伝説は終わらない
山形県天童市。竜王戦七番勝負第3局が行われる将棋の街は竜王戦一色だ。温泉街を少し見渡せば歩道の詰将棋に将棋ファンや報道陣がたむろし将棋教室は対局を見守る小さな後進達で満員。少し取材をしてみれば将棋を始めた切欠が竜王という子もちらほらいる。(ほんの少しだけ私の名も期待したが子供は正直だった)
彼等は30年前に名人経験者を次々撃破して公共放送杯を征した名人を見る当時の子供達だ。我々は2つの伝説の激突を見ているのかもしれない。
駒を持つ名人の手が震えた。その震えは読み切られた証か追い詰めた証か。どよめく控室を他所に八一はじっと盤上に現れた銀を見つめる。
「ごじゅーびょうー。いち、にぃ」
記録の声が時を刻んだ。両者残り時間が切れてここまでの数十手は僅か30分足らずで進んでいる。突き立てた牙を半ば無視して打たれた鈍色に違和感を覚える八一。しかし50秒と少し読んだ範囲に詰みは見つけられない。こうなった以上選択肢は攻め続けるか引くかの二択だ。
「さん、しぃ、ごぉ、ろぉく」
天上にその巨体を持ち上げんとする竜王は足元が崩れるのも構わず喰らい付いた。一目見て危険だと分かる手に大盤解説場では観客が悲鳴を上げる。そしてここまで幾度も予想を裏切られた棋士達は一周回って冷静だ。
過熱しチカチカ光る視界を振り払う様に顔を上げた少年と疲れた中年男の血走りながら爛々と光る目が交錯する。その先を八一はよく覚えていない。
対局後インタビューで名人は理想とかけ離れたいい将棋と言葉を残している。
「大丈夫ですよ。ちゃんと名人が勝ちましたから。竜王が持ち直すなんてありません」
「はい。後は適当なこと書いて弟子を引き離します、はい」
「女王戦に妹弟子?…ああ、それはネタになりますよ!エリート(笑)一門の面…」
打ち上げの会場に向かう途中の便所。その記者は手洗いの鏡に映るそれに言葉を失い肩で保持した携帯を落としてしまった。床で滑ったそれは渦中の人物の足にぶつかり止まる。
「大丈夫ですか」
丁寧に落し物を拾ってくれ何事も無くすれ違った相手に息を吐いた彼の背後から冷えた空気と共に押さえきれていない殺意が襲う。
「一瞬で死ねるなどと思うなよ」
よく聞き取れなかったことは彼にとって唯一の救いだった。何しろこれからの彼等はやることなす事裏目に出て散々になる。よく考えなくとも連盟会長と何より元博徒の資産家に守られた弟子2人と研修会員に手を出せばそこら中から顰蹙を買う。今までの所業(政治部から異動して荒れていた彼は新顔の増えた竜王戦でも特に悪目立ちしていた)と合わせてまともな人なら相手にしないだろう。
夜叉神天衣にとって師匠は家族との温かい記憶を思い起こさせる存在だ。加えて彼女は2歳の時から母の読み上げを聞いて父の膝の上で竜王の軌跡を追ってきた自覚無き生粋のファンでもある。変態棋風がうつった責任を取れ等と言っているが本心では誇りそのもの。そんな内情を知らない周りもプライドの高さが相まって子供らしく煽りや挑発に弱いと思っていた。
「まあ賢い君なら分かるだろう?上にくれば出る杭は打たれるんだ」
「”は”ではなくて”に”だそうよ」
逆に何やら呟いて嘲笑してくる小学生へ
「わりぃわりぃ。普通に開けたんだがなあ」
ドスッドスッと部屋を横切った女性は悪びれずに下座の少女を睨みつけた。対してあいは師から貰った扇子を握りしめ目を逸らさない。
「お願いします」
「ああ」
女流玉将月夜見坂燎の纏う凶暴な気が収まり勝負師としての圧が噴出した。その隣には窓の外に視線を向けたまま相手を無視し続ける天衣にイライラしだした登龍がいる。
机の陰でこっそり腹を擦る記録が対局開始を告げると両対局が始まった。
同じ部屋で指される2つの対照的な将棋。各3時間と伸びた持ち時間を用い徹底した長期戦を行う天衣。月夜見坂の早指しに引っ張られ徐々に高速戦と化したあい。
必然決着はあいの座る盤に早く訪れる。
あいの調子は何も悪くなく特に悪手を指したわけでもない。しいて言えば対局相手のことを知らなさすぎた。
月夜見坂があいが要所で長考して出した手に即答する。すると高速戦から外れたあいの手は徐々に精彩を欠き勢いが失われていくのだ。読みを尽く上回ってくる月夜見坂にあいは自信を揺るがされていた。
形勢は持ち時間という形で可視化されついにチェスクロックがある電子音を鳴らす。あいは月夜見坂にのまれてしまっていた。
「ふん」
登龍を焦らす為に数回目の離席をした天衣は廊下で独り言ちた。同じ頂点を奪い合う敵ではある。将棋歴1年未満で何故か同じ場所にいるふざけた存在。だがこと今日に限っては隣で頭を下げる姿が腹立たしかった。
部屋に戻ると細々とした所業で煽られ続け怒りの形相の登龍が目に入る。登龍は天衣を見下しているので焦らすだけで熱くなってくれる。隣で女流玉将と妹分の対局が終わったこともプライドをくすぐっているはずだ。
席にゆっくりついて慎重に駒組を展開する一手を指すとしびれを切らした登龍は強引に斬り込んできた。後は相手の誘いの一切を拒絶して既存の踏み固められた盤上で戦う。常に相手より一段上に立って登ってくる相手に辛い手を指し続けること数十回。
顔を真っ青にした登龍が震える手で駒台に手を置いた。そのまま盤の前に蹲る相手を背に対局室を後にする。将棋会館の外で待っているだろう晶と妹分ついでに師匠へ勝利を報告するために。
あいの対局が終わりかなりの時間が経つ。連絡はついているが流石に迎えに行こうかと席を立ったちょうどその時おっかなびっくり集合場所のカフェにあいは現れた。小さい身体を更に縮こませ何処かで泣いていたのか彼女の目は赤い。あと1勝で女流二級になれた事実が彼女に圧し掛かっていた。
「し、ししょう…すみませんでした!」
弟子を労おうとした八一はいきなり頭を下げられ硬直した。そして静かに席に着くよう促しどうしたものかと思案する。その何気ない仕草が威圧感を伴ってあいを怯ませた。
「うぅ」
「忙しい中来てくれたのにってことだ」
隣で横に倒したケーキを切っていた晶が見かねて八一に助けを入れる。彼女が持つタブレットPCに表示された盤にはここ数分動きが無い。晶はこの1時間更新ボタンを連打しつつフォークを口に運んで過ごしていた。
「なんだ。あいが謝るとはどんな非常時かと」
「先生。それは苦しすぎるぞ」
「ぇ…え?」
誤魔化しの咳払いをした後無理矢理笑みを浮かべる。それを見て様子を窺っていた隣の客が安堵して前を向いた。
「何連敗しようと見捨てるものか」
「!?」
「師として当たり前だ」
「もうっ!ししょー!つぎは絶対かちます!」
一転笑みを浮かべたあいの向かいで机に置かれた画面に変化が生じる。だが駒の動いた様子はなく代わりに盤の下に小さく文字が表示されていた。
「せ、先生。投了ってでたぞ」
「168手で天衣の勝ちです。相手も粘りましたね」
「お、お嬢様ああぁ」
ケーキを丸呑みして会計にお札を置いた晶は鬼気迫る表情で主を迎えに行った。彼女の殺気に釘付けされた店員が助けを求めてこちらを見ている。
「迎えに行くか」
「はい!」
幾つかケーキを包んでもらい店を出た八一にあいが飛びついた。八一は二番弟子を見やるが彼女はニコニコと笑うだけでその手を離さない。結果八一達と晶の差はますます広がった。
「なんでいないのよ」
「晶さんが先に行ったんだ。それより…よくやった」
「っ―!のんびり歩いて来ておいて言い訳を、するなこのクズ!!」
千駄ヶ谷の夕焼けに一番弟子の罵声が響いた。
桂香さんは勉強中なので出番ないです