銀子がその少年と初めて会ったのは9年前。地元で開かれた将棋イベントの指導対局から色々あって師匠の下に住み込んで直ぐの頃だ。対局で負けた復讐の為に自宅を調べ上げられ連日幼女の殴りこみを喰らった師匠からして見れば一言で収まらないのだが。
弟子入り(当時そんな考えは無くただ復讐の一心であった)の二週間後、師匠が少年を連れてきてこの子に勝った数だけ相手をすると告げた。
銀子は鴨がネギ鍋を背負っていると対局を行い初戦は快勝、二戦目以降しつこく粘られ一週間後に初めて負けた。その時点で銀子の復讐対象は師匠から少年に移り師匠の目論見は多少のずれはあるも成功。以降銀子は少年と毎日将棋盤を挟んで生活することとなる。
これはそんな少女の思い出の一つ。
私が6歳となった年の春。八一と彼の長期休暇を利用して県外の将棋道場へ行くことにした。早朝、大阪の道場で真剣師相手に少しづつ貯めた軍資金と切符を分けリュックの奥底に仕舞う。
二人の標的は東京歌舞伎に存在する憎き真剣師。前年の遠征では自分がむきになって全財産を賭け敗北した相手だ。
手持ちが帰りの切符と百円足らずとなり帰りの9時間を泣きながら過ごしたことは今でも鮮明に覚えている。八一は賭金が足りないと断る相手に自分の資金も乗せて勝負を任せてくれた。ひもじい思いをした帰りは文句も言わず弁当を分け”来年も行きましょう”と言う。振り返ると八一は出来すぎた子供である。比較すると周りの子供が目に映らない程度には。一緒にいた少女が好意を寄せるには十分に。
「行きますよ姉弟子」
「ん」
八一から差し出された手を握り野田から大阪、新大阪へ電車で向かう。休日で賑わう新大阪の人混みを進む彼の体は小さくも頼もしい。私も姉弟子として弟を守らねばと思っていたが今思うと守られてばかりだった。
その年は疲労の面を考え新幹線で行軍することにしたのだ。お金は掛かるがその分勝てばいいのですとは八一の言である。こう言われては姉弟子として勝つしかあるまい。
余談としてこの為に大阪近隣の真剣師は去年に増して二人に搾り取られたと述べておく。道場でお痛をすると現れる恐怖の子供がいるとか噂ができたそうな。
道中は子供にとって十分な広さの自由席で2時間半。これならば移動の負担も少なく済む。新大阪を発車するや否や私が口火を切る。
「7六歩」
「8四歩…」
「2六歩」
時速270キロで流れる外の景色に目もくれず脳内の将棋盤に没頭する。変わった遊びだと周囲の家族連れやサラリーマンの視線が集まるも二人は気にしない。気にならない。稀に意味を悟ってぎょっと見る者もいたが首を振って自分の世界に戻っていく。
二人が集中していると並走する阪急電車も富士山も気づかれる事なく置き去りである。都心に入り防音壁に囲まれる頃には三局目が終わっていた。
「乗り換えます。降りるときは気を付けて」
「分かってる」
子供は総じて視線が低い。大人の腰丈程の高さから見る東京の人混みは恐怖以外の何物でもないのだ。まして目的地は乗降者数日本一の超過密地帯である。二人は繋いだ手が離れないようしっかりと握った。改札を出て一年前の記憶を頼りに中央本線へ乗り換え新宿へ向かう。
「僕たちどうした。迷子?交番行く?」
「大丈夫です。両親も近くにいます」
「そう。良かった」
大通りを離れゴジラ像を通り過ぎ路地に入ると金髪の青年に声をかけられた。私は八一の手を握り直し彼の影に隠れる。初対面の相手に言葉が上手く出てこないのだ。こういう時いつも八一は前に出てくれる。
「大丈夫です。相手は心配してくれていただけです」
「分かってる。八一は気にしすぎ。別に恐くなんてなかった」
「はい。行きますよ」
東京で最も欲望が渦巻く街。居酒屋やカラオケ屋が密集する巨大な繁華街の裏側にその店はあった。寂れた雑居ビルの2階。時代に追いやられた真剣師達の最後の戦場である。
「げっガキんちょ。また来たのか」
「お久しぶりです。一年前はお世話になりました」
「世話した覚えはねえよ。全くどういうおつむしてんだ?」
狭い階段を上がり扉を開けるとタバコの匂いが鼻を突く。店の奥から宿敵の嫌そうな声が聞こえた。今度こそ弟分に良いところを見せるのだ。自分は八一の影から出てなけなしの勇気を使い宣戦布告した。
「勝負しろ」
「あー去年の金か?返す返す。ありゃ要らないって言ったのにそっちが押し付けて…」
「これで、勝負しろ。逃げるのか?」
鞄をあさってタバコケースを取り出し机に叩きつけた。ひと箱英世が20本入ったそれは諭吉2枚分。とても小学生がポンと出す金額ではない。
「おい弟。こいつを何とかしろ。少し頭おかしいぞ」
「受けてください。一年待ちました」
「足りないつったらお前が出すんだろ?…今頃の子供はどうかしてるぜ。くそ、座んな」
頭をがしがしと掻いて宿敵が古いソファーに座る。私も対面の古いパイプ椅子に着いた。ぎしぎしと音を出す相手のソファーが一年前の屈辱を思い起こさせた。
「ありがとうございます。それと姉弟子の次は自分もお願いします」
「お前も遠慮がねえなあおい!」
「姉弟子の敵は自分の敵です」
「可愛げもねえ…これだからガキは嫌いだ」
この後無事に復讐を果たした自分達は戦果を手に凱旋。
「はっは良くやった。それでこそ我が弟子達。今日は祝勝会や」
「もう、褒めないでお父さん!二人を誰が止めるのよ!?」
話を聞いた師匠は笑い、桂香さんには戒められる。これは清滝一門の数ある武勇伝の一つにして少女の大切な思い出。
「…し。姉弟子大丈夫ですか?」
我が幸せな回想を邪魔する愚か者は誰だと睨みつける。しかし目の前に想い人の顔が映り身体が飛び跳ねそうになった。必死で暴れる体を抑え朱がさす頬を隠して少しだけ距離を取る。何か言わねばと口を出てくる言葉は自分でも刺々しいと思う一文字。これは後で頭を抱えるコース間違いなしである。
「で」
「はい」
「…どう?」
「お似合いですよ」
「そう」
銀子の頭には雪の結晶デザインの髪飾りがちょこんとのっている。彼曰く折角良い名前を貰ったのだから玉座防衛の祝いも兼ねてだそうだ。彼の一言で良い感情を抱いていなかった異名も悪くないと思ってしまう。
私は左手でそれを優しく抑えて八一に向き直った。これだけは面と向かって言わなければならない。言えなければずっと後悔すると。
「ありがとう」
「はい、どういたしまして」
何でもないことの様に返す彼に少し腹が立つ。でもほんの少し。少しだけ素直になれた。空銀子13歳冬のある日の出来事である。