると負けた悔しさに順位戦のしこりは塗り潰された。
感想戦を終え再戦を誓って帰ろうとした八一を呼び止めたのは生石。風呂に入らないのなら今後道場は貸さねえとのことである。風呂道具を3人分、八一の出費である。
「あ、あの飲みもの、アイスありますよ…」
「お嬢様!イチゴミルクとガガリリ君どちらにしましょう!」
「ひぅ」
「晶、声が大きい」
「すみません」
対局と風呂で熱くなった体を休めていると銭湯を満喫中の2人が目に入る。八一は推しの熱い緑茶を勧めるため立ち上がった。
帰宅した八一は郵便受けにやたら分厚い封筒が入っていることに気づいた。指で弾いて異物が入っていないか確かめる。以前熱心なファンが連盟の名でカミソリを贈ってくれたからだ。
「弟子入り?」
ひらりと出てきた便箋にびっしり書かれた平仮名混じりの文字を要約するとこうなる。更に封筒をひっくり返すと詰まっていた棋譜用紙がどさどさ落ちてきた。その全てが相掛かりで始まり古い戦型から最新型まで順に揃っている。なかなか味のあることをしてくると八一は頷く。
しかし自分は既に弟子を1人取っている。送り主の近場に良い指導者がいないか師匠に聞いて推薦してもらおうとスマホを手に取った。
「師匠?少しお時間よろしいでしょうか?」
「実は…でして」
「ありがとうございます。失礼します…」
少し考えた後便箋を取り出してペンを走らせる八一。文才が無い八一が近くのポストに封筒を投函し終えたのは夜遅くのことであった。
しかし八一が得た情報には幾つか抜けがある。送り主の将棋歴と実力、本当の住所、大人顔負けの行動力である。
結構恥ずかしい間違いに気づいたので修正中です
飛鳥ちゃんの年齢を再度調べて文を修正しました