八一が東京で解説に従事していたのと同時刻。東京から西に450キロ離れた棋帝戦会場ホテルの控室でタブレットPCの画面を見つめる少女が1人。彼女が八一の解説を見逃す訳が無いのだ。
「むっ」
放送に現れた聞き手を見て眉をひそめる銀子。八一の周りをうろつく女流棋士4号が聞き手を務めることは知っていたが実際目の当たりにすると腹が立つ。去年から身の程を知らせようと思っているのだが機会が無い。運の良い奴だ。あと無駄に育った部位が憎らしい。
「近すぎ。バカ八一」
多くの棋士が立てる雑音にぽつりと呟かれた言葉が吸われた。確かに八一は堅物だが16歳の少年でもあるのだから相手が明らかに好意を示す魅力的(自分は認めないが世間ではそうなのだろう)な女性では少し不安にもなる。
対局が始まる前に半裸の変態が出る放送事故もあったがそれについては考えることを止めた。既に連盟での清滝流の発言力は最低なので特に問題はないだろう。それよりも、だ。
名人が手を止めた為自分で次の手を読もうと集中していたら付きまとい1号が隣で金将の駒を手に唸っていた。画面の女同様現役JDにして横から見るそれは大きい。やはり八一に近づく持っている奴等は皆敵だ。
「竜王さんの予想は7七角どすかー」
「供御飯先生。勝手に見ないで下さい」
「堪忍ぇ。竜王サンの名前が聞こえてついなぁ」
「…」
口では敵わないと放送に意識を逃がすと丁度名人が駒を進めるところだった。改めて思い知らされた八一との距離に歯噛みすると同時に少し安堵する。名人は竜王戦1組を2位通過して決勝トーナメントを勝ち上がっている八一の真っ赤な仮想敵でその傾向を掴めているという事は大きいが故に。
そんな極めて真面目な思考を揺るがす一言が隣から聞こえた。
「はー。竜王サンはお姉さんが好きなんかー」
驚きで暗い感情も安堵も一切合切全てが吹き飛んだ。
1日制タイトルである棋帝戦の持ち時間は各4時間で朝から始まり終局は大抵夜になる。その間聞き手と解説はひたすら盤面を掘り下げ解説することもできるがそれでは堅苦しい。それ故お昼のメニューから体験談、将棋トリヴィアまで何でも話のネタにして視聴者を飽きさせない様に工夫するのだ。
その結果ウミガメのスープの如く恋愛観を暴かれかけた八一である。
「皆様こんにちは!お昼休みを挟んで放送再開です。篠窪棋帝はにぎり寿司、名人は例年通りきつねうどんとおにぎりを注文していました。画像が出てますね。おいしそうです!視聴者の皆さんはお昼何にしましたか?」
「昔あそこのきつねうどんを食べたことありますけどだしが効いてておいしかったです」
「九頭竜先生も名人に肖って食べに行った口ですか?」
「小学生の時に姉弟子と行きました。憧れというよりは偵察気分でしたね」
「これは面白そうな話が飛び出てきました」
鹿路庭が興味深そうに八一へ向き直った。八一と銀子が姉弟弟子であることは知られているが2人の昔話の大半は彼等の師匠から暴露されたもので本人達が語ることは珍しいのだ。
「色々気になりますがまずは偵察、ですか?」
「師匠が名人に挑戦するとあってタイトル戦の事を色々調べていたんですよ」
「ふふっ。師匠想いのお弟子さんですね」
過去を振り返って八一は少し頬を緩ませ楽し気に調査報告を開始する。
「昼食メニューの研究成果は小さかったですね。お菓子についてはVSを繰り返してチョコを食べたりゼリー飲料とかご当地ジュースを試したりで色々分かったんですが」
「可愛らしいです」
「成分表とにらめっこした結果ラムネ菓子を渡しました。音もしないですしね」
「微笑ましい研究と思いきや割とガチでした…」
ちなみに八一の今のブームは薄めに淹れた梅昆布茶。疲労回復リラックス効果を見込めカフェインレスとあっての採用である。おかかと茶の粉末の相性が良かったのも水派の八一の心を大いに揺さぶった。
「そして空銀子二冠と行ったとのことですが」
「偵察云々は姉弟子が言い出したんです」
「意外…。くしゅん!スタッフさん急に冷房効きすぎじゃないです?」
「あれで情に厚い人ですよ。誤解されやすいだけで」
「なるほどー。では九頭竜先生の子供時代を交えておやつとしま…くしゅ!失礼しました。この後お三時タイムです」
画面には3時のおやつが運ばれてくる対局室が映し出され八一達も届いたプリンを食べながら身辺の話に花を咲かせる。
西高東低。西で高まったあらゆる緊張はゆるふわな東へ吹き降ろし局地的に激しい雷を引き起こした。
膠着した戦局は陽が傾くにつれじりじりと動き出し名人の一手で一気に燃え上がった。棋帝の歩を名人の囲いが飲み込み終盤戦へ突入する。すかさず飛車を回す棋帝だが逆に名人は▲7一角成と一閃。対応に追われ飛車と角を交換した形になった棋帝が△5六角と敵玉に圧をかけるも名人の駒台から出張ってきた角がそれを遮る。
それでもと名人の玉に棋帝の金将が迫ったがそれを名人は淡々と玉で受けた。あっさりと動いた玉に控室がざわめく。顔面蒼白の棋帝が△6七角成とするも名人の飛車が七段に下りて来てそれ以上を許さない。
手番を握った名人が飛車を敵陣奥深くに打ったのを最後に棋譜は停止した。
名人に一切の死角なし。棋帝位を併呑しタイトル獲得99期・永世六冠となった名人は次を見据えている。
いつになく静かにスマホを見ていた彼女達は1つの想いを胸にもう一勝負と散って行く。
おかしい。解説してないぞこの竜王