野に伏し飛び立つ時を待つ龍と鳳凰。優れた才が世に出るにお似合いな部屋ではないか?部屋に飾られた掛け軸を見て自分は竜王になる前から割と注目されていたくせしてそれを忘れ心中頷く八一である。
「あい、先生にご挨拶を。一日遊んだのなら今日は午後から旅館を手伝いなさい」
「いややっ!私はくじゅりゅう先生の弟子になる!」
「他所様に迷惑をかけておいてまだそんなことを…いい加減になさい!」
「先生、折角お越しになられたのです。自慢の温泉に入って行ってください」
「あなた」
「はい。すみません」
あいと彼女の母亜希奈がだらだのやいねがいねと言い合いを始めた傍で父隆が宿泊もどうですかと勧めてくる。明日の対局を理由に断ると同時じろりと横から睨め付けられた父親は何故か謝り下がった。八一は隣の口論が途切れたのを幸いと切り込む。
「あいさんの件で話があります」
「…聞きましょう」
「彼女は私に師事を求めました。それを受けたいと思います」
「先生?私は冗談が嫌いです」
「自分も苦手ですね」
親子の口論が止み家庭内に口を出す痴れ者に対する冷たさが襲来する。八一は自分の発言に対する三者の反応を見ておく。あいの喜悦、父親の困惑、母親は無表情。楔を撃つべき場所は明らかである。
「この子はひな鶴の娘でいずれこの旅館を継がなくてはいけません。ボードゲームに興じる時間はないのです」
「確かに歴史ある旅館を守るに教育は幾ら早くても足りないのでしょう」
「そうです。私達雛鶴家は1200年続く湯を代々守ってきました。これをしょうもない理由で絶やすことなど許されない」
八一の頭は回り続ける。次の最善手を模索してそこからどう終着に持っていくかと。旅館経営第一の穴熊思考は崩せないと判断。まずは搦手を使って横撃することに決めた。
「仰る通りです。しかしあいさんはその為の勉学に身が入っていないと見えます」
「先生には関係ないことです」
「今回の件もそうですが彼女は隠れて将棋を続けますよ。聞けばこの3ヵ月旅館の手伝い中も頭の中で駒を動かしていたそうです。そして私も目を見張る将棋を身に着けました。考えることを禁じますか?」
「あい?」
「あわわ、何で言っちゃうのです先生ー」
ここまで変化の無かった母亜希奈の表情に苛立ちを見て取った八一。序盤は優勢に立てた様だと足を組み直す。先の発言は大人になって自分に関する決定権を得たあいが再び家を出る可能性をも含む。反則に近い一手なのだ。
「先生の仰りたいことはこうですか?無理に勉学をさせるよりは期限を区切って好きなことをさせた方が為になると」
「あいさんの才能は一線を越えています。決して無為な時間にはならないでしょう」
「っだら。つくづく邪魔な遊びがいね」
「今だらって言った!お母さんのだら!!」
「親に向かってだらとは何やいね!」
「先生、私達は将棋に関して詳しいことを知りません。まずは女流棋士について教えてもらえますか」
母子の言い争いが再燃したが喰いついてきた標的に八一は心の内で笑みを零す。そして鞄の中から幾つかの雑誌を取り出した。姉弟子から貰った将棋雑誌である。彼女が表紙を飾るそれを貸してくれと言った時八一は返さなくて良いと言われたがはてさて。
「まず彼女達女流棋士になる為の条件ですが…」
パラパラと雑誌をめくり山城桜花戦の特集ページを開きペンを持った八一は話を続ける。
外から見ると複雑なことになっている将棋界の説明を続けること1刻。女将と違い全く将棋界のことを知らなかったのか板前の父親は深く頷いている。
「なるほど。つまり女流棋士になるにはその研修会でC1になる必要がある」
「2週に1回ある例会で年108局戦いその結果で昇降を決めます。まず1年ここで様子を見ても遅くはないかと」
「1年ですか。うむぅ」
「…失礼ですが先生はこれまでに弟子を取られた事は?」
「去年から指導して今年初めに研修会入りした子が1人。今のところ負けなしです」
「それはすごい」
「あなたは黙っていなさい!」
「はい!」
「竜王にまでなった九頭竜先生があいに注目する才能がある…という前提で進めましょう。先生は私達にA2から奨励会そしてプロへ進む道を示しませんでした。それはどういう意図でしょうか?」
「2歳で将棋のルールを覚え4歳で親元を離れる。7歳で小学生名人、11歳女流2冠、14歳奨励会2段」
「は?」
「史上最もプロに近いとされる女性の経歴です。私は彼女をずっと傍で見てきました。彼女は将棋に全てを捧げて戦い血の滲む努力を重ねその入口に手を掛けています。その道は決して私が才能だけで保証できる様な軽い物ではない。勿論あいさんが奨励会規定の26歳まで人生を賭けるというのなら全力で支えます」
「…プロ棋士に比べ条件が低いということは女流棋士の地位が不安定ということ。その点については?」
もう一押しといったところと見た八一は寄せに入る。もう相手の反応は見ない。元々交渉など柄ではないのだ。事前演習の域は当に過ぎ後は情に訴えるのみである。
「棋士女流棋士問わず対局のみで食っていける層は一握りです。しかし明るく快活なあいさんならレッスンや解説の仕事は引っ張りだこでしょう。経済的には普通のOLの方より恵まれるかと。好きなことを好きなだけできる人生は幸福と私はとらえます」
最早ここまでと八一は座布団を横に手の平を地に付け額が床に付くまで伏せた。それを見たあいも身体を跳ねさせ隣で頭を下げる。
「確かに将棋は単なるゲームです。この旅館のように人を癒す事も社会の発展に寄与することもない。ですがそんな穀潰しでも恰好良いと、自分も将棋を指したいと言ってくれる子がいます。そんな彼女だから弟子に迎え入れたいと思いここに来ました。自分が彼女を竜王の名にかけてタイトルが取れる程の棋士に育てて見せます!…どうかあいさんを弟子に下さい!」
「わ、私は先生の弟子になって将棋を指したい!お母さん!お父さん!一生に一度のお願いです。弟子入りを認めて下さい!」
しばし沈黙が続き父親が口を開いた。続く重い言葉がどちらに転ぶか見当もつかず八一は身体の震えを抑えられない。
「頭をお上げください。お前、先生はよく考えていらっしゃる。まず1年…」
「まだ弱いです。取引は相手に一定の利を見せなければいけません。先生ご兄弟はいらっしゃいますか?それと年収も」
「お前!先生に失礼だろう!」
「黙りなさい!」
「はい」
これで都合何度目になるのか。八一は少し弱すぎやしないだろうかと妻に平伏する父親のことを心配しながら意図が読めない質問に答える。
「兄と弟が1人ずついます。年収は…これくらいかと」
「なるほど。ではあいが1年後女流棋士になっていない。又はあいが高校卒業までに女流タイトル保持者になれないか先生が永世竜王の資格を得ていない場合」
「…?」
「あいは女流棋士を引退、先生は雛鶴家に婿に入ってもらいます!」
「は?」
「九頭竜先生は竜王の名をかけてあいの才能を保証しました。ならば両方大した問題ではないでしょう」
「婿というのは」
「ひな鶴の1人娘を弟子に取るのです。それ相応の責任は取って頂きます。先生には入り婿としてあいを支えていただかねば。明後日にあいを大阪によこすので今日は湯と食事を取って夕方の列車で帰りなさい」
「はあ」
老舗旅館の例に漏れず後継者問題で悩んでいたのかと混乱する八一。亜希奈とあいの地元人気を考えればそれはないと言えるのだが彼は知らない。
「師匠!一緒にがんばりましょう!」
「一緒にがんばりましょう…」
親子で同じ言葉を発しながらなんとも対照的すぎる表情を前に流石の八一も考える。これは何処かで何かを間違ったのかもしれないと。
八一喜べ3年延びたぞ。