指し貫け誰よりも速く   作:samusara

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第四十六話

 対局1日目の朝。直前にハワイ特有のシャワーの様なスコールが降ったがすぐに止み東の海上では雲の隙間から陽光が差し込んでいた。俗に言う天使の梯子を横目に部屋に運ばれた大盛のエッグベネディクトを食べる。朝食が済めば次は着付けだ。

 

「襟曲がってる」

「気づきませんでした。助かります」

「ふん。1人でするからよ」

 

 途中で入って来た銀子に手の届かない後ろの乱れを正される。かれこれ数年着物を着てタイトル戦に出ていた彼女の手付きは慣れたものでついでとチェックは全身にまで及んだ。

 

「じゃ、私控室に行くから」

「はい」

 

 交わす言葉は少ないながらにじみ出る激励が八一の身体を押す。

 ハワイの高級ホテルに和室の部屋などあるはずもなく対局室は洋装の部屋に茣蓙を敷いた即席場。隅の観葉植物がいい味を出している。茣蓙の手前で雪駄を脱ぐのも不思議な感覚だ。 

 時刻は8時47分。ずらりと並んだ立会人達の視線を一身に受けながら八一は座布団の座り心地を確かめ名人を待つ。

 その数分後和服を着こなした名人が入室した。今まで八一が遠目か画面越しにしか見てこなかった中年の男性が目の前で静かに座る。そこにあるのが当たり前かの様に名人は部屋の空気に馴染んでいた。

 

「九頭竜竜王の振り歩先で振り駒を行わせていただきます」

 

 駒を並べると和服を着た記録係の四段が駒を振った。結果は歩が5枚。相変わらずである。そして9時になり対局開始だ。

 

「お時間になりましたので対局を開始してください」

 

 深々と頭を下げた八一は少しの間をおいて歩を手に取り駒音高く2六歩と指した。フラッシュが光る中名人も同じく飛車先の歩を突く1手を指す。

 互いに歩を進めること4手。エースである相掛かりを見せたところで八一は角道を開け角換わりに誘う7七角、6八銀と続ける。10手目名人が角交換をしかけ八一が応じたことで戦型は決定した。

 

 

 

 

 竜王戦 名人ノーマル角換わりを採用

 

 10月になり暑さの和らいだハワイ。時々降るスコールも涼しさに一役買ってますが眼鏡にかかるので遠慮したいです。今日の我々は空調の効いたホテルに缶詰なので安心ですが。

 遅れましたが日本の皆さん、アローハ。

 現地から中継を担当する鵠です。

 現地時間午前9時に始まった対局は先手九頭竜竜王が相掛かりを仄めかしましたが古来より指されてきた有力戦法角換わりに落ち着きました。現在午前10時朝のおやつが対局室に運ばれてきたところです。

 竜王はアイスティー、名人はハワイ名産のコナコーヒーを注文しました。別室では月光会長が封じ手の準備中。棋戦名、会場名、立会人と副立会人の署名がなされ封筒は対局者の署名を待つのみです。早いペースで進む対局が気になるのか全員すぐに控室へ戻って行きました。

 控室にも差し入れのお菓子がたくさん届いています。特にシェフ特製のチーズケーキ(しっかり祝第30期竜王戦と書いてあります)は絶品でした。検討陣も栄養補給はばっちりのようです。

 海外対局にも関わらず控室には九頭竜竜王の関係者が勢揃いしており一門の結びの強さが伺えます。彼等による大盤解説は現地時間午後2時から生中継もされますよ!

 ここで九頭竜竜王をよく知る姉弟弟子の空銀子女流二冠と弟子の夜叉神天衣女流二級、雛鶴あいアマにお話をうかがいます。

 

 

 お三方は竜王の応援として駆け付けたということでよろしいでしょうか?

「別に大盤解説の仕事があっただけ」

「ふん。頼まれたから来てあげただけよ」

「はい!」

 

 ははは。では本題に入りましょう。皆さんは竜王の戦型選択の意図をどうとりますか?

「深い意味はないと思う」

「どうせ切り札はとっておくとかでしょ」

「ししょーはどっちになっても大丈夫なんだとおもいます」 

 

 確かに竜王は元ガチ居飛車党。どちらも苦にはならない、と。ここ数年来の私という練習相手もあって直近に振り飛車も指していますが竜王戦で振り飛車は竜王の切り札に足ると思いますか?

 

「全局居飛車」

「匂わしておいて使わない見せ札」

「わ、わかりませんー」

 

 

 …伝家の宝刀ということですね!はたして若き竜王が一瞬見せるあのあぎとはこの七番勝負で見られるのでしょうか。以上ハワイホノルルはワイキキからお送りしました。

 

 

 

 

 時刻は午後9時。ホテルから徒歩数分の距離にある通りは週末の夜を楽しむ観光客達で賑わっている。そんな中に封じ手とそこからの展開をぶつぶつ呟く八一がいた。周りに引かれているのは気のせいではない。

 

「もっと淡々とした人だと思ってたが」

 

 日の入りと共に60手目を名人が封じ対局1日目は終わった。両者腰掛け銀を組んだ後早々に名人が動いた為八一の陣に名人の楔が入った形で対局は中断。誰が見ても名人は攻勢を止める気はないと分かる状況。今の状況も苦ではないがあまり名人に好き勝手されるのも面白くない。

 

「同銀は間違いないはず。もっと深く。深く、深く…深く…痛っ」

「前を見なさい」

 

 後ろから頭をはたかれた八一は振り返ることなく銀子に苦言を呈するが頭を上げると目の前にはニコニコ笑う美女がいた。彼女が着ているのは左袖に大きなワッペンを付けた紺の制服。これには八一の額から冷や汗が流れる。

 幸い心ここに有らずといった少年を心配して声をかけた(観光客が酒や葉っぱをやっている疑い)だけで拙い日本語の質問に幾つか答えるとアロハと去って行った。

 

「何してるのよ本当に」

「すみません」

 

 夜のビーチで泳いでいた銀子がホテルへの帰りに目にした光景は人垣に囲まれた八一と美人警官。その心境や想像に難くない。駆けてきたのか上気した肌を覆うのは黒の水着だけだがそれも気づいていなかった。

 

「姉弟子。上着はどうしました?」

「え…?そこに置いてたんだけど…」

 

 銀子が振り返った木の根元には何もない。

 

「とりあえずこれ着てください」

「うぅ…!ふん。あっち向いてて」

「はいはい」

 

 際どいローライズ水着への野次馬の視線を感じた八一が着ていたパーカー差し出すと銀子はそそくさと羽織った。人前で着ずらい水着を何故選んだとか八一は突っ込んではいけない。彼女にも色々あるのだ。

 

「騒ぎを起こしたなんて記者に知られたらどうするの」

「これくらいなら笑い話で済みますよ。それより姉弟子も夜のビーチに1人で行くなんてだめです。現に荷物取られて」

 

 姉弟子に強気の八一という珍しい絵図は昔から銀子が危ない線を踏むと見られる。

 

「うっ。お金は持ってきてないし」

「それ。逆に危ないですよ。ただでさえ姉弟子は綺麗なんですから」

「う、うるさいうるさい」

 

 騒ぎよりも記者が撮って喜ぶのは八一のシャツを掴む銀子のツーショットである。幸か不幸かこの場にはそれを指摘する者は誰もいなかった。

 

「目が覚めた。散歩するからついてきて」

「少しだけですよ」

「分かってる。ほら。いこ?」

 

 ほとんどの店が閉まる11時を過ぎてはいくらハワイを代表するメインストリートでも危ない。それまでにはホテルに帰る必要があるだろう。繋いだ手を賑やかなストリートパフォーマーに冷やかされ露店を覗きつつ明るい場所を選んで通りを散策することしばらく。2人は店で買ったアイスクリームを手にホテルに戻って来ていた。

 

「アイス美味しいね」

「こっちに来てから食べ物が甘い物ばかりな気がしますよ」

 

 甘い物も好きな八一だが手にあるアイスの甘さは格が違い持て余し気味である。半分は銀子に食べてもらっていた。

 

「八一はもう少し甘いのを食べなきゃだめ」

「ブドウ糖ですか?最近はタブレットが…」

「はいはい」

 

 そんなどこかずれたいつもの会話が2人の調子を上向かせた。何でもできる。そんな高揚感がエレベーターに乗る2人の身体を満たす。2時間前の神に触発され修羅へと突き進んでいた八一はもういない。

 

「八一!」

「はい?」

 

 部屋のある階で降りた銀子が八一と向き合った。覚束ない足元も気にせず彼女は息を吸う。

 

「おやすみ!!」

「おやすみなさい」

「あっ…」

 

 冷鉄にも閉まる機械の扉は就寝の挨拶しか通さなかった。これには遠くから見守るカメハメハ(孤独、静かな人の意)大王もニッコリ。これが鋼鉄流か。

 

「そういえば上着」

 

 明日返してもらおうと思う八一。しかしその願いがかなう事はない。別の世界線と同じ宿命を負った八一の嘆きが鉄の箱の中に消えた。以上竜王戦第1局1日目のことである。

 




 

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